スローラブ 番外編




番外編 彼れから


 うららかな春の日差しが、そろそろ射すように感じられる初夏。木々の青は萌え上がり、そよ吹く風に揺られる新芽たち。

 大都会の東京には似つかわしくないくらいに閑静な住宅地。そこに佇む古い家屋。立派な瓦葺屋根の純和風二階建て。しかも、道場がついている旧家など、そん所そこらで、容易にお目にかかれるものではない。
 風情がある大きな門戸には、「無差別格闘早乙女流天道道場」と墨書きされた大きな木の看板が立てかけてある。母屋(おもや)の奥まった南向きの部屋に、手枕(たまくら)しながら、気持ち良さげに眠る青年が一人。
 決して長身ではないが、体格は良い。陽だまりの畳の上に寝転がって、軽く寝息をたてている。

「ねえ、乱馬ったら。そんなに寝てばかりいたら、牛になっちゃうわよ。」
 寝ている彼の傍へと、声をかける女性。
「なんねーよ…。んなの。」
 片目を薄く開きながら、眠そうに答えが返ってきた。そして、再び、瞳は閉じられる。
「いい加減で切り上げないと、夜、寝られなくなっちゃうわよ。」
「んだよう…、あかね。別に良いじゃんかよう。もうちょっと、寝かしておいてくれよう。時差ぼけで疲れてんだから。」

「全く、久しぶりに帰って来たと思ったら、寝ることしか考えないのねえ、この子ったら。」
 背後から、もう一つ女性の声がした。

「なんだ、おふくろ…。来てたのか?」
 その声を耳にして、面倒くさそうに、眠り男から声が漏れる。

「何だじゃありませんよ。そんなに寝てばかりいると、夜、寝られなくなりますよ。」
 乱馬が羽織っていた、薄い毛布を引き剥がしにかかった。
「もうちょっとだけ!」
 駄々っ子のように、引き剥がされまいと、毛布にしがみついて頑張る息子。
「あなたは良くても、あかねちゃんが困るでしょう?はいはい、お昼寝の時間は終わりですよ。」

 容赦なく、昼寝の息子を叩き起こす母。その強引さに、遂に降参して、のっそりと、上体を起こした。
 ふわあああっと、大きく背伸びするように両手を掲げて、大欠伸をこいた。そして、恨めしそうに、母親を見上げる。

「その様子じゃあ、あんまり、すっきりしていないようね。」
 手際よく毛布をたたみながら、母ののどかが声をかける。 
 母親は、いつまでも母親然と振舞うものだ。たとえ、我が子が大人になろうとも、容赦はない。
「仕方ねーだろ?時差ボケのせいで、今、俺の身体は真夜中仕様なんだから。」
「はいはい。そんなのは、太陽の光に身体を当てたら、すっきり治りますよ。ほら、特に何もすることがないんだったら、あかねちゃんと散歩にでも行ってらっしゃい。」
 のどかは、乱馬を促(うなが)した。
「散歩?何しに?」
 訝しがる息子に、母は言った。
「散歩は散歩よ。あなたも、夫なら妻の日課につきあってあげなさいな。」
「日課?おめえ、散歩に出るのが日課になってんのか?」
 と目をぱちくりさせて、あかねを見やった。
「ここのところ、運動不足になりがちで一気に体重が増えてきたから、母体保護のために天気が良い日は、せっせと歩きなさいって、先月の定期検診で医者(せんせい)がおしゃって…。それ以降、できるだけ毎日歩くようにしているの。」
 と、前に迫り出した、お腹をさすりながら、あかねが答えた。
「ふーん…運動不足ねえ…。体重超過かあ…。」
 ちらっと、あかねの身体を見やる。確かに、不在の間に一回り、いや二回りくらい、身体が大きくなっていることに、改めて気がつく。
「仕方ないでしょう?こんな身体じゃあ、道場で動き回ったり、ロードワークで走り回ったりできないんだもの。家事炊事の他に手っ取り早く、適度な運動をするには、歩くのが一番なのよ。」
「妊娠後期にもなると、激しい運動はご法度ですからね。歩くのが一番なの。お日様の光を身体に存分に浴びることは、胎教にも良いのよ。
 お腹の責任の一端は、あなたにもあるんだから、ほら、ちゃんと付きあってあげなさいな!」
 のどかに、トンと背中を押された。
「責任の一端ねえ…。」
 苦笑いしながら、乱馬は起き上がる。

 あかねのお腹を膨らませたのは、他の誰でもない、夫の己だからだ。

「まっ、いいか。散歩もたまには。」

 行くと決まったら、動作は早い。

「ほれ、行くぜ。」
 と、先に立って玄関へと歩き出す。
「そらそら。そんなに急いだら駄目よ。わかっていると思うけれど、あかねちゃんの歩調に合わせてあげてね。たったと先に行っちゃ駄目よ。」
 とのどかに念を押された。
「ちぇっ!だんだんおふくろの奴、口やかましくなってきたなあ…。年取った証拠かな。」
 そう嘯(うそぶ)きながら、乱馬は玄関の三和土(たたき)に降りた。先に雪駄(せった)を履くと、あかねの方へ手を差し出す。最近、家の周りをうろつくときは、雪駄と呼ばれる草履を履くことが多かった。いでたちも、藍の作務衣(さむえ)だ。
「ほれ。つまずくなよ。」
 そう言いながら差し出す手。
「どうしたの?熱でもあるの?やけに優しいわね。」
 あかねが笑いながらそれに応じた。
「俺は根っから優しい男なの。」
「いけしゃあしゃあと、心根にも無いことを…。妻を長期間、ほったらかして、世界中を格闘行脚してる旦那様が優しいの?」
「うっせえ!世界行脚してるのは、生活のためだ、生活の!そら、行くぜ。」

 二人並んで、門扉(もんぴ)を出た。

 天気は上々。爽快に澄み渡る、初夏の蒼天、日本晴れ。
 お天道様(てんとうさま)が穏やかに照りつける道を、ゆっくりと歩き始めた。

「さて、どこへ行くかねえ…。」
「どこでも良いわよ。小一時間歩けたらそれで良いから。」
「んじゃ、久しぶりに行ってみっか。」
 乱馬は方向を定めて歩き出した。
 その道が何処へ続いているか、あかねが知るのに、そう時間はかからなかった。
 彼があかねを導こうとしている道。それは、かつて二人毎日通った道。風林館高校への通学路だ。
 学生鞄を持って、駆け抜けた頃から、もう、数年経っている。
 
「随分、ここいらの景色も変わったよなあ…。」
 感慨深げに、乱馬が周囲へ瞳をめぐらせる。
「そうそう、風林館高校の制服が変わったの知ってる?」
 あかねが問いかけた。
「え?」
「ジャンバースカートの制服は、もう流行らないって、二、三年前にリニュアルされたんですってさあ…。」
「そっか…。道理で、この頃、青いジャンバースカートの学生を見ないのかあ…。」
「女の子だけじゃないわよ。男の子のも変わったそうよ。」
「男子もか?」
「ええ。学ランも古いからって、ブレザーになったそうよ。胸のポケットに風林館高校のエンブレムが入って、ネクタイ仕様になったんですって。」
「へえええ…。」
「そういえば、乱馬は制服を全然着なかったわね。」
「まあな…。あの頃は女に変身することもあったしな…。買うにも親父は金なんか一切出しそうになかったし、俺は俺で面倒くさかったから、ずっとチャイナ服で卒業まで通したっけな。」
「よく、卒業するまで私服で通せたわねえ…。」
「だなあ…。校則、わりに緩かったんでねえの?」
「そんなことはないと思うけど…。そもそもは転校早々、制服の調達に間に合わないからって理由で私服通学してたんでしょう?」
「いや、良く、覚えてねえ。転校したときは、今日から許婚と同じガッコに転入届出しておいたから、とっとと行って来んかいっ!…だったもんなあ…。」
「いい加減なんだから。」
「それは、親父だろ?」

 他愛の無い会話を綴りながら、ゆっくりと歩む川沿いの道。

 と、前方から声がかかった。

「おや、乱馬君とあかねちゃんじゃないか。二人揃ってお出ましなんて、珍しいねえ。」
 接骨院の玄関先から呼び止められたのだ。
 柔らかな笑顔がそこにあった。
「東風先生、こんにちは。」
 あかねがぺこんと頭を垂れた。
「いらっしゃい。あがってくかい?かすみさん、今、買い物に出かけて居ないけど、すぐ帰ってくるからさ。」
 東風は二人に声をかけた。
「あ、いえ、お姉ちゃんの留守中に上がりこむのも…それに、先生もそろそろ夕方の診察に向けて忙しいんでしょ?今日は散歩に出てきただけですから。」
「他人行儀だなあ…。親戚なんだから、遠慮しなくっても良いんだよ。」

 あかねたちが結婚する少し前、長姉のかすみが東風と結婚した。東風のやってかすみの前に出ると発症していた極度の緊張症状。どうやってをれを克服したのかはわからないが、結婚後は緊張症状もすっかりと形を潜め、落ち着いて似合いの夫婦になっていた。

「じゃあ、お言葉に甘えて、後で寄るよ。東風先生。」
 と乱馬があかねの頭越しに声をかけた。
「後でって、あんたねえ。」
「俺だってたまにはかすみさんと話したい。近いのに、なかなか会えねえもん。」
「それは、あんたが家に居ないからでしょ?お姉ちゃん、良く来るのよ。」
「だからあ。俺が家に居ないのはだ、生活のためだろうが。」
 だんだんに語気が喧嘩腰になっていくのを、東風は制した。
「あはは、相変わらず、仲が良いねえ。妊婦さんに喧嘩はご法度だよ。かすみさんも乱馬君に会いたがってたから。散歩の帰りにお寄りよ。お茶くらい飲んで行くと良いよ。」

「んじゃ、後で。」
 二人、再び歩き出す。

「ほんとに、強引なんだから…。」
「まだ言うか?」
 笑いながら歩く、川縁の道。高校生の頃、駆け抜けた緑色のフェンスはまだ健在だ。
「よっと。」
 何を思ったか、ひょいっと乱馬はその上に乗った。
「ととと…。久々だから、バランスが上手くとれねえや!」
 そう言いながら、フェンスの上でおどけてみせる。
「ちょっと!乱馬、お行儀悪いわよ。」
 下から恨めしそうにあかねが声をかける。
 フェンスの上で中腰になりながら、あかねを見下ろしてくる。
「へへへ。あの頃も、おめえ、そうやって下から口、尖がらせてたなあ。

「もう!いい年こいて、何やってるのよ!重くなった体重でフェンスが壊れたらどうすんの?」
「いいから、いいから。大丈夫だよ!そら、先に行こうぜ。」
 そう言いながら、フェンスの上に立ち上がると、たったかとっとこ歩き出す。あかねの諌めなど、まるで耳に入らないようだ。
「もう、しょうがないわねえ!」
 はああっと溜息を吐き出すと、悪戯亭主に諦め顔を手向けて、再び歩き出す。
「よっ!たっと、へへへ、中々、俺も捨てたもんじゃねえなあ。」
 乱馬はフェンスの上で、一人、悦に入っている。高校生の頃は、毎日このフェンスの上を駆けていた。
 だが、油断は禁物。所々、古びて土台が緩くなっているのだろう。
 いきなり、ぐらっと来た。
「わたっ!っと。っととととと…。」
 足元をすくわれて、耐え切れず、タンと地面へと降り立った。
「ちぇっ!おんぼろめ。」
 と恨めしそうに、フェンスを見上げた。
「ほら、言わんこっちゃ無い。しょうがないお父さんねえ…。」
 くすくすっと笑いながら、あかねが言った。
「お父さん…か。」
 その言葉に、乱馬の頬が緩んだ。ちょっと照れくさい響きだ。
「そうよ、もうすぐ、この子の父親になるんだから…。落ち着きなさいよ。」
「そだな…。もう高校生じゃねえもんな。」

 さわさわと流れていく風。
 向こう岸の道を、バタバタと音をたてながら、真っ赤な郵便バイクが通り抜けて行く。

 天道家から半時間ほどの行程にある風林館高校。
 まだ、授業中か、校門は閉じられたまま、ひっそりとしている。
 その門戸にあるインターホンで中に呼びかけてみる。昨今、いろいろとおかしな事件が横行しているので、昔は常時開かれていた校門も、こうやって閉ざされるようになったのだろう。
 事務室から大急ぎで駆けつけてきたのは、見覚えのある用務員のおじさん。。世界的格闘家早乙女乱馬の来訪に、驚いた風だった。
「久しぶりだねえ…。乱馬君。すっかり逞しくなって。」
 高校時代には問題児だった乱馬も、このおじさんには結構世話になっている。
「生憎、今日は公務で校長は不在だよ。」
 と切り出された。
「いや、おかまいなく。久しぶりに、母校の空気を吸いたくなっただけですから。それに、あの変態校長が居ないのは不幸中の幸いかも…。」
「ちょっと、乱馬、もうちょっと物の言い方、考えなさいって!」
 あかねが袖を引っ張ったくらいだ。
「おめえだって、内心、ホッとしてるくせに!」
「乱馬ったら!」
「あはは。相変わらずだねえ。二人とも。」
 と、用務員のおじさんは、満面の笑みを浮かべる。

「ややややや。そこに居るのは天道あかね!それから懐かしき我が仇敵(きゅうてき)、早乙女乱馬ではないか!」
 聞き覚えのある声がする。

「く、九能先輩…。」
 乱馬は驚きの瞳を手向けた。
「先輩、何だ?その格好…。」
 と言ったきり、口があんぐりと開いて閉じない。
 今、乱馬の目に前には体操服を着用した、上背のある青年教師然とした九能がそこに立っていたのだ。脳天を何かで殴られたような衝撃が走った。

「あら、乱馬、知らなかったの?九能先輩、今は風林館高校で教鞭とってるのよ。体育と保健体育担当で。」
 あかねが、傍で耳打ちしてきた。どうやら、あかねにはことの仔細がわかっている様子だ。
「せ、先輩が、き、教鞭だあ?」
「ええ。進んだ大学で高等学校の教員免許取って、ここに採用されたのよ。」
「教育界も恐ろしいことするなあ…。っていうか、先輩、良く先生になれたなあ…。何だって九能先輩なんか採用されたんだ?」
「だって、ここの校長は九能先輩のお父さんじゃない。九能家が運営している学園なんだから…。採用されないわけないじゃない。」
「あ…そっか。」
「で、行く行くはお父さんの後を受けて校長になるって話よ。」
「マジかよ…。それじゃあ、子供たちをここへ入れられないぜ。」
「ここで教育受けさせる気だったの?」
 ぼそぼそと、九能を無視して、二人の勝手な話が続く。

「何をこそこそやっているのだ?ったく…。何の用向きで、ここへ来たのだ?」
 九能が、ふんぞり返りながら二人を見比べる。
「あ、いや、別に。久しぶりにぶらっと立ち寄ってみたくなっただけだよ。」
 と乱馬が愛想笑いを浮かべた。
「何だ、てっきり僕との決着をつけにきたのかと思ったぞ。」
「ああん?決着だあ?」
「ああ。僕はまだあかね君と貴様の結婚を認めた訳ではないからな。」
 そう言いながら九能はあかねを見やった。
「あかね君もさっさと、そんな男は見限って僕のところへ来れば良いのだ。」
 と、腕組みしながら言った。
「何なら、今すぐ、この離婚届に奴の名前を書いてサインをするかな?サインし終わったら、婚姻届もあるぞ!」
 得意げに、懐から二枚の申告用紙をかざして見せた。
「おめえなあ…。何、後生大事に持ち歩いてんだよ…たく。」
 乱馬が呆れたほどだ。
「あかねは離婚なんかしねーの!あかねの腹が見えねえのか?おまえは…。」
 苦言を呈しながら、あかねのお腹を指差す乱馬。
「ん?あかね君…暫く見ないうちに太ったな。」
 と目を凝らす九能。この男、物の道理が全くわからないらしい。
「だああ!おめーの目は節穴かっつーの!ただ無下に太った訳じゃねー!」

 道理の通じない男に、何をムキになっているのか。
 用務員のおじさんは、大の男二人のやり取りを、目を丸くして見守っている。あかねも、相手になるだけ無駄だと諦めているのか、口を挟みすらしない。

「もしかして…。一番生(な)りのスイカでも食べたか?うむ、すばらしい、スイカ腹だ。」
「スイカじゃねえ…。子供が入ってるんだ!」
「こ、子供だあ?誰の?」
「俺とあかねの子に決まってるじゃねえか!」
 その言葉に、ようやく理解したのか、九能の動きが止まった。ぴくっ、ぴくっと額が動いたように見える。心なしか、目元が悔し涙で潤んでいるようにも見える。
「ぐぬぬっ!早乙女!貴様ぁっ、いつの間に、あかね君とそんな関係になったのだあ?」
「あのなあ…俺とあかねは夫婦だぞ!子供が生まれても、何ら不思議じゃねーだろうがっ!」
「黙れっ、黙れっ、黙れっ!そこへ直れーっ!僕がこの手で成敗してやるーっ!」
 何を思ったか、背中に刺していた木刀を振りかざし、いきなり、乱馬へと襲い掛かった。

「いい加減にしろっ!」

 高校時代の小競り合いの再現である。

 ドカッ!バキッ!

 鈍い音がして、砂煙と共に、九能が土の上に転がるまで、時間はかからなかった。
「決着つけたぜ!」
 と、振り切った乱馬のすぐ脇で、好奇の目がたくさん輝いていることに気がついた。

「すっげえ…。早乙女乱馬の真空蹴り、間近で見ちゃった…。」
「ここの卒業生だって本当だったのね…。」
「やだーっ!本物ってカッコいいーっ!」
「写メだ!ほら、写メ!」

 ひそひそ声が、あちらこちらから聞こえてくる。
 気付くと、風林館高校の生徒たちに、すっかり周りを囲まれていた。




「たく…。九能が教鞭をとってるなんて、まともに考えたらとんでもねえ話だぜ!」
 ふううっと大きく溜息を吐き出しながら、校門を出た。
 あれから、高校生たちに囲まれて、サインと写メの争奪合戦が小一時間続いたのだ。突然の有名人訪問に、校内が盛り上がってしまった。
「あら、あれでいて、結構、指導熱心だって、生徒や保護者から評判良いらしいわよ。九能帯刀先生。」
「誰が、そんな情報、おめえに伝えてるんだ?思いっきり歪曲してねえかぁ?」
「なびきお姉ちゃんよ。決まってるでしょ。」
「なびきか…。」
「ええ。お姉ちゃんと九能先輩って、細々とながら、まだ腐れ縁続いているみたいだから。」
「なら、とっとと先輩と結婚しちまえば良いのに…。なびきの奴。」
「いろいろ複雑な問題があるんでしょうよ。九能家にはもう一人、徒花(あだばな)的娘が居るでしょう?なびきお姉ちゃんも、彼女が片付かないと、九能家に嫁入りなんてできないわよ。」
「徒花ねえ…。確かに…。小太刀、あいつはどうしてるんだ?まさか、セントヘベレケ女学院の教鞭とってるなんて、おっとろしいことはなってねーだろうな…。」
「あら、良くわかるわね。」
「あん?教鞭とってるのか?あの危ねえ女。」
「教鞭じゃなくってコーチだけどね。」
「コーチ?」
「ええ、セントヘベレケ女学院に籍を置いて、格闘新体操部のコーチしながら、さまざまな大会に出て、格闘新体操界の興隆に貢献してるそうよ。」
「世も末だな…。あの兄妹が、学校教育現場に居るなんて…。」
 複雑な表情を浮かべた。

 と、おもむろに乱馬は、ふと、顔をあげて立ち止まった。

「乱馬?」
 あかねが怪訝にその顔を見上げた。
 乱馬が立ち止まったのは、久遠寺右京の店、「お好み焼き・右京」があった場所だ。
「あら、右京に未練でもあるの?」
 少し意地悪くあかねが問いかけた。
「未練も何も、ウっちゃんは幼馴染だよ。こいつは、また勝手にやきもち焼いてるのかあ?」
 乱馬が、人差し指で、ピンとあかねをでこピンしながら笑った。
「まさか…。右京も、世界にお好み焼きを広めるんだとか言って、どっかへ行っちゃって久しいわね。どうしてるんだろ…今頃。」
 かつて、乱馬の許婚の座を争ったことがある右京。だが、それも今は昔の話で、乱馬があかねと結婚を決めると、いつの間にか、この町から居なくなっていた。
「俺、この前ロスで会ったぜ。ウっちゃん当人によ。」
 と乱馬がポツンと言った。
「ロス?ロスってアメリカの?」
「ああ。世界大会の予選でロス入りしていたとき、地元の屋台でお好み焼き焼いてたぜ。つばさと小夏と一緒によ。」
「つばささんと小夏さん…。まだ、一緒に居るんだ。」
「ああ。両手に花ってな。「ジャパニーズ・ベジタリー・パンケイク」とか何とか言って、結構、評判になってたぜ。」
「ベジタリー・パンケイクですってえ?」
「ああ、お好み焼きの原材料はキャベツとかネギとか野菜だろ?見たまんま、訳したんだろうな。英語に…。」
「野菜パンケーキねえ…ちょっと違うような気がするけど…。」
 あかねが苦笑いを浮かべた。
「今はまだ露天だけど、ガンガン儲けて、いつかはアメリカで店出すってさ。アメリカでチェーン化したら、今度はヨーロッパ進出だ…なんて張り切ってたぜ。」
「へええ…。右京は右京で、自分の夢の実現に向けて、頑張ってるのね。」
「ああ、美人三姉妹のベジタリー・パンケイクって言いながらな…。」
「美人三姉妹ですってえ?」
「ウっちゃんはともかく…。小夏さんとつばさは男じゃないの…。もしかして、あの二人、まだ女の格好してるの?」
「もしかして…も何も、変わってねえぜ。小夏は着物、つばさはセーラー服着てたぜ。」
「……。あの二人ってあたしたちと同年代よね?」
「ああ、多分な。」
「それでセーラー服って…。」
 想像して、思わず、ブンブンと首を横に振ってしまった、あかねだった。
「コスプレしてると客の入りが違うんだってよ。」
「世も末ねえ…。」
 二人、顔を合わせて笑った。
「なあ、良牙はどうしてる?あいつ、こないだのアメリカの大会、エントリーしてたくせに、現れなかったんだぜ。」
 乱馬が尋ねた。
「あかりちゃんと一緒にロス入りしてなかったの?」
「いや、試合には出てなかったぞ。ってか、会場でも最後まで見かけなかったぜ。」
「あはは…。また遅刻したのね…。良牙君。あかりちゃんと一緒だったのに…。」
 あかねが苦笑いした。
「あかりちゃんと一緒でも、試合会場に辿り着けねえのかよ…。たく。」
「良牙君の方向音痴があかりちゃんにもうつっちゃったのかしら…。」
「かもな…。たく、だから「不戦敗の貴公子」なんて仇名つけられるんだよ。」
「不戦敗の貴公子ねえ…。良牙君らしい二つ名ね。」
「そういや、ロスの大会じゃあ、沐絲にも会ったな。」
「沐絲も無差別格闘技の格闘家として頑張ってるんだっけ…。」
「まあな。あいつも世界大会協会の登録をしている、正選手だしな。」
「沐絲と話すこともあるの?」
「ああ、…あいつ、まだ珊璞と結婚できてねえらしいぜ。」
「えっ?そうなの?」
 あかねがきょとんとした顔を手向けた。
「ああ。相変わらず、沐絲は珊璞に猛攻かけてるそうだが…。なかなか婆さんが首を縦に振らないらしい。俺に勝つまでは、結婚させてくれねーんだとよ。」
「乱馬に勝つまで結婚させてくれないですって?」
「ああ。頼むから一度負けてくんろ…とか、対戦前に言い寄られたけどな。」
 乱馬が笑った。
「まさか…あんた。」
「アホ!んなことしたら、八百長になるだろうが!ちゃんと正面切って戦って、負かしてやったよ」
「負かした…のね。」
「あったりめーだ!俺があいつに負けるわけねーじゃん。沐絲には気の毒だったけどよ、ズルしてやるほどお人好しじゃねえぜ、俺は。」
「まあね…。でも、変ね…。沐絲はとっくに珊璞と結婚したって聞いたんだけど…。」
「あん?」
 乱馬が目を丸くして問い質す。
「なびきお姉ちゃんからの情報だと、珊璞との間には子供も居るって話だったけど…。」
「あん?子供が居るだあ?」
 乱馬の表情に変化が生じた。おだやかな顔つきから苦汁をなめたような顔つきに。
「あいつめ!たく、どこまで汚い奴なんだ?世界チャンピオンのタイトルが欲しいからって、俺を騙したな?」
「あはは、どんな手を使ってでも勝ちたいって…沐絲らしいわ…。」
 あかねも苦笑いしたくらいだ。恐らく沐絲は、絶対的覇者の乱馬に勝ちを譲ってもらおうという魂胆だったのだろう。どんな手を使っても勝ちは勝ち。そんな、沐絲らしいせこさが見え隠れしている。
「まあ、嫁が、無差別格闘女子世界チャンピオンのタイトル保持者でもあった珊璞だものねえ…。無冠じゃあ、女傑族の夫として肩身狭いのかもしれないわよ。」
「同情なんかできねっ、つっか絶対しねーぞ!俺はっ!
 あんにゃろー、今度対戦したら、ぎったんぎったんにしてやるぜ!たく!」
 騙してまでも勝ちにこだわっていた沐絲に、腹がたったのだろう。乱馬は拳を握り締めていた。
「て…手を抜いて闘ったていうの?」
「まあな…。あまりに力の差が歴然としてたから手加減してやった。あの試合、俺が本気でやってたら、怪我してたろうな。沐絲の奴。」
「へええ…。そうなんだ。」
 メジャーになってきたとはいえ、まだまだ世界大会の全試合テレビ中継など、夢のまた夢。沐絲とどんな対戦をしたのか、あかねなりに興味はある。
 沐絲など足元にも寄せ付けないくらいに強くなった夫。身重でなければ、己もロスへ行って、この目で彼の試合を観戦できたろうに…。残念だ。

 と、唐突に、舌の根が乾かないうち、乱馬がゆっくりと瞳を巡らせながら問いかけてきた。
「おめえさあ、後悔してねえか?」
 それは突然の質問だった。
「後悔って?」
 あかねは、きょとんとした表情を乱馬に手向けた。
「その…無差別格闘技の第一線を退いちまったことだよ。」
「選手人生なら、とっくの昔、五年前に終止符打ってるわよー。」
 今更何を…という表情で夫を見上げる。
「本当は、もっと続けたかったんじゃねえかって…。」
 大学三回生の時、初出場で学生リーグを制して以来、あかねは対外試合に出たことはない。無差別格闘家としての修行を、全部放り投げた訳ではなかったが、己の行く道は乱馬のアシストにあると思い、第一線から身を引いたのだ。
 それ以後、大学で、機能運動学やら、栄養学、など、スポーツ選手に必要なアシストを、一所懸命学んだ。
 そして、卒業後すぐ、二十代前半にして世界で活躍し始めた乱馬のスタッフになった。格闘家、早乙女乱馬の足元を固めたのはあかねである。
「昔のあたしなら、格闘技の第一線から身を引くなんてこと、考えなかったでしょうね…。でも、あたしは、あんたに出会ってしまったから。」
「俺に出会ったって?」
「うーん、上手く言えないんだけど、あんたに出会ってしまったことで、自分の格闘技の限界が見えちゃったっていうのかな…。いくら頑張っても、あんたには追いつけない。そう観念した時、あたしの選手人生は終わったのよ。」
 ゆっくりと歩みを進めながら、あかねは答えた。
「じゃあ、今回のことは?」
「今回のこと?」
「その…おまえ、子供が出来たってわかった時、俺のバックアップ含めて、全てから手を引いちまったろう?後悔してねえのか?」
 乱馬の言葉に、あかねの瞳がゆっくりと見開かれていく。
「そりゃねえ…全てから手を引くか否か、迷わなかったって言ったら嘘になるわ。
 でもね…。」
 あかねは顔を上げて言った。
「片手間にできる仕事じゃないじゃない。」
「俺のマネージメントが…か?」
「それもそうだけど、子育ての方よ。」
「でもよう、子育てしながら仕事をバリバリこなしているキャリアウーマンだってたくさん居るんだぜ。」
「確かに、世の中には職業を持った母親たちはたくさん居るわね。」
「だったら、この子を産んで落ち着いたら、また復帰することも…。」
 そう言い掛けた乱馬の口元を、右手で押さえた。
「あかね?」
 急に遮られて、驚きながら、あかねを見下ろす。
「あたしに二束のわらじなんて履けないことは、乱馬、あんたが一番知ってるんじゃないの?」
「……。」
 そう言われて、口をつぐむ。
「優秀なスタッフになれる人は、あたし以外にもたくさん居るわ。
 でもね…あんたの血を受けた子を育てられるのはあたし以外に居ないじゃない?
 いろいろ考え抜いたけど、あたしはあたしの成すべき事があるの。早乙女乱馬の妻、そしてその子を育てるって、一番大事な事がね。
 だから、あんたのアシスト含めて全てから身を引いたこと、未練がないわけじゃないけど、後悔はしてないのよ。」
 回答を聞き終えると、乱馬はふっと、軽い微笑みを浮かべた。
「そっか…。おめーが納得してるんなら…それで良いか。」
「あったりまえよ。乱馬、あなたは幸せ者よ。こんな良い奥さんが居て。」
 あかねがにっこり微笑んだ。
「自分で言うかあ?ったく…。」
 そう言いながら向き合い、互いに引き合う身体。

「あーあ…。たく、これだから、あんたたち二人を野放しにできないのよねえ…。あかねから引き継いだ、早乙女乱馬専属マネージャーとしては…。」

 背後から声。

「な、なびき…。」
「お姉ちゃん。」
 抱き寄せかけた手が、空を泳いでいる乱馬。もちろん、二人揃って顔は真っ赤だ。

「あんたさあ…自分の立場をもっと自覚しなさいよ、乱馬君。いつどこでどんなデバガメカメラが狙ってるかわかんないんだからあ…。秘め事は、せめてプライベートな建物の中でお願いするわね。」
 そう言いながら、振り返る背後。
 と、ギャラリーがずらっと道端に並んでいる。かすみ、それから早雲にのどか、そして、ジャイアントパンダもとい玄馬。

「何で…皆がここに集ってるの?」
 なびきに問うあかね。

「ほら、あんたたち、行きがけに東風先生の診療所前とおったんでしょ?先生が気を利かせて、かすみお姉ちゃんに提案したんだってさ。天道家に皆集合して…今夜は前祝よって買出しにでかけてたのよ。」
「前祝って何の?」
「決まってるでしょ!生まれてくるその子のね。東風先生も診察が終わったら来るってさ。一族郎党、賑やかにやるわよ!」
 とウインクして見せた。
「今日は飲むぞ!乱馬君!」
 早雲が持つ袋から、酒瓶がたくさん見え隠れしている。
『美酒!美酒!カモン!ベイビー!』
 玄馬はおどけて踊っている。

「たく…親父たちは…。」
「何にでも理由をつけて、宴会にしたがるんだから…。」
 ふっと溜息を同時に吐き出す、乱馬とあかね。顔を合わせて、にっこりと微笑んだ。

「ほら、早く来なさいよ!主役が居なきゃ、酒宴は始まらないんだから。」
 なびきに促されて、にぎやかに家路に就く。何事かと、道行く人が、振り返りながら、一行を見送る。
 その一番後ろを、乱馬とあかねが仲良くゆっくりと歩き始めた。

「皆、それぞれの道を歩いているとはいえ、家族は変わらないな…。」
「そうね…。離れていても再び集い来る…。それが家族っていうものなのよ、きっと…。」
「だな…。」
 互いに寄り添い、そっと触れる手を握り締めた。

 二人、見上げた空には夕焼け雲。








(2007年 4月 作品)

 題名「あれから」と読んでくださいませ。

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