第八話 一言主の陰謀


一、


 天上を照らしつけていたいびつな月が、隣家の屋根へと隠れてしまった。
 深遠な闇が天道家の庭先を覆い始める。
 そろそろ、夜風がひんやりと渡ってくるようになった。
 薄い上着一枚では、隙間風の多い天道家の母屋の中はきついかもしれない。明け広げていた縁側と部屋を仕切る障子を、かすみがそっと閉めた。
 閉ざされた空間に、ぽおっと蛍光灯の光が照りつける。

 樹の語りに、天道家の人々は静かに耳を傾けていた。

 古代から連綿と続く、葛城の祟り神との闘い。
 まるで、それは、昔から定められていた因縁のようにも思えた。

「一言主がこの国を滅ぼすだって?」
 樹の言葉に、乱馬が反応した。

「ええ、奴の脳裏にはそれしかないと思います。彼は、秋津島に息づく人々の生活を滅ぼそうとしているのです。」
 樹の顔は真剣だった。

「でもよ、滅ぼすったって、どうやって…。」
「相手は神格よ、腐ってもね…。それなりの方法は心得てるんじゃないの?ねえ、樹君。」
 怪訝に問い返した乱馬に、なびきが答える。

「一言主は、根の国の力を解放しようとしています…。」
 樹は答えた。

「根の国の力だって?何だそりゃ。」
 また、聞きなれぬ言葉が樹の口から流れたので、乱馬は怪訝に問い返す。
「根の国は、確か、天照大神の弟神、須佐之男尊(すさのおのみこと)が治めているとかいう、黄泉の国のことだね。創造神の一人、女神伊耶那美(いざなみ)が火の神を産んだ時にその身を焼かれて旅立った、死出の国でもあったと思うが…。」
 早雲が真っ先に反応した。それなり、神話の知識があるのだろう。
「そのとおりです。元々、一言主は根の国の神々と繋がりを持っているとも言われておりましたから…。彼の修法を用いて、根の国の神々の力を引き出し、この国を滅ぼそうと企んでいると思います。」
 樹が答えた。
「根の国の神々の力って言ったってよ、どうやって引き出すんだよ。で、どんな力なんだ?それは…。」
 乱馬は口を尖らせながら、樹に問いかける。まだ、「疑いの目」を持って、樹の話を聴いているようだった。

「根の国の神々は地の力を自在に扱います。地の神は地殻変動を起すこともできるんです。つまり、地中深く眠っている「マントル」を動かす力も備えているのです。」
 樹は乱馬を見返しながら言った。
「ということは…。地殻を動かして…。」
 早雲の言葉を受け、樹は言った。
「そうです…。地の神の力を操り、地殻を変動させれば、火山活動をも活発にさせます。今は休止している火山も、いえ、火山でない山ですらも噴火させることができます。勿論、火山だけではなく、地震活動も活発化するでしょう。下手をすれば、日本列島は海に沈んでしまうかもしれません…。」

「それが本当だったら、大変な事になるね。」
 早雲が唸る。

「一言主の力を侮ってはいけません…。今だって、小寒(おさむ)様が結界を張っていますから、何とか、地殻の変動を抑えこんでいますが…。」

「小寒様?」
 一同は、樹を見た。
 始めて聞く名前だったからだ。
「誰だ?それ…。」
 
「賀茂氏の役(えだち)を継ぐ、一族一の修験者です。」
 そう言った、樹の顔が、何故か仄かに赤らんだ。

「樹君?」
 火が出んばかりの紅顔になる青年。
 一同、不思議そうに樹を見た。
「はっはーん、もしかして、樹君のこれかしら?」
 なびきがすいっと小指を立てた。「彼女?」とでも言いたかったのだろう。
「へえ、おめえにも、イッチョ前に「恋人」が居たのかよ。」
 乱馬も目尻を下げ、からかい口調で言った。

「こ、恋人だなんて…。きゃあ、ボクの口からそんな、恥ずかしい事…。」
 樹が両頬を手で抱えながら、ますます赤らむ。

「案外、純粋なのねえ…。樹君って。」
 かすみも、のほほんと、煽る。

「恋人じゃなくて、「許婚」なんです。本当は。」
 こそっと、樹が吐き出した。その嬉しそうな顔。

「許婚だってえ?」
 思わず、乱馬が声を上げた。
「何と!樹君もその年で許婚がいらっしゃるのか。面妖な!」
 早雲も驚いたようだ。
「ボクたち、一族では、次世代の役を決めると同時に、将来の伴侶を卜占で選ぶんです…。」
 樹が、はにかみながら言った。
「へえ…。卜占で結婚相手を決めちゃうんだ…。すっごい、封建的…。あんたとあかねより、決め方が大雑把よ。乱馬君。」
 なびきがちらっと乱馬を見ながら言った。
「でっ!俺たちと比較するなっ!背負ってる「家」って奴の重みが全然違うだろうが!樹のところは、千年以上続く「修験道」の家元みてえな一族だぜ?俺たちのところは…。」
「たかだか、早乙女流の二代目ですもんね…。」
 と面白がるなびき。
「おい、早乙女家はどうだかしらないが、天道家は、そこそこの歴史は持ってる旧家なんだよ。なびき…。」
 早雲が苦笑いして口を挟んできた。
「でも、たかだか百年単位でしょう?樹君のところは千年単位よ。格が違うわ。」

「う…。」
 それ以上は反論できないで、早雲が詰まった。

「で?小寒さんってどんな女の子なの?」
 なびきが興味津々に尋ねた。
「修験道の家の子だったら、巫女か何かなんだろ?可愛い子か?」
 乱馬も興味はあるらしく、ツンツンと樹の脇を突付いた。

「はあ?」
 その問い掛けに、樹が突拍子もない声を張り上げた。
 気の抜けたような声だ。

「はあって…。可愛い子なのかどうか、訊いてるんだけど。」
 乱馬が問いかける。

「可愛い子も何も、小寒様は女ではありません!正真正銘の大和男児ですが…。」
 
「ああん?」
「何と!」
「な、何ですってえっ?」
「あら、まあまあ…。」

 天道家の四人は、それぞれ、驚きの声を張り上げた。

「ちょっと待て!男同士って結婚できねーんだぜ?それとも何か?おめえらの一族は、その、男同士の結婚って奴を…。」
 乱馬が叫んだ。

「はああ?」
 樹は、また大きく問いかけるリアクションをした。

 凍りつく天道家の面々。

 なびきが突然に、樹の着物の前を肌蹴た。

「きゃあ!な、何をなさるんですっ!なびきさんっ!」
 樹が叫んだ。
 その声と共に、曝け出された、樹の上半身。

 修験道の道着の肌蹴た襟元から、曝け出されたのは、晒しでグルグルまきにされた胸であった。紛れもない、真ん中には谷間がある。

「ちょっと失礼!」
 そう言うと、なびきが、果敢にも晒しを下へグッと引っ張った。

「嘘っ!」

 前に現れたのは豊満な胸。柔らかな乙女の柔肌であった。

「お、おめえ…。女だったのかあっ?樹っ!」
 一番驚きの声を張り上げたのは乱馬だったろう。

「ボ、ボクは、お、女ですっ!悪いですかっ?」
 樹は、顔を真っ赤に紅潮させると、あたふたと着物で前を隠した。
 
 なびきとかすみは驚き、早雲は、視線のやり場に困ったまま、固まっている。

「まさか、おめえが女の子だったとはねえ…。」
 乱馬は目を見開いた。
 確かに、少年にしては、甲高い声を出せると思っていた。特に風呂場の悲鳴など。男では出ないだろう音域まで、悲鳴が出ていた事を思い出したのだ。
 修験者という格好だけでなく、当然、化粧っけも全然ないし、言葉遣いも男そのものだったし、大喰らいだったから、天道家の誰もが男と信じて疑わなかった。

「ボクは修験者の妻として相応しい霊力を得るため、一族のしきたりに従って、男装して修行していたんです。」
 樹は説明してくれた。

 彼の弁に寄ると、役の後継者の嫁嫁する前に、巫女としての高い霊力を得なければならないという。修行で霊力を高め、次世代にまた、優秀な修験者を生み出す努力をしなければならないというのだ。
 霊力を高める修行は、古来、男装して、一族の年長者と共に、修行しながら山々を巡るのだと言う。修行の間は「女」という事を捨てなければならない。

「ボクが女に戻れるのは、血の障りがある間だけなんです。」
 と、樹は言った。
「血の障りねえ…。女だったら必ず来る、月経のことね。」
 なびきの言葉に、樹の頭がコクンと揺れた。

「でも、おめえよう…。女にしては、その食欲…。凄すぎじゃあねえか?普通、そんなに胃袋に入らねーだろ…。おめえ、化け物くれえ、食うよなあ…。女だてらに…。」
 乱馬はぽそっと樹に言った。
 
「ああ、ボクの食欲の事ですか…。これは、小寒様の分を一緒に食べているせいです。」
 樹が頭をかきながら言った。

「小寒って奴の分も一緒に食べてるだって?また、わからねえことを…。」
 乱馬は思わず答えた。
「何かわけでもあるのかね?」
 早雲が問いかけた。
「小寒様は現在、結界を張って、玄馬さんが解いてしまった封印の地で、地殻の変動を抑えているんです。そのため、結界の中から動く事はできない。だから、必要なエネルギーを得るために、ボクと術で繋がっているんです…。」
「あん?」
「つまり、ボクが小寒様の必要とするエネルギー源を摂取して、彼に送っているんですよ。」
「どうやって?」
「術で繋がってるんです。ボクの胃袋と小寒様の胃袋は…。」

 思わず一同は、樹の胃袋辺りを、じっと見詰めた。

「君のこの胃がねえ…。」
「その小寒っていう、おめえの許婚に繋がってるとはねえ…。」
「とても思えないわねえ…。」
「不思議ねえ…。」

 雁首並べて感心する始末。

「もしかして、おめえが気を失った時、地震がぐらついたのは、その…。胃袋生命線が途切れたからじゃ…。」
 恐る恐る乱馬が問いかけた。
「そうです。そのとおりです。小寒様へエネルギーを供給できないと、結界が緩んで地殻変動が起こります…。」
「何と厄介な…。」
「だから、ボクは空腹になりすぎたり、意識を失っちゃいけないんです…。眠るのだけは大丈夫なんですが…。」
「あらまあ、大変ねえ…。」

 一同、再び、彼の胃袋辺に目を向けた。

「ま、いいや…。それよか、おめえが女だったとはなあ…。それで、風呂場で俺を見たとき、女みてえな悲鳴を上げたのか…。」
 と乱馬が話題を変えた。
「確かに、女の子が男性の素っ裸見ちゃったら、叫ばずには居られないわよねえ…。」
 なびきも、変な感心の仕方をする。
 乱馬となびきが何を言っているのかわからずに、今度は樹がきょとんと目を見張る番だった。
「あの…。風呂場って、昨夜泊めていただいたときに、五鈷鈴を取りに行った時のことですか?」
 と恐る恐る尋ねてみる。
「ああ、そうだ。おめえ、俺の素っ裸見て、卒倒したろう?」
「え、ええ…。あれですね。ボクは男性の裸を見たように思ったんですが…。見間違いだったって奴でしょう?」
 問いかける樹に、乱馬は答えた。

「あれ、おめえは、俺の本当の姿を見て、驚いたんだ…。」
 乱馬はふっと笑った。
「乱馬さんの本当の姿ですって?」
「この子、本当は男の子なの。」
 そう言いながらなびきが乱馬の頭上へポットの熱湯を注いだ。

「くおらっ!なびきっ!熱いだろうがっ!」
 乱馬は怒りの言葉を荒げた。
「ちょっと、乱馬君…。あんた。何で変身しないのよっ!」
 焦ったのはなびきだ。
 乱馬が、熱湯を浴びせかけられても変身しなかったことに、驚いたのである。

「親父の奴に、変な術をかけられた。何でも親父を倒さない限り、男には戻れねーんだそうだ。」
 
「なっ!最悪じゃないっ!それっ!」
 なびきが答えた。
「あらあら、困ったわ。」
 とちっとも困った風でないかすみ。
「と言うことは、乱馬君。あかねとこのままじゃ結婚できないね!」
 早雲も焦る。

「あの…。」
 その場に取り残された樹が、一同を見る。
 彼女にしてみれば、乱馬は女だ。女以外には見えない。
 それ故、天道家の人々が、何に驚愕して焦っているのかもわからなかったのである。

「あ、この子、本当は男なの。」
 なびきが説明を始めた。
「はあ…。でも、女ですよ?その…どこから見ても、おっぱいはあるし、身体だって華奢だし。」
「でも、男なの。」
「まさか、心だけが男という…オカマさん?」

「なっ!俺はオカマじゃねえっ!」
 乱馬が思わず怒鳴った。

「話せば長いことながら、この子、あんたが言うように、女の姿は仮の姿で、本当は男なのよ。あんた、一度、風呂場で遭遇してるでしょ?」
 なびきが明かした。
「風呂場って…。じゃあ、やっぱり、あそこに居たのは「殿方」だったってことですか?」
 コクンと揺れるなびきの顔。
「乱馬君は、訳有りで、ドジ踏んで、呪泉郷という中国の修行場で呪いの泉に落っこちて、それ以来、水を浴びると女になる「変態体質」を引きずってるのよ。」
 と端的に説明した。

「おい!その「ドジ踏んで」とか「変態体質」ってのは、余計だっ!」
 勿論、乱馬も、横から突っ込むのを忘れない。
 だが、なびきは、乱馬の声など聞こえていないように、さっさと続ける。

「で、本当は、お湯で元の姿に戻れる筈なんだけど…。」
「つまり、カップラーメンみたいに、お湯で戻るんですね。」
 樹がわかったと言わんばかりに言葉を継いだ。
「ちっと違うかもしんねーけど、その喩え…。」
 思わず、苦笑いが漏れる乱馬。
「そっか、一言主に乗っ取られたおじ様は、あんたに何か術をかけたんだ。それで、戻れないのね…。」
 なびきがじっと乱馬を見た。

「そう言うことなら…。」
 任せてくださいと言わんばかりに、樹がさっと卜占の道具を持った。

「何だ?」
 乱馬は思わず覗き込む。

「占いして、問いかけてみます…。乱馬さんが、本来の姿を取り戻す方法を…。」
 ジャラジャラと音を立てながら、樹は数珠をもみ始めた。
 そして、もごもごと呪文めいだ言葉を唱え始める。

「なるほど、樹君が得意としている占いで、問いかければ、解呪の方法がわかるかもしれないんだ。」
「ってことは、親父を倒さなくても、戻れる方法があるかもしれねえ?ってことだなっ!」
 乱馬の顔も明るくなった。

 樹がだんだんに、高揚して行くのがわかった。目は閉じられ、声も呪文を唱えるほどに大きくなっていく。神懸かりするように、身体ががくがくと震える。
 一同がじっと見詰める中、今度は、荒くなった息を静めていく。
 最後にホオッと大きな溜息を吐き出した。それから言った。

「見えました。乱馬さんを元に戻す方法…を。多少危険ですが、それしかないと卜占は告げました…。その方法を行う事により、一言主の野望も、もしかすると、打ち砕く道が拓けるかもしれません…。但し、乱馬さんにも命を張っていただくことになりますが…。」
 樹は静かに顔を上げた。そして、乱馬に問いかけた。
「あなたが命を懸けても良いというのであれば、その方法を試します。但し、成功する可能性は極めて低いです。あなたの生命力と気力、そして、何よりも決意が強くなければ、この方法は試せません…。どうされますか?乱馬さん。」
 真摯な樹の瞳が乱馬を射抜いていく。

「けっ!それしか方法がないんなら、俺は、何だって懸けるぜ。たとえそれが、己の命だろうがな…。」

 乱馬の瞳の強い光。それを見詰めてコクンと樹は頷いた。

「そうよねえ…。あかねを助けるためには、命を懸けたって惜しくはないわよね。」
 なびきもにっと笑った。
「やかましーっ!あかねの事は二の次でいっ!俺は男へ戻りたいんだっ!バーローッ!」
 心を見透かされて、思わず荒げる声。
「ふっふっふ、まあ、そう言うことにしておいてあげましょうか。」

「で、事を勧めるに当たって、相談があるんですが…。」
 樹が真摯な瞳を、一同に手向けた。

「あん?何だ?」

「ボク、今の占いで力を使ったせいで、お腹が減ったんです。何か食べ物をお願いします…。」

「ま、まあだ、食う気かよ…。」

「空腹になりすぎると…。小寒様との繋がりが解けて…。小寒様が抑えている結界の力が弱まり、地殻変動が始まり、地震が起きるかもしれません…。」
 うるうると真剣に訴えかけてくる。
 いや、何となく、足元がぐらっと来たような気もする。

「まずいっ!」
「かすみっ!何でも良いから、ご飯!」
 早雲もせっついた。

「あかねちゃんのコロッケしかないわ…。」

「そりゃ、ダメだよ、かすみさんっ!こいつ、あかねの料理で、一度気を失ってるし…。こいつが気を失ったら、また地震を引き起こしちまうんだろ?」
「何でもいいから、ほら、かすみ…。」

「ああ…。お腹が減って、ボク…。」
 ゆらっと揺れる樹。
 ズズンと、小さなたて揺れが来る。

「気を失うなっ!こらっ!樹っ!」

 天道家は夜更け過ぎまで賑やかだった。



二、

 その頃、真っ暗な闇の中で、目覚めた少女が一人。

 玄馬に憑依した一言主にさらわれたあかねである。
 つんと鼻をつく、湿った匂い。
 ポチャンと上から水滴が滴り落ちてくる。


 
 暗闇の中を、心細く松明の光が照らしつける。周りは、ゴツゴツした岩壁だ。天井も壁も床もすべて、岩肌が見えている。
 見た感じ、洞窟の中のようであった。
 縛られては居なかったので、手足は自由に動かせた。
「ここは…。」
 目を見開いてはっとした。
 隣りに人の気配を感じたからだ。
 あかねの横には、爺さんが一人。

「樹君のお爺さん…。」
 巡らぬ頭で、自分に起こった出来事を回想する。

「確か…。あたし、乱馬と樹君が、早乙女のおじさまと対決するのを見ていて…。」
「そうじゃ、一緒にさらわれたんじゃよ。あかねさんとやら。」
 神足爺さんも目が覚めていたたしく、あかねの言葉に反応した。
「さらわれた…。そうよ、確か、後ろ側から、黒い物体が飛んできて、はっと思ったら上空に身体ごとせり上がっていて…。」
「そうじゃ。突然、黒い竜が襲い掛かってきてのう…。おまえさんとワシをここまで連れて来たようじゃ。」
 と爺さんは頷いた。
「何で、お爺さんとあたしを?」
 あかねはきょとんと見返した。
「多分、おまえさんを器の巫にするためじゃろう。」
「器の巫?何です、それ。」
 訊きなれぬ言葉にあかねはきょとんと問い返していた。
「一言主は、己が古代に使役していた「式神」を復活させようと企んでおるんじゃろう。そのためには、「供物」が必要になるでな…。」
「供物ですって?」
 あかねは声を張り上げた。
「もしかして、その「供物」になるのが、器の巫ってわけじゃ…。」
 さあっと血の気が引く。
「そう言うことになるかのう…。」
 爺さんはふうっと溜息を吐き出しながら言った。

「じ、冗談じゃないわよっ!あたし、そんな訳のわからない「式神」のお供え物になるなんて、ごめんだわっ!」
 そう吐きつけると、あかねはくるっと周りを見渡した。
 辺りは爺さんとあかねの二人きりだ。玄馬のも竜の姿も見えない。
 じっと全身の神経を尖らせ、風の渡ってくる方向を探る。風の吹き込んでくる方向に出口がある。それが、洞穴の法則だろう。
 あかねは、風の漂ってくる方向を定めると、そちらへ向けて、歩き始めた。

「これ、何処へ行きなさる?」
 爺さんが慌てて、あかねを呼びとめた。

「決まってるわっ!こんな訳のわからないところから逃げるのよ。」
 そう言ってあかねは、風の渡ってくる、大きな空洞へと足を踏み出そうとした。

「やめなされっ!」
 爺さんは、慌ててあかねに駆け寄ると、くいっと身体を後ろ側へと、押しやった。

「お爺さんっ!何するのっ?」
 あかねが叫んだ。何故邪魔をするのかと、言わんばかりに、ぐいっと爺さんを睨みつける。

「ほれ、その先を良く見なされっ!」
 爺さんは、あかねの進もうとしていた方向へ向かって、指をさす。

「あ…。」
 爺さんの指の先の方の岩の上に、何やら妖しげな描線のような幾何学模様が、薄っすらと浮き上がってるのが見えた。

「みておきなされっ!」
 爺さんは、ひょいっと地面から小石をつまみ上げると、文様の上に投げつけた。
 
 バシッ。

 電撃が走り抜けたような音がして、小石が弾け飛ぶ。

「な…。」
 あかねの顔が、みるみる驚きと恐怖に変わる。

「やっぱりな…。奴め、結界を張りおったか。」
 神足爺さんは、顔をしかめた。
「結界?」
 あかねは、眉をしかめて、きびすを返した。
「ワシらが、ここから逃げ出さぬように、結界を張りおったんじゃ。用意周到なヤツめ。」
 爺さんは指をさしながら言った。
「じゃあ、ここを通って逃げるということは…。」
「不可能に近いかのう…。」
 爺さんはさらりと答えた。
「はあ…。困ったわ。」
 あかねはどっさと、そこへ足を投げ出してしゃがみこんだ。

 壁から照らしつける壁の松明の火が、風もないのに妖しく揺らめく。

「さてと…。ここでこうしていても始まらんな…。」
 爺さんはも一緒にドンと腰を下ろした。
 そして、懐から何かを取り出すと、ごそごそと手を動かし始めた。
「お爺さん?」
 あかねが声をかけると、神足はジャラジャラと箸のような棒をしごき始めた。路傍の占い師が良く持っている、あの道具だ。
「占いをしてみようと思いますでな。」
 爺さんは、所々抜けている白い歯を見せて笑った。
「占い?」
 あかねが聴き返すと、コクンと頷いて見せる。
「こうしていても始まりませんからな…。出口があるのなら、占ってみれば良いと。当たるも八卦当たらぬも八卦。」
 そう言いながら、卦を読み始める。
 暫く、重苦しい沈黙が、二人の上を漂った。

「何かわかりました?」
 あかねは恐る恐る尋ねてみた。
「少しだけね…。出口では無いかもしれませぬが、何か進展の兆しが見える方向がわかりましたぞ。」
 爺さんは小難しい顔で熱心に占い道具を見た。
 
「あっちの方向じゃ。」

 爺さんは、さっき踏み越えようとして辞めた、結界と反対側を見詰めた。
 あかねはその方向へと目を凝らす。勿論、暗闇で何も見えない。
「ほら…。感じませんかな?この結界とは反対側の方向からも、微かだが風が流れてくるのを…。」
 爺さんに指摘されて、あかねは、じっと風を肌で感じた。
 確かに、爺さんの言うとおり、微かに違う風が反対側の方向から吹いてくる。
「奥に何がある事やら。さて…。どうしますかな?行きますかな?」
 爺さんはあかねを見詰めた。
 あかねはさっと立ち上がると、尻を払いながら言った。
「当然、行くわ。出口があるかどうかわからないけれど、ここでうだうだしていても始まらないしね…。」
 あかねはそう告げると、ひょいっと伸び上がると、松明を手に取った。
「お爺さん、行って見ましょう。」
 と誘う。
「本当に宜しいのですかな?蛇が出るやもしれませぬぞ。」
 爺さんはあかねに念を押した。
「望むところよ。」
 あかねははっしと、進むべき方向へと目を転じた。

 二人して、暗がりの洞窟の奥へと、足を進め始めた。
 洞窟の通路は下に傾斜していて、降りていくような感じだ。
 足元は岩肌がむき出しでゴツゴツしている。転ばぬように、岩壁へと手を添えながら、慎重に足を進める。
 暗がりを進んでいくと、前方から淡い光が漏れてくるのが見えた。
 人工光ではない、輝き。
 あかねは天井高く松明を灯しながら、そっとその方向へと足を進めた。
 光が漏れてくる場所は、大きく洞窟が迂回していた。
 
「誰か居るのかしら…。」
「いや、人の気配は見えませぬな…。」
 ゴクンと唾を飲み込む。
 それから、ゆっくりと岩壁に手をかけ、岩の角を曲がった。

「こ、ここは…。」
 あかねははっとした。
 真っ暗闇の中、その空間だけ、ぼおっと明かりが灯るように、浮かび上がっていた。
 勿論、電球などある訳ではない。
 よく目を凝らすと、正面からぼんやりと光源が漂っているように見えた。
 橙色の灯りだ。
 灯りの方へ目を凝らすと、そこには、祭壇があるように見えた。

 あかねは思わず、空間の手前で足を止めてしまった。
(何か陰湿な気配がするわ。)
 そう思ったのである。

「あかねさん?それ以上前には行かれませんのかな?」
 後ろから爺さんの声がした。少しあかねとは間合いがあいているようだった。思ったよりも後方からの声のようだが、暗くて良く距離感が持てなかった。
 あかねは黙って、その場に立ち止まったままだ。
 どうするか、思案したのだ。

 再び爺さんが語りかけてきた。
「どうします?戻りますかな?」
 まるで、その声は、あかねに、己の決断を迫っているように聞こえた。

 あかねは、すっと大きく深呼吸した。それから、爺さんに答えた。

「ここでこうしていても仕方がないわ。何があそこにあるのか、あたし、確かめて見ます。」
 と透き通った声で、きっぱりと言い放つ。

「気をつけなされ。何がいるかわかりませんぞ。」

「ええ、そうね。でも、あたし、後ろに下がる気はありませんから。」
 そう言うと、あかねは、ゆっくりと淡い光源に向かって歩き始めた。
 
 足元は思ったよりも平坦だった。
 今までゴツゴツした岩の上を歩いていたのだが、滑らかな床のようであった。
 明らかに人の手が入っている。そんな大きな空洞が、そこに開けていた。
 あかねは手元の松明を、煌々と照らしながら歩く。
 キョロキョロと見回しながら、慎重にゆっくりと歩みを進めた。

 部屋の真ん中へ来たところくらいだろうか。
 急に松明の灯りが落ちた。
 風もなく、ふいっと、かき消されるように、火が消えたのだ。
 持っていた木の先が、線香のように赤く光っている。

 思わずドキッとして歩みが止まった。

 と、その時だった。

「え?」
 あかねを中心に、さあっと地面から光が浮き上がってきた。
 あかねを囲うように、赤い色の幾何学模様の円陣が浮かび上がった。
 いや、幾何学模様だけではない。何やら文字めいたものが一緒に湧き上がる。

 と、同時に、お経のような文言を唱える声が、辺りに響き始めた。

「な、何よっ、これっ!」
 焦ったあかねは、その場を逃れようとした。
 だが、見えない壁が前に立ちはだかっていることを知る。
 円陣をカプセルに、閉じ込められたような状態だ。
 ドンドンと叩いてみるが、音すらしない。
 円陣の外へは出られなくなってしまった。

「ちょっと、これは、何なのよっ!」

 始めは小さな囁き声だった、文言が、だんだんに大きく響き始める。
 幾人もの声が重なり合うように聞こえてくるようだった。
 あかねに圧し掛かるように、次第に大きくなる声。
 不気味を通り越して、恐怖心が募ってくる。

 まるで、声に追い込まれるように、円陣が小さく中央へと縮小されていく。
 あかねを囲う見えない壁も、それに押されるように小さくなっていく。
 そう、あかねの居場所がだんだんに縮まっていくのだ。

「お爺さんっ!」
 あかねは一緒に居た、神足を呼んで、叫んだ。
 だが、返事は無い。

 やがて、円陣はあかねの身長よりも少し大きいくらいのところで止まった。 強く押しても、びくともしない見えない壁。

 やがて、正面から、赤い光があかねを照らしつけた。
 その光の先を見て、あかねはぎょっとした。そこには、一人の人影が、じっとあかねを睨みつけるように、膝を抱え込んでしゃがみこんでいたからだ。
 目を凝らして、更にドキッとした。
 鬼の風体をしていたからだ。
 そいつは、じっとしたまま、動くことなく、こちらをやぶ睨みしたままうずくまっている。更に良く見ると、石像のようであった。
 だが、今にも動き出しそうな、そんな不気味さを孕んでいた。

「な、何よ…。あれは…。」

 思わずぞくっと背中に虫唾が走った。

「あれを蘇らせるために、おまえの力が必要なんだよ…。あかね君。」

 耳慣れた声がした。
「あ、あなたはっ!」
 あかねの顔がみるみる険しくなった。
 そこには、知った顔が見えたからだ。
 玄馬が笑みを浮かべながらそこへ立っていた。

「おじ様っ!」
 あかねははっしと玄馬を睨み付けた。
 だが、そこに立っていたのは玄馬だけではなかった。
 もう一つ、影があったのだ。
 それも、あかねには見覚えのある人物だった。

「どういうことよっ!説明しなさいよっ!」
 あかねは食って掛かった。
 玄馬の後ろからこちら覗き込んでいたのは、神足爺さんだったのだ。
「ふふふ、まんまと己から「結界」へ飛び込んでくれるとは…。この結界は己の意思でしか入ることができないからのう…。」
 にんまりと笑いながら、続けて爺さんが言った。
「つまり、おまえさんの意思で入ってもらわねば、作動しないくらい古い結界陣」なんだよ、あかね君。」
 
「な…。あたしをわざと、ここへ導いたって訳なの?」

「そういう事だ。その結界に捕らわれたからには、簡単には抜け出せぬ。」
 にいっと爺さんが笑った。

「おじ様とお爺さんは、グルだったの?」
 あかねが睨み付けた。

「ふふふ、元気な娘さんだ。さすがに後鬼を降臨させる器にできる力量を兼ね備えていると卜占で出ただけな。」
 ひょおおっと風が唸った。
「卜占ですって?」
 あかねはジロりと神足を見やった。
「ああ、私がこの世に目覚めて、数週間。じっとこの大和国秋津島を滅ぼす術を考えておったのよ…。苦労したぞ。まず、賀茂神足の中へ入り、玄馬を呼び寄せ、傀儡術で操りながら何も知らぬ樹を利用し、やっとおまえを手に入れた。」

「まさかっ!最初から、そのつもりで、天道家へ乗り込んできたの?」
 あかねは、ぎょっとして神足を見た。

「ふっふっふ、だとしたらどうなのだ?」
 神足爺さんはにやりと笑った。

「じゃあ、今のおじ様は何よ。その抜け殻みたいな様子は…。」
 あかねは、ちらっと玄馬を顧みた。

「ふふふ、つい先頃、傀儡術を解いて、こやつには「韓国連広足(からくにのむらじひろたり)」を憑依させてやった…。と言ってもおまえにはわからぬか…。くくく…。」
 神足はにっと笑った。

「何者よ、それっ!」
 きつい声が手向けられる。

「広足はこの一言主が愛弟子よ。ふふふ、千三百年前に、共に役行者に呪詛されて、葛木山のこの洞穴の奥深くに封じられた、人間の怨霊よ。共にこの一言主共々、この世に仇なしたい、荒き人間の怨霊よ。」

「その怨霊とあんたが、何だってあたしに用があるの?」

「それ、そこに封印されし、我が式神「幽鬼」を蘇らせるために、おまえの肉体が必要なのだ。天道あかねよ…。」
 そう言うと、神足はすっと手に、青白い玉を取り出した。
「こいつは、我が式神幽鬼が恋慕した一人の女鬼神、「後鬼(ごき)」の魂が眠る宝珠だ。」
 爺さんはそいつを翳しながら笑った。
「後鬼ですって?」
「憎き、役行者が使役した女鬼だ。同時に、我が式神「幽鬼」が咽喉から手が出るほど欲しがった、女鬼だ。」
「女鬼、後鬼…。」
 ゴクンとあかねは唾を飲み込んだ。
「そうだ…。おまえを器にして、宝珠の中の魂を直接、憑依させて、後鬼を目覚めさせ、そして、我が式神を覚醒させる餌(え)として使うのだよ…。」

「なっ、何ですって?」
 あかねは、陣の中で思わず吐き付けていた。
 逃げようとして、結界を踏み越えようとしたが、壁のようなものに阻まれて、先へ進めない。
 焦ったが、カゴの鳥では逃げ出す事もできなかったのだ。

「言ったじゃろう?逃げられぬぞ…。その、結界の中からはな…。くくっ!さあ、後鬼の御魂よをおまえの身体に入れてやろう。」

 そして、言い終えるや否や手にした玉を、地面へと置き、掌でぐいっと押し込んだ。

「え?」

 玉が地面に消えると、同時に、ビリビリとあかねの下に張り巡らされた結界の円陣に光の衝撃が走った。そして、あかねの足元の円陣が円に沿って、大きな玉があかねに向けて競りあがってきた。あかねの身体を包むように、丸くなり、覆い被さる。
 大きな玉があかねを飲み込み、中心に捕らえたように、円陣の中で止まった。玉の壁から染み出してくる、強い妖気。 
 煙のような白い塊は、みるみる玉の中へ充満した。そして、あかねの皮膚穴を通して、身体の中にぐいぐいと吸い込まれるように、消えていく。
 シュウシュウと音をたてながら、あかねへと襲い掛かる妖気。

「いやああああっ!」

 あかねは、妖気をに襲われながら、大きな悲鳴を上げた。払いのけようと足掻いたが、成す術もない。
 やがて、玉の中の煙を全部吸い込むと、あかねは、力なく天を仰いだ。
「乱馬…。」
 小さく口が象った。
 と、ガクガクと膝を折り曲げると、地面についた。
 どっさりと、崩れこむように円陣へと倒れこむ。
「乱馬…。助けて…。」
 そう言葉に吐き出すと、そのまま気を失ってしまった。
 美しいあかねの瞳が、ゆっくりと閉じられていく。


「ふふふ、後鬼の御魂め。目論見どおり、この娘の身体が気に入ったと見える。すいっと一気に、娘の身体に入っていきよったわ。」
 その様を目の当たりに、神足がにんまりと笑った。
「これで、次の満月、明後日には、この娘の中に後鬼が蘇る。この娘の身体と同化融合し、美しき鬼神が誕生するのだ。」
 神足が笑った。それから、玄馬を見やって言った。
「後は、玄馬よ、いや、玄馬に乗り移りし広足よ。おまえの中に眠る、幽鬼を呼び起こすだけだ。幽鬼が呼び覚まされた時、この娘に憑依した後鬼を「餌」として食らえ。そうすれば、おまえはその力を取り込むことができる。そう、今度こそ、最高の鬼神となれるのだ。前は役行者に阻まれたがな…。もう、行者は居らぬ。忌々しいもう一人の鬼、前鬼(ぜんき)は生駒へ縛られ、眠ったままだ。後鬼を取戻しにも来られぬ。
 ふふふ。これで、根の国との結界が破れ、悪鬼が溢れる。この世へ禍成せる…。我等を滅ぼした憎き大和の人間の築きし大地を粉々に砕けるのだ。わっはっは。」
 神足は高らかに笑った。
「さて、満月の深遠たる光がここへ差し込めるまで、今しばらく眠りに就こうかのう…。力を使い過ぎたわい…。玄馬、いや、広足よ。」

 
 神足は放心している玄馬の身を己の方へ寄せると、そのままふっと意識を閉じた。
 彼らの身体はみるみる石化した。硬い石の身体へと豹変したのだ。すると、どこからともなく、この空間を照らしていた橙色の光もすうっと闇に同化していった。
 後には、倒れこんだあかねの身体が乗る円陣が、ポワッと柔らかい光を闇の中に放つだけであった。光は、じんわりと守るように、あかねの身体を包み込んでいった。



つづく



(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。