第十一話 前鬼降臨


 ぐっと身体に巻き付いた、触手が、乱馬の前身を締め付けてくる。

 彼の目前には、殆ど全身を岩の中に埋もれさせた、男が居た。頬には直線的な、胸には幾何学模様の刺青が浮き上がり、顔つきは、男乱馬に瓜二つだ。
 そいつは、乱馬と、対峙していた。

「いくらここへ埋もれていても、てめえくれえの人間一人をくびり殺すくれえの力は残ってるぜ…。」
 そいつは吐き出すように言った。

「畜生っ!何だってんだよっ!」
 必死で抗おうと、足掻くが、しっかりと巻き付いている触手の前に、身じろぎすらできない状況だった。触手は岩に埋もれた男の傍から伸びている。
 身体中の気を集めて、そいつを爆発させようとも思ったが、どういうわけか力が全く入らなかった。

「けっ!てめえは、気を扱えるみてえだからな…。丁度良いぜ…。おかげで、俺の方へとてめえの、威勢のよい気が流れ込んできやがる。」
 にやりと男は笑った。
 触手を媒体に、どうやら、乱馬の気のエネルギーを、己の方へ奪い取っているようだ。

「ぐ…、力が…入らねえ…。」
 強い力に締め上げられ、だんだんに意識が薄れていく。

 気が遠くなりかけたときだ。

『たわけめっ!』
 何処からともなく、低い男の声が響き渡ってきた。
 と、思う間もなく、強い光が、乱馬の周りで輝いた。

 乱馬の女体に巻き付いていた、触手が、その光と共に、弾け、ふっと消し飛んだのだ。
 強い力で流れが止まっていた血流が流れ込んで来た、そんな感覚が身体を突き抜ける。
 ふわりと、身体がそのまま、誰かの手によって、持ち上げられたように思った。

 耳遠く、遥か彼方で聞こえてくる、会話。それをぼんやり聞き流しながら、沈む意識。


『前鬼よ、この男を殺すこと、まかりならぬ。この男の力を借りて、再び現世に降臨せよ!』
 低い男の声が制するように言った。どこから響いてくるのか、微かにエコーがかかっているようにも聞こえる。
「男だと?」
 今の姿勢からは、見えないはずなのに、壁に埋もれた、男の頬がふっと緩んだような気がした。
「おい、小角様よう。てめえ、滅度に入ってモウロクしやがったか?こいつの何処が男なんでいっ!どこから見たって女じゃねえかよ。乳もあるし、尻(けつ)もでけえぞ!こんな男、見たことねえやっ!」
 壁男の呆れた声に、低い声が笑った。
『ふふふ…。蒼いのう、前鬼よ…。そいつと同調してみろ。さすればわかるぞ。色んなことがな…。』
「馬鹿な。女と俺様が同調できるわけ、ねーじゃねえか。」
 ぐっと睨みつける壁男。
『つべこべ言わずに、同調せよ、前鬼っ!』

 また、乱馬の目の前が光った。
 身体を起したかったが、言う事をきかない。

「うわああっ!」
 壁男の声がしたと思ったら、今度は、自分の肩の辺りがズンと重くなったような気がした。
 何か、肩の上に乗ったような感覚に襲われる。 
 何者かが己の身体に入り込んでいる。そんな感じが乱馬を襲っていた。

『すげえ…。本当だ…。こいつの身体、俺にぴったりだ!』
 今度は直ぐ近く、乱馬の頭の中で壁男の声が響いた。

『どうだ?前鬼。その男の身体は馴染むだろう…。』
 くすっと低い声が笑った。
『ああ、凄く良い具合だ…。かなり鍛え上げてるな…。若いだけあって、生気も満ち溢れんばかりだぜ。』
 壁男の声が嬉々としている。

『前鬼、その男の身体を使い、現世へ再臨するのだ。』

(冗談じゃないぜ!)
 乱馬は足掻いた。
 訳のわからない者が自分の身体を乗っ取ろうとしていることは、明らかだ。
 動かぬ身体で、ジタバタしたつもりだ。
 その動きに気付いたのか、壁男が言った。
『てめえ、抵抗したって無駄だぜ。俺はもう、おめえの中に居る。』
(な…っ!)
 声をあげようとしたが、どうにもならない。何が何だかわからないが、ピンチだった。変な者が憑依した。

 と、目の前に人影がすっと浮き上がってくるのが見えた。
『我が名は、賀茂の役(えだち)小角。早乙女乱馬よ…。すまぬが、おまえの力、この鬼神、前鬼に貸してやってくれぬか?』
 人影はそう囁いた。
「役(えだち)の小角?てめえ、役行者か?」
 乱馬は意識で問い返した。手も足も身体も動かぬ、勿論、声も発せられなかったからだ。
『然り。』
「てめえ、まさか、死に切れねえで、現世を未練たらしく彷徨っているとか…。」
 回らぬ頭で問いかける。もし、彼が本当に役行者なら、千三百年以上も生きていた事になる。もしくは、霊として現世を彷徨っていたのかもしれない。あまりにも非科学的過ぎた。
『彷徨ってなど居らぬ。我は遥か昔に入滅した…。』
「入滅…。ってことは…。」
『肉体はとうに滅びた。』
「じゃあ、何でここに居る?」
 当然の疑問であろう。
『こら、てめえ、言葉を慎め。小角様だぞ!秘術を用いて、時を越えることだってできるんだ。』
 壁男が唸った。
『ふふふ…乱馬よ、言わばおまえは、過去の私の姿を捉えてみているのだ。今はただの意識体だけで現世へと降臨している。』
「ってことは、本体は天界とか冥界に居るのかよう…。ますます不可解だぜ…。」
 乱馬は光を見上げる。
『かもしれぬな…。我が何処に居るかは言えぬ…。おまえが言うとおり、この世の言葉で言えば「天界」だの「冥界」だの言うようなところかもしれぬ。』
「なら、何で降りてきた?」
 厳しい口調で見上げる。
『一言主の負の波動を捕らえたからな。遥か昔、我がまだ人間だった頃、闘いし荒ぶる御神一言主。が、あの頃の我は、一言主を浄霊して葬るには力不足であった。堕ちたとはいえ、一時は、葛木山の神々を統括するくらいの国つ神だったからな。』
「けっ!早い話、己のやりそこないを、是正しに来たっつーことかよ。」
 乱馬は問い質す。
『できることであれば、己の手で一言主との決着をつけたかったのだが、生憎、今の我は器となる肉体がない。それに、入滅した物の掟があって、何も手出しする事ができぬのだ…。入滅せし魂は、現世の事変に手は出せぬ。』
「何か、勝手な言い分だな、それって…。自分の尻拭いもできねえってのかよ。それを俺に肩代わりさせようって腹なのか?」
 乱馬は思わず苦笑いした。

『けっ!頭悪いな…。おめえ…。裏がえせば、誰でも入滅できるもんじゃねえってことだよっ!』
 横から前鬼が口を挟んできた。
「どういうことだよ!」
 偉そうな前鬼に思わずムッとして尋ねる。
『入滅できるのは、修行を積んだ偉い賢者って決まってるんだ。涅槃(ねはん)に入るのは、並大抵のことじゃねえ…。それだけに、入滅できる者は、超能力も半端じゃねえからな。だから、一切、現世への手出しはできねえ事になってるんだ。じゃねえと、この世そのものの条理が狂っちまう。』
 前鬼が言った。
『そういうことだ。現世はあくまでも生ある者の世界。だから、生きた者に、限られた微々たる力を貸し与える事くらいしかできぬのだ。』

「で、俺とそいつの憑依現象と、どういう関係があるんだ?」
 肝心要なことを乱馬は尋ねた。

『おめえ、バカか?俺と同調して、禍の元凶、一言主と闘えっつーことに決まってるだろ?小角様の代わりによう…。』
 前鬼が言った。
「何だとぉ?」
 彼にバカと言われて、乱馬はムッとなったようだ。
 互いに脳味噌の中で喧嘩腰だ。

『ははは…。我が睨んだとおり、乱馬に前鬼よ。おまえたちは、ほとほと良く似ておるな。』

「なっ!」『なっ!』
 ほぼ同時に乱馬と前鬼が吐き付けた。
 二人とも、冗談じゃないと言わんばかりに、吐き出したのだ。

『似ているもの同士は同調が容易い。前鬼が乱馬の身体にすんなりと馴染んだのが何よりの証拠だ。』

『やめてくれ!こんなバカと一緒にされるなんて、いくら小角様でも…。』
「うるせー!それはこっちの台詞でいっ!」
 互いに、競いあうようにブウ垂れる。

『愛するものを取られて、互いに、ハラワタは煮えくり返っておろう?そういう部分まで似ておるよ。』
 小角は笑いながら、だが、目は真剣に言った。

『おめえにも、好きな奴が居るのか?』
「ああ、居るよ。悪いか!」
 乱馬は吐き出した。少しテレがあったが、はっきり言った。この男、自分たちと関わりが薄いところでは平気で「好き」と言い切れるようだ。あかねや知人の前では、問われても絶対に言わない言葉を口にする。
『へえ…そんな身体で好きな奴ねえ…。で、好きなのは女か?それとも男?』
「女だよっ!」
 次の問いには思わず吐き付けていた。明らかに気分を害している。
『ほお…。女体の格好してるくせに…。女が好きなのかよう…。』
 前鬼が不思議そうに問いかける。
「あのなあ、俺は好きで女体やってんじゃねえ!呪いのせいで、そういう体質になっちまってるから仕方がねえんだっつーのっ!」
『で…。美人か?そいつ。』
「あ、ああ…。そこそこな。」
『でも後鬼には敵うまい。』
 前鬼がさらっと言った。
「へえ…。おめえのコレは後鬼って言うのか…。単なる鬼娘だろ?」
『へっへっへ…結構可愛いぜ。』
 気の抜けそうな前鬼の答えに、思わず、脱力する乱馬。これ以上こいつに「鬼娘」のことを語らせると、時間がもったいないと思ったのだ。で、話題を変えた。
「そういや、てめえ、俺が上から落ちてきたときに、後鬼がどうのこうのって言ってたな…?」
 乱馬は、さっきのやりとりと思い出した。
『ああ。何者かが「仲睦まじく眠っていた俺たち」を呼び覚まし、俺をこの岩壁に呪縛で押し込めやがって、後鬼の御魂だけを連れて行きやがったんだ!』
「おい、まさか、後鬼をさらった奴らって…。一言主たちなんじゃねーのか?」
『そっか…。俺は寝ぼけていたから、顔まではっきり見えなかったんだが…。気がついたら岩壁の中で埋もれてたんだ。そうか、一言主が何か目的があって、後鬼をさらっていきやがったと考えられるなあ。』
「おい、前鬼!てめえも、充分、間抜けじゃねえか!」
『うるせー!一千年以上眠ってたんだ。突然眠りから覚まされて、頭が直ぐに覚醒するわけねーだろ!』

『恐らく、後鬼を連れて行ったのは「一言主」だろう。そう思うのが一番理にかなっておる。』
 役行者が言った。

「一言主ねえ…。多分、絡んでるんだろうな…。実際、俺も、あかねをそいつにさらわれてる。」
『何だって?うひょー!おめえも、一言主と訳ありなのか?あかねってのは、おめえの女か?』
 前鬼が畳み掛けるように尋ねた。
「ああ。あかねは俺の女だ。一言主にさらわれた。だから、手がかりとなる鬼取岩を探して、東京からここへ来たんだ。」
『とうきょう?どこだそこ…。そんな地名聞いた事ねえぞ!』
 前鬼が口を挟んだ。
『今の都だよ、前鬼。不死の山の遥か東に、今の倭国の都はある。』
 小角が簡単に説明した。
『へえ…。ここよりずっと東雲(しののめ)にあるのか…。倭国も随分変わったみてえだな。』

 東雲と彼が口にした途端だった。

 彼らの遥か上空へとすうっと陽光が入って来たように見えた。キラキラとホコリを舞い上げながら、降りてくる暖かな光。

『朝か…。もうそろそろ我は帰らねばならぬ。』
 小角がポツンと言葉をかけた。と、彼の身体がみるみる光に包まれていく。
『奴の復活の兆しは、我が存命していた頃から、卜占にその気配も出ていた。だから、我は入滅する時、前鬼と後鬼をこの世に残したのだ。この世に再び、邪悪なが禍を成そうとしておる。前鬼、乱馬。おまえたちの力を合わせ、荒神の邪心を打ち砕くのだ。彼を寂滅(じゃくめつ)させよ。さもなくば、倭国は滅ぶ。良いか、必ず、力を合わせるのだぞ。』

 言葉を進める程に、だんだんと遠くなる声。いや、姿もだんだんに薄くなり、やがて空気へと溶け込んでしまった。

「っておい!勝手に押し付けて行くなっ!こらっ!役行者っ!!」
 乱馬は叩きつけるように怒鳴ったが、相手は容赦ない。
 キラキラと差し込める朝日の光を受けて、小角の姿はいつしか見えなくなってしまった。

『ってことだ。しゃあねえ…。不本意だが、おめえの身体を借りてやる。』
 耳元で響くのは前鬼の声。
『俺、まだ、力を全開させるには、もうちょっと「溜め」が必要みてえだ…。まだ、ひっ迫している気配もねえし…。暫く、休ませて貰うわ。目覚めた時は、ぶっちぎりで行くからよ、宜しく頼まあ…。』
 そう言いながら、前鬼の声も小さくなり、やがて聞こえなくなった。

「こら、小角に前鬼!てめえら、何勝手なこと、言ってやがるんでいっ!こっちの身にもなりやがれっ!こらああああっ!!」

 逆に高くなるのは乱馬のテンションだった。


二、

「ねえ、乱馬さん!乱馬さんってばっ!」

 激しく身体が揺すられたような気がする。

「こらっ!前鬼っ!起きやがれっ!」
 思わず、がばっと起き上がった。
 と、視線の先に、樹の顔が写り込んだ。

「乱馬さん?」
 突然起き上がった乱馬に、樹がきょとんと、視線を差し向けた。

「あれ?…ここは…。」

 さっきまでと全く様相が違う。
 小角と前鬼に対峙していたのは、岩肌がむき出しになった、地中といった感じの閉鎖空間だった。だが、今、己が居るのは、鬱蒼とした森の中。それも、夜が明けたようで、太陽の光が山の向こう側から木立を通して漏れてくる。朝露が直ぐ上の低木からひたっと肌に当たる。

「良かった…。意識がなかったんで、どうしようかと思ってたんです。」
 樹が笑った。

「意識が無え?」
 今度は乱馬がきょとんと訊き返した。

「ええ、秘法を施していたら、突然、乱馬さんの足元が崩落したんです。足元の岩が重みに耐え切れなかったのか、バランスが悪かったのか。そのまま、あそこから岩と一緒に滑って来たんですよ、乱馬さんは。」
 樹は上を指差した。
 そんなに上ではないが、それでも数メートルは滑っている。山肌に沿って、岩が落下した後が草木を薙ぎ倒した痕が生々しい。
 その上に榊の大木と鬼取岩が見えた。どうやら、鬼取岩とは別の岩と共に、足元から崩れて、ここまで滑ってきたらしい。幸い、小規模の地すべりだったので、埋もれる事も無ければ怪我もなかった。

「ってことは、さっきのは夢だったのかよ…。」
 両手を見ながら、乱馬は呟くように吐き出した。
『おい、前鬼…。俺ん中に入ってるなら、返事しろ!』
 心の中へ呼びかけてみた。
 だが、何の返事もない。それどころか、さっきまで確かにあった、体内の彼の気配も消えている。辺りはシンと静まり返り、薬師の滝の水場の音が、何処からともなく、ちょろちょろと聞こえてくる。

 やっぱり、夢だったのか…。

 そう思わざるを得なかった。
 にしては、かなり生々しい記憶として、小角や前鬼とのやりとりが脳裏に残っている。
 だが、前鬼が返事をしない以上は、「夢」と思うしかないだろう。

「喜んでください、乱馬さん。」
 一方、樹は、にっこりと微笑みかけてきた。
「どうした?」
 乱馬の問い掛けに、一層にこにこと笑みを浮かべ、樹が話始めた。
「御魂を封印してある法具を見つけたんです…。」
「法具?」
「ほら、これです。」
 樹は目の前に、二つの法具を広げて見せた。樹のそれぞれの手に、同じ大きさくらいの二種類の法具が握られている。

「こっちが前鬼で、こっちが後鬼の法具です。」
 右左、それぞれの法具を示しながら、樹は言った。
 一つは、くすんだ黄金色、もう一つはどす黒い色をしていた。

「御魂を封印してあるって、どうしてわかるんだ?」
 乱馬は、不思議そうに顔を巡らせた。

「そういう、言い伝えが、古くからボクの家に残っていますから…。それぞれ、前鬼と後鬼は、金銀、二つの独鈷に眠っているってね…。それが、これなんですよ。」
 樹は二つの法具を見詰めながら言った。

「金銀って、こっちは金ってわかるけど、そっちは、どす黒いぜ。」
 乱馬はアゴでそれを促した。
「長い間、土の中に埋まっていましたからね…。金の独鈷はともかく、銀の独鈷は錆びて、変色してるんですよ。」
 そう言った。
 乱馬はじっと、二つの独鈷を見比べた。
 土中で輝きは失われているが、金色の独鈷は、それらしい光を放っている。だが、銀色の独鈷と言われた物は、かなり色が歪んで見えた。いや、それだけではない。何故だか、嫌な雰囲気を、その銀の独鈷から漂っている。言葉に尽くす事が難しい、何とも表現し難い「陰鬱さ」だ。とても、聖なる物が封印されているようには見えない。

「良かった…。鬼取岩に、小角様が封印した法具が遺されていて…。」
 樹は、法具を手に、すりすりと頬擦りし始めた。
「お、おい…。何やってんだよ…。」
「あまりに嬉しくって…ボク。」
「浮かれてる場合じゃねえぞ!法具を見つけて、さて、次はどうするんだ?」
 乱馬は、これからの事を樹に尋ねた。
「前鬼と後鬼の御魂にかけられた封印を、小寒様に解き放ってもらいます。」
「小寒様?ああ、てめえの許婚か。」
 コクンと揺れる、樹の頭。
「二匹の鬼を蘇らせれば、幽鬼が復活したって、必ず、阻止できます。」

「その、小寒って奴は、強いのか?」
 乱馬は疑い深い目を樹に差し向けた。

「強いなんてものじゃないですよ…。今だって、一人で結界を支えているんですから…。賀茂の役を継ぐだけの、呪力は持っています。ボクなんか、足元にも及びませんもの。」
 樹は大きな手振り身振りで、強調する。

(何か、すっげえ、楽観的な気もすっけど…。)
 思わず苦言を呈したくなったが、ぐっとそれは飲み込んだ。
 たとえ、それが眉唾物の法具でも、現在のところ、それに頼らざるを得ない実情だからだ。猫は嫌いだが、猫の手でも借りなければならぬなら、それも仕方はあるまい。

「とにかく、宿に戻ったら、すぐにでも出発しましょう。」
 樹は法具を懐にしまいこみながら言った。

「行くって、何処にだ?」

「決まってます。葛木山へ。」



 すっかり明けた山肌を、今度は上に向かって登りだす。
 さすがに、樹も修行者。来るときに、それなり印を遺してきている。それを辿れば、もと来た道を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。
 朝露のせいで、足元の枯れ草がかなり濡れていて、足元が悪かったが、二人とも、難なく登りつめる。身体の重心のかけ方や足の運び方など、長年の修行経験上、彼らにとっては、造作ないことに違いなかった。

「たく、どうしたかと思ったでござるよ。なかなか上がって来られないし…。ひょっとして、遭難でもしたかと、ヒヤヒヤしたでござる。」
 佐助がワゴンの中から、二人に声をかけた。

「悪い、結構、岩を見つけるのに、時間がかかっちまって…。」
 乱馬が言い訳をする。
「で?守備は?」
「上々です。目的の物も見つけたし、あとは、なびきさんたちを乗せて、葛木山へ向かうだけです。」
 樹が笑った。
「葛木山ってえと、もっと南方の方だったな。」
「ええ、生駒山系をずっと南下して、御所(ごせ)の辺りになります。」
「日が暮れる前に、葛木山の結界まで行かなくちゃ…。」
「結界?」
 乱馬が尋ねると、樹はコクンと頷いた。
「ええ、小寒様が張り巡らせている結界です。そこへこの二つの法具を届ける…。全てはそこから、始まります。一言主との長年の因縁を巡る闘いが…。」

 車はガタガタと揺れながら、山道を下る。

「はあ…。法具を見つけて、ホッとした途端、疲れました…。」
 樹が続けて溜息を吐いた。
「お腹もすいてきたなあ…。」
 ポツンと言葉を吐く。

「げ…。おめえの腹が減り過ぎて意識を失ったら、確か、地殻変動が連動して、地震が起こるんじゃなかったっけ…。」
 天道家での騒動を思い出しながら、乱馬が焦った。
「……。」
 だが、既に樹の返答はない。

「こらー!樹っ!気を失うなっ!こんな状況で地震なんかいった日には!!」
 大慌てで、樹を起そうと、乱馬が動いた。
 
「ちょっと、おさげの女殿…。」
 ハンドルを握りながら、佐助がバックミラーを覗き込む。
「樹殿は、気を失ったというより、疲れて眠っただけのようでござるよ?」

 その声に、乱馬は樹の顔を覗き込む。
 と、スカー、スカーッと気持ちの良い、寝息が聞こえてくる。口元はかすかに微笑んで。幸せそうに眠りに落ちている。
 どうやら、眠ってしまったようだ。
 幸い、地震の波動も感じられない。

「そっか…。疲れて眠ってしまっただけなら、気を失ったのと違うから、地殻変動とは連動してねえみてえだな…。たく…。紛らわしいぜ。」
 安堵の溜息を吐き出す。

「とにかく、佐助、下に降りたら、飯を食わせてやろうぜ…。こいつが腹ペコになれば、地殻が動き、地震が起きるんだ。」
「はあ…。良く、状況が飲みこめんでござるが…。宿に連絡して、朝餉の準備でもしておいてもらうでござるよ。」
 車を路肩の広い部分に止めると、佐助は、持っていた携帯電話の電源を入れる。
「あ…。おはようでございます。なびき殿でござるか?これから下山するでござるから、朝餉の用意をお願いするでござる…。樹殿を腹ペコにするわけにはいかぬと、さっきからおさげの女殿がうるさいでござるので…。あ、よろしく頼むでござるよ。」

 佐助が携帯の電源を切った。

「ふう…。まあ、いずれにしても、今夜、奴らとの決着がつくってことだな…。」
 寝入ってしまった樹を横に、乱馬は大きな溜息を吐き出した。

(それにしても…。前鬼と役行者のやりとりは…。夢だったのかよ…。)
 胸の辺りをさすってみたが、自分の中に気配は全く感じられなかった。力も普段と同じだ。身体も女のまま。気の大きさも別に変わっていない。何者も身体の中に居る気配は微塵もない。
(足元から崩れて、気を失った時に見た、ただの夢…だったんだろうか。)
 じっと掌を開いて見詰めてみる。そこにあるのは、女体化して縮んだ手だ。男のときよりもひとまわりもふたまわりも小さな手。
(それに、前鬼は、後鬼は既に一言主の奴に連れ去られたって言ってたよな…。だったら、あの独鈷は…。)
 樹の方をちらっと見る。彼女は小角の印の独鈷を二つ見つけたと、かなり喜んでいた。

「ま、気に病んでも仕方ねえか…。」
 ふっと視線を上げる。山の木々が、美しく燃え上がりながら、晩秋をたたえている風景。その向こう側に、登り始めた朝日がまぶしい。

 また、新しい、一日が始まろうとしていた。



つづく





 独鈷(どっこ)については、犬夜叉の27巻あたりをご覧ください。白霊山の法師が使っていた仏具として描かれています。先っぽが尖った法具で「独鈷杵」(どっこしょ・とこしょ)というのが正式な言い方らしいです。
 手に持つ密教法具です。元々はインドあたりの武器に原型があるようです。煩悩を滅っし仏性(ぶっしょう)を現すための法具となりました。
 先が一つで尖ったものを「独鈷(どっこ)」、三つになっているものを「三鈷(さんこ)」、五つになっているものを「五鈷(ごこ)」と呼びます。片方に鈴がついていると、「独鈷鈴(どっこれい)」「三鈷鈴(さんこれい)」「五鈷鈴(ごこれい)」という名前となります。(もっと他にも種類があるようですが、一般的なものだけ取り上げてみました。)
 それらを総称して「金剛杵(こんごうしょ・ヴァジュラ)」と呼びます。
 拙作の「制多迦と金加羅シリーズ」にも使っている法具なので、興味のある方は是非、名前くらい覚えておいてやってくださいまっせ。
 なかなか奥が深い密教法具です。



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