スローラブ 8



第八話 浮気と真実


十五、

 宿泊していた旅館の裏手に建つ、古い木造住宅の茶の間で、乱馬が女化して、若い男性と幼い子供と共に、楽しげに茶の間で遊んでいる。
 「一家団欒の幸せな空間。」がそこには広がっていた。
 その光景を目の当たりにしたあかねは、怒り心頭。煮えたぎる激情が、彼女を直接行動へと駆り立てた。


(乱馬の馬鹿!あんた、いつから、男色に走るようになったのよ!女に変化するのは、ただの体質だと思っていたのに…。身も心も女に成り下がったってえの?)
 そんな心の声が、あかねの脳裏にこだまする。
 「こうだ!」と思い込んだら、一途のあかね。その時点で、すっかり、冷静さを欠いていた。
『女化した乱馬が、子持ちの男と同棲している。』
 目の前に広がる光景が、そのまま、突きつけられた事象が、即ち事実だと、勝手に思い込んでしまったのである。
 理性はたちまち、怒気で武装される。こうなったあかねを、正気に戻せということ事態、無理な話だ。
 「猪突猛進」。
 意を決すると、彼女は、乱馬の方へと歩み寄った。
 ゆっくりと右手に気を溜めながら、一歩一歩、怒りのバトルロードを渡って行く。

 そんな事とは露知らず、乱馬はその家の和室で、幼い男の子と戯れていた。彼の傍には、三人分の食卓が並んでいた。そろそろ、夕飯にしてもおかしくない時間だ。
 男の子は、良く乱馬に懐いているようで、彼にまとわりついて甘えているように見える。父親であろう男は、煙草を燻らせながら、微笑みつつ、乱馬と男の子を見詰めている。
 そんな、「平和な一家の団欒」は、あかねの乱入によって、終わりを迎えた。

 窓は施錠されておらず、手をかけると、簡単に開いた。

 突然、部屋の空気の流れが変わった。ハッと顔を上げると、一人の女が、物凄い形相で窓辺に立っている。メラメラと燃え上がる気焔。

「だ、誰だいっ?君はっ!」
 真正面を向いていた、鈴木太郎氏が最初に、侵入者に気付いた。当然の事ながら、まずは、幼き男の子を守ろうと、咄嗟に動く。
 次に、気付いたのは、乱馬だった。

「お、おめえは…。」
 そう言ったまま、固まった。
 視線の先に、ここに現われる筈のない女が、立っていたのだ。ギョッとした表情を手向ける。

「ら…ん…まあっ!」
 にじり寄ってくる、鬼のような形相。いや、ある意味、鬼や妖怪よりも恐い存在かもしれない。
 
 睨んでくるあかねの利き腕に、乱馬は尋常ならぬ気の強さを感じた。

「ばっ!莫迦っ!そんな物騒な腕、こっちへ向けんなっ!」
 彼女が何をしようとしているのか、咄嗟に判断がついた乱馬は、家を守るべく、動いた。ダッと、駆け出し、あかねの頭上を軽々と飛び越える。今は男ではなく、女変化しているから、体重が軽い。瞬発力を使って、難なくあかねの頭上を飛び越えた。
 
「この期に及んで、人の頭の上を飛び越えて逃げる気?」
 あかねの怒りが、ますます燃え上がる。
「逃がさないわっ!喰らえーっ、怒りの鉄槌!」
 次の瞬間、ドオッとあかねの拳が火を噴いた。
 綾小路茉里菜が前に現れてから、ずっと、修行し続けてきた気技。怒りがあかねを突き動かした結果、とてつもなく大きな気砲が、乱馬目掛けて発射されたのだ。
 だが、そこは女装していても、格闘家、早乙女乱馬だ。
「はっ!」
 瀬戸際で、あかねの気砲の軌道を避けた。彼の目と鼻の先を、暴走した気弾が通り抜けていく。そして、前方に生えていた木々を薙ぎ倒した。まるで、雷に打たれたかのような、轟音と地響きの音を伴って。
 
 バキバキバキッ!
 
 あかねの放った気は、小枝や幹を貫き、薙ぎ倒し、闇の中へと消えて行く。
 傍に居た者は、一様に、固唾を飲んで立ち尽くす。

 暫し、空白の時間が流れた後、乱馬が飛び出した部屋に居た幼児が、ウワアーンと大声で泣き始めた。
 一体全体何が起きたのか。乱馬と共に居た男は、咄嗟に幼子を庇った。眼鏡の奥の瞳を円らに丸めて、ただ、呆然と、あかねと乱馬を見詰めていた。
 あかねの利き腕からは、煙のような気が、ブスブスと音をたてて燻っている。激しい気弾が炸裂した証拠だ。
 あかねは黙して歯を食いしばり、気を打ったポーズのまま、その場へ制止していた。彼女は決して、連続して気弾を打ち込んではこなかった。いや、まだ気技を会得したばかりの身の上では、連打したくても、そこまでの器量がない。

「て、てめえっ!あかねっ!いきなり、何しやがるっ!」
 最初に口火を切ったのは、乱馬だった。
 いきなりの非礼を嗜めるように、あかねに言い放った。
「おめえなあっ!人様ん家に土足で踏み込んできて、いきなり物騒な気弾なんか打ちやがって!くおらっ!子供が怪我でもしたら、どうするつもりでいっ?返答によっちゃあ…。」
 ぎゅっと握り締める拳を横目に、あかねが言った。
「返答によったら、どうするつもりよ?」
 その声に乱馬はぎょっとした。決して荒げない、静かな声。かえって、それが、尋常ならぬ気配を放っている。
「自分のやってることは棚に上げて…。あたしを責める気?」
 あかねは、俯き加減に、震える声を絞り出す。

「あ、あかね?」
 あかねの様子が、変なことに気付き、乱馬はいったん握り締めた拳を緩めた。
(げ…。泣いてやがる…。)
 一番、己が弱いもの、それは、あかねの涙だろう。その時点で、脳天から血の気が引いていく。
 何故泣いてる、誰が泣かした、やっぱり俺か…という思考がぐるぐると脳裏を駆け巡る。
「あかね…。」
 どうして良いやら、完全に己を見失った。突然のあかねの登場と流された涙に、彼女以上に乱馬の方がパニックになってしまったようだ。
 無我夢中、無意識で乱馬はあかねへと右手を差し伸べようとした。だが、あかねは乱馬の接近を拒否した。すっと後ろへ身体を引いたのだ。
 それから、あかねは、泣き顔を乱馬に見せぬよう俯いたまま、ゆっくりと乱馬から離れるように後ずさる。

「あかね。」
 再び、あかねへと声をかけたときだ。

「乱馬のばかっ!もう、あんたなんか、大っ嫌い!」
 堪えていた感情を、一気に叩きつけるように、あかねは叫んだ。
 そして、くるりと身を翻し、前方の山へ向かって走り出す。いきなりの全力疾走だ。

「……。」
 一瞬の隙を突かれた乱馬は、あかねの動きに反応できなかった。無言のまま立ち尽くすだけだった。
 みるみる間に、あかねの姿が己の前から遠ざかる。

「あかねっ!」
 我に返った乱馬が、そう、声を荒げて、追いかけようとしたとき、彼の視界に別の訪問者が過ぎった。彼女は腕組みをしたまま、複雑な表情で乱馬を見詰めている。

「なびき…。」
 そう、乱馬の視界に入ったのは、あかねの姉、天道なびきであった。
 
「あんたも、大変ねえ…。」
 まるで他人事のように、なびきは乱馬に話しかけてきた。

「てめえの差し金だったのか…。」
 乱馬の表情場みるみる険しくなった。眉間にシワを寄せ、はっしとなびきを睨みつける。

「あーら、そんな凄んだって、あんたなんか全然、恐かないわよ!」
 ふふん、と鼻先でなびきが笑った。出会って五年間、乱馬を手玉に取ってきたなびきにとって、乱馬が幾ら目の前で凄んで見せても、恐くも何ともないのである。

「そっか…。てめーが俺の居所を捜し出して、あかねを連れて来たんだな。」
 乱馬はなびきを見返して言った。
「まあね。」
「その余裕尺癪な様子から見るに、なびき、てめーには、俺がここへ来た本当の理由はわかってるようだが…。」
「おかげさまで、だいたいの察しはついてるわよ。」
 すんなりと答えるところが、憎たらしかった。
「だが…。あかねにはおまえが知ってる事を何一つ、伝えてねえ…ってことか。」
 確認するように、乱馬は吐きつける。
「まーね。あたしだって、自分で導き出した答えが、果たして真相たり得るのか、最後まで確認したわけじゃないしね…。無責任なことをあかねに言えないじゃん。」
「なびき…てめえ…。」
 乱馬が一層険しい表情を浮かべた時、なびきが突き放すように言った。
「あーら、あんたに文句を言われる筋合いなんかないわよ。だって、あんた、あたしの携帯にメッセージを寄越したじゃないの。『あかねを頼む!』ってさ。」
「確かに、あかねのことをおめえに託したが…。ここまで連れて来いとは言ってねーぞ!俺は…。」
 ぐっと怒りを堪えながら、乱馬が言い放つ。
「あんたねえ…。許婚をああいう形で放り出しておいて、よく、それだけ勝手な事が言えるわねえ。あかねはあかねで、ここひと月半ばかり、大変だったんだから。それを見てもいないくせに、あたしの行動に難癖つけるわけ?」
 ぐいっとなびきは乱馬に迫りながら反論してきた。一つ年上のなびきに、ぐぐっと迫られると、思わず、乱馬の方が後ずさりした。
「それに、『あかねを頼む』ってメールを寄越したのはあんただし…あたしは、素直に真っ向から、そのメッセージに従ったまでよ。」
 にっ、と悪魔の笑みが乱馬を見詰め返す。あかねを頼まれた者として、ここへ連れて来たのは正統な行為だと言わんばかりだ。

「見るに見かねて、あかねをここまで連れて来た…まあ、そこまでは良しとしてもだ…。あかねのあの様子じゃあ、俺の事、明らか、何か、誤解してっぞ、くぉらっ!」
「誤解ねえ…。あんたのその形(なり)と、あっちの様子を、ストレートに目の当たりにしたら、ある程度は仕方がないんじゃないのぉ?火のないところに煙はたたないって言うじゃないの。女化して男子供と一緒に居る、あんたの方に非があるわよ、非が。」
 なびきがにやにや笑いながら、けしかける。なびきの視線の先には、目を白黒させたまま戸惑う父子の姿が映し出されている。まだ、子供は泣きじゃくっている。

「おめえ…。そうやって、わざわざトラブルをあおって楽しんでねーか?」
 乱馬が、愚痴っぽく口にした。
「じゃあ、率直に尋ねるけど、あんた、心にやましい行動は全然してないって断言できる?」
「あ、当たり前でいっ!心にやましい行動なんてしてねーっつーのっ!俺は清廉潔白でいっ!」
「じゃあ、他人に頼らないで、この問題は、あんた、自ら解決するべきよねえ?」
 なびきは、あご先で、あかねが消えて行った方向を見やった。



十六、

「あのう、お取り込み中悪いんだけど…お二人さん…。」
 ようやく、目の前で起こった事象について、詮索する余裕が出来たのか、男の子の父親である鈴木太郎氏が、乱馬となびきの「言い合い」の中に、ひょっこりと顔を出した。
「何か用?」
 なびきが、ちらりと太郎氏を見やる。彼の胸には小さな男の子が、ひっしと抱きついている。ようやく、泣き止んではいるが、なびきをも、恐がって、視線を合わせようとしない。

「ごめんな…。雄太郎。」
 乱馬は苦笑いを堪えながら、まだ、しゃくりあげている男の子の頭を、ワシワシと荒々しく手で撫でて慰めた。乱馬には相当、馴れているのだろう。
「雄太郎君って言うんだ…この子。」
 なびきがにっと笑った。
「ねえ…さっきの恐い女の人、乱子姉ちゃんの知り合い?」
 円らな瞳が、恐怖と立ち向かいながらも、なびきをじっと見詰めながら、乱馬に尋ねてきた。
 男の子の前では、乱馬はどうやら、女として振舞っているようだ。乱子姉ちゃんという言葉が如実にそれを語っている。
「ああ、乱子姉ちゃんの知り合いだ。本当はあんなに恐い奴じゃねーんだけどな。ちょっと、俺に腹立てて怒ってるから、恐く見えたんだろうな。」
 と言い訳する。
「今の人、乱子姉ちゃんのことを怒ってたの?」
「ああ…。おめーが悪い事したら、優しいおめえの父ちゃんや母ちゃんだって、怒るだろ?それと一緒で、俺がちょっとばかり悪い子だったから、あのお姉ちゃん、俺に対して怒ってたんだ。雄太郎をいじめに来たんじゃねえから、安心しな!」
 ふっと頬を緩めながら、乱馬が子供に説明した。ちゃんとフォローしておいてやらないと、あかねが「悪い人」になってしまう。印象が悪いまま、残っても後味が悪い。そう思った乱馬の判断から成せる、言い訳だった。
「あいつ、本当は優しいんだぜ。」
「あの人、優しいの?」
 円らな瞳は、ぽっと心に浮かんだ疑問を、率直に問いかけてくる。
「ああ…。優しいぜ、本当はな。俺がごめんなってちゃんと謝れば、元通りの優しい人に戻ってくれるさ。」
「乱子お姉ちゃん、あの人に謝ったの?」
「まだ、これからだよ。」
「じゃあ、ちゃんと謝らなきゃ、許してくれないよ。」
「おめーに言われなくっても、謝らなきゃいけねーことは、ちゃんとわかってるよ、雄太郎。」
 乱馬は思わず苦笑いした。
 わかったのか、わからないのか、男の子は幼いながらも真摯な瞳を乱馬に投げかけてくる。質問攻めにしているうちに、ようやく、落ち着いたようだ。

「乱馬君…。あ、いや、乱子さん、今の女性(ひと)、やっぱり…君の。」
 彼の父親、鈴木氏は、今の息子と乱馬とのやりとりで、すっかり「事情」を察したようだった。
「ええ、あかねです。俺の許婚の。」
 乱馬は頷いた。
「そっか…。やっぱり、ここを見つけ出して、尋ねて来ちゃったんだね。」
「こいつが、余計な事をしてくれたんでね。何か、物すげえ、誤解を生んじまったようで…。」
 乱馬は右手の親指をなびきに向けて立てながら、言った。

「余計な事とは何よ!そもそも、あんたがちゃんと事情をあかねに説明しないで、ここまで遠征してきたのが、原因でしょうが。」
 なびきは、小声で呟くように言い捨てる。

「誤解を生んじゃったんなら、ちゃんと、早く捜し出して、事情を一から説明してあげないと…。」
 優しそうな声で太郎氏は乱馬を見やった。

 と、彼の腕の中の子供の瞳がぱああっと明るくなった。
 庭先に、人の気配を感じたからだ。見ると、女性が一人、こちらへと歩いて来るのが見えたからだ。
「母ちゃん!」
 父親の元を離れると、一目散、近づいてくる人影に向かって飛び出していく。

「あ、美春。お帰り。今日は早かったんだね。」
 太郎氏が女性に声をかけた。
「ええ、お義父さんの容態も安定してきたから、今日くらい早く帰りなさいって、お義母さんが…。」
 微笑みながら、女性が語りかける。

「あの人は?」
 なびきが、傍の乱馬にこそっと耳打ちして尋ねた。
「太郎さんの奥さんの美春さんだよ。」
 乱馬はそれに小声で答えた。
「やっぱ、嫁持ちだったか…。安心したわ。」
 なびきがこれみよがしに、にっと笑って見せた。
「安心したって、おめーなあ…。やっぱ、俺と太郎さんの間、疑ってのたかよ?」
 乱馬がなびきを睨み返す。
「だって、あんたと太郎さんの間に何もないなんて確証無かったもの、それに、太郎さん、まだ、あの美春さんって女性とは籍入れてないんでしょ?ほら、太郎さんのご両親がなかなか首を縦に振らないって…。」
 と、したり顔でなびきが答える。
「籍入れてなくても、子供が居たら、太郎さんと美春さんは事実上、夫婦と言ったって支障ねーだろうが…。それにしても、なびき、おまえ、太郎さんと美春さんの裏事情まで調べあげてたのか?」
「当然!あたしの調査力を甘く見ないで欲しいわねえ。」
 ちらっと乱馬を見上げたなびきは、得意げだった。
「だったら、何で、あかねをわざわざ、たき付けやがったんだ?てめー…。」
「あら、このまま、あっさり終わったんじゃ、面白くないじゃない。ここまで乗り込んで来たんだしぃ。ちょっとくらい色付けてみないとさあ。ねえ。」
 乱馬は握りこぶしをぎゅうっと、胸の前に作り出しながら、なびきに吐き出した。
「余計なことすなっ!馬鹿野郎!これみよがしに、わざわざ事を荒立てやがって…。おめえの掌の上で踊ってる、俺やあかねは一体…。」

「あの…。ディスカッション中、申し訳ないんですが…。」
 太郎氏が、にらみ合う乱馬となびきの会話に割り込んできた。

「何だ?」
「何か?」

「美春さんが、ちょっと気になることを言ったもので…。」
 ぼそぼそっと歯切れ悪く、太郎氏は乱馬たちに言葉をかけた。乱馬となびきが言い合っている間に、妻の美春と何か会話していたようだ。
「気になること?」
「一体、何です?」
 乱馬もなびきも、互いに顔を見合わせて小首を傾げる。
「今しがた、こちらへ帰って来るときにちょっと…。」
 と美春が口火を切った。
「ウチの浴衣を着た方だったから、多分、お泊まりのお客さんだったと思うんですけどど…。禁断の森の方へ入って行く女性を見かけたもので…。」
 と美春が言った。

「なっ、何だってっ!?禁断の森だあっ?」
 乱馬の語勢がきつくなった。
 
「ええ。何かに憑かれたように、一目散に駆け出して行ったんです。私が慌てて声をかけようとしたんですが、追いつけないくらい早かったし、聴こえなかったみたいで…。」

「禁断の森ってさあ、もしかして…。」
 なびきの顔も険しくなる。
「ええ、富士樹海へ続く森です。」
 太郎氏がコクンと頷く。

「まさか…。あかねの奴…。」
 乱馬の表情がみるみる険しくなった。
「大いに、有り得るわねえ。今日の泊り客、あたしとあかねだけだったみたいだし…。ここの浴衣を着ていたというのなら、十中八九、いえ、百パーセント、あかねね。あの子、一度突っ走りだすと、冷静な判断ができなくなるから、何も考えずに森へと駆け出して行ったようだわ。」
「おまえなあ…。冷静に分析してんな!一大事だぜ!」
 乱馬がなびきに向かって怒鳴った。
「そんなに深い森なんですか?」
 なびきが太郎氏に尋ねる。
「歩きなれた地元の山男でも、自らすすんで入りたがらない森なんです。」

「不味いな…。陽も暮れかかってるし…。」
 乱馬がチッと舌打ちしながら言った。

「こうなったら、あんたが責任を取るしかないわね。」
 なびきが乱馬を見詰めながら言った。
「おめえなあ!そんな悠長な事言ってる場合じゃねーぞ!俺も、修行中に何度か入口付近まで入った事があるんだが…。地元民でも迷うって話だったから、山に慣れてる俺でも、敢えて奥へは行かないんだぜ。」
 実際に森の入口へ足を踏み入れた乱馬が危機感を感じているのだ。子供の頃から父親と放浪生活する中で、危険な森での修行は慣れている乱馬の言だ。
「それに、捜すと言っても、気をつけないと、素人では二次遭難の可能性もありますよ。ここは様子を見て、町の消防団とか警察に捜索願を出した方がいいかもしれないな。」
 脇で、太郎氏が常識的な言葉を挟む。
「でも、日没になったら、それこそ公的捜索は無理なんじゃないの?」
 なびきが駄目出ししにかかる。
「てめー、なびきっ!完全に他人事だと思ってねーか?」
「だって、慌てたところで仕方がないじゃない。」
「この野郎、大人しく訊いてりゃ…。そもそもは、てめーがこんなところまであかねを連れて来(く)っから…。」
「ぐじぐじと女々しいわね!」
「あんだとぉ?」
「たく、人任せにしないで、あんたが捜せば良いでしょうがっ!」
 なびきは、乱馬をちらっと見やった。
「それとも何?このまま朝まで待って、公的機関に託す?」
「待てるか!あんな不器用女を朝まで森の中へほっておいたら、どうなるかわかったもんじゃねえっ!おめえだって良っくわかってるだろうがっ!」
「だったら、とやかく言わないで、行動あるのみよ。」
 なびきと乱馬のやり取りを横で見ていた鈴木夫妻の方が目を丸くしていた。
「ダメだよ!乱馬君がいくら強くっても…。それに、捜すって言ったって、闇雲に森へ入っても必ず、遭遇できるとは限らないよ。陽はもうすぐ落ちてしまうし…。二重遭難の方が恐いよ!」
 常識人の考えである。

「大丈夫、何も考えていないわけじゃないから。はい、乱馬君。」
 そう言いながら、なびきは懐から何かを取り出して、乱馬に手渡した。
「何だよ?これは…。」
 それは、どこにでもあるような携帯電話だった。
「見てのとおり、携帯よ。」
「だから、何の真似だと訊いてるんだ。」
「もう、わかんないかなあ…。GPS機能付きの携帯電話よ、これ。」
「GPSだあ?」
 乱馬が声色を上げた。GPS装置。「グローバル・ポジショニング・システム」 、汎地球測位システムの事だ。人工衛星を利用して、自分の位置を知るシステムのことだ。子供や老人の安全確保の点からも、GPS機能付きの携帯電話も広く利用されるようになった。
「ええ、こういうこともあろうかと、一応、あかねにGPS機能付きの携帯電話を持たせてあるわ。」
「用意周到だな…。おめえ…。あたかも、何か起こるんじゃないかとハナッからから想像してたのか?おいっ!」
 怒ったような呆れたような瞳をなびきへと手向けた。
「まあね…。じゃないと、あんたやあかねとは危なっかしくって付き合えないわ。」
「どういう意味だよ。こら…。」
「その辺りは、想像に任せるわ。…そんなことより、急いだ方が良いわよ。GPS装置付きったって、万全じゃないわ。携帯電池には限度があるし、いつ不能になるとも限らないし。」
「そうだな…。あまり猶予はねえ…か。」
 乱馬はぎゅっと、なびきから受け取った携帯電話を握り締める。
「最初に断っとくけど、GPS機能の検索って結構電池を食うから、その辺り、良く考えて表示させて使いなさいよ。」
 と、なびきはアドバイスも忘れなかった。

「やっぱり、こんな時間から山へ入るのは危険じゃあ…。」
 二人のやり取りと聴きながら、不安げに鈴木氏が乱馬を見やる。

「もし、俺が明日の朝までに帰らなかったら、公的機関に通報して捜索してください。」
 乱馬は鈴木氏の方を見やって言った。

「本当に大丈夫かい?そりゃあ、乱馬君は人並みはずれた体力と格闘能力を持っているのだろうけれど…。」
 太郎氏は心配げに乱馬を見やった。
「大丈夫です…。こういう修羅場を潜り抜けたのは、一度や二度じゃねえから、俺は。それに、あかねだって、俺に及ばないまでも、体力と格闘能力は高いですから。」
 そう言いながら、頼もしく笑った。
「お姉ちゃん、どこかへ行くの?お姉ちゃん、今日はウチでご飯食べてかないの?」
 父親の不安げな表情に共鳴するように、男の子が乱馬を見上げた。
「ああ、今日は夕飯は良いや。ちょっと、山へ散歩へ行ってくらあ。」
 わしわしっと乱馬は男児の頭をなでる。
「お散歩なら、僕も一緒に行きたい。」
「うーん…。散歩っつっても、もう陽も暮れるからなあ…。雄太郎はダメだ。」
 と乱馬は軽く受け流す。
「何で?」
「もうすぐ、宇宙刑事スペクトルマンが始まるぜ。観なくて良いのか?」
 と、感心を逸らした。
「あ…。大変だあ、スペクトルマンが始まっちゃう。」
「そうだ、急がねーと始まるぜ。」
 男児はすっかり気をそがれたようで、散歩の事やあかねの争乱の事は、脳裏から消えた様子だった。
 そして、母親に手を引かれて、家の方へと引き返して行った。

「ホント、あんた、子供の扱い方が、随分上手くなったわねえ…。そのまま、母親になる?」
「アホか!俺は男だぜ。これから先もずっとな!」
「男か…。その形でそう、凄まれても…。」
「うるせー!こっちだって、好きでこの格好してんじゃねーっつんだっ!調べたんなら、おめえも大体の事はわかってんじゃねえのかあ?こっちには、女で居なきゃならねー事情っつうのがあるんだから!ったくっ!」
「事情ねえ…。あの男の子の前じゃ、お姉ちゃんなんだもんね。いきなり男に変身するわけにもいかない…ってか。そんなことしたら、本当に「変態」になっちゃうもんねえ…。乱馬君。」
 なびきがにっと笑った。
「わかってんなら、これ以上聴くな!莫迦っ!」
「ま、いいわ。でも…。そのまま山に入るのはやっぱり不味いでしょう?」
 そう言いながら、なびきは非常持ち出し用と赤くかかれた巾着袋を乱馬に渡した。
「ここに来る前に旅館にあったポットを拝借して、中へ入れてるわ。森へ入って、回りの目が気にならなくなったら、被って男に戻りなさいな。他にも非常食や懐中電灯なんかも入ってるから、少しは役立つと思うわ。」
「なびき…。」
 ちょっと感動的な瞳をなびきに手向ける。堅実な心遣いが嬉しかったのだ。だが、すぐさま、その心は否定された。
「あ、これもあとで付けにまわしとくから。携帯使用料と共に…。」
 と、なびきらしい台詞が付け加えられた。
「なびき…。この期に及んで、てめーは…。まだ金の話をするのかよ。それに、携帯電話や非常食はともかく、ポットは旅館のなんだろうが…。この業突く張りめ!」
 苦笑いを浮かべながら、ポットを受け取った。
「つべこべ言わないの!そら、急がないと…。」
「そうだな…。無事にここへ帰ってから、きっちり、使用料については話し合おうぜ…。」
「無事に帰って来られたらね。」
「おめえなあ…。俺を誰だと思ってるんでいっ!」
「旅館女中アルバイトの早乙女乱子…じゃないの?」
「ち、違わいっ!」
 思わず、大声が漏れた。
 それに引っ張られるように、くすくすっとなびきが笑った。

「乱馬君…。決して無理しちゃダメだよ。」
 背後から鈴木太郎氏が、心配げに見詰めていた。
「大丈夫ですよ…。俺が凡人じゃねえことは、ずっと俺のデーターを収集していた、太郎先輩が一番良く知ってるでしょう?」
「さてと…。あかねの現在位置、一応、あたしの携帯で出しておくわ。」
 なびきがピピッと操作して見せながら、あかねの居場所を示した。
「やっぱり、森の中へ入って行ったようね…。ほら。」
「あっちゃあ…。完全に民家から外れて迷いの森の中か…。」
 乱馬も真剣に覗き込んだ。
「東南の方向、数百メートルってところね。」
「大丈夫、追いついてやるさ。」
 乱馬ははっしと、己が行く方向を見詰めた。
 そろそろ、日没が迫っている。すっかり陽はその光を失いつつあった。真っ暗になるまで、そう時間はかかるまい。
「じゃ、ちょっくら、行ってくらあ。」
「しっかり、誤解も解いて戻って来なさいよ!」
「ああ。解いてくらあっ!」

 ドンと胸を叩くと、乱馬の豊満な乳が左右に揺れた。
 そして、一目散に、あかねが入って行ったという、禁断の森へ向かって走り始める。みるみる、その姿は遠ざかる。



「本当に大丈夫かなあ…。このまま、どこにも救助を求めなくっても。」
 困惑した表情で、鈴木太郎氏は乱馬を見送る。
「大丈夫ですよ…。乱馬君はあかねのことが絡むと、実力以上の能力を発揮する…そんな奴ですから。」
 なびきが、答えた。



つづく






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