◇夏越の祓 後編

五、

 どのくらい、乱馬を膝に抱えたまま、そこへ佇んでいたろうか。最初は乱馬の額に浮き上がる汗を、丁寧に水で絞ったタオルで拭き取ってやっていた。母親が傍に居れば、きっとこうやって我が子を見守ってやるように接する。
 大人びた口利きをしていても、所詮は十歳に満たない子供。熱に浮かされながら、彼は、まだ見ぬ母に甘えるように、あかねに身を任せた。
 いつの間にか、夜の帳の中に引き込まれるように、つい、あかねも、うとうとと眠り込んでいた。

 もうそろそろ、夜が白み始めるのではないか。そう思った頃、ようやく、神主さんがお医者さんを連れて戻って来た。
 神主の爺さんとこの奥の院へ駆け上がってきた医者は着くとすぐに診察にかかった。
 ガタイの良い熊のような中年男性のお医者さんで、乱馬を診るなり、にこっと笑った。
「おい!坊主。珍しくくたばりかけてるか?」
 と、ごっつい声が響いた。カカカと小気味の良い笑い声が響く。
「うるせー、ヤブ医者。」
 目覚めた下から、乱馬は悪態を吐き出した。
「わっはっは。言い返せるなら大丈夫だな。破傷風にやられたようでもなし、どら、咽喉を見せてみいっ!」
 持って来た懐中電灯をパッと照らして覗き見る。
「こりゃあ夏風邪だな。猿のような悪ガキ乱馬でも、風邪にやられたか。わっはっは。」
「やかましいっ!俺だって風邪くらいひかあっ!」
 乱馬は口を尖らせて言い返す。
「おまえが怪我以外の事でワシにかかるなんて、珍しい。」
 どうやら、この二人、顔見知りらしい。軽口がポンポン、口を吐いて出てくる。とうてい、医者とは呼べぬ風体だが、田舎の診療所のお医者様は得てしてこんな感じなのかもしれない。
 急を要する疾病ではないらしい様子に、ホッと安堵するあかね。
「かなり汗をかいて、熱は下がりかけておるな…。…まあ、この分なら、二、三日も安静にしとったら、すぐに元通り治るだろうさ。たあく、夜中に人を呼び寄せおって。何だと思ったわい!」
「ちぇっ!病人が居るところへ来るのが医者の務めじゃねえのかよ!」
「夜間診療だから治療費もかかるぞ。」
「そんな金なんか俺、持ってねえぞ!」
「わっはっは…。付けておいてやるから、出世したら払いに来い!」
「なっ!」
 歯に衣着せぬ言葉の応酬。この医者の人柄が垣間見える。
「こら、坊主!たまには分校へ顔を見せろよ。先生がまたサボってるとオカンムリだったぞ!」
 と医者は更に乱馬を促した。
「うるせえ先公だな。行ったら行ったで邪魔者扱いしやがるくせに…。」
「学校はちゃんと行っとかんと、出世できんぞ!坊主。」
「武道家には学問なんか要らねーっ!」

 そんなのどかな会話が流れて行く。乱馬もあかねの膝枕で眠ったのが功を奏したのか、悪態を叩けるまで具合が良くなったようだ。

「さて…。注射を打っておくかな。」
 医者は笑いながら、持って来た鞄を開いた。
「げっ!注射だってえっ?」
 それを聞いて、乱馬の顔が青くなる。いくら強くても、注射は苦手なのだろう。
「やだっ!」
 とガバッと蒲団をめくった。
「こら、逃げるんじゃないの!」
 傍らで笑いながら、医者とのやりとりを見ていたあかねが、ぐっと彼のランニングシャツの背中を掴んだ。
「やだったら、やだーっ!」
 ジタバタと逃れようとするのを、ぐっとあかねは力を抑えて抱え込んだ。
「ダメよ!注射打たないと、良くなる物もよくならないわ!」
「はっはっは。良くわかっておるのう。娘さんよ。」
 医者はカカカと高笑いすると、容赦なく、注射を用意する。
「やだやだやだやだーっ!」
「こらっ、暴れると針が折れて、もっと痛い目にあうぞ!坊主っ!」
「これっ!大人しくせんかいっ!乱馬よ。」
「そうよ。おとなしくなさい!」
 神主とあかね、二人がかりで馬乗りになって乱馬を押さえ込む。
「観念せいっ!」
「うわあああっ!」
 乱馬の絶唱と共に、医者はブチッと針を彼の腕に突き立てた。

 後に残る静寂。

「たく…。悪ガキも、ざまあないのう。」
 注射をしまいながら、医者が笑った。
「猫以外にも、乱馬に怖い物があるのね。」
 くくくとあかねが笑った。
「ほう…。おまえ、猫が嫌いか?」
 医者は耳聡くそれを聞きつけ、乱馬に話しかける。
「何で、姉ちゃんは俺の苦手なものを知ってるんだよ!」
 じろりと鋭い目が睨みあげてくる。しまった、口が滑ったと思ったが、
「だって、熱にうなされてたときに、猫があ…猫があ…って言ってたもの。」
 と誤魔化した。つい、口を吐いて出た乱馬の苦手だ。乱馬にとっては初対面のあかねなのだから、苦手を知っていたら気味悪がられる。
「分校へ来ないのなら、猫をここへけしかけてやろうかな?」
 医者がにんまりと言った。
「やめろっ!絶対、すんなよ!」
「だったら、熱が下がって風邪が治ったら、出て来い!」
「ぐ…。」
「じゃないと、おあめがこてんぱんにのしたガキ大将のツヨシに猫のことを言うぞ。」
「わ、わかったよ。風邪が治ったら学校へ行くよ!行けば良いんだろ?」

 猫嫌いだと余計な事を言ってしまったな、とあかねは思ったが、このまま不登校で過ごすよりは、少しでも学校へ行くべきだろうと、納得することにした。
(学校だけが万全な世界じゃないけれど、それでも、行かないより、行った方が良いものね…。)
 と。

 注射を打った乱馬は、それが功を奏したのか、随分、病状が落ち着いたように思う。
「さてと…。せっかくここまで上がって来られたんじゃから。夜が明けるまで、ほれ、一杯いかがかのう?」
「それは嬉しいですな。明日の診療に差し支えないくらいに、楽しみますかな。」
 大人は大人の楽しみがある。
 爺さんとお医者さんは、隣の部屋で、一杯、したためる事にしたらしい。

「たく…。大人は勝手なんだから。」
 ぼそっと病床から乱馬が吐き出した。その言い方があまりに可笑しかったので、つい、ぶっと噴き出したあかね。
「何だよ…。お姉ちゃんのせいで、俺は学校へ行かなきゃならなくなったんだぜ。」
 口をツンと尖らせて、乱馬は睨み上げてきた。
「何言ってるの。学校へ行くのは、小学生の勤めでしょう?」
 あかねはツンと乱馬の鼻っ柱を押さえた。
「優れた格闘家になるんだったら、ある程度の知識を持つことも必要なのよ。」
「算数や国語が必要だってのか?」
「ええ。ちゃんと物を考えられるようにしておかないと、手強い敵は倒せないわよ。力も必要だけど、知恵と勇気がなければ、上へ到達できないわ。闇雲にぶつかって、力だけ倒せる相手ばかりじゃないでしょうから…ね。」
「そうかな?」
「そうよ…。知識は己を助けてくれるものよ。だから、勉強嫌いでも学校くらいは行っておかないとね…。」
 子供を諭す母親のように、あかねは乱馬に言ってやった。
「それに、馬鹿だったら、女の子に、もてないわよ。」
「別に…。女子にもてたかねーよ。」
 と、吐き出す。
「あんたさあ…。本当は、あたしを助けてくれたあの頃から、具合、少しずつ悪かったんじゃないの?それを、ずっと我慢してたんじゃないのかしらん?」
 あかねは見透かしたように、乱馬に言った。
「別に…。我慢しててわけじゃねえよ。」
「そうかな…。あたしが居なかったら、高熱出すまで我慢しなかったんじゃないの?」
「……。」
 乱馬は黙ってしまった。恐らく、あかねの言った事は当たりなのだろう。
「やっぱりねえ…。神主のおじいさんやあたしに、弱み見せたくなかったのね。ほんと、乱馬って本質、ずっと変わらないのね…。」
 あかねは思わせぶりな溜息を、ふうっと吐き出した。
「はん?」
 あかねの言葉の語尾が引っかかったのだろう。乱馬は怪訝な顔をあかねに手向けた。
「乱馬ってさあ、頑固で自信過剰で、ナルシストで、いつも強気で人に弱みを見せようとはしない…。」
 ふっと泥んだ瞳を、子供の乱馬に手向ける。
「あんたは、彼と同じね…。全然違わないわ。格闘馬鹿よ。どうしようもないくらい。」
「格闘馬鹿…。」
 わかったようなわからないような、きびすを、あかねに返した。
「とにかく…。今はゆっくり休みなさいな。風邪を治して、学校も修行も、また頑張れば良いわ…。ね。少しは自分の弱み、信じられる人には見せなさいよね…。我慢ばかりしないで…。」
 そう言って笑った。最後の方は、子供の乱馬に、というより、己の知る乱馬に向かって言っているような感じだった。
 熱に浮かされた腫れぼったいとろんとした瞳で、乱馬は黙ってあかねを見上げている。まだ、体は本調子とまではいかないのだろう。それに、今は明け方前。本来なら眠りの中に居る時間だ。
「おやすみなさい…乱馬。あんたが眠るまではここに居てあげるから。」
 あかねの言葉に、コクンと一つ頷くと、乱馬は静かに目を閉じた。注射の薬が全身に回ってきたのだろう。誘われる眠りの中に、そのまま身を投じていく。
 やがて、再び、規則的な吐息が、乱馬から漏れるようになった。

「本当、こんな子供の頃から、強がりで、格闘馬鹿なんだから…。あんたは。」

 彼が完全に寝入ったことを確かめると、あかねはそっと、その場から離れた。

「そろそろ、潮時よね…。朝になったら、いろいろあたしのこと、詮索が始まるでしょうし…。
 自殺願望者扱いかな…。
 未来から来たって真実を話しても、誰も相手にしてくれないでしょうから…。」
 あかねはふっと微笑んだ。


 懐に隠し持っていた「南蛮ミラー」。
「またね…。乱馬。早く良くなんなさいよ。」

 意を決すると、それを翳して鏡の向こう側に消えた。


六、

 南蛮ミラーの不思議な力で、再び押し戻された「今し世界」
 先頃、八宝斎の爺さんを殴り飛ばした窓が、そのまま開け放たれ、ゆらゆらとカーテンが揺らめいている。
 気が付くと、鏡を携えたまま、ベッドの上に座り込んでいた。

「良かった…。無事に戻って来られて…。」
 安堵の溜息がふっとこぼれる。
 枕元の皿時計は昼過ぎを指している。
 乱馬と大喧嘩したのは昼前だから、そう時間は経過していない。 
 あちらでは一晩という時間の流れが経過していたが、こちらでは、そこまで経っていなかったようだ。
 だが、着ていた服は、少しよれていた。イノシシに追い回されたり、熱を出した乱馬の介抱をしたり。あちらでは半日以上を過ごしたので、その分、汚れている。
「着替えようかな…。」
 ふっと立ち上がって、衣服を脱ぎかけたとき、またしても、嫌な視線を感じた。

 はっと身構えて、振り返る。
 と、八宝斎の爺さんと目が合った。

「おじいちゃん!また、人の部屋に侵入してっ!」
 ギリギリと歯を食いしばった。

「あ、いや…。ワシは、あかねちゃんのお着替えを幇助してやろうかと、その…なあ。」

「いい加減にしてよねっ!この助平じじいっ!」
 再び炸裂する、あかねのロケットパンチ。
「もう、何なのよ!」
 飛ばされて見上げる八宝斎の右手に、さっきまで手にしていた南蛮ミラーが光っているのを目敏く見つけた。

「これは返してもらうぞーい!」
 確かに、そんな言葉を吐きつけながら、飛んで行く、八宝斎の爺さんが見えた。

「たく…。そういうところだけは、鋭いんだから。もう…。」
 もしかすると、あかねが南蛮ミラーを使って、別時代へ飛ばされてしまっていたことを、知っていたのかもしれない。そして、あかねが帰って来るのを、ここで待ち受けていたのかも。
「そこまで、気は回んないかな…。」
 そう思いながらも、南蛮ミラーに振り回されるのは御免だから、八宝斎に戻してホッとしていた。
 また、変な時代に飛ばされでもしたら、身が持たない。
 あちらの世界では、殆ど眠っていないから、ふわあっと欠伸が漏れた。
「ちょっと、夕方まで、横になってようかな…。」
 そう思って着替え終わると、ごろん、と身を横たえる。

 うつらうつら、夢への先導。と、窓の外からコンと石が投げ入れられた。それは、ベッドの端に当たって、目が覚めた。

「もう、誰よ。こんなもの投げ入れて!」
 開いた窓から、寝ぼけ眼で下を覗くと、庭先から彼がこっちを見上げていた。
 そう。乱馬だ。
「何か用?」
 ちょっと不機嫌そうに声をかけると、
「ちょっと、降りて来いよ!あ、玄関から靴履いて来いよ!」
 と、明らかな命令口調。

 梅雨の中休みか、今日は薄日が差すくらいの天気だ。相変わらず梅雨空は続いているので、薄らぼんやりと、すっきり晴れないのがこの時節らしい。
 女性化し易いので雨の日は苦手な乱馬も、今日見たいな天気なら大丈夫だろう。

 命じられるままに、階下に降りた。

「何よ。用があるなら、そっちからいらっしゃいよ!」
 まだ、喧嘩の後遺症を引きずっているのか、それとも、眠りかけを起されて機嫌を損ねたのか、あかねはむすっと乱馬に対した。
「そら、出かけっぞ!」
 乱馬は、一言、あかねに告げると、門扉に向かって歩き出した。
「は?」
 唐突に言われたので、頭は回らない。
「早く来い!」
 と、これまた命令口調で促された。
 珍しく彼は積極的だった。
「どこへ行くのよ?」
 怪訝な顔をして、あかねは追いすがる。
「付いて来ればわかる。」
 気のない返事。
 こういう強引なところは、昔から変わっていない。
 乱馬の方から誘ってくれること自体珍しかったので、黙って従ったが、どこへ連れて行こうとしているのか、皆目見当もつかない。

 乱馬は黙々と歩いた。それに伴ってあかねも黙々と歩いた。一言も口をきかない奇妙なカップル。
 乱馬の脇、一歩ほど下がって歩いている己。時代錯誤も良いところね、と、自分で突っ込みながら、あかねは歩いた。

 二人は見慣れた住宅地を抜け、街外れまで歩いたところで、古ぼけた、石の鳥居を潜り抜ける。

「ここは…。神社?」
 珍しいところに足を踏み入れるものだと、彼を見上げる。
「一応、天道家の氏神なんだろ?ここ。」
 とポツンと吐き出す。
「え、ええ。天道家(うち)の道場の神棚のお札は、ここから頂いるけど…。」
 躊躇いがちに、答えた。
「で?何?何しにわざわざ?」
「夏越の祓だよ。」
 乱馬は間髪なく、言い放った。
「夏越の祓。」
 その言葉に、ハッとして彼を振り返る。
 ついさっきまで居た、過去の世界。その世界で神主さんが教えてくれた夏越の祓。
「そら、今日は六月晦日だろ?」
 ぼそっと彼は吐き出した。
 彼に伴われて、境内へ上がる。都会の真ん中にあるとは思えぬような、静なる空間がそこにある。木々の緑が、ゆさゆさと風に揺られている。
 いつもは人気のないひなびた境内に、ポツン、ポツンと厄落としに来る人の姿がある。殆どは中年や老人だった。その中で若者は乱馬とあかねのみ。
 本殿の前の社務所に、人型に切った紙がさり気に置いてあった。その横には油性のマジックが数本。
 詣でに来た人々は、人型に手を伸ばすと、無心に記名している。それぞれ、厄を祓いに来ているのだろう。
 乱馬はおもむろに紙を取った。
「そら、おまえもやれよ。」
 と、何気なく、人型をあかねの前にも置いた。
「えっと…。数えは十九歳だな。っと、女の厄年だろ?」
「へええ…。詳しいんだ。乱馬。」
 あかねは、ついさっき体験した過去の世界での出来事を思い起こしながら、乱馬を見た。
「ああ…。ガキの頃、修行していた山王権現で、お節介を焼きに来た馬鹿が居てさ。」
 と、さらりと言った。
 その言葉に、思わずあかねはドキッとする。アレのことを言っているのだろうか。

「今度はちゃんと、名字も書けよ。天道あかねってよ。」
 
 あかねの心音はバクバクと音を立て始める。
 ばれている。
 そう思った。
 
「何で、わかったの?」
 と問いかけたあかねを遮るように、乱馬は言った。

「わからねーわけねーだろ?」
 くすっと乱馬が笑った。
「あの後、おめえが居なくなって、結構、パニックになったんだぜ。「自殺志願者」が居なくなったってよ。」
「あはは…。完璧に「自殺志願者」だって思われてたもんなあ…。あんた、神主さんやお医者さんにもそんなこと、言ったんでしょ?」
「俺が言うまでもねえよ。おめえ、靴も履いてなかったし、山に入るような格好してなかったもんな。熱心な権現さんの信者でもなさそうだったし…。俺が説明しなくても、爺さんもヤブ医者も、そうだと決め付けてかかってたと思うぜ。
 とにかく、朝起きててめえが居なくなったってわかってから、また、自殺でもしに、樹海へ入ったんじゃねえかってさ。
 神主さんと、ヤブ医者と、間もなく戻ってきた親父と三人、手分けして、権現さんの山中へ入ったりしてよ。
 でも、何の痕跡一つ見つけられなかった。
 当然だよな…。」
「まあね…。いつまでも、あそこに留まっとく訳にもいかなかったから…。」
「でもよ、実は、俺は見てたんだ。おまえが手鏡を翳すや否や、一緒に消え去るのをさ。」
「え?確か、あの時、あんたは注射が効いて眠っていたんじゃ…。」
「熱に浮かされてたからなあ…。なかなか、まともに寝るってわけにもいかなかったんだよ。朦朧とした意識の中で、おめえが消えるのを目の当たりにしちまったって訳だ。
 驚いたぜ。こう、ぴかっと鏡が光ったかと思うと、すいっとおめえも消えて居なくなるなんてよ…。まあ、そのまま、起き上がることもままならずに、眠っちまったのは、ガキらしいところだとして…。
 朝起きてから、それを、神主爺さんやヤブ医者に言って聞かせたのに、見間違いだろうって、信じちゃくれなかったさ。まあ、そんな「非現実的」なガキの戯言なんか、誰も相手にはしねえんだろうけどな…。
 いくら探してもおめえが見当たらなかったんで、あれは、権現様が天女様をお遣わしになったんじゃないかって、もっと非現実な話でまとまったみてえだけど…。」
 くすっと乱馬が笑った。
「暫く、俺にとって、あの女性は「天女様」だったんだぜ。母親の居ない、俺に慈悲を与えに一夜だけ舞い降りてきたさあ…。
 尤も、あれから数年経って、天道家へ舞い込んでから、あの時の謎が解決できるとは思わなかったけどよ…。」
 と、笑った。
「天女様ねえ…。」
 思わず苦言するあかねに、乱馬は更に言った。
「八宝斎のじじいが持ってた「南蛮ミラー」。あれを見て、ああ、もしかして、あれはこれだったんだって、悟ったんだ。
 そら、おめえ、名字書かずに「あかね」とだけ人型に書いてたろ?」
 そう言いながら、乱馬はポケットから「人型」を差し出した。
「あんた…。それ…。」
 ボロボロになった人型。そこには「あかね・十九歳」とマジックでなぞられている。
「翌朝、おめえを探しに出て、谷間で見つけたんだ。御手洗場から流れる清流が注ぎ込む溜まり場さ。もしかして、おめえと出逢ったこと全てが夢みてえな気がしてよ…。一つでも「証」を見つけておきたいって、ガキながらそんなことを思ったんだろうな。
 これ、確かに、おめえの字だろ?筆跡がそのままだ。」
 証拠を突きつけて、得意げに笑う。
 まさか、乱馬があの人型を、後生大事に所持していたとは思わなかった。
「未来からおまえが一晩だけ、俺の元へやって来たって、悟るまで、十年近くかかったもんなあ。
 南蛮ミラー。あれを使ったんだって、ちゃんとわかるまでな。」

「そっか…。乱馬。わかっちゃったんだ。
 あたしには、ついさっきの事なんだけどね…。過去へ行って帰ってきたのは。」
 まだ、脳裏に覚めやらない、生々しい記憶を、引き出しながら、あかねは言った。

「あれがおまえだったって確信した日から、ずっと今日が来るのを待ってたんだぜ。」
 乱馬は悪戯っぽく笑った。
「待ってたって?」
「数え十九歳だから、十八になるのをさ…。こうやって、権現様が遣わした天女様と並んで、夏越の祓をするのをさ。」
「もう!からかわないでよ、乱馬!」
 少しぷくっと膨れて見せる。
「そら、厄落とし。十九歳は女の大厄なんだろ?ついでに怒気も落として貰え。」
「何よそれ!」
「おめえの怒気も、俺にとっては大災難、大災厄みてえなもんだからな。」

 ケラケラと笑いながら、乱馬は人型を書き始めた。


「真面目にやんなさいよね!」
「俺はいつも、クソ真面目だぜ!」
「どこがよ!」

 明るい笑いが、境内に響き渡る。
 この社は、あの権現様の奥の院ではないけれど、二人にとっては特別な場所。九歳の少年と天女様が再びめぐり合った、六月晦日。

 二人の暑い夏は、これから始まる。








 「夏越の祓」。つまり厄除けです。
 六月晦日(ろくがつつごもり)の日にちょっと古い神社などに行けば体験できます。桔梗が式神の胡蝶や飛鳥などを呼び出すのに使うような、白い人型に息を入れ、ご祈祷してから流してもらえます。厄や罪や穢れやら…すっきりさせるのに、皆様も一度いかがですか?

 柳井筒竹さま「木筒庵」開設祝い作品(2004年6月20日完結)



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