第二十話 最期の闘い


一、

 乱馬が消えた後の二上山山頂。
 夜明けが近いのか、晴れ渡った空の下、更に、深々と冷えが伝わってくる。
 吐く息も白い。
  
 乱馬が消えた魔宝珠を、小寒はおもむろに手に取った。
 彼が消えたあと、魔宝珠は不気味に沈黙をしている。顔を近づけて中を覗きこんでも、何も見えない。
 月明かりがすうっと雲間に隠れた。
 

「馬鹿な鬼よ。自らすすんで魔宝珠へと飛び込むとは…。」
 魔宝珠を掲げると、小寒が小馬鹿にしたように言い放った。

「いいえ、馬鹿は小角様です!」

 背後から、凛とした声が響いてきた。

「樹…。」
 小寒はその声の主へと、思わず声をかけた。
 一言主に寄り付かれ、魂抜けした後、気を失って倒れていた彼女が、起き上がったようだ。

「小寒様。よもや、その魔宝珠を破壊して滅そうなどと、大それた事はお考えではないでしょうね。」
 樹の瞳は、真っ直ぐに小寒へ手向けられた。
「何故、そのような、当たり前の事を私に訊く?この玉を滅すれば、一言主命は根の国へ魂ごと帰還する。そして、二度と再び、現へは体現せぬ。それをやらぬは、役の名折れだ。」
 小寒は怪訝な顔を樹へと手向けた。

「一言主命だけを常世へお戻しになられるなら、それで是かもしれません。でも…。」

 樹の言葉を遮りながら、小寒は言った。

「この魔宝珠に、あの二人が居る、と言いたいのだろう?樹よ。」
 コクンと動作で返される樹の返事。
「あの二人を飲み込んだまま、魔宝珠を破壊するとあの二人はどうなります?二度とこの世界へ戻ってくる事はないでしょう。それに、彼らの魂は永遠に根の国の闇の中へ…。」
 樹の心配げな言葉とは裏腹に、小寒の返答はとうてい、信じられるようなものではなかった。
「何、不都合なことがあろうか?あの二人は、今や、前鬼と後鬼。その二鬼に憑依しておろう。最早、人間ではないのだ。人間ではない鬼ども。そんな異形の者をこの世へ置いておく道理はなかろう?」
 
「小寒様はあの二人を見殺しにされると?」
 樹の表情が険しくなった。

「仕方がないぞ、樹。私情を捨てる、それが役の勤めだ。」
 二人のやりとりを傍で聞いていた神足が、樹の乗り出した細い肩をぐっとつかんで声をかけた。
「今や二人は、鬼と化した。あの玉から抜け出ても、恐らく人間には戻れぬ。」
 爺さんの言葉に、更に小寒が続けた。
「人間でない異形の者を、この世界に留め置く事は、できぬ!科学が進歩し、神話世界と遠ざかった現世では、奴らの存在自体が「邪魔者」になる。角の生えた人間を容認するような社会ではなかろう?小角様の時代とは根本的に違うのだ。受け入れる環境も人間の生活も。」

「それは詭弁だ!乱馬さんとあかねさんに、角なんか生えてなかったじゃないですか!それに私情を挟んでいるのは小寒様の方です!」
 樹はたまらずに、ヒステリックに叫んだ。

「確かに…。まだ生えてはおらなんだが、生えてくるのは時間の問題。いや、もう生えはじめているかもしれぬ。」
 神足爺さんがそれを受けて呟いた。
「そうだ。まだ、彼らの身体は完全に鬼化はしておらぬ。だが、それも時間の問題だ。」
 爺さんの言葉を受けて、更に小寒は畳み掛ける。
「それに、樹よ、前鬼と後鬼は元々、小角様の式神。いわば「従者」だ。我が力の前に頭を垂れるのは、これ、従者の理。役の末裔の命のもと、一言主の禍と共に滅するは、彼らとて本望であろうが。」

 そんな小寒の言葉に、樹は首を横に振った。

「いいえ、それは違います。」
「違わぬ!」
「それは彼らの本望などではありません!」
「何故そう、言い切れる?」

 樹と小寒は、互いに見詰めあいながら、問答を続けた。

「ならば、訊きますが、乱馬さんが小寒様の式神ならば、何故、魔宝珠の中へ飛び込めたのです?何故、小寒様が張った「結界」を解けたのです?」
「そ、それは…。」
 早速答えに詰まった。
「彼は、小寒様の式神ではない、だから、結界も解けたし、魔宝珠の中へ飛び込んで行けたんじゃないんですか?」

「そう、ヒステリックになるな。樹。小寒様が困っておいでじゃろう?」
 珍しく、食って掛かる、樹に、神足爺さんも思わず口を挟んでしまった。
 神足の言葉に、樹は、一つ、深い息を吐き出した。そして、感情を抑えながら静かに告げた。

「それに…。その魔宝珠は、今更、破壊などできません。そんなことをすれば、たちどころに「根の国を隔てている結界」は崩壊し、この国は禍に包まれます。」

 彼女の表情が、険しくなった。

「それはどういうことじゃ?樹。」
 爺さんが問い質す。

「小寒様がボクから一言主命を引き剥がし、あかねさんに魂移りさせてしまったせいで、一言主が聖なる結界へ植えた破壊樹の種が発芽してしまったんです。」

「な、何だって?破壊樹だと?」
 小寒の表情から、さあっと血の気が引いた。
「おい、樹、破壊樹の種が発芽したっていうのはどういことだ?」
 
 何かまずいことでもあるらしく、小寒の言葉の勢いが強まった。いや、それだけではなく、樹の着物の襟ぐりを、ぐわっと勢い良く掴んだほどだ。

「文字通りですよ。一言主はボクに命じて、この二上山にある聖なる結界の接点へ破壊樹の種を植え付けさせたんです。破壊樹を持って、結界の解呪を図ろうとしていたんです。ボクの身の上に何かあったときに、破壊樹の種が発芽するように、用意周到、方術を仕掛けていたんですよ。」

「樹、何故それを早く言わん!」
 神足が言った。

「言えるはずがないでしょう?ボクは一言主に憑依され、意のままに操られていたから、わかるんです。彼女の考えていた事が、手に取るように…。とにかく、一言主がボクの身体から抜け出した時に、種が発芽してしまったんです。」
「ということは、このまま捨て置けば…。」
「根を張った破壊樹は、聖なる結界を滅する…。」
 爺さんと、小寒はそれぞれ顔を見合わせた。

「結界が崩壊すれば、秋津島全体に、影響が出ます。そう、根の国を隔てられていた聖なる結界が崩壊するのです。その先がどうなるかは、火を見るより明らかでしょう?お爺様も小寒様も想像できるはずです。」

「おお、結界が崩れれば、根の国から妖の瘴気が、破壊樹を通して流れ込み、秋津島は、魑魅魍魎に覆われ、そして、生あるものみな、倒れ伏し、黄泉つ神がこの世界へ降臨する…。そんなシナリオになるかのう。」
 爺さんがいち早く、反応した。

「じ、冗談じゃないぞ!そんなことになってしまえば、人間界はどうなる!」
 小寒の表情が変わった。
「根の国と隔てる結界がなくなれば、秋津島は滅んだも同然。」
 爺さんがうろたえた。

「騒ぐな、爺さん!その前に、何とかすればよい。破壊樹を枯らせばすむことだ!」
 小寒が怒鳴った。

「破壊樹の生命線は、一言主自身が握っています。だから一言主を飲み込んだ魔宝珠を壊せば、その中に満ちた乱馬さんたちの気がたちどころに「破壊樹」へ吸収されます。そして、破壊樹は一気に成長し、結界は破れ、世界はすぐにでも闇に包まれます。それでも良ければ、その魔宝珠を壊すんですね。」

 小寒と神足爺さんは、互いに顔を見合わせながら、黙ってしまった。

「まあ、遅かれ早かれ、破壊樹は発芽してしまっていますから、少しずつその根の成長によって、地へ張り巡らされた結界が崩れ、いずれはなくなるでしょう。
 それに、小寒様の守っておられる、葛木山の結界は、あと僅かしか持ちますまい。あの結界が崩れても、同じく、根の国との結界崩壊は、一気に始まります。この魔宝珠を壊さなくても、遅かれ早かれ、根の国との結界が崩れ、この世界は滅びるのかもしれません。
 …それでも一分の望みを繋げるのなら、この魔宝珠は壊せないでしょう?違いますか?小寒様!」

「ならば、我らにどうしろというのじゃ?」
 神足爺さんが、ようよう口を開いて、問いかけてきた。

「待つしかありません。後は、自ら魔宝珠の中に飛び込んだ、乱馬さんに任せて…。前鬼の力を、小角様から託された彼なら、何とかしてくれると、信じて…。」
 







 玉の中の世界は寥々としていた。
 どこまでも白み、何も無い世界。その中央に、彼女が立っていた。

 まるで、乱馬を待っていたかのように、じっと佇みながら、そこに居た。
 じっと、後から堕ちてきた訪問者を見上げる鋭い瞳。

「あかね…。」
 上空を旋回しながら、乱馬は彼女を見下ろす。
 
 深々と広がる寂しき世界の中央で、始まろうとしている最後の闘い。
 ビリビリと周りの空気が痛い。

「来たか…。前鬼の力を宿し青年、乱馬よ。」
 あかねの口を借りて、別の人格が乱馬に語りかける。声色もあかねの愛らしいそれではない。少し大人びた女性の声だ。

「てめえ…。一言主か?」
 乱馬の表情が、みるみる険しくなった。

「いかにも、我は一言主命也。」
 女は口にした。

「小寒め…。まんまと我を絡め取ったつもりだろうが、生憎そうはならぬ…。」
 あかねの美しい唇がふっと上向きに動いた。
「のう、乱馬とやら。」
 一言主は語りかけてきた。
「我と手を組まぬか?」
 ぎろっと見上げる瞳は、あかねのそれとは違って、暗く歪んでいるように見えた。身体はあかねであるが、明らかに体内から放出される「気」の質が違う。
「手を組むだって?」
 乱馬は宙に浮いたまま、すぐ下の彼女へときびすを返した。
「ああ、手を組むのじゃ。もうすぐ、「葦原の中つ国」と「根の国」を隔てる聖なる結界が解ける。そうすれば、中つ国は根の国が支配し、海中へ消える。」

「海中へ消えるだとぉ?」
 乱馬は、一言主の言葉に思わず驚きの声を上げた。

「聖なる結界が打ち砕かれれば、たちどころに地は震(ないふ)り、火の山は怒りの噴煙を立ち上げ、そして、海水が満ちる。」

「聖なる結界?何だそれは!」
 乱馬は率直に問いかけた。

「中つ国を守るために天つ神が敷いた結界だよ。根の国からもたらされるあらゆる禍(わざわい)を断ち切り、斎(いつ)くために造られた結界よ。この結界が働いている間は、根の国の禍はこの大地には及ばぬ。だが、一度、結界が剥がれ落ちると、根の国から禍が押し寄せ、中つ国は滅ぶと言われておるわ。」

「で、何で、その結界が破れるんだ?なんでてめえにそれがわかる!」
 納得いかないらしく、乱馬が声を荒げた。
「わかるさ。結界を破るのはこの我なのだから。」
「なっ!」

 あかねとは違う、含んだ笑いを一言主が浮かべた。

「古来、この聖なる結界上には、たくさんの祭祀遺跡が並んでおる。伊勢の神島から始まり、伊勢神宮、明野の斎宮、初瀬の谷、三輪山、箸墓、大和三山、二上山、信太の森、伊勢の森とな。ここを揺るがせば、簡単に大和国は滅ぶ。
 これらは結界を守るための礎(いしずえ)。だが、結界が破られれば、そこから禍が漏れ広がる。聖なるものは、邪なものへと取って代わるのだ。なかなか面白ろかろう?」
 あかねの口元から吐き出される、嫌な言葉。
「この国は最早、人間が生み出した、科学とかいう不浄の力に満ちてしまっておる。自然への畏敬を忘れ、己たちの力にうぬぼれ、神南備の山すら壊す。最早、こんな国に何の価値が見出されようか。どうじゃ?我と手を組め。そして、この娘と共に、この世界を作りなおすのじゃ。何ならおまえとこの娘が、創造神となっても良いのではないか?
 古に、伊耶那岐と伊耶那美が共に手を携え、この国を象ったという伝説のように。この娘もそれを望んでおるぞ。さあ…。」

 すうっとあかねの身体は、空に浮いたまま止まっている乱馬に、その美しい白い腕を差し出した。彼女の腕に浮き上がる、後鬼の刺青が、白んだ世界の中、栄えるように美しかった。
 元々美しい彼女の素肌が、更に妖艶に輝き始める。

 乱馬はふうっと一つ笑みを浮かべた。

「ふん!あかねは、そんな事、望んでなんかいねーよ。伊耶那岐だか伊耶那美だか知らねーが、あかねは、人間界を壊す気持ちなんて、これっぽっちも持ってねえ…。」
 すうっと息を吸い込むと、大きな声で吐き出した。
「勿論、俺だってなっ!」

 ドオンとあかねに向けて、乱馬は気弾を浴びせかけた。
 ビリビリと二人を中心として、辺りの空気が振動を始める。それは、魔宝珠の世界から、波動となって、異次元へと広がりを見せた。
 あかねの身体がみるみる、黒煙に包まれていった。



二、


「な、何でござろうか?」
 
 狭間の結界を守っている、小寒の身体。その傍に控えていた、佐助が、思わず声を上げた。
 目前の結界が、ゴオオッと唸り音をあげて、活性化し始める。

「おい、まさか、この結界が崩れる予兆ではあるまいな?」
 九能が座ったまま、佐助に声をかけた。
 案外肝っ玉の小さい男、九能は目の前の異変に、そわそわし始めた。
「よもや、このまま結界が崩れる…何てことは…。」
「無いとも言い切れんでござるよ。」
 佐助も、異変に怯えながら答えた。
「こういう場合は、嘘でも『無い』と言わんか、佐助っ!」
 思わず、叱咤する九能。
「そんな事言われても、みどもには全く予想もつかないでござる。」
「結界が崩れたら、この僕はどうなる?」
「さあ…。」
 佐助が小首を傾げた。
「だから、嘘でも良いから、「大丈夫でござる!」とでも言うのが、お庭番の務めであろうが!」
「ならば、大丈夫と言わせてもらうでござる。大丈夫でござるよ、帯刀様。」
「たく…。投槍に、今頃言われても、ちっとも大丈夫とは思わぬわ!たわけっ!」
「だったら、みどもにどうしろと言うのでござるか?」
 佐助は九能にそう言ってから、ふうっと彼に聞こえないくらいの声で、溜息と共に吐き出した。

「たはは…。結界が崩れたら、帯刀殿は多分、この中年親父の身体のまま、ここで果てられるでござろうなあ…。まあ、それがしも、お庭番として帯刀様と運命を共にせねばならぬでござるが…。あんまり、中年親父の帯刀様と心中はしたくないでござるなあ…。ははははは。」
 九能の様子に、思わずこそっと苦笑いする佐助であった。



「ねえ、お父さん。」
「ん?」
「何となく、山鳴りが響いてこない?」
 なびきが隣りに寝そべっている早雲に声をかけた。ここは葛城山の麓、御所の宿屋の一室。樹に紹介してもらって、地元の旅館へと今夜は泊まったのだ。
 結局、乱馬はもとより、樹も九能も佐助も戻ってくる気配はない。
 ひなびた宿屋の一室で、早雲と二人、親子水入らずだ。
 場末の平日の観光地。客も少なく、夜明けを前に、館内もシーンと静まり返っている。
 夕食を平らげたあと、何もすることがないので、なびきも早雲も、ぼんやりとテレビに見入り、そのまま寝入ってしまった。少し間隔を明けて、二つちょこんと敷かれた蒲団の中。
 早めに就寝したのが不味かったのかもしれないが、ふと目が覚めたのだ。
 不慣れな宿屋の一室。一度目覚めてしまうと、妙に落ち着きがなくなるものだ。
 何故か、裏側の山の背がザワザワと風に揺られて騒がしいような気がして、なかなか再びまどろみの世界へと誘われない。それどころか、かえって目が冴え渡っていく。
 父親もどうやら、なびきと同じく、さっきから目覚めていたらしく、何度も寝返りを打っていた。
「なびきも目が覚めてしまったか…。」
 早雲は真っ暗な天井を眺めながら、そんな言葉をかけた。窓の外から、仄かな街灯の明りが漏れてくる。それ以外は、光源もなく、まだ、夜の深い闇に覆われていた。
「風の音かしら…。」
 なびきがじっと、耳を澄ましながら言った。
「なびきにも聞こえているか…。」
 早雲もじっと耳を澄ます。
 シンと静まり返った部屋の窓の向こうから、どこからともなく、地鳴りのような音がゴオゴオと耳元に響いてくるようだった。真夜中でも走り抜ける、幹線道路のトラックの音でもないし、空調の音でもない。あまり耳慣れない音が、遥か地面の下から聞こえてくる。そんな気がした。
「嫌な音ね…。地の底から湧いてくるような…。」
 普段、超常現象には興味もないなびきですら、あからさまに不快感を示した。
「父さんも、あの音に、何だか嫌な感じがしてならんのだ…。あかねや乱馬君たちに、何事もなければ良いが…。」
 父親らしく、心配している様子だった。
「何か、起こってる…。そんな感じね。」
 なびきは、すっと蒲団から這い出た。それから、そのまま、カーテンを開く。その向こう側に真っ黒く広がる、葛城の山々。
「地が唸ってる…。やっぱり、何か起こってるのね。」
 なびきがそんなことを言い出した。
「たとえ、何事かが起こっていたとしても、ワシらでは何もできぬ。…。身体が冷えてしまうから、蒲団へ戻りなさい、なびき。」
 早雲は娘を思いやりながら、声をかけた。

「そうね…。あたしたちでは非力だものね…。乱馬君や樹君に任せるしか、ないわね…。」
「そう言うことだ。」
 早雲は蒲団の中から、静かに言った。



 そこから離れた、東の都、東京の天道家でも、落ち着かぬ瞳で空を見上げる女性の姿があった。一人留守を任された、かすみだ。
 誰がいつ帰って来ても良いように、縁側の雨戸を閉めず、明りを灯したまま、そこへ蒲団を持ち出して伏す、かすみの姿がそこにあった。
「しんしんと冷えるわねえ…。」
 まだ、明け方には早い時間帯だったが、家の明りを灯して待ち続ける、この家の主婦。待つことは慣れているとはいえ、一人家は心細いだろう。だが、彼女もまた、天道家の長女として、芯はしっかりとしていて、肝っ玉も据わっている。それでも、不安な表情は拭いきれない。
「乱馬君たち、きっと大丈夫よね。ねえお母さん…。あの子たちを見守ってやってね。」
 彼女もまた、天上に冴え渡る、丸い月に向かって、亡き母に祈るような言葉を呟きかけていた。


 同じ月を、トイレの小窓から見上げる、少女の姿もあった。
「右京様、眠れないんですか?」
 トイレに立ったまま、部屋へ戻った気配のない右京に、同居使用人の小夏が声をかけた。
「ああ、小夏か。ちょっとな…。ほれ見てみ。あの月。何となく落ち着かずに天からこちらを見据えているような気がしてなあ…。」
「乱馬様たちのことですか?」
 小夏はそんな声をかけた。
「不思議なもんやなあ…。何か、乱ちゃんとあかねちゃんが、居らんっていうだけで、取り乱すもんなんやな。」
「お父さんたちと修行に出ているって、伺ってますけど。」
 小夏は、そんな言葉を彼女にかけた。
「ああ、表向きにはそういう理由(こと)になってるみたいやけどな。でも、それにしてはちょっと変なんや。なびきも欠席しとったっちゅうし、あの、九能も見かけへんそうや。小太刀が浮かぬ顔して、言って来よった。何でも、九能家のお庭番、佐助の姿も見当たらんのやて。九能先輩は「おさげの女と同伴デートや!」とか言うて、佐助と出かけて行ったらしいし…。」
「おさげの女ですか…。」
「九能のアホはまだ気づいてへんみたいやけど、おさげの女ゆうたら、乱ちゃんのことやん。天道家はかすみさんしかおらへんし。かすみさんに訊いても、おっとり「修行に行ったのよ。」って答えるだけで、それ以上何も言わん。……。多分、あの食い逃げ爺さんと孫が絡んでるんやろうけどな…。」
 右京は黙り込んだ。カヤの外に完全に置かれていることは確かだ。しかも、あの食い逃げ犯が絡んでいる事も、何となく感づいていた。いわゆる、女の勘である。
「何かこう…。嫌な予感が過ぎったんや…。」
「嫌な予感ですか…。」
 小夏も心配げに右京を見返した。いつもは呆気らかんとした姉御肌の右京。細かい事はあんまり気にしない男勝りなこの雇い主が、神妙な顔をするのは珍しい事だったからだ。
「あはは…。何気にしてるんやろな…。乱ちゃんの事やから、あかねちゃんに絡んでるって事だけは確かなんやけど…。」
 そう言って、口を止めた。
「ウチが細かい事、気にしても、しゃあないか…。気をもんでても何の得にもならんわ。明日も学校や店があるし…。風邪でもひいたら、大損や!寝よ寝よ。」
 右京はそう言うと、小夏を促した。
 彼女を追うように、月明かりがさあっと小窓から入ってくる。確かに何かを孕んだような光だと、小夏は思った。これまた「凄腕くの一でならした忍者の勘」だったかもしれない。だが、それ以上、右京には何も言葉をかけなかった。これ以上右京に気をもませるのも悪いと思ったからだ。
「そうですね…。まだ夜明けまでには少し間がありますから。もうひと寝入りできますわ。右京様。」
 そう言って、店舗の二階にある、居住空間へと引き上げて行った。


「ねえ、ひい婆ちゃん…。やっぱり、気になったあるか。」
 寝ぼけなまこを擦りながら、曾祖母、コロンへ声をかけるシャンプー。
 同じく、月明かりを見上げる、曾祖母が気になったのだ。
 コロンは、ちょこんといつものように杖を畳に突き立て、チャイナ風な格子の天窓から漏れてくる月明かりを透かし見ながら、じっとまだ明けやらぬ闇を見詰める。
「シャンプーも何となく、感じておるのか…。」
 そう言いながら、孫娘へと視線をかえ、目を細めた。
「ひい婆ちゃんほど、はっきりと感じてるわけじゃないあるけどな。」
「ムースはどうじゃ?」
「寝入りばなには気になってたみたいあるが、今は高いびきある。」
「…たく、こんな状況で良く寝られたものじゃな。…いや、案外、大した男なのかもしれぬが…。」
「まさか…。単なる、無神経な鈍感男だけあるよ。あのアヒル男は。」
 シャンプーは嘲るように吐き出した。
「にしても…。この異様な月の気配は…。」
「やっぱり、災禍の卦が出てるあるか?ひい婆ちゃん。」
 シャンプーは心配げに曾祖母を見返す。
「ああ…。あんまり良い気配ではないな…。」
「大きな災害でも起きるあるか?例えば地震とか…。」
「今のワシの能力では何とも度し難いがのう…。じゃが、大きな魔がせめぎあっておる気配があるわ。ここより、かなり西の方向でな。」
 そう言いながらコロンは目を細めた。
「西あるか?…だったら、本国あたりあるか?」
「いや…。日本の中じゃな。」
 コロンはすいっと吐き出した。
「日本のもっと西の方あるか。」
「まあ、そういうことじゃ。今すぐ、飛んで行けるほど近くもないな…。何にしても、今のワシらがどうこう出来るレベルのものではないわ…。それだけは確かじゃ。」
 コロンはふうっと吐き出した。
 この大きな気のぶつかり合いが何なのか、詳細を知らぬコロン婆さんには、それ以上推測はできなかった。よもや、その渦中に乱馬とあかねが居ようとは、想像だにつかなかったのである。
「ま、何事が起きても、慌てぬようにする心構えが必要じゃな…。我ら女傑族の誇りに傷づけぬように立ち居振る舞いするよう、常日頃心がける、いつも言っていることじゃよ、シャンプー。わかったな?」
 そう孫娘に言い聞かせると、コロンは、杖から降りた。これ以上、物見しても、どうにもならないといことを、婆さんなりに悟ったようだ。
 コロンはすいっと杖から降りると、さっさと蒲団へと戻った。
「何か良くわからないけど、わかた!」
 シャンプーは、相変わらず舌足らずな日本語でそう答えると、同じく、蒲団へと潜り込んだ。
「明日の太陽を拝めると、良いがな…。」
 コロン婆さんは、シャンプーが再び寝入ってしまうのを確かめると、そう、闇に向かって吐き付けた。





 幾人かの人々が、その「気配」を感じていた、魔宝珠の中の闘い。

 乱馬とあかねは互いに対峙しながら、それぞれの隙を伺っていた。

「ふふふ、やはり、己の愛する女。戦い辛いと見えるのう…。」
 離れ際に、一言主が、乱馬へと声をかける。
 彼女の言うとおり、姿形も声色も全てあかねのまま。いくら、闘争心を高めても、目の前に立つのは、愛する女。攻撃の手に鋭さがない。何より、心のどこかに、あかねを傷つけることなく、一言主を倒したいという望みが捨てきれない。
「ほら、おまえ、口元では我とやり合うと言っておきながら、やはり本気では戦えぬではないか。ふふふ、心のどこかに、この娘を傷つけまいという意識が働いているおるのだ。これでは、相手にもなるまい。」
 好戦的な態度で、一言主は乱馬へと畳み掛けた。
 それと同時に、彼女から打ち出される、気弾。
 あかねは気を己ほど自在に扱えない。だが、一言主に操られている今は、容赦なく、気を打ち付けてくる。

「くそっ!このままじゃ不味いな。」
 それを避けながら、乱馬は焦り始めた。

(何を焦る事がある?…たく、てめえ、さっきから見てたら、情けねえ戦い方しやがって。それでも、俺様(前鬼)の力を宿したつもりか?こら!)
 身体のどこからか、前鬼の声が響いてきた。
「前鬼?」
 乱馬ははっとして、その声に耳を傾けた。
(てめえには全て伝わってるだろ?俺や後鬼が、必死であいつと闘った経緯を。どんな思いで小角様が葛女様と一緒に一言主を狭間の世界へ封印したのかを。そんな、生半可な気持ちじゃあ、世界を救うどころか、一言主の成すがままになっちまうぜ!)
 
 確かに彼の言うとおりだ。
 このまま、蹂躙され続ければ、この戦闘に勝つことは出来ない。戦闘に勝利できなければ、聖なるラインに亀裂が走り、人間界に人死がたくさんでる。遺体すら判別しないような凄惨な災禍が降り注ぐだろう。

『なあ…前鬼。おめえだったらどうしてる?闘う相手が、愛する女(後鬼)でも、死力を尽くすのか?』
 乱馬は飛んでくる、一言主の攻撃を辛うじて避けながら、そう問いかけてみた。

(そんな事、俺に訊くな!わかりきってるだろ?)

 前鬼はふっと言葉を継いできたように思う。

『だったら、何が起ころうとも、おめえは、何も言わねえな?』
 乱馬は己の中の力の源、前鬼に確かめるように語り掛けた。

(ああ…。全てはおまえに任せた。たとえ、一言主諸共、後鬼が消滅しちまっても、俺は…。俺も後鬼も、ともに歩んだ「人間界」いや「大和の国」を守りてえ!あの、うまし国を。この身体で壊すわけにはいかねえんだ!小角様も同じ思いだったろう。だから、あの時、残った僅かな力で一言主を封じたまま、葛女様を闇へと封印したんだ。そして、俺たちも生きたまま封印した。)

『なら、俺に力を貸せ!前鬼!』

(ああ、ありったけ、持って行きやがれっ!その代わり、本気でいけよっ!)

 身体の奥に、ポッと火が一つ灯ったような気がした。



「そろそろ、決着をつけようではないか!乱馬、いや、小角の式神よ!」
 目の前で、あかねの身体を借りながら、一言主が吐きつけてきた。

 バキバキと目の前の地面が音をたて、木の根が競りあがってきた。そいつは、意思があるかのように、乱馬の下から姿を現し、そして、彼の足を呪縛していく。彼の身体は、地面から競りあがってきた木の根や枝葉に捉えられ、その動きを封じられていった。

「ふふふ、こいつは破壊樹の根っこだ。」
「破壊樹だって?」
 乱馬はきびすを返した。
「そうさ、破壊樹。我が眷属の樹木。ふふふ。こいつはこの常世の破壊樹の根に絡み捕らわれたが最後、おまえは逃れる事はできぬのだ。さあ、寄越せ、おまえの壮大な闘気を。根こそぎもぎ取って、破壊樹に与え、そして、憎き秋津島を、葦原の中つ国を、結界ごと吹き飛ばす源としてくれるわっ!!覚悟せよ!乱馬っ!」


 目の前を、あかねがすっくと立ち上がった。手には黒い独鈷を持っている。生駒山の鬼取岩で見つけた、あの黒き独鈷であった。
 黒い独鈷の脈動が、目の前で見えたような気がする。禍々しいよどんだ光。それに共鳴するように、あかねの瞳が妖しく光り始める。

「この独鈷を、おまえの赤き血で禊ぎ、そして、中つ国に伸びる、聖なる結界を打ち砕いてやるっ!」
 一言主はあかねの口を借り、そう叫ぶと、独鈷を握り締め、一気に乱馬の懐へと飛び込んで行った。



つづく



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