第六話  月夜の攻防


一、

「乱馬君、遅かったね。」
 暗くなってからの乱馬の帰宅に、早雲が声をかけた。
「もう、どこへ行ってたのよ!あんまり遅いんで、夕食、先に食べちゃったわよ。」
 あかねも後ろから声をかけた。

「晩御飯なら、外で食ってきたから、いらねえよ。」
 乱馬は靴を脱ぎ捨てると、さっさと玄関から上がった。

「食べて来た…ですって?」
 ジロッとあかねの視線が一瞬険しくなった。
 まるで、遅く帰宅した旦那を、逐一チェックし、何かを見つけて機嫌を損ねた女房のように突っかかってきた。
「あんた、さては…。右京の店で食べて来たんでしょっ!」
 と、ずばりと言い当てられた。
 ぎくっと乱馬の肩が動く。
「な、何でだ?」
 いきなり言い当てられて、動揺する乱馬にあかねは追い討ちをかける。
「あんたの身体から、お好み焼きの匂いが漂ってくるもの。」
 その言葉に、思わずクンクンと服を嗅いでみる。
「そっかあ?そんなに匂うかあ?俺…。おめえ、獣鼻だな。これで何を食ってきたかわかるなんてよう…。」
「人間ってのは、案外自分の匂いには鈍感なものよ。あたしにはお好み焼きの匂いがぷんぷん漂ってくるわ。それに、それだけじゃないわ!」
「あん?」
「あんたのその歯、そこにへばりついた「青海苔」が、一番の証拠よ!」
 とビシッと指がさされる。
 こうなっては言い逃れできない。下手に言い訳などすると、かえってあかねの嫉妬の餌食となる。

「御見それしました…。お察しの通り、ウっちゃんの店でお好み焼き、食ってきました。」
 ペコンと頭を下げた。
 まるで、残業と偽った飲み屋行きがばれた亭主の面持ちだ。

「ふっふっふ、あたしを甘く見ないことね。」
 あかねは、へへんと得意げに胸を張った。
「たく…。よりによって、右京の店なんかで食べてくるなんて…。」
 と、じろりと乱馬を見返す。
「いいじゃんかよ。たまたま通りがかったら呼び止められたんだ。俺だってたまには、ウっちゃんの店でお好み焼き食いたいもん…。かすみさんでも、絶対に出せない味だしな。ウっちゃんのところのお好み焼きは…。」
「ま、良いわ。今度から、夕飯が要らないときは、電話くらいかけてきなさいよ!そんくらいはできるわよね?」
 急に入った飲み会でも、報告はちゃんとしろと強要する妻のように、夕飯要らないコールを要求する。
「へいへい…。今度から気をつけます。」
 乱馬の遠からぬ将来、恐らくは恐妻家だろう。
「あんたの分、ちゃんと作ってるお姉ちゃんやあたしに対して失礼なんだから…。今度からちゃんと、電話くらいしてよね。」
「お、おい…。かすみさんに対して気遣うというのはわかるけど、何でおめえに対して失礼になんだ?」
 きょとんと、問い返した乱馬。と、かすみが横から声をかけた。
「あかねちゃんね、乱馬君にって、特製餃子を作ってくれてたのよ…。」
 かすみがにこにこと笑っている。

(げ…。あかねが特製餃子を作っただって?)
 「あかねの特製餃子」そう訊いただけで、脂汗が、つうっと背中を伝っていく。
 昨日、樹が努力すれば、何とかなる、と言ってくれたものだから、続けざまに、今夜の夕飯も手伝った模様。

「食べて来たんじゃ、もうお腹には入らないわよね。」
 そう、問いかけたかすみに、間髪入れずに、
「はい。もう、満腹、ウっちゃんの店で思いっ切り食べて来たから…。あはは。あかねっ!悪いな、せっかく作ってくれたのにっ!」
 と、すまんと手を前に差し出すと、極力、明るく言った。

「仕方ないわね…。ま、いいわ。」
 あかねがあっさりと引き下がってくれたので、ホッと吐き出す。
 だが、敵もさる物、それだけでは済まさないようだ。
「冷蔵庫に入れておけば、大丈夫だろうから、夜食か朝ご飯の時にでも、食べてね、乱馬。せっかく作ったんだからっ!」
 『せっかく作ったんだから!』という部分を、あかねは強い語気で言った。そこには、食べてくれないと、どうなるか知らないわよ…という、不気味な響きがある。

「あは…あはは…。」
 と笑って誤魔化そうとするが、彼女の視線は逃すまじと、真っ直ぐに射抜いてきた。口元は笑えども、決して目元は笑って居ない。
(どうあっても、俺に、その「特製餃子」を食わすつもりだな、こいつ…。)
 そう思った。
 こうなると、幸せなのか、不幸なのかわからない。
 と、あかねのエプロンに、キラッと光る物見えた。
「あれ?それ…。」
 目の前で、アルカイックスマイルを続けるあかねのエプロンに光るのは、見慣れぬ何やら金属製のアクセサリーだった。
「あ、これね…。」
 あかねは乱馬の視線の先が自分の胸元に向けられているのに気付いて言った。
「えへへ…。修行のお守りですって。料理が精進しますようにって、今朝方出て行った樹君たちが、言付けてくれたのよ。」
 とにっこり微笑む。
 樹の名前が、あかねの口からポッと出て、途端、乱馬の瞳が曇る。
 あかねの胸元には、独鈷(どっこ)のミニチュアのピンバッチが付けられていた。
「ほおお…。あいつの別れ際のプレゼントかよ、それ…。」
 明らかに「嫉妬」の響きがある。
「うん。これをつけて料理に精進すれば、腕が良くなるお守りなんですって。早速つけてみたのよ。」
 対するあかねは、後ろめたい気持ちなど微塵もない。呆気らかんとしたものである。惚れた女のそういう態度は、かえって男を硬化させてしまうものだ、という事すらわかっていない。
「へええ…。料理を精進ねえ…。確かに、あいつ、おめえの料理食って、悶絶したもんな…。」
 とチクチク刺すように、言葉を貼る乱馬。
(やっぱ、樹の奴、あかねに気があったのかよっ!)
 みるみる不機嫌な面持ちになる。
「もしかして、乱馬、何か誤解してる?」
 乱馬の豹変に、あかねがきょとんと言葉を返した。
「別に…。」
 そう言いながら、ソッポを向く。
「やっぱり、何か誤解してるでしょう、あんた…。」
 今度はあかねが責める番だった。
「だから、そんなもん、してねえっつーのっ!」
「はっはーん…。もしかして、ヤキモチ?」
 あかねがくすっと笑った。形勢逆転、今度はあかねが優位に立つ。
「バッ、バッカヤロー!な、何で俺が樹の奴がくれた、ピンバッチに嫉妬やヤキモチなんか…。」
 はっと口を押さえた。
(しまった!)
 と思ったが既に遅い。これでは、はいそうですと、宣言したのも同じだ。
「やーい、乱馬君、ヤキモチだあ…。」
 悪戯なあかねの言葉が、乱馬をからかい始める。
「なっ!そんなんじゃねえって、言ってるだろっ!バカッ!」
 火が出るほどに顔が熱い。
「ふふふ、でも、残念でした!これ、くださったのは、お爺さんなの。樹君じゃないわっ!」
 散々茶化しておいて、すっと引く。
「え?」
 真っ赤に染めた顔を上げる乱馬に、あかねが続けた。
「だから、くださったのはお爺さんの方。…安心した?」
 と、覗いてくる、円らな瞳。
「何でい…。」
 ホッとした。その様子を、実に楽しそうにあかねが見ている。

 と、笑っているあかねの向こう側で、じっとこちらを見詰めている、父親の玄馬と視線が合った。
 フフン、と口元が笑っている。

(おっと、いけねー。あかねの不味い料理のせいで、すっかり本題の方を忘れるところだったぜ…。)

 乱馬はあかねから視線を外すと、ついっと父親の方へ身体を向けて睨み付けた。

「親父…。悪いが、もう一度、勝負してくれ!」
 と凄んだ。
「ほお…。まだ飽きもせずに、この父に挑むというのか。息子よ。」
 玄馬はにやっと笑った。
「何ぞ、右京君に秘策でも授けてもらったのかの?」
 とふふふと笑った。
 そんな玄馬の言に、あかねの視線が一転、険しくなる。
(そうだったの?乱馬っ!)
 と無言のプレッシャーが乱馬へと注がれた。
 乱馬はその視線などに臆することなく言った。
「いや…。別にそんなわけじゃねーが…。俺だってプライドはある。負けたままで居るのは、どうしても納得いかねえからな。あん時は油断したが、今度はそうはいかねえ…。敵わぬまでも、もう少し、てめえに食い下がっていく、気概は持ってるつもりだ。それに、親父は、あれで、まだ実力の半分も出してねえんだろ?だったら尚更、俺の修行のこれからの課題を見つけておきてーんだ。」
 強い意志の言葉だった。
「急に真面目に修行をする気になったのか?貴様…。まあ、良いわ。そこまで言うなら、相手してやろう。」
 玄馬はすぐさま答えた。
「よっし。準備があるからな…。」
「場所はどこでする?時間は?」
 畳み掛けてくる玄馬に、乱馬は言った。
「そうだな、俺が道着に着替えたらすぐだ。場所は…オンボロ道場じゃああまり大振りな動きはできねえから、庭先で一丁、頼まあっ!」
「ふん、場所を変えても同じじゃと思うがな…。良かろう。着替えて待っておれ!」
 玄馬はそう言うと、さっさと自室の方へと引き上げて行った。

「乱馬…。大丈夫なの?昼間、あんだけ力の差を見せ付けられておいて。」
 あかねが心配げに覗き込んだ。
「ま、勝とうなんて、最初っから思ってねえさ。様子見だよ、様子見。今後の課題を見つけるのに、良い機会だしな。まあ、見てろって…。やられっぱなしでは、おかねえ。一矢くれえは報いてやる!」
 乱馬の瞳の強さに、あかねはそれ以上は言葉を継がなかった。
「でもさ…。近所迷惑にならない程度にしてよね…。すぐにって言ったって、充分、夜更けには違いないんだから…。ただでさえ、天道家(うち)ってば、あんたたち親子のせいで、ご町内から奇異な目で見られてるのよ…。」
 と忠告をする事も忘れない、あかねであった。
「あはは…。わかったよ。どこまで加減できるかわからねえけど…。やってやらあっ!」
 乱馬は苦笑いした。

 それから、母屋に入って、道着へと袖を通す。
 やはり、ここ一番の勝負の時は、道着に黒帯を締める。それが、格闘家としても、気合を入れられる、最良の井出たちだった。

 着替えて、庭に下りると、十三夜のいびつな月が、赤々と天空から、天道家の庭先を照らし出していた。
 庭の燈籠にポツンと火が灯る。それから、煌々と、居間の方から照らし出される、家の灯り。それが、照明代わりだ。
 息子の乱馬と、父親の玄馬。
 両雄、それぞれ、間合いを取って、睨み合う。

「庭先だし、近所に迷惑をかける訳にはいかねえから、今夜のところは気の大技は使わねえ。飛流昇天破も猛虎高飛車も打たねえ。せいぜい、接近戦で、気砲を使うくらいに押さえてーと思う。」
 乱馬はじっと玄馬をやぶ睨みしながら言った。
「ほう、それではおまえに、不利なのではないか?乱馬よ。おまえは女の身体じゃし、ワシは貴様ほどの気技は使えぬが…。」
「別にハンディーって訳じゃねえよ。俺は純粋に、親父の現在(いま)の素の力をはかりたいと思ってるだけだ。力技比べで充分だと思ってる。あ…。言っとくが、だからといって、手は抜かねえぜ…。もちろん、女の姿をしていようと、それは同じだ。」
「良かろう…。貴様がそこまで言うのであれば、気技を使わぬとは言え、ワシとて容赦はせぬぞ。」
 がばっと玄馬は構えた。明らかにいつもと違う、身構え方だ。右手を上から、左手は下から、仁王様のように身構える。早乙女流の基本型にはない、構え方だ。

「おじさんやあかねたちは、危険を回避するために、外に出ないで、縁側から見ててくれ。」
 乱馬は道着の黒帯を今一度、引き締めながら、後ろを振り返る。
下手に、庭先に下りて来られては、危険だからだ。気を使わないとはいえ、かなり激しい攻防戦になることは、目に見えていた。
 開け放たれた天道家の居間。後ろ側には、茶の間へ通じる襖が開いている。

「たとえ、貴様が何を企てていようと、ワシは、気を抜かぬぞ。おまえも心してかかってこいっ!実力の差、しかと見せ付けてやるわっ!」
 玄馬の眼鏡が光もないのに、光ったように思う。

「望むところだっ!てめえの、理不尽な力の源、是が非にでも見切ってやらあっ!」
 乱馬は、そういい終えるや否や、玄馬向かって、突進していった。



二、


「すっごい…。どっちも引かないわ。」
「ああ…。若干、乱馬君の方が優勢に立っているようにはみえるがな…。」

 早雲とあかねは、じっと二つの塊を見詰めた。
 両人、武道家だけあって、闘いを見る目は真摯だった。
 その脇でかすみが急須にお茶を淹れ、なびきは茶菓子の羊羹を突付いている。こちらは物見遊山(ものみゆさん)気分だ。

 ぶつかっては火花を散らし、また離れては突進する。その繰り返し。
 女に変化していて、力のない乱馬は、その負の部分を、動き回ることで、補っていた。力で圧してくる玄馬と違い、動きは敏捷(びんしょう)で、なかなか玄馬には捉えられない。
 気技を使わないとて、決して負けては居なかった。それだけ、真剣に玄馬に対していたのだ。
「火中天津甘栗拳!でやったったったったった…。」
 乱馬の必殺技の一つ、甘栗拳の秘拳が、容赦なく、捉えた玄馬に打ち込められていく。
「くっ!」
 玄馬はかわさずに、腕を前で十文字に組み、じっとその拳を耐えた。
「タタタタタタッ!」
 乱馬の拳が少し緩んだ、その瞬時を見逃さずに、組んでいた手刀さっと横に薙いで、振り切る。

「おっと!」
 まともにその手刀を浴びると、胸骨の一つや二つへし折れる。乱馬は骨と皮の隙一枚で、玄馬の手刀を凌いだ。

 今まで照らしつけていた、いびつな月が、分厚い群雲の中に埋もれる。
 さあっと辺りに闇が広がる。ジジジと球切れしかかった、庭先の蛍光灯が音をたてて光を揺らす。

 その暗闇の中、天道家の母屋の中以外に、あかねたち以外に、もう二組、その、闘いを、真摯に眺める瞳があった。
 彼らは、母屋のすぐ隣りの、道場の屋根の上から、じっと、その闘いを見守っていた。
 樹と神足爺さんのものだ。

「凄い…。これほどまでに人間離れした闘いを、生で見るのは初めてです。ボク…。」
 樹は興奮気味に、脇の神足爺さんへと声をかけた。
「ふむ…。ワシも久しく見ていないのう…。かなりやりよるわ、あの乱馬とかいう娘。やはり、一言主が、器の巫(うつわのかむなぎ)と定めたことはある。」
 二人とも、乱馬の戦いぶりに、正直、魅入っていた。
「そろそろ月が南中に達する。魔の力が最大に高まる刻を迎える…。心してかかれ。奴はそろそろ、その本性をむき出しにして、動き始めるぞ。
「はい…。お爺様。」
 神足爺さんと樹は頷きあった。


 天道家の庭では、乱馬と玄馬の闘いが、果てることなく続いている。
 両雄、いずれも、一歩も引かない。
 武道を見る目が養われている、早雲もあかねも、その、激しさに、目を見張るばかりであった。
「早乙女君…。凄い。乱馬君相手に、あれだけ動き回って、しかも、息切れ一つ、起さないなんて…。」
 いつも、玄馬と共に、ちんたら修行をしている早雲ですら、玄馬の動きが段違いなことを、認めていた。女の乱馬は、男のときよりも体重が軽く身軽な分、動きが俄然、良くなる。破壊力は減少するが、スピードが増すのだ。軽業師のように、乱馬は、自在に動き回る。動きで相手をかく乱させて、疲れたところを攻撃する。そういう手も、成り立つのだ。
「凄い…。おじ様、乱馬のスピードに良くついて行ってるわ。」
 あかねも目を見張った。
 見事に動き回る乱馬に、玄馬がもてあそばれているように見えるが、よく見れば、そうでもないのだ。 玄馬はよく乱馬の動きを見ている。乱馬が隙を伺って、玄馬に拳や蹴りを突き出そうとするところで、紙一重で交わしていくのである。拳も蹴りも当たらなければ、相手にダメージは与えられない。

「どうした?それで終わりか?」
 玄馬も余裕があるのか、乱馬をあおってくる。
「けっ!まだまだあっ!」
 乱馬は、あおられるままに、玄馬へと攻撃を仕掛けていく。
「ふん!おまえの拳など見切っておるわっ!」
 余裕でかわしていく玄馬。
 乱馬はつっと玄馬の前に立つと、そのまま、くるりと向きを変えて、玄馬に向かって突進する姿勢にかわった。
「猪口才(ちょこざい)なっ!」
 玄馬は身を翻した乱馬に向かって、ぐわっと身構える。
 と、乱馬は地面を軽やかに蹴って、頭上へと飛び上がる。
「でやああっ!」
 踵(かかと)でそのまま、玄馬の背中をトンと押した。
「な、何?」
 急な乱馬の方向転換に、さすがの玄馬もついていけず、バランスを失った。しかも、彼の目前には、天道家の庭池の水面が広がる。
「うわああっ!」
 そのまま、水の中へ真っ逆さま。

 水飛沫がバシャンと上がる。

「やった…。」
「おじ様が水に…。」
 早雲もあかねも、目を見張って、水面を見詰めた。
 いつものパターンなら、水に落ちた玄馬は、ジャイアントパンダ化して、上がってくる。
 当然今回も、と、固唾を飲んで見守った。
「お父さんっ!あれっ!」
 あかねが思わず指を指した。
「おおっ!あれはっ!!」

 だが、水から飛沫をあげて上がって来たのは、パンダ化した玄馬ではなかった。
 水を浴びたというのに、微塵も変身していなかったのである。

「おじ様…パンダ化していないわっ!何で?」
 天道家の人々は、口々に、玄馬を見て、驚愕した。

「へへっ!やっぱり変身しなかったなっ!親父っ!」
 乱馬ははっしと玄馬を睨み付けた。

「やっぱりって…。乱馬っ!何でおじ様が変身しなかったのか、訳がわかってるの?」
 あかねが縁側から叫んだ。

「ああ、今の親父は水を浴びても、変身できねえ…。何故なら、呪泉の水を遥かに凌駕する、物の怪が、奴に憑依しているからなっ!だろう?親父っ!」

「早乙女君に物の怪が憑依しているだって?」
 早雲に続いてあかねが叫んだ。
「一体、何がおじ様に憑依してるって言うのよっ!」

「千三百年の呪縛から解けた、古代の祟り神…。一言主。違うか?親父っ!」
 乱馬が激しく、言葉を投げた。

 その言葉を聞いて、玄馬の身体が激しく戦慄いた。

「くく…くくくくく…。乱馬よ、良く見抜いたのう…。誰か、おまえに、教唆した奴が居るのか…いかにも、我はこやつに憑依しておる、一言主様じゃっ!」

 ぐわっと玄馬の瞳が見開かれた。
 バリンと玄馬の目がねが割れる。
 そして、メキメキと玄馬の身体が盛り上がり、大きく伸び上がリ始める。

 思わず、あかねと早雲が、その場から駆け出して、庭先に下りようとした。

「来るなっ!てめえらが相手できるほど、生易しい奴じゃねえっ!」

 その声に、早雲とあかねの足が止まる。

「そこからこっち側へ降りて来ちゃいけねえっ!そっち側に居る限り、奴の毒牙は、てめえらを襲う事はねえ。少なくとも、結界が有効な間はなっ!」
 乱馬はびしっと言い切った。

「結界?」
 あかねがきびすを返した。その時だ。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン!」

 樹の声が道場の屋根から飛んできた。
 と、その声に呼応して、地面が、ズドンと戦慄いた。

「え?」
 あかねや早雲たちが見守る中、次々に広がる、六芒星の陣。
 地面から神々しい光が満ち溢れ、六芒星の形を象って、天道家の母屋を包んだ。六芒星の中の六角形の中に、天道家の居間がすっぽりと覆われるような形になった。

「いいか!あかね。てめえは絶対に、その陣の中から出るなよっ!わかったかっ!」
 そう吐き捨てるように、乱馬は命じた。

「そんな事、急に言われたって…。」
 目の前で何が起こっているのか、わからずに、あかねが声をかける。

「良いから、言うとおりにして、あかねさん。」
 はっと気がつくと、樹がすぐ傍に降り立っていた。
「樹さん…。」
 目を丸くするあかねに、樹は眼鏡越しに笑いかけた。
 修験行者の格好をして、手には金剛杖(こんごうしょ)と数珠を持ち、トンとあかねの足元に、杖を突き立てる。

「樹、あかねたちをしっかり守れよっ!」
 と乱馬は声をかけた。
「承知っ!」
 樹は、乱馬に呼応すると、数珠を巻いた右手を前に立て、祈るように、文言を唱え始める。
 と、天道家を囲んでいた、陣が輝きを増した。


「やはり、貴様が一緒につるんでいたのか…。」
 ギリギリと音を立てながら、玄馬が樹を睨み付けた。
 その言葉に動じることなく、樹は一心に文言を唱え続ける。

「てめえの相手は俺だ。親父っ!いや、一言主。」
 乱馬は威嚇の声を張り上げた。

「ふん!小賢しい。術者が何人も束になっても、ワシに敵うとでも思っておるのか?面妖な!ならば、ワシとて容赦はせぬっ!」
 玄馬は言葉を吐きつけると、再び、身体を戦慄かせた。
 モリモリと音がして、玄馬の皮膚が弾ける。

「ひっ!」
 思わず、天道家の女性たちは、玄馬から目を離した。
 
 人間の皮膚の下から、おどろおどろしい赤黒い化け物の肌が露出する。玄馬の顔も口元が大きく裂け、目がぎょろりと人間たちを見下ろす。
「我こそは、一言主命なり。時、満ち来たり。今こそ、長きに渡り封印された怨念の情を解き放ち、この国を葬り去らん。それ、清廉な強き乙女を、我が手中におさめんっ!」
 まるで赤黒い入道のような姿が、玄馬から変化を遂げた。僧形の化け物が、そこにすっくと立ちはだかっていた。

「けっ!本性を現しやがったなっ!」
 乱馬は気で押されぬように、はっしと睨み上げた。
 彼自身の気も高揚していく。

 ぐおおおっと唸り声を上げて、玄馬が乱馬目掛けて襲い掛かって来た。

「くっ!」
 乱馬は空へ飛び、その攻撃を紙一重でかわした。それから、身構えて、気砲を玄馬目掛けて打ちおろす。
 ドンと弾ける、地面。だが、真正面から打っても、動じず、玄馬ははっしと乱馬を見上げていた。

「やっぱ、正面から挑んでも、歯がたたねえか…。」
 乱馬は流れ落ちてくる汗をぬぐいながら、玄馬を睨み付けた。
 玄馬はにっと笑うと、今度は乱馬へと果敢に攻撃を仕掛け始めた。

「わわわわっ!」
 乱馬は、玄馬の投げ打ってくる、気の拳を、器用に避けながら、天道家の庭を逃げ始めた。
「ほらほらほら…。どうした?逃げの一手に転じよったか?」
 玄馬は面白がりながら、逃げる乱馬を追いかける。
 
「樹っ!まだか?早くしやがれっ!」
 その言葉を合図に、あかねの傍で文言を唱えていた樹が動いた。
 トンと持っていた金剛杵を再び突く。
 と、もう一つの陣が天道家の地面に現れた。
 今度は五芒星の陣。青白く光り輝く美しい陣だ。
 
 その陣の出現により、玄馬の動きがピタリと止った。

「なっ!」
 
 金縛りにあったように、玄馬の足元が、ピタリと地面に吸い付く。足掻いて動こうとするが、まるで張り付いたように、動かない。

「乱馬さんっ!一言主の動き、封じましたよっ!」
 樹は声をかけた。

「小賢しい小僧らめっ!」
 玄馬は吐きつけたが、時遅し、身体が動かない。
「ぬおおおおっ!」
 ビリビリと地面に己の身体の気を雷同させる玄馬。その振動に、カタカタと、樹が突き刺した金剛杵が揺れた。が、樹はしっかりと、金剛杵の先が地面から抜けぬようにと、必死で両手で押さえつけた。
 どうやら、この金剛杵が、陣と呼応して、玄馬の動きを止めているようだった。
「乱馬さんっ!早く、奴と決着をっ!ボクの力では、そう長く、結界を維持する事ができませんっ!」
 歯を食いしばりながら、樹が言った。

「お、おうっ!」
 乱馬は、樹に返答を返すと、ぐっと玄馬を睨んだ。

「親父…。悪いが、てめえの中の一言主と決着をつけさせてもらうぜ…。歯を食いしばって、耐えやがれっ!」
 そう言って、ぐっと拳を握り締める。それから、すっと五鈷鈴を懐から取り出した。

「き、貴様…。それは…。」
 玄馬ははっしと乱馬を睨みつける。

「爺さんから預かった五鈷鈴だ。これでおめえを仮封印できるんだってな…。悪いが、親父、てめえの身体ごと、封印させてもらうぜっ!」
 乱馬は五鈷鈴を横に真正面に身構えた。

「く…。くくくく…。貴様にこのワシが封印できるものか…。」
 玄馬は乱馬を見ながら笑いかけた。
「な、何?」
「ワシは貴様の父じゃものな。」
「そ、そんな事関係ねえ…。」
「これを見ても、そう言えるかのう…。」
 そう言うと、化け物の身体からすうっと怒気が消え、元の玄馬の身体へと立ち戻る。人間の身体が再び、乱馬の目の前に現れた。

「乱馬さんっ!騙されちゃいけませんよっ!情に訴えて、油断したところで、奴は…。それに、これは仮封印です。後でしかるべき術者に正式に封印していただきますからっ!」
 樹が躊躇した乱馬に声をかけた。

「ほう…。もし、しかるべき術者が不能ならどうする?さすれば、玄馬とやらは、一言主と共に、永遠の時を閉じ込められることになるやもしれぬぞ…。」
 と、玄馬は乱馬をたたみつける。
 乱馬の心が一瞬怯んだ。

「じゃが…。安心しろ…。乱馬よ。ワシがそこの若造術者の手に負えるような、端くれ者ではないわ…。そうれっ!ぐわあああっ!」

 玄馬は、己の術を発動させるために、気を溜める時を稼いでいたのだろう。
 唸り声と共に、怒気を地面へと集中させた。


「なっ!」
 
 玄馬の気が伝わった地面が、もこもこっと盛り上がり始める。

「何だっ!あれはっ?」
 思わず、目を見張った。

 地面から、ぞろぞろと、沸き立つように土塊が盛り上がる。そして、それはみるみる人型に形を変えていく。一体、二体、三体と順にいくつもそいつは盛り上がってきた。一つ一つ、手足が生え、土肌に目や耳、口が出現する。それも、全て、玄馬そっくりの土人形だ。やがて、それらは、ぞわぞわと動き出し、乱馬へと、鬼気とした視線を投げかけた。ざっと見積もっても、十数匹は居並ぶ。

「ふふふ…。ワシが動けずとも、傀儡人形らが、おまえの相手をしてくれるわっ!それっ!」

 玄馬の形をした傀儡人形たちは、一斉に乱馬に襲い掛かって行った。



つづく




一之瀬的戯言
 元々、「南中」とは太陽の軌道に対して使われる言葉です。ですから、月の軌道に対して、「南中」という言葉を使うのは、もしかすると間違いかもしれませんが、雰囲気を出すために使わせていただいております。ご了承をば。



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