◆空色の氷菓子
一、
ぎんぎら太陽、抜けるような青空、そして沸き立つ入道雲。
少し動いただけでも、荒く漏れる息。
ここ数年、じわじわと地球が温暖化している。いずれは、海の水も沸騰してしまうのではないかと、思うくらいの、うだるような暑さが今年も続いていた。
夕刻にはまだ時間が早い。「涼」という言葉など、忘れてしまったかのような、暑い昼下がり。
カラカラに乾いた、炎天下の道を行く。
ふと対岸を眺めると、「氷」と漢字が書かれた幟(のぼり)。桜の古木の傍で自転車を止めて、涼を取っている麦藁帽子の爺さんが見えた。
この、暑い最中では、買いに来る人も居ないだろう。いつもは、草野球やサッカー少年で賑わう、川縁の小さなグラウンドにも、人影は無い。
こんな都会でも、アイスを売って歩いている人がまだ居るのかと、少し不思議に思いながらも、帰宅の道を急ぐ。
(畜生、何で補習授業なんか、この世の中にあるんだ?)
そんな文句が、汗と共に零れ落ちる。
揺れる背中の通学鞄。ぴったり張り付いた合皮部分から、じわじわと汗が滲み出してくるようにも思う。いや、汗はそこからだけではない。額、顔、背中、胸元。そこらじゅうの汗腺が全開となって、吹き出ているような気がする。
この時期だけは、髪の毛が長いのが鬱陶しいと思えてくる。ひとまとめにおさげにしていてもだ。
いつもは、打ち水をして、己を困らせる、馴染みの水まきの婆さんすら、この暑さで、ばてているのだろう。開けっぴろげられた婆さんの家の軒先には人影もない。勿論、打ち水をした痕跡すら感じられない。
尤も、この気温では、水をまいても、すぐにカラカラに乾いてしまうだろう。何より、お年寄りには、堪える暑さだ。
道端には、人間ばかりか、子猫一匹の影すら無い。繋がれている飼い犬たちも、日なたは避けて、小屋の中でじっと鼻先だけを出して、喘いでいる。元気なのは、鳴き盛っている蝉くらいのものだろう。
そんな猛暑の昼下がりだった。
(たく、今年の夏はどうなっちまってるんだ?)
いつもよりも、数倍も気温が高いと思われた。素人の己にもわかる。
去年よりも暑い。かなり暑い。若い肉体にすら、限界を感じさせる。
(やっぱ、湾岸に、たくさんの建物ができたせいかな…。)
ふうっと漏れる、熱い溜息。
何処かのテレビ局のお天気お姉さんが言っていた。建設ラッシュが続いた東京湾岸エリアに、高いビルが立ち並び、今までは吹き抜けてきた海からの風が、全く都内に入って来なくなったというのだ。高層ビルが壁となり、風の通り道を塞いでしまった。その結果が、この猛暑と密接に関係しているらしい。
遂に、都内の気温が四十度を超えたと、メディアが、がなりたて、書きたてていた。
フェンスの上だと、少しくらいは涼しいかと思って、走っていたが、そうは変わらないようだ。冬は川の方から、冷たい風が吹き上げてくるのに、今は、むっとした空気しか吹き上げてこない。
ちぇっ!
舌打ちすると、タンッと降りた。
地面に付くと、そこからも熱気が吹き上げてくるように思えた。
アスファルトからもわっと上がる熱気。
すっかりアスファルトでコーディングされつくした道には、土の臭いが感じられない。土へと逃げていた熱気が、行き先を失い、アスファルトの上でこもったまま、彷徨っているのだろう。
便利さと引き換えに、都会の夏は、涼をすっかり失ってしまったように思う。
本来暮らしやすくしようとするために働いた人間の英知が、心地良い自然の風を奪っているというのだから、皮肉な話だ。
「ただいまあっ!」
ガラガラっと引き戸を開けて、焼きつく太陽から逃れるように玄関先へと雪崩れ込む。
直射日光から遮られただけでも、少し「涼」を感じた。靴を脱ぎ去り、そのまま裸足で板の間へと上がりこむ。
ぺたぺたと黒く光る板の廊下を歩き、奥へと進む。地熱でぬくもっていた足が、裏から冷えるような気がした。
いつものように、最初に茶の間へと顔を出す。
「あら、おかえりなさい、乱馬君。」
この家の主婦役、長女のかすみが声をかけた。
「良いタイミングで帰って来るわねえ。これから、皆でアイスを食べようって言ってたところなのよ。かすみお姉ちゃんが買い物の帰りに、買って来たの。」
次女のなびきがにっと微笑む。
「おお、まさに、グッドタイミングじゃ!乱馬よ。」
手ぬぐいを頭に巻きつけた、彼の父、玄馬が眼鏡越しににっと笑った。
「さすがに、早乙女君の息子だけはある。食べ物には鼻が利くね。」
「そりゃ、褒めてるのかね?天道君。」
「褒めてるんだよ、早乙女君。」
「そうは聞こえんがなあ…。」
わっはっはと笑いあう父親たち二人。
確かに、部屋の中央の卓袱台(ちゃぶだい)に、白いビニール袋が一つ、置かれていた。中からは、いろいろな氷菓子が入っている。カップアイスもあれば棒アイスもある。まさに、冷たい宝の袋だ。
「なんだかわくわくするね、天道君。」
「どれを食べようか、迷っちゃうね、早乙女君。」
氷菓子というものは、いい大人をも「童心」へと変えてしまうものなのかもしれない。
中年親父二人は、にこにこと屈託無い笑顔を、素直に手向けている。
「たく、良い歳してよう…。何、はしゃいでんだか…。」
つい、嫌味の一つも言いたくなる。
「まあ、良いじゃない。」
なびきはふっと微笑むと、さっさと己の好みのアイスを選別にかかった。
「あたしはこれっと。」
そう言いながら、棒キャンデーを一本取り出した。袋には「当たりつき」と赤と黄色で書かれている。なびきらしく、二度美味しいというのを狙っているのかもしれない。
「ああ、なびき君、一番最初に選ぶなんて、ずるかないか?」
と、玄馬が悲鳴に近い声をあげた。
「何、大人気ない事言ってんだよ…。別に誰が最初に選ぼうとも、良いじゃねーかよっ!」
呆れ顔で乱馬が父親を制する。
「んとね、じゃあ、ワシは…。これにしよう!懐かしい、パインアイスじゃ!」
乱馬の言が終わらない矢先に、玄馬がさっさと、自分の分を確保しにかかった。黄色い色が鮮やかな、パインの形をしたアイス。それを、さっと、ごつい手で掴み取った。
「あー、早乙女君、ずるい!ワシもそれを狙っていたのに。」
早雲が苦笑いした。
「駄目だよ、ワシ、これに決めたもんねー。天ちゃんでも、譲らないよ。」
玄馬がわっはっはと笑いながらおどけてみせる。
「ほら、見ろ。この真ん中の穴。ドーナッツの穴や竹輪の穴と通じる哲学があると思わんかね?」
「思わねーよ、そんなの!」
乱馬はぶすっと吐き出す。
「んー、狙ってたパインアイスは早乙女君に取られちゃったからなあ…。仕方が無いから、私はこれにしよっと。」
早雲は、小豆の入った氷カップを取り上げた。
「随分、渋いのを選んだね、天道君。」
「君には一口だってあげないよ!早乙女君!」
「天ちゃんの意地悪っ!」
「お互い様だよ。」
「バカが…。」
相手になるのもアホ臭いと思ったのか、白い目を差し向ける乱馬。
「で、あんたはどれにするの?」
なびきが問いかけると、
「んー、そだな。これだな。」
そう言いながら、手に取ったのは青い二つ棒のソーダキャンデー。真ん中でパチンと割って食べるタイプだ。
「あ、それは…。」
何か言いかけたかすみ。
「ん?何か?かすみさん。」
乱馬は言葉を発しかけた彼女に目を差し向けた。
「ううん…。別に何でもないわ。えっと、私は、バニラアイスで良いわ。」
かすみは言いかけた言葉を飲み込んで、いそいそとカップアイスを持ち上げた。何か言いかけてやめた事は明白だったが、乱馬もそれ以上の追求はしなかった。
「お姉ちゃん。純白のバニラアイス…。正統派なんだあ。」
隣りでなびきが笑った。
買って来たアイスは六個。従って、袋の中にはあと一個。
「じゃあ、残りはあかねちゃんのね。」
かすみはにっこりと微笑んだ。
「何が残ったのかしら?」
なびきが笑いながら、袋を覗き込んだ。
緑のカップがちらりと見えた。
「あら、渋い。抹茶アイスだって。あかね、食べるかしら?」
「食べるんじゃないかしら…。」
「あかねって、こういう場合はソーダのアイスを選ぶのが常なんだけど…。」
と、ちらっと乱馬の方へ目を流す。
「何だよ…。俺は一度決めた事は覆さないぜ…。」
乱馬はなびきに向かって憤然と答えた。
「ま、子供の頃とは違うから、食べるわよね、あかねも。…でも、乱馬君もソーダアイス派とはねえ…。やっぱ、許婚同士ね。嗜好も一緒なんだ。」
なびきがにっこりと微笑んだ。
「うっせえ!ほっとけ。」
つい熱く吐き出した乱馬。
「もし、あかね君が食べんかったら、ワシが貰う。」
横から口を挟む玄馬。大きな口でがちがちに凍ったパインアイスを口いっぱいに頬張りながら言った。
「そんな、普段食べ付けねえ、アイスを二個も食ったら、腹壊すぜ!たく、卑しい親父め。」
乱馬は、いい加減にしろと言わんばかりの目を、卑しい父親に差し向ける。。
「壊さないもん!アイスは幾つでも別腹に入るもん!」
玄馬は浮かれて言う。
「だあ…。いい加減にしとけよ…。で、そういや、あかね。あいつ、何処行ったんだ?」
乱馬はあかねの気配が現れないことを不思議に思って問いかけた。こういう団欒の場には、必ず、天道家の面々は茶の間に揃う筈なのだが、まだ、来る気配がない。それを怪訝に思ったのだ。
「道場よ…。」
なびきが棒アイスを頬張りながら答えた。
「道場?このクソ暑いのにか?」
アイスを持ったまま、乱馬が言った。
「暑さでだらけてる、貴様とは、真面目さが違うんじゃよ。あかね君は。わっはっは。」
玄馬が笑い飛ばした。
「もうそろそろ、来ると思うわ。さっき、道場から上がってたから、今頃、自分の部屋で着替えてるんじゃないかしら。」
そう言いながらかすみがにっこりと微笑む。
「んじゃ、俺も、食おう…。」
そう言って、乱馬が、袋へと手をかけようとした時だ。
「あー!貴様ら、自分らだけで良い物、食いおって!」
突然、入ってきたのは、八宝斎の爺さんだった。
「おお、スイート!ワシのもあったのか。愛(う)い奴!」
そう言うと、最後に一つ、残っていたアイスへと手をかけた。
「あー!こらっ!それはあかねのっ!」
咄嗟に手が出た乱馬を、八宝斎は、思いっきり、跳ね飛ばしていた。そればかりか、ひょいっと袋に手をかけると、一瞬でアイスを盗り去っていた。
「あーらあら。お爺ちゃんの分まで買ってなかったわ。どうしましょう。」
かすみがちっとも困っていないような、落ち着き払ったトーンで、言った。
「仕方がないわよ。お爺ちゃんったら、いつもはこの家に居ない癖に、突然、思い出したように、こうやって帰って来るんですもん。数のうちに入れてなくて、当然だわよ。」
なびきがアイスを頬張りながら、それに対した。
「でも…。あかねちゃんの分が一個足りなくなっちゃったわ。」
そう言いながら、まだ、己の持ち分に手をつけていない乱馬を、じっと眺める。
「ほれ、乱馬!可愛い許婚のために、自分のをやったらどうかね?」
玄馬が、うりうりと横から肘で突っついた。
「んなこと、言ったってよ…。これは俺が…。」
と言いながら、まだ開きかけのアイスの袋をじっと眺める。取りかけのアイス棒が、破いた袋から二つ覗いていた。
「あんたの、ダブルバーじゃないの。だったら、「半分こ」すれば良いじゃん。」
なびきがぺロッと舌を出しながら流し見た。
「それが良いよ。二人で一つ。うりうりうり。」
「仲良き事は美しき哉、そうしてくれたまえ。」
そら、すぐに横槍を入れたがるのが、この家族たちの要らぬ思いやりである。
乱馬とて、子供ではないのだから、それなりに考えることも可能であろうが、こうやって、周りからとやかく言われるのが、一番、苦手だ。
ガチャガチャと騒音が入ってくると、己の意を頑なに通してしまうくらいの頑固さも持ち合わせている。
「な、何で、俺がそこまで、考えてやらなきゃなんねーんだよっ!」
と憤慨した。
「あら、だって、あんたはあかねの許婚じゃん。当然じゃない。」
と、なびきはからかうような視線を投げつけた。
「あんなあ、俺とあかねは、親父たちが勝手に押し付けた…。」
そう言いかけたところで、再び八宝斎が乱入してきた。
さっきの抹茶カップなど、数口でぺろりと平らげてしまったようだ。
「乱馬っ!貴様が食わないのなら、貸せ。許婚同士、不公平が無いように全部ワシが食ってやる!」
ひょひょいっとスキップしながら、飛び込んでくると、さっと乱馬の手からアイスキャンデー抜き取った。
「あっ!」
本当に一瞬であった。
八宝斎の短い手は、乱馬の手元から、見事にアイスキャンデーだけを持つと、もう、次の瞬間には、通り抜けているではないか。
「て、てめえっ!そりゃ、俺の分だ!返しやがれっ!」
逆上した乱馬は、飛び退く物体目掛けて、飛び掛った。
理不尽に己の取り分を持ち去られて、見過ごすことなど、乱馬に出切るわけが無い。何に増しても、食に対する執着心は、相当にある。そういう育ち方をしてきたのも確かだ。
「へっへーん!ワシが貰っちゃったもんねえ!返さんぞーっ!」
ピョンピョン跳ねながら、八宝斎はアイスを、これ見よがしに高く掲げた。
その「ふざけた姿」に、ますますテンションをあげる乱馬。
「いい加減にしやがれっ!この盗人じじいっ!」
乱馬は、そこにあった、座布団を、思いっきり、八宝斎に向かって投げつけた。
「そんな、へっぽこ座布団なんかじゃ、ワシは倒せんよーだっ!だーっはっは。」
ひょいひょいと、次々投げられる座布団を器用に避けながら、茶の間中を走り回る八宝斎。
と、そこへ、着替えが終わって、降りてきた、あかねが顔を出した。
「でっ、あかね…。」
そう思った乱馬だが、彼の動きは最早、止らなかった。
乱馬が振りかぶって投げつけた、座布団が、真正面から、勢い良くあかねに向かって飛んでしまったから堪らない。
べしっ!
鈍い音がして、乱馬の投げつけた座布団が、そのまんま、四角く張り付いた、あかねの顔。
彼女に起こった不幸は、それだけではない。
乱馬から盗んだダブルアイスが、ポロリと八宝斎の手から離れてしまったのだ。
アイスは、八宝斎の手からこぼれると、目下に居たあかねの頭にまず当たり、そのままあかねのTシャツの胸元へと滑り落ちた。
万が悪いと言えばそれまでだが、あまりに「タイミング」と「ポイント」が良過ぎたのである。
茶の間に居た人々の視線は、一斉に、あかねの方へと注がれる。
顔には座布団が張り付き、胸元へは冷たいアイスが滑り込み…。
そのまま、座布団が、畳の上に零れ落ちたのと、あかねの怒りが炸裂したのは、同時であった。
「らーんーまあああっ!」
ぴしっと怒りが走り、次に襲い来る刹那。
茶の間に一際大きな音が響き渡ると、あかねはどすどす、足音を踏み鳴らしながら、去って行った。まるで、嵐が一瞬のうちに吹き荒んでいった如く。
後に残されたのは、ズタボロに引き裂かれた、乱馬と、溶けかけてべたついた、アイスの残骸であった。
二、
「たく、何だってんだよっ!あかねの奴。」
つい、ぶつぶつと口から漏れる、雑言。
アイスクリームは食べ損ね、そこいら中に引っかき傷、打撲痕が浮かび上がる。
毎度の事とはいえ、あかねの怒りは凄まじかった。
夕立の激しい雨が、一気に吹き付けていったような感じである。
陽はだいぶん、西へと傾きかけたが、それでも、まだ、夏の太陽の力は衰えきっては居ない。西側から照り付けてくる斜陽は、まだまだ灼熱を放出しているように見えた。
それでも、地面から湯気が立つほどに照り付けていた、真昼間に比べ、幾分かは、弱まったように思う。
少しでも出始めた涼を求めてか、ちらほらと、道に人影が戻り始めていた。炎天下を嫌っていた、夕食の買い物主婦や、プールや塾帰りの子供たちが通り抜けていく。
ポケットに小銭が少し。チャラチャラと突っ込んだ手の下で、歩く度に、音を発てている。
「ま、乱馬君にも大いに責任はあるんだから…。あかねの分のアイスを買ってきなさい。」
そう言って、早雲が持たせてくれたものだ。
「何で俺が…。」
まだ痛む身体を持て余しつつ、つい出てくる文句。
「あら、自腹切らないで、人のお金で土俵に上がって相撲が取れるんだから、ラッキーだって思いなさいな。」
となびきがにっと笑った。
「ま、あかね君も事情を話せば、許してくれるじゃろうて。とにかく、そのきっかけ作りのためにも、アイスは必需品じゃぞ。アイスでぐっと彼女の心をつかんでおいてだな、あとは一気に押し捲って仲直りすれば…。」
無責任な極みの発言を、玄馬がする。
「おじさま、別に、あかねちゃんは、アイスを食べられなかったって怒ってるんじゃないと思うんですけど…。」
かすみが、アイスの落下で汚れた畳を水拭きしながら、言った。
「いや、わからんですぞ。食い物の恨みほど、他を圧倒するものは無いですからな、かすみさん。」
と、いやに説得力がある。
(親父じゃあるめえし…。あかねはそんなに卑しかねえぞ…。)
何を言われるかわかったもものではないので、そんな言葉を思えども、ぐっと咽喉の奥で堪えたまま、玄馬を睨みつける。
「とにかくだ。乱馬君も食べ損ねたんだから。一緒に自分の分も買っておいで。」
早雲は小銭を出しながら言った。
「あかねなら、さっき、道場で軽く手をぐねったって言ってたから、きっと、東風先生のところだと思うわ。」
とにやりと笑った。探す手間が省けたでしょうと言わんばかりに。
「それから、あかねなら、ソーダーアイスがお気に入りだからね。」
「ソーダーアイス?」
はっとして見返す。
「うん。あの子さあ、子供の頃から好きなのよね。いくつかあるアイスの中からは、必ずと言って良いほど、青いソーダーアイスを選ぶのよ。だから、仲直りしたかったら、ソーダアイスね。あ…。情報提供料、今回はまけといたげる。」
なびきがにっと笑った。
「ついでだから、この本、東風先生に返しておいていただけると、ありがたいわ、乱馬君。」
にこにことしながら、乱馬をついで遣いするつもりのかすみ。
「わかったよ、行けば良いんだろ?行けば…。」
半ば自暴気味になって、天道家を出て来た乱馬なのであった。
貰った小銭は、手の指先で音をたてながら、ポケットの中で元気に跳ねている。
東風先生の診療所と商店街は逆方向だ。
どうしようかと思案していたら、昼間見た、アイスキャンデー屋の爺さんが、まだ、木陰で佇んでいるのが見えた。
老齢の身には、猛暑はきついのだろうか。
麦藁帽子に白いシャツとよれたズボン。暑いのに腹巻まで巻いている「いかにも昔気質」の氷菓子屋。大きな桜の古木の下に、大きなちゃりんこをとめ、腰を下ろし陣取って、ゆっくりと流れる雲を見ながら、長いパイプをくわえている。
商売など、どうでも良く、悠久の時間を楽しんでいるように見えた。
「あの…。」
乱馬は意を決すると、爺さんの方へ向かって、歩き出した。
「あん?」
爺さんは、抜けた歯で、振り返る。
「すいません…。その…。」
どう話しかけてよいやら、迷った乱馬は、言葉を区切って話しかけた。
「すいませんって?おまえさん、ワシに何か謝るようなことをしたのかのう?」
爺さんからは、頓珍漢な返事が返って来た。
「あの、別にそう言うのじゃなくって…。」
「何じゃ?大和男児だったら、はっきり言いなされ。何用じゃ?」
「アイスキャンデーを二本ばかり売って欲しいんだけど…。」
発破をかけられて、乱馬は、少し大きく言い返した。
「そんなに、怒鳴らんでも、ワシの耳は聞こえておるよ。」
爺さんは笑った。
「どうやら、お客さんじゃったんじゃな。久々の商売か。」
そう言うと、どっこらしょっと、腰を重そうに上げた。
それから、ゆっくりと、止めてある自転車の方へと歩む。
後ろの荷台の部分に、でっかい金属製の「如何にも」と言わんばかりの、保冷箱が設えてある。
それを運ぶだけでも重かろう。今流行りのママチャリや軟弱なスポーツタイプではなく、重量感溢れる黒光りの自転車。今時、こういう自転車には、なかなかお目にかかれまい。そのくらい「年代物」のようであった。
とはいえ、手入れは行き届いているようで、不衛生な感じはしない。
爺さんが保冷箱へ手をやると、「氷」と書かれた幟が、ゆらゆらと、風も無いのに揺れた。
「どら、おまえさんは、どの氷菓子がお好みかね?」
そう言うと、爺さんはゆっくりと保冷箱を開けた。
ドライアイスの塊が仕込んであるのだろうか。
もわっと、中から白煙が立ち込める。
爺さんは皺くちゃな手をがさがさと突っ込んで、煙をかき回す。と、白煙の中から、色とりどりのアイスキャンデーたちが現れた。
昨今のスーパーやコンビニには無い、透明の小袋に一つ一つ入れられた棒キャンディーや紙容器のカップアイスが行儀良く並んでいる。どのキャンデーも最近の小売の物では無い。メーカーの名前など、どこを見ても見当たらないキャンデーたちだった。
「どれ、男子たるものは、しゃきっと背筋を伸ばして、これと決めて取り出しなされ。あれこれ迷っていては、いつまでたっても、埒が明かんよ。」
爺さんはそんな言葉を乱馬に吐きつけた。
「別に迷ってるわけじゃねえよ…。爺さん。」
少し気分を害したのか、乱馬がそんな言葉を吐きつけた。
「ほお、迷ってるわけじゃないとな?」
爺さんはじっと乱馬を見詰め返した。
「ソーダーキャンデーを探してるんだ。」
「ソーダキャンデー?空色のか?」
爺さんはにっと笑った。
「ああ。」
コクンと揺れる乱馬の頭。
「そうか、空色のキャンデーか…。どら、」
爺さんは、再び皺くちゃな手を保冷箱へと突っ込んだ。
もそもそと底を漁りながら、手をかき回す。
その手を見ながら、乱馬は、何故か、箱の中へと自分自身が引き込まれるような錯覚を覚えた。
「え?」
もわもわっと上がってくる、白煙。その下に、別の世界が広がっているように見えたのだ。
最初は錯覚だと思った。
目をぱちくりさせて、覗き込む。
水の底を覗くような、青い色が、目の前にぱあっと広がった。
「あ…。」
と、見覚えのある少年が直ぐ下に見えた。
白い道着を着て、頭を一つに結わえて括っている幼い少年。
「あれは…。俺じゃねえか。」
ふっと思った。
少年は、一所懸命にアスファルトの道路を駆けている。
途中、何度もバランスを崩しそうになるのを、制しながらも速度を緩めない。
手には青いアイスキャンデーを持っていた。
心なしか顔はほころんでいる。嬉しそうにだ。
(アイスキャンデーかあ…。ガキの頃の俺には、過ぎたくらいの贅沢品だったもんな…。)
幼き自分の笑顔を見ながら、ついそんなことを思ってしまった。
考えてみれば仕方の無いことだ。
事情は知らなかったが、物心付いた時から、母親の面影は記憶に無かった。父一人子一人。それも、住所を点々とする放浪生活に等しい根無し草のような身の上。
特に、就学の年齢に達するまでは、一所に数ヶ月しか居ないような生活が続いていた。野や山へテントを張って野宿生活することも珍しくは無かった。
己の記憶の範囲では、父の玄馬が大金を握っていたことなど、なかった。どうやって、飢えを凌いでいたのか、首を傾げたくなることもあったが、のどかが定期的に、生活費を送金していたということを最近知って、「さもありなん。」と納得したくらいだ。
そんな、その日暮らしの生活だったから、アイスキャンデー一つも、ひと夏に、幾つも食べられるような代物ではなかった。
その日はきっと、何か特別な事があって、玄馬がアイスを買うのを許したのか、誰かに貰ったかしたのだろう。古すぎて記憶には残っていない。
嬉しそうにはしゃぎながら道を急ぎ、案の定、薄汚いテントへと戻る。
『父ちゃん!アイスを貰って来た!』
息せき切って駆け込むテント。
無邪気奔放なこの当時の己は、貰ったアイスを独り占めして食べる事すら、頭になかったのだろう。
ふっと思わず口元が緩んだ。
『何?アイスを貰っただ?』
玄馬がふっと振り返る。無精ひげをたんまり生やした薄汚い親父だ。若いという証拠に、手ぬぐいから、毛が覗いている。
『乱馬よ!あれほど施しを受けるな!と申して居るのに!こやつは…。』
訳も聴かずに、いきなり拳固だ。
『ち、ちがわい!おじちゃん、助けたら、くれたんでいっ!』
殴られながらも、懸命に説明している自分が居た。
『おじさんを助けただと?』
玄馬は我が子を見詰めながら言った。
『ああ。道端でばらまいちゃったおじちゃんの財布とお金を、一所懸命探しながら拾ってあげたら、ありがとうねってこれくれたんだぜっ!』
口を尖らせて身の潔白を明かそうとする。
玄馬はじっと幼き息子の目を見ている。
『ま、良いわ。嘘ではないみたいだな…。』
そう言うと、父親はやおら、乱馬のアイスを取り上げた。
『あっ!父ちゃん!』
大慌てで取りもどそうとする幼き自分。
『慌てるな。せっかくだから、ワシもご相伴に預かる。』
そう言うと、玄馬はアイスの小袋を引き破り、中身を出した。
『ああん!父ちゃん!それは俺んだっ!!』
当然の権利を主張しながら、父親に食って掛かる小さな少年。
だが、力の差は歴然だ。足で押さえられつけられては、手も足も出ない。
それでもじたばた手足をばたつかせている、己が、健気に見えた。
『おお、棒が二つあるタイプのキャンデーか。どら。』
玄馬は手先に少し力を入れた。
ぐっと力を入れた拍子に、アイスキャンデーが割れた。
それも、明らかに大きさが違うという、不器用な割れ方だった。
『ほれ、おまえの取り分じゃ。』
そう言うと、玄馬は、小さい方の棒を乱馬へと差し出した。
『あー!父ちゃん!ずるい!自分が大きい方!!』
幼子から見ても、不公平は明らかだ。しかも、アイスを貰ったのは、父親ではなく自分だ。
納得できないという目を父親に向けている、自分が居た。
『何を言う。おまえが小さい方で当たり前だぞ?』
『何でだようっ!』
『おまえの方が、ワシよりも、数倍小さい体だからな。ご飯だってワシほど食べられまい?』
『でも、これを貰ったのは、俺だぜっ!』
己も、なかなか引き下がらない。理不尽な事には応じる気持ちになれなかったからだ。
『嫌なら、こちらもワシが貰うが…。』
玄馬が手を伸ばしてきたところで、渡されたさっと小さい方のアイスを後ろに避けた。
『わかったよ。こっちでも良いやい!』
投げやりな言葉を吐きつける。
この父親は、子供の物だって平気で横取りする。
幼心にわかっていたから、納得いかないと思いながらも、従うしかなかった。
『父親に不服があるなら、強くなれ!乱馬よ。そして、ワシを倒せ。わっはははははは。』
玄馬は笑いながら、大きい棒キャンデーを頬張っていた。
(たく、あのクソ親父は…。昔からああだったよな…。)
上から覗き込みながら、思わず苦笑いがこぼれる。
(俺に力があったらな…。って思ったこともあったっけな…。)
ふっと溜息を吐き出すと、下の世界から目を放す。
「アイスキャンデーは二つじゃったな。」
いきなり背後から、爺さんの声。
と、再び、別の世界が目の前に拓けた。
三、
(あ、…あのおじさんは。)
上空から旋回するように、今度は、一人の中年男性が映し出された。
麻の作務服を着て、草履で歩いている長髪の男性だ。
(早雲おじさん?)
一目でそれとわかった。
特徴のある髪型と服装をしていたからだ。
ただ、自分が知っている早雲よりは、雰囲気が、若干、若いと思った。
早雲は、紙袋を手に持って、そのまま、吸い込まれるように、一軒の病院へと入っていった。
(病院?誰か入院でもしてるのかな…。)
少し大きめの総合病院だ。
入口を抜けて、エレベータに乗り込み、何階かへ上がる。
チンと音がして、ガクンと揺れながらエレベーターは目的の病棟へと到達する。
詰め所で看護婦さんたちに会釈すると、そのまま暗い廊下を歩いていく。
何故、はっきりと視覚の中に病院の中の様子が見えるのか、何もせずともテレビ画像のように映し出されるのか、不思議に思う余裕も無いほど、乱馬は保冷箱の中に広がる世界に没頭していた。
早雲は、コンコンとノックすると、一番奥の部屋へと入っていった。
どこにでもあるような病院の白い病室の中。
ポツンと脇にベッドが一つ。
どうやら、個室のようだ。
『待たせたね!買って来たよ。』
そう言うと、早雲は病室を一瞥した。
『わあい!お父さんありがとう!』
真っ先に隅っこから飛び出してきた少女が一人。
(あかね?)
直ぐに誰かわかった。
短い髪と屈託無い笑顔と。何度か天道家で見せてもらった事がある、古い写真集のあかねと寸分違わぬ彼女が居た。
さっきの己と同じくらいの年頃、五歳くらいの感じだろうか。
(へえ…。可愛いじゃん。)
ふっと、口元に広がる微笑み。
特にロリコン趣味ではないが、小さなあかねが、愛しく思えた。
『えっとね、なびきね、当たり付きのが良いな。』
開口一番、そう言ったのは、次女のなびき。今と違って二つに分けたお下げ髪。
(へへ、なびきめ。あたり付きのを真っ先に要求するなんて…。今もちっとも変わってねえな。)
くすっと思わず笑いがこぼれる。
『お父さん、一本足りないわ。』
一番上の姉さんらしく、かすみが袋の中のアイスを数えながら、言った。
『ねえ、やっぱり足りない。四本しかないもの。』
長姉らしく、困ったように父親を見詰めた。
『あ、それがね…。ちょっと、お父さん、道端でドジッちゃってね。お財布をばらまいちゃって。そしたら、あかねくらいの男の子が、お金を拾うのを手伝ってくれたんで、駄賃として一本、あげたんだ。戻ってもう一本買いなおすにしては、暑くて融(と)けてしまいそうだからね。お父さんはいいから、おまえたちで食べなさい。』
と笑った。
(そっか…。さっき俺にアイスをくれたというおじちゃんは、早雲おじさんだったんだ。)
どうやら、玄馬と半分こさせられた、ソーダアイスを、差し出したのは、早雲だったようだ。
勿論、そんなことは知る由も無かった。
(道端で行き会っただけだもんなあ…。あれがおじさんだったなんて、思わなかったよな…。)
ふっと溜息が漏れた。
『あら、だったら、私はいいから、お父さん、食べてくださいな。』
ベッドの上に腰掛けていた女性が、にこにこ笑いながら早雲に言った。
『いや、私は良いよ。母さんお食べ。』
早雲は妻を気遣うように言う。
『ほらほら、急いで来たから、汗もたくさんかいてるわ。ね、口に冷たいものを入れたら、汗も引くでしょう?』
穏やかな微笑みが、家族たちを見詰めている。
(やっぱ、あかねの母ちゃんか…。ここに入院してるのは。)
すぐにピンと来た。
あかねの母は、彼女が幼少の頃、病気で他界している。前に聞かされて知っていたからだ。
それに、病床で微笑む女性は、どことなく、あかねの笑顔と重なる優しさが感じられる。三人姉妹の中でも、末娘のあかねに一番似ていると思ったのは、単なる贔屓目のせいかもしれなかったが、パッと見た感じ、目元や口元が、本当にそっくりだったのである。
と、あかねがガサゴソと袋を漁った。
『こら、あかね。あんた、先に取ろうっての?』
なびきが姉貴風を吹かせて、先に飛びついた妹を見た。
『いいから、先にあかねに選ばせてあげなさい。』
早雲が苦笑いした。
『そうね、あかねに一番先に選ばせてあげてね。なびきお姉ちゃん。』
ベッドの上の母も笑った。
『はあい…。』
ちょっと不服そうな目を差し向けるなびき。でも、「お姉ちゃん」と母に言われて悪い気分ではないらしい。
『じゃ、次はあたしよ。』
と自己主張することを忘れないところは、さすがであった。
(しっかりしてるぜ。なびきは…。)
思わず苦笑が漏れる。
あかねは真っ先に、一本のアイスをさっと取り出した。
青いダブルバーのソーダアイスだ。さっき、乱馬が貰ったのと同じアイスであった。
あかねはそれを取り出すと、にっこりと微笑んだ。それから、つかつかと、母親の傍に歩いていく。
『あかね?』
なびきがあたり付きの棒アイスを目敏く取った後、不思議そうにあかねを見返した。
『あのね…。あかねね、お母さんと半分こするの。』
大きな瞳をきらきらさせながら、母親にアイスを差し出す。
(か、可愛い…。)
思わず、ぎゅうっと抱きしめたくなる衝動を堪えて、乱馬はじっと彼女の様子を見ていた。
『お母さんと半分こ?』
母があかねに微笑みかけた。
『うん!だって、アイス一つないんでしょ?だったら、あかねが半分こするの。たくさん食べたら、おなかこわして、おトイレさんに、たくさん行くのはイヤだもん!』
回らない舌で、たどたどしく提案する。
『それはグッドアイデアだね。あかね。』
早雲が思わず、末娘の頭を、わしわしっと撫でた。
『うん!あかね、お母さんと同じアイス食べられて嬉しいもん!』
なんと屈託の無い笑顔を差し向けるのだろう。
父親や許婚でなくても、ノックアウトだ。
(やっぱ、あかねはあかねだ。こんな小さな頃から…。)
くすぐったいような、誇らしいような、変な気持ち。
母は、極上の母親の笑顔を手向けると、あかねが差し出したアイスを受け取った。
『じゃ、遠慮なく、あかねと半分こね。』
そう言うと、ポキッと割った。
指先の力が弱っていたのか、それともアイスが融けかかっていたのか。
綺麗に割れないで、いびつになった。また大きい方と小さい方に分かれたのだ。
あっと、少し驚いたような顔をしたあかねに、母はすっと、迷わず大きい方を差し出す。
『あかねは大きいの食べなさい。』
そう言って微笑んだ。
『でも…。それじゃあ、お母さんが小さい方だよ。』
あかねが心配げに見詰める。それを制しながら母は言った。
『お母さんは小さいのでいいわ。小さいけど、あかねの思いやりがたくさん詰まってるアイスだもの。これだけで充分よ。』
『わかった。あかねが大きい方食べるね。』
あかねの瞳が、一際大きく輝いたように見えた。
小さな手で受け取る青いアイス。あかねは、それを小さな口を大きく開いて、頬張った。
『お母さん、ソーダーのアイス好き?』
あかねは頬張りながら、きいていた。
『ええ、ソーダーアイスは夏の空と同じ色だから、空色アイスだから大好きよ。』
母は、ふっと傍の窓を見上げて言った。そこに広がる青い色。
『良かった、あかねも大好き!お母さんも空色アイスも。』
母はそれには答えずに、じっと空を見上げていた。微かに瞳に涙が滲んでいる。
アイスを食べてしまうと、母は娘たちに言った。
『手がベタベタしてるでしょう?洗って来てね。それから、お母さんのために、タオルを絞ってきてくれるから?』
と。
『はーい!』
三人揃ってよい返事だ。
『廊下は走っちゃ駄目よ!』
『はーい!』
怒涛のように三人の娘たちが病室を去ってしまうと、早雲と二人残される病室。
『良い子だね…。君の娘さんたちは。』
早雲はふっと微笑みかけた。
『ええ…。三人とも、それぞれ、みんな、私の自慢の娘たちよ。』
『君の優しさは、ああやって娘たちに引き継がれて行くんだ。だから、あの子たちのためにも…。一日でも長く…。』
コクンと揺れる母の頭。
恐らく、自分の病状を知っているのだろう。或いは死期も察していたのかもしれない。
乱馬の目下には、涙を堪えながら切なげな微笑を空に手向ける母と、母の待つ病室目指して、廊下を早足で歩く、あかねの微笑みが同時に見えた。
(あかねは、ソーダーアイスが好きだってなびきが言ってたよな…。ソーダアイスはあいつにとっては、母ちゃんの味がするのかもしれねえな…。)
ふっとそんなことを思った。
シャワシャワと蝉たちが、短い夏の恋歌を競いながら歌う。
その向こう側に広がる青い空に、吸い上げられるような錯覚を覚え、はっと我に返った。
「お若いの…。どうなされたかの?」
背後で爺さんの声が聞こえた。
「何をぼんやりしてなさる?暑さでぼおっとなりなさったか?」
爺さんは心配そうな瞳を乱馬に差し向けた。
「爺さん…今のは?」
今の映像は何だったのか、訊いてみたが、老人は
「は?何がかの?」
と不思議そうな瞳を返してきただけだ。
再び、保冷箱を覗いて見たが、何の変化も無い。
中に色とりどりの氷菓子たちが、行儀良く並んでいるだけだった。
狐につままれたとはこの事を言うのだろうか?
白昼夢でも見たというのか。
(ま、いいや!)
乱馬の強さは、細かいことを気にしないところにもあるのかもしれない。
水と湯で変化自在に男と女が入れ替わる、変な体質を持っていることも、大きく影響しているかも知れなかったが。
深く考えるのは辞めにして、氷菓子を覗き込んだ。
「さて、ソーダーキャンデーを二本だったかの…。」
そう言いながら、爺さんはガサガサと保冷箱を漁った。
「ううぬ…今日も暑かったからのう…。ソーダのは、生憎、一本しか残ってないのう…。」
爺さんはそう言って気の毒そうに乱馬を見た。
「じゃ、一本で良いよ。」
乱馬はにっこりと微笑みかけた。
「なら、百円じゃ。勿論、消費税込みでな。」
「百円だな。そら。」
ポケットから小銭を取り出した。
「毎度ありがとうよ!お若いの。」
かくして百円玉一枚と引き換えに、乱馬の手には青い空色のキャンデーが一つ。
それを受け取ると一目散で駆け出した。
その直ぐ後ろ側で、チリンと一つ、爺さんの自転車の呼び鈴が鳴ったような気がした。
夕暮れの川縁の道。
キラキラ光る川面の上に広がる青い夏空。
さながらその上を跳ね上がる飛び魚のように、乱馬はフェンスの上を駆けて急いだ。
四、
ふううっと深い溜息が零れ落ちた。
「どうしたの?浮かない顔をして。」
東風が、眼鏡の置くの目を細めながら、あかねを見返した。
「また、乱馬君と喧嘩でもしたの?」
と、こそっと耳元で伺いを立ててくる。
「あいつが悪いのよ!ったく。」
思わず零れ落ちた文言。
「ふふふ、あかねちゃんはわかりやすいね。」
東風は笑いながら、消毒液で手を拭いた。
しまった、口が滑った。
そんな顔をあかねは東風に差し向ける。
これでは、乱馬とまた遣り合ってしまったということが、バレバレではないか。
慌てて口元を押さえたが、もう、間に合わない。
そんなあかねを見透かしてか、東風は笑いながら言った。
「相変わらず仲が良いんだね。君たちは。」
「べ、別に…。そんなんじゃありません!」
真っ赤になって否定しようとするあかねに、更に、柔らかく追い討ちをかける。
「そっかな…。端からは、とっても楽しそうに喧嘩しているように見えるんだけど…。それも、出会ったときからずっとね。」
愛想の良いこの青年に、淡い恋心を抱いていたのは、もう、遠い過去のように思えた。あのドキドキさえも、今ではすっかり忘れている。
「心変わり」と言うよりは、「憧れ」と「恋」の違いに気付いたとも言うのかもしれない。
「痴話喧嘩っていうのは、とっても良い関係を築いている相手としか出来ないと思うけどね。あかねちゃんも乱馬君も、互いに気を許しあってるからこそ、思いっきり感情をぶつける事ができるんだよ…。」
うふふと東風は笑った。
「でも、力は加減はしないと駄目だよ。つい、痛めていることを忘れて、夢中になってしまうみたいだから…ほら…。」
そう言いながら、バキッと間接を鳴らした。
一瞬走る激痛に、顔をしかめたが、次には手が軽くなったような気がした。
「大方、ブロックを割ったときに、つい、気合が入りすぎて痛めてしまったんだろうけど…。その上に、乱馬君に突っかかったから、痛かったんじゃないの?お転婆さんは。」
そう言いながら、東風はポンと背中を叩いた。
図星だったから、何も言い返せない。
思いっきりブロックを打ち下ろした時、タイミングが合わずに、少し痛めた腕。その上に、アイスをぶつけられて血が上り、気が付くと乱馬へと突っかかっていた。
「ま、直情的なところがあかねちゃんらしいんだけど…。仲直りしてないんだったら、早めにね。」
と窓の外を眺めながら、東風は白い歯を見せた。
離れていても、乱馬の気配を悟るくらい、東風は長けている。
見覚えのあるチャイナ服が門柱の向こうに見えたのだ。
あえて、それには触れずに、あかねに向き直った。
「明日一日は、ブロック崩しなど、腕に負担をかける運動は避けておいてね…それから、喧嘩の方の処方箋は自分で見つけてね。」
そう言って、笑った。
「あ、ありがとうございました。」
ペコンと頭を下げると、すっと診察室から飛び出した。
この兄のような接骨医には、とてもかなわないとあかねは思った。
小乃接骨院には物心が付いた頃、まだ、東風の父が主に観ていた頃から通っていたが、故障した手や足だけではなく、心まで癒してくれる重宝なかかり付けであった。
お金を払って、すぐさま表に出る。
「直ぐに仲直りなさいって言われたってね…。」
開き戸を開けて外に出ると、外気がむっときた。
打ち水はされていたが、それくらいでは追いつかない熱気。空調の中に居たから、余計にそう思うのかもしれない。
家に向かって歩き出そうと、門柱を出たところで、その気配に気が付いた。
「乱馬?」
はっとして横を見ると、ぶっきら棒な彼がすいっと何かを差し出してきた。
突きつけてくる右手の先に、青い塊。
「ほらよ…。たく、待たせるから、融けちまいそうだぜ…たく。」
汗をかいた塊は、青いキャンデー。
それも、綺麗に真ん中から割られたソーダーキャンデー。もう片方は別の手に持ってる。
「ありがと…。」
一応礼を言って受け取る。
「帰るぞ。」
少し偉そうに先に立って歩き出す少年。相変わらず「不器用」だ。
アイスをくわえながら、並んで歩き出す。口の中に広がる清涼な青い味。
程好い冷たさ。
「やっぱ、夏はアイスだな…。」
と、何の脈絡も無い言葉を、独り言のように手向ける乱馬。
精一杯の仲直り意思表示らしい。
くすっと思わず零れ落ちる微笑。
「何だよ…。」
乱馬がくすぐったそうに、そんなあかねを振り返る。
「ううん、何でもない。」
と、微笑みながら首を横に振ってみせる。
「ちぇっ!気持ち悪い奴だな。」
でも正直、あかねの笑顔を見てホッとした。
また、二人くわえたアイス。先っぽからしゃきっと口の中へと零れ落ちる。
少しほろ苦いような、それでいて、甘いソーダーの味が口いっぱいに広がる。氷菓子の冷たさも清涼感を与えてくれる。喧嘩もわだかまりも、甘くて冷たい塊と共に一気に溶け出してしまったようだ。
その時、どこかで、チリンと自転車の音が鳴ったような気がした。
と、乱馬は足を止めた。
対岸に氷の幟の自転車が見えたのだ。それはゆっくりと乱馬たちとは反対方向へ走って行く。何処に向けているのか、麦藁帽子のおじさんが後ろ手に手を振っている。
まるで、自分に振っているかのように見えた。
(やっぱり、あれは夢じゃなかったのかもしれねえな…。)
何故かそう思えた。
「どうしたの?」
あかねが急に止った乱馬を不思議そうに見上げた。
「いや…。何でもねえ。」
乱馬はふっと柔らかな微笑をあかねに投げ返した。
それからゆっくりと言った。
「帰ろうか。」
家に向かって歩き始める二人。
その上には、氷菓子と同じ色の、青い空。
どこまでも、どこまでも、真っ直ぐに広がっていた。
完
一之瀬的戯言
夏になると、子供の頃の夏休みのことをふっと思い出します。
こっそり、ひっそりと通っていた海野優波さまのサイト「ハッピーセオリー二周年記念」ということで、遅ればせながら書かせていただきました。
こっそりと伺ったリクエストは「ほのぼのまったり」だったんですが…。これの何処が「ほのぼのまったりか」ということは、どうか突っ込まないでやってくださいませ。
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