天と地と

 第三章  見えないモノ




 ゆっくりと、それでいて足早に、きしむ縄梯子を踏みしめ上がる。張り出したテラスに手をかけて、素早く中へと潜り込んだ。
 そして、そろりと部屋を覗き込んで誰もいないところ確認すると、ほっと息をついて足を踏み入れ、脱ぎ捨ててあった服を着替える。
 町娘から、城の姫君へと姿を変えたあかねは、今まで来ていた服を再び侍女に見つからない場所へ隠す。次に姿見の前に立ち、どこかおかしなところはないかと目視。
 白い肌には目立つ汚れは存在しない。
 大きな丸い瞳は今はキラキラと輝いている。
 不器用さの成せる業か、彼女なりに畳んでおいた服には奇妙な部分に皺を作っていた。それを手で伸ばして直す。ほんの少しはマシになったのを見てとると反転し、今度は後姿を見る。
 裏の茂みを通り抜けた時についたらしい、小さな木の葉を見つけ慌てて取り除く。たっぷりとしたスカートを手でばふばふと叩き、もう一度、今度はくるりとターン。それに合わせて髪がさらりと背中を流れ、空気をまとってスカートがふわりと舞う。
(こんなもん、かな)
 城内へ出てもおかしくはないと判断し、あかねはにこりと微笑んだ。



「あかね様、なにかいいことでもおありになりましたか?」
「……え、何故?」
「なんだかとても楽しそうなお顔をしてらっしゃいますから」
「そう、かしら?」
「ええ。最近お元気なかったようですし、皆心配してましたのよ」
 あかねの髪を整えながら、侍女の一人がそう微笑んだ。
(楽しそう……かな?)
 言われ、あかねは目の前の鏡に映る自分の顔をとくと眺めた。
 どうなんだろう。
 自分ではよくわからない。
 けれど、気持ちが浮上しているのはたしかなことだ。無意識のうちに、それが顔に表れているのだろうか?
 だとしたら、それは「乱馬」のせいだと思った。
 初めて乱馬に会ってから、もう五日経っている。
 あの日、さんざん引きずりまわされて、あちこちを歩き回った。それでもすべてを見切れるわけではない。中の町は、とにかく広いのだ。
 天に向かうほど狭くなっていく国。
 その中間地点でこれだけの規模ならば、もっと下──土の町はどれだけの広さがあるのだろうか。
 あかねにはなかなか想像がつかなかった。
 土の町の詳しい地理状態を把握している人物は、かなり少ないのだ。父でさえ、すべてを知っているわけではないという。なにもかも、すべてを把握しているのはきっと「神」のみだろう。

(神様……か)

 自分に課せられた「光明心」という力。
 実のところ、それが一体どんなものなのか──具体的なことを、あかねはよくわかってはいない。病に倒れた母親──以前の持ち主は、枕もとにいるあかねに優しく微笑んだ。



「時がくれば、きっとあかねにだってわかるはずよ」



 あかねから見て、母親は完璧だった。
 無論、幼い頃の記憶など全部あてになるわけではないけれど、周りの評価は自然と耳に入ってくるものだ。
 そして、その母の再来ともいわれているのが、長女のかすみなのだ。
 母のように、姉のように、あたしもなりたい。
 それがあかねの願い。
 あかねの憧れ。
 あかねの夢。
 けれど、元来不器用であるがために、彼女たちのようにはうまくいかないでいる。つい最近も町へ降りて大失敗をした。町外れの道端──おそらく子供達が遊んだあとであろう簡易的な「的当て」を見つけた乱馬が、面白そうに言い出したのがキッカケだった。




「なあ、勝負しようぜ、勝負」
「勝負?」
「そう。負けた方が昼飯おごりな」
「なによ、それ」
「勝負なんだから、賭けがいるだろうが。あ、自信ねーんだろ」
 言葉の途中で乱馬はにやりと笑う。意地の悪そうな瞳であかねを眺め、ケケケと笑う。
 少年の意地悪にはもう慣れっこになってしまっているあかねであるが、だからといって腹が立たないわけではない。元々負けず嫌いなところがある少女は、ついついその挑発に乗り、鼻息も荒く宣言した。
「いいわよ、受けて立とうじゃないの!」


 思い出して、あかねは恥ずかしいやら情けないやら、いろんな気持ちでいっぱいになる。
 はじめに乱馬がやった。
 小石を投げて、木にぶら下がった的に当てるというものだった。
 自信に満ちた言葉違わず、たしかに乱馬は上手かった。的の真ん中近くに当たり、カツンと小刻みのいい音がした。あかねはぐっと拳を握ると、足元の石を拾い上げる。ごつごつとした石を見つめ、ふんと気合の息を吐くと乱馬を押しのけるようにして的を睨んだ。
 振りかぶって投石したそれは、的を豪快に外れ、その後ろ──鳥かごにヒットする。途端、中にいた鳥が羽ばたきけたたましく嘶き始める。連鎖するように周囲の動物が唸りだし、大合唱が始まった。
「逃げるぞ、あかね」
 投げたポーズのままで硬直していたあかねの腕を掴み、乱馬が走り出す。あかねも慌てて足を動かす。
 いくつかの角をめちゃくちゃに曲がり、奥まった路地に入り込みそこで足を止めた。
 息が荒い。
 肩で大きく息をする。
 何度も唾を呑み、上下する胸を押さえる。
 膝に手をついた姿勢のまま、乱馬の方へ視線を向けると、彼もまたあかねと同じような状況だった。
 視線を感じたのか、乱馬も顔を上げる。そしてあの顔で笑った。
「すげー、ノーコン。おまえ不器用だな」
「わ、悪かったわね。どーせあたしは不器用よ!!」
「負けん気強ぇーし、無鉄砲だし、すぐ怒鳴るし──」と、指折り数えるように言い始め、結論づけた。
「変わった女だよな。おもしれー奴」
 そして、目を白黒させているあかねに背を向けて歩き出す。動かないあかねを振り返り、なにも変わらない声で呼びかけてきた。
「飯、喰いに行こーぜ、おまえのおごりな」 



 その時から、乱馬はことあるごとにあかねをからかう。
 不器用不器用と笑う。
 いい遊びを見つけてそれをしつこく繰り返している子供のようだった。
 不思議なことに、その言葉に対してカチンとはくるものの、決して卑屈にはならなかった。
 言い返して、そしてそれに対して返ってくる乱馬からの言葉──そのやりとりが楽しいと思った。
 ヘンなの。
 どうしてだろう?
 城に帰って、一日のことを振り返る時、不思議な気持ちになる。
 己が一番気にしている「不器用さ」をからかわれて、本来ならば落ち込んでいてもおかしくはないはずなのに、そのことをどこか楽しく感じていること。
 意地悪な言葉も、前ほどイヤじゃなくなっていること。
 それが、乱馬との会話すべてに共通していること。
 よくわからないけれど、ずっと感じていた重石が軽くなったような気がしていた。少なくとも町に下りている時は、「光明心」のことを忘れていた。自分が「天道のあかね」であることも。
 それを口にすれば、なにもかもが壊れてしまいそうな気がしたから、敢えてその話題は避けていたし、乱馬もまた訊かなかった。自分が明かしていないことを訊くこともはばかられて、あかねもまた、乱馬がどこに住んでいるのか、姓がなんであるのかを知らなかった。
 人々は普段、あまり姓を名乗らない。
 名を名乗るということ。
 それは上が下を支配することにもなりかねない。
 名前を示すということは、身を明かすとこでもあるのだ。
 それを広大に示す者に「貴族」が多いのは、そういう理由があってのこと。
 公式の場においては「族」を示すそれが大事となるけれど、日常の生活においては──こと一般の民は、下の名前のみで事足りるのだ。
 町に降りたら名だけを名乗るようにしなさいと、言い渡されている。
 公の式典でもないかぎり、ただの一人として町にいる場合は、ただの「あかね」で通すこと。
 そうすれば周りはあかねがあの「天道」であるとこはきっとわからない。
 姉や父ほど顔を知られているわけではないあかねにとっては、このことはとても好都合だった。
 ヘタに騒ぎ立てられたくはない。
 ヘンな目で見られたくない。
 そうして乱馬にばれることが恐かった。



「なにぼーっとしてんだ?」
「別に、なんでもない」
「腹でも減ったのかと思った」
「あんたって、ほんとそればっかりよね。身体中が胃袋でできてるんじゃないの?」
「んなわけねーだろが」
「じゃあきっと、無駄に動きすぎてるのよ」
「無駄ってなんだよ無駄って」
「あっちに行ったりこっちに行ったり、落ち着きがないって意味に決まってるでしょ」
「……ちぇ、かわいくねーの」



 最近は「不器用」にも増して、悪口が増えた。
 なにかにつけて「かわいくねー」を連発する。
 だからあかねも精一杯、皮肉をいってやるのだ。



 毎日のように町へ出た。
 特別に取り決めたわけでもないのに、示し合わせたように乱馬と歩いた。
 いつのまにかそれが当たり前になった。
 初めて会った日に見つけた場所で、いつも待ち合わせた。
 どこの誰であるとか、そんなことは些細なことだと思った。
 乱馬は乱馬だ。
 それ以上でも以下でもない。
 自分の氏を隠している後ろめたさより、一緒にいて話しているとこの方があかねには大事だった。


 姓名


 知らなかったそれが、実はとても重大だったこと。
 そのことがすべてを変えてしまうぐらいに大切だったこと。



 そのことを、あかねはまだ知らなかった──



つづく





 己の存在をさししめす大切なもの。それは「名前」。その一部でもある姓を知られることが怖いあかね。
 乱馬との楽しき日々に、いつしか「天道の娘」という立場をも忘れてしまいそうな…。
 この関係がいつまでも続くと思いたい気持ちもわかるような気がします。
 そうや問屋は卸さないようですが…。
(一之瀬けいこ)

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