◇クロス

第三話 もつれる想い



 乱馬は日々悶々としていた。
 山から帰って来た彼女は別人だった。今までは当たり前のように繰り返された痴話喧嘩もない。いやできないのだ。気の強さは何ら以前の彼女と変わりはなかったが、乱馬の方から喧嘩を売ることはなかった。
この重苦しい空気は一体何なのか。
 道場での稽古を暫く禁止されてしまった彼女は、翼をもがれてしまった鳥に見えた。
 心なしか穏やかになり、編みかけていたマフラーをかすみに教わりながらしきりに手を動かしている。穏やかな笑みは己にではなく、明らかに東風へと手向けられている。
 それに対する憔悴が彼を悔恨へと押し遣る。
 あの時、何故己は彼女と行動を共にしなかったのか。快く修行を受け入れていれば、彼女一人で山の道から外れさせるようなことはしなかったのではないか。そして、もう少し早く彼女に手を伸ばせていたら、或いは・・・。
 そう思うと夜も眠れなかった。
 それでも天道家の人々は優しかった。誰も己を責めようとはしなかった。いや、返って苦しいほどに優しく見守ってくれている。そんな気がした。
 勿論、東風もそんな乱馬の心を知ってか、
「何かきっかけがあれば、あかねちゃんはきっと封じ込めている気持ちを全て思い出すよ。」
 と言った。
「封じ込めている気持ち?」
 乱馬は東風を顧みる。
「ああ、時に人間は一番大事な想いを封印してしまうことがあるんだ。」
「封印?」
「あかねちゃんの記憶の欠落は、精神的なものに少なからず影響されていると思うんだ。きっかけは確かに山で遭難したことにあるだろう。一番大事な君に関わることの全てを忘れてしまったということに、本当は当の本人が一番苦しんでいるのではないかと僕は思うんだよ。あかねちゃんはああいう性格の女の子のだから、自分が苦しんでいるような振りは決して人には見せないのだろうけれど。」
 乱馬は黙り込んだ。己よりも達観しているこの若い接骨医が言うことだ。尤もだと思うこともある。
「だから、君が投げ遣りになってしまったら、救われる心を追い込んで行くことにもなりかねない。乱馬君。君にも辛いかもしれないが、あかねちゃんを見守ってやることも大切なんじゃないかな。」
 ニコニコ顔の奥にある瞳は、乱馬を見据えている。
 東風に言われるままに、彼は無言で、あかねを見守り続けた。
 だが、まだ達観しきれない十七歳の少年には地獄のような時間であることには変わりはない。
 
 現に乱馬を掻き乱す事件が起きた。

 そう、あかねの故障を、己とあかねの間柄を良しと思わぬ連中に嗅ぎ付けられたのである。
 長い間学校を欠席しているあかねを、訝しがった同級生たちが天道家に尋ねてきたことに起因する。
 乱馬はそれでも毎日、学校へと通っていた。勿論、なびきもだ。対外的には「風邪」という扱いになっていたから、二三日で来るだろうと同級生たちは気にもとめていなかったのだが、流石に四日、五日と欠席が重なると「変だ」ということになったらしい。
 乱馬に詰め寄ってものらりくらりと逃げられる。
 その理不尽さに、あかねの親友であるゆかとさゆりがお見舞いと称してやって来たのだ。
 まずい。乱馬はそう思った。
 彼女たちの口からあかねの病状が漏れるとどうなるか。恐らく、大騒ぎになるだろう。何よりかねはいまだ男子たちに絶大な人気がある。乱馬が転校して来るまでは、毎日のように男たちから交際を迫られて追い立てられていたのだ。
 案の定、大騒ぎになった。
 勿論、なびきが手を尽くして、ゆかやさゆりには口止めをしたのであるが、人の口は完全には蓋が出来ない。
 一週間もしたころ、大挙として連中が現われたのである。
 そう、久遠寺右京、シャンプー、九能小太刀、そして兄の九能帯刀。
 ややこしい連中が、こぞってあかねの様子を偵察に来たのである。

「何しに来たんだ?」
 仁王立ちになった乱馬が彼女たちを玄関で出迎えた。
「何って、決まってる!」
「天道あかねに会いにきたのですわ。」
「隠し立てする、これ良くない。」
「大人しく通してもらおうか!」
 止めても聞きいれるような連中ではない。多勢に無勢。押し問答の末、あかねの元へと雪崩れ込む。

 当のあかねは乱馬に繋がる記憶は全て頭にはない。
 いや、この面子で知った顔と言えば、乱馬に出会う前から知っていた九能帯刀くらいのものであった。
「ねえ、あなたたち何なのよ?」
 ずかずかと上がりこんできた面々を見比べながら困惑するあかね。
「九能先輩、何なんです?先輩の知り合いの女の子たちですか?」
 矛先は九能へと向けられる。
「おお、天道あかね。記憶がなくなったというのは本当だったか。右京もシャンプーも妹の小太刀も忘れたというに、この僕だけは忘れずに居てくれたのだな。」
 と、場違いな涙まで浮かべる始末。
「ホンマに記憶失のうてしもたみたいやな・・・。あかねちゃん。」
 右京がじっと彼女を見詰めた。
「ということは、乱馬さまとの許婚の件も、自然と解消。」
「これで晴れて乱馬、私と結婚できるね。」
「さあ、君を縛っていた早乙女乱馬との婚約はきれいに破棄して、僕の胸に飛び込んでくるのだ。天道あかね!」
 口々に好き勝手を囁き始める。
「結婚とか婚約解消とか、訳のわからないことばかり言って・・・。」
 あかねは明らかに混乱していた。
 ここに集った者たちの目的が彼女にはさっぱりと理解できないでいたからだ。
 ちらりと乱馬の方を見やった。
「乱馬、お祝いするね。もう、あかねに気を遣うなくなる。今夜からは猫飯店に来るね。」
「何言ってるんや!乱ちゃんはうちのところに来るんやさかい。」
「まあ、ずうずうしいっ!私の乱馬さまを何とお心得ですの?」
 いつものように少女たちは勝手に言い合い、罵りあいを始めた。
「早乙女乱馬。おまえにあかねくんの許婚たる資格はないわ。わーははは。」
 九能はご機嫌で言い放った。
 
「いい加減にしろっ!」

 家中に響き渡るような怒声。
 彼らを制したのは乱馬であった。
 
「乱馬?」「乱ちゃん?」「乱馬さま?」
 一斉に振り返る。
「てめえのことばっかりぐちぐちと言い争いやがって・・・。確かにあかねは俺の記憶、そして許婚のことも全部忘れてるにちげえねえがな・・・。でも、許婚を解消した気もする気も今の俺にはねえんだ!」
 乱馬の激しさに息を飲む。
「帰れっ!そして二度と来るなっ!あかねの記憶が元に戻るまではなっ!!」
「でも乱ちゃん・・・。」
 何かを言いかけた右京。だが、次の言葉が彼女たちを強襲した。
「これ以上、グチグチ言うのなら、てめえら覚悟はできているんだろうな・・・。」
 乱馬の背中から熱く燃え上がる気炎。全身から気を滾らせ始めた。
 それ以上言葉は継がなかったが、これ以上言うのなら力ずくで追い帰す。彼の凄惨な気はそう物語っていた。そこまで態度で示されては、右京も小太刀もシャンプーも九能も、すごすごと引き下がるしかなかった。
 乱馬の強さは誰もが認めるところだ。飛流昇天破にかかれば、家ごと吹き飛ばされるだろう。昇天破を打つのも辞さないぞと言わんばかりだ。
 何よりこんな激しい彼を見るのは初めてだった。
「今日のところは帰ってやる。だが、絶対に僕は諦めんぞ!」
 九能が歯ぎしりしながらそう言い含めた。精一杯の虚勢であった。
 乱馬の精悍な力には敵わない。それもわかってはいたが、負けを認めてしまうには、複雑な性格過ぎた。
「私もお兄様に従いますわ。」
「諦めたと思わないで欲しいね。」
「そうや。乱ちゃんの許婚はあかねちゃんだけやない。うちらかて権利はあるんやから。」
 三人娘もそれぞれ勝気であった。決して己の負けを認めようとしない困った連中でもある。

 お邪魔虫たちが帰ってしまうと、天道家は再びひっそりとした空気を取り戻す。
 乱馬の激しい気も元に戻った。
「親切なのね・・・。」
 あかねは取り残された茶の間でふっつりと言葉を漏らした。
 強烈な皮肉に聞こえた。
「そんなんじゃねえ・・・。」
 乱馬はやっとそれだけを告げると黙り込んだ。
 向かい合うあかねに物憂げな瞳を差し向けた。
(本当に、俺のこと全部、おまえが持っていた想いも全て忘れちまったのかよ!)
 ゆらゆらと揺らめく漆黒の瞳。
(俺の想いは行き場がなくて困ってるっていうのによっ!!)
 溢れてくる想いをぐっと堪えた。このまま胸に抱き締めて、その温もりを確かめたいという衝動を必死で堪えた。
「あかね・・・。」
 思わず象る唇。
「何?」
 小首を傾げながらあかねは見上げた。
「いや・・・。いい。何でもねえ・・・。」
 乱馬はそう言い残すと、茶の間を出た。



「もうそろそろ、試練を解いてやってもいいのではないかね?」
 ガブリエルは傍らに浮かぶミカエルに声をかけた。
「いや、ここで解いてしまったら、彼らの真意は埋もれたままになるよ。」
 ミカエルはふつっと言葉を継いだ。
「相変らず、意地悪だなあ、ミカエルは。」
「親切だと言って欲しいね。」

 冬の夕暮れは早い。さっきまで色付いていた夕焼けはすっかりと色褪せて、黒く塗り篭められてゆく。天には冬の星座が瞬き始めた。
 その夜、乱馬は天道家を出た。



つづく



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