◆柚子の大馬鹿十八年



一、

「お父さん、ねえ、何の木を植えているの?」

 好奇心丸出しで、一人の少女が喋りかけてきた。 
 学校帰りなのだろう。黄色いカバーが付いたまっさらなランドセルが背中に揺れている。
 傍らでシャベルを持って一息ついた父親がゆっくりと声の方へと振り返った。
 麗らかな初夏の午後。
「柚子の木だよ。」
 父親は流れる汗をぬぐいながらそう言った。
「ゆ、ず?」
 聞きなれない木の名前に、少女は大きな瞳を瞬かせた。
「ああそうだよ。母さんが好きだった果実だよ。ほら、あかねも知ってるだろう?プンっと香りがする、ミカンみたいな小さな黄色い実。」
「あかね、わかんないな…。」
「はっはっは、あかねはまだ小さいからな。」
「でもあかねよりも、この木はちっちゃいよ。ほら、あかねの方が大きいよ。うんと…。」
 手で背比べして、少女は苗木を見下ろした。
「そうだね。でも、きっとそのうちあかねをグングンと抜いていってしまうよ。そして、いつかはたくさん実をつけるようになるさ。」
「いつ、たくさん実をつけるの?今年の秋?」
 わくわくとした瞳が父を見上げた。
「はっはっは。そんなに早くは生らないさ。」
 父親は声を上げて笑った。
「なら、いつ実が生るの?」
 ちょっと膨れて問い返す瞳。子供に待ったはない。
「さあね。柚子はなかなか実を結ばない木だからね。何度も太陽が巡り、季節も巡って、きっと忘れた頃に、花が咲いてたくさん実ができる。父さんはそう思うよ…。」
「ふうん、ねえ、じゃあお父さんは、どうしてゆずを植えたの?ねえ、どうして?」
 幼い目は好奇心で溢れているようだ。猫の目のように、ころころと質問も変わる。
「母さんとの約束だからね。」
 父は寂しげに答えた。
「お母さんとのお約束?」
「ああ、そうだよ。母さんがお空に行く前に、柚子を植えてくださいなって父さんに頼んだんだ。」
「じゃあ、これはお母さんの木…なんだ。」
 更に少女は大きく目を輝かせた。

 去年、夏が果てた頃、母親はどこかへ消えてしまった。「病院」から眠ったまま戻ってきた母親。
 綺麗な祭壇に写真が飾られて、黒格好をしたお客様がいっぱい来て、木の箱に入れられて……。そして、黒い車で運ばれていった母親。いつまで待っても、それっきり、この家には帰ってこなかった。
 まだ幼い彼女は「死」というものを実感できなかったのだ。
 数日が過ぎて、とっかえひっかえ、たくさんやってきたお客様たちも減ってしまった頃、やっと、「死」というものが幼心に迫ってきた。
 それは、母親が自分の傍に来て、もう二度と微笑を返してくれないことなのだと、ようやく気がついたのである。いくら探し回っても優しい微笑みは小さな仏壇という箱の中でしか見られない。
 それが「死ぬ」ということだとぼんやりと理解した。
 途端、寂しくて溜まらなくなった。
 それでもあかねは、姉や父たちの前では泣かなかった。一粒の涙も弱音も零さなかった。年端のいかない頃から既に、強がりの本分が発揮されていたのだろうか。
 父や姉の目のないところで、あかねはこっそりと母を思い涙を流した。

「早く、実が生るといいな。ね、お父さん。実が生ったらお母さんに会えるかもしれないよ。」
 にっこりと笑ったあかねに早雲は微笑み返した。
「お母さんに会えるかもしれない…か…。そうだね。これはあかねが言うとおり、母さんの木ななのかもしれないなあ。」
 汗を拭う手をかざして、父は青く澄み渡った空を愛しそうに見上げた。


 それから、毎年、少女は木の傍らに来ては、いつ実が生るのだろうかと見上げた。わくわくしながら胸を時めかせていた。
 だが、たくさんの夜と昼が繰り返され、季節が何度巡っても、一向に木には花一つ開かなかった。裏庭に植えたので、日当たりが表よりも悪かったことも、少しは起因しているのかもしれなかった。
 毎日、飽きずに傍に来ては木を見ていた少女。時が過ぎ去り、見上げて居た少女を柚子の木はいつの間にか上から見下ろすようになった。
 気がつくと、あれから十回目の春が巡っていた。
 幼稚園児だった少女も成長し、十七歳の高校生。すっかり娘らしくなっていた。


二、

「かすみお姉ちゃんっ!来て来てっ!!」
 五月晴れのある日、目を輝かせながらあかねが裏口から飛び込んできた。

「あらあら、どうしたの?そんなに慌てて。」
 流し台の前に立って食事の準備をしていたかすみが、手を止めて振り返った。
「あのね、お母さんの木が、柚子に花が咲いてるのっ!!」
 あかねは道着のまま、はしゃぎたてる。
「ほらほら、お姉ちゃんっ!」
 あかねは台所から無理やり姉を引き剥がして、裏庭へと誘う。
「まあまあ、子供みたいな人ねえ。あかねちゃんは。」
 エプロンで濡れた手をしごきながら、かすみはあかねに引っ張られていった。
 青々と茂った緑の枝の中に、ぽつん、ぽつんっと白い小さな花が控えめに咲いている。白い卵が木の枝から直接出ているような、そんな小さな花だった。

「あたし、初めて見るわ。柚子の花。」

 目を輝かせながらちらほらと花を付けている、一振りの枝を眺めた。
 初めて花を咲かせた若木。勿論、たわわに咲き乱れるというのではなく、控えめにぽつん、ぽつんと五つ六つ、つぼみを付けただけの咲き方。
「この枝に全部集中してるわね。やっぱり、日当たりが一番いい場所だからかなあ。」
 あかねはすっかりはしゃいでいた。
 十年ずっと待ち続けていたつぼみがついたのだ。当然のことだろう。
「良かったわね。あかねちゃん。」
 姉もおっとりと微笑み返す。彼女もまた、あかねが毎年この時期なると、この木を見上げて待ち遠しそうにしていたのを良く知る一人であった。
「秋には実が生るかなあ。」
 あかねの心は、もう、収穫の秋へと飛んでいるようだ。

 だが、それも束の間の夢であった。
 柚子の天敵は身近に居た。

 バタバタと慌しく近づいて来た複数の足音。
「待てーっ!こんのぉっ、クソ親父ーっ!!」
「ぱふぉぱふぉふぉっふぉふぉ〜っ!」
 一匹のジャイアントパンダとそれを追いかけるおさげの少年。この家の居候、早乙女父子であった。
「こらっ!てめーっ!返せっ!それは俺の大福だろうがーっ!!」
 前を行くパンダに向かって少年は息を荒げる。
『わしのだよんーっ!』
 その前を行くパンダは、看板を持ちながらあっかんべーをする。そして、ドタドタと庭先を動き回る。何珍しくない、この親子が居候するようになってからの、いつもの天道家の風景。
 少年は、ちょこまかと動き回る、親父パンダを必死で追いかける。何を大福一つでそんなにむきになることがあろうかと、傍で見ていたあかねは一つ溜息を吐く。これもまたいつものこと。
 離れているうちはまだ良かった。だが、だんだんとその追いかけっこは、檄を増しながらあかねたちの方に近づいて来た。
「待て待て待て待てーっ!!」
『ヤダよん!』
 悲劇はその後起こったのだ。
 勢い余って、ジャイアントパンダは、目の前に立っていたあかねとかすみに気がつくのが遅れた。
「ぱっふぉーっ!」
 そう叫んで、パンダはさっと身軽に身を交わした。
「捕まえたぞっ!!」
 一緒に飛び込んでくる少年。彼はラグビーのタックルよろしく、身を翻した。動きを鈍らせたパンダに向かって突進したのだ。

 目の前の木が上下左右にわっさわっさと揺れた。

「あっ!」

 そう思ったときには既に遅し。
 バキッ!
 乾いた音と共に、柚子の枝が、木の幹からばっさりと折れていた。
「あらあら。」
 かすみも目を丸くして立ち尽くす。
 柚子の木は無残にも、ぼっきりと引き裂かれていた。悪いことは重なるもので、花のつぼみをたくさん付けた、一振りがやられていたのだ。
 一瞬呆然と折れた枝を眺めていたあかねは、すぐに我を取り戻していた。わなわなと手が怒りに震え始める。

「ら・ん・まあっ!!」

 声と同時に、手が出ていた。
 パンダの上にすっ転んで、体制を立てられすもぞもぞしていた少年に、あかねの鉄拳が見事に入ってゆく。

 バチンッ!バチンッ!ドカッ!

 往復平手打ちだけでは足りなかったのだろう。次には両足で蹴りも一発、少年の胴体へと食らわせた。

「い、いってーっ!!突然、何しやがるーっ!!」
 突然のビンタと蹴りの強襲に、少年は怒声を張り上げた。

「バカーッ!!」
 それでも怒りが収まらなかったのか、あかねは傍にあった防火用バケツに手をかけると、少年の頭の上から水を浴びせかけた。

「ち、ちめてーっ!!」
 少年の身体はみるみる少女へと変化を遂げる。
 ガランガランとバケツが転がる音がして、あかねはすっと振り返る。一度、きっと睨みつけた。と、ドカドカと大股で、あかねはその場を離れていった。
 何が起きたか、腑に落ちない、水浸しの少女を残して。


三、

「たく、俺が何したってーんだよっ!」
 乱馬は黙りこくって箸を動かす隣の席に言葉を吐きつけた。
「だから、何で俺がおめえに引っ叩かれなきゃならねーんだっ!!」
 鼻息は荒くれだっている。顔には痛々しい絆創膏。着ている服もどことなくよれている。
 隣の少女は乱馬の言葉を無視し続けた。
 聞こえていません、あんたとは喋りたくもないの、と、顔つきが語っていた。黙々と口と箸を動かしている。
 やがて、物凄い勢いでご飯をかっ込んだ少女は
「ご馳走様っ!」
 と一言告げると、食器を下げてさっさと茶の間を去った。
 後には取り付く島も与えられなかった乱馬が、ぶすっとまだ箸を動かしていた。

「あかねの奴。何でいっ!木の枝を折るなんてことは、親父たちとの取っ組み合いでしょっちゅうじゃねーかっ!今日に限って、何なんだあ?あの態度っ!」
 つい、独り言が漏れる。
「あーらあら、雲行きが怪しいと思ったら、また、あんたたち、喧嘩してるのね。今回の原因は木なわけ?」
 なびきがにんまりと笑った。
「それはあれね。その木に特別な思いがあるとか…。そんなのじゃないのかしら。あかねちゃんがあんなに怒るにはそれなりの理由があると思うのだけれど。」
 乱馬の母、のどかがおっとりと息子を嗜めた。ごく良識的な推察意見であった。
「で、どんな木を折ったのかね?」 
 早雲が味噌汁椀を置いて乱馬を振り返った。
「裏庭にある、中ぐらいの青い木だよ。枝に棘とげがある。」
 バリバリと沢庵を噛み砕きながら乱馬が答えた。
「それだって、俺が折ったんじゃなくって、親父が突進してやっちまったんだぜ。いいとばっちりだよ、たく。」
 乱馬とて溜飲が下がらないらしい。
「もしかして、母さんの木…かな?」
 早雲はかすみをちらりと見やった。
「ええ、そうなの。丁度、花のつぼみができたところだったの。これよ。」
 かすみは折れた枝先を花瓶に入れていたものを、すっと早雲の前に差し出した。
「おお、花のつぼみがついていたのか。そりゃあ、あかねが怒るのも無理はないな。」
 腕を組んで早雲が乱馬を見た。
「母さんの木?何だそりゃ。」
 乱馬は箸を口に当てたまま早雲を見返す。
「柚子の木だよ。母さんが亡くなる少し前にね、私が死んだら、一本木の苗を植えてくださいなって、遺言を残したものでね、この手で私が植えたんだ。」
 早雲はとうとうと話し始めた。
「不治の病を得た母さんは、自分が残してゆく幼い子供たちに、少しでも自分のことを思い出して欲しいと思ったんだろうね。何を植えようかと尋ねたら、実をたわわにつけて香り高き柚子がいいと母さんは言ったんだ。……。これは後で知ったことなんだが、柚子には「健康・幸福」という花言葉があるそうなんだ。母さんは暗に、子供たちの健康と幸せを願ったのかもしれないね…。」
 と、早雲の言葉を受けて、のどかが言った。
「乱馬は「桃栗三年柿八年」って言葉を知ってるかしら?」
「あ、ああ。桃と栗は植えて三年で花開き実を結ぶが、柿は八年かかる。転じて投資してもある程度の年数が経たないと収穫はないということを暗に示したんだろ?それがどうしたんだ?柚子と関係あんのか?」
 乱馬は母を見返した。
「「桃栗三年、柿八年」…実はこの諺には続きがあるのよ。」
「え?」
「「柚子の大馬鹿十八年」ってね。」
「初めて訊くぞ、そんな言葉。」
 乱馬はきょとんと母を見据えた。
「柚子は植えてもなかなか実を成さない木なの。十八年は大げさとしても、本当に忘れた頃にぽつんっと実を結ぶのよ…。そのくらい、実ができるまでは時間がかかる木なのだそうよ。」
「じゃあ、もしかして、今日折っちまった柚子って…。」
 乱馬はかすみを見返した。
「ええ、植えてから初めてつぼみがついたのよ。」
 その言葉に、はっとする少年。
「そっか…。あかねの奴、それであんなに…。」
「つぼみが集中していた枝先を折られたから、あんなに怒ったのね。きっと。」
 かすみがほうっと溜息を吐いた。
「あかねは、母さんと、一番触れ合う時間が少なかったからね。一番、花が咲いて実が生るのを、楽しみに待っていたからなあ。」
 早雲が寂しげに呟いた。
「あかねくんが怒るのも当然だな。乱馬よ。」
 正面から玄馬が沢庵を箸に挟んだ。それを阻止しながら乱馬は吐き出す。
「そもそも、てめーが俺の大福を持ち逃げしたから、ああなったんじゃねーかっ!」
「人のせいにするなっ!貴様が卑しく追いかけてこなければ、木は折れておらぬ。」
「親父が悪い。」
「いや、乱馬のせいだっ!!」
 最後に残った沢庵をぎゅうっと箸で双方から挟みながら、早乙女父子は睨みあう。
「あんたら…。懲りてないわね。」
 なびきが冷たい視線を投げかけた。


 その夜、皆が寝静まった頃、乱馬はそっと庭先へと出てみた。
 あかねにやられた己の傷の痛さは、もうすっかり忘れていた。それよりも、負わせた心の傷の方が、気になってしょうがない。勿論、家族たちの前には億尾にも出せない天邪鬼な少年なので寝静まった庭先に下りたのであった。
 朧月が傘をかぶって天上から静かに地面を照らし出す真夜中。
 ひんやりと冷たい足の裏を忍ばせて、まだ生々しい折れ口の前に立ってみた。
 それから、じっと目を凝らす。木についたつぼみを探してみた。
 かすみの言葉を思い出した。己が折った枝葉が一番つぼみがたくさんついていたという。他は殆ど見当たらなかったと。
 じっと息をひそめて、つぼみを探す。
「かすみさんが言ったとおりだな。他はねえや。」
 一年目の花は、本当に少ししか付かないのだと、のどかも教えてくれた。乱馬は己の不甲斐なさを溜息に変えて吐き出した。
 その時、傍できらっと何かがきらめいたような気がした。
「あ…。」
 目を凝らして見ると、たしかに白い塊がそこについている。
「あった、あったぞ!」
 一つだけぽつんとついたつぼみ。
 子供のように小躍りしたくなった。
 つぼみを一つ見つけただけでもこれだ。ずっと、それも何年もに渡って待っていたあかねは、飛び上がるほど嬉しかったに違いない。知らなかったこととはいえ、出会い頭でそれを踏みにじってしまったことへの悔悟の思いが湧き上がる。
 とにかく全滅ではなかった。それだけが彼への救いとなる。
 その花の開花をずっと待ち続けていたあかねのためにも、どうしても実を結ばせてやりたいと彼は思った。


四、

 次の日はどんよりと曇った空。暖かかった昨日までとは打って変わって、肌寒い初夏の日。

「こりゃあ、一雨、いや、一嵐来るかもしれねえな。」

 乱馬は恨めしそうに空を見上げた。
 父親と山へ篭ることが多かった彼の天気に関する鼻先は、良く
 この季節、寒冷前線が降りてきて、時々春の大嵐が吹き荒れることがある。
 昨日までの生暖かい湿った空気に取って代わって、春先に後戻りしたようなひんやりとした冷気が降りてきている。これは、嵐の前触れでもあったろう。
 今日ばかりは予感が的中して欲しくはなかった。
 だが、天気の女神は気真面目だった。
 案の定、夜半過ぎから振り出した雨は、雷を伴い、首都圏を吹き荒れた。

「不味いな…。」

 再びこっそりと母屋を抜け出すと、彼は裏庭に立った。
 容赦なく上から振り込める雨風。わさわさと庭木たちが揺れ始める。
 たった一つ、残った柚子のつぼみを守るため、彼は意を決した。玄関先からこうもり傘を数本取って、急ぐ。
 横殴りに吹き付けてくる雨風は、彼を容赦なく、少女の姿へと変身させる。普段は嫌がる変身も、この時ばかりは構っている余裕などなかった。すぐにびしょ濡れになりながらも、彼は傘を柚子へと差しかけた。幸い花は手の届くところにあった。彼は自分が濡れることなど、気にも留めずに、豪雨の中、柚子に傘を差しかけて立っていた。


 雨風は容赦なく、あかねの屋根の上にもバラバラと音を撒き散らせた。雨漏りこそしなかったが、樋から溢れ出る水がポタポタとどこからともなく音が聞こえてきた。
 叩きつけるような雨脚。ピカピカと光る稲妻。
 さすがの彼女も、ぱっちりと目が開いた。
 彼女もまた、柚子のことが気にかかっていた。昨朝、瓦割をしようと思って庭先に出た時に見つけた小さなつぼみ。
 じっと布団から天井を見上げながらも、豪雨に耐えているだろうそのつぼみのことがふっと頭を過ぎったのだ。こうなると、また、彼女もじっと眠ってはいられなくなった。
 おもむろにパジャマから普段着に着替えると、雨合羽を着込んだ。それから、家人に気付かれないように、そっと廊下から階段を降りて勝手口に回った。
 と、人の気配を感じた彼女。
「誰?こんな雨の中…。泥棒?」
 台所に立てかけてあった家箒に手をやると、それを握り締めた。そして、人影へと近づいてゆく。

(乱馬?)

 自分と同じくらいの背格好の少女が傘を差しかけてじっと佇んでいるのが見えた。おさげが風に靡く。

(何で彼がこんなところに…。)

 そう思って目を凝らし、はっとした。
 彼は己が気に留めた柚子の花に傘を差しかけている。じっと濡れながらも、雨風から守ろうと立ち据えている。
 もしかして彼は…。

 つっと足が前に出た。
 気配を感じて振り返る彼の目が驚きに満ちた。

「あかね…。」

 彼女は、そのまま同じ傘の下に駆け込んだ。

「お、おいっ!」
 乱馬のおさげがゆらりと揺れた。
「あたしも、入れて。」
 それだけ言うと、あかねはにっこりと微笑んだ。
 彼女は瞬時に察していた。乱馬がつぼみを見守ろうとしてくれたことを。たったひとつ、花を咲かせようと、枝先についた、柚子のつぼみ。それを守ろうとしてくれたのだ。多分、自分のために。
「肩冷やして風邪引くなよ。」
 ただ一言彼は告げると、そっとあかねの肩を引き寄せた。
 今は少女の形(なり)をしているので、肩線が近い。いつもはごつごつした彼の身体が、この夜ばかりは柔らかく感じた。
 降り注ぐ大粒の雨の下に、二人肩を並べて、じっと佇む。不思議な連帯感が生まれたような気がした。

 翌朝、嵐が嘘のように晴れていた。
 ポタポタと柚子の葉先から雫が垂れる。一晩中、二人、柚子のつぼみを守り続けた。明け方雨があがったとき、一旦母屋に引き上げたが、朝日が昇る頃、気になって表に出てきた。
 結局、一睡もしなかった二人。

「乱馬…。あれ。」
 湯浴みして男に戻ってきた彼に、あかねはつっと指先を指し示した。
「咲いてる…。」
 硬かったつぼみが、天に向かって花びらを広げていた。小さな花の可憐な開花。
「あ、見て、あそこにも…。あ、ここにも。」
 あかねの目が明るく見開いた。
 促されて見ると、夕べまでは気がつかなかった白い塊が、一つ、また一つ。ぽつん、ぽつんと木にできていた。柚子の新しいつぼみだ。
「良かったな…。」
 ポンっと肩を叩いた乱馬は、そのまま少女へと微笑を返した。
 ぽつんと上から雫が葉先に滴る。
 その水滴は、ふたりの姿を映して朝日にきらりと輝いた。


五、

「乱馬、お茶入れたわよ。一服つきなさいな。」

「お、おう…。」

 道着姿の気風しの良い青年が、呼び声に反応した。ちらりと覗く逞しい鎖骨に汗が光る。
 そよそよと吹き抜ける初夏の風を胸に吸い込みながら、青年は青い空を仰いだ。
 
「お父ちゃん、はいっ!お茶っ!」
 前から幼い少女がこちらに向かって駆けて来る。その向こう側には、こちらを見詰める柔らかい微笑み。
「ありがとう。未来(みく)。」
 青年は湯飲みを受け取ると、駆けて来た少女の頭を撫でた。
「どういたしまして…。」
 ませた瞳を輝かせて、少女は青年を見上げた。
 乱馬とその愛娘、未来(みく)だ。
 その目の前をひらひらとアゲハチョウが通り過ぎる。
「あ、ちょうちょうさん!」 
 未来が色めきだって声を張り上げる。
「ちょうちょだって?」
 と彼女の向こう側から同じ年頃の少年もひょいっと頭を出した。未来とよく似た顔立ちと背格好の少年。双子の兄、龍馬(りゅうま)であった。
「きれいだっ!」
 二人して好奇心がもたげてきたようだ。
「また、こいつら、卵生みに来たな。」
 乱馬はふっと畳み掛けた。
「卵?」
 円らな瞳が四つ、一斉に父親に手向けられた。
「ああ、アゲハチョウの子供はこの木の葉っぱが大好きなんだ。だから、こうやって卵を産みに来るんだよ。」
「ふうん…。」
 好奇心に満ちた瞳は木を見上げた。
「龍馬、ちょうちょさん、捕まえちゃだめだよっ!卵さん生まなきゃならないんだから。」
 少女が少年に嗜めた。
「ちぇっ!」
 蝶は舌打ちした少年の傍をすり抜けると、ふわっと傍の木に止まった。その後ろをもう一匹、同じ種類の蝶が追いかけてくる。 二匹は空で絡み合いながら、どんどんと上へ立ち昇ってゆく。
「あ、小さな白い卵がある…。」
 また少年が目を輝かせた。
 見渡すと、あちらこちらに白い塊が枝にくっついていた。
「あれは卵じゃないわ。花のつぼみよ。」
 背後から笑顔で佇む女性。大人びた顔立ちの中に、少女の頃の面影が残る。あかねだった。
 あの嵐の日から数年。
 この木のつぼみを懸命に守った二人は、今でもこの家に暮らしている。夫婦になって。

「今年も、花が咲く季節になったのね…。きっと秋にはたくさん柚子の実が取れるわよ。」
 その言葉が耳に入るか否かで、未来と龍馬は、飛び出していた。またひらひらと別の蝶々が飛来したのだ。それを二人、興味深々、追いかけ始める。子供たちと蝶々の追いかけっこ。

 あかねはその姿を見送った後で、ふっと天上を見上げて微笑んだ。
「あのね、乱馬、今年でこの木は十八歳になるのよ。」
「そうか…。十八歳か。」
 継がれた言葉に乱馬も感慨深げに呟き返した。

 桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十八年。

 いつか聞いた言葉が耳底で木魂する。
 あかねと出逢った次の年の秋、初めて二つ実を結んだ柚子の木。
 あれから毎年、少しずつ、柚子は実の数を増やしていった。そして今では両手では抱えきれないほど、黄色い可憐な実を結ぶ。

「あたしね、母さんが、ここへ柚子の木を植えて欲しいって、父さんに頼んだその理由が、やっと最近、わかったような気がするわ。」
 そう言って軽く微笑んだ。
「おまえも俺も、人の子の親になったもんな。」
 乱馬はそう言うと、そっと抱き寄せた。
 時の流れの中で、あかねは美しく成長し、己と結ばれて子供を生み、母となった。その横顔を愛しそうに眺める。

 太陽の光、可憐な花のつぼみを照らす。
 さわさわと風、豊かに茂った枝葉を揺らす。その上を舞い続ける蝶々たち。
 生命を育む母の木は、嬉しそうに、二人をいつまでも見下ろしていた。








一之瀬的戯言
 母の日に書き下ろした一本。
 我が家には柚子の木があります。今年で植えてから八年目。
 一昨年初めて花が咲き、去年初めて実を二つ収穫しました。 
 気の利いた題名が思い浮かばずに、結局そのまま使った私。このセンスの無さ。
 いなばRANAさん、ごめんなさい!


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。