◇夏越の祓 前編


一、

 六月晦日(ろくがつつごもり)。
 そろそろ梅雨も末期。
 ジメジメしとしとと、不快指数は高い。いつものこの時期よりも、蒸し暑いような気がする。
 すっきりしない天気の元、過ごしていると不快指数が上がる分、精神衛生的にも芳(かんば)しくないようだ。取り立てて何でもないのに苛々したり、むしゃくしゃしたり、気分の浮沈も激しいようだ。
 結果、どうなるか。
 好敵手とは、いつもより激しい「口喧嘩」の応酬と相成る。

 天道あかねの本日は、すこぶる最低最悪の空模様であった。

 己が苛々すると同様、許婚の乱馬もかなり苛々していたようだ。
 ちょっとした事で火が点き、言い合いが始まる。
 内心では理性が「しまった」と警鐘を鳴らすのだが、後の祭り。
「たく、この寸胴不器用女!」
 と、罵られたところで、一発、拳骨が飛ぶ。
「うっさいわねえっ!悪かったわね!不器用で!」
 ときびすを返したところで、ポカリ。
「痛っ!痛えじゃねえか、この野郎!」
 さすがに、相手が女だから、打ち返しては来ないものの、乱馬はぎろっと恨めしそうにあかねを見返す。
「たく、何だってんだよ!いつも、暴力に訴えやがって!」
 手こそ出ないが口は出る。
「ふん!あんたなんか、大嫌い!」
 思い切りアカンベエを返すと、さっさと離れた。これ以上、彼との衝突を避けるには、早々と立ち去るが良い。不本意に一発出た後の、何とも言えない情け無い気持ちを抑えながら、あかねは、その場を退散する。
 微妙なお年頃の十八歳。現在、二人は高校三年生だった。

「また、喧嘩?原因は何なの?」
「何でもないわっ!乱馬が馬鹿なだけよ!」
 にやにやと笑う、すぐ上の姉、なびきの好奇心を交わして、自室へと駆け上る。
 居間に残されたのは、あかねに殴られた頬を撫でる乱馬。
 彼にもなびきは、面白おかしく言い放つ。
「たく、全く「進歩」って言葉を知らないのね、あんたたちって。」
「うるせーよっ!」
 ぶすっと不機嫌で、こちらも取り付く島がない。
「はいはい。いい加減、「成長」しなさい。十八つったら、男子、責任取れる年頃でしょう。
 今日は六月晦日(ろくがつつごもり)なんだから、さっさと浮世の厄介ごとは水に流しきってしまいなさいな。」
 野次馬なびきは、それだけを言い置くと、さっさとその場を離れた。

「六月晦日…か。もう、今年も半分終わったってか。」
 乱馬は壁にかかっている、カレンダーに目を移しながら、独り言のように吐き出した。



 

「はあーっ!馬鹿はあたしかもね…。」
 ドサッとベッドの上に身を投げ出して、天井を見上げる。
 蛍光灯の光が、目に眩い。
「あー!でも、乱馬も乱馬よ!」
 と、許婚への不平不満を独り言のようにぶつけるが、内実、自己嫌悪の塊だ。
 幾度と無く喧嘩。また今日も喧嘩。
 日課のようなやり取りに、結局のところ、関係は進展せず。付かず離れず、友達以上の恋人未満。そろそろ、少しは進展もありえるだろうに、全然その気配なし。

「あの、いい加減男!」
 
 そう言いながら目を閉じる。
 が、すぐさま、ガバッと身を起す。

 何か居る!

 そんな気配を察したのだ。
 これでも、武道家の卵。気配を読むのはお手の物。

「そんなに、情けないなら、あんな男、放り出して、ワシと一緒に厄払いじゃあっ!」

「きゃああっ!いやああっ!」
 拳を真っ直ぐに振り上げて突き上げる。本能的に取った防御態勢だった。

 メコッ!

 拳の先に、黒い小さな塊がめり込んでいる。そっと、そいつへと目を転じた。

「お、おじいちゃん…。」
 
 拳の先に居たのは、時々天道家の住人となる放浪の不良老人、八宝斎。

「おじいちゃん、人の部屋で何やってんのよ…。」
 ぐっと、襟元を手繰り寄せ、睨みつける。
「あ、いや、別に…。ワシはその、あかねちゃんと…厄払いを…。」
「厄払い?」
 怪訝なあかねに、八宝斎はきびすを返す。
「ああ、今日は六月の晦日じゃろう?半年に一度の厄払いの日じゃ。」
「そんなの、あったっけ…。」
 小首を傾げたあかね。一瞬の隙が彼女に生じた。そう思ったから、八宝斎は急に飛びかかった。
「あっかねちゃーん!さあ、ワシと一緒に厄払いしに街へ行こう!」
 性懲りも無く、すりすりと助平爺はあかねへと擦り寄った。
「厄払いは神社でするもんじゃないの?」
 じろりとあかねは八宝斎を見る。
「いや、街でも厄払いはできる。」
 すりすりと嬉しそうに八宝斎はあかねへにじり寄った。
「この手は何だーっ!」
 乱馬よりも容赦なく、あかねはズガンと八宝斎へ一発、蹴り上げた。
「ぐ…。」
 さすがの八宝斎も、このあかねの一発は効いたらしい。
「たく、出てけーっ!」

 どっかーん!

 哀れ八宝斎は、あかねに蹴り上げられ、そのまま窓を真っ直ぐに通過し、外へと放り出された。

「もう、何なのよ!あの、爺さんはっ!己が疫病神みたいなもんじゃないのっ!」
 鼻息荒いあかねは、そのままの状態で佇む。そこに一瞬の隙があった。だから、八宝斎の懐から零れ落ちた「それ」が己目掛けて落下して来たことに気が付かなかったのだ。

 ヒュルヒュルヒュル…。

「え?」
 はっとして、見上げた途端、「そいつ」は、キラリと輝いた。そして、そのまま、あかねの顔面へと激突した。

 ベシッ!

 そんな音がしたと思う。「そいつ」は、そのまま、額から目の上にかけて、ヒタリと張り付いた。

 いくら小さくて軽い物でも、勢い良く頭上から落ちて来たのだ。ある程度の衝撃はあった。不意打ちを食らわされたのだ。

 ミシミシミシッ。

 「そいつ」は顔上でひび割れたような気もする。

 ハッとして「そいつ」を取り除こうと、額に手を当てた瞬間だった。
「え?何?きゃああああっ!」
 グイッと何かに吸引されるように、引っ張られた。ふわっ、と身体が浮き上がり、そのまま、丸い渦の中に飲み込まれた。

 クルクルクル、キュルキュルキュル…。

 天井と共に、目が回った。
 虹色に美しくだ。

 どのくらい、その渦の中に翻弄されていたのだろうか。

 ふと気が付くと、ざわざわっと木立が鳴った場所に居た。
 明らかに、己の部屋とは様相が違う。
 そこは部屋の中ではなく、外であった。それも、天道家ではない。上には、梅雨の暗い雲が垂れ込め、太陽の光もない。下は土くれの匂いがした。いや、土だけではなく、木々や草いきれもする。

「へ?」
 思わず、驚いて身を起した。
 と、カランと「それ」はあかねの身体から落ちた。多分、八宝斎の懐から落っこちて、あかねに激突した物。
「これって…。南蛮ミラーじゃあ…。」
 「そいつ」は、鏡だった。簡単な装飾がされた手鏡。見覚えがある。
 女傑族の宝物の一つ「南蛮ミラー」だ。若い頃の八宝斎が女傑族の村で奪った「そいつ」。
 あかねはそれを手に、暫し呆然とした。これを使うと、任意に、色んな時代を訪問することができる。鏡に己の姿を写し、涙を振り掛ければ、たちどころに時空を移動でいうるという、眉唾的優れ物だ。
 前に一度、乱馬が呪泉で溺れないようにと、皆して旅立った経緯がある。あのときは結局、うやむやに終局を迎え、何の収穫も無く帰り来たのだ。あれから、南蛮ミラーの行方も知れずだったが、ここにあるということは、八宝斎が見つけて、性懲りも無く所持していたようだ。
 これが手元にあるということは、時空を移動したのかもしれない。いや、そう思って間違いあるまい。
 時空移動したのでなければ、己の部屋から放り出される訳などないであろう。
「たく…。お爺ちゃんたら、相変わらず、ややこしい物を持ったままにしておくんだから…。」
 自分の暴力は棚に上げて、あかねは土埃を払って、辺りを伺った。いったい、いつの時代のどこへ落ちたというのだろう。まずは、それを確かめねばならない。

 あかねは南蛮ミラーを懐に仕舞い込むと、いったいここが、いつの時代のどこなのかを確認しようと当たりの様子を伺った。

「にしても…。山の中よねえ…。ここ…。」

 熱帯や寒冷地ではないようだ。
 見た所、日本のどこにでもあるような雑木林の光景に近い。スギだのヒノキだの、ドングリだのシイだの。馴染みのある木々が枝先を揺らせていた。季節も、初夏のようだ。暑くも無く寒くも無い。また、紅葉も見られない。
 ただ、行けども行けども、人家は見当たらなかった。己が放り出されたのは、相当深い山中なのかもしれなかった。
「やだなあ…。猛獣とか変な生き物なんか、居ないわよね…。」
 キキキ、コココと山鳥の啼く声がする。シンとした森の中、己の歩みと衣擦れの音だけが響き渡る。
 見ると、獣道ほどの頼りない細い道が付いている。それ故、全くの人外魔境ではないらしい。林業家やハイキングで入ってくる人は居るのだろう。

 ガサガサガサッと傍の木が揺れた。

(何か居る!)
 咄嗟に身構えた。
 と、見る間に、そいつは、目の前の茂みから飛び出してきた。

 ブヒーッ!

 タタタン、タタタンと猛突進してくるそいつは、イノシシだった。それも、かなりでかい。

「きゃああ!」
 さすがのあかねも、悲鳴を上げた。
 イノシシは、何かに追いたてられているのか、血走った目をしていた。それだけに、目の前に現れたあかねに容赦はなかった。迷うことなく、あかね目掛けて突進してくる。
「こっちへ来ないでーっ!」
 すっかり平常心を失ったあかねは、追い立てられるままに、逃げ出した。
「いやん!何でこんなところで、イノシシに追いかけられなきゃならないのよーっ!」
 とんだ、災難だった。こんな山中では助けも期待できない。振り切って逃げ切るかそれとも、イノシシに襲われるか。二者択一。
 道なき獣道をほうほうの態で逃げ惑う。だが、慣れない山の中。しかも、普段着に裸足だ。動きに切れはないし、足元も悪い。
 唐突に道は途切れた。
 崖が目の前に切立つ。そう、これ以上進めないということだ。

「じ、冗談じゃないわっ!」
 イノシシは迷うことなく、己の方へと突進してくる。こいつを交わすほどの腕力はない。

「ダメッ!やられる!」
 そう思って目を閉じかけた時だ。

「でやああああっ!」
 再び、ガサガサと木々が唸った。イノシシが突進してくるその後ろ側から、「彼」が現れた。振りかぶりざまに、彼はイノシシ目掛けて、持っていた、竹槍を突き立てる。

「いやああっ!」
「ブヒヒヒー!」

 あかねとイノシシの悲鳴が、同時に響き渡った。

 ドサッと巨体が目の前で崩れる音がした。
 あかねはそうっと閉じていた目を開く。

「ひっ!」
 すぐさま顔を背けた。
 イノシシが天を仰いで目をひん剥いている。ピクピクと足が痙攣を起し、口から泡を噴出している。

「ふうっ!やっと、倒したぜ。」
 彼は、呆然と立ち尽くあかねの目の前で、小さくつぶやいた。
 その彼を見て、あかねは驚いた。

(へ?男の子?)

 そうだ。道着を着込んだ、男の子が得意げに鼻を啜っている姿が目に飛び込んで来たからだ。
 まだ、声変わりすらしていない、男の子がそこに立っていた。身長も百四十センチあるかないかくらいだ。パッと見た所、十歳くらいの感じだった。

「お姉ちゃん、危なかったな。」
 そう言って、少年は笑った。
 見覚えのある顔形。いや、髪形もだ。前髪を下ろしたまま、長い後ろ髪。それを一つにくくって、ゴムひもで結わえている。
「ら、乱馬…?」
 思わず、そう、口走っていた。

 それを聞いた途端、少年の顔つきが険しくなった。

「おめえ、何で俺の名前、知ってんだ?…さては、狐狸、妖怪の類か?」
 がばっと身構える。その格好は、小さいながらもどうに入っている。

「あ、いや…。ごめんなさい。ほら…。ここに名前が書いてあるから…。」
 あかねは咄嗟に、道着の黒帯の下辺りに、マジックで書かれた「乱馬」という名前を指差して言った。丁度良い具合に、そこに、記名があったのだ。
「何だ…。これが読めたんだ…。おめえ、目が良いな。」
 年上であることなどお構い無しに、彼はあかねに、ため口をきいた。物怖(ものお)じすることを知らないらしい。いや、年上に敬語を使うこと自体を知らないのであろう。

「助けてくれて、ありがと…。僕。」
 あかねはパンパンと、洋服の埃を払った。
「いや…。別に助けた訳じゃねえよ。俺は、飯の種を捕りに来ただけなんだから。」
 彼はイノシシに近寄りながら言った。それから、ぶっすりと刺さった竹槍を、抜き取ると、それにイノシシを結わえ始めた。馴れた手つきだ。
「飯の種ですって?…あんた、これを…。食べるってえの?」
 あかねは、大きな目を瞬かせる。
「まさか。」
「じゃあ、何?その、飯の種って…。」
「別に、これをこのまま食うって訳じゃねーもん。こいつを売って儲けるんだ。」
 と答える。
「あのさあ…イノシシを捕獲するには、許可ってのが要るんじゃないの?闇雲に捕獲できるってわけにもいかないでしょうに。」
「ああ…。その事なら心配ねえよ。」
 彼はあかねの言葉など、気にも留めずに、熱心に手を動かす。イノシシを動かないように固定するのだ。
「この山を管理している人から依頼されててよ、イノシシを捕獲したら、そこへ持って行くことになってんだ。」
「管理している人?」
「ああ…。親父の知り合いなんだけどな。役所からも、ちゃんとした捕獲許可も貰ってる。言わば、「仕事」みてえなものだな。食い扶(ぶ)ちを稼ぐためのさ。」
 凡そ、子供の言とはかけ離れた答えが返って来る。
「食い扶ちですって?それが?」
 まだ、詳細が上手く飲み込めず、あかねがきょとんと尋ねた。
「ああ…。この山に入って修行の傍ら、こうやってイノシシ捕ってさあ、そこへ持ってくと、金に換えてもらえるんだ。その手間賃で食料や雑貨を買って生活してんだ、俺。」
「へえ…。そうなんだ。」
 なるほど、少し合点がいった。
「ここは、山間の地だろう?イノシシはぼたん鍋の材料として、料亭なんかから引き合いがあるんだぜ。」
 と少年は屈託なく笑った。
「へえ…。」
 感心するあかねに、今度は少年が尋ねかける。
「それはそうと、おめえ、何でイノシシに追われてたんだ?見た所、ハイキングでこの山に入ったような感じでもねえし…。」
 あかねを怪訝な瞳でジロジロと見た。
 ハイキングなら、スラックスかGパンを履いて、バックパッキンでも背負っていそうだが、今のあかねはスカートにサマーセーターといった井出達。そればかりか素足だ。部屋の中から、突然、南蛮ミラーで飛ばされたのだから仕方がないが、到底山中に居る格好ではなかった。
「あはは…。ちょっと事情があってねえ。」
 あかねは誤魔化しにかかる。
「あー!おめえ、もしかして…。自殺志願者か?」
「はああ?」
 乱馬の問い掛けに、思いっきり脱力してしまった。間の抜けた声を聞いて、乱馬がポンと彼はあかねの肩に手を置いた。
「そっか…。人生、生きてりゃあ、色んな事があるさ。何も辛い事ばかりじゃねえぞ。俺だって、こんな樹海の中に一人残されたって、ちゃんとこうやって生きてるんだしよう…。死のうだなんて、考えねえ方がいいんじゃねえのか?まだ若いんだし。」
 一人で勝手に納得している。
「あのねえ…。勝手に人を自殺者呼ばわりしないでよ…。」
 その受け答えを聞いて、思わず、苦笑いがこぼれる。子供のクセに何て事を言うのだと。
「そんなんじゃないわよ…。あたしが自殺志願者に見えるってえの?」
「だって普通じゃねえじゃん。姉ちゃん。」
 ジロッとあかねを一瞥する。確かに、着の身着のままであるし、凡そ、山中に居る格好ではない。
「こんな山中で修行生活送ってると、時々来るんだよ。姉ちゃんみてえな自殺志願者がさあ…。俺が自殺を食い止めてやったことも、一度や二度じゃねえぜ。」
 と軽い口を叩く。
「大方、首でも吊ろうと手ごろな木を物色してるところに、こいつに出っくわしたんじゃねえのかよう。」
 乱馬はイノシシを見やった。
「だから、違うってえの!」
「じゃあ、何なんだよ…。」

 まさか、南蛮ミラーの魔力で、ここまで時空を飛ばされた、などとは言えない。いや、いくら子供の乱馬でも、言ったところで、信じまい。

「まあ、良いじゃない。あたしの事情なんて…。」
 と口ごもる。
「やっぱり、自殺志願者なんじゃねえのか?」
「だから、それは無いって…。」
 押し問答が続く。
「ま、いいや。見た所、自殺志願者だとしても、もう死ぬ気は失せてるみてえだしさ…。どうせ、行くあてもねえんだろ?来いよ。今夜の宿くれえは、面倒見てやるぜ。」
 乱馬はくるっと向きを返ると、イノシシをどっこらしょと背負い、先に立って歩き出した。
「あ、待ってよう…。」



二、

 先に立って道を先導する乱馬。とても、小さな子供とは思えないくらい、力持ちだった。かなりでかいイノシシを軽々と背負えるくらいにだ。生意気だが、頼りになる。そう思った。

(さすがに、小さいクセに 良く鍛えてるわねえ…。)
 あかねは後ろを歩きながら、じろじろと観察する。
 年の頃合は、十歳前後。ということは、あかねの良く知る乱馬からは、十歳ほど若いことになる。身長だって、今の乱馬よりも、三十センチ以上低い。あかねからも楽々見下ろせる。
 でも、がっちりした体格はさすがだ。良く鍛えこんでいるようで、重いイノシシを担ぎ上げていても平気だ。腰から下が安定している。

「あんたさあ…。年は幾つ?学年は?」
 あかねは、興味津々、乱馬に尋ねた。一応、彼の今を知っておこうと思ったのだ。
「九歳。今、三年生だよ。」
 まだ、声変わりするような歳では無いので、甲高い声だ。どちらかというと、女乱馬の声に近い。そう思った。
「へえ…。三年生か。」
 ということは、ギャングエイジ真っ只中。男児にとっては、一番の生意気な頃合だ。
「学校はどうしてるの?」
 あかねはにっこりと微笑んだ。
「学校か?麓の分校に通ってる。でも、時々しか行かねえけどな。」
 と歯切れの悪い返事。
「時々しか行かないの?」
 怪訝に尋ねた。一応、小学校は義務教育だから、行かなければなるまいに。
「ああ。俺、親父とあちこちを点々としてっからさ、あんまり友だちも居ねえんだ。特に山の分校なんか、地元のガキで固まってっから、余所者が入る余地なんてありゃしねえしよ……。行ったって、友達も居なきゃ、勉強もつまんねーもん。それよか、山で修行してる方が、ずっと楽しいぜ。」
「修行ねえ…。まさか、一人でやってるなんてこと…。」
 どうやら、彼の父、玄馬は近くに居ないらしい。気配の微塵も感じられない。不思議といえばそれが不思議だった。

「今は一人なんだ。」
 乱馬はさらっと言って退けた。
「一人…で山の中で修行?おじさま…あ、いや、お父さんは?」
 つい、いつもの口調で、おじさまと言いかけて口ごもった。また彼に、狐狸妖怪の類と思われては大変だ。だから「お父さん」と言い直した。
「親父は何か用があるって、町まで降りてる。あと四、五日帰って来ねえって言ってた。だから、一人だ。」
「へえ…。あんた、一人でこんな山の中に居たって平気なんだ。」
 と感心してみせる。この頃合の自分からは、考えられないほどに、乱馬はしっかりしている。そう思った。
「ああ。もう慣れっこだからな。あ、勿論、夜は、権現さんの奥の院で休ませて貰ってっから…。さすがに山の中で一人で野宿じゃあ、危険だからってさ。親父の口利きで、馴染みの神主さんの奥の院で泊めてくれてるんだ。」
「権現さんの奥の院ねえ…。」
「山王権現(さんのうごんげん)とかいう、山の神様の神殿だとよ…。まあ、雨風が凌げれば、どこでも良いんだ。あ、ほら見えてきた。あそこだよ。」
 乱馬の指差す方向に、確かに建物がある。
 予想に反して、随分、ボロ屋だった。
 まあ、こんな山中に立派な建物があるわけはないだろうが。こじんまりとした木造の社殿がポツンと一棟だけ、木々の中に孤立して立っているように見えた。瓦なども削げ落ちた、白木剥き出しのみすぼらしい社殿だった。

「今夜はここで、俺と一緒に泊めてもらえばよいさ。麓の村までは、結構、下らなきゃならねーしな。」
 と言った。
「そうね。暗がりで野宿するのも、薄気味悪いし…。乱馬君と一緒なら。」
 帰ろうと思えば、南蛮ミラーに涙を垂らして願をかけ、そのまま元の世界へ帰れるのだろうが、子供の頃の乱馬と遭遇したこの千載一遇の機会を、みすみす逃す手はない。むくむくっと好奇心が頭をもたげてきた。一晩、彼と泊まってみようと、その時あかねは、心に決めていたのである。
「ちょっと待ってな。神主の爺さんに事情話してくっから!」
 乱馬は、あかねを建物の片隅に待たせると、イノシシを背負ったまま、行ってしまった。

「小さい頃の乱馬かあ…。」
 くすくすっと笑みがこぼれた。
 自分は見知らぬ、彼の子供の頃。あまり彼も、どんな子供時代を送ってきたか、口には出さない。ずっと、父親と二人きり、放浪の修行生活だったと言うこと以外は、一切知らない。
 十八歳の乱馬の状態から、だいたいの想像はついたが、己が思っていたよりも、ずっと厳しい修行生活を送っていたようだ。
 決していい加減に修行しているのではない。それは、幼い乱馬の体格や瞳の鋭さを見ていると、ひしひしと伝わってくる。なよなよとした瞳ではない。まだ幼いくせに、野獣の輝きに満ちている。

「やっぱり、もうちょっとこの時代にお邪魔してようっと…。」
 あかねは南蛮ミラーを懐深くへ仕舞い込んだ。
 涙を流し、元の時間へと懇願すれば、すぐさま戻れるのだろうが、せっかく、子供時代の乱馬の居る世界へ迷い出たのだ。一晩くらいはと、好奇心が頭を持ち上げた。

 ややあって、乱馬は年老いた神主さんを伴って戻ってくる。

「いらっしゃい。こんなボロ社に若いお客さんだなんて、珍しい事もあるわいのう…。ほっほっほ。」
 老いてはいるが、足腰はシャンとした神主さんだった。衣服は、神主さんのそれ。白い着物に薄みどりいろの袴姿。白いあごひげを長くだらりと前にしだれかけ、白髪ばかりの髪を後ろに結わえている。
「神主さんが、一晩、一緒に泊まっても良いってさ。他に行くあてもないなら、世話になんなよ。明日になったら、イノシシを持って、下に降りるから、その時、一緒に山を降りれば良いさ。」

「ふぉっふぉっふぉ、乱馬も思わぬ連れが出来て、嬉しそうじゃしのう…。ずっと、一人で退屈しとったろうし。」
 建物から出て来た神主がからかい気味に乱馬に言い放つと、
「んなこたあねえっ!別に、俺は…。」
 何故か乱馬は顔を真っ赤にして、老人の言葉に反論する。
「母者が恋しい年代なんじゃないのかえ?まあ、そちらのお嬢さんは、おまえさんの母君よりは随分と若いだろうがのう。」
「うるせーっ!さっさと飯だ、飯。俺、腹減った!」
「あの…。あたしなんかが、飛び入りしても大丈夫でしょうか?」
 あかねが神主に尋ねると、
「ああ、気になさらんでよろしい。いつもの山野菜のごった煮しかござらんが、ここへ来られたのも何かの縁。ゆっくりしていきなされ。」
 と気の良い返事。

 三人で囲む食卓は、暖かかった。
 夏近いとはいえ、夕陽が沈みきると、山中は冷える。それゆえに、暖炉にくべられた鍋料理はありがたかった。
 さすがに飲まず食わずで居たので、あかねのお腹も減っていた。山菜やら芋やらが入った簡単な鍋だったが、それでも、温まり、満腹になった。

「おまえ、今日は小食気味じゃないか?」
 爺さんが乱馬を見ながら言った。
「そうか?結構、食ったぜ。」
 乱馬は爺さんを省みた。
「あんたさあ…。もしかして、あたしが入ったから、遠慮しながら食べてる?足りなくなるって…。」
 あかねがじっと乱馬を見た。
「いや…。別に…。何か今日はこんくらいで良いよ。昼間、駆けずり回り過ぎて疲れたせいか、もう、お腹一杯だよ。」
 そんな事を言った。
「坊主も気を遣うことを覚えよったかな?」
「だから、そんなんじゃねえって!」
 その時は別段気に留めずに居た。子供の頃の乱馬の食欲がいかほどのものなのか、あかねは良く知らなかったし、結構箸が進んでいるように見えたからだ。

 いくつか部屋はあるようだが、裸電球の侘しいあずま屋。それでも、こんな山中にまで、電灯は灯るのかと、あかねは目を丸くした。
 どうやら、電気だけは通ってきているようだ。
 だが、当然、それだけ。
 テレビもラジオもない。俗世間からは離れてしまった山の孤島。
 従って、食べ終わると、後は、風呂に入って寝るだけ。
 そんな世界だ。

「のう、あかねさんとやら。今夜は乱馬と一緒に風呂に入って寝てやってくだされや。」
 神主さんが笑いながら言った。
「あん?何だって?」
 乱馬が横から口を挟む。少し不服な様子だ。
「おまえだって、たまには年の近い者と寝食共にしたかろう?父親かワシみたいな老人とばかりでは、面白くもなかろうて。わっはっは。」
「だからって何で、姉ちゃんとなんだよ。」
「照れるな、照れるな!内心嬉しいくせに。わっはっは。」
「何言い出すんだよ、この、モウロクじじい!」
 乱馬は真っ赤になりながら、答える。
「ほら、今日は六月三十日だから、この後、やらなきゃならぬ神事もある。その前に、そら、風呂の湯で禊ぎして来い!」
 バンバンと乱馬の背中を叩いた。

「御神事?」
 きょとんと、乱馬とあかねが神主を見返した。
「ああ。今日は六月の晦日。夏越の祓の日じゃからなあ…。こんな人気のない神社でも、一応は災厄退散のお祓いをするもんなんじゃて。わっはっは。」
 神主さんは笑いながら、二人を見比べた。



つづく





 乱馬が、小さい頃のあかねに会った話しを、随分前に一回、書き下ろしました。(「秋桜」)
 でも、その逆パターンはなかったな…と思いつつ。
 母性本能くすぐられる話になる筈なのですが…。ううむ…どうじゃら?



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