第三話 風呂騒動


一、

「たく、後先考えずに、おめえが張り切って料理なんか作るからだ。」
 乱馬はふうっと大きな溜息を吐き出した。
「だって、努力すればいつか報われるって、樹君の占いに出てたから…。」
 あかねは食卓の後を片付けながら、それに受け答えた。

「大丈夫ですよ…。あかねさん。ここのところ、まともに御飯を食べていなかったものだから、ボク、つい、意地汚く、己の限界を超えて食べ過ぎて気持ち悪くなっただけですから。」
 直ぐ傍の畳の上で、樹が仰向けになって、休んでいた。

「たく、ヒヤヒヤさせよって…。大事に至らなかったから良かったものの…。」
 傍らで爺さんが嘯(うそぶ)いている。
 樹は夕飯時に、あかねの作ったコロッケらしい大皿を、一人でぺロッと平らげるや否や、そのまま気を失って倒れたのである。
 騒動はそれだけではなかった。
 樹が目を回して倒れた途端、ぐらぐらっと地震が起こったのである。それも、タイミング良くだ。
 樹が倒れたのと、地震の揺れが起こったのがほぼ同時だったものだから、それなり、天道家は騒然となった。

「あ、出た出た。さっきの地震の震度よ。」
 テレビのリモコンスイッチをひねりながら、なびきが指差した。
 ピコピコと臨時ニュースの音が鳴り響き、歌番組の上の部分に白い印字がこれ見よがしに表れる。
 そこには各地のいろいろな地名と震度が表示される。
「へえ、関西地方まで揺れてたんだ。っていうか、震源地は奈良県中部だって。内陸型の地震だったのね。」
 と、いち早くなびきが指摘する。
「ほお…広範囲で震度五から四か…。首都圏は震度三。まあ、家具も倒れて来なかったし、実害もなかったようだから、そんなものかな。」
 早雲が腕組みしながらテレビに食い入る。
「思ったより被害は少なそうね…。広範囲の割には震度が低いようだし。」
 なびきもしたり顔で一緒に評論する。何においても、被害がないに越した事は無い。
「震源の深さは十キロと推定される…か。ま、そんなところかなあ。」
「って、なびき、おまえ、地震について詳しいのかね?」
「ふふふ…。言ってみただけよ。お父さん。」

「はあ…。でもよう、爺さん。さっき、面白れえこと口走ってたよな。」
 乱馬はふと、神足が樹を介抱しながら、口走った言葉を思い出した。
「面白い事じゃと?はて…。」
 爺さんは小首を傾げた。
「『おまえが気を確かに持たねば、この国は滅びるぞっ!』。なーんて言ってたけどよ。」
 乱馬はちらりと神足の爺さんを見返した。

 ぎくっ、と爺さんの肩が少し上に動いたような気がした。
「な、なーんのことかのう…。わしゃ、そんな事は言っとらん!」
 少し上ずった口調で爺さんは乱馬の質問をかわす。
「いや、言ったぜ。俺、この耳できいたぞ。」
 乱馬は真摯な瞳で爺さんを見詰め返した。
「もしかして、さっきの地震と、樹の気絶って関係あるんじゃねえのか?」
 と問いかけたのだ。

「ま、まさか…。そ、そんなこと、現実的にあるわけなかろう?乱馬さんとやら。」
 爺さんは、目をぎょろりと巡らせながら、語気を強めた。

「ちょっと、乱馬。あんた、何、非現実的なこと、お爺さんに言ってるのよ。」
 あかねが目を丸くして乱馬に突っかかった。一人の体調の云々で、地震が起きるわけがない。
「確かに、そんな言葉を俺は聞いたんだけどよ。」
 乱馬は眼光鋭く、爺さんに迫った。
「ほっほっほ…。確かに、おの老いぼれ、そんなことを嘯いたかもしれぬ…。じゃが、人間、焦った時、わけがわからぬ事をほざくことはよくあることではないか。多分、それじゃよ。何しろ、樹は我が一族の大切な跡目じゃからなあ。その御身に何かあってはたまらぬからなあ。それに、あかねさんが言うように、たかだか人間一人の悶絶に、地が震(ないふ)っては、何度大和が滅びるかわからぬではないか、はっはっは。」
 爺さんは声高に笑ってのけた。

(この、タヌキじじいめっ!)
 乱馬は、腹の底でそう唸ったが、爺さんが笑って誤魔化す手前、これ以上、突っ込む事を諦めた。この国が滅びるという根拠など、どこにもないからだ。
 だが、確かに、爺さんはそう呟いた。聞き間違いなどではない。

「ねえ、お爺さんも、樹君みたいに卜占術ができるの?」
 その話は打ち切りと言わんばかりに、なびきが横から口を挟んできた。
「卜占術か?おお、当然、ワシも何でも占えるぞ。樹に占いを仕込んだのは、このワシじゃからな。」
 爺さんはにっと笑った。
「樹君はこの有様だし…。ちょっと占いを頼むにはきつそうだから…。」
 なびきがじっと、神足爺さんを見返した。
「お、おいっ、なびき。てめえ、この上にも、まだ、占いをさせようって腹づもりかあ?」
 その言葉に、乱馬はあんぐりと口を大きく開いた。
 夕食前に、たんまりと樹に何かを占わせていたなびきだ。まだ、これ以上にも占いを欲するのかと、驚いたのだ。
「ふふふ、あたしじゃないわよ。あんたのためよ。」
 なびきは、にっと乱馬を振り返った。
「俺のためだあ?俺ならさっき、樹に占ってもらったぜ。あれで充分だけど…。」
「あれは樹君の宿賃よ。爺さんからも貰っておかなきゃ。不公平でしょう?」
 なびきはじっと爺さんを見た。
「んな、二回も占いなんて必要ねえぞ!俺は…。」
 乱馬はムッとして言い返した。
「だから、何も、あんたのことを占ってもらうなんて、言ってないわよ、あたし。あんたの事にも興味ないもの。」
「じゃあ、何だよ。何を占ってもらうんだよ。この爺さんに。」
 乱馬は視線を横へと流した。
「はて…。どういうことを占うのかね?なびきさんとやら。」
 爺さんも、きょとんとなびきを見返す。
「あんたのお父さんの事よ。ほら、修行に行くって家を出てから、うんともすんとも言ってこないじゃないの。予定の日数は、とっくに過ぎ去っているんでしょ?」
 なびきはにいっと笑った。
「あ、なるほど。おじ様のことを占ってもらうのね。」
 あかねの顔がぱあっと明るくなった。
「そういうこと。当たるも八卦、当たらぬも八卦。おじ様、無事で過ごしているのか、帰ってくるのは何時頃なのか…。樹君のお師匠様になるんだから、彼よりもっと達観して、深く占ってもらえるんじゃないのかしらねえ…。勿論、ロハで。」
 なびきは爺さんを見詰め返した。

「ほっほっほ。お安い御用じゃ。どら、その、行方不明の御仁(ごじん)とやらを、占ってしんぜようかの。」
 爺さんはいそいそと、笈から自分の占い道具を持ち出した。
 樹が持っているのよりも、数段、年季が入った道具だ。
「それ、その、占って欲しい御仁の生年月日をまず、いただこうかのう。」
 と、乱馬を振り返った。
「ほら、乱馬。」
 あかねはツツンと右ひじで乱馬を突っついた。
「知らねーよ。」
 乱馬はポツンと答えた。
「え?」
 軽く問い返したあかねに、更に乱馬は強く言った。
「だから、知らないよ!親父の誕生日なんて。」
 あっさりと答える。
「えええ?知らないですってえ?なんで…。」
 あかねが絶句する。
「そうよ、普通、父親の誕生日くらい、子供としては、知っているものでしょう?」
 なびきも続けて言った。
「んなこと言ったって、親父の誕生日がどうのこうのって、知ったところで何もねえじゃん。祝えって言われた事もねえし…。知らねえものは知らねえんだよっ!」
 乱馬は強く言い切った。
「困ったなあ…。のどかさんは暫く、家を空けるって出て行ったままだし…。訊こうにも所在がわからんしなあ…。」
 早雲がううぬと唸りながら腕組みをする。

「大丈夫じゃよ。生年月日などなくても、ワシなら占えるぞよ。」
 爺さんは、ひょいっと乱馬の前に立つと、すいっと手を伸ばしてきた。
「ちょっと失礼するぞい!」
 そう言い置くと、やおら、乱馬の脳天から、髪の毛を一本、引っこ抜いた。

「い、いてえっ!てめえ、何しやがんでいっ!」
 荒げた声。
 思いっ切り、髪の毛をぐいっとやられたので、一本とはいえ、痛みが走った。

「あらまあ…。髪の毛を抜かれちゃったのね。」
 かすみが、ワンテンポ遅れて、覗き込む。

「ほっほっほ。おまえさんの父親なら、おまえさんと同じ情報を持っておろう。そちらから占ってみることができるからのう…。」
「って、だからと言って、いきなり髪の毛を抜くな!このクソじじいっ!」
 まだ、怒りが収まらない乱馬が、そう言いながらブウたれた。
「細かい事を気にしていては、良い嫁にはなれぬぞ!ほっほっほ。」
「そ、そんなもんになりたかねえわいっ!」
 今し姿形は「女」でも、元々は健康な男子。つい、そんなことを口走った。

 爺さんは乱馬の文言など気にする事もなく、彼から抜き取った髪の毛を、持っていた占板の中央へと置いた。
 と、みるみる、へらへらしていた頬にピリッと一本神経が通ったような、真面目な顔つきになる。眉間にも皺がより、「いかにも」という修験者の風体。
 その気の高まりの激しさに、乱馬もゴクンと唾を飲み込んだくらいだ。
(これが修験者の集中力なのか?)
 年季を経ている分、横たわっている樹とは格が違うように思った。いや、樹よりも、何か陰湿な物が鼻についた。その正体はわからぬが、一気に爺さんの身体の中を駆け巡っているように思った。

 爺さんは手を目前に身構え、印を結ぶと高らかに呪文めいたものを、ぼそぼそと唱え始めた。
「はああああっ、でやあああっ!」
 最後に、腹の底から、沸き立つような唸り声を吐きつける。

「見える、見えるぞ!ワシには見える。占い版にうつる影。おまえさんの毛のない父御が、まさに、今、月明かりの道を歩いておる…。おお、西からこちらへ向かって歩いておる。一心にのう…。着物はボロボロじゃが、大丈夫、身体に傷はない。」
 独り言のように、ぼそぼそと吐き出した。

 思わず、天道家の人々は、爺さんの方を熱心に目を注ぐ。

「この分だと、明日、昼までには、この家に辿り着こうぞ。心配はないわい。」
 そう吐きつけると、ほおおっと肩の息を吐き出した。
「と、こんなん出よりましたけど…。」
 爺さんは、思いっ切り脱力した声を吐き出した。その茶目っ気のある、言い方に、思わず苦笑いがこぼれた天道家の人々。緊張が一気にほぐれた瞬間だった。

「良かったじゃないの。おじさま、こっちへ向かってるって。」
 まず反応したのはあかねであった。
「そうだね。遭難したんじゃないかと、一時は心配したけど…。無事で何よりだよ。乱馬君。」
 早雲もにこにこと笑い始めた。
「良かった、今夜帰ってこられたら、もう晩御飯のおかずが残ってないの…。明日なら、お買い物に行けますものね。」
 主婦らしいかすみの言葉。

「おい…。てめえら。まだ親父は帰って来てねえんだぞ!それを、さも、帰って来たような言い方してよう!」
 乱馬は呆れ果てて、一同を見渡した。無責任極まりないと、彼なりに思ったのだ。

「大丈夫よ、乱馬君。ちゃんと、お爺さんの占いの中には「毛のない父御」っていう表現があったじゃない。それに…樹君のお爺様の占い結果ですもの。おじ様に間違いないわよ。」
 と、なびきまでもが、そんな事を言い出す始末。

「けっ!だから、俺は最初っから、親父なんか心配してねえよっ!」
 へそを曲げた乱馬が、乱暴に吐き出した。
「ほっほっほ、お嬢さん、そんなにムキにならんでも…。過度のストレスや激情は、ハゲのもとだぞよ。ほれ、おまえさんの父御は毛がないようじゃから、おまえさんもその遺伝子を受け継いでおるのじゃから。そう、感情の起伏が激しいと、おまえさんも若くしてハゲるやもしれぬぞ!髪は長い友達じゃからのう…。激情はいかんよ、激情は!」
 と爺さんが、追い討ちをかける始末。

 その言葉に、あかねとなびきが、ぷっと噴き出したのは、ほぼ同時だった。
 二人、げらげらと腹を抱えて笑い始めた。

「くおらっ!てめえらっ!何、笑い転げてやがんでいっ!」
 気を悪くした乱馬に、笑い転げながらあかねが言った。
「だって、あんたの髪の毛が抜け落ちたところを想像したら、可笑しくって…。」
「て、てめえ!何、訳のわからねー想像してやがるっ!ええい!やめろっ!変な想像するなっ!」
 真っ赤になって怒鳴りつけた。
「くくく…ほらほら、乱馬君、そんなに激情したら、髪の毛が早く抜け落ちるわよ!」
 なびきまでもが、お腹をよじらせて笑い転げている。
「なっ!もう良いやいっ!」
 すっかりヘソを曲げた乱馬は、その場をぷいっと立ち上がった。
「こら、乱馬っ!どこへ行くのよっ!」
 あかねが慌てて、彼を呼びとめた。

「無性に腹がたつから、風呂入ってくらあっ!文句あっかよっ!」
 投げ捨てるように言うと、さっさと茶の間から退散していった。


二、

「なかなか、気の強い娘さんでござるな。」
 かすみが淹れたお茶をすすりながら、爺さんがホッと一息吐いた。
「彼も修行三昧の放浪生活が長かったですからねえ…。気の強さで言えば、あかねも相当なものではありますがね。」
 早雲が相槌を打つ。
「お父さん!気の強いは余計よ!」
 あかねが口を挟んだ。
 傍らでは、ようやく具合が戻ったのか、樹がゆっくりと横たえていた身体を起した。
「今夜は樹君と、この茶の間の向こう側の客間でお休みください。後でお蒲団を持って参りますわ。」
 かすみが声をかけた。
「何から何まで、お世話になりまする。いやあ、ふかふかのお蒲団で就寝することは、ここ最近なかったので、痛み入りまする。」
 爺さんは顔中を皺だらけにして笑った。
「明日からはどちらの方へ?」
 早雲が興味深げに問いかけた。
「一度、葛城山中へ帰ろうかと思っておりますじゃ。」
 爺さんはふっと言葉を吐き出した。
「葛城山中?と言いますと?」
「奈良県御所辺りにある、山地でございまするよ。金剛山系に連なる、神々しき山々でございます。古事記の時代から大和朝廷からも畏敬された山なみでもありましてな、我が、賀茂氏一族の地元でもありまする。」
 爺さんはふっと茶器を卓袱台に置きながら答えた。
「葛城山ってさっきの地震の震源地ね。」
 なびきがポツンと言葉を挟んだ。
「ええ、そういうことになりますね。」
 樹がコクンと頭をたれた。
「ほお…。お二人は、そんな所のご出身なのですか。」
「奈良の御所、葛城あたりは、古代名氏族の葛城氏や賀茂氏を輩出した土地でもありましてな…。高天原(たかまがはら)もこの山中にあったという伝承などもありますでな。
 賀茂氏、葛城氏、共に、大和朝廷よりも古き時代より、山の神の祭祀を司って来ましたわ。そして、大和朝廷に屈した後は、大和の神々の祭祀にかり出され、それに従事することで、生き延びて参りましたわ。むろん、天下人に屈しない頑固な者も数多くおりましたでなあ。時代が古代神道から、仏教へと信仰形態が移ると、それを習合した形での「修験道」を極める一族も多く排出してきよりました。 例えば、我が修験道の始祖でもある、役行者(えんのぎょうじゃ)など、その代表格のようなものでござるよ。」
「ほう…。役行者ねえ…。修験道、武道共に長けた怪僧と言われた人物ですなあ。」
 相槌を打ちながら、早雲が聞き入る。
「元々、役行者も加賀茂氏の出自なのでござるよ。役行者も正しくは「賀茂君役小角(かものきみのえだちおづぬ」と申しましてのう、父は賀茂氏、母は葛城氏の出自であったと伝えられておりますでな。「役(えだち)」とは賀茂氏の一族の中でも、稀有な氏族に与えられた特別な名前でしてな…。役小角はその強大な超力ゆえに、鬼神を式の如く、使いこなしたと言われているですじゃ。」
「ほお…。なるほど。」
「我ら「鴨野」という姓名も、元を辿れば「賀茂氏」にいき当たりまするが、我らもまた、修験を極める一族として、連綿、歴史の中に生きてまいりましたわ。役行者とまではいきませぬがのう、ほっほっほ。」
「なんと…そんな歴史を背負った由緒ある一族なのですか…。」
 早雲は素直に感心してみせた。
「で、諸国を巡って修験道の修行を?」
「そうですじゃ。山や自然に対する畏敬が失われつつある現在、我ら修験の一族の志を後世に正しく伝えるために、孫とこうやって、諸国を修行して巡っておるのでございますで。」
 神足は、ちらっと樹を見た。
「これの父と母も、修験の者でござったが、生憎修行中に命を落としましてな…。わしがこうやってここまで育て上げてきたようなものでして…。」
「ほう…。樹君のご両親は既に亡くなられておるのですか。」
「修験道そのものが、過去の遺物になりかけておりますからのう…。それぞれの氏族も、殆どが在野になり遂せ…。寂しい限りですじゃ。」
 あかねも一緒に聞き入っていたが、少ししんみりとした気持ちになっていた。
「さてと、ワシらは修行の身の上。明日は早めに出立いたしとうござるで、そろそろ休ませていただいても宜しいですかな?」
 爺さんは、話がひと段落ついたところで声をかけた。

「え、ええ…。そうですな。修行の身の上の方は朝が早い分、夜、休まれるのも早いのですな…。ごゆっくりと休まれてください。」
 早雲は、促されて言葉を継いだ。

「何時ごろ出られますの?」
 かすみがにこにこと笑いながら問いかけた。
「六時半ごろにお願いできれば…。ちと早いですかな?」
「いや、我が家も武道の家、六時くらいには起き上がっておりますから。なあ、かすみ。」
「はい。六時ごろまでに朝ご飯の支度をしておきますわ。」
「何から何までお世話になりますのう。」
 爺さんは塩らしく、三つ指をついて、礼を言った。
 それから、思い出したように懐をごそごそとやった。

「おっと…。これはいかん。ワシとした事が…。風呂場に家宝の五鈷鈴(ごこれい)を忘れてきましたわ。」
「五鈷鈴?」
 聞きなれぬ言葉に、早雲がきびすを返した。
「密教法具の一つです。いつの時代の頃からか、我が家に伝わってきたものでして、爺様が肌身離さず持っておられるものですが…。」
 樹が簡単に説明してくれた。
「久々の湯浴みに、つい、肌から離して置いてきてしまったわい。…悪いが、樹、取って来てはくれまいか?」
「はい、お爺さま。」
 そう言って樹は立ち上がった。

「ちょっと、風呂場には乱馬が居るけど…。」
 あかねはそう言い掛けたが
「ま…いいか、今の彼は男に戻ってるだろうし…。まだ暫くは出てこないだろうから、脱衣所なら。」
 と、言葉を止めた。

「じゃあ、私はお蒲団を敷きますわ。」
「どら、私も手伝おうかな…。」
 かすみと早雲が連れ立って茶の間を出た。
「あたしは部屋へっと…。そろそろテスト勉強しないとやばいもんね…。」
「あ、あたしも。」
 なびきとあかねはそれぞれ自室に引き上げる。
「お世話になりますじゃ。」
 そう言って、爺さんはぺこんと頭を下げた。
 天道家の面々がそれぞれ茶の間を去ってしまうと、爺さんはふっつりと言葉を継いだ。

「しめしめ…具合良く、人払いも出来たわい…。」
 そう独り言を呟くと、部屋をぐるりと一瞥した。
「ふむ、やはり、この部屋が一番良かろうな…。家族団らんの場所だから、気も溜まり易かろうて…。」
 爺さんはにやっと笑うと、懐へと手をやった。そして、ごそごそとまさぐると、何やら妖しげな袋を取り出した。
 そして、その中から小さな札を一枚、つまみ出した。真っ白い札に、朱墨で文字のような記号のような物が記されている。それを一瞥し、確認すると、軽く息を吹きかけた。それから、両掌を合わせて、札を挟んだ。合掌するように、眉間の前でそいつを合わせる。何やら念を込めるようにぶつぶつと文言を言い始めた。そして、呪文めいたものを唱え終わると、一気に部屋の中央部の畳に、札を押し付けた。
「でやーっ!」
 札を押し付けた掌に、気合を入れる。
 と、ビリビリっと畳に電極のような光が走り、みるみる札が畳に飲み込まれるように消えた。跡形もなく、畳に同化するように消えてしまったのだ。
「ふう…。これで良し。後は樹に結界を張らせて、時を待つだけじゃ。」
 爺さんは、何事もなかったように、畳から離れると、卓袱台におかれた湯のみのお茶を一気に飲み干した。



 さて、一方、こちらは脱衣所。
 神足爺さんの言いつけどおり、五鈷鈴を探しに来た樹。

「お爺様の五鈷鈴は…えっと脱衣カゴの中かな…。」
 ガサガサと脱衣所のカゴの中を覗きこむ。
 脱ぎ捨てられた乱馬のチャイナ服や、トランクスなどが雑然と積まれている中、それを掻き分けながら、樹は爺さんの忘れ物を捜した。
 早くしないと、風呂の中の乱馬が出てくるかもしれない。
 樹はそれなりに、焦っていた。
 しかし、こういうときに限って、探し物はなかなか見つけられないものだ。
「直ぐ見つかると思ったんだけどな…。」
 当惑しながらも、必死で探しこむ樹。

「あ、あった、あった。これだ、これ。」
 乱馬の脱ぎ捨てた汚れ物の一番下に、それらしい物体を発見した。手に馴染む大きさの細長い密教仏具。くすんだ黄金色が、確かに見えた。
 それを手に、とっとと脱衣所を立ち去ろうとした、その時だった。

 ガラガラッと風呂場の引き戸が一気に開けられる。

 石鹸の香りのする湯煙と一緒に、中から現れた人影。
 まさか、脱衣所に人が居るなどとは思いもよらなかったらしく、勿論、スッポンポン。
(乱馬さんが出て来たんだ!)
 やばいと思って、身を翻し、視線を上げた瞬間だった。
 男に戻った乱馬の逞しき肉体が、樹の目の前に広がった。

「あ…。」
「ん?」

 互いに視線があった。いや、それだけではない。ゆっくりと見下ろされる、樹の視線。
 凍りつく瞬間。

「いやあああああああっ!きゃあああああああっ!」

 それはそれは長い悲鳴だった。
 青年のそれというよりは、年頃の娘のような、金切り声が、脱衣所いっぱいに広がったのである。


「な、何?何が起こったの?」
 バタバタと足音がして、真っ先に駆けつけたのはあかねだった。
 二階の自室へ上がる前に、たまたま用を足していたのだ。お手洗いは脱衣所のすぐ隣りに位置する。だから、すぐに脱衣所へと飛び込んできたのだ。

「どうしたの?」
 あかねは無我夢中で洗面所へと飛び込んだ。

「どうしたも、こうしたも…。こいつが、俺の裸を見て、このとおり、卒倒しちまったんでいっ!」
 泡を食ったような顔で、あかねの目の前に、素っ裸の男乱馬が立ちはだかる。
 その様子に、あかね自身もぎょっとした。
「い、いやああああっ!」
 今度はあかねの悲鳴が響き渡る番だった。

「ちょっと、前くらい隠しなさいよねっ!バカァッ!」
 ピシッ、パシッと、あかねの往復ビンタが乱馬目掛けて繰り出される。


「どうなされた?」
「樹君!あかねっ!」
 安否を問う声と共に、バタバタと廊下を渡ってくる足音。
 続けざまに悲鳴が二つも聞こえたのだ。家中の者たちが洗面所を目指して集ってくる。

「このままじゃ不味いわっ!」
 咄嗟にそう思ったあかねは、洗面所の蛇口をひねって、手を差し入れ、その水を思いっ切り乱馬の方へ浴びせかけた。

「ち、冷てーっ!!」
 あかねに水をかけられて、乱馬は男から女体へと変身を遂げていく。
「くおらっ!あかね、てめえ、何のつもりで…。」
 乱馬はたまらず、あかねに文句を言った。
「仕方ないでしょ?あんたの正体、お爺さんも樹君も知らないんだから!女に変身しておいてっ!じゃないと、一層、混乱を招いちゃうわっ!」
 あかねは乱馬に吐き出した。
 そうだ。樹も神足の爺さんも、乱馬の本性を知らない。女と男が自在に入れ替われる呪いを受けていることも、不必要に他人に告げるものでは無い。女乱馬が彼の本性だと思っているなら、このまま過ごさせる方が、下手な混乱も避けられる。そう踏んだのだ。
 神足の爺さんが、洗面所に足を踏み入れる頃には、すっかり変身が終わって、水浸しの女乱馬がそこに立っていた。

「どうした?あかねっ!これは一体…。」
 先に飛び込んだ早雲。その後ろから、神足爺さんも覗き込んだ。

「樹君と乱馬が洗面所で遭遇しちゃったみたいで…。びっくりして、樹君が倒れこんじゃったみたいなの…。」
 あかねは咄嗟に説明した。
 恐らく樹は、見知らぬ男乱馬がそこに現れたので、それにびっくりして倒れこんだのであろうが、この際、女乱馬と鉢合わせて、驚いて倒れたことにしてしまおうと、あかねなりに思ったのだ。幸い、風呂場は湯煙で曇っているし、男乱馬と遭遇したと言えば、後々説明もややこしい。そう英断したのだ。
「樹っ!気を確かに持てっ!こりゃ、樹っ!」
 目を回して、洗面所に倒れこんでいる樹の上半身を起しながら、神足爺さんが叫んだ。
 だが、樹は、白目を剥いたまま、ひくひくとしている。

「ま、不味い…。」
 爺さんがそう口にしたときだった。

 また、地鳴りがして、ぐらぐらと家が震動し始めた。
「きゃっ!」
「おおおっ!」
「また、地震かよっ!」
 天道家の人々は、揺れだした周囲を見渡した。

「こら、樹っ!しっかりせんかっ!この、未熟者めっ!!」
 爺さんは、再び、喝を入れた。そして、樹のミゾオチを一発、ドクンと殴りつける。
「うっ…。」
 口元が鈍く動いて、樹が息を吐き出した。
「こ、ここは…。」
 はっと見上げる樹に、爺さんはふうっと溜息を吐いた。

 と、それまで揺れていた振動が、ピタリと収まった。まるで、樹が正気を取り戻したのを見届けるように、ピッタリと揺れが収まったのだ。

「たく…。女体の裸体くらいで、卒倒までせんでもよかろうが…。」
 と爺さんは苦笑いしながら、孫を見詰めた。
「女体…じゃなくて、男だったような気がするんですが…お爺様。」
 きょとんと樹は爺さんを見上げた。
「み、見間違いよ、樹君。だって、ほら。お風呂に入ってたのは乱馬だもの。」
 あかねが、さっと間に割り込んで、説明した。
「ほーほほほ。乱馬も樹君が居るんで、びっくらこいちゃったあっ!」
 やけくそになった乱馬が、そう言いながら明るく笑った。少し媚びたような声を張り上げる。一応しっかりと、前をバスタオルであかねがガードしながら隠していた。
「この乱馬さんの体のどこが、男に見えたのかのう…。樹よ。おまえ、どうかしてしまったんではないのか?」
 爺さんはアゴの無精ひげを撫でながら、孫の方を見た。

「たく、地震は起こるわ、俺の裸見て卒倒するわ…。どうかなっちゃったんじゃないのぉ?」
 乱馬はわざと手を挙げながら言った。
「地震とこやつは関係ありませんがな…。単なる偶然ですじゃ。大方、さっきの地震の揺れ返しか何かじゃろうて。」
 爺さんは、さらりと、乱馬の問い掛けを流した。

「ま、とにかく、地震も樹君も大事には至らなかった事だし…。乱馬君もそのままじゃ風邪をひいてしまうからね。この場はこれでおさまったということで、良いのではないかね?」
 家長らしく、早雲が仕切った。

「あ、そうそう。お爺様。五鈷鈴も見つけておきましたし…。」
 そう言いながら、樹は、しっかりと握り締めていた五鈷鈴を、祖父に渡した。
「あん?何だそりゃ。」
 乱馬は好奇心いっぱいに、五鈷鈴を覗き込んだ。
「お爺様が脱衣所に忘れたと言われたんで、ボク、それを取りに来たんですよ。」
 樹はそう言いながら頭をかいた。
「ちぇっ!大元の大元は爺さんの置き忘れのせいじゃねえか。…ったく。」
 乱馬が吐き出すと、
「あははは。細かい事は気にせんで良いわ。…無事に五鈷鈴もワシの手元に戻ってきたことじゃし、樹や、そろそろ休ませてもらおうかのう。年寄りに夜更かしは禁物じゃ。」
 爺さんは自分に分が悪いと踏んだのだろうか。コロッと態度をかえて、立ち上がった。
「あ、はい…。皆さん。お騒がせいたしました。」
 ペコンと頭を下げると、樹は爺さんの後を追った。

「さて、今度はワシが風呂に入ろうかねえ…。」
 早雲が、脱衣所へと入って行く。
「洗い物すませなきゃ。」
「ふわああ…あたしも勉強に戻るわ。」 
 そう言いながら、かすみは台所へ、なびきは自室へとそれぞれ戻っていった。

 その場に残されたのは、乱馬とあかね。
 乱馬はじっと考え込むように、樹と爺さんの後を目で追っていた。
「どうしたのよ…。真剣な顔をしちゃって…。」

「あ、いや…。何かこう、樹の驚き方や悲鳴が普通じゃなかったような気がしたんでな。男があんな甲高い声出せるかなってよ…。」
「咄嗟だったから出せたんじゃないの?男だって悲鳴をあげること出来るんじゃないの?」
「そっかな…。俺はあんな甲高い声出ねえけど…。ま、それはいいや。男の俺を知らない奴が、いきなり俺の逞しい裸体を見たんだからな。」
「逞しいは余計よっ!」
「それよか、地震と奴の関係だよ。…明らかに何か、隠してやがるぜ…。あの爺さん。」
「地震と樹君の関係?」
「ああ、さっきの地震も今の地震も、奴が正気を失った途端だったからな…。何か関係があるんじゃねえのかと思ってさ。」
「まさか!考えすぎよ。偶然の一致よ、偶然の!」
 あかねはあっさりと言い切る。
「……。ま、いいか。よしんば、関係があったとしても、俺たちには関係のねえことだしな…。はあ、体が冷えちまったぜ…。おじさんが風呂へ入っちまったから、湯船に逆戻りもできねえし…。ハックション!」
 そう言ったところで、おおきなクシャミが口をついて出た。
「…くそ、樹と爺さんが、この町に来てから、ろくなことがねえぜっ!」
 乱馬はふつっと、溜息と共に、そんな言葉を吐き出した。



つづく




一之瀬的戯言
 本作では古代史を少し扱うので、地震が起こることを「地が震(ないふ)る」として表現している部分があります。これは、読み仮名の間違いではありませんので、ご了承くださいませ。
 古代では地震のことを「なゐ」または「なゐふる」と表現していました。実際に、『日本書紀』では「震」にそういう読み仮名をふっている事例が多いです。


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