第五話 乱馬、危機一髪!


一、

「クッソーッ!何で俺が、こんな格好で…。」

 乱馬は恨めしそうに、太陽を見上げた。

 霧が晴れてしまうと、そこには抜けるような青空が広がっている。
 つい、縁側で眠りこけてしまいそうな、うららかな小春日和。かすみは懸命に、庭先に蒲団を干している。パンパンとリズミカルな蒲団叩きの音が、天道家の建物にこだましていた。
 その脇を、憤然とした表情の乱馬が、仰向けに転がっていた。
 身体は女体へと再び変化し、明らかに不機嫌そうだった。
「仕方がないじゃない…。あんた、あっさりとおじ様にやられちゃうんだもの。」
 同情はしないわよと、言わんばかりのあかねが、傍らで覗き込む。
「ホント、おじ様、山でどんな修行をしてきたのかしらね。あんたが、てんで相手にならなかったんだもの。」
 とふうっと溜息を吐いた。
 その言葉に、更に口元をへの字に曲げた乱馬。


 今朝方の父親との組み手は、あっさりと乱馬の負けで勝負がついた。
 身構えると共に、繰り出した拳を、いとも簡単に外されただけでなく、気がつけば、己の体が、見事に宙に舞っていた。それは、まばたきをする暇ほどの電光石火の出来事だった。
 気がつけば、道場の床に沈み、煤けた天井を仰いでいたのだ。
 その下から、にんまりと笑った玄馬が、己を覗き込んでいた。
「勝負あったな…。乱馬よ。」
 と得意げに玄馬は息子を見下ろしていた。
「約束どおり、おまえには暫く女人で居てもらう…。」
「けっ!いつまで女で居れば良いんだ?」
「そうさな…。おまえがワシに再び挑んで、勝てるまでだ。」
 そう言い終わるや否や、父親の手で頭からバケツで水を浴びせられたのだ。


 勝気な乱馬にとって、一瞬で父親の玄馬に負けてしまったこと、それから、女を強要されたこと。これほどの「屈辱」はない。
 思い出しただけでも、己の腹がたった。
 最初の攻撃を跳ね返されたときにやられた自分の不甲斐なさ。
 油断していたとはいえ、玄馬の動きが微塵も見えなかった。それに、何か、いつもとは違う玄馬の気を感じ取っていた。
 別者の気配を、父親の中に、一瞬感じ取ったのである。
 ただの直感かもしれなかったが、隠微な何者かが、玄馬を助けている。そう思った。
(親父…。修行で何をしてきやがった…。悪霊と手でも組みやがったか…。)
 朝ご飯をかき込んで以来、ずっと、考え込んでいた。
 考えれば考えるほど、わけがわからない。対処の仕方もわからないのだ。
 ぎゅっと拳を握り締める。

「ねえ、ねえったらねえっ!」
 上からあかねが覗き込んでいた。
「乱馬ったらあっ!」
 さっきから、何かを乱馬に言っているようだ。返事がないのを不思議に思って、更に話しかけていたようだ。
「あん?何だ?」
 気のない返事をあかねに返す。
「そんなに悔しいんだったら、リベンジを申し入れて、おじ様に挑んで、さっさと男に戻ればって言ってるの。」
 あかねが乱暴に言葉を投げている。
「ちぇっ!他人事だと思って簡単に言いやがって…。」
「だって、あんたらしくないんだもの。ずっと考え込んじゃってさ。考えるより行動が、乱馬の主義じゃなかったの?」
「そんな主義、別に持ってねえぞっ!」
 と言ったところで、乱馬の動きが止まった。そして、すっくと起き上がる。
「乱馬?」
 急に上体を起こして立ち上がった乱馬に、今度はあかねが慌てた。

「そうだな…。考え込むより、行動だ。」
 あかねに言われて、再び闘争心に火がついたようだ。
「修行する気になった?」
 あかねがにこっと微笑みかける。
「うんにゃ、もっと直接的な行動に出る。」
 そう言うと、つかつかと母屋へ上がる。
 玄馬は朝ご飯を食すると、風呂にも入らずに、自室へ引きこもった。今頃、クーカーと高いびきで眠りこけているだろう。
「ちょっと、乱馬。まさか…。おじ様就寝中よ。」
 あかねが後ろから畳み掛ける。
「だからこそ、仕掛けるんだ。」
 乱馬は意を決すると、そのまま、ずんずんと奥の間へと足を運んでいく。

「乱馬っ!」
 慌てて乱馬の後を追おうとしたあかねに、背後からかすみが声をかけた。
「あかねちゃん!手伝ってちょうだいっ!」
 焦った声があかねを引きとめたのである。
 振り返ると、蒲団を抱えて、バランスを崩しかけている、姉が目に入った。
「お姉ちゃん…ちょ、ちょっと待って。」
 取って返し、あかねは、救いの手をかすみに差し出さねばならなかった。


二、

 乱馬は、あかねの制するのも聞かず、そのまま、天道家の奥の部屋へと足を忍ばせた。
 居候を決め込んだ時から使っている、一階の奥の部屋だ。現在、乱馬はその部屋から二階の奥へと居室を移したが、玄馬はそのままのどかとその部屋を使っている。
 のどかは思い出したように彼女の生業でもある「お花」や「いけばな」「着付け」の教室運営のため、都内に借りている長屋へ寝泊りすることがある。秋のスクール開講中につき、現在はそちらで過ごしているから、玄馬一人きりでその部屋を使っている。

 長旅の疲れを、その部屋で取るために、多分、そこで眠っている筈だ。
 丁度、寝首をかく格好になるのだが、手段を選んでいる余裕はない。乱馬はそう思いついた。己が思うように、何か別の力を身体に宿しているならば、余計に、寝首をかくことが有効となろう。本当に、父親一人の力で己を倒したのか否か。一見、卑怯な手ではあったが、確かめずにはいられなかった。いや、乱馬自身の、どんな汚い手段を使ってでも、勝ちたいという元来の勝気さも、背中を押していた。
 こうだと思ったら、直情的に動く。それが武道家の彼の性分でもあった。

(親父め…。絶対裏に何かあるはずだ。でねえと、短期間に、あれだけの力を身につけられるはずがねえ…。ましてや、ここのところ、俺の方が奴よりも力をつけていたはずだ。)
 多少自信過剰な部分もあるが、確信に近いものを感じ取っていた。
 いや、ある意味、野性的に近い、彼の直感が、「玄馬に憑依した力」を捨て置けば、やがて、天道家やあかねに危険を及ぼすと、見通していたのかもしれない。

 部屋の入口の襖の前に立つと、乱馬はじっと息を殺した。
 相手に気配を悟られぬように、中の様子を探る。規則正しい、玄馬の寝息が、襖越しに聞こえてきた。乱馬は一度、瞑想するように、ぐっと目を閉じると、そっと襖に手をかけた。
 音もなく、敷板を滑り、襖が開いた。
 雨戸を閉められた八畳間の真ん中に、白い蒲団が浮かびあがる。乱馬は眠っている玄馬を見定めると、一気に強襲した。

 はらりと掛け布団が空に舞った。

「な、何っ?」
 敷布団の上には玄馬の姿が見当たらなかった。

「おまえの行動など、お見通じゃっ、乱馬っ!」
 直ぐ傍で玄馬の声がはじけた。
 と同時に、物凄い勢いで、身体が床面に引っ張られた。そのまま、背中から、仰向けに畳の上に叩きつけられる。
 ドンッと背中が畳に打ち付けられた。
「うっ…。」
 あまりの衝撃の強さに、思わず声をあげたほどだ。
 そして、次に、上から玄馬が圧し掛かってくるのが見えた。

「ぐわっ!」
 玄馬はその巨体をして、容赦なく、乱馬の肢体の上に、馬乗りになって動きを止める。
 両手を十文字に広げられ、そのまま、押さえつけられる。
「させるかっ!」
 乱馬はまだ自由に動く足で、玄馬の身体を蹴り上げようとあがいた。
 だが、自分の想いとは裏腹に、足は上に持ち上がらなかった。磁石に吸い付いたかのように、畳へとくっ付いていたのだ。

「無駄じゃよ…。乱馬。おまえの力では、もう動けぬ筈じゃ。」
 彼の直ぐ上で、玄馬の眼鏡が光もないのに、キラリと光った。いや、それだけではない。畳の下から、淡い乳白色の光の筋がいくつも浮き上がっているのが見えた。
「ふふふ…。親の寝首をかくとは。見上げた根性よ!」
 思わず、抑えつけられた背中がぞくっとなった。
「て、てめえ…。誰だ?親父じゃねえなっ。」
 脂汗が額を伝った。見てくれは確かに玄馬だが、孕んでいる気が明らかに違う。禍々しい気配が、まとわりつくように、玄馬の周りを包んでいるのが、はっきりとわかったのだ。
「何を言うか!ワシはおまえの父親だぞ。」
 玄馬は圧しながら、乱馬に畳み掛ける。
「嘘だ!てめえは親父じゃねえっ!」
 果敢にも、身体を動かそうと乱馬は、必死で渾身に力をこめる。
「たく…。親の寝首はかこうとするわ、親を親とも思わないわ…。これはバツを与えてやらねばならぬな。」
 キラリと玄馬の目が妖しく光った。
「親の言う事をきかない子にはお仕置きじゃ。」
「な、何、馬鹿な事…。」
「バツとして、貴様には、暫く、女人のままで居てもらおうかのう…。奴らを欺くのにも丁度良いしのう…。」

「くっ!貴様、何のつもりで…。こんな…。」

 そう言いかけた時、上から玄馬のごつい手が己の胸の谷間に伸びてきた。その指には、何かお札のような白い紙が握られている。そいつを胸の谷間に置くと、掌で思い切り押し付けた。
「汝、我が咒法(じゅほう)を受けよ!」
 その言葉と共に、目の前で光がはじけた。目も眩まんばかりの、銀色の閃光が、胸の谷間から己を包む。同時に、胸から、形容し難いほどの熱い痛みが、身体全体を走り抜けた。

「うわあああああっ!」

 乱馬の悲鳴を聞きながら、玄馬は微動だにせず、黙ってぐっと掌を、胸の谷間に押さえつけていた。
 やがて、乱馬の胸の前にはじけた光は、お札と共に、乱馬の胸の谷間に飲み込まれるように、消えていった。
 乱馬は荒い息を吐きつけ、天井をやぶ睨みする。
「畜生、てめえ…俺の身体に何しやがった…。」
 震える声が、玄馬を捉える。
「何、呪泉の呪いを強固にしただけじゃよ。」
「呪泉の呪いを強固にだと?どういうことだ?」
「簡単な事じゃ。ワシを滅せぬ限りは、男には戻れぬようにしただけのこと…。」
「な、何だって?」
「男に戻りたければ、せいぜい、寝首をかくなり、陥れるなり、様々な手を講じて、ワシを倒すことじゃな。ふふふ…。言っておくが、今のワシは、そう簡単には倒せぬぞ…。せいぜい修行を積む事じゃな…。わっはっはっは。」
 玄馬はそう言うと、すっと乱馬の身体から離れた。

 とそこへ、ドタドタとけたたましく足音が近づいて来た。そして、ガラッと乱暴に襖が全開された。

「乱馬っ!おじ様っ!」
 ようやく、蒲団の始末がついたのだろう。
 遅れること数分。やっとのことであかねが二人の居場所に駆けつけてきたのだ。

「おお、あかね君か…。乱馬の奴、酷いんだよ。ワシが寝ておったら、いきなり、寝首をかきおったんじゃ。」
 玄馬は、コロッと態度を軟化させて、うるうる瞳であかねを見返した。見てくれは、いつものおどけた玄馬に立ち戻ったのだ。
「て、てめえ…。」
 乱馬ははっしと玄馬を睨み付けたが、それ以上、言葉を継がなかった。暗に、玄馬の、めがねの奥の瞳が、『余計なことを口走ると、あかね君は無事ではおるまいぞ!』と、言わんばかりの鋭い光を投げかけてきたからだ。

「もう…。乱馬ったら。大人げないんだから…。」

「まあ、奴の魂胆など、見えておりましたからなあ…。ワシの楽勝ではありましたが、かんらからから!」
 と、玄馬はおどけて見せた。

「この際だから、久しぶりに、あんたも真面目に修行なさいなっ!ほら、あたしも付き合ってあげるから。」
 ふうっと微笑かけながら、あかねは乱馬に言った。
「てめえの助けなんか、あてになんねえよっ!」
 ぶすっと膨れっ面の乱馬がわざと大きくはきつけた。
「ほら、負け惜しみ言ってないで…。さっさと来なさいよ。せっかくだから組み手の相手してあげる。」
 あかねはすいっと乱馬の腕をつかんだ。
「い、いらねえよっ!」
「いいからいいから。おじ様疲れてらっしゃるんだから、寝かせておいてあげなさいって。お邪魔しましたあっ!」
 そう言うと、無理矢理あかねは乱馬を引っ張って、玄馬の寝室から引き上げていった。

 二人が見えなくなったところで、玄馬はにっと不気味な笑みを浮かべた。

「ふふふ…。準備は万端整った。後は、器の巫となる者を今宵奴らの前からかすめ捕るだけじゃ。力の差を見せ付けてやるぞ。忌々しい、憎き大和国の術者の末裔よ。貴様らを打ち砕き、必ずやこの世を闇で多い尽くしてやる。ふふふふふ…。ははははは。」


三、

 乱馬はすっかり、困惑していた。

 玄馬に穿たれた呪いが、思ったよりも深刻だった事を思い知らされたからだ。

「畜生…。親父の奴、どういうつもりだ…。あいつに憑依した化け物の正体って、一体何なんだ…。」
 もうもうと上がる湯煙の中、ぐっと拳を握り締めた。
 シャワーから滴り落ちる水滴は、豊満な女体を流れて落ちる。そう、湯を浴びても、男に戻らないのだ。
 お湯がぬるいわけではない。いや、むしろ熱めだろう。湯船にざっぷり浸ってみても同じ事。頭からかぶってみても、乱暴に背中に浴びせかけても、変身の兆しが全く現れないのだ。
「くっそおっ!どうなってやがるっ!」
 バッシャと湯を顔に浴びせかけた。

『男に戻りたければ、せいぜい、寝首をかくなり、陥れるなり、様々な手を講じて、ワシを倒すことじゃな。ふふふ…。言っておくが、今のワシは、そう簡単には倒せぬぞ…。せいぜい修行を積む事じゃな…。わっはっはっは。』

 脳裏でそんな言葉が反芻される。
 どんな必要性があって、父親は息子を女のまま留めようと、咒法をかけたというのだろう。
 修行に出向いた山で何かあった。それだけは確かだろう。
 悪い物の怪か何かが彼の脳を支配して、何かをさせようと企んでいる…。そう思うのが自然だった。己が男のままでは不味いような、そんな企てごと。
 口を割らせたくても、力でどうこうできる相手ではないようだ。間の抜けた父親と違って、奴は狡猾だ。今思うと、まるで、乱馬の行動を見越していたように、寝室で待ち受けていた。初めから、考えて仕組んでいたように、手際も良かった。

「野郎、ふざけやがって…。」

 乱馬は再び、乱暴に湯船へと浸った。
 勿論、身体は男には戻らず、女のままである。

「何か、糸口だけでも見えたら…。」
 そう思ったときに、ふと、昨夜泊めた、樹と神足爺さんを思い出した。
 が、頭を横に振るった。
「でえ…。弱きになってやがるな。あいつらの占いなら、何とかできるかもしれねえなんて、馬鹿なこと思いつくなんて…。」
 一日ずれていれば、或いは、簡単に問題は解決できたかもしれない。
「ま、あいつらでも、親父の身に何かが起こってるなんて、考えもつかなかったようだし…。たとえ占えても、占いは占いだ。完全ではねえもんな…。それより、禍が天道家に降り注がないようにしねえと…。」
 一番気になる点はそこだった。
 邪なる者の目的がはっきりしない以上、玄馬がこの先、何を企んでいるかわからないからだ。単に己をいじめるだけなら良かろうが、おそらく、何か深いわけがあるに違いない。
「やっぱり、どんな卑怯な手を使ってでも、親父に打ち勝たねえと、元の身体には戻れそうにねーな…。」
 ちゃぷんと湯を跳ね上げながら、乱馬は思案に暮れていた。


「あんた、案外、生真面目なんだ。」
 風呂から上がると、あかねが乱馬を眺めて笑った。
「あん?」
 彼女の言わんとしている言葉の意味が飲み込めず、乱馬は大きな瞳を手向けながら問い返す。
「ふふふ、だって、その格好。おじ様に女で再修業を命じられてさ、ちゃんと言いつけ守って、女に変身しなおして風呂からあがってくるんだもの…。感心しちゃったわ。」
 と指摘した。
「うっせーよ、てめえは…。俺の気持ちも知らねーで。」
 湯煙をもこもこと身体から上げながら、ツッケンドンに言い放つ。
(別に言いつけを守ってんじゃねー、男に戻れないから仕方がねーんだ!)
 声には出さないが、心根で吐き出す。
 心配性のあかねのことだ。湯を浴びても男に戻れないと知れば、かなり動揺するだろう。惚れた女を心配させることなど、男の沽券にかけても出来ない。
「あんたも、真面目に修行なさいよね…。おじ様、きっと、それが言いたくて、あんたに本気でかかってるんだと思うわ。親子の情愛よね…。」
「あん?親子の情愛だと?へん!あーいつにそんな気持ちなんざ、これっぽっちもあるわけねーだろっ!」
 と突っぱねる。
「ほーんと、素直じゃないんだから。」
 そう言い置くと、乱馬が入った後の湯殿へ、あかねが入っていく。
 さっきまで道場で二人、汗を流していた。彼女も、また、夕食前に、一風呂浴びて、さっぱりしようと思っているのだろう。
 惚れた少女が己の風呂の後を使うのだ。少し顔が紅潮した。距離が近い二人にとって、当たり前の一光景にしかすぎないのだが、それでも、時めきはある。
 クラスメイトに言わせれば、「羨ましく美味しい同居生活」だ。
 ただ、裏返してみれば、厄介な事もある。距離が近すぎると、なかなか背負った秘密を保てないというリスクがある。
 あかねの事を思うと、早く男に戻りたいという、願望が強くなった。
 だが、どうすれば良いのか、実際は途方に暮れていた。
 今の玄馬の強さは、自分をはるかに凌駕している。力で押して敵う相手ではあるまい。本来の強さでない事はわかっていたが、その不気味な力の源がわからぬ以上、対策の立てようもなかった。

 余程、困っているように見えたのだろうか。

 湯から上がった後、縁側でぼんやりと夕空を眺めていると、かすみが、彼の傍にやって来た。
「乱馬君…。言い忘れてたんだけど…。これ。」
 と言って、エプロンのポケットから、小さな紙片を取り、彼の前に差し出した。
「かすみさん、これは?」
 二つに折り畳まれた紙片を見ながら、かすみを振り返る。
「今朝方、お爺さんがこの家を発つ時に、乱馬君に渡してくれって、置いていったものなのよ。暫くは、この町に滞在する予定だから、何か困ったことや占ってもらいたいことがあったら、遠慮なく来なさいって言い置いてね…。お爺さん、何か気になる占い結果でも持っていたのかしら…。あかねじゃなくって乱馬君ですかって、わざわざ尋ねてみたんだけど、乱馬君にって言い残したのよ。ごめんなさい。今まで出すの忘れていて…。」

「ありがとう、かすみさん!」

 渡りに船とはこのことだと思った。
 占いなど、信じない性質だということは、この際置いておいて、溺れる者はワラをもつかむ、その心情だった。玄馬の真意と憑依体の正体がわからぬ以上、どんな些細な情報でも、それがたとえ占いの結果であったとしても、何かヒントになるものは隠されているのではないかと思ったのだ。
 見たところ、玄馬はまだ疲れて自室に篭りきったままだ。この分だと、夕飯までは起きてくるまい。夕飯まで、今しばらく時間がある。
 それに、あかねは風呂に入っている。
 己の行動を監視する者は居ない。この機を逃す手はないだろう。

 すぐさま、行ってみようと思った。

「ちょっと出てきます。」
 かすみに言い置くと、乱馬はひょいっと、天道家の門を潜り抜けて、駆け出して行ってしまった。
「もうすぐ晩御飯ですからねえ…。それまでには帰って来るのよー。」
 かすみが手を振りながら乱馬を見送った。


 夕陽を真正面に受けながら、乱馬は走った。
 かすみが渡してくれたメモには、神明神社という名前があった。
 この辺りの氏神を祀った、どこにでもあるような小さな神社だ。勿論、場所も知っている。
 川縁の道を走りぬけ、橋を渡って、直ぐの小高い丘の上に境内がある。
 普段は神主が居ない、社殿だけの人影も少ない神社だ。賀茂爺さんたちは、そこを暫く仮宿にして、この町に滞在するつもりなのだろう。
 家が立ち並ぶ道を抜け、少し奥まった石段を、軽々と走りながら登っていく。
 息を切らせながら階段を登りつめると、拝殿の中から声がした。

「待っておったぞ、案外、遅かったではないかっ!」
 と聞き覚えのある、爺さんの声がした。

「爺さん…。お願いがある。」
 乱馬はだっと駆け寄ると、爺さんに向かって言った。

「わかっておるよ…。ワシに相談があるんじゃろ?」
 にっと爺さんは笑った。



「たく、人の足元見やがって!」
 乱馬は傍らの老人と青年を交互に見比べながら、ふうっと大きな溜息を吐き出した。
 ジュウジュウと食欲をそそる鉄板の音。
「いよっ!ほっ!」
 手馴れた手で、それを一つ一つ丁寧にひっくり返していく少女。
 右京の店だった。
 乱馬の脇で、次々に焼かれていくお好み焼きを、神足爺さんと樹が、がつがつと貪り食っていた。

「ホンマ、まだ、こいつらとつるんどったんかいな…。乱ちゃんは。」
 シャッシャッとコテの音を立てながら、お好み焼きをひっくり返していく。
「人がええっちゅうか、なんちゅうか…。まあ、ええわ。」
 そう言いながらも、右京は次々と新しい生地を流して、お好み焼きを作っている。
 そいつを片っ端から、がっつく樹。相変わらずの大食漢だ。

 玄馬に憑依した物の怪の正体を対策方法を占ってもらいに、書置きされた神社へと足を延ばしたが、開口一番、爺さんに言われた。
「占ってしんぜぬでもないが、一応、ワシらはその道のプロじゃからのう…。ちゃんと御代は弾んでもらわねば、ならぬ。」
 とだ。
「な…。」
 一瞬、躊躇った乱馬に、爺さんは言った。
「いや、別に後払いでもかまわんよ。今夜の食事を面倒見てくれるというのでも構わん。一応ワシらも喰うて生きていかねばならん。これから先はビジネスじゃし、おぬしもワシらに貸しなど作りたくはなかろう?」
 と長けた笑顔を手向けられたのだ。
 背に腹は変えられない。一刻も早く、玄馬に打ち勝って、男に戻りたいと思っていた乱馬は、渋々、今夜の食事の面倒を見るということで手を打ってもらったのだ。居候の身の上、お金もたくさんは持っていないし、夕食ならばなんとか調達の伝がある、そう思ったからだ。
 仕方なく、右京の店に連れて来たのであった。
 ここならば、ツケがきく。他にもツケがきく店に、シャンプーの猫飯店があったが、あそこには一癖も二癖もあるコロン婆さんやムースが居るから、事の仔細を話すのもややこしい。それに、あかねの性格から見れば、シャンプーよりは、右京に頼った方が、その機嫌を損ねる度合いも小さいと踏んだのである。猫なで声でまとわりつく中国娘よりは、あっさりとした性格の関西娘の方が、あかねには、まだ好感度が高いと思ったのだ。

(女って難しいからなあ…。)
 はあっと溜息が漏れた。

 とにかく、訳は言わずに、後で今夜の食事分はきっちり店番のアルバイトをすると言って、右京と折り合いをつけた。
「あ、それから、あかねにもナイショな…。」
 と頼む事も忘れなかった。
「しゃあないなあ…。ウチが乱ちゃんの頼みは断られへんのわかってるやろう?」
 右京は二つ返事で、二人分の食事を引き受けてくれた。
 義理堅い上に、口も堅い。それが浪花女の心意気だ。
「今度、小夏もつばさも居らん時に、みっちりウチと店番やってもらうしな。」
 と付け加える事も忘れなかった。


「ちゃんと、おまえさんの父上の卜占は済ませてあるよ…。というか、ワシらは、あやつを追って、この町へと来たのだからのう…。」
 爺さんはがっつく孫を眺めながら、乱馬へと言葉を手向けた。
「親父を追ってだって?」
 乱馬は目を丸くした。
「ああ…。実はのう…。おまえさんの父上は、ワシらの暮らす里山にあった、封印を紐解いてしまったのじゃよ。困った事にな。」
「封印を解いただって?何の封印だ?化け物か?それとも、怨霊か?」
「葛城の山を根城としていた古代神、一言主様じゃよ。」
「ヒトコトヌシだあ?何だか変な名前だな。」
「伝説に寄ると、大和朝廷がこの国の実権を全て掌握するずっと以前から、葛城山に暮らし、そして、その地方を治めていた「国つ神」その一人じゃよ。」
「国つ神?」
「ほっほっほ、中央に祀られた支配層の神は「天つ神」と言うんじゃが、それと対極にある土着神、つまりは支配層に吸収されていった神々のことを「国つ神」と呼ぶんじゃよ。…まあ、それは良いわ。大和朝廷に併合されて、屈服を余儀なくされた神々の中にはのう、強い怨念を持ち続け、祟り神になってしまった神も少なからずいたんじゃ。」
「良くわからねえけど…まあ、いいや。結局のところ、反乱心を抱いていた神ってところなんだな?」
「そうなるかのう…。一言主も祟り神になった土着神の一人でのう…。奴は、大和国をいずれ滅ぼさんと機会をうかがっておったんじゃよ。奴は何十年、何百年も、力を溜め、実行に移しかけたその時、奴の前に立ちはだかった術者がおったんじゃ。それが、役行者と呼ばれておる、修験道の開祖、我らが祖先、役小角様じゃった。」
「役小角ねえ…。どんくらい前の術者なんだ?」
「今からざっと千三百年ほど前の御方じゃよ。…小角様は、式神をお使いになって、何とか一言主を葛城山中へと封印なさったんじゃ。」
「封印か…。何故、封印なんかしたんだ?一思いに退治すれば良かったんじゃねえのか?」
「素人はそう考えるがな…。まあ、いろいろ事情があって、封印という形を取り、我らが故郷、葛城の山中へ押し込めたんじゃ。」
「で、その封印を解いてしまったのが、あなたの父上なんです。」
 樹が付け加えた。

「そうか、親父に憑依した奴の正体は、一言主っていう祟り神だったって訳か…。厄介な相手だな…。」

「何、安心なされ、乱馬さんとやら。奴の狙いと対策方法は、ばっちりワシらがバックアップして差上げますぞ。」
 爺さんは、乱馬を見ながらにやりと笑った。



つづく



(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。