第十六話 憑依


一、


 月が赤く血の色を呈して、山端から顔を覗かせている。
 太陽の輝きは既に、大阪平野の西の端に沈みきった。


 その月を見ながら、葛木山に登る人影が二つ。

「本当の本当に、こっちで良いのか?佐助よっ!」
 横柄な態度をとりながら、暗がりの山道を駆け上がる若者。頭には懐中電灯付きのヘルメット、それに手には木刀。そして、スニーカーに剣道着姿という、何とも表現し難い滑稽な格好。個性的な彼の横を、もう一人、こちらもまた、忍者装束で走る年齢不詳の小柄な男が居た。
 そう、九能帯刀とそのお家番忍び、猿隠佐助だった。
「えっと…。なびき殿に貸してもらった、尾行用の小型発信機は、こっちを指し示しているでござるよ。」
 佐助は、小型の傍受機らしきものを手に、先に立って夜道を駆けて行く。二人とも、そこそこのスピードで山道を駆け上がる。
「たく、おさげの女めっ!怪しげな修験者と一緒に、こんな暗い山へ入るとは…。」
 九能は、ブツブツ言いながら佐助の後に従う。
「修験者とはいえ、生身の人間、襲われたらどうするつもりなんだ?」
 佐助に尋ねるように話しかける。
「あの…。その辺りは大丈夫そうでござるよ。」
「何が、大丈夫なものか!男は狼ぞ!修験の厳しい修行中の身の上とて、おさげの女の愛らしさに触れたら、人っ子一人居ない、この山で、間違いが起こるかも知れぬだろう!」
「だから…。樹殿は男ではないでござる。」
 佐助は、訳のわからない事を吐き付けてくる九能に向かって、思わず、苦笑しながら言い返した。
「な、何?今、何と言った?樹が女だとお?」
 九能は驚きの声を張り上げる。彼もまた、樹を男と思い込んでいたようだ。
「はい…。なびきさんの言うには、家のしきたりに従い、男装して修行しておったようでごじゃりますが。」
 佐助は先を急ぎながらも答えた。
「おおお!樹が女と!…ならば、余計に、過ちがあってはいかん!」
 九能は、いきなりスピードを上げる。前を行く佐助を、ずいっと追い抜いた。
「帯刀様?」
 佐助はきょとんと九能を見る。
「何でござりますか?その「過ち」とは!」
「女同士の危ない道に入ってしまってからでは、引き返せぬだろうがっ!」
「はあ?」
 佐助はますます、わからんという顔を九能に差し向けた。
「だからその…。男装した女とおさげの女と、こんな山中で二人きりにされたら、さぞかし、危なっかしかろうがっ!夜盗に襲われたらどうする?昨今、物騒だぞっ!」
「そ、そうでござろうかあ?お二人とも、強そうでござるが…。それに…。夜盗など、今の世の中、こんな山中に居るとも思えないのでござるが…。」
「ば、バカッ!例えばの話だ!とにかく、急げっ!佐助っ!」
「は、はいっ!」
 いきなりスピードアップした九能を、佐助は、ハアハアと息を切らしながら、追いすがる。



 実は九能は、乱馬と樹が葛木山に入ってから、突然、目が覚めたのだ。それまでは、樹のかけた方術で、良いように眠らされ、意識を失っていたのだが、樹が居なくなってしばらくすると、ぱっちりと目を見開いた。
 が、この男、目を開くと、「おさげの女はどうした?」としつこかった。
 元々、おさげの女、もとい、女乱馬とドライブするつもりで練馬を出て来た。それだけに、何故、奈良と大阪の県境にそびえる「葛城山系」に居るのか、納得がいかないのも、当然といえば当然だったろう。
 あまりに、ガタガタうるさいので、なびきが仕方が無いかと言わんばかりに、こんな事を言い出したのだ。

「あたしなら、あの子たちが何処へ行ったかわかるわよ。」とだ。

 渡りに船とはこのことだ。それを聞いた九能が黙って居よう筈が無い。

「教えろっ!あの二人は、この僕を差し置いて、どこへ行ったというのだ?」
「葛城山中よ。何でも、樹君の身内に会いに行くと行って、さっさと登って行ったわ。」
 ややこしい説明は省いて、端的になびきが言って聞かせた。
 それを聞いた九能は、迷うことなく「よし!僕も行く。」と言い出した。
「九能君…。行くって言ったって、あの山は広いよ。どの道を行ったかもわからんよ。ここは静かに待っていた方が良いのでは無いかね?」
 早雲が大人らしい意見を吐いたが、一度言い出したら聞かないのが九能だ。
「佐助っ!何とかしろっ!」
「そんなことを言われても、無理でござるよ。」
 詰め寄られて、たじたじとなった、佐助を尻目に、なびきは更に畳み掛ける。
「だから、あたしならわかるって言ってるじゃない。」
 そう言いながら、懐から小さな機械を九能へと差し出したのだ。

「そうねえ…。片手くらいで手を打ってあげるわ。」
 と、いつもの如くの態度に出た。

「こら!天道なびき!ここまで連れて来てやったのは、この僕だぞ!それではまだ足りぬと、金をせびり取るつもりか?」
 思わず、唾が飛ぶ。

「あら、実際に連れて来てくれたのは佐助さんよ。九能ちゃんはずっと寝ていたでしょうが。」
 とにべもない。
「寝ていたのでは無い!寝かされていたのだっ!」
 思わず上がる、九能のテンション。それをすっとすり抜けるように、なびきは続ける。
「これ、何だかわかる?」
 とにっと笑いかける。
「何だ?何かの機械のように見えるが…。」
 九能はちらっと振り返る。
「ふふふ…。予め小型の発信機をおさげの女に取り付けておいたのよ。こういうこともあろうかってね。」
 にんまりと笑うなびきの言葉に、九能は食らいついた。
「ということは、この機械の表示を辿れば…。」
「あの子達の居所がわかるわ。」
「ということは、おさげの女を見つけることができる、ということだな?」
 九能は真顔でなびきに向き合う。
「発信機が外れていなければ、ね…。どうする?片手であたしは折り合ってあげるけど。」
 なびきの守銭奴も、ここまで来れば、立派なものだ。父親の早雲も、佐助も呆れ果てて、何一つ言葉も返せない。ポカンと口を見開いたまま、九能となびきのやり取りを見ていた。

「そうそう、あの子たち、あかねも探すって言ってたから、もしかすると、この発進先に、あかねも居るかもしれないわよ。」
 最後にそう吐き出した。

「何?あかね君も一緒に居るだとお?乗った!それを使うぞ!天道なびき」

 これで、九能の腹は決まったらしい。彼のしてみれば、あかねとおさげの女がセットで居る事で、指針が定まったのである。

「今は持ち合わせが無いから、東京に帰ってからとなるが…。」
「ま、九能ちゃんとあたしの仲だから、いいわ、つけといたげる。」

 とんとん拍子に話がまとまり、九能はなびきから機械を受け取り、一目散、山へと入ったのであった。


 どのくらい、機械の道案内を頼りに、進んできたろうか。
 デジタル技術の新化が激しい現代において、なびきが持っていた装置というのが、これまた優れもので、彼女たちが歩いた道が記憶記録されていて、それを頼りに、かなり正確に、足跡を辿れた。
 修験者しか使わない獣道も、簡単に辿れる。
 おそらく現在居るであろう、止まった一点に向かって、九能と佐助は葛城山中を登っていった。

「そろそろ、光が止まったままの所に近いでござるよ。表示では三百メートル先くらいでござるかな…。」
 佐助が九能を促した。

「帯刀様、あれ…。」
 佐助は崖下を指差した。
「おお!あれは…。」

 そこに出現したのは、壊れた祠。
 確かに乱馬と樹が辿った、封印の祠であった。

 二人は頷きあって、祠に駆け寄る。そして、そこに更に洞穴を見つけた。

「帯刀様。どうやら、おさげの女はこちらを辿って行ったようでござるよ。ほら、光もこの先で止まっているでござる。」
 佐助がじっと、洞穴を見ながら、そう告げる。
「どうするでござりまするか?あんまり気持ちの良い、洞窟ではござりませぬが…。」
 臆病風に吹かれたのか、佐助が躊躇しながら、九能に問いかける。
「決まっておるわ!おさげの女を求めて、参るぞ!佐助っ!」
 そう言うや否や、九能は先に飛び込んで行く。
「帯刀様…。そんな、急に駆け出したら危ないでござるよ!」
 慌てて、佐助も後に従う。怖いなどとは言っては居られない。お庭番として主人に付き従うことを余儀なくされている身分。佐助は嫌々ながらも九能に従った。

「帯刀様っ!待って欲しいでござる。」

 暗闇の中、懐中ヘルメットで照らしながら注意深く降りていく。

 やがて、彼らは、地中深く、樹の許婚、小寒が陣を張って、根の国との結界を守っている場所へと出た。

 そこには、一人の男が洞穴の奥深く、座してじっと佇んでいる。しかも、乱馬たちを指し示した、「発信源」は、紛いも無くここだ。
 九能たちのカーソルと発信源が、機械の画面上に一つに重なった。

「遅かったではないか…。」
 小寒は九能たちを背後に感じながら、吐き出した。

「貴様!何者だ?おさげの女やあかね君はどうした?」
 九能は、見るからに怪しげな修験僧に向かって、吐き付けた。
 九能の傍で、佐助が心配げに、こそっと覗き込む。

「俺か?俺は役小寒。樹の許婚だ。」
 そう小寒は答えた。張りのある大きな声だ。

「樹の許婚だと?」
 九能は目を剥きながら、小寒に対した。
「ならば、おさげの女はどうした?それに、肝心な樹も居ないでは無いか!」
 九能が吐き出した。彼にしてみれば、今までの経緯は全く見えない。乱馬たちが何の目的でここまで来た形跡があったのかすら、闇の中だった。

「たく…。うるさい奴だなあ…。せっかく、用があったから呼び寄せたのに…。」
 小寒が背中越しに笑った。
 その態度に、九能が切れた。元々、短気な性格だ。大人しく、話しを聞く気も持っていなかったのだろう。

「貴様っ!」
 そう叫ぶと、持っていた木刀を振りかざして、小寒に切り付けにかかった。

 と、その時だ。
 洞窟全体がわあっと戦慄いたように見えた。
 九能の足元から、光が立ち上ってくる。そいつに、包まれるまで、まばたきする暇ほどもかからなかった。

「えっ?!」
 
 佐助がはっと思った瞬間、九能の動きが止まっていた。光に照らし出されて、口と目を見開いた上段の構えのまま、九能は固まってしまったのだ。

「た、帯刀様っ?」
 佐助が驚いて、腰を抜かした。そのまま、尻餅をペタンとついて、時を止めてしまった主人を見上げる。

「うろたえるなっ!別に、悪いようにはせん!」
 佐助の目前で、相変わらず、向こうを向いたまま、小寒が話し掛けた。

「うろたえるな、と申されましても…。」
 すっかり混乱した佐助が、しどろもどろに小寒に言った。

「佐助さんとか言ったかね?君たちをここへ呼んだのは、俺なんでな。」
 小寒はあらぬ事を口にした。

「おぬしが、みどもらを呼び寄せたですと?」
 佐助はきょとんと声を張り上げた。

「ああ…。どうしても、「依代となる器」が欲しかったからな…。適当なところで、君らを呼び寄せたんだ。」

「依代?」
 何のことだと、佐助がきびすを返した瞬間、佐助の目の前の九能が眩く光り輝いた。
 目を見開いては居られないほどの、激しい光の洪水。
 たまらず、佐助は手をかざした。
 何か、光の中で蠢いたような気がした。

 やがて、光がおさまると、佐助の前に、再び、躍動し始めた九能がすっくと立っていた。

「帯刀様っ?」
 佐助は、はっとして、九能を見上げる。何となく、いつもの九能と、様子が違うように見えたからだ。

「ふふふ…。なかなか強靭な身体だな、こいつは。」
 ふっと笑いながら、九能が言葉を吐き出した。

「え?」
 佐助は、ぎょっとして、九能を見た。



二、

 ざわざわと、辺りの風が一気に佐助の上を吹き抜けていった。湿気を含んだ、不気味な風だ。
 彼の前を九能がゆっくりと立ち上がった。

 少し先で座っている小寒が、くるりと見向きもせず、叫びだした。
「こらっ!貴様っ!何のつもりだっ!この僕に何をしたと言うのだ?」
 こちらも、何だか様子がおかしい。
 声色は小寒そのままだが、言葉尻が九能のそれと似ていた。

「帯刀様?…小寒殿?」
 佐助は二人を見比べながら、声をかけた。

「佐助っ!そいつを倒せっ!ふざけやがって!身体を取り替えよったのだ!」
 小寒の身体が叫んだ。

「えええええっ?身体を取り替えるっ?」
 佐助は大きな声を張り上げた。

「ま、そう言うことだ。」
 九能の身体を借りたらしい、小寒がそう答えた。

「な、何で、そんな、恐ろしい事を…。」
 佐助の問いに、九能の身体に乗り移った小寒が言った。
「借りるにしても、もうちょっと別の身体の方が良かったんじゃないでござるかあ?早雲殿とか…。帯刀様の性格まで乗り移ったらどうするでござるか。」
 佐助は辺りに聞こえない声で小声で呟いた。

「俺の身体は結界の防護と連動しているんでね…。ここから離れるわけには行かなかったんだ。離れられないとなると、取るべき方法は一つ。誰かの身体に憑依して、動き回るしかない。」
 九能の身体でにんまりと笑った。

「こら、僕の身体をどうする気だ?貴様っ!」
 後ろ向きのまま、小寒の身体の中から九能が叫んだ。どうやら、動けないらしく、こちらを見向く事もしない。

「何、少しの間、依代として、私が使わせてもらう。どうしても、樹を追って、二上山まで行かねばならんのでね。」
 小寒が九能の中から言った。

「やっぱり、樹殿絡みでござるか…。で、どういうことでござるか?小寒殿…。説明お願いしたく…。」
 おろおろしながら佐助が問い質す。

「私は身体を張って、その場所で「根の国」との結界を守っていたんだ。」
「根の国でござるか?」
「ああ、妖怪の巣食う魔の国とでも言うのかな。人間界とは異質の世界がそこの向こう側にある。」
「はあ…。」
 じっと、岩壁の方を見据える佐助。
「元々、人間界と根の国は強靭な結界で閉じられているんだ。だが、一言主のせいで、結界が解き放たれようとしている。」
「異世界との結界でござるか…。わかったような、わからぬような…。」
「個々の結界が崩れると、人間界に魔物が入り込む。そして、二つの世界の均衡が崩れると、世の中に禍が溢れ出す。そうなれば、人間界は混乱をきたす。いや、それだけではない、聖なるラインが崩れると、激しい地殻変動が日本を襲う。そうなれば、百万単位で、いや、一千万単位で人が死ぬ。」
「で?」
「私の身体はそのまま、ここで結界の崩壊を護らねばならない。だが、一方で二上山で異変が起こっているんだよ。乱馬君や樹だけでは、収拾がつきそうもない異変がね。それで適当な身体の持ち主をここへ招いて、そいつに、乗り移る事を思いついた。あとは、時が至り、一気の放った呪縛が解けた、この男を引き寄せたというわけだ。なびき君が付けてきた、発信機を使ってね。」
 そう言いながら、辺りの地面をまさぐる。と、小さな発信機が見つかった。

「どうやって、発信機を使うようになびき殿を手引きしたのでござるか?」
 あんぐりと、口を開いたままの佐助に、小寒は笑いながら答えた。
「何…。私は樹と術で繋がっていたんでね…。発信機を使うように、樹に勧めさせた。」
「そ、そんな事をさせていたのでござるか…。恐るべしでござるな…。で、帯刀様はどうなさるおつもりで?」
 背後で叫びまわっている小寒の身体を尻目に、佐助は小寒に問いかけた。

「何、悪いようにはせんよ。暫く、俺の身体に入っててもらって、ここで共に結界を護ってもらう。まあ、いわば、「魂替え」だな。」

「玉替えでござるか?まるでパチンコのような言葉でござるなあ…。」
 思わず苦笑いする佐助。

「ははは、パチンコとは字は違うぞ!さて…。こうしてはおられんな。悪いが、佐助とか申したな。おぬし、ここで私が戻るまで、この男と共に、ここで結界を護っていてはくれぬか?」
 小寒が頼み込んだ。
「乗りかかった船でござるしな…。人の世の運命がかかっておるのでござろう?お安い御用でござるよ。帯刀様とここで結界を見張っているでござる。」
 佐助はコクンと頷いた。

「悪いな…。あの男、私が戻るまでは、この場を動けぬ。ただ、朝日が登りきる前までに帰れなかったら、この結界は崩れる。その時は、あの男を背負って逃げろ。」
「逃げるのでござるか?」
「ああ…。最早その時は、安全な場所などなくなっているかもしれぬがな…。勿論、そうならないように、この男の身体を借りたのだがな。」
 小寒は言った。その表情は険しい。

「ここは、任せて、早く行ってござれ!おさげの女や樹殿が待っておられるのでござろう?」

「悪いな…。そう言うことだから…。しっかり、結界を護ってくれ。じゃあな。」
 たっと九能の身体で手をあげて、立ち去る。

「お気をつけて…。」
 佐助に見送られて、小寒は九能の身体を借りたまま、その場を離れた。

「こらっ!僕をこのまま残していく気かっ!貴様あっ!!」
 九能の怒声が洞窟中にこだまする。
「中年親父の身体など、気色悪いぞっ!要らぬわーっ!戻せっ!戻さぬかーっ!!」
 描かれた式陣の上、じっと座禅させられたまま、九能は小寒の身体で叫び続けた。

「帯刀様…。仕方がないでござるよ。人の世の未来がかかっているのでござるから。しかし、なかなか面白いでござるな…。帯刀様の方が、今はみどもよりも年上でござるからなあ…。」

「感心してないで、何とかしろっ!佐助ーっ!」

 洞窟の中、九能の怒声が響き渡っていった。



 一方、こちらは深遠たる山の中。二上山雄岳。
 乾いた晩秋の山肌に、ガサガサと枯葉をすくい上げながら、風が吹き抜けていく。
 昼間はそれなり登山する人が居た二上山も、闇に包まれてしまうと、静まり返っていた。雄岳山頂付近にある、葛木坐二上神社がひっそりと建っている。勿論、人影一つない。
 澄んだ夜の空気とは裏腹に、怪しい雰囲気の山上。
 明りなど無いのに、薄っすらと仄かに明るい。 吐く息も白く浮かび上がる。
 神々しいというよりも、妖気が漂っていると言えそうな辺り。

 少し広まったところに、それは築かれていた。

 一言主に命じられるままに、樹が描いた式陣。
 禍々しいほどまでに、妖気を放つ、光の式陣だった。
 その中に、横たわるうら若き女性。じっと、天上の月を仰ぐように、仰向けに横たえられている。
 じっとそいつを見詰める、獣の瞳。
 玄馬の身体に乗り移ったそいつ。人間の見てくれが残ってはいるが、鬼のようにギョロついた目、白い道着からむき出した赤い肌、頭に巻いた手ぬぐいと目にかけられた曇った眼鏡が、返って不気味さをかもし出している。
 口をぽっかりと開き、荒々しい息を吐き出す様は、犬のようだ。
 口からはヨダレがだらりとしだらなく垂れる。
 一言も人間の言葉を話さない。
 ただ、彼の視線の先に捕らえられるものは、あかね。

「さて、邪魔が来ぬうちに、始めるとするかのう…。樹よ。」
 神足にがゆっくりと口を開いた。

 彼の前には、白い修験装束を身にまとった樹。彼女もまた、中性的な雰囲気をかもし出す、妖艶な色香に満ちている。月明かりに照らされる、白い肌は、あかねのそれにはかなわぬまでも、美しく輝いていた。
 彼女はすいっと前に歩み出る。
 手には玉串を持ち、何やら儀式を始めるような雰囲気であった。

「前鬼の御魂をその娘に降ろせ…。おまえの懐にある、黒くくすんだ独鈷。ワシの黒い気で洗い流したその、独鈷を、あの娘の胸に置くのじゃ。」

 その言葉に、コクンと頷くと、樹は神足の指示通り、ごそごそと懐をまさぐった。取り出したのは、生駒山で見つけた、あの独鈷だった。

「ふふふ…。予め、この後鬼の独鈷は、ワシが掘り起こして、汚しておいたわ…。これから始まる「見世物」のためにな…。」
 爺さんはにやりと笑った。

 確かに、樹が取り出した独鈷は、黒くくすんでいた。
 乱馬がこの独鈷を見たとき、感じた「陰鬱さ」もあながち、見込み違いではなかったのだ。

「さてと、奴が来る前に、その娘へ前鬼を降ろすのだ。」
 神足は樹を促した。
 樹はそれを受けると、呪文を唱え始めた。

 彼女の呪文に、式陣が、ぶわっと反応し、美しく輝き始める。

「さあ、急ぐのじゃ。奴が来る。」
 神足が、樹を急かした。







 乱馬は、真っ直ぐに、葛木山から空へと飛翔した。
 暗い闇の中、人間には認められぬよう、空気と同化して、立ち上る。
 身体は空行く鳥でもなったかのように、軽い。
 羽など無くても、自由闊達に、空を動き回れる。

「ひゃっほー!凄えやっ!」
 思わず、感嘆の声が漏れる。
 前鬼の能力の中から、飛翔法を引き出したのだ。
 勿論、己の力で空を飛ぶなど、生まれて初めてだった。
「己の力で飛ぶってのが、こんなに気持ち良いとはなあ…。」
 つい、己の新しい能力に、嬉しがる。山の向こう側に見える、大阪の街の光が、イルミネーションのように目に飛び込む。

『人間界も変わったな…。夜の世界がこんなに明るくなってるなんてよ…。』
 乱馬の心の中で前鬼がそんな言葉を吐いたような気がした。

「ふうん…。大昔の空はこんなに明るくはなかったのか…。ま、当たり前って言えば当たり前なんだろうけどよ…。」
 大阪は日本でも有数の大都会。人の生活が闇夜の中でも浮き上がる。その光の強さに、改めて、人の世の進歩を思う。

「人の文明は、日進月歩。前鬼、おめえが暴れまわってた時代から、千三百年で、人間は夜の世界をも手に入れたんだ…。勿論、闇に対する畏敬の念なんて、大昔に忘れちまったかもしれねえけどな…。でも、自然の脅威の前には、人間とて小さな存在なんだ。その手で創り出した文明に翻弄される如く、戦乱だって絶えねえ…。
 恥ずかしい話だぜ。人間は千三百年前と、何ら本質的なものは変わっちゃいねえんだ…。戦乱だってなくなったわけじゃねえ。今も世界のどこかで殺し合いは続いている。
 夜の闇を照らす文明の利器を手に入れても、何らな…。」

 
「でも、数ある政争や戦乱、そして自然と闘いながらも、作り上げてきた、あの光を消しちゃいけねえーよな…。」

 乱馬は誰に呟くでもなく、そんな言葉を吐き出す。

「だから…。一言主のやろうとしてることを、見逃すわけには行かねえ…。おめえの主、役小角が、思っているようにな…。だから、俺を選び出して、おまえを魂降ろしさせたんだろ?」

 ヒョウヒョウと風は乱馬の頬を掠める。
 たしかに、そのとおりだと、返答しているかの如く。

「おっと、こうしちゃあ、居られねーや…。一言主の奴が、あかねと樹をさらって、何をしようとしているかは知らねーが、奴の思い通りにさしちゃ、いけねえ…。急ぐぜっ!」

 誰に向けて言うでもなく、乱馬はそう吐きつけると、二上山目掛けて、飛び始めた。


 

 乱馬が、二上山を目指している頃、葛木坐二上神社の社辺りでは、異変が起ころうとしていた。
 樹が一言主の命じるままに、あかねへと、術を施したのだ。
 
 あかねの下に描かれた式陣が、ドクンと戦慄いた。
 と、同時に式陣が、一瞬、明るく光り輝いた。
 あかねの身体が、その波動と共に、ドクンと一つ跳ね上がる。

 
「そら、始まる。目覚めが始まるぞ!」
 一言主が嬉しそうに叫んでいた。
 





『あかね…。』
 どこか遠くから、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
『あかね…。』
 また、その声はあかねを呼ぶ。

「誰?あたしを呼ぶのは…。」
 あかねは、眠ったまま、意識を巡らせて、その声に反応した。

『あかね…。あたしはあなたの中に居る。』

「あたしの中?」
 あかねは不思議そうに、その声へ返答を返していた。

『ほら、感じるでしょう?あなたの心の奥にある、光…。』
 その声は誘うように言った。

 あかねは全身を目にして、己の心をまさぐった。
 確かに、仄かに揺れる光が、心の底に見える。
 ゆらゆらと照らす、小さなともし火。

『来て!あかね!あたしはあなたに伝えなければならない事がある…。』
 声はあかねを誘った。

「え?」
 突然そんな事を言われたって、あかねには事の仔細が飲み込めない。
 当然、戸惑いを隠せず、そのまま、そこへ立ち尽くすように、意識を止める。

『あいつらの陰謀を断ち切るために!あなたの世界を守るために!さあ、早く!』

「あたしの世界を守る?」

『そうよ…。だから、早く!こっちへ来て!』

 強い力が、あかねの体内から、浮き上がってくるような錯覚に囚われた。
 あかねの意識は、否応なしに、浮き上がってきた「それ」に向かって反応をはじめていた。

『さあ、あかねっ!あたしの、後鬼の記憶を受け取って!』

「後鬼?」

 そう問い返した時、ぐいっと、彼女にに強く手を引かれたような気がした。
 その手はあかねの方へ伸び上がり、引っ張った手にゆっくりと重ねられる。

 と、その時だった。
 あかねの思考の中に、物凄い勢いで、、彼女の様々な「記憶」が溢れ出した。

「なっ!」

 それは、凄まじい情報の洪水だった。よどむことなく、一気に脳内を駆け抜けていく。それだけではない。あかねに対して、様々な事を示唆した。

「ねえ…。これ…。あなたの記憶なの?」

 あかねの脳内を、これでもかと流れ来る、他人の者の壮絶な記憶。

『そうよ、あたしの、後鬼の記憶。』

「後鬼…。あなたは後鬼と言うの?」
 あかねはそれとなく、記憶の主に語りかける。
 ぼんやりと、脳内に浮き上がった、一人の女がコクンと頷いた。
 それは、あかねの中に入り込んだ「後鬼」のものであったのだ。

『この記憶を受け継いで。そして、奴らの野望を打ち砕いて!前鬼がもうすぐ、ここへ来る。彼と共に、闘うのよっ!あかねっ!お願いっ!』

 あかねに重ねられた手から、物凄い勢いで「光」が湧き上がってきた。眩いばかりの神々しい光。
 それに包まれながら、あかねは、ゆっくりと意識を取り戻していく。
 そして、じっと閉じていた瞳が、だんだんに見開かれていった。



つづく



(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。