第十五話 古の因縁


一、

 日が西の山肌に傾きかけた頃、だんだんに湿っぽい冷気が降りてくる。

 ひたっ、ひたっと、どこかで水滴の滴る音が響く。
 ザザザザッと鳴る枯れ枝。

「うっ。」
 と小さく声を吐き出して、樹が目覚めた。
「こ、ここは…。」
 巡らない頭で辺りを伺う。
 どこか見知らぬ場所。
 薄暗い辺りを、心細く照らし出す松明の火。
 地面に倒れ付すように、横たわっていた。
 かけていたぐるぐる眼鏡は、どこかで飛ばされてしまったのだろう。今は、かけていない。
 だから、余計に、視界が良くきかなかった。
 ひんやりと何処からとも無く漂ってくる湿った空気。そのよどみに、思わず背中がぞくっとなった。
 霊的感知能力は高い方だ。役に仕える家系の身の上からすれば、当たり前だろうが、このような場所では、その能力すら鬱陶しくなる。
 いつも持ち歩く金剛杖は見当たらず、山伏様の服装も土で汚れていた。

「目覚めたか、樹よ。」
 少しは馴れた場所で、神足がじっとこちらを見据えていた。

「お爺様…。」
 そう呼びかけて、口をつぐんだ。
 爺さんのすぐ傍に、異様な人影を認めたからだ。
 虚ろな瞳を虚空へと漂わせ、ただ、「うー、うー。」と唸るような獣声を上げている、人影。一目見ただけで、異形だとわかるその風体。そいつは、まるで傍に侍る犬ころのように、神足の傍でうずくまっていた。
 その様子に、引きつけられ、神足への言葉を見失う。

(そうだ…。あれはお爺様ではない。)
 ぎゅっと手を握りこんだ。

「ほう…。目覚めても挨拶はなしか。」
 神足はそんな彼女を見て、くすっと笑った。
「まあ、良かろう…。貴様もすぐに、ワシに従うことになろうて…。」
 そう言いながらじっと樹を見据える。

「ボクは、あなたに従う気はありません。」
 きびっと樹はそれに対した。

「まあ、そう噛み付くな。何もおまえを取って食らおうなどとは思ってはおらぬ。可愛い、ワシの孫娘じゃからなあ…。」
 いやらしい瞳で樹の身体を舐め見る。いつもの優しくも厳しい一族の老、神足の影は、失せ、魔に魅入られた老人の姿がそこにあった。
「一言主、おまえボクをいったい…。」
「どうすると問いたいか?ふふ、まあ、当たり前の事じゃろうな…。ワシがおまえに望む事はがある。一つは後鬼の御魂をあの娘の中に目覚めさせることだ。」
 そう言いながら、暗闇の向こう側へ、視線を転じた。

「あ、あかねさん…。」

 爺さんが促した方向に、彼女は居た。
 薄衣を身にまとい、妖精のように光り輝く素肌。その抜けるような白い肌がまぶしい。
 だが、その身体に意はなく、膝を抱えたまま、宙へと浮き上がっていた。

「お爺様、いや、一言主、おまえ、あかねさんに何をしたのっ!」
 つい、語気が荒がる。

「ふふふ、何、後鬼を降臨させる器として選ばれし「器の巫」としての役割を担ってもらっただけのこと…。」
 一言主はにやりと笑った。
「まさか、あかねさんの身体の中に、後鬼の御魂を!」
 樹が叫んだ。
「ああ、入れてやった。」
 一言主はあっさりと認めた。
「何てことを!」
 樹は、はっしと一言主を睨み付けた。
「最早、この娘の身体は、後鬼の器として機能しはじめておるのよ。ほら…。あの美しい肉体、人間のものよりも、更に磨きがかかるほど、艶かしくそして光沢にあふれ出しておろう?こやつが、幽鬼の思い人でなければ、このワシが手に入れたいほどにな…。」
 一言主の瞳があかねを刺す。

 確かに、あかねの肌は人間のそれ以上に光沢を持ち、暗闇の中でも透き通るくらいに光り輝いている。ただ、まだ目覚めぬらしく、口も目も、しっかりと閉じられたままであった。

「器に入れた後鬼の御魂はまだ、目覚めてはおらぬ。目覚めの時を静かに、あの娘の身体の中で待っておるのだ。」

「その目覚めの手助けをボクにさせるつもりで…。」
 樹はきっと一言主を見やった。

「いや、それだけではない。もう一つ、おまえにやってもらいたい事がある。」
 ふっと一言主は笑った。

「もう一つですって?」
 おぞましきは、古代荒神の策略。

「おまえのその霊力で、こやつの中に潜む「幽鬼」の目覚めも促してもらいたいのじゃよ…。」
 一言主は傍の玄馬の頭を指差した。
 ガルル、ガルルと玄馬が唸っている。瞳は樹とは反対側のあかねの方をぼんやりと見詰めている。

「幽鬼…。一言主の使役した「式神」。あの、粗暴な鬼人、幽鬼の御魂が玄馬さんの中に居ると言うのですかっ?」
 ぐっと一言主を睨み付けた。

「幽鬼…。元は人間であった、哀れな男よ…。前鬼を見初めたばかりに、人たることを捨てた修験者の成れの果て…。」
 一言主は口元を緩ませながら、語り始めた。
「修験者のなれの果てだって?幽鬼が…。」
 はじめて訊くことだったので、思わず反応してしまった樹だ。
「こやつは、元は「韓国連広足(からくにのむらじひろたり)と申してな、大和朝廷の腹心、物部氏の出自よ。物部氏とは葛城氏と同じ根から出た実力者。大和朝廷に服し、八百万の神々を斎(いつ)きながら大和を治めてきた。 
 だが、朝廷はいつしか、大陸から渡って来た蕃神(ばんしん)、仏陀を崇め始めた「蘇我氏」に傾倒し、遂には、我々、国つ神をその下に併合しようとしたのだ。
 朝廷はいつしか、八百万の神をないがしろにし、祭祀にまで蕃神を取り入れようとした。それに危惧した物部守屋は、蕃神援護の急進派、蘇我馬子に挑んだのよ…だが、力及ばず、蘇我の軍勢に尽く破れた。」
「物部守屋の乱…。」
「そうじゃ。さすがに葛城氏の末裔、その辺りのことは凡人よりは詳しかろうて…。」
「爺様に話していただきましたから。」

「ふふ、神足が話しておったか。ならば、詳しく語る事もないだろうが…。おまえたちの知らぬ事を話してやろうか…。」
 一言主はゆっくりと樹に話し始めた。

 或いは、一言主の話を、聞き入れた時点で、樹は奴の「術」にはまっていたのかもしれなかった。
 一言主は、自分の知る逸話を、ゆっくりと畳み掛けるように語りはじめたのである。

「物部守屋の奴は、犬好きでなあ…。守屋に懐いていた雄犬が一匹おったのよ…。古代からこの国でも犬はたいそうに可愛がられた存在であってな、犬は猟犬にもなったし、勿論、番犬にもなった。何より、飼い主に忠実というところが、人間どもに気に入れられたのであろう…。
 守屋になついておったのは、栗毛の小ぶりの犬でな…。守屋が敗戦して死んだ折、犬が馳せ参じて、長きに渡って、守屋の亡骸の傍を離れなかったのよ。」
「それが、幽鬼とどう関係があるというんです?」
「大有りじゃ。まあ、黙って先を訊け!」
 一言主は樹の口を遮りながら続けた。
「雨が降ろうと、風が吹こうと、その犬は守屋から離れない。己が飢える事も気にせず、ずっと主が目を開くのを待ち続けたのよ。いじましいではないか。気の毒になったワシは、そやつの魂を今際の際に抜き取って持って居ったのよ…。まだその頃はワシも大和を滅ぼそうなどと、大それた事実行しようなどとは思っておらんかったでな…。
 やがて時が流れ、蕃神にうつつを抜かす人間どもを懲らしめようとしたワシは、ゆえあって小角と事を構えるに至った。それはおまえも良く知っておろう?
 一度目は惨敗じゃったわい。ワシの力を僅かに小角の霊力が勝っておったからな…。破れたワシは、虎視眈々と次の機会をうかがいながら、自分の法力を磨き始めたわい。嫌いだった仏神の力をも会得してな…。
 時が熟して二度目に小角に挑もうと考えが及んだ時、ワシは一人の男に出会ったんじゃ。名は「韓国連広足(からくにのむらじひろたり)」と言った。」

 一言主は、一言一句丁寧に繋ぎながら、樹に語りかけていく。
 樹も彼に対する怒りの矛先を収め、つい、その語り口調に聞き入ってしまっていた。

「韓国連広足が物部氏の血を受けていると知ったとき、ワシは小躍りしたぞ。
 広足は小角に弟子入りしながらも、浮かばれず、悶々とした日々を過ごしていたのじゃ。小角はその力に奢れ、弟子どもの修行には、一切目もくれず、面倒も見ようとしない。ましてや、その法力の一端も、弟子どもに伝授しようとしない。そんな愚痴をワシにこぼしよった。
 奴をそそのかしてやったのよ。『役小角の力はきっと、その禍々しい妖力で、奴は大和朝廷の転覆を目論んでいるぞ。』とな…。
 広足は驚いて、ワシの話に耳を傾けよったわ。すっかり信じて疑わなくなった。
 折りしも、大和朝廷も、小角に脅威を抱いておった。
 山岳に有りながら、だんだんに民間の人々の心をつかんでいく、修験行者、役小角の力。それは大和朝廷の連中にとって、脅威以外の何物にもなりえん。
 奴ら、朝廷の人間は恐怖心を抱き、小角を滅っする口実をつかもうとしておったのよ。
 それを利用してやったのよ。まっとうから小角に挑んでは、ワシも、歯が立たぬと踏んでおったのでな…。
 朝廷は喜んで、広足の讒言を受け入れたわい。
 そして、小角の母、白専女(はくとうめ)を捕らえ、争いごとを好まぬ小角をも召し捕った。そして、伊豆に流し、ワシはまんまとこの国から小角を引き剥がしてやったのよ。
 じゃが、小角め、ただでは起き上がらなかった。奴はこのワシが想像していたよりも遥かに強力な術者となっておったわ。遠く離れた伊豆からでも、ワシの術を破ろうと仕掛けてくる。
 終いには、互いの命をかけた「術合戦」になったわ。小角には前鬼と後鬼という鬼神が「式神」として従っておった。奴らは夫婦の約をしていた鬼どもでな、その強さは半端ではなかった。
 ワシは奴の式神に対処させるべく、一匹の式神を作ることを思いついた。
 そう、そのとき、守屋の犬の御魂のことをふと思い出したのじゃよ。」

 とうとうとよどみなく、一言主の昔語りは続けられていった。

「ふふふ…。ワシは広足に、この犬の御魂を植えつけてやったのよ。」

 一言主は強く言った。
「何だって?」
 はっとして一言主を見上げる樹の瞳。

「ふふふ、物部守屋と同じ血を引く、広足のことじゃ。犬の御魂は奴の中にすんなりと馴染んでいきよったわ。
 ワシは葛城の荒神や三輪の荒神の力を呼び覚まし、さらに、奴の中へと加えてやった。そしたら、どうなったと思う?そうじゃ、人間の英知と犬の忍耐強さを持ち備えた、強靭な「鬼神」が生まれよったのよ。」

 一言主は、にんまりといやらしく笑った。

「まさか、人間と犬の合成獣(キメラ)、それが、「幽鬼」の正体…。」
 はっとして、樹は傍らの玄馬を見た。
 ガルルルと玄馬は犬のような唸り声を上げて、ご機嫌そうに見えた。

「そう、おまえが察するとおり、幽鬼の正体は、犬の御魂を入れられた人間、広足の成れの果てよ…。奴がこの世から死す間際に、犬ころの魂を同化させてやったのよ。この世への生の執着と、そして、主を殺された犬の人間への憎しみと、うまい具合に、混ざり合いよった。
 それが、鬼神「幽鬼」じゃ。」

 ゴオッとどこかで風が鳴る音が響いた。不気味にそれは、樹の頬をなでていった。



二、


「人間に犬の御魂を…。何てことを…。」
 樹は嫌悪を顕にしながら、一言主を見上げた。
 一言主の昔語りは、余りにも衝撃的過ぎだ。

「幽鬼は面白いほど、新たな主である「一言主(ワシ)」に忠実じゃった。人間を食らえと言えば、老若男女見境無く食い尽くす、人家を焼き払えと言えば、その辺りが焼き尽くされるまでに激しく炎を撒き散らす。
 この鬼神を持ってすれば、前鬼や後鬼など、恐れるに足らず。ワシは信じて疑わなかった。じゃが…。」
 すうっと一言主は大きく息を吸い入れた。

「幽鬼め、人間臭さがどこかに残っておったのだろう。後鬼に情愛の念を抱きよったのよ。」

 そう言いながら、ちらっとあかねを見やった。
 あかねは、空の中を、浮き沈みしながら、膝を抱えて胎児のように漂っている。髪がさらさらと風に靡いた。光り輝く玉の肌が、傍らの玄馬の瞳の中に映し出される。

「これは誤算じゃった。まさか、敵に情愛を抱くとはな…。所詮、犬も人間も発情する動物。後鬼を見初めた幽鬼も、同類じゃったわ。
 じゃが、後鬼には前鬼が居た。
 彼女を守ろうと躍起になって、闘いに挑んできた「男鬼神」がな。
 やがて、幽鬼は前鬼に惜敗し、我が前に沈んだ。幽鬼の敗退、即ち、それはワシの「負け」をも示しておる。ワシは、小角の術に捕らえられ、幽鬼と共に、葛城山中に繋がる「根の国」との「狭間の世界」に幽閉された。それが真実よ。おまえたちの一族に、どのように伝わっておるかは知らぬがな…。」

 樹は黙って、一言主を見上げた。
 どう、言葉を発してよいか、わからなかったからだ。

「ふん、じゃが、小角の奴も、長き激しい闘いに、ワシを浄化させる力は残されてはおらなんだようでな。狭間の世界に封印するのがやっとの事じゃったのだろうて…。
 ワシは暗い穴倉の中で、ずっと考えておった。滅されず、また、浮かび上がる事もできぬ、暗闇の中でな…。
 もし、再び力を得て、地上へ這い出る事があれば、今度こそ、憎き小角の力を持つ者を葬り去ろうと思っておった…。」

「単なる、小角様への私怨のためのみに、おまえはこのうまし国を滅ぼそうと思っているの?小角様が憎いのであれば、その縁者だけを狙えば良い。何故、この国の未来まで巻き込もうとする!
 おまえとて、里人に拝された「国つ神」にその名を連ねていたのではないのか?一言主っ!」
 樹は激しい言葉を投げつけた。

「勿論、最初は小角の縁者だけを、貴様ら役を滅ぼす事だけを考えて居ったわ。しかし…。暗い闇の世界から抜け出た時、すっかり変貌してしまった「大和国」に、堕落しきった人間どもに失望したのよ!」

 と、吐き出すと、一言主は、きびっと鋭い視線で、樹を捕らえた。

「う…。」
 一言主の投げかけてくる視線と、目がかち合い、樹は金縛りにあったように、その場に固まった。
 明らかに、何か「妖の気」が己を縛っている。そう思った。

 と、ふわりと、身体が宙へと浮き上がった。
 ゆっくりと念力によって、身体が動かされているようにだ。

 やがて、彼女の身体は、一言主の真正面へと誘われる。

「貴様、何を!」
 と叫ぼうとしたが、声も出ない。いや、口を動かす事すらできなかったのだ。

 一言主は、彼女の前にすっくと立つと、彼女と自分の間に、何やら右手を動かして、空へ書きこむ動作を始めた。

 式陣を描いている。そんな感じだった。

 彼が式陣を書き終えて、手を下ろした瞬間、目の前の空間に、式陣が浮かび上がった。幾何学模様と、古代文字のようなものが、すううっと浮かび上がり、仄かな光を放ち始めた。
 すると、今度はズンと身体に波動が伝わった。

「のう、樹。おまえも修験者として、我が依代、神足と共に、野や山を駆けて、感じたことがあろう?人間どもが荒らす、山や川、そして空気の事を…。
 つい、この前までは、豊かな山の緑に包まれていた場所が、文明の利器という汚れた力で壊され、虚しい土色の空間へと変えられていく有様を…。
 ほら、思い出せ。そのような場所が、多々、この国の中には溢れておろうが?」

 ゆっくりと催眠をかけるかのように、式陣の淡い光が樹の心を捉えていく。

「この大和に息する人間どもは、自然の恵みや太陽の輝き、そして、そこへ息づく我々八百万の神や愛しき生き物たちの事など、忘れてしまっておる。
 この大地に根付くのは、醜い欲望、そして、荒廃しやせ細る汚れた土地だけだ…。このままで良いと、おまえは思っているのか?」

「う…。」
 だんだんに、樹の身体から力がこそげ落ちていく。
 式陣の力とも合間って、思考力も低下を始めた。
 虚ろになる瞳の輝き。

「ほら、耳を澄ませば聞こえてこよう?我が大地の嘆き、そして生き物たちの抗う声…。」

 樹の脳裏に、乱馬たちと走り抜けてきた、車窓の風景が蘇ってくる。
 コンクリートで固められた都会の土、そして、場排気ガスの煙。この前まで田んぼだった場所を掘り返すブルドーザーの音。そして、祖先、役行者仏を祀った磨崖石仏が周りごと削られてしまい、見るも無残な姿になった造成地の姿。夜の闇すら打ち砕く夜景と、星の見えなくなった空と。

「なあ、樹、おまえの力を、この、一言主のために使え…。おまえは優秀な役の血を引く者。選ばれし術者だ。
 これは私怨のための闘いではない。ワシは私怨など、とうに捨てたわ。
 怨恨など、最早、小さき事。どうでも良いのだ。
 ワシの本来の「国つ神」としての本来の姿を取り戻し、そして祟りを、彼ら人間どもに示す使命がある。
 …どうだ?我らは共に手を携え、奢れる人間どもに鉄槌を下してはみぬか?
 今こそ、人間どもの堕落した文明を問い質し、そして、再び無から始めさせようではないか…。
 そのためには、おまえの力が欲しい…。」

「ボクの力…?」

「ああ…。優れた術者としての、その大いなる力じゃ。共に、新しい秩序を、この堕落しきった国に、創造してみようではないか…。
 この老いぼれは、おまえの祖父、鴨野神足は快く、引き受けてくれたぞ。」

「お爺様が?」
 樹は、はっとして、神足の姿を借りている、一言主を見やった。

「ああ、だからこそ、快く、この肉体をワシに差し出してくれよったのよ。でなくば、もっと抗っておっても良さそうなものではないか?こやつも、役ではないが、賀茂氏の一族の中でも、優秀な力を得ている修験者であろうが?どうだ?」
 畳み掛けてくる、一言主。
 その一言一句が、樹には「真実味」を帯びて聞こえ始める。

「ほら、おまえも、この祖父に従え。」

 引いては返す波のように、耳元から響く、一言主の声。

「その力を、一言主様のために使うのだ…。」

 神足の体を借りた、一言主の声に、樹の意識は、朦朧とし始めた。
 いや、既に、一言主の術中から、抜け出る事敵わなくなっていたのかもしれない。
 一言主の言葉の毒牙が、樹へと伸びた瞬間であった。

「ほら、返事はどうした?樹…。」
 
 幼少時から、一族の役の許婚として、修行を開始した身の上。その傍らには常に、一族の中でも、最高の修験道の能力を持つ「神足翁」が居た。彼は影に日なたになりながら、幼少の頃から、樹に修験巫女としての修行を促してきた。
 神足翁の言葉は、絶対であった。
 勿論、抗ってきたことなど、一度も無い。

「はい、お爺様…。」
 樹は、光を失った瞳を、差し向けると、そう、返事してしまっていた。

「ほう…。わかってくれたか?樹よ。」 
 柔らかい口調になる、一言主。

「はい…。ボクの拙い力で良ければ、お爺様がおっしゃるとおり、一言主様に、捧げましょう…。」

 自分の意思でそう言ったのか、それとも、一言主の妖術に言わされたのか。つい、そう発してしまったのだ。

「良い子じゃ…樹は。」
 にっと、薄ら笑いを浮かべると、一言主は、印を結び始めた。
 それに合わせて、樹の瞳は、すうっと閉じられて行った。

 そして、樹の前の式陣に向かって、気を解き放った。
 式陣へ放たれた気は、そこをフォルターにして通り抜けると、赤黒いオドロオドロシイ光となり、みるみる樹の身体へと襲い掛かるように、包み込んだ。
 樹は微動だにしないで、その気に全身を曝け出す。
 と樹の身体から ぶすぶすと焦げるような音が漏れ聞こえた。
 すると、樹の肌色が、赤黒く変色した。
 彼女の白い修験装束も、みるみる、赤肌色に染まっていく。
 やがて、樹をとりまいていた煙は、周囲の空気の中へ溶け込むように消え去り、彼女の身体がゆっくりと地面へと降りていく。
 地面に足が付いたとき、彼女はすっくと二の足で立ちながら、閉じていた目を見開いた。

「一言主様…。我が思いは、全て、汝が御心のままに…。」
 表情を失った虚ろな瞳が見開かれる。その瞳は漆黒ではなく、仄かに赤い色が混じっている。

「それでこそ、この神足が孫娘よ…。」
 そう言いながら、神足は両腕で、彼女をすっぽりと包み込み、抱きしめる。
 そして、懐から、傀儡札を取り出した。人型に切られた、禍々しい札である。玄馬にも使って、操っていたあれと似ていた。
 それを、半開きに目を閉じた、樹の前に差し出す。それから、札に、ふうっと息を吹き付けた。禍々しい、一言主の吐息だ。
 それから左手を樹の後頭部へ当て、右の人差し指と中指をくっつけて、札を、樹の額に当てる。ぐっと、押した。
「やあっ!」
 気合を入れると、あら不思議。
 樹の額に張り付いた札は、すうっと、頭蓋へと吸い込まれ消えていった。

「我、得たり…。要の術者を…。ふふ、ふふふ…。堕ちよったわ。役の後継者とはいえ、脆いものよ…。くくく。」
 爺さんはゆっくりと、樹へ目をやった。
 と、樹の虚ろな瞳が、再び、見開かれる。
 最早彼女に生気はない。

「あまりのんびりしている時間は無い。今夜の満月を取り逃しては、幽鬼を復活させるのに、また時間がかかってしまう。早速、術にかかるろうかのう…。」
 爺さんはゆっくりと、孫娘を諭した。

「はい…。仰せのままに…。一言主様。」

 傀儡人形。そう言っても過言ではない。
 既に、意識も意思も全て、彼女の心からは抜け落ちていた。
 命じられるままに、樹は祭壇の準備にかかった。
 さすがに幼きより、修験の道を歩いてきた少女だ。一言主の指示するとおり、てきぱきと動いた。

「ふふふ、さすがに、修験に長けた一族の娘じゃ。式陣の描き方も見事なものじゃ。己を縛る式陣を見事に描ききりよったわ。ふふふ。」
 式陣を見事に描いた、樹を見やると、にっと笑った。

「わっはっはっは…。これで、この世界は我が掌の中じゃ、憎き小角の愛した、大和を、この今し繁栄の世を、一気に覆してやるわ。わっはっはっはっは。」
 一言主の甲高い笑いが、洞窟中に響き渡っていった。



つづく





蕃神
 外国人のことを「蕃人」と呼んでいたように、外国から入ってきた神のことを「蕃神(ばんしん)」と表現することがあります。
 仏教も、元は海を越え、入ってきた外国の宗教でしたので、このように表現しております。

物部守屋の乱
 585年、敏達天皇が崇仏を容認するに及んで、それに危惧を持った物部氏の長、物部守屋が崇物派の蘇我馬子に挑んだ政争に端を発した争乱。聖徳太子が四天王を拝し、馬子側の勝利を願った逸話は有名。この乱に負け、物部氏は没落への一途を辿りました。
 なお、物部氏も蘇我氏も葛城氏から端を発した豪族と言う説もあります。

守屋と犬
「日本書紀」の崇峻紀には、物部守屋の乱で討ち死にした主の亡骸の傍をずっと離れなかった犬の話が伝わっています。そこからソースを貰いましたが、守屋の犬は一之瀬の創作です。日本書紀に伝わる話は物部臣下の話でありますので、ご了承くださいませ。

韓国連広足
 役小角の弟子の一人だったという話が伝わる、物部氏の血を引く人物。
 彼は小角の才覚に嫉妬し、大和朝廷に「小角は怪しい術で国を滅ぼそうとしている」と讒言し、それが元で小角は捉えられ、伊豆へ流されたと言われています。
 また、讒言したのは広足ではなく一言主であるという伝説もあるようです。
 彼について、詳しい事はわかっていません。

白専女(はくとうめ)
 役小角の母として伝わっています。


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