第十八話 魂移し
一、
「後鬼…。貴様の力を我がものに…。愛しの後鬼よ…。」
執拗なまでにそいつは、あかねへ迫ってきた。
思わずぞっとするような言葉。
乱馬の父親の姿は借りているものの、見るからに異形だ。それが、何とも言えぬ不気味さを彼女に与えた。
「後鬼…。つれない態度はもう良いではないか…。その美しき霊気、余すところ無く、我が中に…。そして、我と共に、未来永劫生き続けようではないか。」
懇願するように吐き付けてくる玄馬。
「じ、冗談じゃないわよっ!絶対嫌ですっ!」
あかねは、追いかけてくる玄馬を降りきるように、逃げ惑う。
白んだ世界は、隠れるところも無い。
単なる追いかけっこが続けられる。
はあはあとあかねの息が切れ始めた。いくらあかねの肉体の方が若いとはいえ、相手は男だ。それももとは乱馬の父親。のらくらしているように見えるが、なかなかそれが、鍛えられているらしい。おまけに、幽鬼とかいう、訳のわからぬ古代鬼に憑依されている。
「嫌よ、貞操の危機よ!乱馬っ!」
あかねは、乱馬を呼びながら、逃げ惑う。
「後鬼…。我が愛しの鬼よ。おまえは前鬼を愛した…。儂はそれが憎くて敵わぬ。儂を見向こうともしなかった…。許せぬ。だから、儂が霊気ごと食らってやる。さすれば、前鬼には渡らぬ。もう二度とおまえを放さぬ。儂の血肉となれ、後鬼よ…。」
そんな不気味な言葉を吐きつけながら、幽鬼に取り付かれた玄馬はあかねを追いかけた。
「あかねっ!」
乱馬は身を乗り出すように、玉に映し出されるあかねを見詰めた。
父親の玄馬の異様な形相。それに恐怖を覚えながら逃げ惑うあかねの姿が、痛々しく映し出される。
あかねの足元がふらつき、たまらず、転ぶ。
それをもてあそぶように、玄馬の鋭い爪が、あかねの柔肌に襲い掛かる。
「くっ!」
寸でのところであかねは、それを避けた。そして、また立ち上がると、一目散に逃げ始める。
その姿に、乱馬は気が気でなく、息を飲む。
「くくく、幽鬼のやつめ。事の外、楽しんでいるとみえる。散々、もてあそび、力尽きたところを襲おうとでも言うのか、それとも、彼女が敗北を悟り、絶望したところを食らいつくつもりか…。いずれにしても、気高き雌鬼の霊気だ。恐怖と絶望に追い立てられるほど、霊気は旨味が増すものじゃからなあ…。」
神足が玉を一緒に覗き込みながら、そんな言葉を吐き出す。
「畜生!身体が動かねえ…。」
ぐぐぐっと力や気を込めるが、尽く、乱馬の力は絡めてくる妖木には効き目がないようだ。
それどころか、更に木枝の締め付けがきつくなる。意識も朦朧とするくらいに、締め付けられて、体中の血が止まってしまったような気がする。
「あかね…。あかね…。」
うわ言のように、玉を見ながら、あかねへ囁きかける。
『諦めるな!乱馬。』
どこかで声が聞こえた。
聞き覚えのある、朗々たる声だ。前鬼のものとは別の、野太い声。
『おまえの中には前鬼の力が入っている。諦めずに体内に気を溜めるのだ。』
その声は乱馬へ囁きかける。
(気を溜めても、この束縛は砕けねえ…。さっき試したがダメだったぜ…。)
乱馬は無意識にその声に答えていた。
『それは、おまえの気合と、溜めが足らぬのだ。この妖木を引き裂くためには、相当な気が必要となる。それに、おまえは諦めるつもりなのか?愛しき者をあの鬼に食らわれても良いと申すのか?』
声は乱馬にたたみかけてきた。
(嫌だ…。あかねは誰にも渡さねえ…。)
『ならば、溜めよ!丹田におまえの純粋な気を溜めよ!あの娘を助けたいのなら!』
乱馬はともすれば、くじけそうになっていく、己に気合を入れる。
そして、少しずつ、声に言われるまま、丹田に気を集め始めた。じわじわと乱馬の体内を巡る気が、丹田へと集中し始める。
あかねは疲れて行った。
玄馬の執拗なまでの、追い込み。鬼に魅入られた彼は、「疲れ」と言う言葉を知らぬように、あかねを追い立てる。それも、わざともてあそぶように、間合いを取りながら、追ってくる。
もてあそんでいるのは、一目瞭然だった。
本気になれば、あかねなど、取るに足らぬと言わんばかりに、余裕を見せながら追いすがる。
対するあかねは、疲れはじめていた。だんだんに、足元ももつれ始める。息も切れ始めた。
何処までも続く、殺伐たる白んだ世界。もやは、身体は何も感じなくなりはじめる。
やがて、あかねは、力尽き、どおっと足元から崩れるようにその場に倒れこんだ。
「もう疲れたか?後鬼よ…。」
すうっと、音も無く、幽鬼があかねの傍に立った。
あかねはうな垂れたまま、白んだ世界の底に沈んだ。
「ふふふ、後鬼め…。もうお終いか。」
神足が笑った。
「さてと…。前鬼よ、その二つの目で後鬼があやつに食らわれるところを見ておれ。そら。」
そう言いながら、うな垂れる乱馬の目の前に、玉を差し出した。
『まだだ、乱馬…。まだ足りぬ…。その気では、妖木を打ち破れはせぬ。あと少し、堪えろ。そして溜めるのだ。猛き気を。おまえの生気を!』
乱馬の脳裏でまた、声が響く。
ぐっと感情を押し殺し、乱馬は気を溜め続けた。
懸命に溜めた。
『乱馬…。おまえの気、一気にぶつけろっ。そして、砕けっ!あの魔宝珠を!』
青白い炎が体内にボッと宿ったような気がした。
「そろそろ楽にしてやろう…。後鬼。おまえの美しき霊気、我が体内へ…。」
玄馬はあかねをがっと抱きかかえると、その美しき頬へ手を当てた。
「復活じゃ。幽鬼よ!」
魔宝珠を覗き込みながら、神足がにやっとほくそえんだ。
と、その時だ。
乱馬の瞳がくわっと見開かれた。
「あかねを返しやがれっーっ!でやあああっ!」
腸から染み渡るような声が響く。
バキバキバキと乾いた音が炸裂した。その音と共に、乱馬を呪縛していた木が弾け飛ぶ。いや、それだけではなかった。
乱馬から発した気は、神足が前に差し出していた魔宝珠をも飲み込むように包んだ。
「はあああああっ!」
乱馬はそのまま、右手を上に差上げると、魔宝珠を上から、叩きつけるように手刀を振り下ろした。空手で瓦を割るようにだ。
乱馬の右手に当たると、魔宝珠は、虹色の光を発した。
その眩いばかりの光と共に中から現われたのは、あかねと玄馬。
乱馬は一目散に飛び出し、、あかねを抱きかかえ、玄馬から遠ざかる。その時、玄馬の背中に蹴りを食らわせることを忘れなかった。玄馬は放物線を描きながら、地面へとどっさと倒れていく。
「乱馬…。」
腕に大事そうに抱え込んだあかねの瞳がふっと浮き上がった。
「無事だったか…。あかね。」
「怖かったよ!」
思わず、ひしっと抱きつくあかね。
「あかね?」
緊張がほぐれたのか、あかねはそのまま、乱馬の身体に身を沈めた。
ふっと緩む口元。自分の女を取り戻した安堵が、乱馬の心へと広がった。
「てめえ…。よくもあかねを!」
怒り心頭、炸裂した乱馬は、己が蹴り上げ傍で倒れこんだ玄馬に、怒声を浴びせかけた。
「おめえが、親父に憑依してなかったら、ボコボコに殴り殺していたかもしれねえ!畜生!クソ親父っ!」
最初の一撃がかなり効いたようで、玄馬はそのまま地面へと這いつくばり、白目を剥いていた。恐ろしげな鬼ではなく、いつもの間抜けた玄馬の顔に戻っている気がした。
「フン、幽鬼め。肝心なところで、やはりまた、しくじりおったか!」
神足が乱馬を束縛していた樹木へとすっと立ち上った。そこには、正気を失った樹も共に立っていた。
「勝負だっ!一言主。今度こそ、てめえを、冥府へと送り返してやるっ!」
乱馬は遮二無二構えた。
「ふん!おまえでは役不足だわいっ!」
神足が吐き付けた。
「うるせーっ!俺のあかねに、酷い事しやがって!てめえが誰に憑依していようと、知ったこっちゃねえっ!俺が成敗してやるから、覚悟しろっ!」
乱馬は青々と茂る大木に向かって吐き付けた。
「だから、おまえでは役不足なのだわっ!それ、樹っ!」
横の樹に命じると、彼女が空で印を切った。
それと共に、襲い来る、大木の枝葉。まるで、意思があるかのように、触手化して、乱馬たちに襲い掛かった。
乱馬はその攻撃を避けながら、間合いを取る。
「でやっ!」
手の飛騨を前に突き出し、気弾を大木へと浴びせかけた。
ウオンと戦慄いて、大木が痛がったように思えた。
「へっ!木でも痛みは感じると見える!」
乱馬は、手を翳して連打する。
ノオオン、ノオオンと大木は雄叫びを上げる。
その隙に 乱馬は抱えていたあかねを下に下ろした。
「あかね、ここでじっとしてろっ!」
「乱馬?」
「大丈夫だ。あんな連中にやられる俺じゃねえ!」
乱馬はにっと笑い返した。
あかねの瞳に、乱馬が逞しく映った。
「ダメよ、乱馬、あたしも闘うわ。」
あかねは、乱馬の瞳をじっと見返して、そう言葉をかけた。
「闘うっつったって、おめえ…。」
「あたしの中の後鬼もそうしろって、言うわ。」
「後鬼?」
乱馬はきょとんとあかねを見た。
確かに、いつも感じるあかねとは、少し様子が違って見えた。美しき玉肌はさらに磨きがかかったように、月光に照らし出されて光り輝いている。ちらりと見える、彼女の長い肢体に、己と同じような刺青文様が浮き上がっている。それが玉肌に映えて、ますます妖艶な美しさを解き放っている。
「そっか…。おめえの中に後鬼が居るのか。」
乱馬はふっと吐き出した。だからだろうか。己の中の前鬼が、ドクドクと波打って興奮しているようにも思えた。
「一緒に闘うか…。俺の中の前鬼も、そう言いやがる。」
乱馬はふっと笑いを切った。
「昔、前鬼と後鬼が力を合わせて、小角様と共に闘ったように…。」
「ああ…。一か八か、俺たちの力で奴らの陰謀を叩きのめして、一暴れしてやろうか。」
不思議と湧き上がって来る、力。
さっきの「気弾」で、かなりの霊力を消耗しきっていた筈なのに、また、体内へ、気が満ち始めた。
「行くぜっ!あかねっ!」
「うん!」
二人、だっと、駆け出した。
二、
「猪口才な!貴様ら式神など、たちどころに粉砕してやるわ!」
神足爺さんが唸る。
それに合わせて、樹も攻撃の手を緩めない。大木の枝葉や根っこを駆使して、乱馬とあかねに襲い掛かった。
「くっ!」
激しい攻撃に耐え、互いの身を庇いながら、乱馬とあかねは、闘い続ける。
「ねえ、乱馬。」
あかねが声をかけてきた。
「あん?」
乱馬は樹の駆使する大木の枝葉を持っていた金剛杵で薙ぎ払いながら、あかねの問い掛けに耳を貸す。
「あの木って、もしかしたら「式」かもしれないわよ。」
あかねがそんな言い始めた。
「式だって?式神か何かだって言うのかよ?」
乱馬はしつこく食い下がってくる、枝葉や根っこを避けながら、不思議そうにあかねを見返した。
コクンと揺れるあかねの頭。
「だって、植物には元々「意思」があるって言うわ。人間や動物ほどその意思表現は強くはないけど、それでも同じ地上に生きる生命体よ。」
「そっか…。樹の奴、樹木を式神化して、使役してやがるってーのか。一理あるかも知れねえ。」
相変わらず畳み掛けられる攻撃を器用に避けながら、乱馬はあかねの意見に頷いた。
「それに、見て!あの大木の根元の地面。」
「あっ!」
あかねに指摘れた所を眺め見て、乱馬は思わず小さな声を上げた。
「あれは…。式陣。」
己たちに攻撃をしかけてくる、大木の根元。そこに、幾何学模様の式陣が、確かに見え隠れしている。その式の上に大木はどっかりと根を下ろし、立っていたのだ。
「あかねの言う事は最早、自明の理だな。あいつは式だ。間違いねえ!」
乱馬は大木の正体を見限った。
「でもよ、何で樹があんな大木を使役してんだ?一言主が寄り付いてる爺さんなら、式神を自在に扱えるだろうが…。あいつ、まだ修行中の身の上なんだろ?小角様だって、相当修行を積んだ上で、俺たちを式神として束縛し使役させたんだぜ?」
乱馬は前鬼の記憶から素朴な疑問を感じたのだろう。そんなことをあかねに言った。
式神を自在に使役する事は、陰陽道や修験道でも、かなり高等なテクニックとされていたのを不思議に思ったのだ。あんな、十六やそこらの現代の小娘に使いこなせる術(わざ)なのかどうか、疑問があったからだ。
それに対してあかねが答えた。
「知らないわよ!でも、樹君って幼少の頃からかなり修行を積んだんでしょ?それに、彼には小角様と同じ根元の血が流れてるんでしょ?だったら、少しくらいは、式を覚えていて、扱えたって不思議な事じゃないかもしれないわよ。」
「そらそら、動きが止まっていると、妖木の餌食になるぞ!」
神足が笑いながら畳み掛けてくる。
彼の言葉どおり、樹の使役する呪木は容赦なく、乱馬たちを攻撃してくる。
足元の地面が、奴の枝にえぐられて、ばっくりと裂けた。すんででそれをかわす。
「ほら、乱馬。ぐだぐだと考えてる暇なんてないわよっ!」
あかねが叫んだ。
「ああ、そうだな。あいつが式だったらば、闘い方は一つ。」
乱馬の表情が鋭くなった。
「わかってる、任せて!あたしが、囮(おとり)になってあいつらの気をそらせるわ。」
「その間に俺は気を溜めて、一気にあの根元の式陣をぶっ飛ばす。」
二人は、頷き合うと、その場を両脇に離れた。彼らの間に襲ってくる大木の枝葉。
あかねは身を翻し、ざっと、妖木の前に立ちはだかった。
まるで己を狙い打てと言わんばかりにだ。
「あかね、頼むぜ!」
乱馬はそう心で叫ぶと、体内の気を一気に右手の金剛杵へと集めていく。密教具を介することで、破壊力を数段増させる。そんな手段に出たのである。
一瞬、妖木が戸惑ったように戦慄いた。
だが、次の瞬間、あかね目掛けて、枝葉がまとまって襲い掛かって来た。
乱馬は狙いを定めて、樹の操る妖木の根元へと、「猛虎高飛車」の大きな気弾を打ち込もうと身構える。
だが、彼が狙いを定めたその時だ。
遥か後方から、一発、別の気弾が妖木目掛けて打ち込まれた。眩いばかりの気弾が、どこからともなく飛んできたのだ。
ババンッ!
乱馬とあかねの目の前で赤い光が弾けた。
思わずバランスを崩して、あかねは後ろへと薙ぎ倒された。
「なっ!」
撃とうとしていた気を収め、思わず乱馬は、気弾が飛んできた方向を振り返った。
木刀を振り下ろした格好でそいつは、そこに立っていた。
「く、九能先輩?」
その姿を認め、思わずあかねの口が動く。咄嗟に受身を取ったので、怪我はなかったようだ。
「いや、違う、姿は九能だが、気は奴のもんじゃねえっ!」
乱馬が叫んだ。
「たく、まだまだそんなんじゃ、樹の操る妖木すら倒せませんよ。お二人さん。」
そいつは、九能の顔でにっと笑った。
「おまえ…。その気は、小寒だな。」
神足爺さんが、唸るような声を張り上げた。
「小寒だって?」
乱馬ははっとして、九能を見返した。
確かに、覚えのある気を背負って、九能はそこに立っていた。九能よりも数段強い、強固な気。
「いかにも、俺は小寒だよ、神足爺様。」
そいつは不敵な笑みを浮かべ、笑い返した。
それから、そいつは、さっとあかねの元へと駆け寄った。そして、あかねの身体を抱き上げると、パンパンと彼女についたホコリを払った。
「こらっ!おめえっ!俺の役を取るな!俺の役を!」
思わず、乱馬が大声を張り上げた。
何人たりとも、あかねに気安く触るな、と牽制の声を張り上げたのだ。
「おまえ、今頃、のこのこ、何しに現れよったのだ?しかも、見慣れぬ男に憑きよって!」
神足爺さんが、怪訝な顔を小寒に差し向けた。
「ふふふ、一言主との、永年にわたる因縁に決着をつけるために、私は来たのだ。賀茂の役を継承せし、修験者の勤めとしてなっ!」
「このワシと勝負すると言うのか。ほっほっほ。役ではないが賀茂氏の中でも、人一倍、修験の超力が強いこの長老のワシと。面白い!相手してやろうか!」
神足が身構えながら、にっと笑った。
「悪いな…爺様。俺は爺様を相手する気は全くないんだ。」
小寒はそう吐きつけると、表情一つ変えないで、さっと木刀を前に突き出す。そして、そのまま、振りかぶり、神足へ切っ先を振り下ろした。一刀両断されるように、爺さんを斬る。
勿論、それだけではなく、何やら爺さんの周りの空をも、一緒に降り乱しながら、斬っているように見えた。
ブツン、ブツン。
小寒が九能の身体を借りて、空を斬るたびに、何か、ピンと張った琴糸でも切れるような音がした。
「貴様…。何を…。」
真正面から切り捨てられて、爺さんが小寒を睨んだ。真剣ではなかったが、爺さんはそのまま前に崩れるように倒れこんだ。最初の一撃が当たったのだろう。
「な?」
慌てたのは、乱馬とあかねであった。
それは、見事なくらい「一瞬の技」だったので、成すすべも無く、ただ、見入っているだけだった。
「小寒?てめえ、一体…。」
乱馬が口を開いた時、小寒がにっと笑った。
「何、殺してはおらん。ただ、傀儡糸(かいらいし)を斬ったのよ。」
そう言い放った。
「傀儡糸?」
乱馬は聞きなれぬ言葉に、思わず問い返す。
「ああ、そうだ。一言主が神足爺様を操っていた糸を斬った、ただそれだけだ。」
小寒は即座に答えた。
「一言主が爺さんを操っていた糸だって?爺さんの中に、一言主が憑依してるんじゃねえのか?」
乱馬ははっとして、小寒を見返した。
「ふふふ、違うね。確かに、神足爺様を依代にしていた事もあったかもしれないが、あくまでも仮憑依だよ。今は、そこに居るっ!」
小寒ははっしと樹を睨み上げた。
はっとした樹はその場を動こうとした。
だが、それよりも早く、小寒は九能の身体を翻し、更に踏み込んだ。
「我、汝、一言主を樹から引き剥がさん!ア・バ・ウン!!」
腹の底から沸き立つ掛け声と共に、小寒の身体から気が弾け飛んだ。
その気から逃れようと、妖木の上から身を翻した樹だったが、一瞬遅く、小寒が解き放った気につかまった。そして、みるみる気は光を発し、樹の身体を、呪縛するかのように、包み込んだ。
「わああああああっ!」
甲高い樹の声が響き渡る。
ビリビリと辺りが共鳴した。
小寒は両手を前に、人差し指を突き立て、まるで、呪文を唱えるように、ぐぐぐっと力を込める。
「はああああああっ!」
くわっと目を見開き、まるで念力を使うように、気を放出していく。
「うわあああああっ」
樹の身体が空で戦慄く。
小寒が放った気に翻弄されるように、身を任せる。
「ア・バ・ウン!!」
更に力をこめて、小寒が言い放った。
と、喘ぐ樹の口から何かが飛び出したように見えた。どす黒い煙上の物体。樹はそのまま空で、気を失う。
一方、煙は樹の身体から抜け出ると、あろうことか、小寒のすぐ脇で佇んでいた、あかね目掛けて真っ直ぐに飛んだ。
はっとした、あかね。逃げようと及び腰になったが、小寒が手を伸ばし、あかねの身体をがっとつかんだ。
「一体何を!」
あかねがそう口にした途端だった。
一瞬、にやりと笑った小寒は、そのままあかねの肩をつかむと、空を彷徨っていた、黒煙の方向へ差し出した。
ふらふらと黒煙は、惑うように、真っ直ぐにあかねの身体へと方向を定めた。
「この乙女の身体へ入れ!一言主!ア・バ・ウン・ナウマク!」
誘いの真言を、小寒は唱えた。
「いやああっ!乱馬あっ!」
あかねの悲鳴と共に、黒い煙は、彼女の身体へと口から吸い込まれるように飲み込まれて行く。
ほんの一瞬の出来事だった。
「てめえ、何をっ!」
慌てた乱馬が、だっとあかねの傍に駆け出そうとしたが、見えぬ壁に阻まれた。
「結界!?」
いつの間に張られたのか、小寒の身体の周りに、結界陣が現れる。その陣によって、乱馬は寄せ付けられず、後ろへと跳ね飛ばされた。
結界の内側から、小寒がにやりと笑った。九能のそれとは違った、寒々とするような笑いだった。
「一言主を召し取ったぞ。」
そう静かに言い放った。
あかねは、彼の傍でびくびくと震えている。黒い霧を飲んで、ショック状態になっているようだった。
「ア・バ・ウン・ソワカ!」
再び叫んだその真言。
と、今度はあかねの身体が淡く光り始める。
「あかねっ!」
乱馬ははっとして、再び、彼女の元へと駆け出そうとした。
だが、身体がその場に張り付いたように動けない。
彼の足元にも、結界陣がぱああっと現れた。いつの間に張り巡らされたのか、その結界陣によって、己の動きが封じられ、金縛りされているように思えた。
尋常な沙汰ではなかった。
味方だと思っていた小寒が敵に取って代わった瞬間だったかもしれない。
「てめえ…。あかねに何をしたんだっ!」
乱馬は溜まらず、激しい言葉を、小寒へと差し向けた。
「ふふふ、魂移しだよ。」
「魂移しだと?」
乱馬はせっつきながら小寒に叫んだ。
「樹を依代に憑依していた一言主の御魂を、あかねとやらに、移した。」
「ふざけるなっ!何のためにそんなこと!」
乱馬は今にも飛び掛らん勢いで、叫んだ。
「何のためにだって?決まってるだろ、一言主を、今度こそ完全にこの世から抹消するためだよ。」
冷たく言い放つと、小寒は、すいっと人差し指を高く差上げる。
と、それに連れて、さっき、あかねと玄馬が吐き出された「魔宝珠」がすうっと浮き上がってきた。
「ア・バ・ウン・バン!」
無表情で解き放たれた言の葉に、あかねの身体がふっと浮き上がると、再びその魔宝珠の中へと、飲み込まれていった。
「あ、あかねーっ!てめえ、あかねをどうするつもりだっ!」
乱馬は動けぬ身体を精一杯に巡らせて、怒鳴り散らした。
「魔宝珠の中、一言主を飲み込んだまま、永遠の闇の眠りへと就く。決して目覚める事の無い、な…。」
「畜生!あかねーっ!」
虚しく、乱馬の叫び声が、闇の中へとこだました。月明かりに洗われるように、あかねを飲み込んだ魔宝珠は美しく光り輝いていた。
つづく
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