第十二話 二上山と葛木山


一、


 日が高く上りきってしまう頃、一行は生駒を出て、南へ向かった。

「たく、人使いが荒い連中でござるなあ…。」
 夕べの生駒山行きで、あまり睡眠時間をとっていない佐助が溜息を吐き出す。
 勿論、彼の運転で、南下だ。

「だったら、変われっ!僕が運転してやろう!この縄を解けーっ!」
 九能が息巻いている。
 勿論、そんな事をされてはたまらない。
「はいはい、九能ちゃんは良いから、黙ってお寝んねなさーいな…。」
 なびきに促されて、再び、車中で「咒法」をかけられる。お札を額に張られると、すうっと意識が抜け、九能は大人しくなった。

 樹がもしゃもしゃと握り飯を食らい始めた。

「あんた、本当に、良く食べるわねえ…。」
 なびきが目を白黒させる。
「何せ、二人分の胃袋ですから…。」
 懸命に米の塊を咽喉へと押し込んでいく。
「ホント、こいつが女だとは、これっぽっちも思えねえ食いっぷりだぜ…。」
 乱馬も呆れ顔だ。
「お腹が減りすぎて小寒様の結界が解けると、一大事ですからね。結界を張るのは、大変な仕事なんですよ。」
 樹が喋りながらも、食い続けている。
「ってことは、その小寒って奴、不眠不休なのか?」
「ええ、まあ、そう言うことになりますね。でも、大丈夫…。小寒様は不眠不休法をしっかり会得された修験者ですから。その辺は大丈夫です。」
 口を動かしながら、樹が喋る。
「しっかし…。良く食うなあ…。俺も大概、食うほうだけど、その倍は食ってるぜ…。おめえさあ、今、幾つだ?」
 乱馬は目を丸くしながら尋ねる。

「十六歳です。」

 ポツンと答えた。

『じゅうろくうっ?』

 一同、驚いたような声をあげた。

「十六ってことは高校一年かよ、おめえ。」
「ははは、乱馬君とあかねより一つ若いってことよね。」
「なびきより二つも若いってことか…。」

「高校へは行ってません。中学を出たら即、修行に出ましたから。でも、もし進学してたら、一年生ですね。」
 樹はもそもそ食べ続けながら、問い掛けに答えた。

「ほう…。進学もせず、厳しい修行の道に…。」
 早雲が腕組みしながら感心したように声を上げた。
「あんたの許婚って言ってたわよね。その小寒さんって…。彼は幾つなの?」
 なびきが気安く尋ねた。
「えっと、小寒様は確か、今年で三十になりますね。」

『さ、さんじゅっさいっ?』
 再び、一同が驚愕の声をあげた。

「三十歳って…。ほぼ、おめえの倍、年上じゃねえか!」
「ある意味、犯罪に近いでござるよ…。倍近く年の差がある男性と結婚だなど…。」
 佐助もハンドルを握り締めながら答えた。
「犯罪に近いどころか、犯罪だぞ!十四も年の差があんだろ?十四歳年下って、俺から見たら三歳だぞ!三歳っ!!」
 乱馬が唾を飛ばした。
「完全に犯罪よね…。それ…。良く、そんな縁談に従ってるわね。」
 なびきが感心するというより、呆れたと言わんばかりに問いかける。
「そうですか?あんまり気にした事もないですね…。年の差は…。」
 やっと、満腹したのか、樹はお腹をさすりながら、握り飯を包んできた巾着をたたみにかかる。
「でもよ、許婚ってよ、てめえが最初から望んだわけじゃねーんだろ?確か卜占で選ぶとか言ってなかったっけ?他に年がつりあった女とか、居なかったのかよ…。」
 乱馬も更に尋ねた。
「さあ…。」
「さあっててめえ…。」
「物心がついたときから、小寒様は既に許婚でしたからね。それこそボクがオムツをしていた頃から、ずっと見守り続けてくれてますから…。」
 少し恥らったのか、樹の顔が赤い。
「ははは…。俺が三歳の許婚持ってても、そんな変態じみた目で見ねえぞ!やっぱ、犯罪だぜ、それ…。」
「疑いの目とか、反発とかいう思いは描かなかったの?」
 なびきも興味津々らしく、根掘り葉掘り尋ねてくる。
「いいえ…。一族の掟は絶対っていう部分もありますし、先代の役の卜占した縁談に、疑いなんて持った事も…。」
「父ちゃん、母ちゃんはどうだったんだよ…。その年の離れた縁談に。」
「勿論、一族の事ですから、親も積極的に決めたらしいですし…。それに逆らおうとも思った事ありませんよ、ボクは…。」

 その言を聞いて、早雲が反応した。

「君、良い子だねえ…。親の決めた許婚に、素直に従うなんて…。それでこそ、大和撫子だよ、ねえ、乱馬君。」
 ずいっと早雲の手が伸びてきて、乱馬の肩をポンと強く叩いた。
「お、おい…。おじさん、別にそんな、強く嫌味みてえに俺に言わなくても…。」
 乱馬は思わず、苦言を呈した。
「お父さん、別に乱馬君だけが「天道家の許婚」の件に反発してるんじゃないでしょうが…。あかねだって…。」
 なびきがちらりと父を見た。
「うむ、乱馬君も是非に、あかねを見守ってくれたまえ…。許婚として。」
 早雲はずいいっとつかんだ肩に力を入れてきた。

「な、何訳のわかんねーことを…。」

「あんたも大変ね…。封建制度に疑いもなしで素直に従う、大和撫子と比較されちゃ…。」
 ぼそぼそっとなびきが耳打ちする。

「で、小寒さんてどんな人?」
 なびきは好奇心を再び、樹へと振りまいた。
「優しい人です…。」
 ぽわんと樹の顔が赤らんだ。
「そーりゃ、小寒って奴も、優しくだってできるだろうさ…。そんだけ年の差があるんだったら…。」
 ぼそぼそっと乱馬が吐き出した。
「ま、一般的には年が近いほど、平坦な関係になるから、互いの反発力も大きくなるんだろうけどさ…。」
 にいいっと乱馬を見詰めるなびきの目。
 うるせえ、と乱馬は視線で投げ返した。
「で?二人の関係はどこまで進んだのかしら…。」
「そ、そんな、関係だなんて…。と、特にないですよ。」
 顔を真っ赤に火照らせながら樹が答えた。
「キスくらいまで行ってるんじゃないのかしらん?」
 まだまだ攻めるなびき。
「まだですよっ!なびきさんったら!」
 きゃっと言わんばかりに、樹がパシンと隣りの乱馬の肩を叩いた。

「で…。てめえ、結構力強いな。」
 乱馬はぎょっとして樹を見た。

「純愛結構!それでこそ、大和撫子、天晴れ!」
 早雲がにこにことしている。

「その台詞、そのまんま、あかねに聴かせてやれよ、おじさん…。」
 乱馬が苦言した。

「あら…。あんたたち、純愛じゃなかったっけ?そんな、進んだ関係、持ってるのかしらん?」
 なびきがそれを聞いて、乱馬に突っ込んできた。

「うっせえっ!純愛もクソも、あかねとは何の進展してねえよっ!」
 言い切って、はっと口元を押さえた。

「おさげの女殿とあかね殿って何か関係でもあるのでござるかあ?」
 不思議そうに佐助が乱馬を見た。
 彼は九能兄妹と同じく、女乱馬と男乱馬が同一人物という認識がないのである。

「あは…あはは。まだ着くまでには時間があんだろ?俺、昨夜、あんまり寝てねえから、ちょっと眠っとくわ。」
 と言って、乱馬は目を閉じてしまった。

「あ…。現実逃避したわね…。乱馬君。」
 なびきがにんまりと笑った。



 南生駒を抜け、平群(へぐり)、斑鳩(いかるが)、王寺、香芝、大和高田へと、車は一路、国道一六八号線を南下した。大和高田からは国道二四号線へ入り、新庄から山肌に沿い、更に南下する予定だ。

 香芝辺りから、二上山が美しく車窓に映る。
 紅葉が、木々の最後の輝きを見せる、晩秋の大和路。

「なあ、あの山、何て言うんだ?仲良く二つ、峰が並んでるな。」
 ふと目覚めた乱馬が問いかける。
「ああ、あれは二上山(にじょうざん)です。「ふたがみやま」と古くは呼んでいました。北が雄岳、南は雌岳と呼ばれています。」
 樹が見上げながら言った。
「もしかして、大津皇子の悲劇と関係の深い、あの歌枕の山かしら。」
 なびきが横から尋ねた。
「ええ、そうです。」
 樹がコクンと頷いた。
「歌枕?大津皇子?」
 乱馬がきょとんと尋ねた。
「これだから、無教養者は。」
 ちらっと流し見るなびきの視線は、侮蔑が含まれている。
「うっせー、知らねーもんは知らねーんだっつーの!」
 乱馬はやや、不機嫌に答えた。
「大津皇子は天武天皇の皇子で、天皇の有力な候補でありながら、天武帝の皇后が、自身の子、草壁皇子を天武の後継に据えるため、謀反の罪を着せられ忙殺した悲劇の皇子よ。姉の大伯(おおく)皇女が弟を忍んで詠った挽歌が万葉集に残ってるわ。古文の時間にやらなかったかしらね…。」
「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは ふたがみ山をいろせ とわが見む…ですね。」
 すらすらと、なびきも樹も答える。
「知らねーよ、んなの!」
「東の三輪山と西の二上山。これを結ぶ東西のラインを「聖なるライン」と呼ぶこともあります。大和の国中(くんなか)と呼ばれた、三輪山の麓にとって、春分と秋分の太陽は、三輪山を上り、二上山の雄岳と雌岳の間へ沈みますから…。」
 樹が修験者らしく、そんな謎めいた話をしてくれる。
「へえ…。それは初耳ね。」
 なびきが感心する。
「このあたりを根城にする修験者にとっては当たり前の話でもあるんですけどね…。ついでに、古代日本では、本当にこのラインは「聖なるもの」と考えられていたようですよ。太陽の道とも言われていて、大和から東へこのラインを伸ばせば三輪山、初瀬の長谷寺、伊勢神宮、そして神島へと繋がります。また西へ伸ばせば箸墓、耳成山、二上山の雄雌岳の谷間、堺市の大鳥神社、そして淡路島の伊勢の森へと伸びるんです。偶然の一致ではなく、明らかに太陽信仰を意図とした祭祀跡や遺跡が並んでいるんです。」
「だから何だ?」
 乱馬が不機嫌そうに口を挟む。
「あんた、本当に、無知というか…。それだけ、古代からこのラインは重要視されていたってことよ。」
 なびきが笑った。
「太陽の源を絶ってしまえば、この国許を滅ぼす事だって可能だと言われているんです…。」
 そこまで言って、樹の顔色がはっと変わった。

「どうした?樹。」
 彼女の顔がさあっと変わったのを訝った乱馬が問いかけた。

「まさか…。一言主は、この聖なるラインを利用しようなんてこと…。だったら、ボクたちの目的地は葛木山じゃなくて、二上山なのかもしれません…。」

 そう言ったきり、樹は黙り込んだ。思いついた考えに、葛木山へ向かって良いのか、確たる自信がなくなったのかもしれない。

 重苦しい空気が、一同を支配しかけたとき、乱馬がポツンと言った。
「なら、得意の占いに訊いてみたらいいじゃんかよう。」と。
「そうね、それで決めたら良いわね。」
 なびきも同調する。

「わかりました…。やってみます。」
 樹はさっと、占い版を取り出して、呪文を唱え始めた。呪文を唱える事によって、精神を集中させていくのだろう。

「あんまり、運転中に奇声は発して欲しくないでござるなあ…。」
 佐助が驚いたのか、ビクンと肩を動かした。
「だったら、路肩に止まれよ…。」
 乱馬が促す。
「そうでござるな。事故る前にそうさせてもらうでござる…。」
 路肩の広い道脇に寄せて、ハザードを出してそこで停車した時、樹が「はあっ!」と気焔を吐きだした。占いに集中しているときは、全く周りが見えていないのだろう。

「びっくりさせないで欲しいでござる。心臓が止まりかけたでござるよ!」
 佐助がぶるぶるっと身体を震わせていた。
「止まってもらって正解だったな…。このままだったら、中央線をぶっ飛んで、対向車線の車と正面衝突してたかもしれねえぜ。」
 乱馬が苦笑いした。
「で?占いの結果はどう出た?」
 乱馬が問いかける。

「それが…。ダメなんです。「五分五分」そんな結果が出たんです。」
 樹が気弱な声を出した。
「あん?五分五分だあ?」
「ええ…。二上山か葛木山か、いずれも五分五分という結果しか出ないんです。」
「やり直してみるとか、他の方法で占ってみるとかしたらどうなの?あんたができる占いってのは、一つ覚えじゃないんでしょ?」
 なびきが横から口を挟んだ。
「そうですね…。別の方法でやってみます。」
 なびきに促されて、違う占いへと手を伸ばした。

 今度も集中し、一気に読み上げていく。

「どうだ?結果は…。」
 ずいっと身を乗り出して、乱馬が尋ねる。

「ダメです。こんな事は始めてだ。この占いでも、結果は五分五分と出ました。」

「何だって?」
 乱馬も怪訝に彼女を見返した。

「こんな事始めてです。いつだって、百パーセントに近い確率で結果が導き出せるのに…。どうなってるんだ?」
 ドンと樹はイスを叩いた。

「五分と五分。っていうことは、葛木山、二上山、どちらへ向かうかは、樹君の判断に任せるということなのかもしれないね。」
 早雲がうんうんと頷いた。
「或いは、いずれもってことも考えられるぜ。二手に分けろと示してるとか…。」
 乱馬も一緒になって考え込む。
「どっちにしても、選んで向かいしかないんじゃないの?占いに頼らないで自分の信念に頼るしかないのかもしれないわよ。」
 なびきはさばっとしている。元々占いなんて信じる性質ではない。

「どうする?樹。」
 乱馬はじっと樹を見返した。
 全判断を彼女に任せるしかないだろう。何分、葛木の土地も二上山の様子もわからないからだ。

「実は、二上山の雄岳にも葛木神社という社があるんです。ご祭神は葛木山のとはちょっと様子が違うんですが…。」

「な…。ってことは、係わり合いが全くねえ土地ってわけでもねえのかよ。二上山は。」
 乱馬が言った。

「でも、結界は葛木山に張ってあるんです…。小寒様は一言主が抜け出た穴近く、ボクたち一族の生まれ育った里から近い、山峰の修行地で結界を護ってるんです。」

「なるほど…。最初はそっちへ向かおうとしてたわけだ。だったら、そっちへ行くのが妥当なんじゃねえのか?」

「しかし…。見当が外れたら…。」

「二上山から葛木山ってどのくれえ時間がかかるんだ?」

「縦走したら半日弱ってところですかね。」

「半日弱かあ…。近いといえば近いが…。」
「何かがあったときは、間に合わない…。」
「車を使えるところまで使って、フル活用すれば、何とかなるかもしれねえな…。」
「さあ、どうする…。」
「おめえが選べ。俺たちはおめえに従う。」
 乱馬が言い切った。
「わかりました…。ボクが決めます。」
 ゴクンと樹は唾を飲み込む。

 一同は、じっと樹の口元を見た。
 
「葛木山へいったん向かいます。夜までにはまだ時間がありますから、小寒様に判断を仰ぎます。僕よりも数段、卜占能力が高いですし、術者としての彼の力は必要不可欠ですから。」

「わかった。それに従おう。」
 乱馬がコクンと頷いた。



二、


 二上山を眺めながら、国道二十四号線を南下すること、三十分あまり。
 少し高い山並みが南に向かって続き始める。日本列島中央部の山々ほど、高くはないにしろ、千メートル近い、なだらかな山脈が続く。
 麓に広がるのは葛城(かつらぎ)市。当麻(たいま)町、と新庄(しんじょう)町が、二〇〇四年十月に合併し、できたばかりの新しい市だ。そこを走り抜け、御所(ごせ)市に入る。
 山の中腹には「葛城高原」と呼ばれる、高原地も広がる独特な景観がある。御所から、水越峠、大阪側の千早赤阪村へ抜ける道へ折れ、葛木山の麓近くまで行く。
 目的地近くへ着いた時は、既にお昼近かった。

「ここから先は、ボクらだけで歩きます。」
 樹が佐助に言った。
「佐助さんやなびきさん、早雲さんはここで待っていてください。」
 と、言い置く。
「そうだな…。おめえらは、山道を行くのは慣れてないし、佐助はここで休んでてくれ。またいつ、戻ってきて、二上山へ向かえとか言うかもわかんねーし…。それに九能も勿論置いて行く事だしよ…。」
 乱馬は付け加えた。

「あ、でも、その前に、昼ご飯。」
 樹が大声で言った。

「おい…。てめえ、この期に及んで、まだ食う気かよう。」
 ずるっとのけぞりながら、乱馬が言った。
「仕方ないですよ…。お腹が減ったら、闘えませんし、小寒様にも影響を及ぼしますから…。」
「わーったよ!食ってきゃ良いんだろ!」
「あ、地元ですから、良い店知ってますからね…。」
 いそいそと樹が指差す。
「緊張感無さすぎっぞ!こらっ!樹っ!」

「はあ…。青春はお腹が減るってか…。さて、こっちもスポンサーを起しましょうかね。」
 なびきは黙ったまま明後日を見ている九能の額の札を、べりっと剥がした。
「痛いではないか!天道なびきっ!」
 はっと意識が戻る九能。
「九能ちゃん、ご飯よ…。さっさと降りて…。」
 と促しにかかる。
「ご飯って…貴様。」
 目をむく九能になびきは続けた。
「だって、スポンサーが居ないと困るじゃないの。」
「スポンサーとは何だ?」
「金ズル…。ほら、さっさとお財布持って。」
 先に下りた樹や乱馬、早雲が下で待ち受ける。勿論、佐助もだ。
「まさか、また、僕が金を払うとでも…。」
「あったりまえのこと、言わせるんじゃないの。ほら、早く。」
 なびきがぐいっと九能の右腕を引っ張った。
「一体全体、僕は何のためにここに居るんだ?こら、天道なびき!」
「ゴタクは良いから、さっさと昼食よ。九能ちゃんだって、のさっと寝ているだけでも、お腹は空いてるでしょう?」
「そういう問題ではないわっ!」

 やかましい限りである。



 昼ご飯をたらふく食べた後、樹が前に立って、山道を進み始めた。
 それも、地元民でもなかなか知らないのではと思うような、脇道である。本道には登山者の姿もちらほらあったが、脇へそれると、誰も居ない。獣道が木陰の中、延々と続いていた。

「ここは、ボクたち修験者しか通らない行者道なんです。」
 樹はさすがに、庭のような山だ。先に立って、身軽に小走り。ひょいひょいと上に上がっていく。
 乱馬なら、充分に着いて来られる早さだろうと、当たりをつけて、前を急いでいる様子だ。勿論、女のなりでも、充分に追いつける速さだった。
「さすがに、鍛えこんでますね…乱馬さん。この山を知り尽くしているボクと引けを取らないなんて。」
「けっ!そん所そこ等の奴と鍛え方が違わあっ!」
 乱馬が吐きつける。
 子供の頃から修行生活で鳴らしてきた足だ。こんな山道はへっちゃらだった。
 下草の生い茂る中や、濡れ落ち葉が積もった土の上を懸命に走る。
 木立から漏れる、秋の弱い陽光も、小鳥のさえずりも、感じ入っている暇などない。
 道なき道は、上に上ったり、下に下がったり。沢を渡り、ひたすら走り抜ける。


 四、五十分も真剣に山道を駆け抜けたろうか。

 山肌を流れる小さな湧き水の川。それを渡ったところで、急に空気の流れが変わった。

 漂う空気がズンと重くなったような気がしたのだ。

「なっ…。」
 思わず、乱馬の足取りが鈍る。

「感じましたか?」
 樹が乱馬に話し掛けた。

「ああ…。何だ?この、重苦しい空気は…。」
 ずんずんと身体全体に圧し掛かってくる空気の重さ。今まで走っていた山道は、木々の生気に溢れ、空気も澄んでいたのに対し、今走っている辺りは、よどんでいるような気がした。

「しかもだ…。だんだん、重苦しくなってきやがる…。」
 さっきまで、何とも思っていなかった足元も重くなる。息も少し上がって来た。高度が上がり、空気が薄くなっただけではないようだ。

「一言主の封印されていた祠が近いってことです。」
 樹が言った。今までと違い、笑みもその顔から消えている。余裕がなくなってきたことを暗に示している。

「すげえ、陰の気だな…。これほどの妖気を放っているとは…。」
 乱馬の顔も険しくなった。

「これでも、多少は和らげているんですよ。小寒様が結界を張って…。」
「これで和らいでるって言うのかよ!」
 思わず、そう返答を返してしまった。

「着きました…。この先の崖です。」
 樹はすっと指をさし、立ち止まる。
 確かに、彼の指の指し示す方向に崖があった。
 切立った崖。

「その崖の手前に結界の境界線が見えるでしょう?」
 樹は乱馬に促した。
「境界線?」
「気の渦です…。乱馬さんくらいの武道家なら、目を凝らせば見えるかと…。」
 樹に促されて、目を凝らした。
 崖の袂からは、確かに身体全体で流れ込んでくる「怒気」を感じる。どす黒い気だ。
 乱馬はじっと、周りを見る。と、薄っすらだが、虹色の光の輪が張り巡らされているのが見えた。

「その向こうは、第一結界の内側。ここよりももっと、激しい怒気が渦巻いています。」
 樹は乱馬へと真摯な瞳を投げかける。

「その結界を越えていく覚悟を決めろってんだな?」
 乱馬はにやりと笑った。だが、目は決して笑っていない。真剣そのものだった。

「ええ。そうです。そこで、乱馬さん、あなたにこれを渡しておきます。」
 樹は懐から、独鈷を差し出した。生駒山の岩場で見つけた、金色の独鈷だった。

「これを、俺に?」
 受け取りながら、乱馬は目を見開いた。

「独鈷には魔物を除ける力があります。修験道の修練を積んだボクならいざ知らず、乱馬さんはその世界では、素人ですから…。この独鈷は前鬼が封印されているのは勿論ですが、魔除けの力もあります。いざと言うとき、これが身を守ってくれるでしょうから。ボクはこっちの独鈷を持っておきます。」
 樹は黒いほうを握って見せた。

「そういうことならありがたく受け取っとくぜ…。」
 乱馬は普段以上に真摯だった。目の前の怒気に晒されて、いつもと違い、謙虚になっていた。
 ずっしりと独鈷は重かった。あかねの鉄アレイをふっと思い出す。
 無事かどうか、心配で仕方がない。
(絶対に助け出してやるからな…。)
 独鈷を握り締めると、そのまま懐へとしまい込んだ。重みで懐の隠しポケットがズンときたように思う。
 もわっと何かの気配を感じたような気もした。

「ん?」
 はっとなって辺りを見回すが、それらしい、気配はなかった。

「どうしました?」
 樹が不思議そうに問いかけた。

「いや…。何かの気配を感じたような気がしたから…。」
 乱馬は答えた。

「気配ですか…。感じても別に、不思議じゃないですよ…。ほら、あそこ…。」
 すいっと樹は正面の岩壁へ指先を手向けた。
 じっと目を凝らすと、岩肌に隠れるように佇む祠があった。
 それっぽく注連縄を張られている。が、白木でできた祠の、直ぐ横が、大きくえぐられているのが目に入る。
 おまけに観音開きの扉が、外れていた。そして、大きな闇の口をばっくりと開けていた。

「もしかして、あれ…。」
 乱馬がはっとして祠を見た。

「一言主を封印していた祠です。」
 樹の顔つきが険しくなった。

「こいつか…。親父の奴が解いちまった封印っていうのは…。」

「ええ、そうです。」
 樹は静かに答えた。

「あの奥で、小寒様が結界を張って、堪えているんです。根の国の波動が、こちらの世界へ流れ出さないように…。」

「根の国?」
 聞きなれぬ言葉に乱馬は問い返す。
「俗に「黄泉の国」とも言われる、亡者や荒神たちのひしめき合った「あちら」の世界です。一言主は須佐之男命の孫。つまり、根の国から来た祟り神ですから。」
 樹の語気が強くなった。

「けっ!ってことは、あそこへ飛び込まなくちゃ、何事も始まらねえし、終われねえって事だな。そして、あかねも、親父もあそこへ居る。」
 乱馬は強く言い切った。
「そう言うことです。」
「じゃあ、ぼさぼさしてねえで、行くぜ!樹。」
 乱馬は樹を促した。

「覚悟は宜しいですか?」
 樹は念を押す。

「ああ、とうにできてる…。あかねをあいつに奪われた、あの時からな…。」
 乱馬は静かに言い切った。



つづく



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