スローラブ 10



第十話 生みの苦しみ



十九、

 水無月とは「水が無い月」ではなく「水の月」という意味である如く、六月の空は、水をいっぱい含んでいる。が、この雨の季節が去ると、灼熱の太陽が待っている。

 無差別格闘学生選手権全国大会。
 そう銘打たれた武道体育館に、ぞろぞろと人が集り始める。水を含んだ大気の中、色とりどりに開いた傘が舞う。

「逃げずに戦いの場までいらっしゃいましたのね。」
 控え室で綾小路茉里菜に声をかけられた。
「当たり前よ!どっちが強いか、目に物見せてあげるわ!」
 あかねは勝気な言葉を投げ返していた。
「乱馬様の前で、あなたを沈めてあげますわ!きょーっほっほっほのほ!」
「やれるものなら、やってみなさいよ!受けて立つわ!」
 既に、女の闘いは始まっている。
 
「ちょっと…。あかね、大丈夫?」
「茉里菜さん、早乙女乱馬と共に、激しい修行をこなしてきたって、前評判高いわよ。」
 あかねの応援に駆けつけた友人たちが、心配そうにあかねを見た。
「大丈夫よ。任せておいて!」
 あかねはドンと道着を着込んだ胸を叩いた。

 綾小路茉里菜が早乙女乱馬と修行していた…などというのは詭弁だ。あかねには、事実がわかっていた。乱馬の所在をつかめない大学と茉里菜サイドが、対マスコミ用に流した流言であることは、明確だった。

 あれからあかねと乱馬は、朝まで森の中で組み合っていた。
 足元がおぼつかぬ暗闇だったので、決して激しい組み合いなどしなかったが、それでも、乱馬の叱咤の声は、森中に響き渡っていた。
 乱馬が最後の仕上げにあかねに伝授してくれた奥義。それが、胸の中に闘気と共に燃えている。あの夜の森で、確かに、彼の心を受け取った。
(乱馬と一緒に修行したのは、綾小路茉里菜じゃなくて、あたしなのよ…。だから、負けるわけにはいかないの!)
 あかねは腹の中で言い返していた。乱馬が変身体質であることを知らない茉里菜には、最後まで乱馬の所在がわからなかったようだ。

 今大会は、全国を八つのブロックに分け、それぞれの地区大会の優勝者と準優勝者がトーナメントに参加する権利を取る。九州地区、中四国地区、近畿北陸地区、中部上信越地区、関東地区、東北地区、そして北海道地区からより抜かれた男女それぞれ十六人がトーナメント戦で闘う。午前中は複数のリングで準々決勝までの十二試合が、そして、午後は準決勝と決勝が男女それぞれで営まれる。
 いわば、学生格闘技フェスティバルといったお祭騒ぎ的な感が強い。武道館いっぱいに、それぞれエントリーした学生の所属チームメイトやら応援団が陣取って、一種独特な華やかな雰囲気もかもしだしている。
 昨今、注目され始めた早乙女乱馬が所属する「無差別格闘技の学生試合」ということで、マスコミも大勢身構えているし、CSの格闘チャンネルでは、彼の試合全てをつぶさに生中継放映されるという。
 観客席は一般も含めて、大入り満員。じかに早乙女乱馬を見られるチャンスだというので、ミーハーファンがたくさん騒いでいる。

「やっぱ、早乙女選手って、カリスマ的人気があるわね。」
「早乙女乱馬ファンの少女たちを、もじって乱マニアなんて呼ぶのよ、知ってる?」
 あかねの傍でチームメイトが目をクリンと巡らせながら、吐き出した。
「あんな奴の、何処が良いんだか…。」
 あかねはいつもの調子で、軽くいなした。が、決して悪い気はしなかった。むしろ、乱馬人気が物珍しい目で、かしましいファンや生写真を売る露天商などを眺めていた。
 恐らく、姉のなびき辺りが、後ろ側で糸を引いているのだろう。
 あちこちの露店で、乱馬の顔写真入りのウチワやTシャツまでが売られているのには、正直驚いた。
「あんな奴呼ばわりできるほど、やっぱり、あかねって早乙女選手と親しいの?」
「タメで話せるって言ってたわね。」
「いいなあ…。今度、彼を紹介してよ。」
「紹介できるくらい、カッコ良くはないわよ、実際は!」
 と軽くいなした。
 群がる好奇心満々のチームメイトたち。あかねが乱馬の許婚である事実は、当然の如く知られていない。知られたら、無事ではいられないかもしれない。

「よっ!調子はどうだ?」
 あかねの正面から一人の少女がにっと笑いながら声をかけてきた。
 あかねよりも、少し低めの背、だが、豊満な体。赤いチャイナ服が眩い。
「乱馬…。」
 そう言いかけて言葉を飲み込む。周りに、ぞろぞろとチームメイトたちが居たからだ。
「誰?」
「知り合いの子?」
 怪訝な顔で、チームメイトたちが言い寄る。勿論、彼女が乱馬の変身後の姿だということは、誰一人として知る由も無い。
「ええ…、前の学校のクラスメイトよ。」
 とあかねはお茶を濁した。別に、それはそれでウソではないからだ。

「その分だと、いろいろ、吹っ切れたみてえだな。」
 意味深な言葉を、乱馬はあかねにかける。
「まあね…。おかげで何とかなりそうよ。ありがとう。」
 とあかねはにっこりと微笑みながら答えた。
「そいつは良かった…。とにかく、頑張れよ!」
「ウン、この前みたいな不様(ぶざま)な試合はしないから…。大丈夫よ!」
 あかねはガッツポーズを取って見せた。
 何より、乱馬が気を回して、己のところへわざわざ変身してまで、声をかけに来てくれたことが、嬉しかったのである。
「あんたも、がんばんなさいよ!」
「おう!任せとけ!」
 そう言葉を交わすと、乱馬はあっちへ行ってしまった。

「もしかして、どっかの地区の選手か何か?」
「え?あ…。ち、違うわよ!」
 あかねは慌てて否定に走る。
「彼は別のスポーツ選手なの。」
「彼?」
「あ、いえ、彼女だったわねえ…。あはははは。」
「変な、あかね…。」
 試合の前の緊張感が少し良い方向へ緩んだような気がした。
 前回の関東大会で感じた、気負いは、あかねの心からは消えていた。 
 もう、迷いも悩みもない。
 あるのは、静かなる闘志のみ。

(ありがとう、乱馬。)
 人垣を避けながら立ち去っていく、女乱馬の後姿を見ながら、そう囁いた。

 城海大学サイドから見ると、乱馬は試合会場に唐突に姿を現したことになる。
 長い間、所在がつかめず、どこへ雲隠れしたのか。様々な憶測が、彼の大学関係者の間では囁かれていた。その、有望株が、「綾小路家の秘密合宿所にて、綾小路茉里菜を特訓していた。」というガセ情報だった。たとえそれがガセでも、茉里菜サイドが直々流せば、真実味を帯びる。茉里菜側も、情報を勝手に作り出してリークした手前、会場入りする前に乱馬を捕まえて、「さもありなん」と言わんばかりの演出をしようと、今や遅しと包囲網を作って、乱馬の登場を待ち構えていた節がある。
 だが、予め、茉里菜側の出方を予測していた乱馬は、完全にその裏をかいた。
 誰に気付かれる事無く、女に変身して会場入りし、あかねに声をかけた後、湯を浴びて男に戻ったのである。包囲網を鉄壁にして乱馬の登場を待っていた茉里菜すら、控え室に入るまで、彼の気配すら感じ取る事ができなかったのである。

 茉里菜があかねの強力なライバルであることだけは確かだった。

 開会式が終わり、試合が始まった。

 午前中に行われた予選を順当に勝ちあがり、午後に入った準決勝でも、あかねは、危なげなく、相手を引き倒した。力技に定評があるあかねらしく、己よりも体格の良い選手を、何人も投げ飛ばし、リングへ沈めた。
 地味に勝ち進んだ。乱馬に止められていたせいもあるが、決勝戦まで、気砲を使わずに駒を進めた。まだ、不慣れなせいで、多大な体内エネルギーを消耗する「気砲」を、対綾小路茉里菜戦に有効に活用させるべく、使わずに拳と蹴りだけで勝ち上がったのだ。
 一方、茉里菜は対照的な闘い方をした。激しい気弾を片手に、対戦相手をコテンパンにのし上げていく。気弾を余すところ無く打ちまくって、ど派手にパフォーマンスをして勝ち上がってくる、綾小路茉里菜。そんな茉里菜に観客は飽かぬ拍手を送る。彼女が気弾を打つ度に、大観衆が奇声を上げた。
 茉里菜は、始めから、全開。そんな戦いぶりだった。勝ちをあげるごとに、あの強烈な巨峰笑いを高らかに雄叫ぶ。
 
「かつて、これほどまでに絢爛かつ派手な気弾を打った女子選手は居たでしょうか?」
「さすがに、早乙女乱馬選手が伝授したと噂されるだけのことはあります!」
「素晴らしいですねえ!女子選手とは到底思えない、見事な気技の数々です!」
 と熱闘を放送する、マスメディアのアナウンサーたちは、こぞって茉里菜の新気技を褒めちぎった。

 ただ、一人、茉里菜の戦いぶりを見ながら、険しい顔をしている者が居た。
「やっぱり変だ…。あの気弾…。気の流れが全く感じられねえ…。」
 傍らで腕組みしながら、苦虫を潰すように、茉里菜を眺めている青年、早乙女乱馬だ。
「まさか…。茉里菜(あいつ)…。もっとも、あいつなら、やりかねねーか…。」
 彼は彼で、嫌な予感がしていたが、それに対する確証はない。また、己の試合も間近に迫り、それを確認する暇も無かった。
「よう、乱馬…。」
 背後から、肩を叩かれた。
「今回は遅刻せずに、現われやがったか…。生憎、おめえとは試合できねーがな。」
 微動だにしないで、そいつに返答を送る。
「ちぇっ!前回欠席したのが、残念だったぜ!おめえと、やりあえねえなんてな。まあ、首洗って待っとけ!この次は、おめえの連戦連勝をこの響良牙が止めてやるぜ!」
 仲が良いのやら悪いのやら。相変わらずのライバル二人だった。
 今回、関東大会は、見事に迷い、良牙は乱馬と闘うことができずに、不戦敗で終わっていた。従って、良牙にこの大会の出場権は無い。
「ま、おめえの敵は、この場には居ねえだろうから、安心はしてるけど、油断せずに、せいぜい頑張れや!」
「たく、必要のあるときは遅刻して不戦敗食らうクセによう、己の出番が無い時は、きっちり現われるかあ?おめえらしいな、良牙。」
「うるせー!俺はあかねさんの試合を見届けるために来たんだ!」
 と、良牙は怒ったような顔を乱馬に差し向けた。
「あかねの試合ねえ…。んじゃ、特等席に案内してやらあ。」
 乱馬は良牙の腕を引いて、こっちへ来いと誘った。
 
 いよいよ、女子決勝戦が始まろうとしている。

 興奮で湧き立つ会場の片隅、リングが程よく見える辺りに、乱馬と良牙は陣取った。ここは、観客席と武舞台との間に設けられた、立ち入り禁止区間の一角だった。気技を使っても良いというルール上、際まで観客が入ることはない。ここへ立ち入れるのは、審判などのごく限られた関係者だけだ。乱馬はそこへ良牙を誘(いざな)った。
「お、おい、てめえ…。こんなとっから観戦しても大丈夫なのかあ?」
 良牙が目を見張ったほどだ。
「良いんじゃねえの?俺とおめえなら…。」
 そう言いながら、乱馬はどんどん、進んでいく。
 乱馬が律したとおり、誰も文句を言わなかった。それどころか、立っていた大会関係者に、一言二言、乱馬が声をかけると、快く、中へ入れてくれたのだ。

 彼なら激しい気弾を避ける技量があるからと、関係者も判断してくれたのだろう。いや、城海大の関係者として、茉里菜を見守りに来たのだろうと、そんな穿った瞳が、乱馬の背中を追ったが、気にも留めずに、観戦のために禁域へと入った。
 試合前の緊張感が漂う最中、乱馬と良牙は雁首を並べて、あかねの試合を観戦すべく、そこに立ち入ったのだった。プレスすらも立ち入れない関係者だけの禁域。
 特に乱馬は共に並外れた格闘センスの持主。もはや、超学生級の格闘家の彼を指導できるコーチも監督も居ない。故に、各々のチームメイトたちから離れていても、何も小言は言われなかった。

「始まるな…。」
「ああ。」
 乱馬も良牙も、寡黙だった。
 二人の視線は、一縷に、あかねへと、その視線は注がれる。
 春先よりもかなり肉厚になった腕や足の筋肉は、その後の修行がきつかったことをうかがわせている。あまり体重のない、どちらかというと武道家としては華奢な女体であるにも関わらず、どこか腰が落ち着き、実際よりも大きく見えた。
 あかねはもとより、綾小路茉里菜も、顔立ちはすっきりとした美形。色白でとても、武道をやるようには見えないのも、あかねと同じであった。あかねよりも、髪の毛が長い分、妖艶な色香が漂ってくる。
 そればかりか、お嬢様である彼女は、汗臭い道着を嫌がり、道着に香水を振り掛けているようで、微かに香料の香まで漂ってくる。

「何か、臭い女だな…。」
 獣鼻なのか、鼻をクンクンいわせながら、良牙がそんなことを言った。
「シャネルの五番愛用だとよ。」
 乱馬が苦笑いしながら言った。マリリンモンローが着て寝ると言った、あの、五番である。
「シャネルねえ…。格闘をファッションショーか何かと勘違いしてねえか?あの小娘。」
 良牙が批判的に言った。
「別に、無差別格闘界じゃあ、香水は惑い水じゃねえ限り、ご法度にはならねえけどな…。」
 苦々しい顔で乱馬は答えた。
「何か、物凄く嫌味な小娘だな。」
 良牙も、茉里菜の本性が垣間見えたようだ。もっとも、良牙のような純真な男にとって、お嬢様格闘家、綾小路茉里菜は苦手な部類に入るだろう。

「さあ、いよいよだぜ。」
 乱馬の声と共に、主審判が試合開始を宣言した。
 俄かに、会場が湧きあがる。



二十、

「いきますわよっ!」
「ええ、どっからでもかかってらっしゃい!」

 試合のリングの上の二人は、最初から物凄い勢いで飛ばした。
「でやあああっ!」
 あかねは、破壊力のある拳を思い切り、茉里菜に振り下ろす。
 あかねの剛健な拳を、茉里菜は機敏に避ける。さすがに、前回、あかねに破れるまで、女子無差別格闘の王座に君臨していただけのことはある。動きは俊敏であった。
「やるじゃない!」
 あかねはにっと笑った。
「そんなに簡単には捕まりませんことよ!きょーっほっほっほ。」
 茉里菜があかねに対峙しながら、小憎たらしく笑った。
「今度は、こちらから参りますわ!」
 身を翻すと、茉里菜が身構える。右手を下に、左右の掌を重ねあわせるように、鼻先に組み、はあああっと気を込める動作をした。
「来るっ!」
 あかねは咄嗟に横に飛んだ。
 と、あかねの避ける前に居た辺りに、真っ直ぐに、茉里菜の気弾が飛び込んで弾けた。
 嫌な臭気が鼻をつく。見ると、あかねの立っていた辺りが、ブスブスと焦げている。
「当たらなきゃ、意味ないわよ!」
 避けたあかねが、言い放つ。
「そう簡単に、勝敗を決めてしまったら、面白くないじゃありませんこと?今のはわざと外してあげましたの。」
「へええ…。優しいのね。」
「簡単にわたくしの足元に平伏させてしまったら、観客もがっかりいたしますわ。あなたのプライドにもお傷がつきますわ、きょーっほっほっほ。」
「随分なこと、言ってくれるじゃない。」
 あかねはその身を翻して、茉里菜に照準を合わせて、襲い掛かる。ふわっとあかねの身体が飛んだ。

「狙い撃ちですわっ!」
 茉里菜は再び、顔の前に腕を差し出し、掌を重ねた。そして、あかねの方へ向けて、気弾を押し出すように、撃った。


「あかねさんっ!空中攻撃なんかしたら、狙い撃ちだぜ!」
 良牙が叫ぶ。
 ドオオンと激しい音がして、茉里菜の掌から気弾が打ち上がる。
 予め、気弾がくることを予想していたあかねは、腕を十字に組んで、それを避けるべく、体内の気を発した。気で気を相殺するつもりだったのだ。

「えっ?消しきれないっ?くっ!」
 あかねの目の前で気弾がはじける。あかねの放った相殺の気によって、威力は緩和していたものの、茉里菜の放った気弾があかねの道着を焼き裂いた。
 ブスブスっとあかねの羽織っていた真っ白な道着に焦げ目が付着する。
「何…。彼女の気弾は…。」
 あかねは、後ろに飛び退きながら、茉里菜を見やった。
 茉里菜は、ふふふっと自信満々な笑みを浮かべて、あかねを見詰めている。
「どう?わたくしの気弾のを浴びたご感想は?きょーっほっほっほ。もう、一度、味わってみますこと?そおれっ!」
 再び、気弾が茉里菜の掌から飛ぶ。
「はっ!」
 あかねは咄嗟に避けた。さすがに、連続して己の気で相殺すると、こっちの気がなくなってしまう。そのことを危惧して、逃げに徹したのだ。
「逃しません事よっ!」
 茉里菜は容赦なく、気弾を連打する。

「あかねさん…。気弾で相殺できても、己が攻撃しなけりゃ、きついぜ、この試合…。それとも…。君は気砲を会得できなかったのか。」
 良牙が思わず呟いた。
「会得したぜ…。あいつはよ。」
 乱馬がにっと笑って見せる。
「おめえが結構、あかねを鍛えてくれたみてえだしな…。仕上げるのは楽だったみてえだぜ。」
 意味深な言葉を投げられて、良牙が狼狽した。
「な、何?何でおまえが、俺とあかねさんの愛の気技特訓を知ってるんだ?」
「さあな…。そんなことより…。おめえ、気付いてるか?綾小路茉里菜のあの気弾。」
 乱馬は話題を茉里菜の放つ気弾へと転じた。
「ああ…。何か変だな。あの気弾。気の流れが全然感じられん…。」
「良牙…。おめえにも茉里菜の気流や気脈が読めねえか…。やっぱり…。」
 意味深な言葉を乱馬が放った。
「ああ、気の気配を出さずに気を打つなど、あの小娘、敵ながら余程の手練かそれとも…。」
「ま、どっちかっつうと、インチキってところだろうな。」
「なっ!」
 乱馬の放った一言に、良牙の顔がみるみる険しくなった。
「見ろよっ。」
 乱馬は顔を手向けて、茉里菜の方を見やった。
 
 良牙の視線の先には、気弾を連続して浴びせる茉里菜の姿が目に入る。

「あんな、激しい気弾を連続して打つ…なんてこと、気を扱う事に慣れきった、俺やおまえでも、きついんでねえか?なあ…。」
 乱馬はじっと、見据えながら言った。
 気技はある意味、肉体を使った技よりも体力を使う。一発打つのにも、相当なエネルギーが必要だ。修練者とはいえども、連続となると、なかなかどうして、身体にかかる負担は、思った以上に過大だ。
 茉里菜の場合、小さな気弾を小出しにして、たくさん放っているといった感じでもない。中程度の気弾を、執拗に、あかねに集めて浴びせかけている。息切れしても良さそうなものだが、涼しげに淡々と表情一つ変えることなく連打しているのである。
「確かに、変だ!何故、疲れない?気の軌道が見えない?あの小娘、そんなに気を使うことに達者だったのか?」
 良牙の表情が険しくなった。そこに何かからくりがある、まさに、はっきりとしているではないか。
「いや、気弾を扱えるようになったって、聞いたのは最近だぜ。チームメイトの俺でもな…。」
 と乱馬が投げながら言う。
 はっと、良牙の顔が、強張った。
「そっか、あれは…。気弾なんかじゃない!掌に仕込んだ機械か何か人工物で気弾を打ち出しているだけ…。インチキかっ!」
「そういうところだろうな…。」
 乱馬が頷いた。その、言い方にカチンときたのだろうか。良牙の目が釣りあがる。そして、乱馬を睨み付けた。
「乱馬よ…。おまえが鍛えたんじゃないのか?あの小娘。…ってことは、おまえがインチキを使う方法を伝授して仕込んで…。」
 案の定、正義感の強い良牙が食らいついた。
「阿呆!んな訳ねーだろ?第一、俺はあの娘の修行なんか見てやってねえんだぜ!」
「でも、週刊誌やスポーツ紙にはおまえが、手をかけて育てた女子選手だとか何とか書いてあったぞ!乱馬っ!」
「おめえは、俺の言葉とマスコミとどっちを信じるんだ?」
「マスコミだ!」
 一刀両断、良牙の言葉に切り捨てられて、乱馬はこけかけた。
「だああっ、断言するな!この豚野郎っ!」
 思わず、苦言を呈した。
「豚野郎は余計だ!第一なあ、乱馬、おまえは信用ならん!現に、あかねさんという許婚がありながら、ふらふらと女の色香に惑わされやがって!この女ったらし!」
「おめえなあ…言うに事欠いて…。そっちへ話を持ってくなってえのっ!こっちにもいろいろ事情ってものがあるし、マスコミは必ずしも真実を伝えちゃくれねえんだ!いい加減大人になれ、良牙っ!」
「何だと?言うに事欠いて!」
 激しく罵りあう二人に、少しはなれたところに立っていた大会関係者が、不思議そうな視線を送っていることに、二人ともすぐに気がついた。
「お、おい。こんなところで喧嘩はご法度だぜ!」
 乱馬の問い掛けに良牙も応じた。
「フン!まあ、良い。乱馬、おまえの、そのふわついた素行はいったん、置いておいてやる。で?…たしかに、あの茉里菜って小娘の気弾は怪しいな。怪し過ぎるぜ!」
 ちらっと遠目で茉里菜の試合を眺めながら、良牙が吐き出した。
「多分、己の母体である綾小路財閥の金と力を駆使して、小型の気弾発射装置を開発して、それを装備して試合に臨んでるんだろうよ…。」
「な、何だとお?」
 良牙が凄んだ。
「レーザービーム砲か火炎放射器か、詳細は俺にもわからねえが、機械的気弾砲であることは間違いねえよ。見なっ。」
 乱馬は淡々と言い放った。

 執拗にあかねを襲う気弾は、焼け焦げたような、くすぶりを残している。それも、美しいほどにこんがりと、だ。

「あれは気弾の痕跡じゃねえ。気の砲弾はあんなに一定な焼け焦げを作らねえ。だろ?」
「それだったら、この試合、止めなきゃ!」
 良牙がその場から、審判の方へと立ち上がろうとした。
「待て!良牙!」
 乱馬は、良牙の肩をぐっと掴み、押しとどめる。
「何故止める?このままじゃあ、あかねさんが危ねえっ!こんな茶番試合、これ以上続けさせたら、大怪我だって負いかねないぞ!」
 良牙は乱馬を睨み返した。
「いや、このままで良いんだ。」
 熱した良牙とは対照的に、乱馬は静かだった。気の流れが感じられないほどに、穏やかだった。
「な、何だとおっ?貴様、こんなあからさまな不正を見逃す気か?乱馬っ!そうか、てめえ、この期に及んで、城海大学の勝利を望んでいるんだな?」
 良牙が怒りに任せてぶちまけたときだ。
 乱馬はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「不正を見逃すとか見逃さないとか、己の母校を応援するとかしないとか…そういう問題で止めるんじゃねえよ。ここから先は、今、対戦しているあかねが決めることだ。」
 乱馬の瞳がギラギラと輝き始める。
「どういう意味だ?」
「あかねは、ここ数ヶ月間、無我夢中で気砲を打つべく修行をしてきたんだろ?こいつは、その真価が問われる試合だってことだよ。」
「真価が問われる試合だと?」
「ああ…。あいつが、武道家として、もう一皮剥けるか否か…。この綾小路茉里菜戦が大きな節目となる…あいつの今後の格闘人生に大きく影響する試合になるだろうぜ。」
「言ってる意味がよくわからんぜ、乱馬。」
「不正が有ろうが無かろうが、そんなことは、大きな問題じゃねえ。」
「それに、試合によって極限まで高まったあいつの闘気がどんな気の流れを作り出すのか…。興味が湧かねえか?一格闘家としてよう…。」
 乱馬の瞳が、輝いて見えた。強い者が強い者を欲する目。それに等しい、瞳の輝きがそこにある。
 良牙は黙ってしまった。何となく、乱馬が示唆している意味がわかったのだ。それに、良牙はあかねの気砲の完成を、まだその目で確かめていない。彼が目にしたのは、気のコントロール術までだ。
「俺たちにはあかねさんの試合を見届ける義務がある…ってのか。」
「そういうことだ。だから、ここへおめえも連れて来た。おめえだって、気砲伝授者の一人として、あかねの能力を見極めたいのと違うか?良牙!」
 乱馬は良牙の方を見て、にっと笑った。
「うっ!」
 そこまで言われると、良牙とて、黙っているしかなかった。
「あいつは、今、サナギから大きな蝶へと変貌を遂げようと必死で足掻いてるんだ。」
「サナギから蝶だと?」
「ああ、格闘家として美しい翼を持つためには、多少の修羅場は覚悟しなきゃなんねー。俺やおまえもそうだったろ?俺の飛竜昇天破、おめえの獅子咆哮弾。いずれも、会得したときは、それぞれにとって、体験したこともない大きな修羅場だったんじゃなかったっけ?」
「確かに…大きな修羅場だったな…。」
 良牙は考え込んだ。己と乱馬が積み上げてきた格闘道を振り返ったのだ。
 
 己の前に立ちはだかった大きな壁、早乙女乱馬。強い彼を倒すのが己の願いだった。それを果たすべく、彼が中国大陸へ修行に出たと聞き、ためらうことなく後を追った。
 辿り着いた呪泉郷へ落ち、黒豚に変身する呪われた体となった。最初はその元凶を作った乱馬を恨み、ただ、それを成し遂げんためだけに、放浪しながら修行を続けた。
 シャンプーのひい婆さん、コロンに出会った時は「爆砕点穴」を授けられたが、その折も、散々に生みの苦しみを味わっていた。そればかりではない。獅子咆哮弾を会得したときは、あかねに「嫌い」と言われ、不幸のどん底を味わったではないか。
 そうだ。己だけではない、乱馬もまた、女傑族の必殺技、飛竜昇天破を会得した時、極限まで追い詰められていた筈だ。あの時の乱馬は八宝斎じじいのすえた「貧力虚脱灸」によって、持てる力を根こそぎ奪われていた。

 人から見れば「取るに足りない些細な事」かもしれないが、本人にとっては、まさに大きな修羅場だった。

「乱馬…おまえ…。」
 ハッとして乱馬を見上げる。
「生みの苦しみがなけりゃあ、次に何も生れない…。なあ、そうだろ?良牙。」
 己に言い聞かせているようにも聴こえる乱馬の呟き。その視線の先に捕らえられる、苦境に立たされたあかね。

(獅子は千尋の谷に突き落として這い上がってきた子を育てるというが…。可愛いが故に敢えて苦境に立たせる…か。可愛がるだけが、愛情じゃねえーっつう訳か…。乱馬。よ。)
 心の声で彼に対した。

「たく…。おめえには敵わないぜ。」
 呟くように良牙が言った。可愛がるだけが愛情ではない。乱馬はあかねに対して、それを実践している。乱馬は己には持てないほど大きな愛であかねを包んでいることを、今、ここに思い知った。
「あん?何だって?」
 良く聞こえなかったらしく、乱馬が問い返してきた。
「いや…。独り言だ。」
 ふっ、とニヒルな笑いを浮かべて、良牙が対した。
「何だよ、気持ち悪いなあ…。」
 苦言する乱馬に向かって、良牙が言った。
「おっと、くっちゃべってる暇は無いぜ…。ほら。」
 と、目の前で繰り広げられる試合へと目を転じた。


 ハアハアと息遣いまで聴こえてきそうな、正面のリング。
 茉里菜の放つ気弾から逃げるのに、そろそろ、あかねの体力も限界へと近づいている。と、同時に、試合の終焉が近い。
 まさに、クライマックスへ向かって、美しき格闘家たちの激しいぶつかり合いが始まろうとしていた。



つづく 






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