第四話 玄馬、帰る


一、

 天道家の夜は早い。
 武道一家らしく、朝早くから修行に励むあかねや乱馬、早雲や玄馬は勿論、一家を担うかすみは早起きするために早く休むし、なびきですら、あまり大っぴらな夜更かしはしない。日付が変わる頃には、すっかり寝静まっている。
 ましてや丑三つ時ともなると、全ては夢の中。
 そんな、真夜中に、動き出す影が二つ。
 樹と神足爺さんであった。

「お爺様、いきなり当たりくじを引いたみたいですね。」
 ぼそぼそっと樹は囁きかけた。
「当然じゃ。ワシらの卜占を合わせれば、完璧と言っても過言ではあるまいからのう…。」
「まさか、奴がこの家に寝泊りしていたとは…。調べても、住所がわからぬ筈です。」
「住所不定の放浪者だったのよのう…。しかし、おまえの卜占も、なかなか見事に当たるようになってきたではないか、樹。練馬という地へ赴き、そこのお好み焼き屋と中華料理屋で騒動を起せば、必ず縁者に突き当たるという事まで、ピタリと当てよって…。愛いやつめ!」
「はい、これもあの地獄のような修行のおかげです、お爺様。」
 ぐっと両手をグーに握り締めて、樹が言った。
「でも、こうも簡単に、奴の縁者の家にもぐりこむ事ができるなどとは…。やっぱり、奴の狙いは自分の「娘」なのでしょうか。」
 爺さんは樹の言葉に、ゆっくりときびすを返した。
「恐らくな…。見たところ、奴の娘、乱馬とか言ったかのう、あやつも「中性的」な香りがぷんぷんしよう?見てくれはボインボインな身体をしておるのに、男言葉を使う。それに…格闘家としての腕っ節も、かなりなレベルと見た。」
「ならば、やはり、彼女を「依代(よりしろ)」に…。」
「十中八九、間違いあるまい。彼女は依代の条件を全て整えておるわ。」
 更に声を落として言った。
「ふふふ、後はおまえが、この家の周りに、奴を捕らえるための、強固な結界を張るのみじゃ。」
「そうですね…。ただ…。」
 樹はそこで、ふっつりと言葉を切った。何か気になることでもあるのだろう。
「ただ、何じゃ?」
「あ、いや、昼間、奴の娘、乱馬の卜占をちらりとやってみたんですが…。「仮初の姿を写し実体」という、気になる卦がでておりましたんで…。」
「ほう…。おまえ、奴の卜占をやってみたのか。」
「ええ…。行きがかり上、少し。与えられた情報が少なかった上に、周りにあかねさんやなびきさんが居ましたから、ごく簡単なことしか占えませんでしたが…。」
「なるほどのう…。気になる卦か。」
「呪いの気…どうもそれが正体らしいのですが…ボクの占い能力を超えていたようで、それ以上は読み解けませんでした。」
 樹の声が少し歪んだように小さくなる。
「呪いの気?」
「ええ…。呪いです。」
「現代において、まだ呪いというのもは確かに存在はするものじゃが…。だが、あの娘に呪いなどとは…。はて…。」
「強い呪いのようでしたから、もしや、前世から引き継いだものかもしれませんね。」
「で?本人は何と申しておった?」
「特に気にしていない風でした。」
「なら、捨て置いても大丈夫じゃろう。」
「捨て置くんですか?」
「ああ、呪いとはいえ、本人が気にして居ないのであれば、影響は少ない。それに、「奴」には呪いの有無など無関係じゃ。ワシらが倒さねばならぬ、「奴」からみればな…。」
 爺さんは吐き捨てるように言った。

「それから、もう一つ…。」

「何じゃ?まだあるのか?」
 爺さんは、孫を見ながら尋ねた。

「これは、ボクの気のせいかもしれないんですが…。この家には、もう一人、住人が居ます。」
 樹は静かに言った。
「もう一人、住人が居る?何じゃそれは…。幽霊や怨霊のような霊的な物の怪でも憑(つ)いていると申すのか?おまえは…。」
「いえ、そう言う意味じゃなくて…。風呂場に居た奴のことですよ。はからずしも気絶してしまったんで、以後のことはさっぱり、途切れていますけど…。」
「ああ、あれか。あれは、おまえの修行不足が招いた、卒倒だったのではないのか?樹よ。」
 爺さんは、怪訝な顔を手向けた。
「でも、確かにボクは見たんです…。あそこに居たのは、風呂から上がって来たのは、女性じゃない。男性だったんです…。」

 樹の言葉に、神足爺さんは、ふっと息を継いだ。
「あそこに立っておったのは、乱馬嬢だけであったぞ。入れ違いに人の気配もなかった。あの場に彼女以外に介在できる者もおらぬ。それに、今、ワシの心眼にて、この家の気配を読み解いても、五人とワシら二人しか居らぬ。」
 爺さんは眉間に皺を寄せながら言った。
「やはり、ボクの見間違いだったってことでしょうか…お爺様。」
「ああ、おそらくな。風呂の湯気にて、見間違えたのじゃろう。ただ…。あの乱馬とか言う女人、只者ではない。奴の娘だけはある。役行者様が結んだ、葛城山の結界を解き放ってしまった、奴の娘だけあってな…。」
「心して、かかれ…ということですね。」
 
 神足と樹は、意味深な言葉を並べながら、頷きあった。

 その言動からは、明らかに、何か訳有りで、天道家に自ずから飛び込んで来たようだ。
 
 だからこそ、天道家が眠りに就いた、丑三つ時に、行動を起こそうとしているのであろう。

「さてと、行くぞ、樹よ。」
 音もなく、硝子窓を開くと、つっと天道家の庭先へと出た。
「おぬしは五芒星(ごぼうせい)の結界を描け。わしは、六芒星(ろくぼうせい)の結界を描く。良いな、家人を起さぬように注意してやれよ。ここを武道一家ということを忘れるな!」
「はい、お爺様。」

 さっと二つの影が、左右に分かれた。




「ねえ、乱馬…。乱馬ってば…。」
 シンと静まり返った天道家の母屋の二階。
 あかねが、乱馬の部屋の前へと立った。
「あん?…なんだ?あかね。もう朝か?」
 眠たい声があかねに応じる。
「違うの…ちょっと起きて。庭先でガタガタ物音がするのよ。人の気配を感じたの。あたし、気持ち悪くって…。」
「へっ…。何、乙女みてえなこと言ってんだよ…。」
 ぬっと乱馬の眠そうな顔が現れた。ふわあっと大きな欠伸を一つ。
「失礼ね。あたしもか弱き乙女よ。…ねえお願い、怖いから、一緒に確かめてよ。泥棒か何かだったら嫌じゃない。」
 あかねは懇願するように乱馬を眺めた。
「ちぇっ!仕方ねえなあ…。」

 こういうシチュエーションは、嫌では無い。
 惚れた女に頼られるのは、男冥利に尽きるものだ。例え、己が女性変化していても、気持ちは同じだ。
 いや、内心、女に変身させられているのが勿体無いと思った。

 宵の口の風呂騒動で、樹たちが留まっている間、男に戻る事を制された。肩身の狭い居候の身の上、混乱を避けるためにと言われるままに、渋々承知した乱馬であった。

(はあ…。男に戻れたらなあ…。こう、さりげにあかねの後ろに立って、美味しい場面を独占できるかもしれねえのに…。)
 いつでも、彼女を守れる体制を取っているものの、女の身の上ではつまらないと思った。第一、あかねと同じ目線でしか、物を見れない。悔しいから計り比べたことはないが、女の己は、あかねよりも背丈が低いかもしれないのだ。
 あかねを守る手も足も短い。しかも、胸板はなく、豊満な胸が邪魔をする。
 ふうっと溜息がこぼれそうになった。
 あかねの背後にぴたりと寄り添いながら、彼女の部屋へと一緒に入る。
 フンと甘い香りが漂う。最近あかねが凝っている、アロマテラピーの仄かな香りだ。あかねらしい清楚な感じがする。
(ちぇっ!やっぱり男だったら良かったのに…。)
 心音の高まりを感じながら、真摯に思った。
 だが、この場合、男でないことの方が正解だろう。もし、庭先に人影がなければ、自制心が効くかどうか、責任が持てなかったかもしれない。

 窓辺に来て、ふっと真顔になった。

 居る。確かに、誰か、庭先に居る。

 あかねの五体にも緊張が走ったのが、伝わってくる。勿論、己の身体にも緊張が走り抜ける。

 コクンと頷きあって、硝子窓へと手を伸ばした。

 ガラガラっとそいつを開いて、問いかけた。

「誰だ?そこに居るのはっ!」
 厳しい声で相手を牽制する。先制攻撃は怒鳴り声だ。

 ビクンと人影が止った。

「そこに居るのはわかってんだ!泥棒か?出て来いっ!」
 乱馬は丹田に気合を入れながら、畳み掛ける。

「あ、あのう…。」
 ぼそっとすぐ下の瓦屋根から顔を出したのは、樹だった。

「樹君?」
 あかねもその人影を認め、乱馬の背後から思わず声を上げた。
「おめえ、何やってんだ?こんな真夜中に…。」
 怪訝な二つの顔に、樹は答えた。
「お月様が美しいから、つい…庭先に。」
 そう言いながら空を見上げた。
「お月様ねえ…。確かにきれいだけど…。おめえみたいに野山駆け巡ってる奴には珍しくもねえだろうが…。」
 二階の窓から身を乗り出して、乱馬が答えた。

「いえ…。都会でも月は同じ光を放つんだなあ…なんて。あは、あはは…。」
 明らかに態度がおかしい。
 尤も、樹にしてみれば、神足爺さんと共謀して、天道家の周りに「妖しい結界」を張り巡らしていたなどとは言い出せまい。
 彼なりに回らぬ舌先で必死に弁明をしたのである。

「あああっ!てめえ、まさか、あかねに夜這いをかけようとしてたんじゃあ…。」
 突拍子もない乱馬の掛け声に、樹の顔が蒼白になった。
「い、いえっ!天神地祇(てんしんちき)に誓ってそれはないですっ!」
 と焦る声。だが、対する乱馬は、収まらなかった。
「てめえ…。いい根性してんじゃねえかっ!くおらっ!」
 雲行きが一気に怪しくなった。
「ちょ、ちょっと乱馬。それはあんまりじゃないの?樹君に限ってそんな夜這いだなんて…。第一、樹君って修験道の修行中の身じゃないの。」
 あかねが乱馬の袖を引っ張った。
「おめえ…。わかってねえなあ…。男ってのはよ、あわよくば、気に入った女に手を出したいって願望みたいなものは常にあるもんなんだぜ。普段、修行っていう禁断生活を強いられていれば、余計になっ!」
 と、厳しい顔つきになる。
「おい、こらっ!樹っ!何か言いやがれっ!」
 何を思ったか、乱馬は樹が夜這いをかけたと決め付けている。
 今にも食ってかかりそうな剣幕だった。

「なっ、何てこと言い出すのよっ!乱馬ってばっ!それじゃあ、樹君が変態みたいじゃないの…。」
 あかねが慌てて制しにかかる。

「ほっほっほ…。樹に限ってそれはないですぞ。」
 と、背後からもう一つ声がした。

「爺さん…。」
 樹の後ろに、ひょいっと立った老人。神足爺さんだった。

「樹は修行の身の上。夜中に目が覚めましたでな。修法を授けておったんですじゃ。いやはや、お騒がせいたした。」
 と、尤もな言い訳を述べた。
(そら、ワシは描き終えた、こやつらを言い含めたら、続きを描き、とっとと仕上げてしまえよ。)
 その傍ら、乱馬たちに聞こえない小声で、樹に囁きかける。

「なるほどね…そういうことなら。ねえ、乱馬。ほら、樹君に限ってそんな事はないって言ったとおりじゃない。」
 あかねが、すっかり勢いを失った乱馬を引き戻しながら言った。
「たく…。夜中にごそごそと人ん家の庭先で、修法なんか授けるなよな…。紛らわしい…。」
 そう言いながら、乱馬は窓を閉じる。何はともあれ、一件落着した。
「でも、乱馬。さっき言ってた「男って奴は」って…。あれって乱馬も含まれてるの?」
 あかねの丸い目が乱馬を刺した。
「バ、バカっ!一般論だよ、一般論っ!」
 大慌てで反論する彼に、くすっとあかねは笑いかけた。
「そうよね…。乱馬に限って、修行中の身の上で、やらしい事考えたり、実行しようとしたりしないわよねえ…。」
「あ、あったりめえだっ!誰がおめえみたいな凶暴女に…。」
 と言いかけて止めた。このままでは、あかねが好きだと誘導尋問に引っかかり、もっとやばい事になると、気がついたからだ。
「はあ?」
「あ、いや、何でもねえっ!もう良いだろ?正体がわかったんだ、俺は寝るぜ。」
 顔を真っ赤に火照らせながら、乱馬がパタンとあかねの部屋のドアを閉めた。



「侮れぬな…。あの者たち…。」
 爺さんはふっと言葉を注いだ。
「え、ええ…。まさか、気配で起き出してくるとは…。」
「かなりの腕前なんじゃろうよ。特に、あの乱馬という小娘は…。もう一つ、保険をかけておくかのう…。」
「保険…ですか?」
「何事もぬかりなくということじゃよ。何、ワシに任せておけ…。」
 爺さんはにっと笑った。
「さあ、とっとと仕上げてしまえ。まだ半分も描き終えておらぬのだろう?」
「あ、はい…。お爺様。」
 そう言うと、再び、闇の中へと、樹は消えて行った。


二、

 翌朝は良く冷えた。
 放射冷却したのだろう。あたり一面、霧が覆っていた。都会では珍しい光景だ。
 冷たく冷えた空気の中に、冬の到来が近いことを予感させる。
 
 その朝の霧はなかなか晴れなかった。
 明るくなっても、ぼんやりと辺りが霞んでいる。
 すっきりしないもやの道を、神足と樹は、ゆっくりと歩いていた。
 朝一番、まだ明けるか、明けやらぬかという薄暗い中、天道家を後にしてきた。朝が早かったので、一番に起き出したかすみと、出掛けに起きてきた早雲にしか、暇乞いをしなかった。

「何を考えておる?樹よ…。」
 傍らで、考え込んだように黙っている、孫に向かって神足が言った。
「あ…。いえ。結局は、あの家の人々を巻き込んでしまうのかと思うと…少し心が痛みます。」
 問いかけられて、樹が答えた。
「まあ、おぬしの性格上、気にするなと言っても始まらぬがな…。じゃが、これは…。」
 言葉を継ぎかけた神足を制して、樹が続けた。
「わかっています。これは「闘い」です。情けなど無用と言われればそれまでの…。」
「わかっておるのなら、構わぬ。この国を守るために、多少の犠牲はつきものじゃからのう。」
 神足の顔が一瞬険しくなった。

「ほれ…。奴じゃ。奴が満を持して、この町に帰ってきよったわ。」

 霧に包まれた道の先に、神足は「その気配」を認めたのだろう。

「樹っ!」
 爺さんに促されるまでもなく、樹はさっと脇へと道をそれた。
 ゴミ集積場の山の向こう側に息を潜め、気配を消した。
 その少し先を、悠々と歩いて行く人影。頭に手ぬぐい、白色のよれた道着、そして、黒帯にでっかいリュックサック。眼鏡の奥の眼光は鋭く、只者では無い気配を漂わせている。
 息を殺して、じっと彼が通り過ぎるのを待つ、神足と樹。おのれらの存在を悟られまいと、彼らなりに間合いを取っていたが、何かを察したのか、男はちらりと一瞥した。
 勿論、ピクリとも動かず、彼らは傍のゴミ山と一体化する。
 特に歩みを止めることなく、一瞥ただけで、そのまま男は真っ直ぐに通り抜けて行く。
 ざっくざっくと彼の足音が遠ざかる。
 それが聞こえなくなって、数分もしてから、はじめて樹がほおおっと大きく息を吐きつけた。

「奴め…。あの男の身体に馴染んできたようじゃのう…。」
 樹の傍らでは、小難しい顔をして、神足が舌打ちをした。
「奴の御魂(みたま)がこの世に復活し、あの男に憑依してかれこれ一週間になりますからねえ…。当然と言えば当然でしょう。」
 樹が同調する。
「千三百年の時を幽閉された「祟り神の御魂」が解き放たれて、今宵で七夜目になるのか…。」
「お爺様、奴は、今夜、動くでしょうか…。」
「動くな…。ずっと葛城山の暗き祠に千三百年もの間、封じ込められ、荒ぶった祟り神の御魂だ。この世に解き放たれて、七日目という、呪法に適した日数を逃すつもりはあるまい。それに、二日後の九日目は満月じゃ。」
「満月…。」
 呪文のように、樹はその言葉を反芻した。
「ああ。この世の闇の力が一気に増幅する、満月じゃからな…。」
 じっと、男が立ち去った方向を見詰めながら、神足が続ける。
「しかし…。偶然の所業とはいえ、あの男も、厄介な御魂を目覚めさせてくれたものじゃ。」
「ええ、我らが大祖先、役小角様ですら、封じ込めるのに何年も月日を費やしたと言う、あの荒ぶる国つ神、一言主を…。いとも簡単に封印から解き放ってくれました。」
 ふうっと樹は溜息を吐いた。
「復活したての一言主は、幸い、まだ力が不足している。奴め、恐らく完全なる自分の復活と、腹心の鬼神を蘇らせるために、今宵、依代(よりしろ)となる巫女をさらうつもりだ。奴が憑依したあの男の乱馬とかいう娘、そいつを依代として利用するに違いない…。」
「だから、先回りして、予めあの家に結界を張っておいたんですね、お爺様は。」
「そうじゃ。依代を得られては、ますます、この国の崩壊は現実味を帯びてくるからな…。現に一言主の封印が解けた途端、葛城山系を中心に、地殻変動が物凄い勢いで起こっておる。」
「ええ…。今のところ、小寒(おさむ)様が張り巡らせた結界の中から支えてくれていますから、何とか凌げていますが…。」
「ああ、おまえと小寒殿は結界糸を通じて繋がっておったのじゃな…。」
「はい…。結界を守り抜き、秋津島を護るのは、役行者の末裔たる、自分の使命だと小寒様は言っていました…。でも、いくら強靭な小寒様の力も、そう長く耐えることはできますまい…。力尽きて倒れる前に…。」
「一言主を再び封印せねばならぬ。それが、賀茂氏に繋がる修験のワシらの使命じゃ…。」

 どうやら、彼らの裏側で、とんでもない事態が起こっているらしかった。

「とにかく、一言主は太陽が昇っている間は、強い力を発せられぬ。その間に、再び天道家に戻って忍び入り、夜を待つのじゃ。奴必ず動く、今宵「器の巫(うつわのかむろぎ)」を得るためにな…。」
「はい…。お爺様。ところで…。これからどうします?」
 樹が尋ねると、神足は言った。
「そうじゃな…。陽が高く上りきってしまうまで、そうじゃな、そこの神社の拝殿の中で休むとするかのう…。夕べはあまり寝ておらぬからな。老体にはこたえるわい。」
「眠るんですか?」
「ああ、果報は寝て待てとな…。あちらの方からおそらく、尋ねて来ようでな…。」
「は?」
 怪訝な顔をする樹に、神足は続けた。
「なあに、卜占に卦があったんでな…。書き置きを残して来たのじゃよ。」
 そう言いながら神足は笑った。
「お爺様ったら…いつの間に…。」
「まあ、良いから。さてと、仮眠を取ろうぞ。夜までにはかなり時間があろうて。」
 二人は、ゆっくりと朝霧の中へと消えた。そこには、氏神を祀る、古ぼけた神社がポツンと建っていた。


 さて、神足と樹が玄馬にそんな謀(はかりごと)を話し合っていた頃、天道家では、いつもの朝の営みが始まろうとしていた。

「ええ?もう行っちゃったの?あの二人。」
 起き出して来たあかねが、眠い目を擦りながら、台所のかすみに問いかけた。
「そうよ。まだ暗いうちに、お世話になりましたって、出て行かれたわ。何でも、今日中に行きたいところがあるんですって。」
 彼らが食べた食器を洗いながら、かすみが答えてくれた。
「朝から大盛り、樹君がご飯を平らげちゃったから、待っててね…。もう一回、ご飯を炊いてるから。」
「う、うん…。」
 やっぱり樹は相当量、朝から食べたようだ。すっかり御ひつが空になっている。
「ホント、ご飯の作り甲斐がある子だったわ。樹君って…。」
 かすみはニコニコ笑いながらすらっと言う。
「そっか…もう出発したんだ。あの二人。台風のように通り抜けて行っちゃったのね。」
 ホッとしたのか、何だか気が抜けた。
 これで男に戻れると、朝起きたら、乱馬は喜ぶだろう。
(ま、昨日遅くまで、稽古につきあわせちゃったから、多分、なかなか起きてこないだろうけど…。)
 そんなことをぼんやりと考えながら、あかねは、せせこましく動き回る、かすみの背中を眺めていた。

 と、玄関先で声がした。

「ただいま帰りましたぞ…。」

 野太い男性の声だ。

「あ、おじさまだっ!」
 あかねの顔がぱあっと明るくなった。
 ずっと帰宅が遅れていた、乱馬の父、玄馬の帰宅の声であった。
「あらあら、樹君のお爺さんの占いが当たったわね。」
 かすみがにっこりと微笑みかける。
 ドタドタと足音をたてながら、あかねや早雲、かすみが、玄馬を玄関先に出迎えに行った。

「ただいま…。天道君、かすみさん、あかね君。」
 玄馬は背負っていた大きなリュックを、傍らにどっこらせと置きながら答えた。

「随分、遅かったじゃないか。早乙女君。あんまり遅いんで、心配したんだよ。」
 早雲は旧友の帰りが嬉しかったのか、年甲斐もなく、はしゃいだ声を出した。
「いやあ、悪い悪い…ちょっと旅先でいろいろあってのう。すっかり帰宅が遅くなってしまったんじゃ。」
 玄馬は頭をかきながら答えた。
「で?修行の方はどうだった?苦労してきた分、少しは腕をあげたのかい?」
 早雲はニコニコ笑いながら、尋ねた。
「うーん…そうさなあ。見てもらうのが一番かもしれぬなあ。」
「ほお…。と言うことは、新しい技でも生み出せたのかい?それは結構なことだ!」
 素直に早雲は喜んでいる。
「あかね君、乱馬はどうしておる?」
 不意にあかねに乱馬の様子を訊いてきた。
「多分、まだ寝床で眠りこけていると思いますけど…。」
「な、何と!まだぐうたらしておるのか、あのバカ息子は…。」
 草履を脱ぎながら、玄馬は階段を見上げた。
「たく!その腐った根性、たたきなおしてくれるわ!」
 そう勢い込むと、トントントンと階段を上がっていく。

「おじ様?」
 あかねが慌てて止めようとしたが、早雲に後ろから止められた。
「早乙女君のことだ。新しい技を乱馬君に試してみたいんだろう。好きにさせてあげなさい。あかね。」
 と達観した意見。

「な、何だってんだよっ!親父っ!帰宅早々、修行をつけてやるって…。まだ、朝飯も食ってねえんだぞ、俺は…。」
 案の定、ブツクサ言う声と共に、乱馬の声が二階から響いて来る。声は起き抜けのようで、眠そうだ。きっと、夕べ、あれからなかなか寝付けなかったに違いない。
「良いから、修行じゃ!男に戻って道着に着替えろっ!」
「えええ?面倒臭えなあ…。」
 もぞもぞごそごとと音がして、ようやく乱馬は階段を下りてきた。
「おはよう。乱馬君。」
 早雲の爽やかな声に、乱馬も答えた。
「あ、おはようございます。」

「ほら、早く来いっ!朝飯前に勝負じゃ、勝負っ!」
 ずんずんと玄馬が先を行く。
「何だよ…帰ってくる早々に…。うるせー奴だな…。」
「ふふふ、修行で得た力を、いの一番に試したくてなあ…。相手になれ。」
 まだ、眠気眼を瞬かせながら、引っ張られるままに、乱馬は道場へと入って行った。勿論、あかねもその後を着いて行く。父親の早雲も一緒にだ。

「朝帰りだというのに、元気だなあ、早乙女君は…。」
 そう言いながら、早雲は神棚の前にドンと陣取った。あかねもちょこんと隣りに並ぶ。

「さて、乱馬よ。勝負の前に言っておくことがある。」
 玄馬はきりっと息子を見返した。
「あん?何だよあらたまって…。」
 乱馬は父親の前に正座して向き合うと怪訝な声を出した。
「この勝負にワシが勝ったら、暫くおまえには女体で居て貰う。」
 それは、唐突な玄馬の申し入れであった。
「なっ…。何だ?そいつはっ!」
 驚いた声を出す乱馬に、玄馬は続けた。
「おまえ、この頃、修行を怠けておろう?いい機会じゃ。暫く女体のままで厳しい修行に耐えてみよ。」
「ふざけんなっ!クソ親父。何で俺が女体にならねえといけねーんだっ!俺は、御免こうむるぜっ!」
 乱馬は激しい言葉を、父親に吐き出し、その場を離れようと立ち上がった。
 玄馬は、席を立った息子に、視線も移さずに、目を閉じたまま、言い放つ。
「ほう…。おまえ、最初から勝負を投げやるか。そんなにワシに負けるのが怖いか?己の力に自信がないか。」

 その言い方は、乱馬の闘志に火をつけるに充分すぎた。

「何だって?…言わせておけば、好き放題っ!わかった、そこまで言うなら、受けて立とうじゃねえかっ!その代わり…。俺が勝ったら、親父、暫くパンダのままで居ろよっ!それが条件だっ!」

「良かろう!かかってまいれっ!」

 早乙女親子がはっしと睨み合った。

「ねえ…。お父さん、早乙女のおじ様、何だか気合入りまくってるわねえ…。」
「うむ…。あんなに真剣な早乙女君の顔は久々に見るな…。」
「また、地獄のゆりかごなんていうような、変な技を乱馬に仕掛けようとしてるんじゃないでしょうね…。」
 ひょこっと後ろからなびきが顔を出した。良く見ると、その後ろにエプロン姿のかすみまで居る。好奇心旺盛な天道家の人々であった。


「行くぜっ!親父っ。その修行の成果とやら、とっくと試させてもらうぜ。」
「ああ…。おまえなど、数秒で倒してやるわっ!」
「ぬかせっ!でやああああっ!」

 両雄の拳が、道場の真ん中で弾け飛んだ。



つづく



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