スローラブ 7



第七話 衝撃的再会



十三、

「二泊三日の予定だったのに…。ごめんね。」
 東風がすまなさそうに、あかねたちに謝っていた。

 精進湖に来て、翌朝のことだった。東風が、急遽、帰京することになってしまったのだ。
 携帯が、急患が入ったことを知らせてきたのである。東風の本業は接骨医。頼られる以上、患者をないがしろにはできない。
「いえ、キッカケを与えてもらえただけでも、満足しています。」
 あかねは、にっこりと微笑んだ。昨日までの焦った気持ちは、今朝はどこかへ吹き飛んでいる。まだ、技の完成には時間がかかりそうだったが、足がかりは掴んだ。後はどこまで、茉里菜と対抗できる技として磨きをかけられるかだけだ。
「東京じゃあ、なかなか、激しい修行をこなせる場所がないから、あたしはお姉ちゃんと、あと三日くらいここに残って、完全に技を仕上げます。」
 あかねはなびきを見ながら言った。
「そうね…。あんたを一人、こんなところへ放っておけないから…もう暫くあたしも付き合ってあげるわ。」
 となびき。
「じゃあ、お詫びに、キャンセル料として残りの宿泊料金と交通費は僕が持つから、勘弁してもらえるかな。」
「そんな、勘弁だなんて、大歓迎よねえ。あかね。」
「呆れた!お姉ちゃん!先生に残りの料金を出してもらうつもりなの?」

 そんな、言葉を交わしつつ、東風はワゴン車で東京へと帰って行った。

「修行のことは、あたしにはわかんないから、あんた自身がメニューを組んで心置きなくやったんさい。食事は適当にあたしが調達してくるから。」
「うん。天道家(うち)だと、やれ、道場が壊れるだの、瓦屋根が吹っ飛んだだの、気を遣わなくちゃいけないけど、ここだと、少々暴れても大丈夫だしね。」
 さすがに、夏場の観光シーズンまでには、間が有る梅雨時。しかも、人の集りやすいリゾート地から少し奥まったキャンプ地のようなロッジ。この施設、どこを見渡しても、あかねたち以外に人影はない。夏休みともなれば、野外活動や合宿所として賑わうのだろうが、この長雨の季節、ここまでやってくる物好きは、あかねたち以外には居ないようだ。
 今日は、朝から雨が降ったりやんだりの生憎の天気。それだけに、本当に静かだった。雨音が響く中、ずぶ濡れになりつつも、あかねは修行に励んでいた。

「あ、最初に言っとくけど、あっちの山に続くあそこの森の奥には、絶対に行かないでね。」
 と、なびきがあかねに釘を刺した。
「あの森って?」
「そう、迷い込んだら生きて出てこられないかもしれない、危険な場所、樹海に続く森らしいわよ。」
 なびきがさらりと流した。
 富士山麓には鬱蒼と木が生い茂る原生林、俗に言う「樹海」が広がっている。一度迷い込むと、方向が全くわからなくなり、抜け出るのは容易ではない。ゆえに、故意に入って自殺する人も居るくらいだ。
 おどろおどろしいなびきの口調を、あかねは気にも留めなかった。
「あんな遠方へは行かないわよ!ピクニックへ来たんじゃあるまいし。この辺りでずっと修行してるわ。」
「あんた、夢中になると、時々、周りが見えなくなることがあるから…。」
 と、なびきが笑う。
「あのねえ。良牙君のような方向音痴じゃあるまいし、樹海へ自分から入り込むほどお莫迦じゃないわっ!」
 プクッと膨れっ面。
「とにかく、修行に夢中になるのは良いけど、この辺りだけにしておいてね。樹海へ入って迷っても助けに行かないから、あたし。」
「薄情ねえ、お姉ちゃんは!」
「あたしは、自殺願望もないし、正義感なんか微塵も持ってないから。期待しないで。」
「あ、そう…。」
「そうそう、あんた携帯電話持って来てないでしょ?」
「まあね…。修行に必要ないかなあと思って、東京へ置いてきたわ。」
「やっぱりね…。じゃ、これ貸しておくわ。」
 そう言いながら、なびきは懐から携帯電話を一つ取り出した。ピンク色の奴だ。
「何で、こんなの借りなきゃならないの?」
 怪訝な顔であかねが問い返すと、
「こういう不慣れな場所だもの。東風先生が居なくなった今、急に連絡が取れなくなったら困ることもあるでしょう?」
「そんな、子供じみた事…。」
「あら、必要になるのは、何もあんただけじゃないわよ。あたしだって一人で行動していたら、どんな事件に遭遇するかもわからないじゃない。」
「まあ…。それはそうだけど…。」
「つべこべ言わずに、持っておきなさいな。あたしの携帯番号は入力してあるから。使い方くらいはわかってるわよね?機種が違っても大筋じゃあ変わらないから。」
 そう言って携帯電話を、半ば強引にあかねの元に置くと、なびきは何処かへ出かけてしまった。
 格闘技に造詣が無いこの娘に、あかねの相手が務まるわけはないし、だからといって、一緒に居たところで、何も面白くない。どうやら、昼間は食料を調達しがてら、近辺観光を敢行しようとでもいうのだろう。精進湖は勿論、本栖湖や河口湖もそう遠い場所ではない。雨の季節とはいえ、富士五湖畔は観光客が居るだろう。


 なびきが去り、一人になっても、あかねは懸命に修行を続ける。
 東風に貰ったヒントを元に、己の技を組み立てようと、躍起だった。
 勿論、得体の知れぬ「茉里菜の気技」が気にならないと言えばウソになる。
 が、昨日まで、己を取り巻いていた悲壮感は消えていた。
 自分は自分。対戦相手がどのように仕掛けて来ようとも、己の力を信じて技を磨くだけだ。
 元来、あかねが持っている腕力や脚力。そこへ気を加えることで、今まで以上の破壊力が出せる。これを応用すれば、茉里菜の気技も、打ち砕くことができるかもしれない。
 希望があかねを包み始めていた。

「はあっ!」
「たああっ!」
「でやーっ!」
 力強い拳や蹴りと共に、身体から放つ、闘気。これこそ、最強の武器になるだろう。

 修行期間を延長したとはいえ、数日間で東京へ帰らねばならない。次に帰宅すれば、大会は目の前だ。
 各地区の予選リーグも兼ねた学生選手権を上位で通過したものたちが競い合う全国大会。再び、ふざけたお嬢様、綾小路茉里菜と対峙する。

「絶対に、負けないんだからっ!」


 あかねが気負い込んで修行に励んでいる一方、なびきは、乱馬の居場所の最終確認の真っ最中だった。勿論、変装することも忘れなかった。東京から持って来た、らしくない衣装やカツラの数々。メイクにも念を入れた。ここで、乱馬に自分たち間近に来ていることがばれてしまったら、計略は水の泡と化す。
 一人旅の観光客を装いながら、ターゲットが潜む、小さな旅館へと近寄る。

「やっぱり、ここに居た…か。」
 なびきはほくそえんだ。
 なびきのターゲット、早乙女乱馬が懸命に、宿屋の手伝いをしていた。割烹着を着込み、手には雑巾を持ち、丁寧に掃除など、こなしている。ターゲットは案の定、女性化していた。いささか、格闘界では有名になりつつある急成長株。男だと、世間にすぐに面が割れる。恐らく、面が割れるのを嫌がって、わざわざ女に変身しているに違いない。
 その背後に、青年が一人、立っていた。
 なびきは観光客がそばをとおりかかった風を装いながら、大きく深く被った白い大きな帽子のツバ先から、じっと二人の様子を観察する。

「乱馬君と親しげに話しているのは…鈴木太郎氏ね。」
 持ってきた資料の顔写真をチラッと見ながら確認をした。
「宿屋の屋号も鈴木屋旅館か…。センスないんだから。」
 苦笑いが漏れるくらいだ。場末の温泉旅館風なひなびた宿だった。ポツン、ポツンと周りのお洒落な洋館のペンションやロッジの持つ雰囲気から、変に浮き上がって見える。場末の哀愁をそそるような情緒が、そこにはある。

「とっても情緒のある旅籠のような旅館ですね。」
 傍を通りかかった、地元の老婆に、わざとそんな事を話しかける。できるだけ、自然に、乱馬と鈴木が親しげに話している姿を、デジカメで捕らえるためにだ。抜け目はない。
「古くから旅籠を営んでおられるずらからな。」
「へえ…。なかなか、こんな木造家屋の旅館って、地方でも珍しくなってるんじゃないですかあ?」
「ほうだな。この旅館も跡取りがやべえことになっておったずらが、長男の太郎さんが東京の大学から帰(け)えらさったから、親御さんも一安心ずら。しかも、かわいい嫁と子供まで連れて帰(け)えって来られたしなあ…はっはっは。」
 などと、のどかな会話が続く。田舎の人は基本的には人懐っこい。
「可愛いお嫁さんねえ…。」
「ほれ、あそこへ来るのが孫だ。」
 見ると、乱馬と太郎の間に小さな男の子がわっとやってきて、まとわりつく。乱馬にも良く慣れているようで、じゃれ付いている。
(シャッターチャンス!)
 そう思ったなびきは、おもむろに手に持ったポーチの中に隠し持っていたカメラシャッターを切った。一眼レフの大きなカメラと違い、掌サイズのコンパクトなデジタルカメラだ。ちょっと細工すれば、カメラだと悟られることはない。シャッターを切る音も、デジタル的でピッという小さな音だ。注意して聞かないと気付かないだろう。こうやって、お婆さんに怪しまれることもなく、見事、盗撮成功。
 老婆も初対面でもあるに関わらず、人懐っこく、なびきに、訊かれもしないのに、鈴木屋旅館の実情を話して聞かせてくれた。これは、ありがたいほど、好都合だった。
 老婆の話から、鈴木屋旅館の現在の状況が手に取るようにわかったのである。思わぬ収穫だった。
 なびきは、老婆と別れて、歩き出す。
 当然、乱馬も鈴木太郎氏も、このうら若き女が、何をしていたかまでは、知る由はなかろう。
「第一段階、クリア…ってところね。乱馬君も表情が良いこと…。どこから見ても、仲良し親子ね。素晴らしいアングルだわ。それに、思わぬ、情報の収穫もあったし…。」
 と、ほくそえむ。

「さすがに、九能ちゃん付きのお庭番、佐助さんの里の旧友だけのことはあるわ。先に、かき集めてくれた情報は、かなり正確ね。それがちゃんと確認できたのも、ありがたいわあ。」
 そう言いながら、また、メモを取り出す。
 予めなびきは、渋る九能をたきつけて、佐助から猿隠れの忍の者へアタリをつけて鈴木太郎の身辺調査を敢行していた。佐助は忍者の端くれ。九能家、それも帯刀に直に仕える「お庭番」だ。九能の世話を何かと焼くのが彼の仕事であった。
 佐助は猿隠れの里という、忍びの里に生まれ育った、忍びの道のプロである。九能帯刀という主人が「アレ」だから、従者の佐助もどこか抜けていて、すっとぼけてはいるのだが、忍びの道に関しては、さすがに長けていて詳しい。
『みどもの兄弟や親戚や友人たちの多くは、それ、企業スパイだの興信所の調査員だのをしているのでござるよ。このようなご時世でござるから、結構引き合いもあって、皆、真面目に仕事をこなしているのでござる。みどものように、個人の主にお仕え申している「お庭番」をやっている里の者は、少なくなったのが寂しいでござるが。』
 佐助は溜息混じりに呟いていた。封建時代ならともかくも、現代社会に於いて、忍者など、漫画や大衆演芸の世界にしか存在しなくなって久しい。佐助が言ったように忍びに生きた者たちは、現代社会に合わせて、諜報的な仕事に従事し、生計をたてるようになってしまって久しいのだろう。
 そんな、佐助のコネクションを使って、彼の息のかかる者に鈴木太郎について調べてもらったのだった。勿論、依頼料は九能持ちで。
 それによると、鈴木太郎氏は三十男。この「鈴木屋旅館」の一人息子。だが、稼業を継ぐのを嫌がり、高校卒業後上京。そして、城海大学へ在籍し、武道研究の道へ。だが、実家の親が倒れ、この春、東京から帰郷した。
 と、そんなプロフィールになっていた。
 学生結婚した嫁と子供あり。この春、一緒に帰郷したとある。
 まだ、学問として研究対象でもあった、格闘技や武道への思いは途切れておらず、ゆくゆくは、この鈴木屋旅館を武道系の大きな合宿宿屋へと変身を遂げさせるのが、目下の目標となったらしい。
 道端で話し掛けたお婆さんも、調査員が調べたのと、似たようなことを話してくれていた。
 この春、長男の太郎は、大学の研究室を辞し、若い女性と幼い子供を連れて、帰郷してきたという。現在、元から居た仲さんと板前さんそれから従業員二人に東京から来たアルバイト女性の五人と家族で、小さな旅館を切り盛りしているというのだ。
 帰郷当時、太郎は大怪我をしていて、療養していたようだが、今は傷も癒え、旅館稼業の手伝いも慣れてきたというのだ。
「東京から来たアルバイト女性かあ…。乱馬君のことよね。それから、乱馬君が負わせた怪我ってのも、やっぱり、本当のことだったみたいだし…。」
 なびきはほくそ笑んだ。

 また、先頃、東京から何某とかいう城海大学の関係者だという金持ちのお嬢様が乗り込んで来たらしいが、泊まりもしないで、すぐさま東京へ、引き上げて行ったという情報も。婆さんから入手できた。
『何しに来なさたっか、良うわからん東京娘だったずら…。』
『お婆さん、その東京娘と会ったの?』
『会った、というより、たまたま見かけただけずら…。何ぞ、変な声で高笑いばかりする、お嬢様だったずら。何でも、男を探しておられるとかで。ワシも、写真を見せられたが、とんと見たことのない顔だったずら。はあ、家の若いもんが、これは若手格闘家の、ほれ、早乙女何とかとか言うてたずらが…。』

 間違いない。東京娘は即ち、綾小路茉里菜だ。あの独特な高笑いは、老婆の耳にもしこたま残るだろう。そして、彼女は乱馬の行方の手がかりを求めて、この地まで乗り込んで来たようだ。
 だが、すぐさま帰ったということは、乱馬を見つけ出せず徒労に終わったということを如実に物語っている。

「ったく…、乱馬君も良く、考えたものねえ…。綾小路家や大学の追手の目を晦ませるために、女装していたなんて…。これじゃあ、乱馬君の変身体質を知らない者には、彼と遭遇しても、わからないわ。女に変身することで、手がかりは確実に途絶えるもの。上手くやったわね。」
 あれほど、女になるのを嫌がっていた乱馬が、自らすすんで、女性化しているのだ。相当、複雑な事情があることも、示唆していた。
 茉里菜が来たというときに、ある程度の修羅場はあったのかもしれない。もっとも、男が女に変身できるなど、誰の考えにも及ばないだろうから、乱馬が居ないことだけを確かめると、とっとと東京へと帰って行ったと、推測される。

「えーっと、それから、さっき撮った写真を利用しない手はないわね。もっとも、あかねのことをあたしに押し付けとんずらした罰を、思う存分、食らうと良いわ。うふふ。」
 心なしか、楽しそうだった。
 なびきは、ウキウキと近くのコンビニへ入り、あかねの修行やこの辺りの風景を一緒に写したデジカメ画像を、プリントアウトすると、昼ご飯をコンビニで買って、あかねの修行地点へと戻って行った。



十四、

「どう?修行は。」
 なびきは、買って来た弁当と飲み物を、あかねに渡しながら尋ねた。
「順調よ。思っていたよりも強い技を打てるようになったわ。」
 あかねはタオルで滴り落ちる汗をぬぐいながら答えた。辺りの原っぱの様子を見る限りでは、相当、入れあげた激しい修行をしていたようだ。
「真面目ねえ…。修行とか練習とかは、サボるものだって、相場は決まってるのに。」
 なびきは笑った。
「それは、押し付けられてやる修行でしょ?あたしのは、自らすすんでやる修行ですもの。サボろう…だなんて意識は、これっぽちも存在しないわ。」
 なびきの横に腰掛けて、あかねが笑った。
「ホント、あんたってば、幼い時から、相当な格闘馬鹿よねえ。」
「まあね。これしか知らずに育ってきたようなものだしね。格闘馬鹿って事を敢えて、否定はしないわ。」
「雨も、上手い具合に上がったみたいだし…。ま、あんたにしてみれば、雨が降ろうが降るまいが、修行の支障にはならないんでしょうけど。」
「そうでもないわよ。雨だと、余分な体力を使うし、できることなら降らないで居てもらいたいわ。」

 昼休憩は、ホッと、心が落ち着く瞬間でもある。
 人間、食べる事に執心しなくなれば、動物としての機能は終わりだとも言われる。

「で?お姉ちゃん、この辺りを一巡り観光してきて、どうだった?」
 あかねは、なびきを見返した。
「まあまあね。生憎の曇り空だから、富士山はあんまり美しくなかったけれど、それなり、きれいなところね、精進湖も本栖湖も。」
 どう、あかねに乱馬のことを切り出すか、ずっと考えていたなびきだが、食べ終わった頃合を見計らって、切り出すことにした。
 ご飯はきちんと三食三食食べさせないと、試合を前にしたあかねに、悪いと思ったのも事実だ。中途半端に切り出したら、昼食を投げ出してしまうとも限らない。
「それはそうと…。あかね。」
 少しばかり、演技して、深刻な顔をあかねに手向けて見せる。あまり、さらっと流すのも、素っ気なさ過ぎて、怪しまれると思ったのだ。
「何?お姉ちゃん。」
 なびきの表情が変わったのを、あかねは見逃さない。
「あ、やっぱり、やめとこう。」
 そう言って、一端、話を切ろうとした。ここも、思わせぶりな演技を披露した。
「何よ、口にしておいて、途中で辞めちゃうなんて…。」
 あかねの瞳は、好奇心で大きく揺らめいた。
「だって…。あんた、大切な試合前だから…。」
 と、また、意味深、思わせぶりな言葉を繋ぐ。
「試合前だから、何?何なのよ?」
 なびきの異変を、あかねなりに感じ取る。こういうように、姉が切り出すときは、必ず何かあった。それも、あまり良くない知らせかもしれない。
「ねえ、言いかけたんだったら、言ってよ。お姉ちゃん。かえって気になっちゃうじゃない。」
 ずいっと、姉の方向へと身体ごと傾けるあかね。
「だって…。こんな話して。平気で居られるかどうか。」
 なびきは、ゆっくりと妹を見据えた。
「だ、大丈夫よ。どんな話でも平常心を保つ、修練はできているつもり…だけど?」
「ホント?」
「うん。」
 ここまで来たら、問い詰めずに置いた方が、後味が悪い。あかねは、なびきに、口ごもったことを言わせようと、躍起になった。

(かかったわね、あかね。)
 くすっと心で笑うと、なびきは、懐から「写真」を取り出した。
 さっき、地元の写真屋で印画紙にプリントアウトして貰いたてのホヤホヤの生写真だ。

「これ…見て。」
 そう言って、なびきは何枚かの写真を、これ見よがしに、あかねの前に置いた。

「写真?」
 あかねは怪訝な顔を手向けると、言われるままに、その写真を手に取った。
 そして、じっと写真を見る。

「これ…。」
 そう言いながら、ブルブルと手が震え始めた。
「これ、何よ!お姉ちゃん、何なのよ!」
 問いかける中でも、顔が強張っていく。鼻息は予想していた以上に荒い。
「何って…。多分、乱馬君ね。」
 高揚し始めたあかねを横目に、なびきは冷静に言った。
「どうしたの?こんな写真!」
 既にあかねの顔は、仁王様のように強張っている。
「偶然、さっき立ち寄った精進湖の近くでね、見つけちゃったのよねえ、彼を。」
「なっ!さっきですって?」
 もっと、あかねの顔がきつくなる。
「ええ…。ついでに、気になったから、周辺の住人に、訊いてみたの。」
 なびきは、ハアアッと一つ、大きく思わせぶりなため息を吐く。
「じゃあ、説明できるわよね!お姉ちゃん!」
 ずいっとあかねが乗り出してきた。コクンと思わせぶりに縦に揺れる、なびきの頭。
「あかね…。先に言っとくけど、あたしに八つ当たりしないでね。あたしは、あんたのためにと思って、調べて来たんだから。」
 と前置きしながら、じっとあかねの瞳を見た。
「わかってるわよ。」
「だって、あんた、今にもあたしに突っかかってきそうだもの…。ちょっとは落ち着いて聞いてよね。じゃないと話さないわよ。」
 と、念を押す。
「いいわ、落ち着く。」
 そう言うとあかねは、己の流行る気持ちを抑えつけるように、ふううっと深く息を吐き出した。

「乱馬君、どうやら、この男性と一緒にこの旅館に住み込んで働いているらしいわ。」
 すらっと淡白に言ったなびきに相反して、あかねの声が一際大きく響いた。
「なっ、なんですってえええっ!?乱馬がこの旅館にぃ?どういうことなのよっ!」
 あかねは、再び、勢い込んでなびきに食いついた。
「こらこら、さっき約束したじゃない、落ち着いて!」
「ご、ごめんなさい。つい…。」
 
(そら、食いついてきたわね!あかねっ!)
 内心ほくそえみながら、なびきは、己の持つ情報を、あかねに話していく。

「乱馬君、ここで女中さんをしているみたいよ。」
「女中?」
「ええ、女装しているみたい。で、みんなには「乱子さん」って呼ばれているらしいわ。」
 乱子とは、乱馬が良く使う、女性化したときの別称だ。
「乱馬…何で女に変身して…女中なんか…。」
 ガクガクとあかねの身体が震え始めていた。
「でさ、地元の人が言うにはね、何でもこの春先、東京からこの男性に伴われて、この旅館へ来たんだって。」
「男と一緒に…。」
 あかねの瞳は完全に宙に浮いている。
「ええ。この人、城海大学の研修生だったんだって。で、この春で研究を打ち切って、実家の旅館を継ぐために、戻ったんだそうよ。えっと…名前は鈴木太郎とか言ってたわね。」
「スズキタロー。」
 勿論、あかねには、今初めて耳にする名前だった。
「私も詳しい事は訊き出せなかったんだけど、三十男の子持ち男性だってさ。ほら、乱馬君の周りにじゃれ付いている男の子が居るでしょう?」
 そう言いながら、なびきは写真を指差す。確かに、乱馬の足元にまとわり着くようにじゃれている三歳くらいの男の子がはっきりと写っていた。

 断っておくが、ここまで、なびきは何一つ、ウソは言っていない。乱馬がこの旅館に住み込んで働いている事、この男が鈴木太郎という名前で子持ち男であること、全てが事実だ。

「鈴木太郎氏の離婚暦とか結婚暦とかまではあたしもさすがに調べきれてないから、その男の子の母親などの素性は一切知らないんだけど…。」
 ちらっとなびきはあかねを見返した。既に、あかねの意識は怒り一色に燃え上がりつつある。その怒りへ引導を渡すように、なびきは、更に煽っていった。
「地元の人が言うには、この鈴木氏、今春、東京での生活を終え、一切合財、処理して、旅館を継ぐために、女房候補と連れ子を連れて、帰郷して来たんだってさ。」
「そ、それってどういう意味よ!?」
 案の定、あかねが食らいついてきた。
「さあ…。文字通りじゃないの?」
「文字どおりですってえっ?」
「あたしに、そこまで言わせるの?」
「言ってみてよっ!お姉ちゃん!」
 なびきの言葉に、ますます、高揚し始めるあかね。この状況で、落ち着けというのも、彼女には土台無理な話だろう。
「だから、乱馬君、その鈴木太郎さんと恋仲になったんじゃないの?」
 とあっさりと言った。
「恋仲…。」
 
 パリンと音をたてて、あかねの中で何かが弾け飛んだ。
 ガクンと足元から崩れ落ちる。

「あかね?」
 予想はしていたものの、あかねの大袈裟なリアクションに、なびきが驚いて、声をかけたくらいである。
 地面へ頭をうな垂れて、ぎゅううっと拳を握り締め、何かを考えているようだった。
 暫くして、「フッ!」とあかねの口から、ため息とも、自嘲の笑みとも取れるような音が漏れたた。
「あかね…。」
 冷静ななびきですら、ゾクッと背中に冷たいものが走ったような気がする。

「あたしたちを出し抜いて、姿をくらませたと思っていたら…男色に走って、男を作ってしまっのね…。乱馬、あんたが消えたのは…こういうことだったのね。」
 既にあかねの手に握られている写真は、原型をとどめていなかった。ぎゅううっとあかねの拳圧に握りつぶされて、パラパラとチリ状になって、地面へと落ちてくる。

 結果から言って、あかねは、なびきの「作戦」に見事にはまりこんでしまったのである。
 なびきも、あかねの中に積もり積もった乱馬への「愛情」が、裏切り行為に「憎悪」へと変わった瞬間を、目の当たりにしたような気がした。
(あちゃー、あおり過ぎちゃったかしら…。)
 少し後悔の念が、持ち上がってきた。

 あかねは、ゆっくりと地面から這い上がるように立ち上がった。二の足でしっかりと、大地へ立つ。

「あかね?どうしたの?」
「…決まってるわ!このまま、引き下がるものですか。あの、変態野郎に一発、ブチかましてやるのよ!この、怒りの鉄拳…をね。」
 心なしか、あかねの利き腕である右手が赤く燃えているように見えた。怒りの気が身体中から右手に集中しているのだろう。
 本当に鉄よりも熱い拳となるかもしれない。
「相変わらずね…。あんたは…。」
 なびきは、ハハハと笑いながら、血気盛んな妹を見た。もっとも、彼女の心に火を灯したのは、己だ。
 こうと決めたらテコでも変えない。これが、あかねの熱血的性質だ。
 ただでさえ、茉里菜の出現により、相当、乱馬に対しては不信感が募っている。
 ここへきて、女体化して男と同棲…という疑惑を突きつけられれば、脳天に血が上るのは当然だろう。

「ちょっと…。あかね?」
 あかねは食べ終えた弁当を、レジ袋へ突っ込むと、早々にロッジへと引き上げにかかった。
「修行はどうするの?」
 と、尋ねるなびきに、
「乱馬が居るっていう宿屋へ客として押しかけて、乱馬の首根っこを押さえたら、修行の成果をブチかまして、すっきりさせて、東京へ帰るわっ!」
 そう言いながら、さっさと荷物をまとめ始める。
「今夜の宿をそこの旅館へ取り直すつもりなのかしらん?」
「当たり前でしょ!」
「ホント、あんたは一度言い出したらきかないから…。良いわ、今夜の宿代はあたしが立て替えといてあげるわ。勿論、東京へ帰ったら、あんたの分くらいは貰うわよ。」
「ええ、良いわよ!こうなったら、徹底的にやってやらないと、気がすまないものっ!」
 相当、怒りがこみ上げている様子だった。このまま、穏便に事が運ぶとは、到底、思えない。

(本当、気持ち良いくらい、あたしの思い通りに動いてくれるわね…。あかねって…。)
 本来なら、ここに東風が居て、クッションの役割を果たしてくれた筈だが、彼は帰京してしまっている。ゆえに、なびきが思い描いていたよりは、少しばかり「激しい事態」になるのは目に見えていた。だが、これも許容範囲か、と、あえて計画の変更はしなかった。



「ごめんください!」
 数時間後、鈴木屋旅館の前に、仁王立ちするあかねの姿があった。

「これはこれは…。いらっしゃいませ。」
 人当たりの良さそうな中年婦人が、二人を招き入れた。
「あの…、ここ、予約なしでも泊まれます?」
 なびきが、苦笑いしながら、鼻息荒い仁王立ちのあかねの後ろから、ひょっこりと顔を出して尋ねた。
「ええ、大丈夫、お泊めできますよ。お二人様ですか?」
「は、はい。」
「ご同室でよろしいので?」
「ええ。」
 気合が入りまくっているあかねを尻目に、従業員さんがてきぱきと、宿泊予定を尋ねて来た。
「あの。二人、今夜の宿、夕食と朝食込みでお願いできます?」
 なびきがあかねを掻き分けながら言った。
「かしこまりました。どうぞ、お上がりください。すぐに部屋をご用意致しますから。」

 乱馬の影も形も、そこには無かった。
「本当に、この宿に乱馬が居るの?」
 あかねの出鼻はくじかれた形だ。
 通された畳の部屋へどっかりと腰を据えると、あかねがなびきに問いかけた。
「ええ。昼間は確かに居たわよ。…まあ、こういう商売には時間的な区切りがないから、今は従業員寮かどこかで休んでいるのかもよ。」
「そうねえ…。ま、小さな宿屋だし、きっと、明日までには遭遇できるわね!」
 出された緑茶を啜りながら、あかねが言った。

 どうやら、今の時間、乱馬は旅館内には居ないようだ。いや、居るのかもしれないが、バックヤードに下がっているようで、姿は見えない。
 部屋を準備してくれた女中さんも、乱馬よりは年上の女性だった。なびきが言うように、今は休んでいるのかもしれない。
「まさか…。お姉ちゃん、乱馬を見間違えたなんてこと…。」
 さすがに、心細くなったのか、あかねが問いかけてくる。
「あのねえ…。あんた、あたしを誰だと思ってるの?そんな、不完全な情報なら、あんたに伝えないわよ。こんな大事な時期に。」
 出されたお茶を飲みながら、なびきが答える。
「それに、あんただって、写真、見たでしょう?…もっとも、写真はあんたが怒って破いちゃったみたいだけど…。乱馬君の顔は、あんた自身、見紛う筈もないでしょうが。」
「そりゃあ、そうだけど…。」
 あかねは俯いたまま、湯のみを口へと持って行く。
「夕飯の準備ができるまで、散策ついでに、捜しに出てみる?」
「できれば、そうしたいわ。」

 夏至が近いとはいえ、梅雨時の曇天だ。まだ日没までには時間があるだろうが、そろそろ、空に光がなくなってきている。

「お客さん、どちらへ?」
 玄関先で女中に呼び止められる。
「ええ、ちょっと回りを探索がてら、食事の時間まで、周辺を探索してこようかなあ…なんて。」
 空の雲が徐々に切れ、沈みゆく太陽が雲間に隠れ見えた。あかねもなびきも、旅館の銘が入った浴衣を着用して、すっかり、くつろいで見える。
「この辺りは、日が暮れると早いですからねえ…。気をつけて行ってらっしゃいませ。」
 と女中さんが親切に送り出してくれた。
「ありがとうございます。夕飯までには戻って来ますから。」
 そう頭を下げて、なびきと連れ立って宿を出た。
 
 どこからともなく、子供の明るい声が響いて来る。
 泊り客も少ないのだろう。旅館の回りは静かだった。ゆえに、子供の声もよく響いてきた。旅館の裏手に別棟が建っていて、そこから、声が響いてくるようだった。楽しそうに笑う声だ。
「ちょっと、あっちへ行ってみよっか。」
 姉の一言に誘われるようにあかねは、その子供の声のする方へと、足を向けていた。昼間見た写真に、乱馬と一緒に子供の姿が写っていたのを、思い出したからだ。
 もしかすると、男性の連れ子のようなその男の子の元に、乱馬が居るかもしれない。
 単純にそう思ったのだ。

 果たして、あかねの読みは、正しかった。
 旅館の裏手にある、別棟の建物の中が、電灯に照らし出されて、丸見えになっていた。夕闇にはまだ時間があるが、建物の中は電灯がないと暗いのだろう。
 覗く人間など、普段は居ないのか、カーテンも雨戸も閉められず、開けっ広げにガラス戸から、中の様子が窺い知れる。

「あ、あれは…。」
 視力の良いあかねが、その窓の向こう側を覗き込んで、声を挙げた。

 見覚えの有る、おさげ髪の娘が、子供と楽しそうにじゃれあっている。そして、その向こう側には、写真で見た眼鏡の男性が、目を細めて、二人を見詰めているではないか。
 絵に描いたような一家団欒。
 少なくとも、あかねにはそう見えたようだ。

「あちゃー…。やっぱり、乱馬君よね…。それも女体化した。」
 なびきの言葉が、あかねの心に火を灯した。一度点いた火は、みるみる、業火へと燃え上がる。

「乱馬…。あんた、やっぱり!」
 グウウッとあかねは拳を握り締めた。隣に立っていたなびきには、怒りが体中を駆け巡っているように見えた。あかねが、この場を飛び出すまで、そう、時間はかからないだろう。
「ちょっと…、あかねっ!」
 不安げになびきは妹に声をかけた。
「あんた、ちょっとは加減して、穏便にやんなさいよ。じゃないと、乱馬君以外の人を傷つけちゃうと後が厄介だからね。」
 咄嗟に忠告した。このままだと、あかねは、あの家諸共、ぶっ飛ばしそうな気弾でも打ち込みそうに思えたのだ。怒りに任せた力は、持てる能力をはるかに超えて、よく、暴発する。
「わかってるわよ!乱馬以外には、拳も気弾も当てないわ!」
「あの…何も、人にだけ当てないんじゃなくって…。建物も壊しちゃうと不味いから…。」
「わかってるわ!うるっさいわねっ!」
 
 最早、激高したあかねを止めだてする術は、なびきにはなかった。
 それどころか、あかねの背中を、トンと押すような言葉を吐き出した。
「良いわ、行きなさい!思う存分、やんなさいな!そのために来たんだから!」
 と。

「ええ、はなっからそのつもりよっ!」
 あかねは、浴衣の袖を捲り上げると、大股に、一歩前に踏み出した。最早、浴衣を着用しているという意識は飛び、道着に身を包んでいるかのように見えた。

 さて、あかねの直接行動が、吉と出るか、それとも、凶と出るか。

「グッドラック!」
 なびきは、遠ざかる妹の背中を見ながら、思わず、そう、呟きかけていた。



つづく






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