スローラブ 5



第五話 止まらない時の中で



九、

「はあああっ!」
 あかねの顔が熱くなる。
「もうちょっと堪(こら)えて!」
 傍で良牙が、真摯な瞳を投げかけながら、言葉を継ぐ。
「はああああああああああっ!」
 堪えろと言われて、ますます、顔が真っ赤になった。
 もう、これ以上堪えきれない。そう思った時、あかねの右掌からポンと小さな気玉が飛んだ。
 プッシュンと気の抜けた音がして、目の前の庭石にぶつかって消える。
 ふううっと、身体から気力が抜け落ちる。ハアハアと荒い息が鼻や口から零れ落ちる。汗が額から伝い落ち、ポタポタと地面へと吸い込まれていく。

「体内の気を一点に集中させそれを弾き飛ばす事が、かなり正確にできるようになったね。」
 良牙が傍で腕組みしながら、あかねの気弾に対する評を述べた。

「でも、気は出せるようになったけど、破壊力は満足がいくほど無いわ。」
 あかねは流れてくる汗を腕で拭いながら、良牙へと向き直った。

 五月も末になり、だんだんに気温が高くなってきた。
 日中の気温は二十五度を軽く越える。そろそろ、梅雨が近いことを暗示させる、蒸し暑さが東京を包み始めていた。

 あれから、三週間あまり、良牙は天道家に泊り込み、あかねの気弾の修行を付き合っていた。
 家を一歩でも一人で出たら迷うからと、良牙は大学にも行って居ない。いや、大学をサボっているのはあかねも同じ事であった。
 心配した格闘部の友人たちが、メールを寄越してくるが、「全国大会に向けて、修行中なの!ノート頼むわね!」と、生真面目なあかねらしからぬ言動で返事を打ち返していた。
 所謂、自主休学である。
 早雲も、必死で気技を習得しようと頑張っている娘に、水を注すこともできず、学校へ行かない事を黙認していた。
 朝は道場での座禅に始まり、気を落ち着かせる。それから、良牙と共に、夜明けの街をロードワーク。そして、午前中は気合を入れる修行。午後は気玉のコントロールをつける修行をこなしていた。
 夕闇が迫る頃には、気力を使い果たし、立ち上がれないほどフラフラになる。シャワーで汗を流し、ご飯を食べると、そのまま、ベッドへ、パタンキュー。
 いや、修行を始めた頃は、夕陽が沈む頃まで持たずに、そのまま庭先に倒れこむことも多々あった。

 良牙は修行を始めるに当たって、まずは、気を高め、正確に思ったところへ放てる訓練をするのが先決だと、あかねに言い含めていた。
 コントロールが悪いと、せっかく放った気弾が無効になるからだ。相手に当ててこそ、気弾の攻撃は有効となる。
 実際、あかねのコントロール能力は最悪だった。お世辞にも褒められた代物ではない。
 あかねという人間の生来の不器用さが手伝っていたと思うのだが、当初は本当に、気まぐれにしか思ったところへ着弾しなかった。
 こんな状態で、先に「技のキッカケ」を修行して会得してしまったら、大惨事を招くのは目に見えていた。
 気技は難易度が高いだけではなく、危険な技だ。当然の事ながら、使い手や受け手は勿論、下手をすれば、観客も巻き込んでしまう可能性もある。
 気技を使う無差別格闘技は、数在る徒手格闘の中でも、極めて危険度が高い競技とされていた。それゆえに、他の格闘技のように、際まで観客がいっぱいになることもなかった。
 無差別格闘技連盟が決めた学生大会のルールでも、武舞台の回り五メートル四方へは観客は入れない。プロになると、武舞台と同じ平面に、観客席は作らない。野球場や陸上競技場のフィールドに舞台を作ると、観客席ははるか後方のスタンド席だけ、といった念の入れようだった。豆粒のような対戦者をオペラグラスで覗きながら観戦という試合も、稀ではなかった。また、気弾を観客席へ向けて打ち込むのも、禁じ手とされていた。
 そのくらい、気技は難易度が高い技とされたが、やはり、迫力の有る物を見たいと思うのが観客心理。気弾を打つ選手は人気も高かった。が、ひとたび、観客に怪我人が出れば、即、負けとなりレッドカードを貰ってしまう。レッドカードが出れば、向こう半年間、公式戦に出られないという罰則までついていた。
 一見、派手な気技は、危険な技であることは、誰の目に見ても明らかだ。ゆえに、初心者が気弾を扱うのはタブーとさえ言われていた。
 この前、綾小路茉里菜が技を禁じ手として使わなかったのも、もしかすると、コントロールが悪く、観客席に飛ばしかねないという監督判断からきたものだったかもしれないのだ。

 学生選手権にて、この気技を自由自在にコントロールし、打ち具合や方向を定められる上級者は数人しか存在しない。勿論、その筆頭に上げられるのは「早乙女乱馬」そして、「響良牙」であった。
 プロと闘っても、引けを取らない、いや、むしろ、プロも歯が立たないかもしれないと噂される二人だ。
 乱馬も気技が難しいことがわかっているので、気技を打ってこない相手には絶対に激しい気弾は使わなかった。軽く、気を当てて、吹き飛ばすくらいでお茶を濁していた。彼が本気で気技を使って闘う学生大会の相手は、響良牙ただ一人。で、良牙は持ち前の方向音痴が禍(わざわい)して、殆ど対決会場へ辿り着けなかったものだから、幻の好選手という、異名と取っていた。
 ちなみに、女子格闘界では、まだ、気技を華麗にこなす武道家は、プロもアマも公式にはゼロだった。
 それ故、茉里菜が今度の試合で使ってくると、人気も名声も上がるだろう。大方、あの「高飛車女」はそれが狙いで、あかねに挑戦状を叩きつけてきたのかもしれなかった。


「これじゃあ、危なっかしくて、試合じゃあ気弾が使えないよ。あかねさん。」
 修行を始めた頃は、あかねの前では押しなべて愛想の良い良牙が、思い切り苦い顔をするくらいだった。
「まずは、小さな気玉で、気を確実に当てる修行から始めようか。」
 そう提案した。

「でやああっ!」
「たあああっ!」
 張り切って打ち上げる気玉は何処へ飛んでいくか、打った本人もわからない。右と思って打ち込んでも、真上に飛ぶ事があれば、投げつけて地面でバウンドして後ろへ飛ぶ、などという事もあった。
 あかねが、庭先で気を当てる修行をやり始める頃になると、かすみなどは、慌てて洗濯物を取り込んだ。油断していると、洗濯物が気玉に弾き飛ばされて、砂まみれになりかねないからだ。実際、何度も白い洗濯物が関東ローム層の砂土に灰色に汚れた。その度に、洗いなおすとあっては、主婦はたまらない。
「あかねちゃん、良牙君、お願いだから、気玉を飛ばす練習は、洗濯物を取り込んでからにしてもらえないかしら?」
 見るに見かねたかすみが、二日目に二人に直訴したくらいだ。
「道場でも、絶対にやらんでくれたまえよ!これ以上、床や壁が壊れたら、修理代も馬鹿にならないからね!良牙君、あかねっ!」
 早雲にも強く釘をさされた。
 何かの拍子に「技を高めるきっかけ」をつかまれたりすれば、道場ごと吹っ飛ばされる危険性もあったからだ。早雲に巨顔化したうるうる涙目で迫ってこられれば、承諾せざるを得ない。
 それ以降、洗濯物が乾く頃合いを見計らって、二人はコントロールの修行を始める。勿論、天道家の人々は、二人が修行を始めると、さあっと庭先から居なくなる。巻き込まれては大変だからだ。

「短い期間に、随分、庭が荒れたねよえ…。天道君。」
 荒れた庭先を見て、玄馬が苦笑いしながら、早雲に語りかけた。ところどころ、地面や庭石には焦げた跡がある。塀も原型を保ってはいるが、随所で崩れかかっているところがある。植木鉢のいくつかが、無残にも割れて、転がっている。心なしか、庭木も形が変わったような気もする。
 母屋に至っては、硝子窓が黒いビニールテープで飛散止めしてある。まるで、戦時中に逆戻りしたような外観だ。ところどころあからさまに割れているところもある。
「仕方ないよ…。あかねは、天道道場の明日がかかった、大切な試合を控えているんだから。庭木の一つや二つ…。塀や窓ガラスの修理代も…。我慢だ、我慢…ううう。」
 早雲は、日ごとに荒れてゆく、我が家の庭を眺めて、うるうると目を潤ませる。


 そんな痛みを伴う修行も、半月もやれば、だんだんに体力も付き、ペースにも慣れてきた。あかねも、最初の頃のように、夕方まで体力が持たずに倒れこんでしまうこともなくなってくる。それに比例するかのように、気のコントロールもまともになってきた。

「やっと、まともになってきたね。あかねさん。」
 良牙はホッとなずんだ表情をあかねに見せた。
「良牙君の修行のおかげよ。コントロールが大分、正確になってきたわ。」
 あかねもにっこりと微笑む。
「後は、強い気弾を放つための「キッカケ」を掴むのみ…か。」
 そう言ったまま、二人は黙り込んでしまった。

 一言で「キッカケ」と言っても、容易く見つかるものではない。
 乱馬の打つ「飛竜昇天破」は相手の熱気や怒気をエネルギーに、氷の拳を打ち上げる事で、竜巻を呼ぶ大技。この大技を会得して以来、乱馬は己で修行して様々な気技を編み出した。
 乱馬が実際に試合で使う技は、被害者が出て失格にならないように、抑えた気技が多い。あかねが見たところ、持てる気技の半分も出していないのではないかと思える。いや、半分すら出していないかもしれない。

「俺の獅子咆哮弾は、あかねさんには使えそうにないし…。」
 ポツンと良牙が言った。
「え、ええ…。確かにそうね…。」
「あかねさんの元来の気には「不幸な気配」は微塵も含まれていないし…。うーん。」
 良牙の大技「獅子咆哮弾」は、己を不幸の極限へと追い込んで初めて完成形が打てる技だ。落ち込んだ重い気分をそのまま、気へと変化させ相手を滅する。方向音痴で不幸な良牙だからこそ、会得できた技。あかねに転用するのは所詮、無理な話。
「綾小路茉里菜が打つ「炎系」の技に対抗するには、乱馬の飛竜昇天破のような氷の技が有効といえば、有効だが…。君の場合は乱馬のように冷徹には徹しきれないだろうし…。」
 すぐに熱くなる性格のあかねに、氷の気持ちを持つのも、これまた無理な話だった。
「あたしの気ってどんなタイプなのかしら…。」
「どちらかというと、熱気に近いかもしれないなあ…。瞬間湯沸かし器のような…。決して冷気じゃない。」
 良牙が唸った。

 気のコントロールは何とか上手くできるようになったが、この先が進まなかった。
 それでも、時は止まらずに、前へ前へと過ぎていく。
 全国大会は目の前にぶら下がってきた。
 日めくりカレンダーがめくられるたびに、カウントダウンの焦りにも似た気持ちが、修行中のあかねに起こり始めていた。




十、

 さて、あかねが修行に明け暮れていた頃、一方で、なびきも乱馬の消息を求めて奔走していた。
 学業を放り出すわけにもいかないので、それなり多忙な日々を過ごしている。
 勿論、あかねには感づかれないように、秘密裏に動いていた。

 この半月近く、彼女の元に掻き集められた情報は、決して、良質なものばかりでは無い。いや、むしろ、徒労となることの方が多いのだ。
 総合大学としてもある程度の規模がある「城海大学」へ進学した同級生も居たし、そちらから情報を吸い上げてはいるるが、やはり、乱馬の姿をキャンパス内で見ることは無いという。格闘部へ探りも入れてみたが、日本一の無差別格闘技系サークルゆえの秘密主義にぶち当たり、一向に埒が明かない。
 
 そんな中、高校時代に交友があった城海大学へ進学した友人をやっと捕まえ、ネタになりそうな情報を入手できた。

「乱馬君、練習中にあやまって、とある研究生に怪我を負わせちゃったんだって。」
「それ、良かったら、詳しく訊かせてよ。」
 なびきは呼び出した友人を前に、聞き出しにかかった。
 なびきの同級生、現在、城海大学理工学部スポーツ科学科に在籍している四回生だ。忙しい研究生活の合間、何とか連絡を取り付けて、会ってもらった。
「これは他言無用だって、研究室からに釘をさされてるんだけど…。」
 そう前置きしながらも、友人は教えてくれた。
「ウソか本当か知らないけれど、乱馬君、己の技を磨き上げる途中、あやまって気弾を近くに居た人に当てちゃったんだって。」
「ふーん…。気弾をねえ。」
「試合中はともかく、合宿練習中は部外者も殆ど入って来ないし、演習場のような施設で思い切り気を打てるっていうんで、その日は、物凄くテンぱって激しい修行をしていたらしいわ。」
「ふんふん。」
 なびきは上手く合いの手を入れながら、聞き入る。
「その、合宿に、あたしの先輩のスポーツ科学科の院生や研究助手が何人か同行していてね、部員のデーターを集めていたそうよ。」
「部員のデーター?」
「ええ。格闘部だけじゃなくって、体育会系サークルはスポーツを科学的見地から研究する人間にとっては、データーの宝庫なのよ。」
「ああ、なるほどね。学問的見地から研究データーを集めていたって訳ね。」
 なびきは相槌を打った。
「無差別格闘技選手の身体を科学する…そんな感じで、格闘部の合宿にも研究生たちが何人か張り付いていたと思うの。で、そんな最中、事故が起きたんですってよ。ほら、乱馬君って、平素の試合や練習場ではセーブしているんでしょ?」
「ええ、多分、試合じゃあ、持てる実力の半分も出しちゃいないわね。」
「そうでしょうね。乱馬君って合宿所へ来たら、目の色が変わるって、有名なのよ。」
「へええ…。」
「こう、日ごろ相手に怪我させちゃいけないってことから押さえ込まれているタガが外れ落ちるっていうか。ずっと、合宿所住まいで自由に一人修行にも出かけられないから、ウップンが溜まってたんでしょうねえ。」
「ウップンねえ…。」
「広々とした演習場へ来て、つい、日ごろの何倍もの力を全開させちゃって、こうバンッってね。その日もそうだったらしいわ。傍に居たデーター収集係の研究助手の一人を、乱馬君の気弾が直撃しちゃったんだってさ。」
「あら、まあ…。」
「直前に人影に気付いて、気弾の威力を弱めたらしいけれど、セーブしきれず、直撃しちゃったそうなのよ。」
「で?その人は?」
「いくら、寸前に威力を弱めたとはいえ、乱馬君の気弾をまともに受けたのよ。即刻入院したって言ってたわ。その後の経緯は不明なの。少なくとも、研究室には戻っていないらしいわ。で、その後、乱馬君の様子がおかしくなって…で、遁走しちゃったって噂よ。」
 辺りを見回して、声を落としながら話してくれた。あまり、声高に言える話ではないのだろう。
「それって、いつ頃の話なの?」
「春の演習合宿って言ってたから、お彼岸ごろの話じゃないかしら。」
「お彼岸かあ…。彼が合宿所を出たのはその後くらいよねえ。」
「その演習合宿を終えて、すぐだった、って噂よ。」
「ふーん…。」
 喫茶店で珈琲を啜りながら、友人の話を聞く。
「でも、この話は研究室、ううん、学長から緘口令が敷かれてるの…。あたしも、人目を忍んで、乱馬君と親戚も同然ななびきには話してあげたんだから…。だから、絶対に、他言しないでね。」
 友人へ流れた情報の経緯は不明だが、恐らく、同じスポーツ科学科の中で噂になっている、真実の可能性の高い話だろう。
「ねえ…よかったら、その怪我した人の名前、わかんないかなあ。」
 なびきは一気に攻勢をかけた。彼女の鋭い勘が、乱馬の失踪とこの話が繋がっていると、働きかけてきたのだ。
 暫く、友人は、黙って腕組みした。緘口令が敷かれているというのだ。どうしようかと、迷っているようだった。
「ごめん…。噂の域を出ないから。」
 と、苦しい言い訳をしながら、やんわりと断ってきた。さすがに、巨大学問組織を敵に回すつもりはないのだろう。彼女もそこの学生である以上は、当然の判断だ。
 これ以上、突っ込むのは無理か…となびきも観念する。
 これだけでも、話してもらえたことで良しとしよう、と思った。

 だが、さすがに、一方的に話を切り、後味が悪いと思ったのだろう。これから先は自分で調べてと言わんばかりに、友人はなびきに付け加えるように言った。

「あ、怪我した彼、退院して、現在は山梨のご実家で静養なさってるって話もあるわよ。その助手さん、私より、確か五つ上のこの大学の院出身者だって訊いたことがあるわ。」
 やっぱり、真実味の強い話である。名前を教えて欲しいと、友人に持ちかけてから、急に口をつぐんだことからも明らかである。恐らく、彼女はその研究助手と親しいか近しいようだ。同じ学部であるし、卒業論文が控えている大学の最終学年でもある。研究員の指導の下、己の研究を進めることも多々有るからだ。
「サンキュー。お礼に、ここはあたしがおごるから。」
 なびきは、伝票を持つと、すっと立ち上がった。
「ありがとう…。バイト料が入る前だから大いに助かるわ。」
 友人はにっこりと微笑んだ。
 良質の情報にはそれなりの報酬を…というわけで、なびきは、友人に夕飯をおごった。

 彼女が最後に口走った、言葉はそのまま、丸ごと、極上の情報源になる。ここからなし崩しに辿っていけると、なびきは踏んでいた。

 次の日、なびきは、城海大学のキャンパスへと立っていた。
「ま、あたしの腕の見せ所は、これからよ。」
 ペロッと舌を出しながら、なびきは城海大学の図書館を見上げた。孤城のようにそびえ立つ、中層のビルディング。

「一体、僕を呼び出して、何の用なのだ?天道なびき!」
 なびきの横には、九能帯刀がふんぞり返りながら立っていた。この時節に、流行らない、袴姿だ。
「いいから、いいから、ちょっと協力してよ。」
 なびきは、有無も言わせず、九能を巻き込んで同行させてきたようだ。
「協力だと?一体、僕に、何の協力をしろというのだ。」
「あんた、確か、スポーツ科学科専攻だったわよねえ。」
「ああ…。それがどうした?」
「卒業研究は日本の古武道について調べるんだっけ?」
「い、一応な…。良く知っているな。」
「じゃ、行きましょうか!」
「お、おい、こらっ!何処へ行くというのだ?」
「あの大学の巨大図書センターよ。」
「お、おい。僕たちはここの学生じゃないぞ!」
「いいから、いいから!気にしないの!」
「気にしないと言われても、気にするぞ!こら!天道なびき!」

 なびきは、九能を引き摺るように、城海大学の図書館へと導いて行く。
 こういう大学研究機関は、他大学生でも、研究資料の検索という意味では、収蔵している研究資料を閲覧させてくれることがある。なびきは、それを利用して、ターゲットをあぶり出そうというのである。

「いったい、何だと言うのだ?」
「だから…。ここの修士論文を調べるのに、あんたの名前貸してって言ってんの。」
「名前を貸すだあ?」
 きょとんと見詰め返してくる九能。彼の手にボールペンを握らせると、言った。
「手続きするのに、名前と住所が居るのよ。」
「そんなの、自分の名前を書けば良いではないか!」
「ちょっと、のっぴきならない事情があってね、あたしの名前は書けないの!」
「で?僕の名前を書けというのか?」
 ブチブチ言う九能に向かって、とどめの言葉を一つ。
「んと…報酬は、あかねの生写真。」
 うふっと笑った。
「な、何っ?あかね君の生写真だあ?」
 九能がピクンと聞き耳をたてた。
「ええ、あかねの水着姿の生写真よ…。代表名としてちゃちゃちゃっと、書類にサインしてくれたら、あげるわよ。うふふ。」
 ちらっとなびきは、手に持った写真を九能の鼻先にちらつかせた。
 九能の目の色が変わった。この年になっても、まだ、あかねを追いかけている九能である。なびきが睨んだとおり、効果は絶大であった。
「よし!名前でも住所でも、何でも貸そう!」
「ありがとう、九能ちゃん。」
 にっこりとなびきは微笑んだ。

 こういう大学の図書館や研究室には、卒業生の卒業論文などが収蔵されて保存されている。で、学問の交流を盛んに言われ始めているので、己の身を明かし、研究の参考にすると言えば、その図録などと閲覧させてもらえるのである。それを、なびきは利用したのだ。
 友人が最後にくれた、極上の情報。自分たちよりも五つ年上のこの大学の院出身者の研究助手。実家は山梨。この情報を元に調べるために、研究論文を利用しない手はない。
 ここの研究助手で、しかも、院に在籍していたとなると、修士論文などが残っているはずである。今の研究と遠い研究で論文を書いてはいないだろうから、辺りをつければ、氏名が割れる。なびきはそう踏んだのである。
 だが、調べるに当たって、彼女の大学の専門は「経済学」。スポーツ科学とはあまり関わりが無い学問を履修している。そんな彼女が、わざわざ城海大学のスポーツ科学科の研究論文を調べに来るのは不自然だ。しかも、住所を書けば「天道道場」の関係者だとばれてしまう。だが、九能は他大学とはいえ、スポーツ科学科に身を置いているので都合が良かった。彼をそそのかして同行させ、手続きさせて論文を調べれば良い。

 案の定、ターゲットの名前は容易に知れた。

「鈴木太郎…。ったく、どこにでもあるような平凡な名前よねえ。」
 苦笑いしながら、手にした研究論文のコピーを眺め入る。
「研究材料は、格闘家の気についての研究かあ…。なるほど、乱馬君を追っかけていたのも何なく納得できるわね。」
 
 案の定、なびきの推測は当たった。二年前に書かれた修士論文の中に、被害者となったらしい青年の名前を発見したのだ。
 後は、理由を何かとつけて、彼の実家のある場所を学生課で聞き出せれば、OK。勿論、個人情報漏洩にうるさい昨今だから、なかなか、すんなりとはいかなかったが、それでも、なびきは持ち前の口八丁、手八丁で、何とか「鈴木太郎」の実家を聞き出していた。
「富士山麓の小さな町かあ…。」

「一体、何しに来たのだ?そんなに、そやつの修士論文が読みたかったのか?」
 九能が横から眺めてくる。
「ちょっとね…。調べごとがあったのよ。九能ちゃんに同行してもらえて助かったわ。ほら、約束の報酬よん。」
 そう言いながら、なびきはあかねの生写真が入った封筒を手渡す。
「おおおおっ!これは、あかね君の…。」
 九能を釣るには、あかねの写真が有効だった。
「これで文句ないでしょう?」
 ふふふとなびきがほくそえむ。

「あーら、そこにいらっしゃるのは、天道道場の関係者様ではありませんこと?きょーほほほほ。」
 背後で聞き覚えのある高笑いがした。

「あんたは…。」
 なびきはハッとして後ろを振り返った。
 そこには、道着を着込んだ綾小路茉里菜が口に手を当てて、お嬢様笑いをしていた。背後に、堂下など、城海大学の無差別格闘選手たち多数を引き連れていた。

「やはり、天道道場に居たお方ですわね。」
 茉里菜が侮蔑をこめた目で、なびきを見た。
「ええ、まあね。」
「あら…敵情視察かしらん?」
 傲慢さをプンプン漂わせながら、茉里菜が言った。
「ま、そんなところね。」
 なびきは否定をすることもなく、さらっと受け流す。この時点で、二人の腹の探り合いが始まっていた。
「お生憎様。わたくし、もう、練習は上がりましたの。」
「あんたの練習なんか、別に興味はないけど。」
 二人で会話をすすめると、横から九能が割り込んできた。
「あら、わたくしの練習を偵察に来られたんじゃありませんこと?」

「ほう、これは端正な顔立ちのお嬢様。君も格闘なさるのかい?」
 この男は、女性に注目されるのは好きな方だ。己が無視されているとなると、強引に割って入ってでも、己の方へと関心を誘いかける。
 さらっと、クセのある髪の毛を手櫛で掻き揚げながら、茉里菜を見やった。格好をつけたつもりのようだ。
「ええ、無差別格闘を嗜みましてよ。」
 ツンと茉里菜が答える。
「無差別格闘をねえ…。ふむ。ここでお会いしたのも何かの縁。お名前を…。いや、レディーに訊く前に自分から名乗るのが筋だな。」
 九能の自尊心の塊が発動する。
「よし、僕から力強く名乗るぞ!僕は風林館大学の蒼い雷(いかずち)と謳われた、青年剣士、九能帯刀その人である!」
 えっへん、と鼻息を荒く、胸を張って威張って見せる。

「九能帯刀ですって?…ああ、あの、九能小太刀の、馬鹿兄貴の。」
 九能の威勢を、茉里菜は尽く、毒舌で打ち砕く。

「九能小太刀の馬鹿兄貴…。」
 そう反芻したまま、九能は動かなくなってしまった。
「ちょっと、九能ちゃん…。あらま、固まっちゃってるわ。だらしないんだから。馬鹿兄貴って言われたくらいで、もう。」
 上を向いたまま、焦点が合わない瞳の九能を見て、ふうっとため息を吐く。

「このお方、小太刀さんの馬鹿兄貴があなたの彼氏ですの?」
 余裕をかまして、茉里菜がなびきに問いかける。馬鹿兄貴という言葉に反応して、九能は再び、失意のどん底に沈む。
「まさか!ただの友人よ。」
「そうですの?友人よりも近しい間柄なのではなくって?こんなところをお二人でうろついていらっしゃるのですもの。」
 穿った瞳がなびきを見詰めてくる。
「まあ、想像にお任せするわ。あんたがどう思おうと、あたしは別にかまわないものね。」
 なびきも軽く受け流す。
(ま、九能ちゃんが沈んでくれたから、静かで話もし易いから良いけど。正気だったら、うるさいからねえ。こいつは。)
 なびきはにっと笑った。さすがに扱いなれている。
 その様子を見て、茉里菜が突き放すように言った。
「きょほほほ、わかるましたわ。あなた、小太刀さんの馬鹿兄貴様とご一緒に、乱馬様のことを探りにいらしたんですのね。あの、天道あかねとかいう女に頼まれて。」
「へえ…。何でわかるの?」
 なびきは、わざと、挑発してみせる。
「わかりますとも。あなたの顔に乱馬様は何処って大きく書いてありますわ。」
「あら、あたしの顔には字なんか書いてないわよ。でも、まあ、あたらずしも遠からずってところかしらね。」
 なびきは、思い切って相手の懐へと入っていく。
「無駄よ。乱馬様はわたくしがお連れして、秘密の特訓中ですの。」
 茉里菜が鼻息荒く、言い放った。
「へえ…。秘密の特訓ねえ…。乱馬君くらい強かったら、秘密裏に特訓なんかしなくても良さそうなものなのに。」
 ちらっと、穿った瞳でなびきは茉里菜を見上げた。
「修行は何も、ご自分のものとは限られませんことよ。」
 茉里菜が言った。
「まるで、あんたの修行に付き合ってるっていうような、物の言い方ね。」
 誘導尋問を行うように、なびきは、相手に畳み掛けていく。
「あら、良くわかりましてね。」
 茉里菜の一言に、なびきの瞳が光った。
「やっぱり、乱馬君の失踪にはあんたが絡んでたのね。」
 と、切り返す。
「乱馬様は人目を凌いで、わたくしに気技を伝授するために、姿をお隠しになっておられますの。ふふふ。きょーっほっほ。」
 心なしか、茉里菜の笑い声が高くなる。実に耳につく嫌味な笑い声だ。あかねならば、とっくに頭に血が上っているだろうが、なびきは冷静だった。
「とにかく、次の全国大会で、天道あかねを倒し、再び女王の座へ返り咲くのがわたくしの使命ですの。それからでなければ、乱馬様とわたくしの新しい愛の歴史が始まりませんの。」
「乱馬君とあんたの愛の歴史ねえ…。」
 ちらっとなびきは茉里菜を見やる。
「どうせ、焦ったあかねさんがあなたを偵察に寄越したのでしょうけれど…。その手には乗りませんことよ。お生憎様。きょほほほほ。」
 馬鹿笑いというか高笑いというか、特徴的な笑い声を鳴り響かせて、茉里菜が笑った。さすがのなびきも、胸ヤケして、気分が悪くなりそうだった。これ以上、この娘の相手をするのは限界だと思った。
「わかったわ。乱馬君はあなたのコーチをしているのよね?世を忍んで。」
 半ば投槍に、言い放つ。
「そうですわ!綾小路コンツェルンの施設へ詰めて、秘密裏にね。その成果は、次の大会でお見せしますから、天道あかねさんには恐れおののいて棄権などなさらぬように、念を押しておいてくださいませ。きょほほほほ。」
「了解、あかねにはそのように言っておくわ。もっとも、あの子は己に売られた勝負を投げやって逃げ出すような、弱虫じゃないけれどね。」
「そう、願いたいものですわね。」
「用事も終わったので、この辺でお暇させていただきますわ。茉里菜さん、ごめんあそばせ!」
 なびきは、茉里菜の口調を真似て、くるりと背を向けた。
 さすがに、もう、これ以上、綾小路茉里菜の相手をする気持ちは失せていた。とっととこの場を去りたい気持ちでいっぱいだった。
「ごきげんよう!」
 茉里菜もそういい置いて、立ち去った。

「ほら、九能ちゃん、帰るわよ。まだ、呆けてるの?ったく、もう!」
 そう言いながら、視点定まらぬ九能の着物の襟ぐりを、ガッと掴むと、てくてくと歩き始めた。

「ぬぬぬ…。あの娘は、一体何なのだ?」
「あら、やっとお目覚め?」
 ズズズと引き摺られながら、意識が戻った九能が、なびきを見上げながら問いかける。
「この、九能帯刀を愚弄しよって!」
「あんたの妹さんの古いお友達みたいよ。」
「妹?小太刀のお友達?どおりで、底意地が悪そうな娘だ!」
 九能が吐き捨てるように言った。
「底意地が悪いってのは否定はしないわ。綾小路コンツェルンのお嬢様のようだけどね。」
「綾小路家の小娘か!片腹痛いわ!この、九能帯刀を小太刀の馬鹿兄貴呼ばわりしよってからに…。馬鹿兄貴……。」
 その言葉を反芻すると、再び、九能の顔が暗くなり、黙り込む。
「ちょっと、九能ちゃん!一丁前に傷ついてるの?…たく、らしくないわねえ。たかだか、馬鹿兄貴と言われただけで!」
「馬鹿兄貴言うなっ!貴様に馬鹿兄貴呼ばわりされる筋合いはない!無礼者!」
 なびきの一言に、再び、九能の目が、くわっと見開く。
「あら、あたしが「馬鹿兄貴」って言うのは案外平気なんだ。」
 そう言いながら、なびきが笑った。
「天道なびき!今日、ここへ足を運んだ本当の理由は、あの小娘と会うことだったのか?無差別格闘の使い手だと言っておったようだが。」
 九能が問いかけてきた。
「別に、会う予定なんかなかったわ。会ったのは偶然ね…。それはともかく、あの子、今度の全国大会であかねと乱馬君を賭けて真っ向勝負を挑んできたのよ。」
「な、何だと?早乙女を賭けての勝負だと?」
 九能の顔色がみるみる変わった。乱馬の名前を耳にしたからだろう。彼にとって、乱馬は未だライバルだ。打ち崩したい相手でもある。
「くううう!何で早乙女だけが、こうも、女にもてるのだ?あの小太刀の性悪友人があかね君と勝負だと?ぬうううっ!」
「九能ちゃん、羨ましがってるの?涙まで流しちゃって。」
 なびきがからかいながら問いかける。
「な。涙など流しておらぬわ!これは心が流す、青春の汗だ!」
「同じようなもんじゃないの?…ま、良いわ。そういうことにしておいてあげる。」
「で?あの小娘、あかね君よりも強いのか?」
「この前の試合はあかねがぶっちぎって勝ったんだけどね、本人曰く、決め技の気弾を封じていたから負けたんだそうよ。」
「ほお…。負け惜しみか。」
「それが、負け惜しみでもないのよねえ…。この前、うちの門をわざわざ壊しに来てくれるくらい、強力な気弾を持ち技として持ってるのよ。あかねと初めて対した試合では、使わなかった技なんですってさ。」
「ほお…。それは面妖な…。あかね君が苦戦しそうな相手とな。」
「まあね…。あかねったら、あの子の気技を目の当たりにして以来、そりゃあ、躍起になって気技の修行をしているのよ。」
「何なら、僕が、修行の相手をしてやろうか?」
「いい!いい!別に九能ちゃんは何もしなくていいから、あかねの邪魔をしないであげてよ。」
「どういう意味だ?」
「そのまんまよ。だって、九能ちゃんは剣道こそ強いけど、徒手競技の無差別格闘技はど素人じゃない。」
「痛いところを突くな。口の無差別格闘技があったら、間違いなく、マイスタークラスだな。おまえは。」
「褒め言葉としてありがたく受け取っておくわ!」
「あかね君も修行かあ…。おっと、修行で思い出したが…。」
「何を思い出したの?…どうせ、ろくなことじゃないんでしょうけど…。」
「まあ、そう言うな!この前の剣道部の春合宿でな、おさげの女とぱったり出くわしたぞ。」
「な、何ですってえ?」

 九能の予想外の言葉に、なびきの目が大きく見開かれていった。



つづく




 なびきといえば、九能帯刀。このカップリング、微妙ではありますが、結構好きだと言われる方も多いのではないでしょうか?原作でもアニメでも、掛け合いは絶妙ですし…。九能役の鈴置さんが鬼籍に入られたのが残念です!残念ながら、2008年に製作された、高橋留美子展上映の新OAV(2010年1月発売予定)では、テレビ版アニメでもピンチヒッターを勤められた、辻谷さん(弥勒様)が演じていらっしゃいました。
 妹の小太刀とは違って、兄の帯刀はどこか憎めないキャラです。この話に九能を使う予定ではなかったのですが、話の膨らみと共に、登場させてしまいました。オールキャストで書くのも、一興かと思いまして…。


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