◇夏越の祓 中編
三、
「わああっ!凄い!天然の温泉。」
あかねが感嘆の声を上げた。
風呂場というより、露天風呂だった。それも、天然の湯だ。
どうやら、この山中は温泉がフツフツと湧いているらしく、そいつを清流の水と混ぜて、丁度良い状態にしたような按配だった。
勿論、野外だ。
落ちそうな星空がすぐ上に見えている。
「温度も丁度良いわ。」
あかねは湯へと身体を浸しながら、思わず「うーん。」と一つ唸った。
身体を湯の中で、クンと伸ばしながら、あかねは湯を掻いた。
自分でも親父臭いと思ったが、全身から疲れが消えていくような爽快感が得られる。
月明かりの下、暗がりの不気味さなど微塵もない。
結局、乱馬とは入浴を共にしなかった。
いくら子供とはいえ、九歳といえばそろそろ「自我」と「性」が目覚め始める頃。さすがに初対面のあかねと一緒に風呂、というのは、バツが悪いのだろう。最も、変な好奇心を抱かれるより、よっぽどマシだと、あかねは思った。
彼はあかねを案内して、湯浴み場まで連れて来てくれた。
奥の院の社殿の真裏にある小さなせせらぎ。最初は水で身体を洗うのかと思ったが、これが天然の川湯だとわかり、得したような気分になる。
「我ながら、勝手なものね。」
天然の川に設えられた入浴場だから、当然、石鹸やシャンプーなど、人工化合物薬物製品は使えない。清流を汚すわけにはいかないからだ。身体と髪の毛を水ですすぎ、手拭で垢と汚れを落とすだけの、簡単な入浴だ。それでも、汚れは落とせるし、何より天然の温泉は身体に優しい。
人間生活の原点に返ったような気がした。
ちょろちょろと、川のせせらぐ音も心地良く耳に響いて来る。
半時間そこらの入浴に、すっかり身も心もリフレッシュしていくのを感じた。湯浴み好きは火山の多い日本国に生まれ育った者の気質なのかも知れない。
「女って、随分長湯なんだな。」
次の入浴を待っていた乱馬が、あかねとすれ違いざまに、そんな言葉をかけた。
「ふふふ。男の子と違ってね、女の入浴は時間がかかるものなのよ。」
ほこほこと肌から湯気をたてながら、あかねは乱馬を見て笑った。
「ちぇっ!訳わかんねーや。」
乱馬はブツクサ言いながら、川湯の方へと降りて行く。
「お姉ちゃんが、背中流してあげようか?」
あかねはにっこりと微笑んだ。
「要らねえっ!一人でやれる!」
何を思ったか、真っ赤になった乱馬が、小憎たらしくそんな言葉を返してきた。
「遠慮しなくっても良いのに…。おませさんなんだから。」
くすっとあかねは笑った。
同年代の乱馬には、口が裂けても言えない言葉だ。そんな事を口走ろうものなら、絶対に変態扱いされるだろう。
ドライヤーもないから、大きめのタオルを借りて、髪の毛をゴシゴシと擦りながら、水気を取る。真っ直ぐな髪に見えるが、ある程度きちんと乾かしておかなければ、翌朝、悲惨な結果になる。そんなあかねの身繕いを、カラスの行水でさっさと湯から上がって来た乱馬が、好奇の目で見詰めている。彼は髪の毛をだらりと後ろに垂らしたまま、水が滴る。
「ダメよ、ちゃんと乾かさないと、髪の毛、痛んじゃうわよ。」
ひょいっとあかねは乱馬の後ろにまわり、世話を焼く。
「良いよ。別に、俺は…。」
乱馬は戸惑いながら、声を上げる。
「良いから、良いから。お姉ちゃんに任せなさいって。」
丁寧にタオルで水気を取る。目をくりくりさせながら、乱馬はじっとあかねに身を任せる。その様子が可笑しくて、自然に笑みがこぼれた。
「そうだ。」
あかねは、何を思ったか、お爺さんに輪ゴムを貰うと、手つきを神妙に動かしながら、乱馬の髪の毛を結い始めた。
この頃の乱馬はおさげではない。ただ、一つ、後ろ側に括っただけの簡単な髪型だった。中国で呪泉に溺れるまでは、おさげなど結っては居なかったようだ。彼がおさげにしたのには「竜のヒゲ」を過って食してしまい、その効力を封じ込めるための「封印」に起因していたのだが、その髪型が気に入ったのか、竜のヒゲの効力が切れた後も、おさげは欠かさなかった。
おさげのない乱馬は、どうも乱馬のような気がしない。それが、こんなに子供の彼でもだ。
そんな、物足りなさを感じたあかねは、勝手におさげを編んでやった。
「なっ、何だよ。この女みてえな髪型はあっ!」
案の定、乱馬は目を白黒させた。
「ふぉっふぉっふぉ。良く似合っておるではないか、乱馬よ。」
爺さんが脇から笑いながら声をかける。
「嫌だよう!こんなの。こんな女みてえな髪型!」
乱馬はあかねに抗議した。
「良いじゃないの。あんた、大きくなったらその髪型がトレードマークになってんだから。」
つい、ポロリと口に出る。
「あん?」
何だと言わんばかりに、乱馬があかねを見返した。
「あ、こっちの話よ。」
「何、中国の武道家の好男子は好んで「おさげ」や「連髪」にしてるんだぞ。乱馬よ。」
「知らねえよ!俺、中国なんか行ったことねえもん!」
「良いから、良いから。あんた、絶対、おさげの方が似合ってるんだから。」
とあかねは容赦ない。
如何にしても、乱馬におさげを編まなければ、気がおさまらなかった。
「今夜は、夏越の祓をしなきゃならない特別な夜だから、それで行け、乱馬よ。わっはっは。」
神主じいさんは屈託なく笑った。
「ねえ…。神主さん。さっきから気になってたんですが、その「なごしのはらえ」って何なんです?」
聞き慣れぬ言葉の意味を求めて、あかねがおじいさんを見返した。
「そうだよな…。俺も、ここの生活は長いが、初耳だぜ。その、なごしのどうたら、というのは。」
乱馬もくりんと大きな目を瞬かせた。できあがったおさげが、何となく可愛らしい。
「ほっほっほ…。今の若い者にはあまり馴染みのない言葉かもしれませんのう…。どら、説明してあげようかのう。」
おじいさんは、ウンチクよろしく、「夏越の祓」について、あかねと乱馬に講義し始めた。
「ほら、今のカレンダーでは一年は十二箇月に分割されておろう。そして、月には必ず始まりと終わりの日があろう?月初めの一日は、神棚の榊を変えたり、月参りしたりと、昔から神道では重んじられた日であるが、それは知っとるかな?」
「え、ええ…。ウチにも神棚があるけど…、確かに毎月、一日と十五日には欠かさず、お父さんが、榊(さかき)を換えてるわ。」
あかねは思い出しながら言った。
「その前日、つまり、月末は「晦日(つごもり)」と言って、新しい月を迎える前には、簡単に厄払いをしたものなのじゃよ。
それ、今でも正月の前日は「大晦日」と呼んで、古い年に溜まった厄落としと称して年越し参りなどするじゃろう?旧暦の正月の前日に当たる、「節分」の豆まきなんかも、厄落としの一つの変形だと言われておるんだ。」
「へええ…。」
「神道ではのう、特に、十二月三十一日の大晦日と六月の三十日は、大きな厄落としをする習慣を残しておるところが多いんじゃよ。そら、六月は、暑い夏を越える当たって、半年に一度の厄払いの日として、古くから重要視されとったんだよ。」
「何でだ?」
乱馬は食いつくようにじいさんに問いかけた。
「六月のこの時期は梅雨の高温多湿の頃じゃ。元々、この時期は、暑さから、疫病が流行った季節でもあるでな。昔の人は病気は「悪魔」がもたらす「大厄」だと考えておったでな。夏を健康に乗り切るために、この六月の晦日には、揃ってお祓いをしたんじゃよ。夏を越すためのお祓い…それを称して「夏越の祓」と呼んだんじゃ。」
「へえ…。そうなんですか。」
あかねは、感心して見せた。
「この社でも古くには盛大に「夏越の祓」をやっておったからのう。今じゃあ、寂れた山の奥の院に成り下がっておるがのう…。」
「夏越の祓、っつったって、どんなことをやるんだ?」
乱馬が好奇心の塊の瞳をじいさんに投げかけた。
「慌てるでない。これから、やって進ぜよう。」
爺さんは、人型に切った半紙を傍の箪笥の引き出しから引っ張り出して来た。
「これにな、こうやって、息を吹きかけて…。そうやって、身体に染み付いた、汚れや厄介ごとを人型に移し、祈祷してから清流に流すんじゃ。やってみられよ。」
爺さんは、人型を乱馬とあかねの前に出した。
「うげっ!何か、呪いの人形みたいな紙だな。」
「罰当りなこと言わないの!」
乱馬はひょいっとそいつを摘み上げると、興味津々で眺めた。
「わっはっは。おぬしもやってみい!こうやって息を、ふうっ、じゃ。それから、マジックで己の名前と歳を書いてみろ。あ、数え歳じゃぞ。」
と説明する。
「数え年だあ?」
「本当の歳に一つ足せば良いわ。乱馬君、は九歳だって言ってたから…十歳ね。」
「うへっ!本当の歳より、一つ、足すのか。面倒臭え!」
「日本じゃあ、昔は生まれた歳を一歳として歳を数えておったからのう…。っほっほっほ。」
「じゃあ、お姉さんは?いくつだ?」
乱馬の瞳が光った。
「あたしは、十八歳。だから十九って書くのね。」
とあかねは笑った。
「へえ…。十八か。案外、年増だったんだな。」
と舌を出す。
「なっ!年増ですってえ?失礼ねっ!まだ、若いわよ!」
「俺より、八つも上じゃねえか!へっへーん、年増じゃん!」
(本当は同じ歳よ!ったく、こいつは…。)
あかねはぐっと、本音を押し込めた。
「ワシから見れば、二人ともまだまだ若輩じゃ。十八だったら、とっても若いわい!」
「そりゃあ、爺さんは干からびかけてっからな。」
「たく…。口の減らない子ね。」
あかねは苦笑いした。子憎たらしい言葉がポンポンと飛び出すようになったところから、かなり、あかねにも慣れて来たようだ。
「それに数え十九歳は女性の大厄に当たるからのう…。丁度良い厄落としになるのではないかね?」
「大厄ですか?」
あかねはきょとんと振り返る。勿論、そんな事は露とも知らなかった。
「ああ、女性の大厄は三十三が一番知れておるが、実は十九歳も大厄なんじゃよ。ほっほっほ。あまり気になさらんかね?」
「は、はあ…。」
「こらこら、年だけじゃなくって、ちゃんと名前も書くんじゃぞ、乱馬よ。」
爺さんは二人に促した。
名前を書くに当たって、あかねはふっと考え込んだ。
ここで、本名を出しても良いのやら。
子供の記憶力は、それなりにあるだろう。或いは、「天道家」の事は、玄馬の口から聞いて、既に知っているかもしれない。このまま、さらりと流してしまって良いものか…。
ならばと、考え抜いた末、「あかね」とだけ書いた。
(名前だけだけど、嘘じゃないものね…。)
神事に偽り事を持ち込むのは、気が咎めた。だが、フルネームを書くのはどうかと思ったのだ。背に腹はかえられない。
(このくらいなら、厄除けの神様だって多めに見てくれるわよね…。)
と、勝手に解釈した。
「なあ、何で名字を書かないんだ?」
と、横から乱馬のチェックが入る。
「ちょっとね…。知られたくないんだ…。」
あかねは口を濁す。
「大丈夫かあ?名前、全部書かなくてよう。」
「良いんでないかな…。いろいろ、大人な事情がありなさるんだろう。差し支えがあるのなら、名前だけでも。山王権現様は寛容な方だからのう。ありがたや、ありがたや。」
爺さんはあかねの心中を察したらしく、さらっと言って退けた。
「そら、また爺さんの「ありがたや」が始まったぜ。」
乱馬は苦笑いした。
「良かろうて…。書けたら、裏の清流に流しに行こうかのう。」
と爺さんは二人を促す。
「こ、これをあの川に流すのか?」
乱馬はきょとんと人型を見た。
「ああ。昔から厄は、清らかな水に流してしまうものと、相場が決まっておるんじゃよ。」
「うーん…。良くわかんねえなあ…。」
「わかんなくっても良いから、さっさと行きましょう。夜も更けてきたし。子供は寝る時間でしょう?」
「ちぇっ!…、ま、いいか。」
乱馬は黒々と「早乙女乱馬 九さい」と書き入れた人型をつまみあげた。
裏の清流。
さっきの湯浴み場から、少し上にあがったところに注連縄が張り巡らされた「それらしき場所」があった。迷わず、神主さんは二人をそこへ連れて上がる。
「ここは御手洗場(みたらいば)と言ってのう…。昔から、厄を流した神聖な場所ぞ。」
そこが、神聖な場所だということは、一目見ただけでわかった。
確かに、人の手が殆ど入らない山中の権現様。それを禊ぐのに丁度良いせせらぎと平らな場所だった。が、すぐ裏手の斜面にあった。山からの水を集めて流れているのだろう。いかにも、と言わんばかりの清き流れがそこにある。
もう少し下へ降りれば、さっき、湯浴みした温泉源とぶつかり、水は濁る。
いや、驚いたのは、それだけではない。
今は六月末。流れに沿った草むらに、淡い光がボツボツと点灯する。
「わあ…。蛍。」
思わず、あかねは声を上げた。
まさか、こんな物までもが間近で見られるとは思って居なかった。思わず、感嘆の溜息が口からこぼれた。
「きれい…。」
目を輝かせながら、魅入ってしまう。その辺りは女の子だった。
「蛍がそんなに珍しいのかよう。」
乱馬があかねを見上げて言った。
「都会じゃあ、見かけないもの。」
「ここらじゃあ、珍しくも何ともねーんだけどな。」
と乱馬は淡々と言った。
「うふふ、何だか得したみたい。天然のお湯に蛍かあ…。」
あかねは清流に手を入れてみた。ひんやりと冷たい流れだ。
蛍たちは恋のシーズンなのだろう。競い合うようにあちこちで、光り輝いている。
「さっさと厄を流してしまおうぜ。俺、もう眠いや…。」
乱馬は相変わらず、せっかちだ。いや、本当に眠気が来ているのだろう。あふうっと欠伸がこぼれる。
思わず笑みがこぼれた。
「何だよ…。何か可笑しいのか?」
あかねが笑ったのを受けて、乱馬が怪訝に覗き返す。
「ううん…別に。ちょっとね。」
「ちょっと何だよ。」
少し不機嫌だ。
「あんたが、あたしの知ってる男性に、本当に良く似てるから…。」
「はあ?何だよ、それ。」
「ま、良いから良いから。さっさと流してしまいましょう。」
あかねは自分の人型を差し出すと、そっと、水面に浮かべた。
途絶えることなく続く水の流れは、さっと人型を飲み込むと、下流へと押し流して行く。
辺りは真っ暗なので、すぐに見えなくなった。
「行っちゃった。」
「行っちゃったね。」
「厄、祓えるかな?」
「祓えると良いね…。」
「祓えるとも!」
爺さんと三人、くすっと笑った。
それから、再び寝屋の方へと歩き出した。
四、
「異変」は唐突にやって来る。
夏越の祓を行ったばかりで、厄祓いは出来たものだと思っていた。
だが、現実はそんなに甘くはなかったようだ。
その晩、あかねは乱馬と蒲団を並べて就寝した。テレビなど、娯楽のない山中。突然過去に飛ばされた緊張のせいもあったのだろう。随分早い時間に、乱馬共々、眠りに就いたのだ。
「ううん…。」
苦しそうな呻き声を、すぐ隣りで聞きつけて、あかねはハッと目を見開いた。
「どうしたの?」
すぐ傍に敷かれた、蒲団を覗き込む。
乱馬を見てハッとした。
(発熱してる!)
そう思った。顔が真っ赤に火照っている上、寝汗をびっしょりとかいている。
「乱馬っ!」
「どうなさったかの?」
あかねの叫びに近い声に、隣りの部屋で寝ていた、神主さんが、ひょいっと引き戸を開けて覗き込んだ。
「あ、神主さん。乱馬の様子が変なんです。」
あかねは焦りながら、爺さんを見返した。
「どら…。」
爺さんは、乱馬を覗き込んだ。
「こりゃあ…、何ぞ疫病にやられたかのう。この季節じゃ。熱の出方からして、疱瘡か麻疹か。ただの風邪かもしれぬが…。」
「でも、さっきまではあんなに元気に…。」
明らかにあかねは狼狽している。
「いや、子供というのは、案外、ここまで具合が悪くなるまで、ぐったりとはしないものじゃよ。それに、ほら、こやつ、夕方、食欲がいつもより沈下していたじゃろう?」
「あ…。」
あかねは、夕食事時のやり取りを思い出した。
確か、いつもよりも少なめの量しか、食べていないと神主さんが気にしていた。それを思い出したのだ。
普段の彼の食べっぷりを見ていないから、今夜がどれほどなのかわからない。だが、毎日、彼を見ている神主さんの言は、説得力がある。
「こやつ、もしかすると、相当前から、だるさを感じておったのかもしれんのう…。」
「そんな…。じゃあ、これからどうしたら…。お医者さんは?呼べるんですか?」
あかねは心配げに神主を見詰めた。
「下まで行けば、診療所があるから医者は居る。」
「じゃあ、負ぶさって下まで…。」
連れて行きましょうかと言おうとして、遮られた。
「この熱じゃあ、今動かすのは危険じゃ。」
確かに、いきなりの高熱だ。健康の塊のような乱馬だから、熱に慣れていないだろう。
「じゃあ、どうすれば…。」
パニックになりかけるあかねを、神主は留めた。
「ワシが下まで行って、医者を連れてくるか、薬を処方してもらって来ようかのう…。」
「あたしが行きましょうか?」
「いや…。おまえさんは、この辺りの地理には疎いじゃろう?夜道を下るのは危険すぎる。」
「でも…。」
「何、ワシは子供の頃からこの山に慣れ親しんでおるからのう…。こんな老いぼれでも、まだまだ、若い者には負けぬ。任せておけ!」
トンと胸を叩いた。
「それよりも、あんたが居てくれて良かったよ。この山中じゃ。この子一人、ここへ残しておくことを考えると、看病してもらえる人手があるだけで、病の治りも違おう。病は気からとも言う。幼子一人ではさぞかし心細かろう。が、あかねさん、あんたが傍に付いていてくれるだけで、千人力じゃ。」
と、あかねに看病を依頼した。
「わかりました…。お医者様のことは神主さんにお任せします。下に降りられたところで、どこに診療所があるかも、あたしにはわかりませんから…。それより、乱馬の看病をしながら、帰りを待ちます。」
「そうなされよ。それが一番じゃ。何、下りは一時間半、登りは二時間と少し…。四時間もあれば、戻って来れる。こういう病人を看るときは、飲料水を切らさぬようにな。脇の台所に湯冷ましの白湯がある。それを時々口に含ませてやっておくれ。それから、冷たいタオルを額に…。」
「わかりました。」
「じゃあ、行ってくるよ。」
神主は身支度を整えると、暗い夜道を飛び出して行った。
病人と二人きりの心細い夜が始まった。
彼が出て行ってしまうと、途端、ガランとする本殿の中。木立を揺する風の音さえ、不気味に聞こえてくるから不思議だ。
乱馬は高熱に苦しんでいるらしく、表情も厳しい。
「乱馬…。大丈夫。絶対に治るわ。」
あかねは、入浴の際に使った手桶を持つと、さっき、人型を流した川の水を汲んだ。そこへ、タオルを浸すと、軽く絞る。これで、乱馬の額を冷やしてやろうというのだ。
あかねは、焦る気持ちを何とか落ち着かせようと、自分に言い聞かせる。
「大丈夫…。乱馬は大丈夫だから。」
ともすれば、闇の深さに、ズンと沈みそうになる気持ちを抑えると、あかねは乱馬の寝床へと急いだ。
「う…ん…。」
乱馬は相変わらず、ハアハアと口で息をしている。顔中に寝汗が浮き出している。
それを、絞ったタオルで、丁寧に拭き取ってやりながら、あかねは、懸命に彼の傍に居た。
そんな、あかねの気を察したのだろう。乱馬は、ふっと、薄目を開いた。
「…ちゃん。」
力なき声で誰かを呼ぶ。
「なあに?」
あかねは思わず、乱馬を覗き込んだ。
「母ちゃん…。」
彼の口は、ゆっくりとそう象(かたど)る。
「お母さん?」
その呼び声を聞いて、ハッとした。
あかねの時代に生きる乱馬には「のどか」という、純和風な母が存在する。だが、彼に、母親の存在が知れたのは、確か、我が家に居候するようになって以降のことだ。乱馬に物心がつかぬ幼き日、父親の玄馬が母親から彼を引き離し、長い修行の旅に出たのである。
この、小学生の乱馬は、まだ、修行半ば。ということは、母親の存在を知らないはずだ。
そんな彼の口から、「母」を呼ぶ声が微かに聞こえる。
「母ちゃん…。」
力なき声は、無意識のうちに母親を求めているのかもしれない。
母の愛情を知らぬまま、育った乱馬。母に他界された経験を持つ己から見て、その言葉には「痛い響き」がこもっていた。キュンと胸が詰まった。
「母ちゃん…。」
また、吐き出す彼。手がせんべい蒲団から持ち上がり、空に浮く。求めて止まぬまだ見ぬ母。
「乱馬…。」
思わず、その手をぎゅっと握り締めていた。
「母ちゃん…。」
微かに彼の顔に安堵の笑みが浮かんだ。力なく、あかねの手を握り返してくる。凄い熱だ。手先まで熱くなっている。また、熱が上がって来たようだ。
あかねの母性が、ぐんと頭をもたげて来た。
母の面影に重ねられたことが、不本意だとも思わなかった。
そっと乱馬の枕元に座ると、熱に浮かされる頭を自分の膝へと持ち上げた。膝枕だ。
「母ちゃん…。会いたかった。」
意識朦朧と寝ぼけているのだろう。乱馬はあかねに母を見たらしい。
あかねはその問い掛けには答えず、無言で彼の髪の毛をゆっくりとすいた。
はは、のどかさんがこの場に居れば、きっと、こうしたであろう。あかねは、幼子をあやすように、柔らかに乱馬を包み込んだ。
トクン、トクン…。
乱馬の高鳴る心音が、ここまで響いてくる。
「母ちゃんの膝…良い気持ちだ。」
安心しきったのか、乱馬は手を握り締めたまま、再び眠りに落ちる。さっきまで苦しんでいたのが嘘のように、すうすうと寝息が漏れてくる。規則的な寝息。
(まだ、こんな子供なのに…。さぞかし一人じゃあ心細かったんでしょうね…。それを強がっちゃってさあ…。
朝まで、あんたが目覚めるまで、こうして守ってあげるわ…。あっちの世界じゃあ、いつもあたしが守られているから。今夜くらいは…。)
九歳と言えば、まだまだ、母に甘えたい年齢である。だが、傍らに母の姿は無い。それが、乱馬に突きつけられた現実だ。己も、この歳頃には既に母と死別していた。甘えたくても甘えられなかった寂しさ。それは、彼と同じくらい理解できる。ましてや、幼き日に生き別れたままの彼は、母の面影すら知らない。
(大丈夫よ…。あんたは強い子だから。神主さんがお医者さんを連れて来れば、すぐに回復するわ。だから、暫く、あたしの傍でゆっくりおやすみなさい。乱馬…。)
ザワザワと外で風が鳴る。
あかねの向こう側で、裸電球がゆらゆらと入ってくる風に揺れた。侘しき部屋に、二人の長い影が、ひっそりと佇んでいた。
つづく
子供の乱馬におさげを編むあかね。そこには、明らかに私の嗜好が入っております。
某同人誌にも書きましたが、乱馬のおさげは誰が結ってあげているんでしょうか?蛮骨は蛇骨だと勝手に想像しとる私でありますが。
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