スローラブ 12



最終話 格闘莫迦カップルに栄光あれ!



二十三、

「飛竜昇天破!」

 乱馬の雄叫びと同時に、どおっと風が螺旋の中心から吹き上がった。
 あかねの場所からも、見事な竜巻が吹き上がるのが、見えた。

 乱馬を相手に戦っていた西のチャンピオンの体が、ふわっと浮き上がる。飛竜昇天破の作り出す上昇気流に乗って、体ごと吹き飛んだ。
 脇に居た主審は、必死でリングの脇に立つ棒へとしがみ付いていた。吹き飛ばされないように、ひしと抱きついている。
 もちろん乱馬もある程度、力を加減したようで、リング上だけに竜巻が渦巻いていた。
 この場に居合せた殆どは、「飛竜昇天破」という技を見たのは初めてだった。ゆえに、目の前で何が起きているのか理解できない観客たちが、自失呆然と、闘いの行方を見守っていた。

「乱馬の莫迦っ!何やってんのよっ!学生大会の相手に、飛竜昇天破なんて大技!」

 威力的には、彼の放った技の中では、そう、強い方ではないが、それでも、対戦相手を吹き飛ばすには充分な出来栄えの昇天破であった。
 このままでは、挑戦者が竜巻に飛ばされ、床に叩きつけられるのは、時間の問題だろう。飛竜昇天破の作った竜巻に巻き込まれたことのあるあかねは、身を持って、その強靭さを体感している。息も出来ぬほどの竜巻風が、風の中を荒れ狂う大技なのだ。

 案の定、対戦者は竜巻の中、揉まれている。グルグルと回る渦巻きが、対戦者を包み込む。
 乱馬は、竜巻の中に舞う対戦者を、目で追うだけだった。手を差し伸べ、助け出そうとするでもなく、だた、ただ、じっと、上を見据えていた。
 何かを見届けるために、わざとそうしているようにも見えた。

 乱馬の放った飛竜昇天破の竜巻はなかなか衰えを見せない。対戦者は上空で舞い続けている。このままだと、竜巻の渦から弾き飛ばされて、地面へ激突するのは、時間の問題だ。大怪我だけでは済まされないかもしれない。結構、強い威力で、昇天破の放った竜巻が逆巻いていた。
 だが、その場に居た誰もが、試合の行く末を黙って見続けるしかできなかった。昇天破の渦を止める術がないのだ。

 だが、数十秒が過ぎた頃、それが起こった。
 竜巻の外へはじき出される前に、対戦者が動いたのだ。

「何?気?」
 あかねはハッとして、対戦者の異変を見た。
「あの人、こんな中で気弾を打つつもりなの?」
 対戦者は激しい渦巻きの中、己の気を一点へと集中させていたようだ。ピカッと対戦者の体が光り輝いたように見えた。
「え?」
 対戦者は足掻くあまり、苦し紛れに己の体内の気を一点に集め、解き放ったのである。彼は自ら、渦の中から飛び出していた。気で昇天破の気渦を逃れたのだ。そして、もう一発、逃れ際に、空(くう)へと気を放っていた。
 しゅるるるるっと音がして、対戦者は床の上にベタンと、強い尻餅をついた。この竜巻に投げ出されて、尻餅一つであれば、軽症だろう。対戦者が咄嗟に後ろ向きに放った気弾が、振り落とされていく力学エネルギーを少しばかり緩やかにしてくれたのである。丁度、落下にブレーキをかけるように、上手く作用したのだ。
 相手は、大きく尻餅をついてから、起き上がろうと身体を捩じらせる。だが、反撃もここまで。そう、対戦者は、今の気砲が最後の、なけなしの気力を振り絞っての砲弾だったのである。

「勝負、あったぜ!」
 
 乱馬が対戦者向けて、気弾を打つ構えで、待ち受けていた。
 飛竜昇天破を打った後でも余裕があった乱馬。昇天破を打ったと言っても、彼にしてみれば軽く打っただけなので、まだまだ、何発も気弾を打つ力は漲(みなぎ)っている。
 このまま試合が続行するならば、対戦者は、真正面から乱馬の気弾の餌食となるだろう。

「ま、参りました!」
 相手は、一呼吸置いて、負けを宣言した。
 気力を使い果たした身では、乱馬とさしで勝負どころか、逃げることも敵わない、そう観念したのである。
 この対戦者は、闇雲に向かっていかず、引き際も見事だった。

 乱馬は何を思ったか、尻餅をついたままの対戦者に、右手を差し伸べた。
「また、やろうぜ!おめえは、まだまだ強くなる。正直、同年代にこんなにたくさんの気弾を浴びせかけられるなんて、思っても居なかったぜ。」
 そう言いながら笑った。
「あ、ありがとうございます。今の技は?…あんな、竜巻の起こる技、初めて体験しました!凄い技やった。ほんまに凄かった!気技はただ砲弾を打つだけやのうて、あんな、風の技も作り出せるんですね。凄い!早乙女乱馬はんは、ほんまに物凄い!」
 相手は負けた悔しさよりも、乱馬の放った技への好奇心の方が打ち勝っている様子だった。
「公式試合では初めて打った技だ。飛竜昇天破。空へと竜が立ち昇る如く竜巻を起す技さ。」
「どうやったら、あんな技が打てますのん?」
「ははは、ライバルのおまえに教えるわけがねーだろ?」
「そやねえ…。ライバルに教えを請うやなんて、虫が良すぎますやんねえ…。」
「自分の頭や身体を使って、考えて考えて考え抜け。そうしたら、自ずと見えてくるんじゃねえのか?」
 二人とも笑った。愉しそうに笑った。
「今回は残念ながら負けてしもうた…でも、いつか…いつか、乱馬はん、あんたに追いついたる。そして、勝ったる!その首、洗うて、待っとってください!」
「ああ、待っててやる!俺の居る高みに上がって来い!だが、俺はそう簡単には負けねえぜ!」
 がっしと結ばれる手と手。力強く交わした握手だった。

 何処(いずこ)からか、拍手喝采が湧き起こる。
 観客たちは、勝者は勿論、健闘した敗者へも、惜しみない声援を送った。


(乱馬、嬉しそう…。)
 あかねは、リング上で輝く乱馬を、眩しく見上げた。
 乱馬にとって、新しい挑戦者の出現は、大きな意味を持つことが、あかね自身もわかっていた。格闘技は一人では強くはなれない。好敵手と呼べるライバルが多数居れば居るほど、勝負は面白くなるし、修行に気合が入るというものだ。
 無差別格闘技のほぼ先頭をひた走ろうとする乱馬。少し遅れて、後をつける、良牙。そして、今、新たなライバルが誕生したのだ。
 西のチャンピオン。まだ、気弾そのものは拙(つたな)い。だが、あかねですら、ここまで乱馬に食らいついていく同世代の人間が、良牙の他に居るとは思いもしなかった。

 あの西のチャンピオンは、もっともっと強くなる。乱馬に迫るほどに強くなる。
 そんな予感を秘めていた。

(技術的にはまだまだ未熟だけど、乱馬並みの修行をこなしていけば、いずれは、乱馬や良牙君と肩を並べるライバルになるわね…。)
 
 だからこそ、乱馬は、「飛竜昇天破」を打ってみせたのだろう。他の技でも、楽に勝てたろうに。わざわざ、手の内の一つを見せたのだ。
 無差別格闘技はどこまで発展していくのだろう。延々と続く道を、乱馬は胸を張り、先頭に立って突き進んでいる。後進を誘(いざな)うことも、忘れずに。

「良い闘いだったわねえ。」
「うん、凄かった。」
「感動ものよねえ…。早乙女選手の素晴らしい技を見られたわ!」
「やっぱ、早乙女選手って格好良いわあ。」
 あかねの近くに居た友人たちも、耐えることなく拍手を送った。
「ねえねえ、さっきの技、何て言ってたっけ?あかね。」
「飛竜昇天破よ。飛ぶ竜が天へ立ち昇るように竜巻を起す秘拳よ。」
「へええ…。新技なんだ。」
「新技じゃないわ。あいつ、五年前にはこの技を打っていたから…。」
 さらっと受け流したあかねの言葉に、チームメイトたちが食らいつく。
「五年前ですってえ?」
「五年前っていったら、まだ、高校生じゃないのぉ!」
「しかも、十六歳ってったら高一よ、高一!」
「ウッソー!信じらんない!そんな頃から、あんな猛烈な技、打ってたの?早乙女選手って。」
「ええ、まーね。それなり、会得するには、苦労していたけどねえ。」
 八宝斎にすえられた貧力脱力灸のせいで、力を根こそぎ奪われた乱馬の、足掻いた結果のような「飛竜昇天破」だ。女傑族のコロン婆さんに伝授された、温度差の魔拳。
「今のあいつが本気になって、あの技を打ったら、こんな、会場の屋根なんか、吹っ飛んじゃうわよ。多分。」
「ってことは、加減してたの?あれで…。」
「十分の一も威力が出ていないと思うわ…じゃないと、試合出場停止処分食らってたかもね。下手したら、相手だけじゃなく、観客にまで怪我人が出て、格闘界から永久追放になってたかもね。」
「すっごーい!」
「そんな、凄い技の一端を、あたしたちは見ることができたんだ!」
 チームメイトたちがあかねの言を受けて、興奮し始める。

「あかねってば、やっぱり、早乙女選手にとっては特別な相手なんじゃないのぉ?」
「そうよねえ。」
「そんな大技の存在を、ずっと前から知ってるんですもの。」
 また、じっと注がれる視線。
「馬鹿なこと言わないで!」
「だってさあ…。高校生の頃から、早乙女選手を傍で見てたんでしょう?」
「やっぱ、ここは追求しなきゃねえ。」
「だからあ、あたしと乱馬はあっ!」
 そう叫んだところで、すぐさま、傍らで人の気配が立った。

「あかねっ!」

 名前を口にする人影。
 ハッとなって顔を上げると、そいつがすぐ傍で笑っていた。

「こら!あかね!」

「え?あれ?ら、乱馬?な。何?」
 突然、横に立った乱馬。気配を消していたわけではなかろうが、リングから真っ直ぐにここへ飛んで来たようだ。

「もう…おめーは!何じゃねーだろ?聴こえなかったのかよ!表彰式が始まるってアナウンスがよ!おめえ、呼ばれたじゃねえか!何、ぐずぐずしてるんだよ!」

「ひょ、表彰式?」
 キョトンと見上げるあかねに、乱馬は苦笑いして言った。
「おめーなあ…。一応、女子部の全国の覇者だろうが!しっかりしろよ!」
 そう言うと、あかねの手を取った。
「来い!ほらっ!」
「え、えええ?」
「そら、胸張れっ!おめー初優勝だろ?」
「わ、わかってるわよ!指図しないで!」

 ぐいぐいと引き寄せられて、あれよあれよという間に、リングの上へ。乱馬と手がつながれたまま、あがっていた。

 ヒューヒューと、回りでチームメイトや観客たちが冷やかす声が、そちこちから湧きあがる。中には女子の悲鳴も上がったくらいだ。

「ちょっと、乱馬っ!乱馬ったらあっ!」
 ぐいぐいと引っ張られながら、あかねは彼を咎めた。
 幾らなんでも、この状況はないだろう。
 好奇心の瞳が、一斉に、この若いカップルの下へと集中する。
 人垣は二人を迎え、さあっと道をあける。花道が真っ直ぐと、リング上に延びているような感じだ。
 リングの上に捧げられた校旗。大きなメダルの授与式が、執り行われた。
 会場は湧きあがり、男女二人の覇者を、暖かく迎え入れる。

「さてと…。」
 表彰式が終わると、いきなり、乱馬があかねを見やった。
「行くか!」
 乱馬が声をかけながら、あかねの手を引っ張った。
「行くってどこへ?」
「決まってるだろ?逃げる!」
「に、逃げる?」
「ほれ、行くぜっ!早乙女流究極奥義、敵前大逃亡!」

 乱馬はにっと笑いを残すと、一目散、あかねを引っ張ったまま、壇上から逃げ出した。

「ちょっと、乱馬っ!乱馬ったら!」
 すぐ後ろで引っ張られながら、あかねが問いかける。
「ほれ!真剣に逃げろっ!マスメディアの連中に捕まったら、しつけーぞ!」

 わあっと押し寄せてくる人垣を軽く飛び越え、交わしながら、乱馬はあかねと共に逃避行を決め込んだ。

 逃げる、逃げる、逃げる。

 とにかく逃げる、一目散に。後も振り返らずだ。
「ほら、どけよ!じゃねえと、この拳で気弾をぶちかますぜ!」
 などと、笑いながら逃げていく。さすがに、彼の気弾の餌食にはなるつもりは誰もあるまい。さああっと花道のように、人垣が避ける。その間を縫って、乱馬とあかねは駆けた。
 後を追いすがろうとする人々も居たが、乱馬とあかねの逃避行を阻止することはできなかった。
 

「一体、全体、何なのよ!」
 まだ、心臓はバクバクと言っている。脈打つ鼓動は、収まる気配はない。無理もない。綾小路茉里菜戦で持てる殆どの気力を使い果たしていたのだから、ここまで逃げ遂せただけでも、奇跡に近いだろう。
「はああ…。気持ちよかったぜっ!」
 一人悦に入っている乱馬。
 二人とも、道着のまま逃げ出してきた。荷物も何もおっぽり出して。
 そろそろ、夕刻。辺りは梅雨という季節に似合わないほどの夕焼けに、二人の頬は赤く染まる。
 気がつくと、河べりへやって来ていた。無我夢中で、乱馬に引っ張られて来たので、どのくらい走ったかはわからない。が、大きな川原に出ていた。地理の位置的に見て「荒川」の河川敷だろう。河にかかる幹線道路や鉄道の架橋が夕闇に染まっている。
 町中と違って、道着で河川敷に居ても、周りの景色に馴染む。どこかの武道好きが河べりをロードワークしてきた、そんな風に見えるだろう。

「一回、目の前で出し抜いてやりてえと思ってたんだ…。マスコミの連中。」
 そう言いながら、笑った乱馬。さすがに、彼も疲れたのか、どっかと河べりに腰を下ろす。仰向けになって、寝そべりながら、乱馬は空を見上げている。
「出し抜くって何よ…。」
「たく、あいつらときたら、勝手にインタビュー取って、で、主観交えて勝手に解説くっつけて新聞だの雑誌だの記事にして発表するんだぜ。頭来るじゃん!だったら、一切、無視して走り去るってのを、一回やってみたかったんだ。」
「だからって…あたしまで巻き添えにすることは無かったんじゃないの。」
 とっくに息が収まっている乱馬と違い、あかねの肩はまだ、上下している。恨めしそうに、先に草原に寝そべっている乱馬を見下ろした。
「あのまんまおめえだけをおっぽり出していたら、何、書かれるかわかったもんじゃねーぞ!マスメディアってのは、好意だけじゃなくって、悪意も書きたてる。おめーだって、読んだろう?茉里菜のことを煽った記事とかさあ…。」
「でも、逃げたところで何も解決しないんじゃないの?明日のスポーツ紙のコメントが恐いわ…。あたし。」
「まーな。でかでかと「早乙女乱馬と天道あかね、会場から愛の逃避行」とか書かれるかもな。」
 そう言いながら、げらげらと笑った。
「笑い事じゃない!」
 少し膨れっ面をしてみたが、乱馬は面白がっている。
「いいじゃん!別に。こうして、二人一緒に居れば、互いの状況はわかってんだしよ!」
「こうやって、二人して河原に居る身の上?」
「そういうこと!誰が何書いたって、この場のことは書きようないし。俺とおまえの秘め事だ。」
「そりゃあ、まあ、そうだけど…。」
「憶測だけでマスコミは勝手に思い込んで記事にするからなあ…。やっぱ、まずったかな?」
 屈託の無い乱馬の笑顔に、拍子抜けしつつ、あかねも隣に腰を下ろした。
「あーあ、どんな形容詞が明日のスポーツ紙各誌に踊るか、怖い気もするけど…。逃げちゃったもんは仕方ないじゃない。」
「諦めついたか?」
 あかねの言葉を受けるように、乱馬が、また、笑った。
「つけなきゃ、前に進まないでしょうが!莫迦!」
 怒鳴ったものの、あかねもつい、くすっと噴出してしまった。

 風がすうっと二人の間を通り過ぎていく。
 河の向こう側の街並みに、夕陽がゆっくりと沈みかかる。夏至近くの太陽の日没だ。乱馬は、ゆっくりと上体を引き起こし、あかねと並んで座った。

「また、マスコミのバカが勝手にいろいろ詮索して書くかもしれねーからな。だから…俺の口でおまえに言っておきたいことがあったんだ…。」
 さっきまでヘラヘラと笑っていた乱馬が、急に真顔になった。
「この前みてーに、勝手に解釈されて、突っ走られちゃあ、困るしな…。」
「この前みたいにって、何よ。」
「たく!おめー、太郎さんちにわざわざ乗り込んで来たじゃねーか!俺が男作って逃げたと勘違いして…。」
 うりうりと鼻先を指で押された。
「あれは…。あんたが黙って姿消したからじゃないの!事情がわかってたら、あたしだって…。」
「ま、茉里菜の暴走もあったしな…。あの時は、黙って逃げ出すのが、最善だと俺は信じてたわけだから。」
「身勝手ねえ…。」
「男なんざ、身勝手、気ままに生きてくものさ。」
「半分、女のクセに。」
「あー!それは言いっこなしだぜ!まだ変身体質は治っちゃいねーが、俺は男だ。」
 他愛のない会話が、二人の上を流れていく。
「で?何?改めて、あたしに言っておきたいことって。」
「俺…。」
 一呼吸置いて、言葉をゆっくりと噛みしめながら話しかける。
「大学を辞めようと思うんだ。」
 そら来た。とあかねは思った。
 乱馬がこんなところまで、必死で逃げて来るのには、何か理由(ワケ)がある。そう、睨むのが普通だろう。だてに長い間、彼と許婚をやっていた訳ではない。
「大学、辞めてどうするの?」
 と、あっさりと突っ込んだ。彼の真意はこの先にあると、思ったからだ。
「これさ…。」
 そう言いながら、懐から出したもの。それは、世界選手権のエントリー案内書だった。すっとそれを、あかねに手渡す。
「これって…。」
「ああ。俺の戦いの場は、もう、大学や日本にはない…。ってことになるかな。」
「いよいよ、始動するわけだ…。世界に向けて…。」
 乱馬は夕暮れかけた川向こうの街を眺めながら言った。折り重なる人家やビルの遥か向こう側に、小さく富士山が見える。
「ずっと考えてた。大学という場所へ身を置いた時から、今まで。」
「あと、一年半も我慢すれば、大学からは開放されるのに?」
「その一年半の時間だって惜しいさ。そら。」
 そう言いながら、おもむろに出してきた英文紙の切り抜き。
「これは…。」
 その記事にあった写真に目が釘付けられる。そこには、見たことのある若者の勇士が映し出されていた。
「ムース…。」
「ああ、ムースだ。あいつ、中国へ帰ったと思いきや、無差別格闘技のプロ選手として登録してアメリカ大陸で活躍しているらしい…。それに、世界を股にかけているのは、あいつだけじゃないぜ。」
 そう言いながら別の切れ端を出す。
「これは…確か…。偽乱馬事件の…。」
「ああ、公紋竜だ。こいつもこの世界で身を立てようと思い立ったようだな。」
 既に先に世界へ出た、同世代のライバルたちの雄姿に、乱馬が静かに答えた。
「そっか…。格闘技の果てしない世界が、あんたを待ってるのね。」
「ああ。どのスポーツにも言えることだが、現役選手としての寿命は短い。肉体には「年齢的限界」ってのが必ず来るからな。それに、ようやく、俺も世界大会のエントリーが出来る年令になった。
 どの年令になっても、大学で学問をしたくなれば、戻ることはできるが、格闘技には年齢的制約がある。だから…思い切って、飛び出そうと決めたんだ。」
 乱馬の瞳は、常に強く己の行く道を見据えている。あかねは、そんな乱馬が、少し羨ましくなった。
「反対はしない…っていうか、あたしにその権限はないもの。乱馬の人生は乱馬が決めることだから。」
 つぶらな瞳で彼を見上げる。
「おめえはどうする?俺と一緒に…その…。世界へ行く気は…。」
「無いわ。」
 乱馬の問いを押しのけて、あかねはいとも簡単に答えた。

 予想外のあかねの即答に、かえって乱馬の方が驚いたようだ。
 あたしも行く、という回答を期待していたようだ。
 そんな乱馬を見て、あかねがゆっくりと、己の考えを述べ始める。
「あたしは…。現状維持のまま、行こうと思うわ。大学にも復学して…。これから先、あたしに必要なものを学ぼうと思うの。」
 あかねはゆっくりと、言葉を張り巡らせる。
「今回の大会のための、気技修行の中で思い知ったのよ。プロ選手として、無差別格闘の第一線に立つ、あたしの進むべき道は、そっちには無いってね…。」
「そっか?おめえは十分、世界に出る実力を、身につけていると思うけど…。」
 乱馬がそう、口を挟みかけたのを、あかねは制しながら続ける。
「ううん。上手く説明できないけど…、格闘選手として、己の限界が見えちゃったのよ。あたしは、これ以上高みには行けないわ。ここが頂点ね、残念だけど。」

 ざわざわとくさむらを掻き分けて、二人の間を風が吹き抜けていく。
 あかねの紡ぎ出す言葉を、乱馬は押し黙って耳を傾け始めていた。

「あたし、わかったの。いくら求めても、あたしの才能程度じゃあ、あんたと肩を並べて無差別格闘技の高みを極めることは難しいってね。悔しいけれど、あんたとあたしじゃあ、もう、かなりの差が開いてしまったわ。もう、追いつけないくらいにね。
 だったら、いっそうのこと、別の道を歩むのも良いんじゃないかって…。そう思ったのよ。」
「別の道?」
 少し躊躇しながら、乱馬はあかねへと問いかける。格闘技を捨て去るとでも言うのだろうか。と心配になったのだ。
「ええ、実戦とは別の道よ。」
「実戦とは別の道?」
「今までは釈迦力になって、実戦の強さだけを求めていたから、見えていなかったんだけれど…。トップを行こうとする選手には、支える人間も必要不可欠だっていうことにやっと気づいたのよ。
 無論、格闘技の実戦に未練がないわけじゃない。でもね、これ以上、あたしが頑張ったところで、お嬢様芸の域を脱せそうにないわ。だったら、いっそのこと、第一線から身を引いて、別の道を行くのも、良いかなあって…。」
「そっか…。俺と一緒に、世界へ行く気はねえか…。」
 乱馬は大きくため息を吐き出した。どこか、寂しげな表情が、夕焼けに浮かび上がる。その顔を見つめて、あかねが、気炎を吐いた。
「何、たそがれてるのよ!あんたらしくない!」
 そう言って、バシッと乱馬の丸まりかけた背中を叩いた。
「痛っ!何すんだよ!」
 乱馬が吐きつけた。
「あのね…。だからって無差別格闘技の世界から離れる気は毛頭ないわよ!実戦を積んだ者にしかわからない事柄はあるから。それに…実戦の道は外れたからって、あんたと一緒に歩めない訳じゃないでしょう?
 あたし、決めたんだ。大学へ復学して、栄養学やマネージメントをきっちり基礎から学びなおすの。格闘技にまい進する、あんたを近くでちゃんと支えるためにね。」
「俺を支えるって…。じゃあ…。」
 沈みかけていた乱馬の顔が、再び輝きを取り戻す。あかねが言おうとしていた意味が、やっと乱馬の心に届いたようだ。
「あんたの夢はあたしの夢でもあるってことよ。格闘家として一緒に居るんじゃなくって、後ろから支えるパートナーとして、あんたについて行くわ…。それとも、それじゃあ駄目かしら?」
「駄目な訳ねーだろ。莫迦。」
「莫迦は余計よ…。」

 乱馬に、ぐいっと、手を引き寄せられて、あかねの時が止まった。
 柔らかな唇が触れる。
 胸元で、大会の優勝メダルが、互いの胸の前で、ゆらゆらと揺れた。重なる二つの影も、水面に揺れる。

 街の喧騒が、耳の遠くへ追いやられていくような気がした。
 

 ふうっと、ゆっくり息を吐き出して、見開かれていく乱馬の瞳に、はにかんだあかねの笑顔が夕日に映えて浮かんだ。
 再び、微笑みかけながら、あかねを、すっぽりと両手で包み込む。
 夕闇の中に浮かび上がる、道着姿の二人を、誰も見とがめることなく、通り過ぎていく。
 
 街の灯火が、静かに、太陽の残照の中に輝きを増し始めた。



二十四

「本当に良いんだね?」
 念を押されるように、目の前の学部長に言われた。
「ええ。いろいろ自分なりに考えて導き出した結論です。」
 乱馬は臆することなく、まっすぐにその瞳を返した。
「そうか…。本学としては、君を手放したくはないのだが…。」
「ご期待に添えなくてすいません。でも、この学園で培った二年半は決して無駄ではなかったと思っています。在学した証はしっかりと俺の中に息づいていますから。」
 乱馬は誇らしげに笑った。
「ならば、これ以上、何も君に言うべきことはあるまい。学長には、私の方からよしなに言っておくよ。」
「お気遣いさせてしまってすいません。」
「その代わり、世界の頂点へ立ってくれたまえよ。チャンピオンになってくれたまえ!」
「もちろん、そのつもりです。」

 本格的に夏を迎えた頃、乱馬は、退学届けを出した。
 世界大会の予選へ旅立つ前のことだった。
 父や母はもはや、何も言わなかった。いわんや、早雲も、乱馬の決めたことに、反論しなかった。プロ格闘技の世界が大変なことは、誰もが百も承知のことだったからだ。マスコミもこの格闘界の逸材の世界進出を、こぞって歓迎するだろう。

 あかねは、あの後、休学していた大学に復学を果たした。
 抜けた数か月分を取り返すのは、大変で留年も覚悟せねばならないだろうが、どうということはなかった。己の中に、格闘家早乙女乱馬を支えるという、はっきりとした「目標」ができたからだ。
 栄養学や体の機能学、ケアなど、スポーツ選手のマネージメントやケアに関する全てを、己の血肉とするために学びたいと、かえって貪欲に向学心が燃え盛っている。

「あかね、変わったね。」
「さては、マスコミが書きたてたことは本当だったな?」
 と、湯気がたつ珈琲をすすりながら、ゆかとさゆりが笑った。

 当然のことながら、あの試合の顛末を、マスコミが書かないわけがない。実力人気共に若手格闘界の雄「早乙女乱馬」と、彗星のごとく現れ女流学生チャンピオンを剥ぎ取っていった「天道あかね」。この二人の同門の学生大会での一部始終を、面白おかしく書き煽られたのである。
 どこからともなく「許婚」の件も漏れたようで、そちらも面白おかしく突っ込んでくるマスメディアもあった。
 相変わらず、天道家の周りを記者たちが取り巻いているが、あかねは最早、気にすら留めていなかった。
 乱馬は退学すると、とっとと、荷物をまとめて、世界大会遠征を兼ねた、修行に出かけてしまったし、今頃は、世界大会の予選に向けて、激しい修行をしていることだろう。今度彼が帰宅するまでに、少しでも、必要な学問を学ぶ。それが、己に課された課題だと、精進する日々が続いていた。
 苦手な料理も、のどかやかすみの手ほどきを受けて、自分なりに最大限努力して頑張っている。時々、変な物を作って、家族たちを辟易とさせることもあったが、だんだんに、まともなレベルに近づいていると思った。今度、彼が帰って来たら、文句なく食べさせてみせる。そんな気概も持っている。


「で?乱馬君とは、結婚はいつするの?」
「いくらなんでも、そこまではまだ。…決まってないわよ。」
 カタンと珈琲カップを受け皿に置きながらあかねが答えた。
「スポーツ誌には、年内にでもって感じで書きたてられてたけど?」
「マスコミは事実を全て暴いているとは限らないわよ。それに、乱馬もあたしも、まだ修行中の身なの。結婚なんて、ずーっとずーっと、先の話よ。残念ながらね。」
 やれやれとため息を漏らしながら、旧友たちの好奇心を、巧妙にかわしていく。
「でも、いずれは結婚するつもりなんでしょ?」
「まあね。」
「あー、否定しなかったな。」
「っていうか、肯定したあ!」
「それだけでも、進歩ね。あんたたち。」
「あたしたちの突っ込みもすんなりとかわせる余裕も持てるようになったみたいだし。」
「ここまで来るのに、出会ってから、五年もかかっているものねえ…。」
「ほんと、呆れるくらい、スローカップルなんだから。」
 ゆかもさゆりも、笑いながら、あかねを見た。
「何よ、そのスローカップルって!」
 あかねがぷくっと膨れた。
「文字通りよ。キスだって、やっと、まともに交わせるようになったみたいだし…。」
「おっ!やっと、キスできるようになったんだ。進歩したわねえ。」
「う、うるさいわねえ!」
 その問いかけに、つい、顔が真っ赤に熟れてしまう。
「ホント、奥手が二人揃うと、亀の歩みよりものろいんだから。」
「その様子じゃあ、契りを交わすまで、あと、五年はかかりそうねえ…。」
「いや、案外、早いかもよー。一気にベッドサイドの寝技まで持って行くとかさあ。」
「そこのところどうなの?天道あかねさん。」

「んっ、もう、うるっさい!」

 そんなあかねを見て、ケラケラと旧友たちは屈託無く笑った。

「でも、こんな目まぐるしい速さで動く時代だからこそ、あんたたちみたいにゆっくりとした愛を描いていくカップルって、希少なのかもね。」
 ポツンとゆかが言った。
「それだけ、互いが、時間をかけて解きほぐせる無二の存在なのね…。」
「ある意味、大恋愛よ。」

「互いに、物凄く、不器用で優柔不断なだけよ。」
 遮るように言ったあかねの言葉に、友人たちは、再び湧き上がる。

「きゃあ、言うんだあ!」
「この先、五年後、十年後、あんたたちがどうなってるか…。楽しみだわ。」
「変わってないような気もするわねえ。その調子じゃあ、まーだ、プラトニックラブ、貫いてたりして。」
「そうあってほしいなあ…なんて期待もしちゃうわよねえ。」
「いつまでも純愛貫いていって欲しいって願えるような、二人だからねえ、あんたたちって。」
 ゆかとさゆりが、互いに顔を見合わせて笑った。

「もう!他人事だと思って!」

 その笑いの輪の中に、あかねの笑顔も加わった。

「いよいよ、来週から始まるわね。」
「無差別格闘世界選手権の予選大会。」
 さゆりとゆかは、週刊誌を広げて見せる。そこには名だる世界の強豪たちの写真が紹介されていた。その中に、乱馬の雄姿もある。
「予選から勝ち上がらないといけないのね。乱馬君も大変ねえ…。」
「日本じゃあ有名でも、世界じゃ、まだ無名選手だもの、仕方がないわ。」
 あかねがそれを受けて、言った。
「でも、きっと、彼は羽ばたくわ。大きく…ね。」

『俺がこの大会から帰って来たら、一緒になろう。』
 別れ際に乱馬が言い残した言葉が、脳裏に鳴り響く。

 窓越しに見上げる空には真夏の太陽が煌々と照り輝く。
 東京の摩天楼を突き抜けて、青い空がどこまでも、透き通るように続いていた。



 完





(2007年 4月 完結作品)
 最終話をどう引っ張るべきか、一番悩みました。最終話を書き上げるのに半年以上かかりました。テーマは二人の成長と決めていたのですが、なかなか、しっくりくるラストが思い浮かばなくて…。結局、無難な結末で書き終えました。
 この作品の二人は、私のどの作品よりも優柔不断でそれでいて純情なのでありました。私が書き出した乱馬とあかねの世界の中では、原作の優柔不断さに一番近いような気もします。
 でも、ゆっくりとした愛とはいえ、この作品の二人は、やっぱり、大恋愛をしているのだと思います。
 二人に幸あれ…ということで、番外編として、この作品の二人の五年後の世界も書いてみました。よろしければどうぞ!




 拙作に、2003年に書いた「蜜月浪漫」という作品があります(特別室・20万HITS御礼作品)。実は、「蜜月浪漫」で描ききれなかった「乱馬のあかねへの心情」を前面に出したくて、組みなおして考えた作品でもあります。
 五年後の世界というリクエストで考えたとき、二十一歳の二人がどう時を過ごしているのか…。かなり悩みました。
 「スローラブ」を書いていた時、ちょうど息子がそれくらいの年頃でしたので、彼を見ながら、妄想しました。二十一歳。そんなに大人でもないし、かといって、将来をそろそろ真剣に考え始めている…。お互い愛し合っていても、どこか青臭さが漂っている…。
 私の二十一歳は、大学でのサークル活動にのめりこんでいました。企業の就職協定が一応確立していた私の時代とは違って、今の大学生は丁度、就職活動の年代にもなりますね。(三回生就活)
 あかねちゃんは「仕事」と」家庭」の二足の草鞋は履けない性質の女性だろうと基本、私は思っています。ということは、どこかで、第一線を退く決意をすることになるだろうと。その決意は、だいたい、こんなエピソードを通して考えていくのではないか…。というのがこの作品の底辺に流れています。
 とにかく、あかねちゃんはたくさん悩んでいるんですよね…。「蜜月浪漫」も「スローラブ」も…。芯が強い娘ではありますが、かなりナイーブな一面も持っていると思います。
 乱馬サイドから見れば、乱馬と良牙のやりとりがある部分が、一番書きたかった部分でもあります。
 短時間で書き流した「蜜月浪漫」と異なって、この「スローラブ」は、何度も止まって、詰まって、試行錯誤で仕上げました。

 ほぼ、同じ根っこを妄想源としておりますので、「蜜月浪漫」と読み比べてみてくださるのも面白いかも…。

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