第十四話 前鬼の器



一、

 身体がグンと、何かに引っ張られたような気がした。

 心拍数が、グンと上がった。

『たく、だらしねえな!』
 その声は嘲笑うがの如く、体内から聞こえてくるような気がした。

(誰だ…?俺に話しかけてくる奴は…。)
 朦朧とする意識の中で、乱馬は問いかける。

『たく、ついてねえな…。おめえみたいに、弱っちい人間が、俺様の「器の依代」なのかよう…。』
 乱馬の問い掛けに、応じることなく、声の主は、一方的に体内で吐き出してくる。
 どこから、その声が聞こえてくるのか。頭の中なのか、腹の中なのか、それずれわからない。だが、確かに己の体内で躍動を感じた。

(おめえ…。もしかして…前鬼か?)
 回らぬ頭で、問い質す。

『わかってんだったら、さっさと役(えだち)に会え!で、その法力で男に戻してもらえ!!そして、俺を、上の世界へ降臨させやがれっ!この、すっとこどっこい!』

 直ぐ耳元で、怒鳴られる。

「なっ!誰がすっとこどっこいでいっ!誰がっ!」
 その横柄さに、思わず声が荒がる。



 と、そこで、目が見開いた。


「こ、ここは…。」

 見渡すと、土色の世界。ゴツゴツした岩肌が、己の背中に当たる。地の底。そんな感じがした。
 だが、ふっと感じる、温かい光。背中に当たるのは、ゴツゴツした土の感触とはいえ、何となく温かい。じんわりと身体の芯まで伝わってくる温かさだ。

「やあ、やっと目覚めたかい。」
 そいつは、直ぐ脇で見下ろしていた。
 短い頭髪、黒い袈裟、そして、大きな数珠を携えている。口周りには濃いヒゲ。キッと何日も身支度などしていなのだろう。むっとした男臭さが、漂ってくるような気がした。

「お、おめえは…。」

「賀茂小寒だよ。…役小寒とも呼ばれているけれどもね…。さっき、ここで樹と一緒に対したろう?」
 すぐ傍で、にっと笑いかけてくる男。確かに、樹の許婚という修験者だった。

「危ないところだったね…。一言主の奴め。いきなり、精霊魂への変換呪文を唱えてくるとは思わなかったから…。いやあ、やばいやばい。君が独鈷杵を持っていなかったら、精霊魂へ変えられてしまうところだった…。」
 がっはっはと、そいつは笑った。
「一言主…。精霊魂…。あっ、樹っ!樹だっ!」
 ガバッと乱馬は起き上がった。

 そうだ、一言主は樹を捕らえるとともに、己を攻撃してきた。
 物凄い怒気が己目掛けて、飛んできたとき、その中で、己は気を失ったのだ。

「お、おいっ!小寒とか言ったな…。樹はどうなった?あいつは一体!」
 そう、急き込んだ。

「今頃、一言主と共に、二上山だろう…。」
 対して、取り乱す事なく、悠長に小寒が答えた。

「一言主と共に二上山って…。た、大変だっ!早く助けに行かねーとっ!」
 身体を起そうとしたが、ぴったりと尻が地面にくっついていて、立ち上がれない。
「あれれ?」
 ぐっと両手を踏ん張って、立ち上がろうとするが、全く下半身が動かない。

「こらっ!てめえ、何か細工しやがったか?」
 乱馬は小寒にせっついた。
「ふふ、よく見てご覧。腰元を。」
 小寒は楽しそうに乱馬に言った。
 促されて、乱馬は腰元を見てみた。
 と、己を囲うように、一つの式陣が描かれているではないか。丸い円陣と線からなる、幾何学模様。ぼんやりと、下土が、円陣の形に金色の光を投げかけている。

「おめえ…。何のつもりで…。」
 乱馬はキッと眉を釣り上げ、小寒へと吐き出した。
 このままでは、樹やあかねを助けに行くどころの話ではない。

「まさか、お主が、小角様が指し示した「前鬼の依代の少年」だとは思わなかったものでね…。」
 ゆっくりと小寒が口を開いた。
「前鬼の依代?何だ?それは…。」
 乱馬は厳しい視線をお寒に手向けた。
「文字通りだよ。小角様の式神、前鬼を今現(いまうつつ)へ蘇らせるための、器(うつわ)又は依代、即ち、君の事だ。」
「今現へ前鬼を蘇らせる器だとぉっ?この俺がかあ?」
 乱馬はだっと言葉を荒げた。

『そういうことだ、乱馬。おめえの身体は、この俺様が借りてやるんだ。ありがたく思え!』
 突然、体内から声が浮き上がってきた。前鬼のものだ。

「じっ、冗談じゃねえっ!何がありがたく思えだ!何で俺が、おめえみたいな、訳のわからねー、古代の鬼に身体を貸してやらなきゃ、いけねーんだ?」

『たく、つくづく頭の悪いやつめ!そうしねえと、倭国が、豊葦原の中つ国が、秋津島が、いや、てめえがのうのうと暮らしている世界が滅びるんだぜ!』
 やれやれと、溜息交じりで、前鬼が吐き出した。

「ふふふ、前鬼のやつめ、やっと、貴様の体内の奥から浮上してきたか。」
 小寒にも、前期の声が聞こえるのか、乱馬を見下ろしながら、楽しそうに笑った。

「この世界が滅びるだとお?」
 乱馬は目をむいた。
「おぬし、さっき、根の国との狭間で、見て来たろう?一言主は、本気でこの世界に禍をなそうとしているんだよ。」
 小寒が重々しく言った。

「どうやって?」
 頭が良く回っていない乱馬は、思い切り評しぬけた声で問いかける。

『だあ…。ったく!てめえには危機感っつーのがねえのかよっ!何で俺様がこんな奴に乗り移らないといけねーのか、だんだん情けなくなってきやがったぜ。』
 散々な言われ方である。

「今夜は満月だ。乱馬…。」
 小寒が畳み掛けるように語りかけてきた。
「満月?」
 乱馬は不思議そうに見返した。
「満月は、一番明るい月夜となる。それはわかるだろう?」
「ああ、太陽の光を受けた月が一番丸く、大きく輝く夜だからな…。それがどうしたんでい?」
「明るいということは、同時に闇が深くなるんだ。」
「はあ?」
 乱馬は再び拍子抜けした言葉を吐き出した。だんだん、倭国の滅亡から話が遠ざかっているように思えたからだ。

『だからよう、月明かりが美しく、明るいということは、逆に、それに伴って出来る影が暗くなるだろうがっ!太陽だって、真昼間の方が、力の弱い夕陽よりも、より鮮明な影を作り出すのと同じだよ…。そんな簡単な事もわかんねーのかよっ!』
 前鬼が再び浮き上がってきた。

「貴様ら、俺を馬鹿みてえに言いやがって!そんくらいは、わかるっつーんだっ!だから、俺が言いたいのは、満月の闇と一言主の野郎と、どう関係があつんだっ、つーのを訊きたいんでいっ!」
 乱馬は前鬼にまで馬鹿にされて、腸が煮えくり返り始めたようだ。

「満月の夜は、それに照らし出される闇が一番深くなるということだ。新月の闇とはまた、違う…。そう、満月の闇は、太陽の光も月の光もそして闇も、同時に深まるんだよ。つまり、「陰陽がはっきり区別される」。裏返してみれば、「魔が一番高まる夜」でもあるんだよ。」
 乱馬は、まだ、良く事情が飲み込めなかったが、ここで何か言葉を発すると、また、前鬼が出張って来そうなので、ぐっとこらえていた。
「まだ、何となく納得がいかぬという風体だな…。ま、早い話、闇が深まる満月の魔の力を、奴は利用するってことだ。簡単に言うとね…。」

「は、はあ…。」
 やっぱり、すんなり飲み込んだわけではないようだ。

「奴らの目論みを叩くには、それ相応の力が必要になる。残念ながら、生身の人間では、太刀打ちできない。」
 すっと、小寒が乱馬の前に立った。
「だから、小角様が俺の枕元に立って、指し示したんだ。一言主には、必ず前鬼を呼び起し、差し向けろとね。器の少年を使って…。」
 ぐっと小寒が乱馬を睨んだ。
 と、身体がズンッと円陣の中に引っ張られるように仰向けに押し付けられた。

「こらっ!洒落になんねーぞっ!こんな格好!」
 乱馬は仰向けにひっくり返って、叫び散らした。
 大の字に身体がひったりと、地面に描かれた円陣へと縛られた、そんな感じである。見ようによっては、かなり危ない構図となっている。

「仕方がないよ。まずは、君にかけられた、呪泉の水の増強呪術を解かなけりゃならないんだから。」
 小寒が、にっと笑いながら、乱馬を見下ろしてきた。

「だから、危なすぎっつーってるだろうがっ!」
 はからずしも、現時点で、乱馬は女体である。その女体が地面の円陣にぐっと大の字に押し付けられて転がっている。乱馬はそれを指摘したかったのである。
「呪いを解くにしても、この格好はねえだろうがっ!この格好は。この呪縛を解け!俺は逃げも隠れもしねえっ!」
 続けて乱馬は叫び続けた。

「いや、この格好でなければ、破呪出来ぬ。不本意な格好かもしれないが、暫くの辛抱だ。我慢していてくれたまえっ!」
 小寒は、そのまま、呪文を唱え始めた。
 もぞもぞと口が開き、乱馬には聞き馴染みの無い呪文が、唱えられていく。お経のようでいてそうでない、神秘呪文。

「ぐっ!」
 歯を食いしばったが、全く身体は動かない。

『往生際の悪い奴だなあ…。たく。』
 体内で、見物を決め込んでいる前鬼が、吐き出してきた。

「畜生!身体が動かねーっ!」
 天上に向かって、そう吐き出した時だ。ガクンと身体が戦慄いたように思った。

「なっ!何だ?この威圧的な感じ…。」
 体内からどす黒い気が流れはじめている。何かが乱馬の胴体に向かって、脈動をはじめている。それと共に、増す、心拍。
「う…。」
 乱馬の声が詰まった。
 顔は蒼白となり、脂汗が身体から溢れ出す。
 と、物凄い勢いで、身体がカタカタと震え始めた。

「うわ、うわあああああっ!」

 身体の中のそれは、まるで外へ出るのを嫌がっているように思えた。乱馬の胴体の中で、抵抗しながら転げまわっているような。そんな感じがした。
 見開かれていた目から、視界が消えた。薄暗い視界の中に浮かび上がる真っ黒な炎。そいつが、ボウボウと燃えているのが、目の前に見えたような気がした。
 小寒は思わせぶりに、乱馬の前で、印を結び、更に激しく、呪文を唱え始めた。
 その言の葉一つ一つに、黒い炎が反応している。
 身体が焼け付くように熱くなる。

「わあああああああっ!」

 思わず乱馬は、抗いの声を張り上げた。

『へっ!根性のねえ野郎だぜ…。たく、このくらいで音を上げやがって。』
 耳元の奥で前鬼が嘲笑ったように思う。
 その言葉に、はっと我に返る。
「な、何だと?」
 ついそう吐き出していた。
『だって、そうじゃねーか!こんくらいでガタガタ言ってるようじゃ、前に進めねーぜ!この根性なし!』
 前鬼の悪口が、乱馬の闘争心を呼び覚ました。持ち前の勝気さが、もっこりと頭を出したのだ。
「くっ!前鬼っ!てめえに、そんな事、言われる筋合いはねえっ!」
 そう吐き出していた。
『なら、根性見せてみろや!そのくれえ耐えられなかったら、てめえは元の男の身体に戻れねーぜ!身体に戻れねーってことは、てめえの女、あかねとか言ったな、そいつを一言主から奪還することもかなわねーっつう事だ。』
 そのとおりだと思った。女から男へ戻らなければ、玄馬には勝てないだろう。
「ぐっ!」
 丹田に力を入れ、歯を食いしばった。

 小寒の呪文が激しさを増すと共に、身体の中の黒い炎は、焦がすほどに燃え盛る。そして、乱馬の身体を揺さぶり続けた。
 気の遠くなりそうな、苦痛に耐えながら、乱馬は歯を食いしばる。
「あかね…。待ってろっ!絶対に俺が、助けに行ってやる!親父っ!首洗って待ってやがれっ!」
 目の前に揺れる炎が、ますます激しく揺らめく。
 だが、もう平気だった。

 やがて、呪文を一通り唱え終わったのだろう。最後に、小寒が数珠を前に構え、空で印字を切った。

 ゴオッと言う、音と共に、炎がもう一度大きく揺らめいた。そして、立ち上らんばかりの火柱が一つ、仰向けに寝転がった胸元から上がる。
 と共に、何かが胸の中から飛び出した。
 身体がすいっと軽くなった。
 胸から何かつっかえが落ちたような気がした。


二、
 

「お、俺…。戻ってるっ!男の身体に戻ってる!ひゃっほーっ!」
 乱馬はそのまま飛び上がった。
 さっきまで呪縛されていた、地面の円陣は、跡形も無く消えていた。

「やあ、これで、君への呪いが解けたよ。」
 笑った修の前に、乱馬の胸から出た、白い物がふわりと舞い落ちてくる。
「この呪いの呪符で、君を縛っていたんだ。一言主は…。」
 そう言うと、小寒は、舞い降りてきた札をぎゅっと握りつぶした。

「畜生!親父の奴!これで、今度こそ俺は…。」

『それは無理だな…。てめえの非力な身体じゃあ、一言主は倒せねー。俺一人だって、奴と対するのは、かなりきついんだからな。』

 体内から前鬼が再び出張ってきた。

「な、何だ?藪からぼうに…。」
 乱馬は体内に巣食う前鬼に問いかける。

『ほら、さっさとやりやがれっ!役の後継者、小寒っ!』
 前鬼の声が何かを促す。

「承知!」
 今度は小寒が動いた。
 再び浮き上がる式陣。今度はさっきと若干、形が違う。美しい五芒星の形をしていた。

「うわあっ!」
 乱馬は再び、式の陣に吸い寄せられるように、身体が地面と並行に横になる。
 明らかに違うのは、今度は、地面へと押し付けられなかった。信じがたい事だったが、身体がふわりと宙に浮いていたのだ。
 勿論、手足の自由は奪われていた。五芒星の一つの角に頭をあわせるように、仰向けに浮かび上がっている。

「こらっ!てめえらっ!今度は何なんでいっ!」
 思わず唾が飛ぶ。

「ちょっとごめんよ。」
 そんな乱馬のことなど全く気にすることも無く、マイペースに小寒は、乱馬のチャイナ服の懐へと手を伸ばした。

「わたっ!このっ!脱がす気か?てめえっ!」
 赤いチャイナ服の黄色いフックを上から二つほど外されて、乱馬は焦った。
 そこから更に、小寒の逞しい手が伸び上がってくる。
「こらっ!てめえ、そんな趣味してやがんのかっ?」
 もそもそとまさぐってくる手は、くすぐったい。それを必死でこらえながら、乱馬が叫んだ。
「そんなんじゃないよ…。っと、あったあった。」
 何かを探していたのだろう。懐の隠しポケットの部分で、手が止まった。

「これを探してたんだよ。」
 そう言いながら、すいっと乱馬の懐から取り出されたもの。
 黄金色に光る独鈷だった。

「あ、それは…。」
 生駒山からこちらへ向かう折、魔除けにと樹が渡してくれた独鈷だった。鬼取岩で樹が発見したという二対のうちの一つだ。

「樹に暗示をかけておいて正解だったな。」
 ふっと小寒の口元が笑った。

「暗示だと?」
 その言葉にはっと乱馬が反応した。

「ああ…。一言主の奴は、思った以上に狡猾だからな。確実にこれが、儂のところに来るように、見つけ出したら「前鬼の器」になる少年に渡せと暗示をかけておいたのだ。」
 くっと小寒の口元が笑ったような気がした。

「てめえ、まさか…。こうなることを占いか何かで予測してやがったのか?」
 乱馬は、動かぬ身体をよじらせながら、吐き付けた。

「当たらずしも遠からず、かな…。正しくは、小角様の差し金なんだけどね。」
 
「小角…。って、あの天界に居るとかいう、大昔の修験者か?何で、あいつが、てめえに差し金出来るんでいっ?」
 乱馬は激しく食って掛かる。始めから、現在(いま)、己がここにこうして居ることが仕組まれていたのではないかと、懸念したのだ。或いは、小角の掌の上で己が踊らされているのではないかと思ったのだ。

「仕方ないだろう?だって、前鬼の器になれる強靭かつ滑らかな筋肉の持ち主の人間なんて、そうザラには居ないんだから…。」
 そう言いながら、小寒は取り出した独鈷を乱馬の上に翳した。左手で独鈷を持ち上げ、右手を顔の前にすっと祈るように立てた。そして、ふっと目を閉じる。それから、何やら呪文のようなものを唱えはじめた。

 ドクン!

 その呪文を聴きながら、何かが身体の中で躍動を始めた。

 ドクン!ドクン!ドクン、ドクン、ドクン…。

 始めはゆっくりと、そしてだんだんに早くなる心臓の鼓動のような躍動。
 波打つたびに、乱馬の身体が、激しく空で戦慄いた。

「畜生!てめえ、絶対にまともな死に方しねえからなっ!こ、こんなっ!」
 乱馬は思わず叫んでいた。

「はなから、畳の上で安穏と死のうとは思ってはいないよ…。役の後継者になった、あの日からね…。」
 そう、小寒が嘯いた。

「我、役小角の第六十代目後継者、役小寒、孔雀明王の名によって、秘儀を行う。降臨し同化せよ!汝、小角が式神、儀学(ぎがく)、前鬼っ!」

『お、おうっ!』
 腸の中から響き渡る声。
 その声に反応して、びりびりと周りの空気が揺れた。
 いや、己の身体に何か、強い波動が流れたようにも思えた。
 
『悪いな…。てめえの身体に俺を、降ろさせてもらうぜ。乱馬っ!』

 その波動に翻弄される耳元に、確かに前鬼の声がこだました。
 身体の奥底から、何かが這い上がってきたような錯覚に陥った。

 頭の中へ、前鬼の持つ、記憶や想い、全てが流れ込んできた。一気に物凄い情報を、眠ったままの脳細胞に叩き込まれたような、そんな感じを覚えた。
 前鬼が古代において、過ごした時間、生駒山で小角に敗れ去った事、その後、後鬼と共に小角の式神として闊歩した事、小角が入滅するに当たって後鬼と共に、再び生駒の地で眠りに就いたこと、その全てが、己の記憶の中へ同化していった。


 すうっと、意識が浮き上がったとき、乱馬は五芒星の中に立ち上がっていた。
 不思議と、意識は澄み渡っている。
 己の中に、前鬼の記憶、それから、早乙女乱馬としての記憶、双方が鮮明に残っている。他人に憑依されたというよりは、何か大きな力を己の中に飲み込んだといった方がしっくりくる。

「俺…。どうなったんだ?」
 そう言いながら、手を見てぎょっとした。
「な、何だ?これは!」
 手に浮き上がるのは、幾何学模様の鮮やかな刺青。少し青じんだ色をしている。おや、それだけではない。身体を覆っている筋肉が、一回り大きくなったような気がする。
 自分で自分の顔は見えないから、彼にはわからなかったが、顔にも線上の刺青が頬へ向かって伸びている。まさに、それが鬼の印とも言うべきなのか。ただ、伝説の物語上に良くある、「角」は頭の何処を触っても確認はできなかった。
 鬼と言うよりは鬼神とでも言った方が良いような気がした。

「強いなあ…おまえ。」
 乱馬の目の前で小寒が笑っていた。

「強いってどういうことだ?」
 小寒が何を言いたいのかわからずに、乱馬は怪訝な表情を差し向けた。

「いや、前鬼がおまえを取り込んでしまうと思ったが…。おまえが前鬼を取り込んでしまったか…。」
「あん?」
「つまり、想像以上に「早乙女乱馬」の気が強く、僅かだが前鬼を上回ったということだよ。」
 にっと、小寒は笑った。

「だから、どういうことだよ…。」
 小寒の言葉の意味が飲み込めず、乱馬は再び質問を浴びせ返した。

「ふふふ…。おまえ、はっきりと「早乙女乱馬」としての意識を持っておろう?そして、その中に、溶け込むように「前鬼」の記憶が重なってい居る筈だ。」

「ああ…。確かに、前鬼のことが面白いほど良くわかった。奴がどんな人生を歩んできたか。後鬼に対して、どんな想いを描いているか、も含めてな。勿論、大昔の一言主との闘いの記憶もあらあ…。」
 乱馬は答えた。
「身体は前鬼、心は早乙女乱馬…。簡単に言うとそうなる。」
「あん?」
 乱馬は問いかけた。

「おまえの気が前鬼を上回っていたので、奴はおまえと入れ替わる事がなかったんだ。本来なら、おまえの肉体に前鬼が宿る筈だったんだがな…。これはあてが外れたよ!いやあ、対した奴だよ。早乙女乱馬、おまえは…。鬼を憑依させず、おまえさんが鬼へ憑依するとは。」

 何となく、小寒の言葉が飲み込めてきた。
 どうやら、彼らの目論見とは裏腹に、前鬼と逆転した憑依現象が行われたらしい。

「前鬼の器ではなく、前鬼がおまえの器になったのか…。これは、愉快だ!さぞかし、小角様も驚いておられよう…。いや、小角様のことだ。もしかすると、それをわかっていて、君を選んだのかもしれないが…。」
 そう言いながら笑った。だが、直ぐに真顔になって、乱馬に向き直る。

「いや、事態はそう、楽観的では無いがね…。」

「一言主の事だな…。詳細は前鬼(こいつ)の記憶からだいたいのところは読み取った。あかねが奴に狙われた、訳も何となくわかる。」

「同化するのが早いな…。」

「ああ、後鬼を取り戻せって、こいつの魂が俺の中で騒ぎやがる。」

 精悍な身体からほとばしる強い気。まさに鬼人のそれだ。

「俺も、あかねを取り戻さなきゃならねーしな…。」
 鋭い瞳が虚空を見上げた。
 
「勿論、行くか?」
 小寒が問い質した。

「行く…。おめえだって、そのために俺を「器」に選んだんだろう?」
 乱馬の瞳が鋭く輝いた。

「僕はこの場を離れられない…。おまえを狭間の世界から引き戻し、前鬼と同化させて、力もそうたくさんは残って居まい…。せいぜい、今夜限りしか、この結界も守りきれぬだろう。」

「ああ、夜明けまでに決着をつけなけりゃ、前鬼もあかねも危ないだろうぜ…。この世界もな…。」
 乱馬が低く唸った。

「全てをおまえに任せる…。前鬼、いや、早乙女乱馬よ。」

「ちぇっ!結局はおめえや前鬼、小角に、良いようにはめられちまったみてーだけどな…。」
 乱馬はにやっと笑った。

「前鬼(こいつ)の力で、絶対に一言主の野望を阻止してきてやる。俺も、前鬼(こいつ)も惚れた女、奴に良いようにされちまってるからな。おっと、おめえもか…。小寒。」
 乱馬はにっと白い歯を見せた。いつもの顔よりも、若干、肌黒いため、余計に歯の白さが目立つのだ。

「後は任せた。僕は己の全力を注いで、この結界を守る。」
 小寒は乱馬を見て、静かに言った。

「お互い、惚れた女を守るのは骨が折れるぜ…。でも、それが「男漢(おとこ)」という生き物なんだろうな…。」
 乱馬は本音を吐き出した。

「惚れた女を守る…か。それが、この世を守る事よりも本当は一番大事なことかもしれぬがな…。」
 小寒は小さく頷いた。

「後は任せておけ!二上山だな?奴らの根城は…。」

「飛翔できるのか?」

「俺を誰だと思ってやがる!前鬼の力を持ってすれば、容易いぜ!」
 乱馬は黄金の独鈷を手に取ると、集中し始めた。
 飛翔の真言がわかるのだ。前鬼の記憶が雪崩れ込み、何をどう成しながら唱えるのかも、自然にわかった。

「持って行け!これも元は前鬼の持ち物だった。何某の役にたつだろう。」
 小寒は、念で自分の傍にあった金剛杖を乱馬に向かって飛ばした。
 カランと音がして、金属製の杖が転がる。独鈷のように先が尖った柄がつく、黄金の杖であった。
 乱馬はそいつを受け取った。ずっしりとした重さが手に馴染んだ。己の中の前鬼が、一瞬喜んだように思った。

「我自在飛翔!」
 そう叫ぶと、乱馬の身体がすうっと浮き上がる。羽も無いのに、ふわりと宙へ浮いた。

「じゃあ、行って来らあ。おめえは、ここを死守しろよ。腹が減って倒れそうになっても、へこたれるな!倭国の人間の営みは、全ててめえの手の中に握られてる事を忘れるなよ!」

「ぬかせっ!おまえこそ、一言主にやられるなよ!」

 乱馬は一度だけにっと笑うと、今度はすうっと、岩壁へと消えて行った。彼の肉体は岩壁を突き抜け、ひたすら上に。
 ザザザっと草木が揺れる音と共に、祠の上へと飛び上がった。

 辺りはすっかり日も落ちて、深遠なる闇に包まれ始めている。赤い満月が東雲の青垣の上から、くっきりと闇を照らしはじめている。欠けたることのない、見事な赤い月が、暗闇の中に美しく、だが、不気味に光り輝いて、乱馬を見詰めていた。



「行ったか…。さて、僕も、もう一仕事しなければならないな。樹を救い出すために…。恐らく奴は樹を最大限に利用するはずだからな…。だから僕も、最大限に利用するんだ。小角様が遺してくれた、鬼神を…。ふふふ」
 乱馬の気配が去った洞穴の奥深く、小寒が意味深な笑みを浮かべた。



つづく



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