第六話 虜


一、

「一体、何だってんだっ!あの野郎はっ!」
 バリンと目の前で音が弾けた。思わず、握りつぶした、ガラスのコップ。

「あ、こらっ!乱ちゃんっ!」
 大慌てで右京が手を出したが、既に時遅し。
 案の定、右半分、水浸しになりながら、女に変化してしまった少年、乱馬。

 朝のロードワークの途中、右京に招き入れられた、お好み焼きウっちゃんの軒先。小休止も兼ねて、入ったカウンターのテレビで、あかねとなびきが見ていた、あの、朝のワイド番組の放送を見たのだ。
 案の定、逆鱗が彼を襲った。

「もう、言わんこっちゃあらへん。ほんま、あかねちゃんの事が絡むと、見境なくなるんやから、乱ちゃんは…。」
 苦笑しながらも、右京はタオルを差し出した。
 無言でそれを受け取りながら、乱馬ははっしとテレビ画面を睨みつける。

「でも、相当な食わせもんやな、この男。」
 右京が流し目でテレビ画面に映し出される魁を見上げた。
「ま、先手打ったつもりやろうけど、あかねちゃんは、そんな意志の無い女やあらへん。甘うみたらあかん…。」
 そう言いながら、湯を乱馬の頭から浴びせかける。

「今朝、乱ちゃんをここへ呼んだんも、あの、魁のことで気になったことがあったからな。つばさ…。」
 そう言って奥からつばさを呼んだ。

「あの魁って男…。どうやら、天道家と繋がりがあるらしいで。」
「あん?どういうことだ?」
 と、昨夜、ダストボックスから訊いた一部始終を乱馬に、言って聞かせた。

「天道家…。積年の恨み…。確かに、何か引っかかるな…。それに、この縁談を最初に持って来たのは、天道家の本宗家を仕切る婆さんだったし。それと関係があんのか…。」
 右京の言を聞き終ると、乱馬は鉄板テーブルの上に手を置いて、考え込んだ。

「ま、何か関係あるんやろな…。それに、つばさによれば、魁の父親も母親も死んだことになってるらしいんや。」
「それが、父親は生きていたってことなんだろ?」
「ああ、昨日の立ち聞きした、あの男が父親やとしたらな…。」
「一体、あの魁って奴は何なんだ?」
「わかってることは、葉隠一族の娘の落とし子という事だけです。」
 つばさが真剣な表情で言った。
「一族の娘の落とし子?」
 その言葉にも引っ掛かりを感じた。
「ええ。どうやら、望んで恵まれた子では無い…ってことらしいです。葉隠の里の外でひっそりと生まれ、つい最近、格闘界へ躍り出るまでは、その存在すら、忘れかけられていましたから…。」
 歯切れの悪いつばさの答えだ。どうやら、本当に、素性など知らないらしい。
「それが、何だって、当主の候補にって出張ってきたんだ?」
「さあ…。そこまでは…。先代の当主が亡くなって、一族のしきたりどおり、次の当主を選ぼうとしたときに、突然、姿を現したんですよ。葉隠一門の血を受けた男子としてね。」
「な?どこか、すっきりしない部分が多いやろ?葉隠魁は…。」
「きな臭えな…。本当に、葉隠一門の血を受けた奴なのか?魁は…。」

「本人は、印の宝玉を持っていましたからね。」
「宝玉?」
「ええ、彼の母が持っていた形見です。一族の者の証となる赤い宝玉です。」
「ふうん…。証拠はそれだけか。」

「でも、本人は必要ならば、母の遺髪からDNA鑑定してもらっても良いとまで言い張りましたから。」
「DNA鑑定ねえ…。で、戸籍はどうなんでい?」

「父親の欄には記述がないそうです。母親は確かに、葉隠一門の血を濃く受けた女性でした。それも、死亡とあったそうです…。」

「疑わしいが、本当に子孫だっていう可能性も否定はできねえってとこか。」

 乱馬の言葉にコクンと揺れる、つばさの頭。

「気になるのは、やっぱり「父親」の存在だな…。知ってる奴はいねえのか?てめえの一族に。」

「深く封印されたことのようで、恐らくは、おじじ様しか詳細は御存知ないようで。」
 つばさが言った。
「ああ、途中で一族会議をすっぽかしたという爺さんか。」
 怪訝な顔を乱馬が向けると、
「そうです。私の祖父の紅たすきです。…たく、練馬に行くって言い残した癖に…。どこをほっつき歩いてるんだか。」
「ははは…。練馬ねえ。おめえが、練馬周辺(ここら)に出没してるのを、知ってたのかよ、その爺さん。」

「そう思って、連絡ないか待ってるんやけどな…。さっぱり音沙汰あらへんのやわ。」
 右京が首を振って見せた。

「現れたらすぐわかるんですけどね…。」
「へえ…。そんなに特徴的な爺さんなのかよ。」
 乱馬が問いかけた。
「何でもつばさと同じ、葉隠突撃流の使い手で、変装好きな老人らしいで。」
 と右京が笑いながら言った。
「ほお、その爺さんもいろんなものに変化して、『突撃ーっ!』てやってるのかよ。てめえみたいに。」
 そう口にすると、ふと、乱馬の動きが止った。

(突撃?…そう口走りながら突進する変装爺さん?)
 どことなく心にひかっかったのだ。


「で?どんな感じの爺さんなんだ?」
 引っかかったことが気になった彼は、さらに突っ込んで尋ねてみた。
「年の頃は七十過ぎ。足腰はしゃんとしていて、おかっぱ風味のさらさら頭。茶髪に染めていて、口ひげがあって…。得意技は旧型の筒型ポスト変化です。」

「旧型の筒型ポストだあ?」
「一昔前の遺物のような、ポストです。こんな、寸胴っとした奴で…。」

 思わずはっとして乱馬は身を乗り出した。
「お、おい…。もしかして、その爺さんと俺、会ってるかもしれねえ…。」

「あん?」

「だから、その、旧型ポストに入った、ファンキーな爺さんなら、つい最近、道端で会ったぜ、俺…。」

「えええ?本当ですかあ?」
 つばさの目が大きく見開かれた。
「見間違いやあらへんのん?」

「あんな、特徴的なポストに入る爺さんなんか、そこらに二人と居ねえだろが…。見間違いなんかじゃねえ。『突撃ーっ!!』とか言いながら、俺に思いっきり突っ込んできやがった。」

「間違いないです。きっと、それはおじじ様です。やっぱり練馬に来られてたんですね。」
 勢い込んでつばさが乱馬を見た。大きな瞳がうるうると乱馬を見詰めた。
「その、あぶねえ目、こっち向けんなっ!てめえの目は何か妖しいんだよ。」
 苦笑しながら乱馬が突っ込む。
「で、おじじ様はどちらへ行かれたか御存知ないです?乱馬さん。思い出してください。」
「だから、その目で見んな!思い出せるもんも思い出せなくなっちまわあっ!」
 思いっきり首を横に振った。

「そういや…。俺と対峙した後、あいつらに勝ちたかったら、どっかへ来いって言ってたなあ…。あの爺さん。まさか、そのあいつらって…。」
「葉隠魁親子のことかもしれんわな。」
 右京が頷きながら言った。
「でも、何だって俺なんだ?」
「さあ、万に一つでも、魁に勝てる可能性があるのは、乱ちゃんだけやって感じてたんかもしれんで…。それやったら…。だから、修行してやるって意味で言ったんかもしれへん。」
「そうかもしれません…。だって、おじじ様、乱馬さんの話を前にしたとき、物凄く関心もたれてましたもの…。」
「つばさ。あんた、爺さんに乱ちゃんのこと、話したことあるんかいな…。」
 右京が思わず尋ねた。
「ええ…。僕と同じ「女装癖」がある少年が居るって言ったら、会ってみたいなんておっしゃって…。」

「くおらっ!俺のは女装癖じゃねえっ!」
 思わず怒鳴る乱馬。
「そうですわね…。乱馬さんのは女装癖じゃなくって、そのまんま女性化ですものね。」
 と笑うつばさ。
「あのなあっ!それじゃあ、まるで、俺が変態みたいだろうがっ!」
「違うんですか?」

「まあまあまあ。今はそんなことでもめとる場合やないやろう?」
 思わず止めに入った右京。

「で、おじじ様は乱馬さんに何処へ来いって言われたんです?きっと、そこへ行けば、おじじ様がいらっしゃると…。」
 つばさも身を乗り出した。

「う…ん。なんつったっけかなあ…。難しい名前だったな。何とかが嶽とか…。」
「鵺が嶽…違いますか?」
 乱馬の一言でピンときたらしく、つばさが言い放った。

「あ、多分、それだ。そんな名前だった。」

「やっぱり…おじじ様は乱馬さんに技を伝授しようとなさってるんだ。もし、そこへ呼び出されたんだったら。」
「あん?」
「鵺が嶽は、紅一族の古くからの修行場なんです。」

「なるほどな…。そこで技を伝授して、魁と闘わせるつもりなんやないか?その爺さんは。」

 右京の言う事に、一理があった。
 それなら、おじじ様の一連の行動も説明できる。

「ちぇっ!回りくどいやり方をする、じじいだな。」
「仕方なかったのかもしれません。魁にいろいろ悟られないためとか…。」
「で、どうするや?つばさ。その鵺が嶽へ行ってみるか?」
「ええ。それが一番でしょうね…。」


 と、その時だった。
 店先の電話がちりりんと鳴った。

 大慌てで、応対に出る右京。


「ええ?ほんまかいな!そら、えらいこっちゃ。ああ、乱ちゃん今うちにおるねん。うん、うんうん。わかった。すぐに帰らせるわ。」
 そう言いながら慌しく受話器を置く。

「何だ?ウっちゃん…。」
 己の名前も聞こえたようなので、怪訝な顔で右京を見返した。

「葉隠魁が返事を聞きに天道家に来たそうや…。」

「あん?魁が来るのは夕方だって…。」
「今朝のテレビの影響で、マスコミに取り巻かれる前にって思ったみたいやで。今、かすみさんが電話寄越してきたんや。乱ちゃん、ええから、帰ったり。」
「俺には関係ねえ、話しだぜ?あかねの返事はよう…。」
 と、ここでも、ふてくされた。

「そんな事言っとったら、油揚げ、あいつにさらわれてまうかもしれんで…。なびきが電話寄越してきたっちゅうことは、何かあるかもしれんちゅうことやで。ほら。さっさと行きっ!乱ちゃんっ!!」

 そう促されて、乱馬はウっちゃんの店を飛び出した。



二、

 庭先で揺れる紫陽花。大きな花をたわわに枝先で揺らせながら、佇む。
 天道家の客間で、厳かに座る、早雲とあかね、そして、魁と立会人の天道玉婆さん。そして、下座になびきとかすみ。
 凡そ、和やかな雰囲気とはかけ離れた、得も言えぬ緊張感が漂う。
 襖を一つ隔てただけの隣りの部屋から、玄馬がじっと様子を伺っている。
 あかねの顔には愛想笑いの一つもこぼれていないというのに、魁は始終、不気味なほどの笑みを浮かべている。それが、かえって、違和感を漂わせている。

「さて、お約束のお返事をいただきに上がりました。」
 かすみの置いていった、お茶を傍らに、天道本宗家の婆さんが切り出した。

「その前に、一つだけ、わがままがあります。」
 と、それを見越していたかのように、魁が言葉を挟んできた。

「何ですか?葉隠の御曹司。」
 襟元を正しながら、魁はあかねを見据えて言った。

「お返事は訊かずとも、だいたいわかっておりますから…。」
 そう前置きしながら、あかねを見てにっと笑った。あかねは、思わず視線を背ける。
「お返事をあかねさんから伺う前に、一度だけ、道場で、彼女と手合わせしてみたいんです。」

 意外な申し入れであった。

「ほう…。あかねと手合わせとな。」
 早雲が驚きの声を上げた。

「ええ。この前の大会であかねさんの勇姿を見て以来、どうしても、一度だけ、手合わせしてみたいと思ったんです…。あ、勿論、大切なお嬢さんですから、怪我をさせるようなことはしません。彼女の実力がどの程度なのか、知っておきたいんです。」
 静かだが、凛とした声で魁は希望を話した。
「ほう…。あかねの実力を知りたいと…。」
「ええ、これは、武道家のわがままかもしれません。あかねさんほど強く美しい女性と、今まで対峙したこともありませんでしたから…。それに…。」
 魁はあかねに向かって言った。
「ここで、お返事を伺う前に、あかねさんの本当の気持ちも、二人きりで確かめたいと思っていまして…。こう見えても、僕、シャイなんですよ。このように皆さんの前ではっきりと言われる前に、少しでも、先にお気持ちを訊いておこうかと…。どうです?あかねさん。」
 柔らかな微笑とは裏腹な、冷たい瞳があかねを見据えた。

「いいわ…。あたしも、あなたの実力とやらを、この体で確かめてみたいし、魁さんが望むのなら、先にそこでお返事を…。」

 挑戦的な鋭い瞳が魁を睨み付けた。

「大丈夫かね?あかね…。」
 二人きりという言葉が、胸に引っかかったのだろう。早雲が心配げな瞳を手向けた。

「大丈夫です。あかねさんに怪我を負わせるようなヘマはしません…。それに…。立会人を一人、置かせてもらいますから。お父さん。」
 魁はそういって笑った。
 魁に「お父さん」と呼ばれて、少々、嫌な顔をした、早雲だったが、言葉には出さなかった。
「なびきさん…。あなたに立ち会っていただきたい…。それなら、かまわないでしょう?」
 意外な立会人を魁、自ら指定してきた。

「いいわ…。あたしでよければ、その「立会人」とやらを受けてあげる。」
 なびきがふっと笑った。
 武道は志しはしなかったが、確かに、この次姉の中にも、武道家の血は脈打っている。これは、己に対する魁の挑戦だと、受け取ったのだ。

「良かろう…。なびきが立会人を受けるのだったら、承知しよう。」
 早雲が言った。
 彼にしてみれば、あかねのこのすぐ上の姉ならば、あかねの身の上に何かあれば、黙っては居ないと踏んだのだ。それに、天道家の中では一番計算高く、狡猾だったので、何か魁が企んでいるとしても、それを見破る確実な目は持っていると思ったのだ。

「じゃ、決まりだ…。」
 にいっと魁は笑った。
「道着は持参しているのかね?」
 早雲が武道家らしく、尋ねてきた。
「いえ…。上着を脱ぐだけでいいです。」
「でも、それじゃあ、動きにくかろう?」
「大丈夫ですよ。軽く打ち合うだけですから。」

「あたしを甘く見たら、怪我するわよ。」
 挑戦的な言葉があかねの口から漏れた。

「じゃ、あたしは、先に道場へ行ってるわ。準備が出来たら、来て頂戴。」
 となびきが先に客間を出た。
 魁が何も仕掛けられないようにと、彼女なりに頭が回ったのだ。いや、先に部屋を出たのはそれだけではない。隣の部屋に息を潜めていた、玄馬の襟首を掴むと、ずかずかと勝手口へ回っていった。
 外は、再び雨が降り出した。
「なびき君?お、おい!なびき君っ。このままじゃ、ワシ、変身するぞ!なびき君っ!」
 焦って声をかける玄馬を、そのまま勝手口から外へ押し出す。

「ばっふぉっ!!」

 傘もささずに外へ出たので、案の定、でっかいパンダに変化をした。

「いいこと、おじさま。あなたは、今からでっかいぬいぐるみよ。」
 なびきはにやっと笑って玄馬に言い聞かせた。
「ばふぉ?」(何?)
 思わず看板を上げた玄馬。彼に向かって、なびきは更に言葉をかける。
「ぬいぐるみだったら、みじろきもしないで、じっと道場の片隅に座ってなさい。まばたきも最低限にね。魁に生きているって思わせないように…。」
 話がまだ、見えていないのか、玄馬は小首を傾げながら、ずるずると道場へと引っ張られていく。

「ここらあたりがいいかな。あんまり中央にあったら怪しまれるし…。っと、このガラクタの山と一緒に、この隅っこでっと…。」
 さも自然に、そこへ置かれているという具合を、なびきなりに演出し始めた。
「あんまり真正面向いてても目立つし…。このくらいの角度でいいかしらねえ…。」
「……。……。」
 なすがままの玄馬は、無言で彼女を見た。
「いいこと、おじさま。あの魁のことだから、何か企んでいることは必定。だから、ここで、何があったのか、しかとその目で見て、必要ならば、乱馬君に伝えるの…。わかった?」
 その言葉にこくんこくんとゆれるパンダの大きな頭。
「じゃ、今からおじさまはパンダのでっかいぬいぐるみよ。気を消して、彼に悟られてはいけないわよ。おじさまも、一介の武道家だもの。そのくらいはできるわよね…。」
 パンダは、なびきの言を受けると、カチコチと固まって、ぬいぐるみ然としてみせた。勿論、身体から発する気を僅かに抑えることも忘れずに、だ。

 なびきが玄馬を据えたのち、程なくして、あかねと魁が道場に現れる。
 あかねはいつもの道着を着用していた。対する魁は、そのままだ。

「大した自信よね…。」
 挑発とも取れる、厳しい言葉を、あかねは魁に吐きつける。

「何、そんなに怒ってるんです?あかねさん。」
 魁は余裕があるのか、薄ら笑いを浮かべながら問いかけた。
「あれが、怒らないでいられるとでも?」
 勢い込んであかねが吐きつけた。
「あれ…とは?」
「今朝のテレビのことよっ!ったく。あれじゃあ、まるで、あたしとあなたが婚約間際だって世間に公表しているような扱いじゃないの。」
「ああ、あれですか…。そう、あなたには受け取られてしまいましたか?」
 にやにやと笑いながら魁があかねを見返す。
「受け取られるも何も、そうとしか思えないでしょうっ!」


「そんなつもりはさらさら、ないんですけどね…。さて…。そろそろ手合わせ願えますか?」
 魁はふっと言葉を切った。

「ええ、いいわよ。こっちも、あなたとやりたいってウズウズしてきたわ。」

「ふふふ…。本当にあなたは、乱馬さん想いなんですね。あかねさん。」
 魁の瞳が怪しく光った。

「なっ!乱馬とあなたのことは何も関係ないでしょう?」
 いきなり口を吐いて出された乱馬の名前に、あかねはムカッとなった。

「そうですか?…あなたが、この私と対峙したいと言ったのも、半分以上は彼のためでしょう?…恐らく、このままいけば、いずれ、ニューウエーブバトルの大会で彼と私がやりあうのは必定と…。私の実力を見るために、快く、この勝負を受けた…。ってね。あなたの顔に書いてありますよ。」

 図星であった。
 葉隠魁という怪物の実力の片鱗を、少しでも、知りたい。そう思ったのは、己のためだけではない。確かに、乱馬へ伝えたいという下心もある。
 魁はそんなあかねの心を、見透かしているようだった。

「だったら、どうだって言うのよ…。」
 あかねはザンと身構えた。

「いいでしょう…。見せてあげますよ。こちらの奥の手を…。」
 魁はそう言うと、着ていたジャケットをだっと脱ぎ捨てた。
 中から現れたのは、乱馬と勝るとも劣らない、鍛え抜かれた見事な肉体。寸部の無駄な筋肉が無い。引き締められた、格闘家の肉体だった。
 とても、スーツの下から、こんなにまで、鍛え抜かれた肉体があろうとは思えない。いや、肉体という器だけではない。
 ほとばしってくる、気の強さにも、くらっとなった。

(こいつ…。確かに、強いわ。)

 一見して、彼の実力の片鱗を見抜いたあかねもの眼力も、また、確かなものだった。
 

「さて、なびきさん。」
 魁は身構える前に、なびきへと声をかけた。

「何かしら?」
 なびきは魁を見た。

 と、途端だった。

(え?)

 何とも表現し難い、戦慄のようなものが背中を突き抜けて行った。ビビッと走る悪寒。

(な、何?この荒んだ感じ…。)
 そう思ってはっしと魁を睨みつける。

「そんな、怖い顔をして睨みつけないでも…。」
 魁はにんまりと笑った。
「とにかく、ちゃんとそこで、僕らの取り組みを見ていてください…。あなたは大切な「立会人」なんですから。」

「わ、わかってるわ。それくらい。」
 なびきは、魁から飛ばされてくる、「闘気」を薙ぎ払うように答えた。

「じゃあ、始めようか、あかねさん。」
 魁はあかねへと向き直った。



三、

 俄かに、雨脚が強まった。
 大粒の雨なのだろう。バラバラと屋根に打ち付ける音が響く。
 風も出てきたようで、道場の隙間から、生温かい突風が抜けていくのが感じられた。

(やっぱり、強い…。)

 はっしと睨みつけるあかねから、感嘆の思いが突き抜けた。
 強い相手と対する時、相手が必要以上に大きく見えることがある。
 乱馬が本気で対すると、己の存在が無下に小さく感じられることがあるが、今の魁は軽く身構えているだけで、この存在感だ。相当な手だれと思えた。
 今までへらへらと己に対して居たのとは、随分感じが違う。牙をむき出した野獣とでも言うのだろうか。
 あかねの背中に汗が垂れた。生温かい嫌な感触。

「どうしました?いつでも構いませんよ。私は。」
 挑発するように、魁は言葉をかけてくる。

「でやあああっ!」
 単刀直入。あかねは、真っ直ぐに魁に向かって行った。
 下手な細工は要らない。そう思ったのだ。
 思いっきり構えていた右手を魁に向かって差し出す。
 ひょいっと魁はそれを避けた。
「だああっ!」
 返す体で、あかねは大きく左足を蹴り上げる。
 予定通りの行動だったのだろう。魁はその脚も、すっと見切っていた。
 あかねも簡単にかわされることは、わかっていたので、バランスを崩すことなく、脚を着地させると、果敢にも、再び魁に向かって攻撃を続けた。

「でやああっ!たあああっ!」
 激しく吐きつける声と共に、繰り出される、あかねの拳や脚。
 それを軽くかわしながら、魁はにっと笑った。

「どうしたの?かわすだけじゃあ、あたしに勝てないわよっ!」
 負けん気の強いあかねが、そう言葉を叩きつけた。

「素晴らしい…。やはり、君は理想の女性ですよ。」
 あかねの気をかわしながら、魁はそう吐きつけた。
「また、バカにしてっ!」
 その言葉に、高揚をしていくあかね。
「その気の強さ…。天道氏の血を受けるものの証。…だからこそ、私はあなたに求愛したんだ。」
 ずいっと伸びてきた魁の手が、繰り出されたあかねの右手をつかみ取った。

「なっ…。」
 驚いたあかねは、薙ぎ払おうと、空いたもう片方の手を差し出す。
 魁はその手にもつかみかかり、あかねの上半身の動きを止めた。
 と、途端だった。
 魁の発する気の流れが変わった。

 何故かわからないが、ぞくぞくっとした悪寒があかねの身体を駆け抜けた。
 そう。つかみかかってきた魁の手の、あまりの冷たさに、気持ちが萎えかけたのだ。
 
「くっ!」
 それでも、あかねは、まだ、抵抗しようと、今度は蹴りを繰り出そうとする。と、魁は予めその動きを呼んでいたのだろう。あかねの蹴りが入る一瞬の手前に、己の脚をあかねの股間へと入れた。この体性では、蹴りを入れることができない。
 あかねの脚のバランスが崩れ、完全に動きを止められてしまった。

 傍で見ていたなびきは、「そこまで。」と声を発っそうとした。明らかにあかねの負けである。この体性から攻撃を立て直すのは無理だろうと、素人ながらに思ったからだ。
「うぐ…。」
 だが、何故か声が出なかった。いや、声ばかりでは無い。身体も動かないことに気がついた。まるで、金縛りにあったようにだ。
 周りの空気が、澱んでいるようにさえ思えた。空気は確かに肺に入り、呼吸はできるのだが、それ以外の事ができない。まるで、空間にそのまま捕らえられたかのように、己の身動きが止っている。
 懸命に身体を動かそうとするが、無駄であった。

「さてと…。ここは是が非でも、君を手に入れたくなりました。君と組んで、その素晴らしさが、ひしひしと伝わってきましたよ。…あかねさん。」
 魁はにっとあかねの鼻先で笑って見せた。
「な、何を戯言を…。」
 動きを封じられてもなお、あかねは、はっしと魁を睨みつける。
「ふふふ。それだ。その勝気な性分…。我が内なる「鬼」も君の事が、とても気に入ったようだ。」
「お、鬼?」
 思わず漏れた魁の言葉にきびすを返すあかね。
「ええ、鬼です。君の一族が長年にわたって封じ続けた、鬼神の魂です。」
「あたしの一族?」
「そう、君や私に流れる天道氏の血に恨みを持つ、鬼神の汚れた魂ですよ。あかねさん。」
「あんたに流れる天道氏の血?あんたも天道氏の血を受けているとでも…。」
 苦しい息の下から、あかねがはっしと魁を睨み付けた。

「生憎ですが、詳しい事はまた今度、お教えします。あんまり時間をかけることもできませんのでね。外で皆さん、お待ちでしょうし…。そろそろ、あなたの心を頂きますよ、あかねさん。」
 魁はそれだけを言うと、ちろっと舌なめずりした。
「あたしの心?」
「ええ。あなたのその真っ直ぐな心を、私の手の内に…。」

 そういい終わらないうちに、魁の身体が戦慄いたように見えた。
 あかねをがっしりと絡めている、魁の身体の内側から、一気にあふれ出してくる「妖気」。

「な、何っ?この気…。あんた、いったい何をしようというの?」
 溢れる気に、ぎょっとしたあかねは、思わず、吸い寄せられるように、魁の顔を睨みあげた。

「そうだ…。あかねさん…。私の目を見るんだ…。」
 魁はその一瞬を逃さなかった。
 凍りつく瞳。それが、睨んだあかねを間近で見下ろしていた。

「さあ、私の瞳を見て…。」
 魁は笑いながら言った。
 思わず、ぎょっとしたあかねは、その声に抗おうと、目を閉じようとしたが、既に時は遅かった。閉じるどころか、己の瞳は、魁の瞳の輝きに気圧されて、見開かれていくではないか。まばたきすることも忘れてしまっていた。

 魁の瞳。漆黒の左瞳が、妖しく光り始める。やがてそれは、金色の瞳へと変わっていった。

「葉隠魁。あなたのその目…。」

「そうです…。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)…。鬼の巣食ったね…。」

 言葉を発すると同時に、魁の瞳が、あかねに、呪縛の光線を投げかけた。

「ふふふ…。この魔性の瞳を見たからには、ほら…。これで君は、僕の虜…。」
「うっ…。」
 抵抗敵わず、あかねの身体から力が抜けた。

「君の想い人は誰だ?」
 魁はそんなあかねを覗き込んで問い質す。
「あたしの想い人は…乱馬…。」
 抵抗するように答えたあかねに、魁はそっと手を当てる。
「違う…君の想い人は、この僕だ…。あかねさん…。」
 頬を優しく、魁の手が撫で始めた。
「あ…。」
 その、妖しい感触に、思わず吐息が漏れる。
「あかねさん、今から、君の大切な人は、この僕、葉隠魁だ…。」
 耳元に囁かれる、悪魔の呟き。
「そう、君の心を僕で満たしてさしあげますよ…。ほら…。もっと僕の瞳を見て。」

 魁は、そう言いながら、じっとあかねを射るように見詰めた。

『逃さぬ…。逃しはせぬ…。最早、汝は我が虜…。天道あかね…。』

 凄んだ女の声が、魁の瞳の向こう側から湧き出てくるような気がした。

 一瞬、あかねの身体が激しく戦慄いたように見えた。
 それに、呼応するかのように、あかねの瞳からすうっと光が消えた。代わりによどみ始める、暗黒の輝き。

「君の想い人は誰だ?あかねさん…。」
 再び彼が問いかけた時、あかねは迷うことなく告げた。
「あたしの想い人は、葉隠魁…。あなたよ…。」

「そう、それで良い…。」
 魁の口元に、不気味な笑みが浮かんだ。瞳は元の漆黒へと戻っている。
 こくんと頷くと、あかねは、崩れるように、魁の腕に倒れ掛かった。そのまま、眠るように意識が途切れた。



「葉隠魁っ!あんた、一体…。」

 辺りの緊張が、緩んだ時、なびきが、思わず声を荒げていた。
 今の今まで、金縛りにあったように、動かなかった手と足。そして、口が動き出したのだ。

 丁度、魁からは背後になっていて、なびきの方は見えない。

「ふふふ…。さすがに、あなたも、天道の血を受けた者。緩い呪縛をかけただけだから、切れてしまったんですね…。危ない、危ない。」

 魁はあかねを抱きかかえながら、ゆっくりとなびきの方へ、向き直った。

「あたしの質問に答えなさいっ!事と次第に寄ってはっ…。」
 はっしと睨み据える、なびきの真摯な瞳。

「事と次第によっては?…何です?なびきさん。」

 魁は不敵な笑みを浮かべながら、なびきを見返した。
 そのまま、捕らえる、なびきの瞳。

 思わず、なびきは後ずさった。ゴクンと飲み込む、生温かい唾。
 危機を感じて、逃げようとしたが、脚が再び金縛りにあったように動かなかった。
「しまった、また、金縛り…。」
 焦ったが、遅きに逸したようだ。

「何故、私があなたを立会人に選んだかわかりますか?なびきさん。」
 構わず、魁はあかねを抱いたまま、今度は、なびきに、にじり寄ってきた。
「どういうことよ…。まさか、最初から、計算していたとでも言いたい訳?」
 なびきは、あかね張りに勝気な瞳を魁に投げつけた。
 さっきの魁とあかねのやり取りは、見えてはいたが、聞こえてはいなかったのだ。
「ふふ、さすがに、あかねさんの姉だけのことはある。その、勝気さ。武道をやっていたら、彼女を凌げるほどの大物になっていたかもしれませんね、なびきさん。」
 ゆっくりと魁はなびきを見詰めた。
 まるで、糸に引っかかった獲物に食らい付く前の蜘蛛のように、だんだんににじり寄る。
「察しのとおりですよ…。あなたの後押しが、僕には必要なんです…。あかねさんを完全に得るためにね…。」
「どういうことよ、それ。」
 はっしと睨みあげるなびきに、魁は続けた。
「あなたは聡明なお姉様だ。だからこそ、手持ちの駒にしておきたかったんです…。なびきさん。」
「手持ちの駒?何よ、それ…。」
「こういうことですよ…。なびきさん。」

 魁は再び、豹変した。
 さっき、あかねに手向けた、金色の左目が、見開いたのだ。
「今から、あなたは、僕の下僕だ。僕のために働き、そして、あかねさんと僕を支えるんだ。そのために、選んだ…。天道なびきさん。」
「ううっ!」
 それは一瞬の出来事だった。
 なびきの身体が、電撃にさらされたように、一瞬、空を浮いたように見えた。カクンと頭が揺れて、なびきの身体が、再び地に着いた時、彼女もまた、瞳から正気の輝きが消え果ていた。
 それだけではない。なびきはそのまま、床に肩膝をついて、うずくまった。まるで、主人にかしずくように、頭を垂れてだ。

「ふふふ…。武道を嗜まない君は、簡単に手に落ちたね…。僕の金銀妖瞳の前にね…。せいぜい、僕のために働いて貰う。まずは、この縁談を成立させるんだ。君にはその立役者になってもらうよ、なびきさん。」

「はい…。魁様…。仰せのままに…。」
 なびきは正気の無い声でそう囁きかけた。

「さてと…。そろそろ母屋に行きましょう。」
 腕に抱えていた、あかねにそう吐き出すと、トンと背中を叩いた。と、あかねの瞳に正気が戻った。

「あら…。あたし…。魁さん?」
 きょとんと見上げる瞳。
「なびきさんもほら…。」
 まだかしずいていた、なびきの背中もポンと押した。

 こちらも、何事もなかったかのように、正気づいた。

「見事な立会いでした…。僕の勝ちでしたけどね。」
 そうにっこりと微笑みかける魁。
「そうね…。魁君は強いわ。」
 なびきが受けるように答えた。
「やだ、そりゃそうよ…。あなたに勝てるわけないわ。男と女の差は歴然だもの…。」
 と屈託なく笑った。

 さっきの異常事態を、二人とも、けろっと忘れているかのようだった。
 何も不自然なところがなく、流れる和気あいあいとした会話。それをかわしながら、道場を後にする。

 それが、かえって不気味に見えた。後に取り残された獣が一匹、その一部しゅじゅうを、身じろぎもせず、じっと見詰めていた。
 ぬいぐるみのふりをしろと言われて、ずっと佇んでいた、玄馬だった。

(い、一体、何だったというのだ?さっきのは…。)
 己は金縛りの術などにあっていないというのに、まだ間接がギシギシと固まっているようだった。
(あやつの瞳…。金の瞳…。あれは、魔性の輝きぞ…。人では無い別の生き物の気…。妖怪にでも、憑かれておるというのか…。いとも簡単に、あかね君となびき君を虜にしよった…。)
 ほおっと溜息が漏れた。やっと、人心地がついたように思う。

(一体、奴は何を身体の中に飼っておるというのだ?…いずれにしても、このままではすむまいぞ…。乱馬よ。)
 そう、念じながら、彼もまた、道場から抜け出した。



つづく




一之瀬的戯言
金銀妖瞳(ヘテロクロミア)
 目の色が違う瞳のことをこう表現します。
 プロットからは魁の場合は左が金色に、右が銀色ということになっています。但し、超力を抑えている普段はダークアイです。
 彼が何故こんな瞳を持っているのか…次回以降でどうぞ。


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