スローラブ 6



第六話 点と線


十一、

「とうとう、梅雨に入っちゃったわねえ…。」
 かすみが、恨めしそうに空を見上げた。

 五月晴れの季節は終わり、曇天が続く梅雨の到来だ。このシーズンの雨の降り方は、秋の実りの出来具合を左右する。程よく降り込む雨が、穀物の実りを約束するのだ。
 だが、この季節、主婦にとっては「鬱陶しい」の一言に尽きる。
 雨が続くと洗濯物はカラッと乾かない。気温が夏に向けて上がり始める季節でもあるから、洗濯物はすぐ溜まる。また、カビ易い気候でもあり、油断すると、家の中はカビや不快虫で溢れ出す。

 かすみはどっかりと両腕に抱えた洗濯物を持て余していた。
 道場では、あかねが良牙と修行をこなしている。ここのところ雨が続いているので、外での修行は出来ず、イメージトレーニング中心の気技訓練だ。ただでさえ、蒸し暑いのに、道場の中は熱気と汗の匂いで蒸し返している。
 そう、今年は例年のように、道場へ物干し竿を入れて、乾せないのだ。

「困ったわ…。いい加減、洗濯物を乾さないと、そろそろ替えの下着も底をついちゃうわ…。」
 かすみは修行に熱中する妹を見ながら試案に暮れる。

「あら、かすみお姉ちゃん、どうしたの?」
 かすみが困り果てているところへ、珍しく家に居たなびきが声をかけた。
「お洗濯物を乾す場所を求めて彷徨っているの。」
 ふううっとかすみがため息を吐いた。
「ああ、あかねたちが道場を占領しているから、乾す場所がないんだ。」
 気合を入れる声が響いて来る道場を指差して、なびきが笑う。
「大丈夫!あたしに任せて。」
 そう、かすみに言うと、道場へと吸い込まれるように入って行った。

 道場の中では、あかねが一人、気を高める修行をしていた。
 良牙の姿はない。

「あかね。」
 なびきは後ろからすっと声をかける。

「あ、なびきお姉ちゃん。」
 あかねは出していた気を引っ込めると、入ってきたなびきに返事を返した。

「良牙君は?」
 キョロキョロと辺りを見回しながら、なびきが問いかけた。
「うーん。今朝から姿が見えなくなっちゃったのよ。お姉ちゃん、知らない?」
 と反対に問い返された。
「さあ…。」
 と大袈裟に首を傾げて見せる。その陰で、次姉がにんまりと笑ったことに、あかねは気付かなかった。

(計算どおり…ね。)
 しめしめ、となびきはほくそえむ。




 実は、今朝、まだ早い時間、トイレに立ってきた良牙を捕まえて、なびきが紙を渡したのだ。
 梅雨時によくある、深い霧の朝だった。
『良牙君、あかねから預かってきたんだけど。』
 と思わせぶりに、紙切れをひらひらさせた。
『あかねさんから?』
 怪訝な表情を浮かべる良牙に、なびきはすかさず言った。
『いつも、お世話になってるお礼に、今日は一緒に都心へでも出かけたいなあ…だなんて言ってたわよ。』
 と、良牙の心をくすぐるような言葉を吐きつける。勿論、なびきのでっち上げだ。
『でも、試合までには、そう時間もないし…。あかねさんがそんな事、言い出す筈は…。』
 良牙も半信半疑でなびきを見返す。
『ここのところ、雨が続いてて、かすみお姉ちゃんの主婦魂が暴発寸前なのよねえ。』
『かすみさんの主婦魂?』
 不思議そうに良牙が問いかける。
『そ!主婦の魂よ。家事に燃える主婦の魂よ。主婦にとっちゃ、この長雨はとっても厄介な大敵らしくってねえ…。』
 と、洗濯籠を持ってそばを通ったかすみを、ちらっと見る。
『この、あかねさんの紙切れと何の関係があるのかな?』
『端的にズバリと言うわよ。いい加減、洗濯物をどっかりと乾せる体勢にしないと、かすみお姉ちゃんのストレスが溜まりに溜まって、大変なことになりそうなのよ。だから、今日一日はかすみお姉ちゃんに自由に道場を。物干し場として開放させてあげて欲しいの。』
『なるほど…。確かに、洗濯物が溜まって、主婦には大変そうだなあ。』
 良牙も居候の身の上、かすみの大変さがわからないではない。案外、家庭的なのだ、この男は。
『で、老婆心かもしれないけど、あかねの気技、次のステップへ全くと言ってよいほど、進めてないんでしょ?』
『え、ええ…。まあ…。あはははは。』
 馬鹿正直な良牙は、誤魔化しきれず、苦笑いをする。なびきに指摘されるまでも無く、「手詰まり状態」なのである。気技を打つ時の「きっかけ」が掴みきれずに居た。
『たまには気晴らししてらっしゃいな。外に出ると、スランプ脱出の気運をつかめるんじゃないの?あかねに話したら、結構、乗り気だったから。』
 そう言いながら、良牙の恋心をくすぐる。
『そうですねえ…。今日も一日雨だって天気予報じゃあ言ってましたし…。たまにはかすみさんに道場を譲って、気晴らしでも行って来るかなあ…。あっはっは。』
『じゃあ、決まりね。先に行って待ってて頂戴って。』
『先にですか?』
『ほら、あかねがこの前の大会に綾小路茉里菜を倒して優勝してから、最近、塀の外でうざい連中が、あかねのこと、狙ってるみたいなのよねえ…。だから、あんまり、公然と二人一緒に門戸から出たら…。世間が黙っちゃいないでしょ?そうなったら、あかねの集中力が途切れて…ってなことも考えられるから。』
『なるほど…。変装して行くにしても、一緒に家から出ちゃあ、不味いか。』
『そういうことお膳立ては、あたしがしておいてあげるから、あんたは、朝霧に紛れて、先に行っててちょうだいな。ほら。』
 そう言いながら、なびきは携帯電話を一つ授けた。
『これは?』
『今日一日、貸しておいてあげるわ。迷子になっても大丈夫なように、ナビゲーションシステムが搭載してある携帯よ。あかねが後から、これを目安に、あんたを追いかけるって寸法よ。』
 にっこりと微笑むなびきの言葉に、すっかり、良牙はその気になってしまった。
『これがあれば、安心だ!迷子になることもないぜ!じゃあ、お言葉に甘えて。先に行ってきまーす!』
『良い一日を…ね。良牙君。』
 まだ、壊れたまま放置されている門戸を、良牙は赤い番傘を片手にさして、足取り軽く出て行ったのだ。

(その気になった良牙君を騙すなんて、造作もないことだわね…。)
 良牙の後姿を見送りながら、ふううっとなびきはため息を吐き出した。
(悪く思わないでよね。…あんたが居たんじゃ、あかねの必殺技は仕上がらないの…。基礎を作るのに、手を貸してもらえたことは大いにありがたかったけれど…。)
 そうなのだ。なびきは態よく良牙を、天道道場から追い出しにかかったのだ。
(ま、このまま追い出したんじゃあ、あたしだって良心が咎めるからねえ…。ちゃんとデートのお膳立てはしてあげたからね。
 後は、あかりちゃんに連絡して、彼女の携帯から良牙君に持たせた携帯のGPSを検索してもらって、良牙君に落ち合って貰えれば…。良牙君、驚くだろうなあ…。デートの相手があかねからあかりちゃんに変わって。うふふ。)
 少し楽しそうに、なびきは笑った。
 なびきは、名うての悪女であった。人を手玉に取るのはお手の物。お人好しの良牙など、その毒牙にかかれば、掌で踊らされる。


(良牙君、あかりちゃんと落ち合えたかしらねえ…。ま、何とかなるとは思うけれど…。)
 くすっと笑ったところで、あかねと目が合った。

「で?何の用?お姉ちゃん。」
「あ、そうだったわね。」
 なびきは「ウウン」と一つ、咳払いをする。
「ねえ、あかね…。見たところ、修行に行き詰ってるんじゃないの?」
 と、いきなり核心を突いた。
「まあね…。どうしても、技を繰り出す「きっかけ」がつかめないのよ。」
 ほとほと、正直な妹だと思った。感情がそのまま、顔に出る。試合まであまり時間は残されて居ない。今日を入れて一週間。その間に、気技を物にできるか否か。そろそろ追い詰められているようだった。
「場所変えて、修行してみない?」
 なびきは、そんなあかねを見ながら、誘導的に話を進める。
「場所を変える?」
 あかねが姉を見返した。
「あんた、この前の試合からこっち、家の外に何回出た?」
「毎日出てるけど…。」
「それは、ロードワークで走っている時だけでしょう?他の場所へ出かけたかって訊いてるのよ。」
「……。」
 あかねは黙り込んでしまった。確かに、気技の修行に躍起になるあまり、恥ずかしいことにロードワーク以外、外出をしていないに等しい。大学も前期いっぱい、休学届けを出している。だから、キャンパスへ通うこともなくなっている。
「年頃の女の子が、ずっと家に缶詰じゃあ、進む修行も進まなくなるわよ。ったく…。良く、そんな刺激の無い生活に青春を賭けられるわねえ。」
「ほっといてよ!時間が無いんだから。」
 あかねはムッとした表情でなびきを見返した。
「仕上げの修行は場所と師匠を替えてやってみたらどう?」
 なびきは、にんまりと笑いかけた。
「良牙君以外に、師匠がいるならおめにかかりたいくらいだわ!」
 機嫌を損ねたのか、あかねが、突っかかってきた。
「あら、居るわよ。」
 なびきが笑った。
「まさか、お父さんたちとか言わないでしょうねえ。」
「まさか。」
 なびきは笑いながら言った。無差別格闘技の使い手として、父親も玄馬もそれなりの実力を兼ね備えてはいたが、気技に関しては、素人に近い。
「じゃあ、八宝斎のお爺ちゃんとか。」
「妹をエロ妖怪に売るほど、ど腐れてないわよ、あたしは。」
 なびきがするりと流した。八宝斎なら気技を自在に扱えるだろうが、如何せん、性格に問題が有まくる。また、婦女子に酷な修行など出きんと豪語している。十中八九、まともな修行はできない、いや、してもらえないだろう。
「じゃあ、誰よ。」
 イラつきながらあかねが問いかけた。
「幼い頃から、あんたを近くで見ている男性よ。しかも、信頼がおけるね。あんたが最後の詰めで思い悩んでいるみたいだったから、断られる事覚悟でお願いしたら、三日間だけだったら、ってOKを貰ったわよ。」
「え?そんな人居たかしら?」
 あかねが首をかしげた。
「あかねが、本気で気技に立ち向かうなら、決して、悪い師匠じゃないと思うわよ、東風先生は。」
「と、東風先生ですって?」
 あかねが声を張り上げた。すっかり彼女の脳裏から、東風先生の名はこそげ落ちていたからだ。
「そうよ。東風先生なら、良牙君と違った見地から、あんたにぴったりな気技を開発するヒントをくれるんじゃないかしら。」
「でも、東風先生って、お忙しいわよ。そんな時間を裂けるような人じゃあ…。」
「大丈夫よ。ちゃんと先生の了解は貰ってあるわ。好都合な事に、今は入院患者も居ないんですって。で、場所だけど、我が家じゃあ、かすみお姉ちゃん居て、修行になんないでしょうから、あたしがちゃんとお膳立てしておいたわよ。」
 と、隙が無い。相変わらず、かすみの前では極度に緊張して、正体不明になる東風先生。天道家で修行という危険なことは避けるべきだと判断したのだろう。
「で?場所は?」
「精進湖畔。」
「はあ?」
「だから、精進湖畔のロッジを借りておいたから。」
「精進湖って、あの富士五湖のおっ?」
「そうよ。東風先生も快諾してくれたわ。」
「そ、そんな遠方へ行けって言うの?」
「ええ。あ、大丈夫よ、あたしも行くから。」
「ええええーっ?ちょっと、待ってよ。三人行くとなると、交通費だって馬鹿にならないでしょう?そんな余裕…。」

「大丈夫よ。費用なら、私が持つわ。」
 なびきの後ろから微笑む貴婦人。
 乱馬の母、のどかだった。
「おば様?」
「だって、本来なら、あかねちゃんのコーチは乱馬がするべきなのよ。なのに、あの子ったら自分の責任を放り投げて、行方をくらませているんですもの。」
「あの…。乱馬のことは今更どうでも…。」
 困惑しながらあかねが言い返すと、ブンブンとのどかが首を横に振った。
「いいえ!良くないわ!あかねちゃんは乱馬の許婚なんです。今度の試合、不本意かもしれないけれど、乱馬の許婚の座もかかっているんでしょう?」
「そ、それはそうですけど、あれはあたしが勝手に…。」
「是が非でもあかねちゃんに勝ってもらわないと…。事はそれからですもの。宿代交通費一切を早乙女家が持つのは当然ですわ。だから、心配しないで、思い切り修行して、技を磨いてきてちょうだいな。」
「そ、おば様がああ言ってくださってるんですもの…。あ、費用は全ておば様のポケットマネーだそうよ。」
「こう見えても、お花やお茶、着付けの講師料で、結構稼がせてもらっているから、心配しないで。」
「そら、わかったら、時間が勿体無いから、とっとと、出発準備してきなさい!」
 
 こうして、なびきとのどかににごり押しされるように、あかねは修行へ出る事になってしまった。



十二、

「本当に、すいません、東風先生。」
 ワゴン車に揺られながら、あかねが助手席でちんまりと小さくなっていた。
「いや、何も、あかねちゃんが恐縮することはないよ。僕も、たまには息抜きしたいなあ…なんて思っていたところだから。もっとも、僕が付き合えるのは三日間だけだけどね。それ以上、接骨院を空けると、常連患者さんたちが困るだろうから。」
 紺色の作務着を身に付けたまま、ハンドルを握る東風が、にこにこと微笑みながら、答える。
「息抜きって言っても…。あたしの修行に付き合ってもらうなんて…。」
「なびきちゃんやのどかさんの話によれば、あかねちゃん、今、スランプなんだって?」
「スランプというか…。気技を会得できないんです。」
「気技はとってもデリケートな技だからねえ…。焦ってしまうと、完成するものも未完に終わってしまいかねないものね。それに、試合まで、そう、時間もないんだろ?」
 そうなのだ。
 全国大会まで、そう日に余裕はない。来週末には大会が始まるのだ。
「ここが正念場…ってところかな。僕でどこまであかねちゃんの役に立つかはわからないけど、よろしくね。」
「あ、いえ、こちらの方こそ、同行してもらって…。でも、何で、富士五湖なの?お姉ちゃん。」
 怪訝な顔で、バックミラーに写った後部座席に陣取るなびきを見やる。
「ちょっと、コネクションがあってね。安く泊まれる宿を世話してもらったのよ。」
 と笑った。
「コネクションって?」
「高校時代の友人にね、教えてもらったの。ほら、スポンサーがおばさまでしょ?早乙女家は決して裕福な資産状況じゃないだろうし…。出来るだけ安上がりでって探したのよ。」
 出て行く金にシビアななびきのことだ。本当に格安でツアーを組んだに違いない。使っている車も、どこからかタダで調達してきた様子だ。
「でも、何で精進湖なのよ。お姉ちゃん!」
「精進して修行なさいって意味合いもこめたつもりなんだけどなあ…。」
「あっはっは、駄洒落にもならないよ、なびきちゃん。」

 梅雨の晴れ間とはいえ、どんよりと曇った空の下。
 日本列島がすっぽりと、雨雲に覆われているこの季節。
 だが、さすがに、富士五湖辺りになると、ムッとした不快感はない。気温も首都圏に比べると、ぐっと低く、半袖ではきついものがあった。

 観光地らしく、湖畔に沿って、大きなホテルや旅館も建ち並んでいたが、やって来たのは、精進湖畔から少し奥まったところにある、小さな山小屋風のロッジだった。

「もしかして…。自炊?」
 あかねはなびきをチラッと見やった。
「当たり前でしょう?」
「あはは…。そうよねえ…。安く上げるには、やっぱ「自炊」よねえ。」
「あ、心配なく。あんたに食事を作らせるようなヘマはやらないから。」
 と、なびきが言った。
「食事はあたしと東風先生で賄うから、あんたは、修行に身を入れなさい。あんまり時間も無いし。」
「あら、あたしも大丈夫よ。少しは料理の腕を上げたわ。」
「じ、冗談じゃないわよ!あんたの修行のために、わざわざ遠出してきたんだから、あんたには修行してもらわないと、本末転倒になるでえしょうが!」
 慌てて、なびきが口を挟んだ。
 料理下手のあかねには、台所は任せないのが身のためだと思った。あかねの料理は、本人が思うほど、進歩を遂げて居ないのが実情。ただでさえ、梅雨時の湿度の高い季節。食中毒にでもなったら、大変だ。何より、あかねの料理の犠牲者には、なりたくはない。
「今夜の夕食はなびきちゃんに任せるとして…。あかねちゃん、到着早々、悪いけど、早速、修行開始だ。」
「そうね…あんまり時間もないんだから。ほら、さくっと着替えて!さくっと!」

 時間が無い。
 あかね当人が一番わかっていることだった。
 このままでは、決定打を欠いたまま、あの、高飛車お嬢様と試合に臨まなければならない。

 道着に着替えると、東風先生の前に立った。

「さあ、あかねちゃん。良牙君とやりこんできた修行の成果をとりあえず、やって見せて。」
 東風先生の指示に従い、良牙に教えてもらった、気のコントロールをやって見せる。

「なるほど…。気技を出すところまでの基本は出来ているみたいだね。」
「ええ、これであたしに合った「キッカケ」をつかめれば、気技は完成する筈なんですけど…。」
「あかねちゃんに合ったキッカケねえ…。じゃあ、問うけど、あかねちゃんは自分に合った気の技ってどういう風なものだと思ってるの?」
「え?」
 咄嗟に返答に困った。
 自分に合う気の技など、じっくりと考えたことがなかったからだ。
「新しい技を作り出そうとしているんだもの。イメージくらいは持っているんじゃないのかな?」
「イメージ…。」
 正直のところ、イメージすら捉え切れていない。
「乱馬君の飛竜昇天破のような竜巻技なのか、それとも、良牙君のような暗く歪んだ空気をコントロールして相手を砕く技なのか…。どうかな?」
「……。」
 あかねは、考え込んでしまった。
「気技と一概に言っても、たくさん種類があるからね。君はどんな技が有効だと思ってるんだい?」
 東風先生は、にこやかに笑いながらも、ぐいぐいとあかねに迫って来る。
「考えたこともなかったわ…。」
 ペタンと、あかねはその場に座ってしまった。
「なるほど…。あかねちゃん、君が気技を完成できない根本要因は、その辺りにあるようだね。己の特性を全く掴みきれて居ないというか…。
 あかねちゃんの今までの格闘スタイルは、どうだったか、思い出してごらん?計算されつくした緻密な技を打つタイプじゃなくって、どちらかというと、激情で突っ込んでいくタイプだったんじゃないのかな?あかねちゃんは…。」
 東風に指摘されるまでも無い事だ。
 考えるよりも先に拳が動く。それが、端的に言い表したあかねの格闘スタイルだった。
「あかねちゃんが気技を完成できないのは、「技を打つスタイル」にこだわりすぎてるからじゃないのかな?」
「スタイルにこだわりすぎる…。」
「ああ。君の格闘の持ち味は、幼い頃から「押し」であり「豪快な拳や蹴り」だったんじゃないのかなあ。言うなれば、破壊的攻撃。」
「破壊的攻撃。あっ…。」
 そう言って息を飲んだ。

 目からウロコが落ちる…というのは、このようなことを言うのかもしれない。
 乱馬の「氷の心」、良牙の「歪んだ暗い心」、茉里菜の「炎の攻撃」と、先人たちの「キッカケ」に心を奪われていて、己の格闘の本質を全く見失っていたのかもしれない。

「東風先生…あたし。」

「わかったみたいだね。そら、イメージできるようになったろう?君の、君だけの気技のイメージが沸いてきたんじゃないのかい?」
 東風はにっこりと微笑んだ。

(あたし、忘れていたわ。気技を打ち込むことばかり考えていて、本来のあたしの格闘スタイルを見失うところだった!)
 さすがに、幼い頃からあかねの格闘を見守ってくれている、東風の言葉は違った。
 あかねに、技を作る上で一番大切な事を教唆してくれたようだ。

「あかねちゃんの持ち味は、相手を打ち砕くほどの拳や蹴りだよ…。そこに気を乗せてやれば、自ずと、君にしか打てない気技のスタイルが見えてくるんじゃないのかな。」

 そうだ、気技は何も掌からだけ放つものではない。相手が恐い気技を打ってくるのなら、それを相殺するだけの気技を打ち返せば良い。
 あかねの瞳に、再び「強い闘気」がみなぎり始める。

「でやあああああっ!」
 誰も居ない、広々とした原っぱで、あかねの本気の修行が始まった。


『おめえさあ…。何、気負ってんだ?力で押すだけが無差別格闘の技じゃねえだろ…。今のままだと、おめえの選手生命は…いや無差別格闘技は、ここで終わっちまうぜ!』
 試合会場で乱馬に言われた言葉がそのまま脳裏に蘇る。

(気負ってたって良いじゃない!あたしの格闘は力で押すのが本来の持ち味。あんたなんかに、わかってたまるものですかーっ!)

 激しい気焔と気合と。幼きより鍛え抜かれた拳に、良牙との修行で会得した気の溜め方が加わる。まだ、気技は出せないが、それでも、相手を破壊するだけの力が、拳に乗っかった。

「その意気だよ!この線で詰めていけば、充分、試合でも通用する気系の技が出来上がるんじゃないかな?」
「はあああっ!」
「もっと、拳や脚に気を集中させて!瞬時に爆発させるくらいの気合を持ってやらなきゃ!」
「はあああっ!」

 分厚い雲の下、夕闇迫り始めた、富士山麓の原っぱで、重なるあかねと東風の勇姿。少し離れた場所から、オペラグラスで眺める、なびき。
「吹っ切れたみたいね。あかね。やっぱ、東風先生を引っ張り出して正解だったわ。こうも迷っていたあかねを、いともあっさりと導いてしまうなんて…ね。」
 それなりに、妹のスランプを心配してきた身の上だ。あかねの豹変ぶりは手に取るようにわかる。
 いくら、外野が頑張っても、闘う当人に気合が入らねば、全てが不発に終わってしまう。
「悪いけど、良牙君じゃあ、こうはいかないものね。さて、もう一つ、やることが残ってたんだっけ…。あたしには。」
 そう言いながら、メモ帳を開いた。
 そこには、自分にしかわからないような文字で「情報」が書きこまれていた。

『剣道部の春合宿で「おさげの女」とぱったりと出くわしたぞ!』
 九能帯刀のその一言により、乱馬失踪を巡る大きな点と点が微妙に浮かび上がってきたのだ。
『ねえ、九能ちゃん!おさげの女と出くわしたのは、何処?剣道部の合宿って、確か…富士五湖だったわよね。』
 冷静ななびきらしくなく、九能へと激しく詰め寄った。
『精進湖畔だが。』
 なびきの勢いに気圧されながら、九能は答えた。
『精進湖畔…。そこで乱馬君を見かけたのね?』
『早乙女などは見ておらんわ!僕が見たのはおさげの女だぞ。』
『どっちでも良いわ。で?彼女とは話したの?』
『いいや。互いに目がかち合って、追いかけはしたが、逃げられてしまった。いやあ、実に機敏だったぞ!おさげの女は。』
『そ、そう…。』
 実は、未だ乱馬は女体変化体質を引き摺ったままであった。呪泉郷へ行く金も暇もない、というのが正しいところ。従って、水を媒体として、男と女に入れ替わる。ただ、最近は水をかぶらないように、細心の注意を払う努力をしているようで、今のところ、マスコミや大学関係者にその「変身能力」のことはばれていないようだ。

(うふふ。まさか、九能ちゃんの口から、乱馬君の居所が知れるなんて…ねえ…。)
 なびきは、にっとほくそえんだ。
(捕まえたわよ。上手い具合に女に化けて、世間からは隠れたつもりでも、あたしの情報網からは逃れられなくってよ、乱馬君。)

 そうだ。
 なびきは九能の口という思いもよらぬところから乱馬の居所を突き止めたのである。情報屋の執念が呼び込んだ奇跡であった。

「後は…。仕上げね…。さて、どういう風に、あかねへ乱馬の居所を知らせて、仕込むべきか…。仕込み方によっちゃあ、ここまで培ってきたものが、全て灰燼と化すものねえ。腕の見せ所だわ。」
 
 ふっと目を上げると、夕闇迫る富士山が、真っ黒に浮かび上がっているのが見えた。その手前には「樹海」が広がる。

「やっぱ、ショック療法が一番かな…。あの跳ねっ返りカップルには。」
 そう言いながら、メモ帳を閉じた。



つづく




 いよいよ、物語は佳境へ。
 実は、この辺りを書いているとき、二つ作ってあったプロットをどっちへ流して転がしていくか、相当迷いました。
 最初は、「五年目の女乱馬の浮気疑惑」というテーマで引っ張る予定…だったのでありますが…そりゃ、投稿するには、あんまりだというので、完成作を採用しました。


(c)Copyright 2000-2009 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。