◇クロス

第二話 記憶の糸



「一時的な記憶の混乱でしょう。外傷はともかく、脳波には特に異常は見当たりませんでした。退院しても改善が見られないなら、一度大きな病院で精密検査してもらってください。」
 医者の言葉に天道早雲は深々と頭を下げた。
 あかねがここへ運ばれて来てから三日経った。
「とにかく、退院してもあまり患者さんを刺激しないようにしてくださいね。」
 医者はそう言った。
 そう、山で意識を失って気が付けばここへ運ばれていた。
 修行場から一番近かった東京の郊外の総合病院。
 特に脳の異常は見られないので経過を見れば良いと、今日でここは退院を言い付かった。
 あかねの異変に駆けつけた天道家の人々も一旦は安堵したものの、あかねの様子が完全に戻ったわけではないことに愕然としていた。
 そうなのだ。彼女の記憶のうち、最近数年のことがごっそりと欠落してしまっていることが明らかになったのである。
 学習したことを忘れた訳ではないのに、天道家に居候している早乙女親子のことなど本当に一部の記憶が欠落していたのだ。
 長い家族会議の末、総合病院は退院し、後は自宅療養に切り替えるという。後の通院もかかりつけの東風の接骨医院を中心にということで落ち着いていた。
 幸い、学校の方も期末考査が終わっていた。後は冬休みを迎えるだけという十二月半ば。風林館高校は私学だったので、学期の終わりは補習が中心になる。受験一色に塗りたくられる高校三年生。各人、あかねの欠席に目をくれる暇も余裕もなくなっているはずだ。
あかねは早々と受験戦線からは乱馬共々離脱していた。返ってそれがプラスになるだろう。
「後はゆっくりと養生させます。お世話になりました。」
 早雲はぺこんと頭を垂れた。
 こういう折の天道家の結束力は強い。家族の結びつきが普通の家族より一層強いのだ。
 或いはそれは、母親を欠いている父性家族ということが多きく影響しているのかもしれない。
 家長の天道早雲を中心に固く結束し、守りに入るのである。
 早乙女家の三人や八宝斎といった居候を抱え込んでいてもそれは同じであった。
 今頃、練馬の天道家ではかすみを中心にあかねを迎える準備が着々と整えられているに違いない。

「あたしなら大丈夫よ。少し頭を切ったくらいで、特に痛みも何もないんだから。」
 あかねは病床の上から微笑みかけた。もう着替えも終わり、後は支払いを追えて病室を辞すだけになっていた。頭に巻かれた白い包帯が少しだけ痛々しく映る。
「でも、あかね・・・。」
 なびきが困ったわねと表情を向ける。
「なあに?なびきお姉ちゃん。」
「本当に乱馬君のこともわからないの?」
「乱馬?」
 あかねはきょとんと目を向ける。病室の入口付近でこちらを寂しげに見詰めている二つの瞳にぶつかった。
 物憂げな瞳の少年がそこに立っている。

「あなたが乱馬さんなの?」
 わざわざ名前の後に「さん」という敬称を付ける、その口調が乱馬には耐えられない。
「そうよ・・・。あんたの許婚のね。」
「許婚?嘘よ。そんな人、あたしには居なかったわ。初めて聞くわよ。」
 元来の勝気さが顔をもたげたのだろう。合点がいかないという目を姉に手向ける。
「あかね。忘れてしまったことはゆっくりと思い出せばいい。」
 早雲は深い溜息を吐く。
「さあ、帰ろう。かすみたちが待ってる。」
 早雲は忘れ物はないかいという風に病室を見回した。
 詰め所に立ち寄り、挨拶を済ませると正面玄関に向かう。
 なびきが手配したハイヤーに乗り込む。
 早雲が運転手の横に。そして後ろの運転席とは反対方向の窓際に座る。なびきが真ん中。その向こう側の窓際に乱馬が座っていた。
 あかねは固く口を閉ざしたままだ。
 どうも、さっきのなびきの一言から乱馬に警戒心を持ってしまったようだ。
 病室で目を開いたときから彼が傍に寄り添っていることはずっと気になっていた。多くを語らず、目立たぬようにずっと傍らに居たことも彼女にはわかっていた。
 何度も思い出そうとして、激しい頭痛に見舞われる。そうなると、彼はどこともなく視界から消える。気遣っていたのだろう。 
 その気になる彼の正体が「己の許婚」だとさっき姉から聞かされてあかねは正直混乱しかけたいた。
 いや、本当は薄々感じていた。
 彼のことが気になるという事実を。それが愛なのか恋なのか、はっきりとはわからない。でも、心の奥底に横たわる「切ない想い」があることを、感じていたのだ。ただ、何故かはわからなかったが、その疼きの正体を知るのが怖かった。
 己はともかく、彼はどう見ているのか。
 あかねはだまったままぼんやりと車窓を見ていた。姉の方向、いや、乱馬の方向に目を向けようとはしなかった。意識はそちらの方へ向いているにも関わらずである。ぼんやりと流れてゆく色褪せた景色を見ていた。
 すっかり葉を落とした木。カサカサと舞う落ち葉。待ち行く人々は背中を丸めて歩いているように見えた。それでも、所々、クリスマスを迎えるためのリースが緑鮮やかに間口に掛けられているのも見える。赤と緑と白のクリスマスカラーが返って侘しげに見える。



「本当にこのままで良いのか?ミカエル。」
 その車の遥か上空、四つの瞳がハイヤーを追いかけながら飛んでいた。
「ああ。舞台は変わるようだがね。まだまだこれから面白いだろう?」
「人の情愛を面白がるなんて、僕の趣味じゃないんだけど。」
「そうかい?その割には嫌がらずにくっついてきているじゃないか。ガブリエルは。」
「このまま見捨ててしまうわけにはいかないだろう?それに・・・。天のお父さまに大目玉を食らうのは嫌だからね。」
 口を尖らせる相棒に、ミカエルは言った。
「とにかく、もう少し楽しませて貰おうじゃないか。彼がどういう行動に出るか。興味はあるんだろ?」
 否定できない自分がもどかしかったが、ガブリエルは黙ってミカエルにくっついて行くしかなかった。



 小一時間走り続けたろうか。
 天道家の門の前で車は止まる。
 確かに見覚えがあるその大きな門戸。
 玄関の引き戸を開けると「おかえりなさい。」と一番上の姉が、懐かしい声が響き己を迎え入れる。
 だがその横には見知らぬ夫婦がこちらを見ている。
 一瞬強張ったあかねをほぐすように、かすみがにこっと笑いながら言った。
「今、うちに居候してくださってる早乙女さんご夫妻よ。」
 と。
 居候を紹介するのにわざわざ敬語を使うところはかすみらしい。
 夫婦はぺこんと頭を下げた。その様子を後ろから乱馬は複雑な表情で見詰めていた。本当に記憶をなくしてしまったのだという事実が彼を責めたてる。
 あかねには乱馬がこの家に同居しているという事実が俄かには飲みこめなかったらしい。
「何であんたがここに居るの?」
 あかねは率直に訊いて来る。
「仕方ねえだろ。他に行くところがないんだから。俺たちにはよ・・・。」
 そう答えるしかなかった。
「行くところがないから居候なの?」
「ああ、そうだよ!」
 ついきつく答えてしまう。
 久しぶりの家は居候で賑やかな他は、あかねの記憶の中にあるその場所と何ら変わりはなかった。
 庭木の位置も、部屋の様子も、道場もだ。

 武道家としての己はどうなのだろう。

「ねえ、お父さん、手合わせしてみてくれない?」
 あかねは茶の間で落ち着くと、早速父に話した。
「何言ってるの、まだ退院して直ぐなんだから、無理したら病院へ逆戻りよ。」
 なびきが目を丸くする。
「だって、体がなまってしまってるわ。あたし、男の子に負けるわけにはいかないのよ。」
 あかねはまだ乱馬と出会う前の凛然とした瞳を輝かせていた。言い出したらきかない。それがあかねの本質でもある。
「乱馬くん、お願いしていいかね?」
 早雲は彼に問い掛けた。何故自分に振られたのかはわからないが、乱馬は「わかりました。」と一言答えた。
 道着に手を通す。黒帯を丹田のところでぎゅっと締め、道場へと上がる。
 シンとした空間。素足に床の冷たさが広がる。
 あかねはまだ頭に包帯を巻いている。道着の白さとあいまって、返って目立って見えた。
 深々と一礼する。そして構えた。

(ここでおまえと初めて対峙したんだ。)

 乱馬の脳裏にあかねと初めて対戦したときのことが鮮やかに蘇る。
 少女の形を信じて対峙したあの時。あかねは楽しそうに打ち込んできた。
『男の子には絶対負けたくない。』
 それがあの頃の彼女の口癖だった。そう、あかねはあの時の気迫を背負ったままだ。
 ダンッと駆け出したあかねは乱馬に果敢に迫る。床を蹴りそして伸び上がる。力任せで彼を捉えようと仕掛けてくる。あかねの組み手だ。
「でやーっ!」
 激しいせめぎ合いが沸き起こる。乱馬は彼女の右の蹴りを、だっと左手で止めた。それを薙ぎ払って右に流す体。あかねのバランスが俄かに崩れた。
(やべえっ!やりすぎたか。)
 まだ病み上がりの彼女。乱馬は慌てて手を出した。
 バランスを崩したあかねは左脚を支えきれずに後ろへと引き倒れる。受け身を取ろうと身構えた瞬間、彼の腕が身体を支えた。
「え?」
 後ろにすっ転ぶ筈の身体は前に引き戻される。
 バンッ!
 と音がした瞬間、がっちりとした男の身体を目の前に意識した。
 ドクンと唸りを上げる心臓。逞しい腕が己を庇って抱き止めている。
「ごめん。」
 彼はそれだけ言うと慌てて身体を放した。あかねはそのまま床にへたり込む。床は冷たい。

「ほら、まだ本調子じゃないでしょ?」

 上からなびきの声がした。
「あんたはまだ退院したばかりなんだから。無茶しないのっ!」
「なびきの言うとおりだな。あかね。無理は禁物だ。今しばらく、道場への出入りは禁止するとしようか。」
 気になって見ていた早雲がそう宣言した。
「どうして・・・。」
 あかねは誰に向かってでもなく、そう吐き出していた。
「どうしてって、あんたがまだふらついてるからでしょ?今のまんまじゃ、相手する乱馬君だって大変よ。」
 なびきがそれに答えていた。

「なびきちゃんの言うとおりだよ。」

 道場の入口で声がした。
「ほらあ、君はそうやってすぐ無理をするんだから。」
 にこにこと微笑みかけながら立つ人影。小乃東風であった。
「東風先生っ!」
 みるみるあかねの顔が輝き始める。
 乱馬はその表情の変化を複雑な想いで見詰めていた。
 あかねの記憶は欠落している。綺麗さっぱり、己と出会ってから今日までのことを忘れ去っている。それに比べて、東風に向けた表情の和やかさ。
 東風はあかねの初恋の男性なのだということを思い知らされた瞬間でもあった。
 己との出会いを忘れている今のあかねは、そう、まだ東風へ想いを寄せていた頃の想いを持っているのではないか。そう思うのが自然であった。
 現にあかねの瞳はきらめいているではないか。
 嫉妬。
 いや、そんな単純なものではなかった。
「あかね・・・。」
 聞こえないくらいでそう呟くと、彼はぎゅっと拳を握り締めた。切ない想いがどっと溢れてくる。



つづく



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