◇クロス

第五話 CROSS


 パチンッ。

 乾いた木の弾ける音。
「たく・・・。無理ばっかりしやがって。身体が冷え切ってるぞっ!熱だってあるじゃねえか・・・。馬鹿。」
 思わず叫ぶ。
 雪の中を彷徨いながら歩いてきたのだろう。身体は氷のように芯から冷え切っている。
「だって・・・。あなたが勝手に居なくなるから・・・。」
 心細げな声が胸元から響いてくる。はっとして見下ろすと、こちらを見詰める漆黒の瞳にぶつかった。
「もう会えないかもしれないって思ったから・・・。」
 震える声が頼りなく響く。
「だからって俺がここに居なければどうするつもりだったんだ?黙って出て来たんだろ?家でみんな心配してるぜ。」
 何故優しい言葉をかけてやれないのだろう。
 そう思いながらも言葉を投げる己がもどかしかった。
「あなたならきっとここに居ると思った。」
「記憶・・・戻ったのか?」
 ふと言葉を止めた。どうやってここがわかったのか不思議に思ったからだ。
 軽く横に振られる頭。
「ううん。でも、街に出て彷徨っているうちに、脚が自然にここへ向いた。途切れた記憶の糸を辿りながら、あたし・・・。ここへ来たの。」
「そんな馬鹿なことがあるもんか!」
「必死で考えたの。あなたが向かいそうな場所。そしたら、目の前が急に開けて。思い出したの。あたしはここで、この近くで記憶を失ったって。」
 あかねをここへ運んで来たのは奇跡のなせる業だったのかもしれない。
「馬鹿っ!無茶するのもいい加減にしろっ!」
 思わず怒鳴った。
 怒鳴ってからはっとした。
 あかねの目に憂いが帯びたのがわかったからだ。うっすらと滲む涙が見えた。
「・・わくだった?」
「え?」
「あたしがここまで追ってきて、迷惑だった?」
「あかね・・・。」
「あたしずっと考えてた。あなたにとってあたしって何なのか。許婚って本当なのか。皆いろんなことを言ったわ。父親同士が決めた許婚だって。勝手に決めて勝手に押し付けられてって・・・。真意を確かめたかったの。馬鹿ね・・・。あたし。」
 ボロボロと零れる大粒の涙に、乱馬は何も言い出せずに黙って彼女の言い分に耳を傾けていた。
「でも、一つだけわかった。あなたがどう思おうと、あたしは・・・。記憶を無くすずっと前から、あなたのことが好きだったって。たとえあなたがあたしが嫌いでも・・・。」

「嫌いなわけねーだろっ!」

 堪えていた想いは堰切れた。
 
「あかねのバカ・・・。」

 口ではそう言ってみるものの、裏腹にあかねをぎゅっと抱き締める。これ以上無いほどに、包んだ腕に力が入った。

「あかねのバカ・・・オオバカ野郎。」

 あかねは本当にバカだと思った。こんなに冷たくなりながら、途切れた記憶を辿ってここまで来た。あかねから逃げ出そうとした卑怯な己を求めてだ。
 頬から涙が伝い出した。後は声にならなかった。軽く目を閉じ、抱き締める。もう離すまい。それだけを思った。

「なら、あたし・・・。ここに居てもいい?」

 頼りなげな声が抱き締めた胸から聞こえてきた。
「ここはおまえの場所だ・・・。何気兼ねすることなく、居たいだけ居ればいいさ・・・。」
ふと緩む口元。
「記憶を無くしていても?」
 か細い彼女の声に乱馬は更に力を込める。
「記憶なんか、無くしちまっててもいい。」
「でも、あたしは大事なものを忘れてしまったわ。あなたとの出会いも、今まで積み重ねてきた思い出も、全て・・・。」
 彼女の声がかすれていた。肩は心なしか震えている。

「んなもの、無くしたってかまわねえ。おまえは・・・。人を愛する気持ちまで無くしちまたわけじゃねえ。今言ったじゃねえか・・・。ずっと前から俺のことが好きだったって・・・。俺が好きという気持ちだけは忘れてねえって。」

「でも、あたしは・・・。」
 まだ抗おうとするあかねに乱馬はゆっくりと口付けた。
 途切れる言の葉。見開かれたあかねの目から涙が零れ落ちる。身体中の力が抜けてゆく。
「あかねのバカ・・・。あかねはあかねだ。それ以外の何者でもねえ。この世に唯一人の、俺の可愛い許婚だ・・・。記憶なんかいらねえ。思い出も。今、ここに共にあればいい。おまえが居てくれればそれで・・・。」
 預けられた身体をしっかりと抱きとめると、乱馬は小さく囁いた。それから、また唇を奪う。
 あかねは抗うことなく、黙って彼を受け入れた。静かに目を閉じて、塗りこめるその聖なる瞬間。じっと彼の心の声に耳を傾ける。
 
 おめえはここで冷え切った俺の心を和ませてくれればいい・・・。記憶も思い出もなくったっていい。大切なのは今、この瞬間だ。そして、これからの未来だ。過去なんかいらねえ。未来永劫、俺の想いは変わることはねえ。俺はおまえが好きだ。だから傍にずっと・・・。

 溢れてくる想いを留めるものは、最早何も存在していなかった。
 
 

「記憶も思い出も要らない・・・か。なかなか言える言葉ではないな・・・。」
 ガブリエルはふっと吐き出した。
「それだけあの少年は、少女を愛しているということだよ。・・・それに、ほら、ご覧よ。」
 ミカエルが指差す方向で、乱馬の身体から美しい光が輝き始める。その光は暖かい柔らかさで、抱いた少女を満たすように包み始める。
「純粋な少年の愛情が少女を包んでゆく・・・。久しぶりに見たな・・・。親愛の光。」
 ガブリエルも目を見張った。
 やがて二人を包んでいた光は一筋の道となって天へと立ち昇る。
「我々が人間の愛を試すなんて、そんな大それたことは、天のお父さまがお許しになる筈はあるまい・・・。」
 ふっと泥んだ笑みを浮かべて、ミカエルは囁いた。
「そうだな・・・。与えし聖なる試練など要らぬ画策か・・・。」
「なあガブリエル、彼らは何度生を重ねてもまた回り逢う深い絆を持って生まれてきたのさ。誰も引き裂くことは出きない。それで良いじゃないか。」
「ああ、そうだな・・・。」
 ガブリエルも頷いた。

「帰ろう。ガブリエル。」
「ああ、帰ろう。お父さまも待っておられる。それに、明日はクリスマスだからな・・・。」

 降りしきる雪のしじまの中へ天使たちは翼を広げた。そして、乱馬とあかねの標した光の道へと身を投じる。瞬く間に二つの光は融合し、天へと駆け上がって行った。


 辺りに訪れる静寂。
 乱馬とあかねは互いを抱きあったまま、柔らかな眠りへと誘い込まれていった。



 ガタガタと扉が鳴る音で目覚める。
 寝ぼけた眼に飛び込んできたのは、天道家の面々。
「ほら、居たわよ。二人とも、無事だったわ!」
「おお、乱馬・・・。あかね!二人とも!」
 やんややんやと雪崩れ込む知った顔。

「親父!」
「やだ、お姉ちゃんたちまで・・・。ちょっと何なのよ・・・。」
 と、あかねの顔がそこで硬直する。
 絡まる、逞しい乱馬の腕が目の前にあったからだ。
「ちょっと乱馬っ!何してるのよーっ!!」
 あかねの激しい強打が乱馬の顔面を襲った。
「お、おいっ!あかね?」
 何が起こったかわからないのは乱馬。昨夜は己の腕に抱かれて安心しきって眠った少女の豹変振りに、狼狽する。
「あかね・・・。あんた。」
 なびきが目を光らせた。
「戻ったのね!記憶がっ!!」
「本当かね?あかねっ!乱馬くんっ!」

「ちょっと、皆して何なのよ・・・。」

「あかねっ!記憶が、俺のこと思い出してくれたんだな?」
 乱馬は息せき切ってあかねに詰め寄った。
「思い出すとか、何よ・・・。あたしたち、修行に来てたんでしょ?変なこと言わないでよ!」
 合点がいかないという顔を向けるあかねに、乱馬は思わず抱きついた。
「あかねっ!良かった!あかね!!」
 記憶や思い出なんか要らないと言ったものの、それでも思い出してもらえることは、嬉しいことだった。つい、抱きついた腕に力がこもる。
 困惑しているのはあかね。己の身に起こった一部始終を記憶の復活と共に、なくしていたようだ。昨夜の熱い口付けも、乱馬の本音も忘れてしまっていた。

「乱馬っ!いい加減でその腕を放してよっ!!ばかあっ!!」

 渾身の力を振り絞って乱馬を叩こうとするが、要領を得ない。いつもなら、簡単にのされる彼も、この時ばかりは様子が違っていた。

「ダメ!放してやらねえっ!」

 そう言いながら乱馬は腕に力を篭めた。

「ちょっと!乱馬っ!乱馬ったらあっ!!」

 一人困惑する中、天道家の人々は
「良かった!良かった!」
 をただただ連呼するだけ。
 窓からは、朝日が静かに、差し込んできて人々を照らし出した。
 重なり合う二人の影は、十字架の形をした窓枠の上に静かに朝日に照らされて浮かんでいた。




 完





一之瀬的戯言
なんちゅう、中途半端な作品を叩いてる、私。
実はこれ、「まほろば」から引き離した一本の短編用のプロットから作文しました。
何となく、設定が似ているのはそのせいです。
まほろばの設定を書き殴ったノートを先頃発見して(嬉しい)、そこから引っ張り出して味付けしました。

「CROSS」には交差するという意味の他に「十字架」や「キリストの受難」を表します。
まさに二人にとって受難の物語。ありきたりな書き方ですいません。
イメージ画も描きたかったのですが風邪で自滅しました。
ご拝読ありがとうございました。



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