◇クロス

第四話 逃避行



「で、乱馬くんは夕べのうちに出て行ったというのかね?」
 早雲は玄馬に問い掛けた。
「ああ、あの馬鹿息子。己に突きつけられた現実に耐えられなかったと見える。意気地のない奴だ。」
 玄馬は珍しく神妙な顔を手向けていた。
「いいえ、逃げたんじゃあないですわ。」
 後ろから穏やかな女性の声がした。お茶をお盆に乗せながらそう答えた。乱馬の母、のどかだ。
「逃げたんじゃないとしたら?」
 玄馬は咎めるように言葉をかける。
「闘いに行ったのよ。」
「闘いに?」
「ええ、自分の純粋な気持ちとね・・・。信じて待ってやるのが、親としての取るべき道じゃないのかしら。」
 こういう場合、父親よりも母親の方が強いものなのかもしれない。
「乱馬君・・・。どこでどうしているのやら。ぼちぼち山は初雪を迎えるというのに・・・。」
 早雲は深い溜息を吐いた。

「ねえ、おばさま。乱馬にとってあたしは一体何だったのかな・・・。」
 ふと零れた言葉。編み物をしていた手が止まる。退院してからこの方、暇があれば毛糸玉と戯れた。元々不器用な彼女は一段編むのにも人の数倍時間がかかった。何かにとり憑かれたように編み棒を持った。
「あの子にとっては大事な許婚であることには違いがないわ。」
 ふと手向ける笑顔。乱馬の母のどかである。
「本当にそうなのかしら・・・。」
 網掛けのマフラーを持ったままあかねは呟くように言った。
「だからこそあの子なりに苦しんでる。あなたにもわかるはずよ。あの子と同じ心を持っているあなたにはね。あの子の半身はあなたなんですもの。」
 のどかは静かに言った。
「あたしの半身・・・。」
「今夜は雪になるかもしれないわね。冷えてきたわね。」
 のどかは雪見窓からたれこみ始めた空を見上げた。

 
 乱馬は一人リュックを背負い山に向かっていた。吐く息は昼間だというのにもう白い。
 井手達はいつのもチャイナ服ではなく、道着だった。靴も履かずに踏みしめる山道。はだけた脚から少し血が滲み出していた。
 だが、そんなことはどうでも良かった。己を苛めに来た。そんな風体だった。
 子供の頃から放浪を続けていた彼は、山で籠もることなど造作ないことだ。
 
 気圧の谷が通るのだろう。重たく垂れ込んだ空は灰色。
 この前と同じ場所にやって来た。
 昔誰かが使っていた墨小屋。今は廃墟。
 子供の頃から時々ここへやって来ていた。年に数度。冬に一度は来る修行スポット。物心ついたときから父と流れていた。年に一度は来るので使い勝手もわかっていた。
 冬山は雪に埋もれることがある。だから、テントを使うより、既成の小屋へ入る方が理にかなっている。
 天道家へ来てからも何度かここに籠もっている。いや、実はついこの間、あかねたちと籠もった場所でもある。
 そう、この先で彼女は遭難したのだ。
 記憶がフィードバックする。
 この前、あかねたちと入ってからまだ二週間と経たないのに、随分冷え込むような気がした。残っていた紅葉も殆ど地に落ち、すっかり枯れた枝葉が目を引く。
 何故ここへ来たのか。いや、来なければならないと思ったのだ。
(もしかしたら犯罪者の心理に近いかもしれねえな・・・。)
 ふとそんなことを思った。犯罪者が犯罪場所へ戻る。その行為に似ているのかもしれない。
 リュックを置くと、外に出た。 
 いつも来る場所。そしていつもする修行。
 山に出ると、その自然と一体化することから始める。都会の整備された道場では得られない修行をする。木と組み合うこともある。川の激流と戦うこともある。道なき道を走り、足腰を鍛えることも、高みによじ登り、腕の力を磨くことも。全てが鍛錬へと繋がってゆく。
 山に籠もることの一番の成果は自然と対話することにある。いつだったかあのスチャラカ親父が生真面目に乱馬に言い含めたことがある。己を山の清涼な空気と一体化し、そして気を磨くのだと言う。
『無心になれ、乱馬よ!』
 山に籠もると必ずそう言われた。あのいい加減な親父にである。
 無心になることの難しさは今の自分が一番良くわかっている。

 彼は己を苛め続けた。
 身体を動かすことで「現実」忘れようとした。
 だが、忘れることは愚か、想いは膨れ上がってゆく。それでも足掻いた。
「あかねの馬鹿っ!何で俺を忘れたっ!」
 吐き出す気持ちとは裏腹に晴れない心。
「畜生っ!俺は何もできねえのかようっ!!」
 素直になれないばかりに失ったあかねの記憶。
 もう元に戻せないのかと自分の無力を呪う。汗と共に伝うのは一滴の涙。
 無心になどなれるはずはない。そこまで自分を突き放すことも、現実を達観することも出来ないのだ。
 いつか分厚い雲間から雪が降り落ちてきた。
 淡雪は地面へと降り積もり行く。
 乱馬は肩を落とした。
 小屋へと疲れた身体を雪崩れ込ませた。
 この先どうすれば良いのか。あかねの記憶を取り戻せるのか。己はどうすればいいのだろう。
 答は見い出せなかった。



「ねえ、あかねが居ないわ。」
 異変に気がついたのは夕食前。
 大人しく編み物をしている筈の彼女の姿がどこにもなかった。
「洗濯して畳んでおいた道着もないわ。」
 かすみがおろおろとを行ったり来たりしている。
「道場じゃないのかね?」
「いいえ。覗いてみたけれど道場はモヌケの殻よ。」
 俄かに騒がしくなる天道家。
「あかねちゃんはきっと乱馬のところへ行ったのよ。」
 のどかがふつっと言った。
「乱馬のところだって?あやつが何処へ行方をくらましたのかあかねくんは知っているとでも言うのかね?」
 玄馬がのどかを見返した。
「さあ、それはわからないけれど、あかねちゃんにはわかるんじゃないのかしら。」
「おまえそんな無責任な・・・。あかねくんはまだ頭の傷だって治りきってないんだぞ。」
「荒療治かもしれないけれど、互いに向き合わないと何も始まらないわ。あなたにはわかるんじゃないの?あかねちゃんが、いえ、乱馬が何処へ行ったかくらい。」
 こういう場合母親ほど強いものはないのかもしれない。おろおろし通しの父親たちとは違い、落ち着き払った態度は流石だとなびきは傍らで舌を巻いた。
(運を天に任せるくらいの気持ちがないとあの子たちの母は勤まらないのかもしれないわね。)
 そう思いながら言葉を継ぐ。
「きっとあかねが遭難した山よ。あたしが乱馬くんならそうするわね。」
 実に冷静な口調でなびきが答える。
 わかってるじゃないのと云わんばかりにのどかはにっこりと微笑む。
「あかねちゃんもきっとそれがわかったのよ。だから、後は二人に任せておけばいいの。」
 肝の据わった母親ほど頼りになるものは居ないだろう。
「でも、あかねくんの身にもしものことがあれば。」
「大丈夫よ。あの子たちならきっと上手くやるはず。神様だってそんな純粋な二人をお見捨てになったりしない。明日はイブだもの・・・。」
 そう言いながらすっかり日の暮れた雪見窓から天を見上げた。


「あの母親には私たちが見えているのかね?」
 ガブリエルが驚いた風に見下ろした。
「まさか・・・。人間に我々は見えはしないよ。でも、こういう場合、信念の強い母親には全ての真理がわかるのかもしれないがな。」
 ミカエルが言い返した。
「さてと・・・。あの二人の行く末を見届けねばなるまい。このままじゃ天へは帰れないだろう?ガブリエル。」
「当たり前だよ。元々種を撒いたのは君じゃないか。ミカエル。このままあの二人を見捨ててしまえば、お父様になんて言われるか。いや、天国への門を閉ざしておしまいになるやもしれない。そうなったら、また一年、この人間界に居なければならないんだよ。」
「人間界は嫌かい?ガブリエルは。」
 余裕の笑みでミカエルが呟く。
「嫌というわけじゃないけれど・・・。それより、本当にあの子たちは今夜、会えるんだろうか?」
「おまえが疑ってどうするんだよ。あの母親だって言ってたろ?あの二人ならきっと遭遇できるとな。」
「だったら山へ・・・。」
「ああ、勿論、見届けなければなるまいよ。」
 ミカエルはにっと笑った。
「他人事のようにおまえは言うんだから。元々ミカエルが細工したんだろうに。」
「行くぞ。ガブリエル。」
「あ、置いてくなよ。」
 天使たちは夜空を駆け出した。


 
「風が強くなってきたな。」
 乱馬は焚火をくべながらふっと息を吐いた。この小屋は元は炭焼き小屋。だから火を焚くには不自由しない、そんなふうに長年籠もるうち、早乙女親子が改造を重ねていた。
 パチンと枯れ木がはじける。じっとその頼りない火を見ながら乱馬は想いを馳せる。 
 静かな空間に降りて来る夜の闇。
「寒いと思ったら雪になりやがったか。」
 隙間風が通ってくる窓に目をやって言葉を吐いた。痛んで仕切る窓硝子の向こうに、ちらちらと舞う白い雪を認めたのだ。

 カタン。

 外の方で物音がした。
「風かな?それともイタチか野良犬か?」
 
 ゴトン。

 物音は止まない。
 気になって乱馬は重い腰を上げた。木の引き戸をガラッと開ける。
 そこには一人の少女が佇んでいる。
「乱馬・・・。やっぱりここだったのね。」
 そう言って微笑む。
「あかねっ!」
 予想だにしなかった訪問者に乱馬はしばし言葉を失った。
 その無限に思えた瞬間、あかねは風に押されるように倒れこんできた。
 思わず前に出る腕。
「もう会えないかと思ったわ・・・。」
 微かだがそう聞こえた。
 乱馬に身体を預けると崩れ落ちる。
「あかねっ!あかねっ!!」

 差し出した腕の中であかねは力なく微笑んだ。



つづく



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