第十話 鬼取岩


一、

 暗闇の中を、二人の人影が行く。
 舗装道路から脇道へとそれると、そこは、延々と闇が広がる世界。
 下方へ下る坂道を行く。
 樹も乱馬も縦走は慣れているとはいうものの、夜道は危険だ。
 深々と冷える秋の夜だから、蛇や蟲など、侵入者を脅かす生命体は居ないものの、満ちは夜露で濡れ、舞い積もった濡れ落ち葉で足場は悪い。下半身に力を入れ、懐中電灯で辺りを照らしながらゆっくりと進む。
 しんしんと足元から冷える空気。
 前を行く樹は黙々と進む。

「なあ、こっからどのくらい歩くんだ?」
 乱馬が沈黙を破った。
「昼間なら半時間も行けばいい、と思うんですが…。」
 樹が答えた。
「ってことは小一時間はかかるか…。」
「ええ、多分。」
 樹の返事は心許ない。
「何だか、曖昧な返事だなあ…。まあ、夜だから仕方がねえけど…。」
 乱馬は樹の背中を見ながら言った。
「実は、鬼取岩の場所は、曖昧にしかわかっていないんです。」
 樹がポツンと言った。
「何だって?」
 乱馬が後ろから声を上げた。
「ボクの家には、伝承地はこの辺りとしか伝えられていません。」
「どういうことだ?そいつは。」
「鬼を目覚めさせる「力」がある者にしかその岩へ辿り着けない、と伝わっているんです。」
「ってことは、力のあるものは、自ずと鬼取岩を見つけられる…。ってことなのかよ。」
「そういうことになりますね。」
「お、おい、ってことは、裏返せば、見つけられない可能性もあるってことだよな…。行ったは良いが見つけられなくって引き返すなんてことも…。」
「ありえる話です。ボクに力があるかどうか、それで全てが決まるでしょうね。」

「……。」

 乱馬は沈黙してしまった。

 見つけたからといって、全ての可能性が好転するとも限らなかったが、あかねを救い出すには、樹の力に頼るしかないのだ。

「朝日が矢田丘陵の稜線に昇る前に見つけなければ、恐らくは…。」
 樹の声が低くなった。

 今、何時何分なのか、想像もつかない暗闇。
 まだ夜明けまでには時間がある。

 小一時間、暗がりを進んで、とあるポイントに辿り着いた。
 ちょろちょろと流れる小さな滝に辿り着いたのだ。
 不気味に静まり返る中、水音だけが耳に入る。
 闇を照らしつける懐中電灯の光の中に、一体の石仏が浮かび上がった。それは、赤い前掛けをつけて、冷然としている。

「うへ…。真夜中に暗がりで見る、石仏様って、どことなく、雰囲気が漂ってるなあ…。こう、こっちへ差し迫ってくる迫力があるぜ…。」
 乱馬は石仏をまじまじと見ながら言った。
「まあ、当然でしょうね…。ここは「薬師の滝」と言って、役小角様が、修行された修行地の一つなんですけどね…。」
 樹が苦笑いした。確かに、どことなく、鬼気迫る雰囲気がある。辺りがシンと静まり返って、滝の水音だけがちょろちょろと聞こえてくるのである。仕方のないことだ。
「薬師の滝ってことは、この石仏さんは薬師如来っつーことか。」
「ええ、そうです。」
 樹が答えを返した。
「今は、八大龍王も一緒にお祀りしていますけどね…。」
「龍王ねえ…。まあ、龍王といえば、こういう水場の守り神様みてえな部分があるからなあ…。山の滝とか沢とか、神聖な雰囲気の水場のあるところには、必ずと言って良いほど、龍が祀ってあるし…。」
「良く御存知ですね、乱馬さん。」
「あったりまえだ。俺だって、あちこちの山に入って、ガキの頃から格闘の荒修行してるんだ。こういう場所へも、何度も足を踏み入れてる…。」
 と、腕組みして言ってみせる。
「それに、実はこの場所は、単なる修行地じゃないんですよ…。」
「あん?」
「他にもこの地にまつわる伝承があるんです。」
「どんな伝承だ?」
 乱馬は樹に尋ねた。
「役小角様は生駒の神の夢告で、ここへ上り、二匹の鬼を退治したという伝説があるんですよ。その、二匹の鬼、前鬼と後鬼は、この地で小角様に折伏(しゃくぶく)されたそうなんです。」
 樹は滝に染み渡るような声で言った。
「しゃくぶく?何だそれ…。」
 相変わらず、乱馬は無知だ。
「悪人を法力などによって、ねじ伏せて仏法に従わせる事ですよ。簡単に言えば。」
「ふーん…。ってことは、小角って奴が、鬼をねじ伏せた場所っつーことか。」
 わかっているのか否か、心許ないが、乱馬はう頷いて見せた。
「ええ、小角様は、持てる法力を出し、この地で前鬼と後鬼を説き伏せ、改心させたのだそうです。」
「改心ねえ…。悪い鬼から、良い鬼になった、っつーところかよ。」
「まあ、そうなりますね…。菜畑の里の人々を困らせていた鬼は、小角様に邂逅し、折伏されて、以後は、小角様と同行し、彼の式として活躍したそうです。特に、一言主との闘いの時の、前鬼の活躍は、想像を絶する物であったと、ボクの家には伝えられているんですよ…。小角様も勿論、命を懸けて闘っておられたし…。」
「へえ…。確か、前鬼っつーのは、雄鬼だったよな。」
「ええ、そうです。前鬼が雄で後鬼は雌と言われています。」
「後鬼はどうしてたんだ?その、一言主との前の闘いの時はよう…。」
「さあ…。」
 樹はそこで言葉を切った。
「さあ?…ってことは、てめえも知らねーのかよ…。」
「一千年以上前の話ですからね。伝承もいつしかなくなりましたし…。」
「一言主を倒した後は、役行者はどうなったんでい?」
「小角様は、一言主との闘いの後、すぐに入滅(にゅうめつ)なさっています。」
「入滅?」
「生死を超越した状態になること…、即ち、聖者が亡くなられる事ですよ。伝説では、小角様は母君、白専女(はくとうめ)を鉄鉢に入れ、それを掲げて、雲海を渡って言ったと言われていますけれどね。」
「嘘臭せー話だな。ありえねえぞ、そんな話。」
 乱馬はポツンと言った。あまり、この手の話は信じない主義なのだろう。
「ははは…。そんな事言ったら、身もフタもないですよ…。まあ、一般に言われている伝承ですけどね…。ただ、ボクの家に伝わってるのは、ちょっと違ってるんです。」
「あん?」
「白専女が母ではなく、女、即ち、愛していた女性だという伝わり方をしてるんですよね…。」
「ふーん…。母ちゃんじゃなくって女かあ…。小角とて、修験僧だったんだろ?山を走り回る神様は、女と交わりを持つわけにはいかねーもんな…。で、いつしか「恋人」が「母親」に取って代わったのかもしれねえし…。」
「いえ、性的交わりは持たぬ絆だったかもしれません…。男はともかく、女は性的交わりを持つと、十中八九は「霊力」がなくなりますから…。ストイックな関係だったのかも…。よしんば関係を結んでいたとしても不思議じゃあないですけどね。」
「あん?」
「賀茂氏の一族は、古くから、修験の色濃い確かな血を遺すために、同族結婚が多いんです。賀茂氏だけではなく、天皇家も他氏との交わりを避けていた風がありますからね…。異母兄妹の結婚も古代には多かったですし…。もしかすると、小角様と白専女は「許婚」みたいな関係だったのかもしれませんし、案外、婚姻関係だったのかもしれません。」
「じゃあ、何か?妻帯してたのか?小角って奴は…。」
 乱馬は聞き返した。
「ボクの家にも、詳しくは伝承されえていませんから想像するしかないんですが…。でも、少なくとも、「役(えだち)」の家系は現在に至るまで脈絡と息づいているんです。…平たく言うと、小角様が婚姻して子孫を遺していないと、小寒様もボクも居ないはずなんです。」
「なるほどねえ…。役は今でも存続しているのか…。」
「賀茂氏の中でも特別な存在ですからね、役は。元々、賀茂氏の「カモ」も、「神(カミ)」と同義語だったと言う説もあるんですよ。言語学的には…。」
「へえ…。」
「ボクの中に、小角様へ流れていた強い霊力が有るか否か…。」
「それによって、鬼神を呼び起こせるかどうか決まるってのか…。」
「そう言う事です…。」
「でも、ここまで辿り着いたは良いが、この先はどうするつもりなんだ?」
 乱馬は樹を見た。
「この滝に何か秘密でもあるかと思ったんですが、別に何もなさそうですね…。ボクには多少なりとも「霊感」があるんですが、今は何も感じ取れません…。」
「ってことは八方塞がりかよう…。」
 溜息が漏れる。
 ここまで来て収穫がなし、とあっては、これまでの行程が全て無駄になるということだ。
 
「なあ、どうせなら、占ってみろよ…。」

 ポツンと乱馬は言った。

「占う…。そっか、これでもボクは古代祭祀一族、賀茂氏の末裔ですものね…。祭祀に卜占は欠かせないもの…。そうか、もしかすると小角様は、占いで、鬼を使役する資格があるかどうか、見極めるおつもりかもしれませんね。」

 沈んでいた樹の声が、途端、明るくなった。
 そして、背中に背負っていた笈(おい)を外すと、地べたへと、トンと置いた。笈の中には卜占道具が入っている。

「古代からボクの家に伝わる卜占をやてみます。」
 そう言うと、手馴れた手つきで、占い版を出す。妖しげな文字が墨書きされた、年代物の卜占道具だった。

「星の位置で、占ってみます。」
 樹は空を眺めながら言った。

 さすがに、ここまで来ると、星も美しく瞬いている。生駒山の西側に広がる大阪平野側は、山の上でも眠らぬ大阪の町の明りのせいで、空も霞んで星数も見えないが、この場所は山地。木々に覆われていて上に広がる空だけは、たくさんの星がひしめき合って輝いている。晩秋の冷え込みで、空気も澄み渡り、多少は冴えている。開けた場所ではないので、空の視界自体は小さいが、それでも、星を読むくらいの事は造作ないのだろう。
「乱馬さん、悪いんですが、その辺りから枯れ木を集めてくださいませんか?それで護摩を焚きたいんです。」
 樹は協力を頼んだ。
「よっし、任せとけ…。焚き火にするような朽木や枯れ枝で良いんだな?」
「お願いします。」

 乱馬も山修行には慣れ親しんだ身の上。茂みに入ると、ガサガサと枯れ枝を集め始めた。山修行する時、暖を取ったり煮炊きをするのに、どんな枯れ木を集めればよいかは、だいたい見当がつく。
 程なくして、両腕いっぱいに、枯れ枝を集め、薬師仏の前に、ドンと置いた。
 樹はそれを、器用に組み合わせ、小さな護摩壇らしきものを設えた。これまた、作り慣れているのか、造作なく作り上げる。
 それから、持っていた火打石で木に火を灯す。火打石の使い方も、馴れているのだろう。すぐに、煙があがり、焚き木のように火がついた。
 小さな護摩壇なので、燃え盛るような業火にはならなかったが、それなりの焚き木くらいの火には持っていけた。
 樹は、火の前で印を結び、呪文を唱え始めた。そして、手に持った「お札」を次々に火へくべ、再び印を結び、一心不乱に祈り始める。
 樹の甲高い声が、誰も居ない、生駒の山間に響き渡る。
 乱馬は黙ってそれを見詰めていた。

 どのくらい、そうやって呪文を唱えていただろう。

 突然、火がバチバチッと弾けて、高く上がった。
 燃え盛っていた枝木が背伸びをし、崩れるように動いた。
 再び、火が燃え上がり、静かになった。
 その火を見ながら、何かを懸命に読み解こうと、樹は意識を集中させていた。
 乱馬は黙って、樹を見守る。彼にはそれしか術がない。
 最後にくべたお札が、ぱあっと燃え盛る火と共に、上に弾け飛んだ。その札は、火でめらめらと焼かれながら、すうっと、暗い森の方へ向かって飛んでいく。
 それを眺めながら樹がポツンと言った。

「鬼取岩の方向が読み解けました…。」

「ホントか?」
 乱馬は浮き足立った。

「ええ…。多分という「語」が頭につきますけどね…。」
 そう言いながら、道なき場所を指差す。

「東の方向にその「岩坐(いわくら)」は鎮座している、と卜占には出ました。あの札が飛び去った方向へ行けば、必ずや行き当たるだろうと…。」

「だろう…か。随分曖昧な結果だな…。まあ、いいか。行こうぜ。」

 乱馬はおさまりかけた火を、パタパタとチャイナ服の上着であおると、消しにかかった。日の後始末は山火事の原因になる。ちゃんと鎮火を確かめてから、次の行動へ移るのが、山で修行する者の常識だ。
 丁度、水場も傍にある。

「うへっ!冷やっこいぜっ!」
 手ですくい上げると、それを火の上に何度も振り掛ける。こうやって、完全に火を消すのだ。最後に、足で砂をかけ、本当に消えたかどうかを確認する。
 樹は笈の中から、法具を取り出していた。
「何だそれは?」
 乱馬が問いかけると、樹は言った。
「三鈷鈴(さんこれい)です。」
「三鈷鈴?」
「ええ…。先っぽが三つになった、鈴です。これを用いて、先へ進めと占いに出ていたものですから…。」
 樹は真剣な顔を差し向ける。
「元々、鈴は仏や神を喜ばせるための法具なんだそうです。仏や神はこの鈴の音色に耳を傾け、歓喜するのだそうで…。」
「へえ…。俺はまた、獣避けや魔物の意味でもあるかと思ったぜ。ほら、熊や蛇は鈴の音を嫌うって言うじゃねえか…。」
「杖や身体に着ける鈴はそういう意図があるかもしれませんが…。とにかく、先を急ぎましょう。ぼやぼやしていたら、夜が明けてしまう…。夜が明けると、鬼取岩を見つけても、鬼の魂と出会うことはできなくなります。」
 乱馬は樹と共に、卜占が指し示した茂みへと入った。

 道なき道。獣道ほどの隙間もない。木と草が多い茂った茂みの中。斜面になっている方向を、心細い懐中電灯の光だけで突き進んでいく。
 二人とも必死だった。

 あの、一言主に対抗しうる力は、今の乱馬には無かった。
 真っ向から勝負して、勝てるとは思えない。相手は神通力を使う上、あかねを人質に取られている。
 鬼の手も借りたい。そんな心境であった。

 樹は懐中電灯だけではなく、三鈷鈴も頼りにしているらしかった。

「その鈴、鳴らねーな。」
 乱馬は後ろから声をかけた。
 鈴と名前がついている以上は、鳴るのが条理だとろうと思っていたのに、チリンとも音がしないのだ。

「この鈴は、特別なんですよ…。霊気に反応するんです。」
「霊気だった?」
「ええ。人間以外の霊的なものに反応すると鳴り出すという、特殊な鈴なんです。自然界の中に溶け込んで眠っている、前鬼や後鬼の霊力は、封印されているとは言え、並大抵の物ではありません。その霊力に反応すると、必ず、鈴は惹き合うように鳴り始める筈です。」
 樹が説明してくれた。
「また、「筈」なんだな…。曖昧というか…。」
「仕方がないです。この鈴は呪力がない人間が持つと、その威力は発揮されませんから…。」
「ってことは、俺みてえに、霊力が無い人間には扱えねーって事か…。」
「恐らくは…。」
「ちぇっ!はっきり言うなあ…。で、おまえは大丈夫なのか?」
 乱馬は尋ねた。
「だから「筈」としかお答えできません。少なくとも、乱馬さんよりは、僕のほうが、修験道の修行を積んだ分、分があるとは思うんですが…。」

 と足を進めたところで、樹の表情が変わった。

「どうした?」
 乱馬も真摯な表情を樹に手向けた。

「しっ!」
 樹は口元へ人差し指をあてがった。
 何か聞こえたのだろうか。表情が明らかに変わった。
 
「こっち…。」
 と、樹はきっと、先の暗闇を見詰めた。
 それから、目指して進み始めた。
「あ、待てっ!そんなに急ぐと危険だぜっ!」
 乱馬の方が焦ったくらいだ。
 樹も山を知り尽くした少女だ。乱馬にも引けを取らない、敏捷性(びんしょうせい)を持ち合わせている。
 だんだんに急ぎ足。そして小走り。

 彼女には道が見えていたのかもしれない。

 斜面を少し行った所に、その岩はあった。
 山肌に突き出した所に、でっかいのと少し小ぶりなのと二つ。まるで寄り添うようにその岩はそこに鎮座していた。



二、

「何か、雰囲気がある岩だな…。」
 乱馬はそいつらを見上げた。
 仄かに懐中電灯の明りで照らし出される、巨岩。
 その背後には、大きな榊の大木がそびえるように、しっかりと根を下ろし、天へと枝葉を伸ばしていた。
 苔むした岩肌に、ひび割れた地肌。二つの岩を繋ぐように、注連縄が張られている。その岩が「聖なるもの」と言うことを暗に指し示しているようにも感じる。

「多分、これが鬼取岩でしょう…。」
 樹が見上げながら言った。
「また、多分…かよう。」
 乱馬がはあっと溜息を吐き出した。
「でも、何かがこの岩の袂に眠っているのは確かです。ほら…。聞こえませんか?」

 樹は鈴を乱馬へと差し向けた。

「別に…。俺には何も感じねえけど…。」
 乱馬は思わず苦笑していた。
 彼から見れば、聖なる法具もただの金属の塊。そうとしか思えなかったのだ。
 だが、その三鈷鈴を翳す、樹の表情は真剣そのものだった。
「もしかして、おめえには、聞こえるのか?そいつの音色が…。」
 と聞いてみた。
 樹は黙って、コクンと答えた。
「ボクには耳をつんざくように伝わってきます。」
 とにっこりと笑った。
「ってことは、これが…。」
「鬼取岩です。」
 樹はそう言うと、三鈷鈴を思い切り振った。
 それからぐっと、鈴を持つ手へと、力を込める。
「何やってんだ?」
 乱馬が尋ねた。
「ボクにはたまらなく、うるさいんでね、鈴が鳴るのを止めたんです。」
 と笑った。
「自在に、音を止めることができるのかよ…。」
「ええ、まあ…。これでも修験者の修行を積んでいますから。」
 と、小声で謙虚に自慢する。
 やはり、だてに修験修行を積んだわけではないようだ。霊力を高めたり、沈めたりできる力を、彼女なりに得ているようであった。
 中性的な感が、彼女を覆っている。乱馬も中性的と言うことに関しては、引けを取らないが、まとった霊気の質が違うのだろう。巫女と凡人の違いだ。

 鈴の音と止めると、樹は数珠を構えた。

「これから前鬼と後鬼を封印した御魂を取り出します。下がっててください。」

「お、おう…。」

 樹は数珠を前に構えると、頭の前に差し出した。
 そして、阿字を空できると、何か術をかけはじめた。

 どうやら、本気で前鬼と後鬼の御魂を取り出す気なのだろう。乱馬は黙って樹の一部始終を見ていた。


 そろそろ夜明けが近い。
 空を照らしていた星の輝きが、だんだんに薄れていく。
 東の空がほんのりと白み始めている。
 夜明け前後が、一日で一番冷え込みが厳しい。
 あと、小一時間もすれば、夜は完全に明けてしまうだろう。

 樹は、真剣に祈り続ける。
 何かの兆しを呼び起こそうとしているのだろうか。
 黙って乱馬は見守り続ける。


 と、乱馬の瞳に、小さい方の石が、黒く歪んだ光を投げかけたように見えた。
 ほんの一瞬だが、闇が石のすぐ傍で蠢いたように思ったのだ。

「ん?」
 と思ってじっと目を凝らす。
 何かどす黒い気配のような物が樹の読経のような呪文に反応したように見えたのだ。
 じっと見ると、石の袂、土と触れ合う部分が、大きくえぐれているように見えた。
 暗いから、はっきりとは見えなかったが、確かに、足元の土の色が変わっている。
 誰か、そこを掘り返したような、そんな痕跡が見受けられたのだ。
(誰か、ごく最近、この岩を辿って来た奴が居たのか?)
 そこはかとなく、そんな感じを受けた。

 そんなことを思っている乱馬の傍、構わず、樹は呪文を唱え続けている。

 じっと、小さな石の袂を見ていた乱馬の脳裏に、突然何者かが語りかけてきた。

『おめえ…。気が読めるのか…。』

 そいつは、乱馬へと声をかけたようだ。

「誰だ?」
 そう問い返そうと、振り向いた途端だった。

「なっ!」
 足元の地面がばっくりと割れ、そのまま、下へと引き込まれるような感覚に襲われた。
 足元がいきなり開いて、奈落へ開いた穴と引っ張られる、そんな感じだ。

「うわあっ!」
 そのまま暗がりへと身体ごと落ちて行く。
 不思議と、真っ暗なはずなのに、辺りの景色が、鮮やかに目に飛び込んでくる。黒い岩肌と、下へ伸びる木の根。
 どこか別の世界へと、落下しているような気がした。
 乱馬は無我夢中で、受身の態勢を取るべく、身を屈める。必要と有らば、気を放出して、落下の衝撃を和らげようと、二の腕に体中の気を集中させた。
「くっ!」
 気を下方へ向けて打ち、落下のスピードを柔げる。
 そして、難なく地面へと降り立った。
 辺りは真っ暗な空洞だ。どのくらい落ちてきたのか検討もつかない。

『なかなか、面白い技を使うじゃねえかっ!』
 また背後で声がした。

「誰だっ!さっきから!」
 乱馬はキビッと身構える。
 すると、今度は脇から石つぶてが幾つも飛んできた。

「くっ!」
 乱馬はそれらを身軽に避けた。
 足場は悪かったが、山中での修行に慣れている、彼には、足場の確保など、造作もないことであった。
 ヒュンヒュンと石つぶては、乱馬の華奢な身体を掠めて飛んでくる。落ちては、再び跳ね上がり、己に目掛けて来る。まるで、石が生きているように、自分へと飛び来る。

「ちっ!キリがねえ!」
 ドンと一気に気を放った。身体から放出される、青白い気焔。それに、当たって、一つぶてはバラバラと砕け散る。

『へえ…。おめえ、なかなか強いな…。だが、今度はこれでどうだっ!』
 見えない敵は、再び戦慄いた。
 今度、飛んできた物は石ではなかった。いや、飛んできたというよりは、正確には、伸び上がって来たと言った方が正解だろう。
 紐状のおどろおどろしい触手のような白い物体が、乱馬目掛けて、襲い掛かって来たのである。

「うわああっ!」

 あっという間に、その一つに腕をつかまれた。
 メキメキと音を立てて、次々に襲い掛かる触手。右手の次は左手、そして、右足、左足。最後にはぐっと胴体にまで絡み付いてくる。

 遂に動きを止められた。
 それだけではない、触手は容赦なく、乱馬を締め上げていく。

「ぐっ!」
 痛さで思わず声が漏れた。
「誰だっ、畜生!こんなことしやがるのは。正体を現しやがれっ!こんの、卑怯者っ!」
 乱馬は思わず叫んでいた。

「やかましいっ!俺は卑怯者なんかじゃねえやっ!」
 乱馬の声に反応するように、真正面から声が響き渡ってきた。
 と、目が慣れたのか、暗闇の向こう側に人影が見えた。
 いや、乱馬を縛り上げていた「触手」がぽうっと光を集めているのだ。その明りで、空洞が照らし出され始める。

「て、てめえは…。」 
 伸びてくる触手の方を見詰めて、思わず乱馬はぞっとした。
 こしらを睨んでくる、激しい視線とぶつかったのである。

 乱馬の数メートル先にそいつは居た。
 岩壁の中に、すっぽりとはまり込み、顔と胸から上の上半身の前面部分だけをそこから出している。丁度、岩に人間が生えている、そんな感じに見えたのだ。
 そして、そいつの埋もれている岩壁から、根っこのような触手が、己に向かって伸び上がっていた。
 乱馬が驚いたのは、それだけではない。
 鋭い眼光と顔そ見てぎょっとした。鮮やかな青い色の刺青が身体にあったが、その顔立ちが、男の己と似ていたのである。

「おめえ…。」
 乱馬が何かを言い出そうとしたとき、そいつは、叩きつけるように吐き出した。

「おめえかっ?後鬼の御魂をここから持ち出した、罰当りはっ!てめえ、後鬼をどうした?くおらっ!」
 かなり柄の悪い、口ぶりだ。
 彼が相当怒りに燃えている事がわかる。
 
「畜生!俺をここへこんな風に術で縛り付けやがって。どういうつもりでいっ!出せっ!それから、後鬼を戻せっ!こんの野郎っ!」
 更に激しく吐き出した。

「ちょっと待て…。いきなりそんなこと、訊かれても、知らねーぞ…。その、後鬼とかいう奴は。第一、俺は、今始めてここへ落ちてきたんだぜっ!」
 乱馬は締め上げてくる触手をぐっとつかみながら言った。視線をめぐらせると、彼の埋もれた穴の横に、人が一人分すっぽり入るくらいの穴がぽっかりとあいている。どうやら、そこに、彼の言う「後鬼」が埋もれていたのかもしれない。

「てめえ、この期に及んで、シラを切る気か?いい根性してんじゃねかっ!こらっ!この野郎…。」

 どうやら、己に巻き付いている「触手」はそいつの意で動かせるようで、キリキリと乱馬の身体を締め上げてくる。

「だから、知らねーっつってんだろがっ!」
 激しい痛みに耐えながら、乱馬は吐き出した。

「ふん!てめえの身体からは、後鬼の匂いがプンプン漂ってきやがんだっ!」
 そいつは、乱馬を見据えた。
「匂いがどうだって言われても、俺は知らねえっ!知らない物は白状しようもねえだろがっ!」
 抗いながら、乱馬は叫んだ。

「てめえ、どうしても、白状しねえなら、ここで死ねっ!」
 
 そいつは、乱馬に向けて冷たく言い放った。



つづく



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