第五話 ぬくもり
(ど、どうしよう。)
あかねはからだが固くなってゆくのを感じていた。
深々と足元から冷えてくる。それに反して、身体中の血は高騰を始めたようだ。
熱を帯びている乱馬の眼差し。それを避けるように、必死で視線を外した。
だが、彼の瞳はそれを許してはくれない。視線を外しても追ってくる。
「ほら、風邪が酷くならないように、良い子はさっさと寝なよ。」
ポツンと吐き出した。明らかにからかい調子だ。
その口調にむっと来たあかねは外した瞳を再び差し向ける。
「あのね、誰のせいで風邪をひいたと思ってるのよっ!!」
と、つい勢い込んで言ってしまった。
「あん?」
きょとんとする乱馬。
(い、いっけなーい!風邪ひいたのはこの乱馬のせいじゃなくって、えっと、お爺さんを助けてあげたときで・・・。シャンプーが飛び出してきたから・・・ええっと。)
訳を頭の中でぐるぐると考えるが、ますます現実と現の区別がつかなくなってきていた。軽く頭の中はパニック。
と、身体が急に浮き上がった。
(えっ?)
はたと気付くと、乱馬が軽々と抱えているではないか。一瞬の隙を突かれてしまった。
「ちょっと、何するのよっ!!」
ジタバタと手足をばたつかせて、反抗。
「風邪引きは大人しく寝てなきゃダメだろ?部屋へ行くぞ。」
柔らかい声がすぐ上で聞こえた。
「い、いいよっ!下ろしてよ。自分で歩くってばあ!」
「ダーメ、だって廊下は冷たいんだぜ。足が冷えちまうだろ?」
何だか嬉しそうだ。完全に乱馬のペースにはまり込んでいる。そればかりか、いいようにあしらわれている。
「スリッパ履けば大丈夫だってばあっ!!」
そう言ってはみるが、無駄な抵抗のようだった。
動こうとしたが、乱馬の手は、がっしりとあかねを抱え込んでいて、動くことを許してくれない。一回り大きな身体に、完全に呪縛されていた。
台所を抜け、廊下を通り、ゆっくりと歩き始める。
(ダメだよ!反則よぅっ!)
ほとほと困り果ててしまった。
心臓はばっくんばっくん、顔は火が出るのではないかというくらい熱い。
(乱馬ったら、このままどうするつもりなのよ・・・。あーん、貞操のピンチだわ。)
気が気でなかった。がっちりと抱え込まれたこの状況下では逃げられない。
結婚しているのだから、貞操の危機というにはちょっと語弊はあるのかもしれないが。
「じっとしとけよ。暴れると落っこちるぜ。」
そう言うと、乱馬はあかねを抱えたまま階段を上がる。トントンと一段一段踏みしめるように。
ゆっくりと下ろされたのは、ふんわりとした感覚。下ろされたのはどうやらベッドの上らしい。寝かされて、ふと見上げる。
(あれ?ここの部屋って・・・。)
見覚えの無い二階の部屋。高校生の頃のあかねの部屋よりも一回り広い。見回すと見慣れぬ家具が配置されている。和風の天道家にあって、ここだけは洋風な感じがする。
乱馬は着ていた温かそうなハンテンを脱ぐと、衣桁に軽く引っ掛けた。
「さてと・・・。」
くるっと返す目はあかねをふんわりと見詰めてくる。
「な、何よ。」
思わず身構える。
「何、気負ってるんだよ。」
「き、気負ってなんかないわよ。」
動揺を隠すように答える。
「あー、やっぱ、家がいいよなあ・・・。今回の試合行脚は疲れたよ。」
あかねの横に来て彼はどっかりと腰を下ろした。上から見下ろすように見詰めてくる瞳。その深い輝きに、思わず飲み込まれそうになる。
彼は手元にあったスイッチを捻った。と、頭上を照らしていた灯りは消えて、足元のランプだけになる。
「あかね・・・。」
彼は柔らかに視線をあかねに投じた。
にっこりと微笑んだかと思うと、ふわっと上から降りてきた彼の上体。
そして、重なる甘い唇。
突然の行為に、あかねはしどろもどろ。
軽い目眩を覚えた。
何の前触れも無く、触れる柔らかい唇。目を閉じるのも忘れてしまった。
(乱馬・・・。積極的過ぎるよ。)
あかねの動揺が伝わったのだろうか。合わされた唇はすぐに離れた。
「何、躊躇ってんだよ。らしくねえな・・・。」
くしゃっと髪の毛を撫でられた。
「身体に余計な力が入ってるぜ。」
少し意地悪げに言う。
「だって・・・。」
顔は猛烈に真っ赤に熟れてしまっていることだろう。耳まで赤いのが自分でもわかるのだ。こういう扱いには慣れていない。いや、こういう場面に遭遇したことなど、未だかつてない。戸惑うなと言う方がおかしい。
夢の中とはいえ、積極的な乱馬に、心まで翻弄されている。
鳴り出した心臓は止まる気配がない。
あの優柔不断で、不器用な少年の乱馬は何処へ行ってしまったのだろうか。不思議でならなかった。
(これって、ファーストキッス?・・・になるのかしら。)
いや正確には、出合って間もない頃、猫化した彼に唇を奪われた、あれがファーストキッスであった。勿論、あかねは鮮明に覚えているのだが、乱馬は恐怖から猫化してしまっていた。だから、彼は意識がなかったろう。意識が無かったからこそできた行動であったに違いあるまい。
なら、今、目の前で起きたことは何か。
混乱と感情の叛乱が、あかねを軽いパニック状態へと駆り立てる。
「やっぱ、風邪で調子悪いんだな。あかねは。それとも、何か?久しぶりに俺と会うものだから、緊張してるとか。」
「そ、そんなこと、ないっ!」
精一杯の強がり。哀しいかな、乱馬に隙は見せたくないという、いつもの勝気さが頭をもたげてきた。
「じゃあ、そんなに固くならないの。長いこと家を空けてたんだしさ。」
ツンと鼻を乱馬の太い人差し指がなぞった。
「う、うん。」
心許ない返事。何を彼がしようとしているのか、暗に言われたような気がする。何だか、駄々っ子にねだられているような瞳の輝き。
「で、でも、あたし、風邪ひいちゃってるからさ・・・。ら、乱馬にうつしちゃうと・・・ま、まずいんじゃないかしら。」
と必死で訴えかける。逃げ道を探すのに必死だ。
この場合、激情に流されてゆくと、行き着く先は多分・・・。
「おまえと違って、柔な鍛え方してねえから、平気だよ。」
「あのね、風邪ってウイルスで伝染するんだよ・・・。」
「つべこべ言うな。」
笑いながら、彼の大きな手が頬を包むように軽く触れた。今更止められるかとでも言いたげな瞳。
「ほら、ちゃんと目を閉じて。キスしてもらうときの礼儀だろ?」
ああ、もう何を言っても無駄らしい。
(乱馬となら、いいか・・・。)
身体の奥が熱くなる。
「あかね・・・。」
そう呼ばれて、魔法にかかったようにふんわりと目を閉じる。
と、待っていたかのように降りてくる熱い吐息。身体中の力がふうっと抜けてゆくのを感じた。
(熱い・・・。本当にこれって夢なの?)
蕩けるような想いが、ふうっとそのまま通り抜けてゆく。
夢にしてはあまりにもリアルで温かい感触。
身も心も完全に、乱馬に持って行かれた。そう思わずには居られなかった。
今、目の前に居る彼は、少なくとも、こういう場面に慣れているようだ。ガチガチに固まるように緊張している己とは根本的に違う。
ついばむ唇は己の想いを満たすためではなく、あかねにもその柔らかさを分けてくれる、そんな優しさに満ちている。
(これもあたしの理想の乱馬なのかな・・・。)
合わさった唇の下でぼんやりとそう考えた。
閉じた瞼の向こう側に居るの乱馬は、優柔不断でどっちつかずの少年ではなく、溢れんばかりの愛情を、この身一心に注いでくれる青年。そんな彼を、あかねは心のどこかで待っていたのかもしれない。
こうやって、愛情交換の深いキスをするのが、潜在意識の下にある、己のささやかな願望なのかもしれない。
乱馬の唇は温かい。淡い睦み合いは、深い情熱へと変わってゆく。
最早、目の前の現実以外に何も考えられなくなっていた。
いつか、躊躇いがちに軽く彼の肩に置いた己の手が、その逞しい身体へと絡まってゆく。その身体に夢中でしがみ付いている。そんな感じだ。
あかねを抱き寄せる乱馬の手にも力が入ったような気がした。彼女の「想い」が伝わったのだろう。
長い長いくちづけ。
その呪縛から解き放たれた時、
「やっぱり、ここがいい。あかねの傍が一番だ・・・。」
と、彼の声が耳元で聞こえた。
それから彼はあかねの上半身を包んでいた薄衣を一つずつ丁寧に剥ぎ取ってゆく。ごく自然の行為だった。
すうっと隙間風があかねの傍を通り抜ける。
クチュンとくしゃみを一つ。彼は柔らかに毛布を上に掛けてくれた。
「寒くねえか?」
恥らうあかねにそう語りかけてくる。
「ちょっと寒いかも・・・。」
小さく凍えながら答えた。
「なら・・・。」
やおら彼は己の薄衣も剥ぎ取ると、そのまま身を横たえた。あかねをしっかりと抱え込んで蒲団へと潜り込んでくる。
上からかぶる毛布。何も付けていない上半身。その触れ合った肌から伝わる、心地良い温もり。
凍えていたあかねの身体も、ほんのりと温かさを増してくる。不思議なぬくもりだった。今まで知り得なかった、肌の本当の温かさ。羞恥心は既に遠のいていた。
それから彼の両腕で離さないと云わんばかりにあかねを抱き締めてきた。背中に回される逞しい腕。耳元に聞こえる彼の心音。
このまま二人で・・・。一つの塊になり、遠い世界へ旅立つ。
あかねは覚悟を決めた。
夢だからとたかをくくっていた訳ではない。ましてや、投げ遣りになったわけでもない。
この世界の乱馬に、精一杯愛されている、その事実が嬉しかった。
彼が望むのなら・・・。
「乱馬・・・。」
そう甘く囁き掛けたとき、彼の口から微かに漏れる寝息を聞き分けていた。
「え・・・?」
このやんちゃ坊主は、そのままあかねを抱いて、眠ってしまったようだ。
それも、憑き物が取れてしまったという無垢な笑顔を向けたまま。幸せそうに眠りに落ちている。余程疲れていたのだろう。
一気に身体中の力がこそげ落ちた。脱力感があかねを襲ってきた。ホッとしたような、残念だったような。複雑な気持ちだった。
(結局、夢だから最後はこうなるのよね・・・。)
今し方通り過ぎた柔らかな余韻を思い出しながら、あかねは微笑む。己を抱き締めたまま、眠ってしまった乱馬。
まだキスの余熱が籠っている身体を静めながら、あかねは目を閉じた。
乱馬のぬくもりに包まれながら、いつか浅い眠りの中に落ちてゆく。
(おやすみ・・・乱馬・・・。目覚めたら元の世界に戻っているのかな・・・。)
そんなことをぼんやりと考えながら。
つづく
衣桁(いこう)
衣架(いか)とも言います。着物を掛けておくのに使った衝立(ついたて)のような道具のことです。
本当は眠らないバージョンを書きたかった・・・と言う訳で寸止め。
でも、いつかは、眠らないバージョンを書こうと思っているらしい。勿論非公開で(作者逃避
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