第九話 道行


一、

 あかねが一言主に憑依された玄馬に連れ去られて、一夜が明けた。

 まだ、朝靄がかかる朝の高速道路を、一台のワゴン車が西へ向けて疾走を続けていた。
 ナンバープレートは「わ」ナンバー。一見して「レンタカー」とわかる。

「な、何で僕が貴様らと同行しなければならぬのだ?」
 ワゴン車の中には、留守番で居残ったかすみ以外の天道家の面々、それから、九能帯刀がちょこんとシートに座っていた。
 運転席に居るのは、九能家のお庭番、佐助である。

「あら、九能ちゃん。おさげの女と一緒にドライブできて、ご機嫌なんじゃないの?」
 なびきが、したり顔で受け答える。

「何がご機嫌だっ!だいたい、おさげの女は良いとして、何故、僕の隣りには、天道なびき、貴様が座っておるのだと訊いておる。しかも、もう片方の隣りは、ヒゲ面の親父だぞっ!その上、おさげの女の横には、変な修行者を侍らせよって!どこが楽しいものかっ!」
 九能はなびきに苦情を言った。
「あんたも肝っ玉が小さい男ねえ…。男なら、細かい事は気にしないのっ!」
 となびきが押さえにかかる。
「九能君、ワシでは役不足かね?」
 早雲がむすっと九能に言った。
「だから、この車のスポンサーはこの僕なのだから、おさげの女の横に座らせてくれても良いではないのか?」
 と苦言を呈する。
「そんなことしたら、危なっかしくって、佐助さんが安心して運転できないわよ。」
 なびきは、一向に静まらない九能に、言い放つ。

「だったら、止まれっ!佐助っ!僕が運転してやろう!助手席におさげの女を座らせて、二人でラブラブドライブじゃ!わっはっはっ!」

「な、何、無茶言い出すんでいっ!九能っ!佐助、変わるなよっ!」
 乱馬が後ろから怒鳴る。
「そうよ、九能ちゃん、無茶言わないのっ!日本ではね、免許がないと、公道で車は運転できないのよ。そんなこと、幼稚園児だって知ってるわ!」
 なびきが冷たくあしらった。

「ふん!愚民どもめがっ!これが目に入らぬか?」
 九能がすいっと手に、何かを上げた。印籠のように高々と、掌サイズの平たいカード状の物を得意げに見せ付ける。

「お、おい…。まさか、それ…。」
 乱馬が指差すと
「ふっふっふ、九能帯刀、十八歳。何を隠そう、普通自動車二種免許を取得したのだ。わっはっは。」
 とふんぞり返る。
「ウッソォッ!九能先輩に運転免許証だとおっ?」
「世も末ね…。」
 乱馬となびきが顔をしかめる。

「学科試験は五回目にやっとパスしたのでござるがね…。」
 佐助が間髪入れずにフォロー。

「わっはっはっ!何とでも言い給え!免許は免許だ。これで日本国内ならどこでも運転できるのだ!」
 と得意げな九能は免許証を翳してふんぞり返る。
「どうだ?おさげの女。僕と一緒にハイウエイドライブデートなど…。」
「遠慮しときます。」
 きっぱりと断る乱馬。
「ふふふ、遠慮などすることはないぞ。僕と貴様の仲ではないか…。」

「乱馬さんとあの方って「これ」ですか?」
 樹がぼそぼそっと小指を立ててみせる。
「バカッ!んな趣味、俺にはねえぞっ!」
 乱馬は思わず声を荒げる。
「畜生!今の俺、男に戻れねえからなあ…。」
 と悔しそうに乱馬は吐き出す。

「佐助!運転を変わろうか?そろそろ疲れて来たのではないか?」
 と九能は元気だ。
「ちょっと、九能ちゃん。あんた、あたしら全員を殺す気なの?」
 なびきが思わず声を出す。
「何、ちょろいものだぞ。この僕にかかれば、運転など!」

「あ、仮免許も路上も、人の数倍かかって、やっとこ取得したでござるよ、帯刀様は…。」
 佐助が再びフォローした。

「佐助、要らん事は言わずとも良い!路肩に止まれ。僕がこの若葉マークで変わってやろう!」
 いよいよもって、雲行きが怪しい。
「高速道路では無闇に路肩に止まっては、違反切符を切られるでござるよ、帯刀様っ!」
 佐助が苦笑いしながら、九能を牽制した。

「お、おい。なびき、このままじゃまずいんじゃねえのか?」
 乱馬が後ろからなびきを突っついた。
「もう。しょうがないわねえ…。九能ちゃんは。」
 なびきは意を決すると、さっと九能が持っていた竹刀を掠め取った。

 ポカリ、と音がして、九能の頭がそのまま、沈んだ。

「暫く、このまま眠ってて貰うのが、上策よね…。」
 なびきがにっと笑う。
「おめえ…、結構過激だな。」
 後ろの座席から、乱馬が苦笑いしながら覗き込む。
「だらしねえなあ…。剣道家の端くれだろう?こいつ…。なびきにやられるなんてよ…。」
「あら、あたしも天道家の娘よ。」
 なびきはにたりと笑った。
「ま、いいや…。たく…。誰だよ、こんなのに、運転免許を交付した奴は…。危なっかしくて、道も歩けなくなるぞ!」
「さて、目覚めて暴れないうちに…。」
 なびきはごそごそと九能を座席に縛り上げ「これで、安全ね。」とにっと笑った。
「寝覚めさせたくないなら、ボクもお手伝いしましょうか。」
 樹はそう言うと、懐からお札を出した。
「何だ?それ…。」
「悪霊を一時的に封印するお札です。」
 そう言いながら、術を唱えると、たあっと九能の額に張った。
 シュウッと音がして、九能の身体が少し揺れたように思った。
「これで、一日やそこらは目覚めないでしょう…。」

「お、おい。無茶するなあ…。てめえも…。」

「あら、だったら九能ちゃんを起した方が良いっていうの?乱馬君は…。」
 なびきがにっと笑った。
「だあっ、できることなら眠ったままで居て欲しいぜっ!起きちまったら、やかましくって仕方があるまいよ。」
「だったら、文句は言わないの!」
 と一喝された。

 とにかく、ワゴン車は一路、東名高速道路を西へ目指す。
 大移動になる上に、車を移動手段に使ったほうが良いだろうと考えた末、なびきが九能を引っ張り出したのである。彼ならば、スポンサーにもってこいだし、佐助なら運転できる。
 なびきお得意の「詭弁」で九能と佐助を、まんまと引きずり込んだのである。

「何でわざわざ、俺たちが西に向かわなきゃならねえんだ?」

「小寒様が結界を張っている場所、即ち、葛城山中へ直接出向かねば、彼らを滅することはできません。それに…。ボクの力でどこまで操れるかどうかわかりませんが、鬼神の力を借りようと思って…。」

「鬼神?」
 乱馬は問い返した。

「ええ、役小角様が古に使役していた鬼神です。古よりボクの家に伝わっている秘術で、事が起こったときは、その鬼神を蘇らせて、危険に当たれと…。」
「鬼神の力を借りるのか…。強いのか?そいつは。」
「二匹ともそこそこ強かったそうですよ。」
「二匹?一匹じゃねえのか?」
 乱馬は樹を覗き込んだ。
「ええ、二匹の鬼神です。」
「ああ、それは、俗に言う、前鬼と後鬼という鬼だね。」
 早雲が頷いた。どうやら、伝説を知っているようだ。
「良く御存知で、そのとおり、前鬼と後鬼と呼ばれている鬼です。」
 樹が頷く。
「役行者様を模した彫刻や像には、二匹の鬼も一緒に伴ったものも多いと聞くからね。確か、修験修行の途中に、人里を荒らして困る鬼たちを術で呪縛し改心させ、その後、式神として使役したと言われているよね。」
 早雲が尋ねる。
「式神?」
 乱馬はまた訊きなれぬ言葉に、反応した。
「陰陽師がその術で縛って、命令どおりに変幻自在に使った「精霊」のような存在よ。そっか…役小角って後世の安部清明みたいに、陰陽道にも通じていたって不思議じゃないわよね…。鬼を式神と見る向きもたしかにあるわ。」
 なびきが頷く。だが、乱馬だけは、知識不足で、どうも、ピンときていないらしい。
「確かに、小角様が式で縛って使役していたと見るむきもありますね…。修験道の中にも陰陽道じみたものもたくさんありますから。
 で、前鬼は儀学(ぎがく)、後鬼には儀賢(ぎけん)という名があったとも言われていますが…。元々人間だったものが、山の精霊に触れて変化し鬼になったとも…。ついでに言うと、前鬼は男、後鬼は女だったそうです。」
「え?鬼にも性別があるのかよ…。」
 乱馬が驚きの声を出した。
「ええ、一応ね…。二匹して人間界で暴れまわっていたのを、小角様が退治し、術で縛ったんです。そして、自在に操ったと言われています。勿論、一言主との戦いの時にも、共に鬼神を用いて闘ったと…。。」
「ふーん…。そいつを用いて、暴れまわったというのか、小角は。」
「ボクの力で操れるかどうか…。わかりませんが、一言主の目論見が、多分、「幽鬼」の復活ならば、こちらも前鬼と後鬼を用いるのが妥当でしょう?だから、彼らの眠る地へまず、向かわねばなりません。」
「彼らの眠る地ねえ…。それも伝わってるのか?」
「勿論。彼らを起す術も…。一応は心得ています。」
 乱馬の問い掛けに、コクンと樹は頷いた。

「だんだん胡散臭い話になって行きやがるが…。奴らの手の中にあかねが居るからなあ…。畜生!厄介なことに巻き込まれたもんだぜ。」
 自戒とも取れる言葉を、乱馬は吐き出した。


 途中、サービスエリアで食事やトイレ休憩をはさみ、一路西を目指す。
 
 彼らの急く思いとは裏腹に、日本の大動脈は所々で、渋滞、停滞を繰り返し、目的地に近づく頃には、すっかり日暮れも近くなっていた。


「随分、道を走って来たように思うが…。今夜の宿はどうするつもりなんでい?」
 乱馬が樹に尋ねた。
「まさか車中泊とは言わないだろうな…。」
 ちらっと車の中を見渡しながら乱馬が聞く。
「その辺は大丈夫ですよ。ボクら修験者が良く使う宿坊が目的地近くにありますから、今夜はそこで泊まれるように、さっきのサービスエリアでなびきさんの携帯で連絡していただきました。」
 樹の答えに、横でなびきがにっこりと微笑む。
「今夜の宿代は、九能ちゃんが出してくれるって…。」
 とぬかりない。
「てめえ…。宿代も九能に持たせる気で、こいつを引き込んだんじゃあ…。」
 呆れ果てた声で乱馬が、まだ樹の術で眠ったままの九能をちらっと見た。
「あたしと九能ちゃんの仲ですもの…。ね?佐助さん。」
「あは、あはははは。みどもは何とも度し難く…。」
 ハンドルを握りながら佐助が笑った。

「てめえと九能の仲って、集りと集られの仲じゃねえのか?まあ、こいつの家の財力なら宿賃の一泊や二泊、屁みてえなものには違いねえけどよ…。」
 乱馬はふうっと吐き出す。
「ま、雲行きがあやしければ、乱子ちゃんにご登場願って「せんぱーいっ!」って甘い声で迫ってもらえれば、済むことよ。」
 なびきはにっと笑う。
「じ、冗談じゃねーぞ!んなこと、絶対に俺はしねーかんなっ!」
 思わず飛び散る唾。

「で…。肝心な今夜の宿地はどこなんだ?」

「生駒(いこま)です。」
 樹は答えた。



二、

 生駒山(いこまやま)。
 奈良県と大阪府の県境に横たわる「生駒山脈」の主峰で、古来「歌枕」として数々の和歌にも詠み親しまれている。
 標高六百四十二メートルと、決して高い山ではないが、都が置かれた奈良からは西方にあることから、霊山として古くより崇められた山でもある。そのせいか、山麓には様々な修行所がある。現在でも大小、百以上の宗教団体が修行所を構えているとも言われている。
 そう、生駒山は古より「神南備山(かんなびやま)」の一つとして、信仰の対象でもあったのである。

 樹は、そこへ、乱馬たち一行を連れて行こうとしていたのだ。

 彼女が生駒山を目指すのには訳があった。
 生駒は、役行者と縁の深い土地でもあったからだ。


 車は平城(なら)の都を通り過ぎ、西にそびえる山に向かって走っていく。
 土地勘のない乱馬たちには、佐助がどこをどういう風に通っていったのかわからないが、さすがに古来の土地らしく、道端に雰囲気のある古寺がポツンと建っていたり、一見して「古墳」とわかる、池と小山を発見する事もできた。
 真正面に見える、鉄塔群。それを山頂付近に配しながら、連綿と来たから南へ連なる山並みがあった。
 それを指差して、樹が言った。

「あれが、生駒山です。」

 現在の生駒山は、関西のテレビ中継点という重要な役割を果たしている。山麓に建つ無数の鉄塔が、暗にそれを指し示している。
「へえ…。あの鉄塔だらけの山が生駒山なのか。」
 変な感心の仕方を向ける乱馬。
 関西地方の、ほぼど真ん中に位置する生駒山は、テレビの電波を大阪側にも奈良側にも京都側にも飛ばせるのだ。関東地方はその役割を東京タワーが一身に背負っているといわれているが、関西はこの生駒山が請け負っているらしい。
「古来、この生駒山は物部氏ともゆかりが深かったと言います。物部氏の祖でもある「ニギハヤヒノミコト(饒速日命)」とも縁が深い山で、大阪側の山麓には「石切(いしきり)神社」というニギハヤヒノミコトを御祭神とした神社もあるんです。」
「古来から天皇家と造詣が深かった物部氏ねえ…。確か、聖徳太子が少年の頃、物部守屋が蘇我馬子と政権争いを繰り広げ、戦をして破れてからは、体裁が上がらなくなったのだね。」
 早雲が、ウンウンと頭を垂れる。
「我が祖、役小角様も生駒山にて、厳しい修行をされました。あの山にはその遺跡や言い伝え場所が随所に残っているんですよ…。」




 役行者は日本の山岳地帯を、奔放自由に修行して回った伝説が残されているが、この生駒山も例外ではなかった。
 生駒山には彼が修行したと伝えられる場所が数々残る。彼が開山した寺もある。この山の至るところに、今も行者ゆかりの遺跡がたくさん遺されているのだ。

 夕暮れが迫った住宅地の道を抜けた時、樹は佐助を促して、ワゴン車を道端に止めさせた。

「どうした?樹…。」
 乱馬は車を止めさせた樹を振り返って声をかけた。
「あれ…。あそこの溜め池の端…。」
 彼が指差す方向に、コンクリートで固められた、異様な社を見つけた。
「何だ?あれ…。」

「行者磨崖仏(ぎょうじゃまがいぶつ)と言って、役行者様を祀った社です。」
「社?あれが?」
 乱馬は思わず声を荒げてしまった。

 そこには、確かに小さな社と、石仏が置かれていたが、その周りはすっかり削り落とされていて、社の周りだけが古木の切り株と共に、お情け程度に遺されているだけの代物だった。とても、聖域とは思えない。
 周りは造成地となり、これから家が立ち並ぼうかという気配がありありと見える。それだけに、お情けで残された社が気の毒に見える。

「いくら遺したとしても、あれじゃあなあ…。」
 ふうっと乱馬は溜息を吐いた。
 その先では生駒の青垣が夕陽に染まり始めていた。
「人間は文明を手に入れ、日進月歩、進歩しているが、それと同時に、自然や山に暮らしていた神々への畏敬の念も忘れていく…。その見本のような有様だね。」
 早雲も腕を組みながら、行者の遺跡を見た。

「まあ、祟りか何かを恐れて、移転する事も躊躇った結果、こういう形で遺す方法しか術がなかったんでしょうけど…。」
 現実主義のなびきも、辛口だ。
「しかしよう…。これじゃあ、祀られて遺されてる側も不愉快だろうな…。」
 乱馬はポツンと言った。
 樹は役行者の縁者らしく、行者を象った石仏に手を合わせ、修験を唱えると、ふうっと息を吐き出した。

「一言主のような崩落神が、人間を疎む気持ちも、わからないではないですね…。或いは奴らがなそうとしているのは、貶められた神々の、人間への復讐なのかもしれません…。」

「だからと言って、見過ごすわけにはいかねーだろ?このまま、あかねを奴らに良いようにあしらわせるのは、少なくとも、俺はごめんだね。」
 乱馬は強く吐き付けた。

「そうですね…。ボクらは、一言主を倒さねばなりません。ボクらの明日を守るためにも。」
 一行は、ぎゅっと拳を握ると、道脇に止めさせたワゴンへと、再び乗り込んだ。その傍を、怪訝そうに眺めながら、車が通り過ぎていく。

「ここも、この前来たときには道なんかなかったんですよ…。」
 樹がぼそっと行った。
「人間は己の便利さのために、道を作る事なんて、造作もねーんだろうよ…。」
 再び動き出した車は、これまた山を切り開いて作ったと思われる湾曲した坂道を、エンジン音を上げながら走り始めた。

 カーナビゲーションの音声に従って、市街を走り抜け、今度は生駒山の山麓へと差し掛かった。
 駅前を通り抜け、グンと山肌に向かって傾斜を登っていく。かなりきつい坂なのか、重そうに車はうなり音を上げる。
 その左脇を、鋼索鉄道のケーブルカーが走り抜ける。
「お、おい!何だ?あのケーブルカーは…。」
 乱馬は思わず、併走して山を下ってくるケーブルカーの車体を指差した。
 ガタゴト揺られながら傾斜を降りてくるケーブルカーの、個性的なデザインに、思わず目を奪われたのである。
「あらまあ、何て前衛的なデザインかしら…。」
 くくくとなびきも笑っていた。
「ミケ号だってさ…。猫よ、乱馬君。」
 にゃあごとなびきは猫の手を乱馬へと差し出す。
「やめろっ!その気持ち悪い仕草は…。」
 思わず苦笑いだ。
「でも、かなり変な車体よねえ…。誰が考えたのか知らないけれど、相当な趣味の持ち主だねえ…。わっはっは。」
 早雲も笑った。
「バカバカしくて、乗ってみたいと思わせるのが、狙いじゃねえのかって…。おい、今度は下からも上がってくるぞ!」
「きゃあ、ブル号だって…。犬と猫で対なのね…。」
「世も末だな…。こんなのが、並走してるなんてよう…。こりゃあ…。」
「生駒山、恐るべしってところね。」



 彼らが宿営地に到着する頃は、すっかりと日は山に隠れてしまっていた。

 西が山地の生駒の日暮れは早い。
 
 生駒山の奈良側の中腹に、宝山寺(ほうざんじ)と呼ばれる、真言律宗の大本山がある。正式には都史陀山大聖無動寺(としきざん・だいしょうむどうじ)。本尊は不動明王であるが、不動堂の隣りに聖天堂があり、そこの「大聖歓喜天尊」に商売繁盛の現世利益を求める、祈願者が数多く訪れる名刹(めいさつ)でもある。
 この寺も開山は役行者と言われる。
 江戸期に再興され、現在に至るのだが、その門前を今夜の宿地と定めたらしい。
 車を脇の駐車場へ止め、樹は前に立って、一行を案内する。
 標高も、さほど高くはないだろうが、山陰になるので、何となく、渡ってくる風が冷たく感じられた。すっかり辺りは紅葉してしまっている。

「何だか、妖しげな新興宗教っぽい看板も多いな…。」
「とても、観光地とは言えない寂れ方だし…。」
 門前には宿屋や土産屋がひっそりと門を構えていた。
 おそらく、ここが賑わったのは、遥か昔のことなのだろう。今でも信者を集めている名刹とはいえ、観光客が泊りがけで押しかけるようなところでもなさそうだ。
 営業している宿屋も数がそうないようだ。
 夕暮れ迫る傾斜地だけに、余計に寂しさが募る。

「宝山寺か…。結構でかそうな寺じゃん。」
 乱馬は後方にある寺域を見て、言った。
「今じゃあ、ご本尊の不動明王より、聖天(しょうてん)さんと呼ばれる、歓喜天の方がすっかり有名になった寺なんですけどね…。」
 樹が説明してくれた。
「ここの寺も元々は役行者が開山したようなものなんです。今の形になった中興は江戸時代なんですけどね…。不動明王がご本尊です。」
「不動明王ねえ…。まさか、制多迦童子や金加羅童子も一緒に侍ってるなんてこと…。」
「ここには制多迦童子も矜羯羅(金加羅の別表記)童子も像はありませんよ。良く御存知ですねえ…。不動明王の眷属童子の名前がすんなりと出てくるなんて…。」
「良かった…。あいつらの像はねえのか…。」
 ホッと胸を撫で下ろす。
「ちょっと、乱馬君、何が良かったのよ。」
「あ、いや、言葉のあやだよ。あいつらとはいろいろあったから。」
「はあ?」
「ははは。まあ、気にするな。」
「気になるわね…。」

「あっちの岩肌が見えますか?」
 本堂の上にある灰色にむき出した岩肌を樹が指した。
「ああ、絶壁でもあるのか?何かすげえ、目立つなあ。」
 乱馬が見上げながら手を翳す。
「あそこは般若窟(はんにゃくつ)と言われる、石場の修行場があるんです。」
「般若窟?」
「ええ…。通説では、あそこで役行者が修験を極める修行をなさっていたそうです。あの袂には祠や弥勒菩薩像があるんです。」
「へえ…。それとなく、仏像が見えるような気もするな…。」
「今は、岩肌が崩れやすくて、危険だから、入る事はできないんですけどね…。」
「まさか、あそこを登って行くなんてこと…。」
 乱馬ははっとして樹を見た。
「いいえ、あそこは修行の址地ですから…。何も目指すものはありません。尤も、小角様の重要な拠点であることは確かなのですが…。」

 生駒山を奈良側から遠望すると、東部の中腹に、少し盛り上がった山が目だって見える。いわゆる、そこが宝山寺の般若窟の場所になる。岩肌がむき出しになっていて、古来からこの出っ張り部で祭祀などがなされていたのかもしれない。ニギハヤヒノミコトと関係が深い饒速日山(にぎはやひやま)の伝承地の一つでもある。
 般若窟の前に宝山寺の前身であった、役行者小角が修行し開山した寺院があったとも言われている。その後の時代になると、行基や空海もこの場で修行を積んだと言われている。
 この般若窟は現在、樹が言うように、立ち入り禁止となっている。上り口の石段には縄が張り巡らされていて、立ち入る事ができない。従って、切立った岩肌に鎮座なさっている弥勒菩薩像の顔を間近に拝む事はできないのである。


「今夜は夜中に生駒山を縦走しますから、早めに休んでおいてくださいね、乱馬さん。」
 樹が言った。
「夜中に山の中を縦走だって?」
 乱馬はちらっと樹を見返した。
「ええ、山中を縦走して夜明けまでに鬼取岩(おにとりいわ)まで行きたいんです。」
「鬼取岩?」
「この生駒山の北辺には、巨岩遺跡が多いんです。元々、巨石は岩坐(いわくら)と呼ばれて、神が降臨する地として崇拝の対象だったんです。」
「はあ?」
「ニギハヤヒの遺跡に代表されるように、この生駒山周辺には「天岩船」と呼ばれた、天孫降臨に使われた巨石と絡んだ遺跡が多い場所でもあるんです。」
「で?」
「その巨石遺跡の中に、小角様が使役した前鬼と後鬼が眠る岩坐(いわくら)があるんです。」
「それが鬼取岩とか言うやつなんだな?」
 コクンと樹の頭が揺れた。
「ボクは小角様の手によって、埋められた、前鬼と後鬼の御魂が眠っている場所へ行きたいんですよ。」
 樹の顔は、いつになく真摯になっていた。

「わかった…。どっちにしても、俺もついて行ってやるよ。女の子の夜道の一人歩きは危険すぎるぜ。ましてや、山の中だからな…。」
「心強いです。」

 役小角は、幼少にして一を聞いて十を悟る、と言う具合に、驚異的な才能を発揮していたという。聡明すぎた若き修験者は、学問の道の限界を知り、十七のみぎりにして、家を捨て山岳修行へと深く分け入ったという。
 深山幽谷へ身を委ねることで、自然と一体化し、超自然的な力を身に付けたというのだ。山と修験者は切っても切れぬ関係にある。修験者の源は山の霊力にあると言っても過言ではあるまい。山は古来から「聖域」の一つとして、恐れられ、崇められてきたのだ。


 彼ら一行は、宝山寺関係の小さな宿坊へと宿を定めていた。樹の一族がこの生駒山で修験の修行を行う時、定宿と定めていたようで、住職とも懇意なようだった。

「今日は、神足殿はご一緒やないんですか?」
 老齢の住職が関西弁で樹に問いかけた。
「え、ええ…。お爺様は所用があって、今回はボクと信徒の皆さんでここへ来ました。」
 と苦しい言い訳をする。一応、信徒でなければ、ここへは泊まれないようだ。乱馬も早雲も九能も佐助もなびきも、全てこの場に居るのは、樹のところの信徒という扱いにしていた。
「何や、訳ありの御信徒もおいでのようですが。」
 住職は老眼鏡を手に、九能の方をちらっと見やった。
 当然の事ながら、札の霊力が解けたとき、九能が暴れだしたが、再び、札で封印した。今は部屋の隅でちょこんと気を失ったまま座している。住職は、それを言っているようだ。
「あはは…。ちょっとあの方に悪霊が憑依していて…。それを祓うためにこちらまで足を運んだんです。ボクもそろそろ一人立ちを考えなければならない年齢に達したから、樹、おまえが此度の面倒を見やれ、とお爺様に言われて…。」
 嘘も方便だ。
「なるほど、それで神足様の姿が見えしませんのですな…。若いのに、何に憑かれはったんですか…。お気の毒に…。」
 住職は気の毒そうに九能を見やった。
 一同、全員、苦笑いで、あい対する。
 一応修行の場なので、ご飯は精進料理、夕刻の行も一緒にやらされる。
 なびきなどは、普段、正座などやりつけないものだから、少し不機嫌そうだった。
「へへっ、てめえにはきつかったか?」
 乱馬はちらっとなびきを見返した。
「あんたたちと違ってね、あたしはか弱いんですからね。」
「日本人が正座を忘れて久しいでござるからねえ…。なびき殿もたまには座禅など組んで、修行なされてみてはいかがでござる?」
 涼しい顔で佐助が言った。お庭番として苦労が耐えない佐助には、行の座禅など、朝飯前だったようだ。
 

 月が煌々と天上から照らしつける真夜中、乱馬と樹と佐助は、そっと宿坊を出た。
 夜半の月が、忍び行く三人の影を見詰めていた。

「結構冷えるな。」
 乱馬はだっと駆け出した樹の後を追いながら言った。
「ええ、山の中はもっと冷たいでしょうね。」
 蛍光灯の明りが、ぼんやりと国宝級の建物を映し出している。
「さて、こんな真夜中に、何処へ行くのでござる?」
 佐助が怪訝な顔をして二人に話し掛けた。
 白い息が三人から漏れる。
「ちょっとね…。」
 樹が言葉少なげに言った。
「こんな夜中じゃねえと、いけねーのかよ。」
 眠っていたところを叩き起こされて、乱馬も多少不機嫌だ。
「ええ、どうしても今からじゃないと…。」
 三人は、東京から乗ってきたワゴンへと乗り込んだ。
 エンジン音が静寂な街中に響く。
「そこの宝山寺インターチェンジから、生駒山頂へ上がってください。」
 樹が促した。
「山頂でござるか?」
 佐助が突拍子もない声を上げる。
「ええ…。山頂から行くのが一番近いんで…。」
 道案内の樹が助手席に乗ると、シートベルトをキュッと締めた。
「へえ、生駒山スカイラインかあ…。観光有料道路か何かか…。」
 人影のないインターから入って、道はくねくねと上に競りあがっていく。さすがに真夜中のドライブウエイ、車の影は無い。それを一路上に上がった。
 坂道を登りきったところに、広い駐車場が開けた。山頂にどうやら、遊園地があるらしい。
「結構、道が悪いでござるな…。デコボコしてるでござるよ。」
 ガタガタと所々、舗装道路が破けている部分がある。タイヤがカクンと上下する事があった。
「年代物のスカイラインですからね…。最近はめっきり観光客の足も遠のいてるみたいで、手入れもそんなになされてないんですよね…。往年は真夜中でも結構車が入って来ていたみたいなんですが、今じゃ、真夏の夕涼みにカップルたちが出没するくらいなんでしょうね…。」
 樹が解説してくれた。
「なあ、スカイラインっつーことは料金が必要なんじゃねえのか?俺たち払ってねえぞ…。」
「あ、真夜中になると、ただになるんですよ…。ご心配なく。朝までに降りれば料金は取られません。」
「そうなのか…。」
 
 真夜中、人影は全くない。車の影も見当たらない。人通りのない場所を好む、カップルの姿も、さすがにこの時間となると皆無だ。
 遊園地のある、山頂の広い駐車場にポツンと車を止める。
「佐助さんはここで待機していてくださいな。」
 樹が佐助に言った。
「みども一人でござるかあ?こんなところで…。心細いでござるなあ…。」
 佐助は不気味がった。それもそうだろう。辺りはだだっ広い真っ暗な駐車場だ。
「大丈夫ですよ。ここは霊場からは遠いから、霊的なものは降りてきません。何なら結界を張っておいてあげましょうか?」
 樹がにこっと微笑んだ。
「まあ、やっといてもらえるなら、ありがたいでごじゃるがね…。」
 佐助は諦めムードだ。
「おめえ、九能のお庭番だから、待つことには慣れてるだろ?ま、ここで仮眠をとっておいてくれたらいいぜ。明日も朝から移動するんだろうし…。」
「朝からまた移動でござるか?今度は何処へ。」
 佐助が目を丸くする。
「葛城山です。ここから南に車で、そうですね、二時間も走れば…。」
「人使いが荒い方々でござるな…。わかりました。待機させていただくでござる。」
 そう言うと、佐助はエンジンを止め、リクライニングシートを倒した。毛布も一応車に積んである。
「早く帰って来てくださいませよ、お二方。」
 佐助に見送られて二人は車を降りた。

 天上には秋の星が瞬きながら二人を見下ろしている。
 大阪平野の人工光のせいで、地表部分はぼんやりと霞み、その照り返しで思ったほど星は見えなかった。
 それでも、静かに星たちは煌めく。

「なあ、葛城山ってあっちの方角か?」
 乱馬は山頂の向こう側を指差して樹に尋ねた。
「ええ、この生駒山よりもずっと南方になります。」
「そうか…。」
 乱馬はじっとそちらを見据えた。

 そこにあかねが居る。

 そう思うと、心がキリキリと痛んだ。
 目の前でさらわれたあかね。

(あかね、待ってろっ!絶対に俺が、助けてやるからな。)
 ぐっと拳を握って気合を入れた。

「さて、行きましょうか、乱馬さん…。」
 樹は前に立って、歩き始めた。



つづく



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