スローラブ 9
第九話 頑張れ、乱馬!
十七、
激しい感情に流されて、乱馬の元を飛び出したあかね。訳もわからずに、そのまま、無我夢中で走り続けた。細き道はいつの間にか途切れ、気付くと、森の中深くへと入り込んでいた。
平常心を失った時、人間は、一時の激情に流されて、己の意識の及ばないような不思議な行動を取ってしまう事が多々ある。この時のあかねが、まさに、そのような状況だった。
「あれ…?ここは…。」
ハッと我に返った時、辺りに人家の気配はなく、いや、鬱蒼とした森の中にポツネンと一人、取り残されるように立っていることに気付いたのだ。
さっきまで昂じていた激情は、今はすっかりとなりを潜める。
「やだ…。あたし、夢中で走り過ぎちゃったわ。」
あかね当人は、まだ、深刻な状況に置かれていることすら、気付かずにいる。
数百メートルも引き返せば、元へ戻れる。そう思って、立ち止まったとき、背中が向いていた方向へと、とって引き返し始めた。
辺りはそろそろ暗くなりかかっている。来た道を戻れば、すぐにも麓へ戻れる。そんな、勝手な思い込みもまた、彼女を迷いの森の奥へと誘う。
「いきなり飛び出しちゃったから、お姉ちゃん、きっと心配してるわね。」
そう思いながら、あかねは急ぎ足で引き返した。
が、辿れども、辿れども、人家のあるところへ出ない。
いや、むしろ、森の奥深くへ進んでいるような感じだった。
「おっかしいなあ…。そろそろ、宿屋辺りに戻ってこなきゃ、おかしいんだけど…。」
しかも、山の日暮れは早い。陽が傾くと、一気に暗くなることが有る。もう、穂殆ど、足元が見えないくらいに暗くなり始めている。
ざわざわと風で木々が唸り声を上げる。あまり良い感じではない。
山の中に一人、取り残されて、迷ってしまったようだ。
「困ったわ…。どうしよう…。」
不安と共に心細くなってきた。
「今夜はこの辺りで過ごすしかないのかしら。」
日がとっぷりと暮れてしまったところで、観念した。
あかねは辺りを伺った。まだ、かすかに太陽光の名残はあるが、鬱蒼とした森の中までは届かない。真っ暗になるのは時間の問題だ。とにかく、一晩明かせる場所を探すのが、今の己に一番大切なことだと判断したのだ。
遭難したとき、多くの場合、安易な行動が己を追い詰めることがあるのを、格闘家の本能として、彼女は熟知していた。
今は梅雨時だ。いつ又空から雨が落ちてくるとも限らない。遭難者にとって雨は、体力を奪う厄介物以外の何物でもない。
「あの岩陰で辺りいいっかな…。」
大きな黒い影がすぐ先で見えた。活火山富士山が吐き出した溶岩なのだろうか。どちらにしても、雨露が凌げる場所が見つかったのは、不幸中の幸いだろう。
あまり、小気味の良い場所ではなかったが、贅沢は言っていられなかった。
手で薙ぎ払うと、蟲の類が、さささっとあかねを避ける。あちらにしてみれば、あかねのほうが侵入者、異邦人だ。持っていたハンカチを広げて、じめっとした岩肌に敷き、そこへ腰を下ろす。なんの足しにもならないかもしれないが、無いよりはマシかと己に納得させる。
「お腹減っちゃったなあ…。」
岩影に腰を下ろすと、そんなことを思った。昼間は我武者羅に修行していた。だから、お腹は減っている。が、ここに食べ物は無い。あるのは鬱蒼と続く夜の森だけだ。森が深すぎて、月明かりも星影も見えない暗がりだ。
木々をこすって吹き抜ける風のざわめき以外の物音はなく、静かだ。都会の喧騒など、どこにも無い。
「はあ…。あたしって本当に馬鹿だわ…。」
と、ため息交じりで呟く。
「本当に大馬鹿野郎だぜ!ったく。」
背後で声がした。
ビクンと肩が動く。懐かしく頼もしい筈のその声が、会いたくない魔物の響きに聴こえたのだ。
「何で来たのよ!」
振り返りもせずに、背後の人影に強く言い放った。こんなところに誰も来る筈は無い。最初は幻聴かと思った。だが、予想に反して、幻聴などではなかった。
あかねの問い掛けに、その声の主は、はっきりと答えたからだ。
「何でって…そりゃあ…。」
その声は、暗闇に染み入らんばかりにゆっくりと、だが、はっきりとした口調で答えを述べる。
「おめーみたいな不器用女を、こんな所へ一晩も放り出しておくわけにはいかねーだろう…。莫迦っ!」
その声はあかねを中傷した。莫迦といういつもの言葉を添えて。
「あたしは、あんたなんか…。」
「要らねーって言うのかよ!」
振り上げた腕をそのまま、がっと捕まれた。振り下ろす事も拳を繰り出す事もできない強い力で押さえ込まれる。
「おめーなあ…。少しは己の置かれた状況について、冷静に分析しろ!莫迦っ!」
「何よ!腐ったってあんたの助けなんか…。」
「強がるのもいい加減にしろ!かわいくねーなっ!」
「かわいくないわよ!」
いつものように逆上。ムカッと来たあかねは、思わず、攻撃態勢に移った。怒りが闘争本能に火を点ける。これもいつものパターン。
ぐっと気を右の掌にこめ、身体を翻して振り返る。
「あんたなんか、あんたなんかっ…!」
そのまま、言葉を飲み込み、乱馬の鼻先へと右拳を打ち込んだ。
「何、自暴自棄になってんだ!」
「うるさいわねっ!」
「だから、落ち着けっつーてんのがわかんねーのか、このお転婆娘!」
己を襲ってくる、激しい拳を、そいつはそのまま、ピシッと真正面から受け止める。
いや、それだけではなかった。一度掴んだ手首を離すと、そのまま、あかねを胸の中に無理矢理、閉じ込める。抵抗などできなかった。
まるで、猛獣に捕らえられた哀れな子羊だ。
ドクン。
あかねの心臓が、一つ、爆裂音を発した。抵抗を試みるが、身体は微動だにしない。
悔しいが、身動きすらとれなかった。
力強い大きな腕両腕が伸びてきて、すっぽりと身体ごし動きを封じ込まれている。
身動きできないばかりか、息をすることも忘れそうになった。そのまま、身体を砕かれて壊れるのでは無いかと思うくらい、力強く抱き沈められた。
己の目と鼻の先にあるのは、分厚い男の胸板。逞しき青年の体臭があかねを取り巻く。
(やっぱり、あんたには敵わない…の?…あたし…。)
身を捕らえられたまま、時が暫し止まった。
逃げられない、そう観念したときだ。
「ばか…。」
そいつは、小さく呟くようにあかねに言った。
ドクン…。
その言葉に、止まっていた時が、再び前に向かって流れ始める。
トクン、トクン…。
己の心臓の鼓動が、離れた耳にも届いてきた。
トクン、トクン…。
己の鼓動とは別リズムの鼓動も聴こえてくる。いや、鼓動ばかりではなく、振動も伝わってくるような気がした。
己を捕らえた逞しい胸から流れる、力強い別の鼓動。
「あかね…。」
そいつは、そう語りかけると、あかねの唇をそのまま奪いにかかったのだ。唐突な出来事だった。
逞しい腕に抱きしめられたまま、柔らかい唇が己を捕らえてくる。
しかも、拒ぼうにも、身体は押さえつけられていて、抵抗だにできない。それを見透かしたように、硬直した体とは裏腹な、柔らかな唇が添えられてくる。
必死で引き離そうとするが、そいつは放すまいと、拘束を返って強めてくる。
そればかりか、身も心も溶かしてしまいそうな熱い疼きが、心身を覆い尽くす。
目を閉じていたのか、開いていたのかすら、覚えていない。いや、辺りは既に暗闇で包まれていたので、どちらでも良かったのかもしれない。
あかねの中でくすぶっていた、敢闘精神は、そいつのせいで、完全に潰えてしまった。何がなんだかわからなくなる。
甘い吐息が唇から溢れて漏れ、やっと、引き離された時、力は身体に残っていなかった。よろよろとそのまま、岩壁にペタンと座っていた。
辺りが暗闇で包まれていて、良かったと思った。到底、恥ずかしくて見せられないほど、狼狽した顔をしていたに違いないからだ。
「何で…。」
力なく、そいつに一言を投げかけるのが、やっとだった。
罵りの言葉も、喧嘩腰も全てなりを潜めていた。
「こうでもしねーと、おめえ、俺の話をまともに訊いちゃくれねーだろ?」
そいつは、目の前で、ふっと笑ったような声を漏らした。
こんな事をしなくても、まともに聴く意志など持ち合わせて居ない…。そう反論したかったが、すっかり気を抜かれ、それすらも敵わないで、じっと暗がりの向こう側を見詰めていた。
「今のは偽らざる俺の本当の気持ちだ…。」
そいつは、ポツンと言った。
「乱馬のバカッ!卑怯者…。」
やっと、その一言だけが、あかねの口から漏れる。
「ああ…そうかもしんねーな…。」
そいつは反論しなかった。いや、むしろ、肯定していた。
「何よ…。勝手に宿舎を飛び出して行方を眩ませたと思ったら…こんなところで…。」
ようやく、人心地を取り戻し始めたあかねの口から、恨み言が流れ始める。
「もしかしてよ、浮気した…とでも思ったか?おめえ…。」
そいつは、核心部分をいきなりあかねに問いかけてきた。
「浮気してたの?やっぱり…。」
水掛け論的に、あかねがそいつの方を眺めながら、吐きつけるように言った。
「やっぱりって何だよ!俺の想いはおめえと無差別格闘以外にゃあ、向いちゃいねーよ。このスカタンッ!」
ストン、と軽く落とされた。
「だったら、さっきのは?あれは一体何だったのよ!あたし、幻でも見たっていうの?」
「さっきのって…太郎さんの部屋での出来事か?」
「そうよ…。あたしが、目の前で見た暖かい家庭の光景は?あれは何なのよ!子供の前で鼻まで伸ばしちゃってさあっ!」
「きっちり順を追って話してやらあ。聴けっ!」
「ええ、聴いてあげるわ!きっちりと、説明してもらいましょう!その、太郎さんとやらとあんたの関係を!」
「もとい、そのつもりだよ。夜は長いしな…。やっぱ、おめえには話しておくべき事だしな…。」
乱馬はそう言うと、あかねを抱きかかえたまま、腰を下ろした。
十八、
あかねは、急に乱馬の態度が軟化したので、ハッとした。
さっきの、熱いキスが頭を過ぎったのだ。
ブンブンと頭を真横に振るいながら、再び、乱馬の方へと耳をそばだてた。
「そもそも、あの太郎さんって人は一体、誰なのよ…。」
まずは、当然の疑問を乱馬にぶつけてみた。
「太郎さんは俺の大学の研究員だった男性だよ。」
「研究員?」
「ああ、大学院を卒業しても尚、大学に残って研究していた人なんだ。で、太郎さんの研究テーマは格闘家と闘気エネルギーについて…だ。」
彼は順を追いながら、ゆっくりとあかねに話しはじめた。
「太郎さんねえ…。あんたがさん付けで呼ぶなんてね…。随分親しいのね。」
穿った瞳であかねは乱馬を見上げながら、少し意地悪に言ってやった。
「ああ、一応先輩だろ?」
「あんた、先輩でも結構呼び捨ててなかったっけ?九能先輩とか…。」
「それは、九能先輩がアレだからな…。?九能と太郎さんを一緒にするなってーのっ!第一、九能は一つしか年が変わらないが、太郎さんとは五つ、六つ違うんだぜ!」
「あ、っそう!」
「太郎さんは俺が入学した頃から、研究資料として、俺のデーターを色んな角度から取って、モデルケースとして研究していたんだよ。格闘家の詳細なデーターが欲しいってさあ…合宿なんかにも、自費でくっ付いて来たりしてよ。研究員なんて、最初は鬱陶しいと思ったんだけど、あんまり、研究熱心でさあ。」
「それで情にほだされた…とでも言いたいわけ?」
「まあな…。一緒に時を過ごすうちに、だんだんと親しくなってさ…。
最初は向こうもおっかなびっくりで、離れて望遠鏡使ってデーターを集積したりしてたんだけど…。そのうち、お互いに慣れてきてよ、結構、間際まできてデーターを集積したりするようになったんだよ。…結果的にはそれがいけなかったんだ。」
「それで、ムラムラって?」
「あのなあ…。そのムラムラってえのは何なんだよ、おめえ…。」
あかねの間が抜けた茶々入れに、乱馬は苦笑いした。なびきが思い切り煽ってくれた分、あかねはどこかで情報の分析間違いをしていることは、一目瞭然だったからだ。
「変な偏見を持たないで、とにかく、最後まで、ちゃんと話を聴け!俺の許婚である以上、おめえにはその義務っつうのがあるんだからよ。」
と、釘を刺した。
「わかったわよ…。で?その研究データーを通して、太郎さんと親しくなっていったって訳ね。」
「まーな…。あっちも、探究心バリバリで俺のデーターを集積していたし、悪い人じゃねえしな…。で、俺の方もすっかりと油断してしまったって訳だ。」
「へええ…。で?女に変身してるところを襲われたとか…。あんたが女化して襲ったとか…どっちかってところなの?」
「おめえなあ…。偏見で物言うなって言ってるだろうが。襲ったとか、襲われたとか、そんなんじゃねえっつーのっ!あんなあ、その、第一、太郎さんは嫁も子供も持ってるんだぜ。おめーが思っているような行動や言動なんか、ある訳ねえっつーのっ!」
「そうかしら?」
「あったりめーだ!」
乱馬は、完全に誤解しきっているあかねに、辟易しつつも、説明を続ける。
「とにかくだ、この前の春合宿でその事故が起こったっつーわけだ!」
「事故ねえ…。」
「ああ、うっかり、太郎さんを傷つけちまったんだ。」
「優しくされてつい、傷物にしちゃったとか?」
「黙って聴けっ!頼むから!」
乱馬は思わず声を上ずらせていた。ここまで、話がかみ合わないと、滑稽だった。どう導いても、あかねは己と太郎の間に、「なさぬ仲」を頑(かたく)なに想像しているらしい。
「傷物つうより、傷を負わせちまったんだっ!俺が、気弾を太郎さんにぶつけちまったんだよ…。至近距離からな…。」
乱馬はあかねの冷たい言動を交わしながら、事の仔細を説明する。
「気弾でぶっ飛ばして目を回したところを、強引に襲って、傷物にしたってえの?」
「だからあっ、俺のデーターを集積していた太郎さんに大怪我負わしちまったんだ、この掌から発せられる気弾で。襲ったとかじゃねえっつーってるだろうが!ちゃんと黙って訊け!頼むから!」
乱馬は暗がりから手を伸ばし、あかねを己のひざの上に乗せた。
「な、何よ…。」
いきなりの乱馬の行動に、あかねは腰を浮かせたが、ぐっと押さえ込まれて、身動きができない。
「頼むから、偏見は拭い去って、素直に聴いてくれ!俺のことを信じて…。」
そう、後ろから抱きしめながら、懇願した。
「わ、わかったわよ。黙って聴いてあげるから。とっとと話してよ。」
「だから…はなっから、そのつもりだってーの…。まあ、いいや。
太郎さんと俺は、研究者と研究材料、まあ、そんな関係でさ。折に触れて、太郎さんは俺のデーターを取りに、ちょくちょく闘技場へ顔を出していたんだ。
この春合宿にも、今までと同じように俺のデーターを取りに、顔を出してたわけ。
おめえならわかると思うけど、俺、普段の練習じゃあ、持てる格闘の力の四分の一も出してねーんだ。で、合宿所へ来ると、俄然力を解放する。この春も、合宿へ来て、日ごろのウップンが溜まりまくってたのを、一気に解放させちまってさあ…。至近距離に居た太郎さんのに、うっかり、気弾を炸裂させちまったんだ。
寸でで太郎さんに気付いて、何とか気を収めるべく、努力はしたんだが…。止めきれなかったんだよ。で、ドッカン。まともに、気弾を浴びせちまったんだよっ!おかげで太郎さんはノックダウン。」
「ってことは、太郎さんは、あんたの気を、至近距離から浴びたってこと?」
「ああ、そうだ。」
「それで、無事でいたの?」
「太郎さんは武道で鍛えた奴じゃなくって、ひ弱な素人の研究員だ。仮にしも、俺の気弾を浴びたんだぜ。そのまんま、救急車で病院送りだよ。」
「あんた、それで、もしかして謹慎とか食らって…。」
「一応、練習中とは言え、一般人を気で吹き飛ばしちまったからな…。俺にもおとがめがあると思ってたんだが…。大事な試合を控えてる…とか何とか、運動部部長が言って、練習中の事故ってことで不問にされた。俺にはお咎めはなかったんだ。不祥事にはしたくないからってんで、関係者には緘口命令が敷かれて、とりあえず、その場はそれで収まった。」
「ふーん…。」
あかねはポツンと言った。
「でもよ、だからと言って、俺のしでかした事はリセットはできねーだろ?おめえだったらどうする?己のせいで怪我した人間が出ちまったら…。」
「お見舞いに行って直接謝るでしょうねえ…。」
「だろ?…で、俺も病院へ見舞いに行こうとしたんだ…。でもさ、学部長命令で学校側に任せて、今後、一切このことに関わるな、病院へは行くな、太郎さんには会うな…って言われて、阻まれた。」
「はあ?何か、ちょっとムカつくわね…。その大学側の態度…。で?あんたは、そのまんま、引き下がった訳じゃないのね?」
「まあな、でも、真正面切って出かけるわけにもいかねえし、一計を案じて、女に変身して出かけたんだ。女になっちまったら、学校関係者には、俺だってのが、わかんねーだろ?誰も、俺の変身体質のことは知らねーからな。」
「で、病院へ行ったんだ…。女になって…。それで、太郎さんと親しくなった…ってのが真相なわけね。」
また、ボタンを掛け違えたような質問が、あかねの口から漏れたのを、乱馬は大慌てで遮った。
「それ以上、突っ込むな!黙って聴け!…で、病院へ見舞いへ行ったら、病室に太郎さんの奥さんと子供さんが居てよう…。」
「奥さんと子供ですってえ?あんた…それって…不倫じゃんっ。」
「不倫だあ?」
あかねのパンチの利いた一言に、再び、乱馬は高揚する。
「このアホッ、いい加減にしろよ!どこまで誤解したら、気がすむんでいっ!」
「だってえ…。」
「だいたいなあ、俺と太郎さんの間には、男女の関係なんか、最初からねえっつーのっ!」
「本当にそうなの?」
「おまえ…。いい加減にしろよ!ちゃんと訊けよ、人の話…。」
そう言いながら、乱馬は握り締めていた拳を、胸の前でぱっと開いた。
「まあ、良い…。その話はおいて置いて…。」
すうっと一呼吸、深く息を吸い込んで、再び、あかねに話し始めた。
「病室に見舞いに行って、太郎さんの身の上話をいろいろときいちゃったんだ。実家が富士五湖で宿屋を営んでる事や、そこの跡を取るのが嫌で実家を飛び出して進学し、そのまま、大学に残って研究生として過ごすうちに親しくなった女学生との間に子供まで作ってしまっていて…。奥さんとは学生恋愛の出来ちゃった婚で親は嫁として認めてねえってことや、入籍すらできずにきたこととか、いろいろと事情があることを知ったんだ…。
そうこうしているうちに、太郎さんの父親が倒れちまったって知らせが来た…。でも、実家を手伝おうにも、俺が怪我を負わせちまってるし…。思う通りには働けねえ…。で、俺が一肌脱いだんだよ。女に変身してよ。」
「女に変身して?何?」
「とりあえず、女に変身して、大学を抜け出したんだ。宿舎も出て、休学届けを出して、太郎さんの宿屋をずっと手伝ってた…って訳。」
「でも、ゴールデンウィークの試合は…。あんた、ちゃんと試合に来てたじゃない!」
「何とか二日間だけ抜け出してきて、試合だけは出たんだよ。いろいろ、こっちにも事情があるから、試合を放棄する訳にもいかなかったしな…。武道組特待生としての契約義務は果たさないと、下手したら、天道道場にまで、迷惑かけるだろう?」
「そりゃあ、あんたが試合をすっぽかしたとなると、世間は放っておかないでしょうしねえ…。」
少し揶揄を含んだ口で、あかねは言った。
「女の形でいたのも、全ては、世間の目を誤魔化して追跡を逃れるための隠れ蓑さ。」
「ふーん…。別に、あの太郎さんって人に乗り換えて、女に変身していたわけじゃなかったんだ。」
「あのなあ…。やっぱり、変な誤解、しまくってたな…おめえ…。」
ぐっと、乱馬は苦笑いしながら、再び拳を握り締めた。
「女の形しているときも、俺の心は男なの。それはおまえが一番良く知ってる事じゃねえのか?それに、男に興味なんか、これっぽっちもございません!残念ながら…な。」
乱馬の語る話に、一応、女に変化したのが男に惚れたせいではないことがわかり、あかねはホッと胸を撫で下ろした。
(乱馬、あの太郎って人に乗り換えて、同棲を迫ってここまで来たわけじゃなかったんだ…。)
そう思って、ふうっとため息を吐いたが、だからといって、まだ、完全に彼の疑惑が晴れたわけではなかった。
もう一つの懸案を思い出したのである。
そう、次に頭に持ち上がってきたのは、あの声高巨峰女、綾小路茉里菜の一件であった。
「男に興味がないってことはわかったけど…。じゃあ、訊くけど、あの「綾小路茉里菜」って女とあんたはどんな関係なの?女には興味があるんでしょ?あんた…。」
あかねの口調がいきなりきつくなった。
この際、こっちの懸案もはっきりさせておきたいと、そんな願望が生まれたのである。当然の事だろう。
「綾小路茉里菜…か…。」
乱馬にも思い当たる節があるのか、その名を聞いて、語気が変わった。
「おめえ…あいつと試合って負かしたもんなあ…。ってことは、もしかして、おめーにも、ちょっかいかけてきたのか?あのあばずれ変態女…。」
と反対に問い返してきた。試合以降はずっと、太郎の両親の宿屋を手伝ってこの富士山麓へ閉じこもっていたようで、綾小路茉里菜の動向が乱馬にわかろう筈もなかったからだ。
だが、乱馬が茉里菜に対して好意を抱いていないことは、確かだった。「あばずれ変態女」という形容の仕方が、如実にそれを物語っていた。
「ちょっかい…なんてもんじゃなかったわね。…あたしに、あんたと手を切れって、手切れ金まで用意して天道家まで乗り込んで来たわよ。で、丁重にお断りしたら、果たし合いの申し込みまで頂いてしまったわ。」
あかねは憎々しげに言った。
「ふへえ…果たし合い…ねえ。穏やかじゃねえな。」
くすっと乱馬が笑った。
「笑い事じゃないわよ!…たく。天道家(うち)の門までぶっ壊してくれちゃったんだから!」
と鼻息が荒くなった。思い出しただけでも、ムカついたのだ。
「たはははは…。あいつには、入学以来、追い回されてて、迷惑してんだ…俺。」
ため息混じりに乱馬が笑った。
「そもそも、俺が、大学を飛び出して、ここへ来てからも、ずっと女の格好でアルバイトしてたのも、あいつの追跡を逃れるためっつーのも、あるんだけどな…。」
「茉里菜の追跡ですって?」
「ああ、あいつ、俺に惚れちまったらしくってさあ…。俺にちょっかい出しまくって来るんだよ。おめえも、その一部を体感したみたいだから、わかると思うけどよう…。
九能の性悪妹の黒バラの小太刀が可愛くみえるくらい、面妖なしつこさでよう…。」
「何となく、わかるわ…。もしかして、大学入学以来、ずっと付きまとわれてたの?」
「ああ。ずっと付きまとわれて、交際を迫られてた。」
「ふーん…。相変わらずもてるんだ、あんた。」
「そういう剣の有る言い方はやめろっつーの!好きで追っかけられてた訳じゃねえよ!やっと、小太刀やシャンプーやウっちゃんの呪縛を逃れたんだぜ?それが、又かよって感じでよう…。」
よほど、困らされていたのだろう。乱馬は、はあああっと深く大きなため息を吐き出した。
「でもって、あいつの実家って超金持ちでよう、大学に多大な寄付までしてるから、大学側も、あからさまにやめろとも言えなかったんだろうなあ…。本当は体育会系の部員同士の恋愛ごとはご法度なんだけど、あいつの場合、親の肩書きやら寄付金の多さとやらで、そっちはクリアしてたから、本当に厄介だったんだぜ!」
乱馬は、茉里菜に対する、不満を口にした。
「同じ格闘部所属ってことを良い事に暴虐武人な立ち居振る舞い三昧。俺に迫ってくる、追い回す…ああっ、もう、思い出しただけでも虫唾(むしず)が走るぜ!」
「まあ…あんたは、あの手の女の子は苦手だものねえ…。」
「ああ、苦手も苦手、大苦手だ!小太刀の邪悪さとシャンプーのねちこさを足して二倍したような、とんでもねえお嬢様だったからな、あの茉里菜って女は!」
思わず、ウンウンとあかねは頷いていた。
「二年間はとにかく耐えたんだ。俺は一応、学費免除で入ってるだろ?それに、三年に上がるまでは合宿所暮らしってのが建前だからな。」
「良く今まで無事でいられたわねえ…。」
「まあな…。二回生までは規律の厳しい寮生活だったから、何とか凌げたんだけどなあ…。」
「もしかして、あんたが合宿所から姿をくらませたのは、太郎さんの一件だけが原因じゃない…のかしらん?」
「まあな…。そろそろこっちも限界に近づいてたからよ、これ幸いって、茉里菜の前から逃げたのも理由の一つではある。」
「じゃあ、一番、肝心な事を訊くけど…。」
あかねは一際、声を大きくして、乱馬に迫った。
「何で、本当のことをあたしに言っておいてくれなかったの?宿舎を飛び出した事、太郎さんの旅館を手伝うようになった経緯(いきさつ)…あたしに一言でも言っておいてくれたら…。」
「俺が姿を眩ませることから予想される厄介事におめえを巻き込みたくなかった…。それが正直な心情だよ。」
「何よ、それ!言い訳にもなんないじゃないの…。」
「おめえ、不器用だからな。本当の事を話したとしても、茉里菜の追撃をちゃんとかわせたかどうか…。あの女のしつこさは、度し難いものがあるからな。」
「茉里菜にあんたの所在を知られたくなかったらから、あたしにも黙って身を隠した…のね。」
「強いて言うなら、そうだ。」
「バカ…。だからって言って、黙ってて…あたしが心配しなかったとでも思ってるの?」
声のトーンが上がった。
「だから、なびきに、おめえの事を託したつもりだったんだけどな…。」
ポツンと夜空に向かって乱馬が吐き出した。
「え?」
意味がわからずに、あかねは乱馬を見上げた。木陰の間から、差し込む柔らかな月明かりに、乱馬の顔が薄っすらと照らし出されてくる。目が暗闇に慣れきっていたせいもあり、少しの光でも、はっきりと見えた。
「姿を眩ませる前に、太郎さんにパソコン借りて、なびきにメールで一言頼んでおいたんだよ。「あかねを頼む」ってな…。」
勿論、あかねには初耳だった。
「お姉ちゃんに頼みごとなんか、してたの…。」
「なびき、何も言ってなかったかあ?」
「ええ、何も訊いてないわ。」
「そっか…。あいつが天道家じゃあ、一番頼りになるからな。おまえを傍でしっかりと支えてくれると思ったんだよ…。」
「そうだったんだ…。」
「なのに、あのアマ!俺の言いたかった事を逆手に取りやがって、これ見よがしに、俺の事嗅ぎまわって、探し出した途端、あらぬ、疑惑を俺に着せて、おめえの前に晒しやがって…。」
「乱馬…?」
乱馬の語気が荒々しく変わるのを、あかねは苦笑いしながら、訊いていた。
どうやら、本当に、あかねの事を乱馬なりに考えて、行動を起していたらしい。それが浅知恵であっても、乱馬なりに誠意を尽くしていたようだった。
「あーあ、俺、人選誤ったかもな…。なびきを頼ったばっかりに、このザマだもんな。」
ふっと、崩れる乱馬の笑顔。
「ま、でも、己がまいた種はしっかりと、己で刈り取るべきだっつう、なびきの言葉もわからんでもねえんだけどな…。」
「雨降って地固まる…かあ。」
「だな…。誰かさんは、思い切り俺の事、誤解してたみてーだが?」
にっと笑いながら、乱馬はあかねの鼻先を突付いた。
「仕方ないでしょう?…女性化して男の部屋に入り浸ってるのを目の当たりにして、誤解するなって言う方が無理なの!わかる?」
「まあな…。太郎さん以外の鈴木旅館の人間には、俺はずっと女で通してたからな。乱子って言うさあ…。」
「そ、そうだったの…。」
「当たり前だろ?だから、太郎さんの奥さんや息子の雄太郎君は、俺を女と思い込んでるんだよ。あ、旅館のほかの仲居さんとか板前さんとかパートさんたちもな…。」
「あんたも、大変だったのねえ…。」
「今頃わかったか!」
「威張ることないでしょう?」
月明かりの中、互いに顔を見合わせて笑った。
「ま…。おめーとゆっくり、こうやって膝交えて話すのも久しぶりだし…。それはそれで良かったかな…。」
「そうよねえ…。あんたとこうやって、さしで二人きりでゆっくり話したのは、いったい、何ヶ月ぶりかしらね…。」
ぽっかりと雲間から顔を出した月はいびつな丸みを帯びている。満月が近いのか、それとも満月は過ぎ去ったのか。都会の喧騒の中に過ごしていると、月の満ち欠けすらおぼつかない。そればかりか、月の明るさすら、気付かずに灯下で夜を過ごしている。
「お姉ちゃんたち、心配してないかな…。」
「そっちは大丈夫だと思うぜ…。」
「何で?」
「なびきは、用意周到だからな…ほれ。」
そう言いながら、腰元をごそごそまさぐって、携帯電話を出した。
「あんた…いつの間に携帯なんか…。」
「お、おい。こいつはなびきのだぜ。」
慌てて釈明に走る。
「お姉ちゃんの?」
「ああ…。GPS機能でおめえの居場所を検索しながら、捜索しろってさ…。恐らく、なびきの携帯からもGPS機能は生きてるだろうから…。まだ、電池も切れてねえし、二つの点が重なり合って、ずっと一所で止まってるのが、あちらさんはちゃんと見てると思うぜ…。」
「そ、そうなの…。」
「ま、せっかく、久しぶりに二人きりになれたしさ…。朝が昇るまで付き合ってやるよ。」
すっくと乱馬が立ち上がった。
「ちょっと…。あんたまさか…。朝まで付き合うって…。」
慌てて、あかねが乱馬を見上げた。
二人きりで長い夜の帳の中をする事といえば…。
途端、さっきの突然のキス攻撃を思い出していた。
そう、ここに居るのは女の乱馬ではない。強い男の肉体を持った乱馬であった。このまま乱馬に言い寄られたら、恐らく逃げ切れまい。ゴクンと咽喉が鳴った。
「こら、また、おめえは…。何か変な想像してんじゃねえのか?」
カラカラとあかねの顔を覗き込みながら、乱馬が笑った。
「どういうことよ…。」
「あのなあ…。おめえ、茉里菜とこの週末、闘うんだろ?まだ、気の使い方も下手みてえだし、危なっかしいぜ、あのままじゃあ。」
「はあ?」
「だからあ、俺がじかに気砲の修行をつけてやるっつってんだよ。ありがたく思え!ありがたくっ!」
「はあ…なーんだ、修行…か。」
あかねの口から安堵のため息が漏れた。
「ほれ、こいつ、やっぱ、変な想像こいてたな!」
「わ、悪かったわね!だって、あんた、突然、あたしの唇奪ったじゃないのっ!」
「あれは、勢いだよ。ああでもしねえと、おめえ、暴れてたろうが。足元おぼつかないこんなところでやたら暴れられて、大切な試合の前に怪我でもされちゃあたまんねーしな…。」
「勢いだけでキスしたの?」
「たく…。まだ喧嘩売る気かあ?こいつはっ!」
コツンと軽く乱馬の拳があかねのオデコに当たった。
「うっさいわねえっ!さっさと修行始めましょうよ!」
月明かりしかなくても、顔は真っ赤に燃え上がるのは、止められない。
「その前に、ほれ。」
そう言いながら、ドサッと巾着袋を投げた。なびきがツケで寄越した非常用食品が入っている。
「食っとかねえと、気砲は打てねえからな…。そいつ食ったら、とっとと始めるぜ。」
「うん!」
あかねの心は、晴れ渡っていた。
悶々と積み重なっていた疑惑が晴れたこと、それから、乱馬がちっとも変わっていないことに、安心したのだ。
少しずつ積み上げてきた愛情が、「揺るぎの無いもの」として、己の傍にいつも横たわっている、それが確認できた。何より、己が思っていた以上に、乱馬が気遣ってくれていることが、嬉しかった。
暗がりの森の中、二人の時間が過ぎていく。拳と拳を交える、激しい気をぶつかり合わせる…格闘家カップルの互いの強い愛情表現の一つだった。
何よりも、久しぶりに、組み合える喜びを、あかねが一番、感じていたのかもしれない。
つづく
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