◆夏の花


 灼熱の太陽は西の傍に沈み、夕闇が降りて来る。
 都会の空には、殆ど、星は瞬かない。
 それでも、薄らと都会の燈火に負けぬように、いくつかの星が光り始める。
 心配された夕立は来なかったものの、吹き抜ける風は生ぬるく、アスファルトに覆われた地面は、まだ熱が籠っているようで暑い。
 今夜は花火大会。
 有名な隅田川の花火大会とまではいかなくとも、都心の花火ともなれば、見物客が多いものだ。夕暮れ前の早い時間帯から、少しでも良い場所で夜空の花を見ようと、人々が、会場にほど近い河原を目がけて集まって来る。
 広い河原の脇では、屋台が軒を連ね、芳(かぐわ)しい匂いや鮮やかな色で、お客を誘う。



 そんな、賑わっている河原から、抜け出そうとする、娘が一人。
 朝顔柄の濃い紺色の浴衣に真っ赤な帯。憂いを帯びた瞳で、空を見詰めながら、どんどん河原とは反対の方向へと歩みを進める。口元をへの字に結び、怒っているようにも見受けられた。
 彼女のそんな様子など、気に留める者も無く、流れて来る人波。それに逆らいつつ、いつしか堤防を越えていた。

「乱馬のバカ…。」
 人波から弾きだされると、結んでいた口から、小さな罵声が零れ落ちた。

 手には団扇と夜店で買った駄菓子の袋を握りしめている。今では珍しい、新聞紙の折袋の中に、金平糖が入っていた。

 堤防を越えて続く、アスファルトの一本道。
 家の方向へと歩み出したつもりだった。


「あれ…?」

 辻角に来て、ふと足を止めた。
 行きがけに通った道とは、違うと気がついたのだ。
 平らな筈の道に、少し傾斜がついていた。軽く坂道になっている。

「こんなところ、通ったっけ…。」

 不思議に思いながら、歩み続ける。
 いつの間にか、車が通れる道幅ではなく、自転車がかろうじて通り抜けられるような細道へとさしかかった。
 人家も途絶え、こんもりとした雑木林が夕闇に浮かぶ。
 そのまま、進んで行くと、小さな祠(ほこら)へ突き当った。道祖神でも祀っているのだろうか。いや、赤い鳥居が目についたところを見ると、お稲荷様かもしれない。
 道は生憎、そこで途絶えていた。
 祠の傍には、心細げに立つ、電信柱が一本。
 今では珍しい木製の電柱だ。おまけに裸電球の燈火が灯っている。
 祠の後ろ側に数メートル四方の小さな空き地があった。

「どこかで道を間違っちゃったみたいだわ…。」
 方向音痴の友人を思い浮かべて、ふと苦笑いが零れ落ちた。


 引き返そうと振り返った時、さっきまで居た河原がそこから見渡せることに気がついた。
 どうやら、祠は高台に建っているようだ祠の向こう側に、軒を連ねる夜店が、面白いように良く見える。
 ぐるりを見回しても、人は居ない。
「花火を見物するには、穴場かもしれないわね…。」
 そう思いながら、ふうっとため息が漏れた。

 傍に乱馬が居てくれたら…。

 ふっと、浮かんだ彼の顔。
 ブンブンと頭を振って、打ち消した。

「ダメよ…ダメダメッ!はぐれちゃったんだからっ!仕方がないわっ!」

 また、ふうっと漏れる大きな溜息。

 そう、一緒に歩いていた筈の彼の姿はどこにもない。
 はぐれた…というよりは、置いてけぼりを食らったようなものだった。
 携帯電話など所持していない、彼。はぐれたら連絡のとりようもない。

「ホント…いつもいつも…肝心な時には、こうなっちゃうんだから…。」
 寂しさとも憂いともつかぬ、複雑な想いが、溜息と共に、溢れだした。






 夕刻…。

 天道家の面々と、陽が落ちないうちに家を出て、河原へと向かっていた。
 家族揃って、花火見物。そう、決め込んで揚々と出て来たのだ。
 のどかが着せてくれた、おろしたての浴衣(ゆかた)。
 和装に造詣の深い乱馬の母が、天道三姉妹それぞれに仕立ててくれた浴衣だった。日頃、居候としてお世話をかけているからと、作ってくれたのだ。
 締めてくれた帯は、少し年季が入っている。母が若い頃に使っていたという浴衣帯だった。しかも、簡易帯ではなく、のどかが本格的に着せてくれた。

 普段は喧嘩ばかりしている乱馬も、今日はどことなくそわそわとしていた。
 彼もまた、母にしつらえてもらった浴衣を着て、少し違った感じに見えた。
 特に、約束をしていたわけではないが、自然と一緒に居る事の多い二人。つかず離れず…それが定番となって、どのくらい経つのだろう。
 あかねも乱馬も、ごく自然に、家族と共に、花火見物に繰り出したのである。

 そこまでは良かった。

 寸胴だの、可愛くねーだの、雑言ばかりを機関銃のように、浴びせかけて来る彼も、今日ばかりは、攻撃してこなかった。
 天道家の面々と混じって、あかねのすぐ後ろから、寄り添うように河原までの道を歩いて来た。
 河原に並ぶ、縁日の夜店で、あかねは可愛らしい金平糖に引かれた。何の変哲もない、星型の砂糖菓子だが、小銭を出して買ったのだ。
 その間中、乱馬は傍に居た。特に言葉を交わす訳でもなく、じっと、あかねを見守り続ける。はぐれないようにという気遣いだったかもしれない。
 案の定、柔らかな雰囲気を醸し出している、この不器用なカップルに気を遣ったのか、それとも、最初から申し合わせていたのか…。すっと天道家の面々は、このカップルから離れて行ってしまった。
 金平糖をおじさんから受け取って、気がつくと、あかねは乱馬と二人、ぽつねんと取り残されていた。

「あれ?…みんなは?」
「…先に行っちまったかな…?」
 二人、きょろきょろとあたりを見回したが、この人波だ。容易に見つけられなかった。
「ちぇっ…。待っとけって親父たちに言ったのに…。」
 ふっと零れる言葉。
「はぐれちゃったかな…。」
 ポツンと言った不安げな言葉。
「ほれ…。俺たちまではぐれたら洒落になんねーからな…。」
 そう言って、徐(おもむろ)に差し出された左手。そっと右手をからめた。
 ほのかに染まる互いの頬。
「まだ早いのに、随分人が多いな…。」
「まだ、花火が打ち上がる時間まで二時間はあるのにね…。」
「場所取りもかねてるしなあ…。」
「打ち上がる頃は、人がもっと出て来るんでしょ?」
「ああ…。だから、はぐれるなよ…。」
 ぎゅっと手に力が込められた。

 珍しく、今日の乱馬は積極的だった。
 口数は少なかったが、悪態も吐いてこない。穏やかで落ち付いていて…。まるで、恋人同士のように、並んで河川敷を歩いていた。
 整備された芝生が植わる。ところどころに球技場なども設えてある。草も丁寧に刈り取られていて、ちょっとした河川敷公園になっている。

 だが、あまりの人の多さに、辟易としかかった。

「これじゃあ、ろくに花火も見えねえよなあ…。」
「そーね…。」
「間近で見るのは諦めた方がよさそーだな…。」
 そう言いながら、人の流れとは反対の方向へと歩き始めた。
「ちょっと、離れるけど…こっちへ行ってみよーぜ。ロケーションの良い穴場があるかもしんねーし…。無かったら、ウチの屋根に上るのもありかもな。」
 そんなことを言って笑った。
 そして、見つけた、小さな場所。
 場末の河川敷の中の空き地だった。少し川がカーブしていて、メイン会場からは遠ざかったが、十分、花火が見上げられる距離だった。
 少し、前に木が覆いかぶさる枝葉が邪魔で、若干、見通しは良くないが、十分、夜空を仰げるだろう。

「それにしても、結構、河川敷に沿って、遠くまで夜店が続いてんだな…。」
「メイン会場から遠くても、結構、人出があるからね…。それに、夕立も無くて、天気も良いし。」
 そんな他愛のない会話を続ける。



 なのに…。


 有頂天の時間は、唐突に、落胆へと突き落とされた。


「そこに居るのは天道あかねーっ!」
 突然出現した、いきなり男。
「九能先輩っ!」
 ギョッとして振り返ると、いきなり抱きつかれた。
 いつもなら、軽く蹴りあげるのだが、浴衣を着用していたので、つい、遠慮がちになってしまった。
「僕と花火を見に来たのか?うい奴だな…。この先にある、九能家の特等席に招待してあげよう!」
「遠慮しときます…。」
 躊躇していると、今度は黒い花びらが舞いあがる。
「まあっ、乱馬様っ!わたくしに会いに来てくださったのですか?」
 仇花のような真っ赤な薔薇の描かれた黒地の浴衣。九能小太刀だった。
「嬉しいですわっ!」
 あかねを突き飛ばして、乱馬の首へと巻き付く。
「何するのよっ!」
 突き飛ばされたあかねは、もちろん食ってかかった。
「お邪魔虫はおどきなさい。」
 ツンと言い返される。
「誰がお邪魔虫ですって?」
 思わずカッとなって、食い下がろうとする。

 と、物影から、今度はコテと中華鍋が飛んできた。
 サクッ、サクッ、ズッ…。砂煙をあげて、地面へと突き刺さる。
 何事っと小太刀ともどもサッと避ける辺りは、さすがに武道家の一面が覗く。

「乱ちゃんっ!ええとこで出会ったわ…。うちの店、この先にあるねん!特製お好み焼きを焼いたるわー。寄って行きー。」
「何、言うかっ!猫飯店特設屋台料理、ふるまうね。」

 偶然というのは、げに恐ろしいものである。
 こちらの意図とは別の次元で、河原のど真ん中で、九能兄妹、右京、シャンプーと乱馬のすったもんだが始まってしまったのだ。
 当然、雑踏の中の争奪戦だ。
 何事かと、人が集まり始めるのも詮無いこと。
 このままでは怪我人が出るかもしれない…咄嗟に乱馬は、そう判断したのだろう。
「…たく…往来の真中で、迷惑なんだよーっ!」
 そう、言葉を吐き捨てると、目もくれずに走り去った。

 そこにあかねを残したまま…。
 
 あっという間に、二人の希少な時間は吹き飛ばされてしまったのだ。

 後に遺されたあかねは…ムッとした表情を浮かび上がらせる。
 広い河原だ。それに、もうすぐ夕闇が降りて来る。人波も途切れることなく、さっきよりも数が増えてきた。ここで待っていたとしても、彼が戻って来られるのか…。正直、見当もつかなかった。
 今は人が少なくても、陽が落ちてしまえば、どんどんと増えるだろう。暗くなれば、尚更、探し出すのは至難になってくる。

 案の定、乱馬は帰って来る気配も無い。三人娘とくんずほぐれつ、追いかけっこを続けているか、それとも、あかねのところに戻れないほど離れてしまったのか…。

「とっとと帰るしかないな…やっぱり…。」
 人出が増えると、帰宅するのも、かなり面倒になるだろう。ならば、始まる前に…。

 深いため息をひとつ吐き出すと、あかねは、諦め顔で、花火会場を後にしたのである。






「別に乱馬と二人きりでなくても…家族みんなとでも良かったのになあ…。」
 気を遣って自分たちから離れた家族にも、恨み辛みを言いたくなる。
 言ったとしても、どうにもならないことを、良くわかっている筈なのに…。頭で理解できても、感情的に吹っ切れないことも、人生の中には多々ある。その中の一つの事象に過ぎない。それも、良く分かっていた。
 だが、吹っ切れない、いらいらした気持ちを、持て余しながら夜空を見上げる。

 そろそろ花火大会が始まる時間だ。

 偶然、立ち入った空き地。誰の気配も感じなかった。
 現実の中に、ポツンと取り残された空間。
 ここに陣どって、一人、花火を見上げるのも、良いかもしれない…。
 そう思って、あかねは、傍にあった石に、ちょこんと腰かけた。
 特に石碑でもない、かと言って祠の付属している置き石でもなさそうだ。
 膝の高さくらいの石だった。座ってくださいと言わんばかりに祠の脇に存在していたのだ。

「あらあら…珍しい…。こんな場末に、先客がいらっしゃったとは…。」

 ふっと、人の気配が立った。
 ハッとして振り返ると、一人の浴衣姿の女と瞳がかち合った。

 二十代後半か三十代前半くらいの、女性だった。
 髪を後ろに流し、赤いギヤマンのかんざしを後頭部にスッと挿している。白地に紺と赤の花火柄模様が印象的な浴衣だった。帯は茜色。何より、後襟をぐっと引いて、背中を少し開けさせて見せる…そんな着流した感じが粋に見えた。
 こんな浴衣の着方もあるのかと、少し感心を寄せた。
 長いキセルを手に、ポッと煙をくゆらせている。嗅いだ事のない不思議な匂いの煙だった。

「ふふふ…かわいらしいお嬢さんだこと…。この界隈の娘さんかしら?」
「え…ええ…まあ。」
 あかねはためらいながら返答する。
「お家はどこ?」
「えっと、練馬です。」
「そう…。」
 女性はにっこりと微笑み返した。

「ここ、いいかしら?」
 とあかねの隣を指差した。
「ええ、どうぞ。」
 ちょっと右端に寄って、女性が座れるだけの空間を作った。

「毎年、ここから花火を眺めているんだけど…。嬉しい…やっと…あなたのような娘さんと巡り合えたわ。」
 女性はそう言って、にっこりと笑った。
 その言葉に、一瞬、あかねは困惑した。何やら訳がありげに聞こえたからだ。
 だが、女性は一向に気に留めることなく、あかねへと問いかけた。

「この場所、良いでしょう?」
 と嬉しそうに。

「ええ。河原が見渡せるんですね…。こんな場所があるなんて…。それに、人影も全然無いから、落ちつけますね。」
 戸惑いながらも、しっかりと受け答えする。

「でしょう?」



 バンッ!


 と花火が上がった。

 いよいよ始まったようだ。

 パラパラパラ…。
 煌く火薬の花。


 バン!バン!バン!

 金や銀、赤や黄色、緑やピンク…そして、青。色とりどりの光の花が、夜空一面に咲き乱れ始める。

「花火ってきれいよねえ…。」
 女性は親しげに話しかけて来る。
「そうですね…。」
 あかねはゆっくりと頷いた。

 本当に、この場所から見上げる花火は、幽玄の世界へと連なっているような気がするほど、美しかった。
 何故、誰もここに来ないのか。
 極上の風景を独占していることに、少し後ろめたさすら感じられる。

「青色の花火かあ…。つい、最近までは青色の花火は少なかったのにねえ…。」
 ふっと女性の頬が緩んだ。
「そうなんですか?」
 あかねは思わず問い返していた。
「ええ…。夜空は黒でしょ?暗い空に青い色を栄えさせるのは、花火師にとって至難だったのよ。」
「ああ…なるほど。」
 花火に造詣が深いのだろう。そんな会話に、固かったあかねの心も時ほぐれて来た。
「この頃は火薬もいろいろ良い物が出て来たのねえ…。紫や桃色の花も咲かせてくれるわ。ほんとうに、花が咲き乱れているようで、美しいわ…。」

 バンバンと次々に撃ち上がる花火。あかねもその美しさに、見惚れた。

「ふふふ…まだ幕府が大江戸にあった頃は、花火ってこんなに色とりどりじゃなかったのよ…。」
 女性はじっと花火を見上げながら、そんなことを語りかけて来た。
「江戸時代の花火…ですか?」
 あかねは瞳を巡らせて、問い質した。
「ええ…。こんな色合いの鮮やかな花火なんて、言っても、数十年ってところねえ…。今から二百年前の花火なんて、こんなふうに夜空を奔放に花開いていなかったわ…。むしろ、落ちて来る火の玉を味わったものよ。色だって、黄金色一色だったもの…。」

「火の玉…ですか?」
 戸惑いながら女性を見返した。

「ええ…こう、流れ星のように火の玉が地へ落ちていくのを、楽しんだのよ。」

 火の玉と言ってもイメージが湧かなかったが、今と様相が大分違っていることは、あかねにも容易に理解できた。
 線香花火を大きくしたようなイメージかと思ったのだ。そこから連想するに、昔の花火が色が無かったのも、頷けた話だった。

 でも、何故、この女性はそんなことを詳しく知っているのだろうか…。少し、不思議に思い始めた。

「お嬢さんは、玉屋ー鍵屋ーってかけ言葉を、ご存じかしら?」
 女性は切れ長の細い目をあかねへ手向けて、問いかける。
「ええ…言葉くらいは…。確か、大江戸の夜空を賑わせた、花火屋さんでしたよね?それぞれが技を競い合って、花火を打ち上げたって…。
 その美しさに拍手喝采して、人々が、玉屋ーっ!鍵屋ーっ!って声をかけたんでしたよね。」

「そうね…でも、それだけではないわ。鎮魂の意味も備わっていたのよ。」
 
「鎮魂?…」
 女性の言葉の意味が捉えきれずに、あかねは思わず、問い返していた。

「私の許婚はね、花火師だったの。玉屋の…。」

 バンバンと次々に撃ち上がる花火を眺めながら、女性がポツンと言った。 
 それは唐突の言葉だった。
 その言葉に、何故かあかねは思い切り、心が揺さぶられた。女性の口から、「許婚」という、耳馴染んだ言葉がこぼれたからだ。

「許婚…ですか?」
 困惑げにあかねは問い質す。

「ええ…許婚。親に決められた人だったけれど、相思相愛だったわ。」
 ポツンと女性が声を投げた。
 また、あかねの心がドキンと跳ねた。
 相思相愛の許婚…。そう、己と乱馬も…。意志表示はしていない曖昧さがあるが、互いに惚れあっているのは、触れあっているだけでわかる。
 自分は乱馬が好きで、多分乱馬も…。
「あなたにも、恋する男がいらっしゃるみたいね。」
 ふっと女性は笑った。
「え…ええ…。まあ…。」
 小さく頷いて見せる。

「私の許婚はねぇ…、火薬に夢をいっぱい詰めて、夜空に解き放つ、花火師だったのよ…。いつも、鍵屋の花火師たちと競い合っていたわ。どちらの花が美しく夜空を彩るかってね…。
 夏に近づくたびに、今年も綺麗な花を夜空に打ち上げるって、いつも嬉しそうに話してくれたわ…。」

 ふうっ、と女はキセルをくゆらせた。輪になった煙が、小さく登り上がって空気に溶け込む。
 少し寂しげな表情を浮かべたことに、あかねは少し疑問を持った。
 女性の語感から察するに、その許婚は彼女の元を去ってしまったのかもしれない。

「ねえ、お嬢さん…。あなたは、玉屋と鍵屋が双璧を競い合ったのは、たった三十年ばかりのことだったのを、ご存じかしら?」
「いえ…知りません…。」
 あかねは正直に答えた。玉屋と鍵屋が競ったのは、今は昔の大江戸の頃の話だ。まだ、両家が存続しているのかどうかすら、情報源として持ち合わせていなかった。

「玉屋って、鍵屋からのれん分けしてもらった一代限りの花火屋だったこともご存じじゃないわよね?」
「えっ…?一代…?」
 女性の放った言葉に、思わず、ハッと反応してしまった。
 もちろん、玉屋が鍵屋からのれん分けした花火屋だということも、今、この女性の言葉で知った。

 もしかして…この女性は…或いは、この世の人ではないのかもしれない…。
 と、そう咄嗟に思ったのだ。

「花火屋は火薬をたくさん使うでしょう?…ある時、玉屋の火薬が元で、江戸に大火が起こってしまってね…。
 火事と喧嘩は江戸の花…なんて言うくらいですもの。それはそれは、物凄い業火で、町の半分近くを焼き尽くしてしまったのよ…。」
 ゆらゆらとすぐ傍で女性の姿が、浮き上がって見えた。
 何かを女性に問いかけようとしたが、口が思うように開かなかった。
 すうっと流れて行く風。かすかに火薬の匂いがしたようにも思った。

「その火元の罪を問われて、玉屋は将軍家によってお取りつぶしにされてしまったの。」

 もちろん、初めて耳にする事柄だった。玉屋も鍵屋も言葉としては知っていても、内情まで深く知っているわけではない。あくまで、一般常識の範囲でしか、知識は持ち合わせていない。
 ぐっと両こぶしを膝の上で握りしめる。
 その様子をチラッと覗き見ながら、女性は淡々と言葉を続けた。


「夜空に咲き乱れる花火のように…たった一代の短い玉屋の渡世。でもねえ…その中で、切磋琢磨して、必死で夢を追いかけて、江戸の大空に放っていた、あの人の花火…その花火が未だに私の瞳に焼き付いていて離れないの…。
 次の夏、花火を打ち上げたら、祝言を挙げようって言ってくれた許婚の命が、たとえ業火の中で燃え尽きても…その夢は、人々の胸を焦がし続けたのよ…。
 玉屋の花火を愛でた人々は、玉屋がお取りつぶしになっても、ずっと叫び続けてくれたのよ…。見事な花火が上がる度に…。玉屋ーっ鍵屋ーってね。ほら、お嬢さんだって、さっき知ってるって言ってくれたでしょ?」

 女性の瞳がゆらゆらと花火を見上げながら、揺れた。
 その瞳の先には、バンバンと音が途切れることなく、盛大に打ち上げ花火が夜空へと解き放たれている。
 と、その花火の光を受けて、女性の身体が俄(にわ)かに、虹色に光り始める。
 すると、女性の影が闇の中に飲み込まれるように、消えていくではないか。

 その間中、あかねは身動き一つ出来なかった。立ち上がることも、声を出すことも。


「あの人は短い命の中に、花を咲かせ尽くして、往ってしまっても…、私はここで、こうして花火を見上げながら、待ち続けたのよ…。私たち二人が成し得なかった夢の花を、見事に咲かせてくれる、連理の絆を持った娘さんがここへ辿り着いてくれるのを…すっとね…。その願いが…やっと叶ったわ…。」

 そう言って、にっこりと微笑みながら、消え行く手をあかねへと差し向けた。
 女性の掌から、勢い良く打ち出された火の玉。
 それは、あかねのすぐ目の前で、パンと弾けて花開いたように思えた。
 キラキラと虹色に煌きながら、艶やかな光の大輪を咲かせる。

 花火が見えなくなった時、すぐ傍で焦った声が響いて来た。






「…あかねっ!…おいこらっ!あかねっ!」


「え…?」
 その呼び声に、ふと、我に返る。
 辺りを見回した時、喧騒の現実に引き戻されて行く。
 身体を包む、柔らかな温もり。
 目を開いて、驚いた。乱馬の顔がすぐ傍に見えたからだ。否、それだけではない。
 逞しい腕の中に抱きとめられていた。
 すぐ傍で揺れる、心配げな瞳。真摯に見下ろして来る。

「良かった…。」
 ふうっと漏れる大きな溜息。
 あかねが人心地を取り戻したことに、つい、脱力して頬が緩んだのだろう。

「あれ…ここは…。」
 辺りを見回して驚いた。静寂な空き地ではなく、そこは、人が行き交う、堤防のすぐ下にある、河川敷の小さな空き地のベンチの上だったからだ。


「こんなところで、座ったまま、眠りこけやがって…。俺が見つけたから良かったものの…。」

「花火は?それに、女の人は?」
 きょろきょろと乱馬の胸越しに、辺りを見回した。
「あん?誰もいねーぞ?…それに、まだ花火だって始まっちゃいねーし。」
 困惑げに揺れる、乱馬の瞳。
「だって…あたし…。確かに、花火を見物していて…。」
 と言いかけたところで、すぐ傍に、小さな祠を見い出した。
 丘の上ではなく、堤防の脇にちょこんと佇む小さな祠。しかも、見覚えのある赤い小さな鳥居が目に映った。

「あ…祠…。」
 投げかけた瞳に、乱馬もつられて、その祠を見詰めた。

「お稲荷さんの祠があったのか…だから、木に囲まれて、見通しも悪かったのかよ…。」
 彼が指摘するように、祠の傍には高木ではなかったが、低木がいくつか茂っていた。
 人の流れは正直で、遮蔽物(しゃへいぶつ)があると、途端、少なくなっていた。だからなのか、他に人影もない。

 確か、腰かけていたのは、ベンチなどではなく、石の上だった筈だ。
 それに、住宅街の外れの人気のない高台にたたずむ、小さな祠の横に開けた空き地だった筈だ。
 それが、河川敷の空き地と場所が入れ替わっていた。

「でも良かった、おまえがこの場を動かずに待っててくれて…。」
 乱馬がポツンと言った。
「え?」
 あかねは小さく驚きの声を発した。
「さっきの場所のまま…なの?」
 と逆に問い返していた。
「ああ…。小一時間走り回って、やっと奴らを振り切ってきたんだ…。」
 少しばつが悪そうに、乱馬は答えた。許婚をほっぽり出して逃げたことを、反省している様子だった。
「でも、ホントに良かった…おまえと巡り合えて。」
 にっこりと微笑みかけて来る乱馬に対して、あかねは少しバツが悪そうに笑った。

 自分は、乱馬はもう戻って来まいと想い至って、一旦、この場を立ち去った…。
 なのに、置き去りにされた場所から、動いていなかったとは、どういうことなのか…。
 考えても良くわからなかった。
 どこをどう巡って、ここへ戻って来たのか…。それに、あの女性は…。


「誰かと話してたのか?」
 疑問を脳裏に巡らせていると、怪訝な瞳で問い質された。
「うん…何だか不思議な女の人と話しこんでいたんだけれど…。」
「不思議な女の人?」
「うん…。ちょっと大人な綺麗な人だったわ。こう、雰囲気があって…キセルを蒸かしていたの。」
「キセルねえ…。で?どんな話をしてたんだ?」
「玉屋と鍵屋の話よ。」
「玉屋と鍵屋って、あの、江戸時代の花火屋か?」
「うん…。」
「そいつがどーした?」
「あ…その…、歴史的な話というか…。」
 あかねはそのまま、口ごもった。どう説明して良いのやら、見当がつかなかったからだ。
 変なことを言う奴だと、笑われたりしないか、少し不安だった。それに、一度立ち去ったという後ろめたさがある。

「夢でも見てたんじゃねーのか?」
 ポツンと言葉を投げられた。
「かもしれないわね…。ちょっと非現実的な感じだったから…。」
 ふうっとあかねはため息を吐きだした。
「でも、乱馬知ってた?」
「あん?」
「玉屋って鍵屋からのれん分けしてもらった花火屋さんだったってこと。」
「何か、どっかで聞きかじったような気もするが…。確か、火薬の不始末で大火事起こしてひっそくしたんだっけな?」
「え…?乱馬…知ってたの?」
「ガキの頃、…どっかの花火の仕掛けを親父が手伝ったことがあってよー。花火師さんから教えて貰ったんだ。玉屋ーっ、鍵屋ーっていう掛け声の起源もな…。」
「へええ…おじさまが花火師のお手伝いねえ…。」
「どーせ、何かやらかしたんだろーぜ。俺はガキだったからあんまり詳しいことは覚えてねーけど…。」


 その時、バンッと音が鳴り響いて、色とりどりの花が、夜空へと撃ちあがった。

「おっ!始まったぜ!」
 彼の瞳が、輝いた。

 バンバンバンッ!

 一斉に解き放たれる、夜空の花。赤や緑、青や紫、黄色や桃色…色とりどりの光の花が、咲き乱れる。



『この大輪の花火…あなたに差し上げるわ…。』
 女性の声が傍で囁いたように思った。
 えっと思って、辺りを見回した。
 と、祠の狐の置物と瞳がかち合った。

…もしかすると、あの女性は…大火に飲まれて消えた許婚の名残を追って、毎年ここから花火を見上げていたのかもしれない…。行き場の無くなった想いを、他の誰かに伝えたくて…。

 時代を超えても、好きな人を思う心は変わらないのかもしれない…。



「ねえ、乱馬…。」
「あん?」
「あげる…。」
 そう声をかけると、徐に、持っていた金平糖をいくつか乱馬の口へと放り込んだ。
 咄嗟の行動に、一瞬目を丸くした乱馬だが、ふっと優しいまなざしになった。

「サンキュ…。」
 そう言って触れた、柔らかな唇。
 放り込んだ金平糖が、一つ…乱馬から戻された。

 微かに甘い香りが、甘露となって広がっていく。

 長い静寂の後、そっと差し出された腕に、枝垂れかかる。




 バンッ!


 二人の上空で、一際大きな花が、夜空高く飛びあがって、大輪の花を咲かせた。
 ちょっとだけ近づいた二人の距離を、祝福するように。
 色鮮やかな花を開いて、夜空の闇へと溶け込んで行った。




 完



(2014年7月25日)

 遠山夏海さま主催の「乱あキス祭り・真夏のヒメゴト」用に書き下ろした作品。
 PIXIVに投稿しようとして挫折した結果…夏海さまに大迷惑をかけてしまいました。
 未だ、使い方が良く分からず…作品をあちらへ上げることができず、ここに置いておきます。
(もっと、修練しなきゃなあ…。まだ使い方が良くわかっていない人…涙)
 
 奈良県五条市出身の友人に、鍵屋の創始者は五条出身の花火師だった…ということを、以前にチラッと聞いて思い浮かんでいたプロットから作文しました。このシーズンに書こうと前から思っていた作品です。
 一応、隅田川の花火大会を意識していますが、板橋にも花火大会があるそうで…。まあ、創作なので、場所のことは気にせず、流してくださいませ。
 鍵屋と玉屋の繋がりは作中にあるとおりです。(友人に聞くまで全く、もちろん、私も全然、知らなかったさ〜)






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