第二話 占いとあかねの料理
一、
秋の夕べはつるべ落とし。
誰が言い出したか知らないが、さっきまで煌々と空を照らしていた太陽が、すぐさま光を失い、西の端へと沈みきるまでに、そう時間がかからない。それが晩秋でもある。
考えるに、冬至に近くなっているので、当たり前と言ってしまえばそれまでだが、それでも油断していると、夕焼けからすぐさま夕闇が迫って、夜の帳が降り切ってしまう。
陽が落ちてしまえば、ひんやりと、空気も冷えてくる。まだ、吐く息は白くはないが、それでも、足元から何となく冷気が漂ってくるようにも思えた。晴れた月夜なら、余計である。
「お先にお湯、いただきました。」
そう言いながら、樹が道場へと入って来た。彼なりに気を遣ったのか、夕稽古をすると言って道場へと篭った二人のところまでわざわざ足を運んで、湯上りを報告してくれたのである。
湯浴みして、きれいに垢を落とした樹。思わずあかねは、動かしていた手を止めて、見入ってしまった。
凛々しき美青年がそこに立っていたからだ。透き通ったきれいな肌をしている。着物も着替えて、余計に凛々しく見えた。
ずっとかけていたぐるぐる眼鏡を、今は外している。だから、余計に美青年に見えた。
さすがに修験者ということだけあって、どこか、常人とはかけ離れた「気」を背負っているのがわかる。腕力が強いかどうかは別として、彼の背後にある気は強靭だ。
その気に圧倒されて気圧されそうになるのを堪えながら、あかねは樹をじっと見詰めた。
あかねのそんな態度に、傍に居た乱馬は、人知れずムッとした表情を手向けた。
彼女に接する態度は、ぶっきら棒で気にしていない風を装ってはいるが、内面はその逆。実は、人一倍、独占欲が強い乱馬。あかねに近づく男という男は、実力で阻止したいと思っていた。それが、年も近い、色男となると、尚更警戒心をむき出しにする。複雑な、それでいて奥手で未発達な青年、それが乱馬であった。
そんな風だから、当然、樹に対する態度も、必要以上にとげとげしくなる。あかねと己の間に割って入るなと、言わんばかりの接し方になるのだ。
が、そんな乱馬を知ってか知らずか、あかねは「間」が悪い。良い意味でも悪い意味でも、周りの空気を読まないで、口を走らせる傾向がある。言い換えれば「鈍い」のだ。
「樹君が上がってきたから、今度はあんたが入ってくれば?」
などと、乱馬に言い含める。
「いや…俺はあとで良い。」
乱馬は即答した。
「何で?さっきはあんなに、樹君と入りたがってたくせに。」
とあかねはあかねでにべもない。
彼女の視線には「とっとと風呂に入って男に戻ってきなさいよ!」という、そんなメッセージがこめられている。乱馬はまだ、少女のなりのままだったからだ。
「後で良いっつーたら後でいいんだよっ!」
うるさいと言いたげに解き放つ言葉。複雑な青年心理だった。
彼からすれば当たり前の言動だった。
風呂上りですっかり「オトコマエ」を上げた樹と、無防備なあかねを一緒に道場へ置いておけるか!…それが、乱馬の男としての本音であった。彼から見れば、あかねは警戒心がなさすぎる。それ故、簡単に人の毒牙にかかりやすいだろう。ここへ、樹や爺さんを連れ帰って来たこと自体が、如実にそれを物語っている。
乱馬から見れば、まだ、樹の全てがわかったわけではない。上辺は人の良さげな、そして、気の弱そうな感じを装っているが、一皮剥けば、どうだか、わかったものではない。それが男というものだ。
あかね以上に乱馬の方が警戒心を強く抱いていたとしても、不思議ではなかろう。
「全く、変なんだから、乱馬は!」
あかねはそこで乱馬との会話を切った。
「お二人とも、武道家を目指されているんですか?」
道着で向かい合っている乱馬とあかねに、樹はそんな言葉を投げかけてきた。
そう言いながら、まん丸のグルグル眼鏡をまたかける。そのせいか、やはり滑稽に見える。
(こいつ、あかねの警戒心を解こうとしてやがんな!)
ますます乱馬は頑(かたく)なになる。
「一応ね…。あたしはここの道場の子だし…。乱馬とは同門になるから。」
あかねははにかみながら答えた。
「なるほど…。あかねさんも乱馬さんも、さっきから拝見していましたが、相当鍛えこんでいらっしゃるみたいだし…。」
と、にこにこしながら樹が言った。勿論、傍らの乱馬は、ぶすっと口をへの字に結んだままだ。
「何か、お二人に、お困りの事とか、悩み事とかありませんか?あったら、ボクが卜占して打開法を指し示してあげますけど…。」
そう言いながら、樹は二人へと向き直った。
「卜占ですって?」
あかねはちらっと樹を見返した。
「ええ…。さっきもボクの祖父が豪語していたでしょう?ボクたち、修行の旅を往く路銀を稼ぐ業(わざ)くらいは持ち合わせているから路銀がなくても大丈夫だって。それが、卜占術なんです。手っ取り早く「今風の占い」をして、稼ぐことが出来るんですよ。」
樹は持って来た笈(おい)を道場の床に置きながら言った。
「けっ!占いで稼ぐのかよう。」
乱馬が言った。明らかに侮蔑がその言葉にこめられていた。あかねは直ぐに悟ったらしく、きっと乱馬を見据えた。
「あんたね!剣の有る言い方しないのっ!占いって言ったって、上手い人のは良く当たるのよ!みおさんがいい例でしょうが!占いの家系に生まれただけあって、彼女の占いは、完璧なんだから。」
あかねは乱馬と違って、その当たりは女の子である。占いに少なからず、興味があった。みおというクラスメイトのおかげで、占いがとても奥深い事も知っている。
「んなこと言ったって、占いは占いだ。万全なものじゃねえ。それに…。もし悪い卦でも出てみろ。おめえのことだから、ずずんと歪んで、平常心じゃいられなくなるのがオチなんじゃねえのか?」
あかねの性格を隅々に渡るまで理解している乱馬は、チクッと突き刺すような言葉を言った。
「お言葉ですが、乱馬さん。確かに「たかが占い」かもしれません。でも…。占いは悪い卦が出たとしても、それが全てではありませんからね。
人の運勢なんていうものは時の流れと共に変わるんです。ボクが占うのは、その人のその時の一片でしかありません。いわば地図みたいなものなんですよ。
その人が目的を達成するために、いくつもある道筋のほんの一部分を、切片を見せるものです。それを用いるか否かは、それぞれ、占ってもらう人の志一つです。
地図を見ないでも目的地に達成する人だって勿論居ますしね…。だから、そう身構えて、占いの事を考えることもないですよ。一つの現況だと思っていただければ。…それとも、ボクに占われること自体が怖いですか?」
真摯な瞳が、乱馬とあかねを交互に見詰めた。
「ちぇっ!地図があっても、目的地に素直につけずに、迷いまくる奴だって、居るってのによ…。」
と、良牙のことを思い出しながらうそぶいた。良牙に地図は無用の長物だ。あってもなくても、無関係に彼は迷子になる。
「じゃあ、あたしの今を占ってみてくれる?未来が見渡せて、わかってしまうのも、何だか面白くないし…。あたしが今、どんな現況に置かれているか、客観的に占って見せてもらうのも悪くはないもの。」
あかねはせっかくの申し入れを受けることにしたようだ。
「勝手にしろっ!」
乱馬は舌打ちして、そこで言葉を止めてしまった。あかねは一度言い出したら、テコでも前言を翻さない。そういう性質だということを知っていたからだ。
「じゃあ始めますか。ちょっと用意しますから。」
そう言って、笈からそれらしい荷物を取り出した。
何やら漢字や数字が書かれた木の板や棒を荷物のそこから取り出した。
「年季が入っているのね…。」
あかねは道具を見ながら目を丸くした。いかにも、と言いたげな占いの道具たち。
「ボクの家系は先祖代々、占いを主たる生業(なりわい)としてきましたからね…。修験道には神からの託宣を告げるのが、一つの目的のような性質がありますから…ボクも幼少期から爺様やひい爺様にくっついて、一通り、卜占については仕込まれたんです。だから占星術、五行占い、手相、顔相、八卦など、日本古来で行われてきた手法なら何でも占えますよ。」
そう言いながら、細い棒をより分ける。
「へえ、凄いのね…。」
あかねは素直に感心してみせる。
「えっと、占いを始めるに当たって、あかねさんの個人情報をお願いします。ボクの質問どおりに答えていってください。」
樹はじっと棒を見詰めながら問いかけた。
あかねには瞳の輝きが、占い師のそれに変わったような気がした。傍の乱馬も、ピクッと眉間を動かして、樹の様子を伺う。
「占いをするに当たっては、ごく基本的なことばかり訊きますから。生年月日をどうぞ…。」
あかねは樹に尋ねられるままに、自分自信の情報を、一つずつ丁寧に答えていった。
その一つ一つに聴き入りながら、樹は熱心に、卜占道具を動かし続ける。
そして、最後に、占い版の前で手を合わせ、気合を入れた。
ふっと、周りの空気が微かに変わったような気がした。
少なくとも、乱馬にはそう思えた。
何か陰湿な気のようなものを、樹の背後に感じたように思ったのだ。
「!?…」
咄嗟に身構えようとしたが、その気配を察したのか、樹が口を開いた。
「占いの結果が出ましたよ…。」
その言葉を合図にしたかのように、あかねはゴクンと唾を咽喉の奥に飲み込んだ。
「過去からボクの卦に出たものを、見て行きますからね。…あかねさん、あなたは温かい家族に囲まれて育ってきた。家は武芸を生業としてきた古い士族で、その血を受け継ぐだけあって、猛々しく雄々しい性格をしている…。」
「見たまんまじゃねえか。」
そうぼそっと答えた乱馬に、あかねは思わず、しっと耳打ちした。
「ただし、あなたには「母親」が欠けている。幼い頃に死別していると出ました。」
「あ、当たってるわ。」
あかねは思わず声を上げた。
「そのせいで、どうしても、あなたには「女性的」な部分が、人一倍欠落しているように見受けられます。あ…、見かけはともかく、性質的にです。あまり、女性的な細やかなことは得意じゃないでしょう?料理とか裁縫とか。嫌いじゃないが、得意じゃない。そう出ていますねぇ。」
「へえ…。当たってるじゃん!おめえ、凶暴だしなあ…。料理の腕なんて、常人離れしているしよう…。」
乱馬はからかい口調であかねを見た。
「うるさいっ!黙ってて!」
あかねがじろっと視線を流した。
「ふふふ。でも大丈夫です。家庭的な側面は充分に持っていますから、いずれは人並みにまで回復できるでしょう。但し、時間はかかりますが…。信じて精進を積めば、必ず回復できます。」
「良かった!」
樹が笑いながら言ったのを受けて、思わずあかねは、そう漏らした。
「時間がかかるって、どのくらいかかるんだ?おめえの不器用はすぐに治せる代物じゃねえだろ?」
乱馬がまた茶々を入れた。
「うるさいわねっ!」
あかねは再び乱馬をジロッと一瞥した。
「それは、本人の努力次第ですね。」
ふふっと笑いながら樹が付け加えた。
「ちぇっ!いい加減な見込みじゃねえか…。神様だってこいつの不器用は治せるかどうか…。」
「ちょっと、黙ってて!」
また痴話喧嘩が始まりそうな気配を察したのか、樹は、続きを口にした。
「じゃあ、今度は恋占を…。あなたくらいの年頃の女の子は、これを占ってあげると喜びますしねえ…。」
そう言いながら、更に樹は占いを読み解き始めた。
恋占いと聞いて気になったのだろう、あかねだけではなく、乱馬も彼の口元に注目し始めた。
「ふーん…。あかねさんは既に、将来にわたって己に強く影響する相手に、めぐり合っているようですね。しかも…、彼は「鬼人(おにびと)」だ。」
「おにびと?」
耳慣れぬ言葉に、思わずあかねはきびすを返した。
「ええ、ボクの占いでは鬼人と出ました。つまり、彼は並みの人間じゃない。何かこう、卓越した大きな超力を持った人です。それに…。」
軽く咳払いして、樹は思わせぶりに言った。
「彼は常にあなたの傍に居て、その大きな力であなたを見守っている…と出ましたね。衝撃的な出会いで引き合わされた。そして、互いの吸引力も強いが、同時に反発力も強い。この「縁(えにし)」が、吉と出るか凶と出るか、それはあなたたち次第です。良い意味でも悪い意味でも「腐れ縁」ですね、こいつは…。」
と、樹は笑った。
思わず、乱馬とあかねは、苦笑いしながら互いの顔を見合わせた。そして、視線がかち合うと、さっとソッポを向いた。
樹の占いが暗に指したのは、己たちの関係であるのは一目瞭然だった。
「腐れ縁」という言葉がやけに、耳底で引っかかったが。
「へえ…当たってるじゃん!」
背後からもう一つ声が響いてきた。
思わずあかねや乱馬は声の主の方へと振り返った。
道場の入口の引き戸から、なびきがにやにやしながら入ってきた。
「なかなか面白しろそうな占いじゃないの。樹君。」
そう言いながら後ろに立って、占い版を覗き込む。
「あなたの事も占って差上げましょうか?」
樹は愛想笑いを浮かべた。
「うーん…。どうしよっかなあ…。」
なびきはふっと微笑みかけた。
「お姉ちゃんも占ってもらえば?」
あかねは姉にそう声をかけた。
「今のあんたの項目を訊いてると、まあ、当たってるかもしれないけど…。」
なびきはにっと笑いながら受け答える。
「へっ!おめえは現実主義者だからなあ。あかねと違って。あんまり、占いそのものを信じねえ口だろう?」
乱馬は少し意地悪く言ってみた。
「うん、じゃあ、先に、この子のこと、占ってみてよ。それが当たってたら、あたしも占ってもらうわ。」
と、乱馬の背中をトンと押した。
「お、おいっ!」
前に突き出されて、乱馬は思わず、声を荒げた。
乱馬自身、もっと占いと言うものに「きな臭さ」を感じていたからだ。彼は、占いで己のことを知るなど、論外だと思っていた。己の道は己自身の手で切り拓く。占いなんて頼る気など、毛頭なかったからだ。
「良いですよ。占ってみましょうか。」
樹はすっと卜占の道具を手に取った。
「えっと、この子の誕生日はねえ…。」
「おい!こら、なびきっ!面白がってんじゃねえっ!」
そう横からがなったが、占いはもう始まってしまった。
ガシャガシャと道具をいじくりながら、樹はふっと考え込んでいた。
あかねの時は、すんなりと結果が出て、彼の託宣もすいすいと口を吐いて出たようだが、明らかに乱馬のことを読み解く時は違ってみえる。
「うーん…。難しいですね。あなたの卜占は…。」
樹は唸りながら占い版をじっと眺めた。
「何て言うか…。乱馬さんの現在は「仮初(かりそめ)の姿」だって占い版が言うんですよ。」
樹は困惑していた。
「仮初の姿ねえ…。」
なびきはにやにやしながら、その言葉を反芻した。
「失礼ですけど、あなたは実体じゃなくてその…、変身か何かした姿だって、有り得ないようなことを占いが指し示しているんです。何かの怪奇現象で、狐やタヌキなど動物的な精霊や怨霊があなたに憑依していて、こういう結果が出ているのかとも思ったんですが、どうもそうでもないらしくって…。」
樹は首をかしげながら、乱馬に問いかけた。
「あなた、何か呪いを穿たれていませんか?」
と乱馬を覗き込んだ。思わず、乱馬の肩がピクンと動いた。
「へえ…。樹君、呪いも扱う事ができるの?」
なびきは、さらにたき付けるように、樹に問いかけた。
「日々、修験道の修行をしていますから、勿論、基本的なものならば、解呪できます…。でも…。あなたにもし、呪詛の力がかかっているなら、ボクの力では如何(いかん)ともし難いですねえ…。霊的な物が介在しているのなら、ボクの祈祷の力で追い出して解呪させることもできるんですが…。あなたのは無理そうです…。というか、ボクの力で対処できるような代物ではない。そう占いは告げています。」
と言い切った。
「だってさあ…。あんたも大変だねえ。」
なびきはにやにや笑いながら乱馬の背中を、バンバン叩いた。
「う、うるせえやっ!他人事(ひとごと)だと思いやがって…。」
ぼそぼそっと乱馬はそれに反応する。
「でも…。呪いの姿がどうであれ、あなたはそれを大切にしていれば良いですよ…。あなたのその姿は、それはそれで、近い将来、あなたの一番大切な人を守るのに役立つという卦が出ていますから。」
樹はにっこりと微笑んだ。
「随分、抽象的な占い結果ね。」
あかねが、ポツンと声をかけた。
「ふふふ…。まあ、占い師の腕としては、上々ってところかしらねえ…。」
なびきはすいっと話題を変えるように、樹へと視線を流した。
「ってことで、あたしの事、ちょっと占って貰おうかしらねえ。」
と、くすっと笑った。少し悪魔的な笑顔だ。思わず、あかねも乱馬も、なびきのその笑顔にぞくっとしたくらいだ。
「お姉ちゃん、あんまり占いって信じない主義じゃなかったっけ?」
あかねは、はっとして、姉を見返した。
「樹君の占いの腕はかなりなものよ。しかも、ロハで占って貰えるんでしょう?一泊の宿賃くらいは、叩きだせるってね。」
にんまりと悪魔の微笑みを投げかける。
「ってことで、樹君、ちょっと借りるわよ。」
「お、おいっ!なびきっ!」
思わず声を上げた乱馬の脇を、樹の腕をむんずと取ると、そのままずるずると道場の外へと引っ張って行ってしまった。
「何なんだ?一体…。」
「さあ…。でも、お姉ちゃんの事だから、お金に絡んだことを占ってもらうことだけは、確かよ…。」
「だろうな…。」
後に残された乱馬とあかねは、呆気に取られたまま、なびきと樹の後姿を見送った。
二、
すっかり日が落ち切って、月が道場の屋根の上にかかり始めた頃、天道家の茶の間は、夕食を囲む家族で賑わっていた。
爺さんも湯を浴びてさっぱりしたらしく、ドンと上座に座っていた。
「おい、夕方にあれだけ食っておいて、まだ腹に入るのかよう…。」
半ば呆れた顔をしながら、乱馬は爺さんと樹を見比べた。
「ほーほっほ。御飯にありつけるときは、二日分でも三日分でもありがたくいただく。これが修験道に携わる者の基本でござりますからのう…。」
そう言いながら、爺さんは箸を動かしている。さすがに、修行の身の上なので、酒は食卓に上がらなかったが、もし、あったら、それすらも飲み干してしまいそうな感じがした。
勿論、爺さんばかりでなく、樹も無言で、乱馬たちの目の前で懸命に箸を動かしていた。その食べっぷりは、到底、夕方に丼飯をたらふく食べたという感は受けなかった。そのくらい、二人とも、がっついていたのだ。
「あはは…。若いということは素晴らしいことだねえ…。青春は腹が減るからねえ。消化も早いってか…。」
早雲も、苦笑いしながら、その様子を見ていた。
「おかわりっ!」
天道家の人々が呆気に取られて見詰める中、さっと、お茶碗を差し出す樹。その、細い身体のどこへ、御飯が消えていくのか、不思議に思えるほどの食べっぷりである。
「おかわりっ!」
息つく暇もなく、かすみへと差し出される茶碗。
「はい、遠慮しないでどんどん食べてくださいね。これだけ食べてもらえれば、作り甲斐がありますわ。」
「ホント、ただ飯だからって、思い切り食べるところなんか、あんたたち親子とそっくりなんだから。」
なびきはチラッと乱馬を見やった。
「そりゃあ、どういう意味だよっ!」
口を尖らせて、乱馬がそれに食って掛かる。
「まんまよ、まんまっ!言葉どおり。」
へらっとなびきは乱馬を見返した。
あれから、なびきは、しこたま樹に占いをしてもらったらしい。
何を占って貰ったか、何となく察しがつく守銭奴のなびきのことだ。金儲けがらみのことと思って間違いなかろう。
天道家の面々の前で、樹は構わず、箸を進めていく。その勢いたるや、鬼神でも乗り移っているのではないかと思うほどだった。
「凄い勢いで食うなあ…あいつ。」
乱馬も呆れを通り越して、感心してしまった。
「大丈夫よ。ふふふ、ちゃんと、対策は打ってあるから。」
と、なびきがあらぬことを乱馬に耳打ちした。
「対策だって?」
「ええ。これ以上彼が食べないように、対策を打っておいたわ。」
なびきは思わせぶりに、乱馬の横の空間をみやった。そこは、あかねが座るべき場所だ。だが、主は居らず、座布団だけが存在を主張している状態だった。
「お、おい!さっきからあかねが見えねえと思ったけど…まさか。」
乱馬は、顔を引きつらせながら、なびきを見返した。
「ピンポン!ご名答。今頃、かすみお姉ちゃんと台所仕事よ。早乙女のおばさまが居ない穴埋めするんだって、あの子ったら張り切っちゃって。」
なびきはウインクして見せた。
「オフクロの穴埋めって、おいっ!」
思わず、声が上ずった。
「おめえ、あいつに台所仕事なんか、それも調理なんか任せたら、どんなことになるか、想像がつくだろうがっ!」
焦った乱馬は、そんな言葉をなびきに吐きつけた。
「あかねの料理は殺人的な不味さだぜ!あんなもの食わせられた日には、暫く再起不能になるぞ。おい。」
そうなのだ。
あかねの料理ほど、家人にとって、迷惑至極なものはない。
不器用だけならいざ知らず、彼女の料理は、一度食したら、二度と口にしたくないと、誰もが思うほど陳腐な代物であった。できれば、関わらずに過ごしたい。許婚の乱馬ですら、そう思う、強烈な料理なのである。
「ふふふ、大丈夫よ。何もあんたに食べさせようって訳じゃないんだから。ほら、さっき、占いで「本人の努力次第で、不器用は克服できる」なんて樹君に言われてたじゃない?だから、その気になってるのよねえ。」
「まさか、あかねの料理をあいつに、食べさせようだなんて…。」
「ほほほ。良いんじゃない?自分の占いに責任持ってもらえばいいし、あの様子じゃあ、胃袋だって、あんたの数倍丈夫でしょうよ。」
「おめえ…悪魔だな。」
思わず、なびきに向かって吐き出していた。
そうこうしているうちに、あかねが自作の料理を持って、いそいそと茶の間に入ってきた。大皿いっぱいに乗せられた、見るも不可思議な物体。野菜なのか肉なのか、一見しただけではわからない、コゲコゲ色の物体が、これ見よがしに乗っかっている。
「コロッケを作ってみたの。」
とにこにこと、卓袱台の中央へ、ドンと置いた。
「コロッケねえ…。」
思わず、乱馬はそう言ったまま絶句した。
どこから見ても、コロッケには見えない。衣を付けて確かに揚げられたような痕跡はあるが、形も均等ではなく、定番の小判型の物は、どこを探しても見つからない。しかも、チチチと揚げたてらしい音が、より、不気味さをかもし出していた。
「たっくさん召し上がれ。」
そう言って、あかねは乱馬の横に座った。
「ほら、乱馬も遠慮しないでね。特製なんだから。」
と鼻息も荒い。
(く、食いたくねえ…。絶対に、食いたくねえ!)
口にはしなかったが、心で吐き出した。
その料理の皿があるだけで、和やかな食事の雰囲気そのものが壊れていくような気がする。不可思議な匂いや形に、胃袋がきゅうっと引き締まり、悲鳴を上げだしたのがわかる。
「俺良いわ…。樹、おめえ、食えよ。まだまだ腹に入るだろう?」
思わず、そう声をかけていた。
こうなったら、なびきが言うように、彼にあかねの料理を押し付けてしまうに限る。そう思ったのだ。
「そ、そうだね。まずは客人から。」
早雲も額に脂汗を浮かべながら、樹と爺さんにあかねの料理を勧めた。
「あ、はい…。いただきます。」
あかねの料理の凄さを知らないから、言える言葉だろう。
「はい、いっそのこと、皿ごとどうぞ!」
なびきがすかさず、樹の前に差し出した。こうしておけば、己に回ってくることもあるまいと踏んだのかもしれない。
「じゃあ、遠慮なく。」
樹はそう言うと、勇猛果敢にも、あかねの料理へと箸を伸ばし、一気に口の中へと放り込んだ。
その瞬間、凍りつく、茶の間。
だが、周りの好奇の目とは裏腹に、樹は、ばくばくとあかねの料理に箸を伸ばし、口を動かし続けた。
「おい、あいつ、味覚ってのが無いのか?」
「ううん…。常人なら一口でリタイアすると思ったんだけど…。食べてるわねえ…。」
「あかねの手前、気を遣ってるようにも見えねえぞ。」
「ひょっとして、形はともかく、食べられる代物を作れたのかしら…。」
「いや、そう言う風には見えねえぞ。この匂い…。美味そうだとは、とても思えねえ…。」
ぼそぼそっと乱馬となびきが小声で話し合った。
早雲は腕組みしたまま、じっと樹の口元を見ている。
爺さんは孫の行状など興味がないのか、自分の箸を懸命に動かしていた。
かすみはにこにこと黙って樹の様子を見守り、あかねは、己の料理の味はどうなのか、樹から感想が漏れるのを、今か今かと、目をうるうるさせながら、じっと見入っていた。
一種、独特な雰囲気が天道家の茶の間を覆っていた。
そんな好奇な目を気にすることも無く、マイペースで樹はあかねの作ったコロッケを、一皿ぺろりと平らげた。
「ご馳走様でした…。」
と、何事もないように箸を置いた。
「お、おいっ!食っちまったぜ。」
乱馬は驚愕の瞳を投げかける。
「絶対、食べられないと思ったけど…。」
なびきも、へええと目を見張る。
と、その時だった。
「うっ!」
平らげ終えた樹の様子が一転しておかしくなった。
そして、口元を押さえたまま、樹の動きが静止した。
「お、おい。樹?」
怪訝に思った爺さんが、樹の目を覗き込んだ。
「わっ!こりゃいかん!」
爺さんは、そこで始めて狼狽し始めた。
「ど、どうされました?」
早雲が真っ先に反応した。
「気絶しとる…。」
爺さんの言葉に、一同、樹の方へと視線を流した。
確かに、そうだった。
眼鏡を外すと、樹は、座したまま、白目を剥いていた。視点は定まらず、一点を見たまま、瞳孔が開いているようにも見える。
「わたっ!こりゃいかん!影響が出る事必至じゃ!」
爺さんはだっと立ち上がると、縁側に立てかけていた笈の方へと身を急がせた。
「薬じゃ、薬っ!それから、ご祈祷じゃ!」
バタバタと爺さんは動き出す。
と、その時だった。
ゴオオっと地鳴りが響き渡ると、ぐらぐらっと来た。
ミシミシっと家の柱が軋む音が始まり、天井から面下がっていた電灯の笠が横に大きく湾曲し始める。茶の間に置かれていた食器棚も、一緒にカタカタと音をたて始める。
「な?何?」
「じ、地震?」
目を白黒とさせて、狼狽する天道家の人々。その脇を、爺さんは、慌てて、何かを取り出した。それから、がっと樹の身体を抱えて、少し開かれた口元へと、何かを放り込んだ。
「薬じゃ!樹。気を確かに持てっ!おまえが気を確かに持たねば、この国は滅びるぞっ!」
そう言って薬を飲ませると、くわっと目を見開いて、樹のミゾオチに一発、ドンと拳を打ち貫いた。
「はうっ…。」
樹が気を取り戻したのと、地震の揺れが収まったのは、ほぼ同時であった。
「爺様、ぼ、ボクは一体…。」
「ふう…。何とかおさまったかのう…。たく、驚かせるな。」
爺さんは、ほおおっと、安堵の溜息を、大きく胸から吐き出した。
つづく
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