第十話、最終決戦〜憑依鬼、玄武


一、

 茫漠たる世界。白んだ太陽が、だんだんとその光を失い始める。ここは山地に近い。そう、平地と違って日の影が差すのが早いのである。

 乱馬はゆっくりと呼吸を整えた。
 さっきまで、白虎と朱雀。この二人の鬼人を相手に死闘を繰り広げていたのだ。
 幸い、佐士彦の放った癒しの気のおかげで、致命傷にもなりかねなかった裂傷は消えていた。だが、身体のダメージが完全に回復した訳ではなかった。傷は消えても、戦いどおしだった疲れまでは癒せない。
 しかし、そんなことで、諦めに回るほど、柔な心の持ち主ではなかった。
 硫黄の川の向こう岸では、まだ青龍と仲間たちが戦っている気配が見て取れた。そちらの戦闘も佳境にきたのか、だんだんと物音が小さくなりはじめていた。

「俺様はこの身体を借りた大和の力を自在に使える。」
 玄武が低く響き渡る声で乱馬に向かって吐き出した。
「そればかりではない。白虎と朱雀の力も吸収した。ふふ、それがどういうことか、わかっているのだろうな。」
 妖しく光る目。
「そんなもの…関係ねえ。」
 乱馬もまた静かにそれに対した。
「ここであかねを諦めるならば、おまえを鬼神に加えてやっても良いと思うたのだがな。」
 玄武は真っ向から乱馬を見据えて言った。
「俺があかねを諦めるだと?」
 生温かい風が吹き抜けて行く。
「おまえのその強さ。殺してしまうのは勿体無いと思ったまでのことよ。」
「けっ!生憎様だな。俺はそんなに柔じゃねーんだ。それに、あかねをてめえらに渡す気など毛頭無いんでな。」
 ビリビリと空気が震動し始めた。
「ならば、仕方があるまい。おまえを滅ぼすまでのことだ。」
 玄武の瞳が夕陽に染まって赤く輝き始めた。
「どっからでもかかって来なっ!俺は負けねえっ!」
「それでは遠慮なく。」

 すっと玄武が動いた。

 ピシッと揺れる空気。
 目にも止まらぬ速さで、乱馬の脇に飛び込む。
「くっ!」
 乱馬はかろうじて彼の攻撃を避けた。
 ビュッと音がして、衣が弾けた。
「遅いわっ!」
 再び傍で声が上がる。ドンドンと鈍い音がして、乱馬の身体に玄武の拳が入った。
 ざざっと砂地の音がして、乱馬はぐっとその場に踏ん張った。
「食らえっ!」
 正面から突き進んでくる玄武目掛けて気を解き放つ。
 バンッ!という爆裂音とともに砂煙がもうもうと上がった。と煙の中かから腕が伸びてくる。
「わたっ!」
 それに胸倉を掴まれて、後ろへと引き倒される。それから鋼鉄の肘が乱馬の胸目掛けて振り下ろされる。
「させるかーっ!」
 乱馬は必死でそれを避けた。バンッと音がして、避けた地面がばっくりと裂ける。
「いつまで逃げ遂せられるかな。」
 余裕の微笑みを浮かべながら玄武は乱馬をもてあそぶように攻撃をした。決して本気ではなく、まだまだ底知れぬ力を固持しながら、攻撃しては様子を伺う、そんな繰り返しであった。

「畜生っ、やっぱ、生半可な強さじゃねーな。」
 額から流れ落ちる汗を拭いながら、乱馬は必死で攻撃に耐えた。力もスピードも技の切れも断然速い。それも、まだ本気ではないのだ。
 圧倒的に乱馬が劣勢だった。隙を伺って気を放っても、簡単に避けられてしまう。勿論、致命傷など与えられる筈も無い。
「ふふ、おまえの攻撃はそれだけか?つまらぬ。もっと楽しませてみろっ!」
 玄武は全てにおいて乱馬を勝っていた。
 一矢報いることもできずに、だらだらと攻防戦が繰り広げられた。


二、

 乱馬が玄武と最期の戦いを始めた頃、青龍と良牙たちの戦いも佳境へと差し掛かっていた。

「雑魚どもめ。」
 青龍は立ち居並ぶ人間たちに向かって、言葉を吐きつけていた。

「ふん。その雑魚にやられるてめーは、それ以下ってところだな。」
 良牙が身構えた。

「おまえ等如きに、鬼族のこの青龍様がやられるとでも思っているのか。目出度い奴らめ。ふふ。まあ、良いだろう。じわじわとなぶり殺しにしてくれるわ。まずは、魑魅の舞を受けてみよっ!」
 青龍は持っていた鎌を構えると、地面へと軽く突きたてた。そして、何やら妖しげな呪文を唱え始める。

「えいっ!」
 呪文を唱えにかかった青龍に向かって、ムースが先制攻撃を加えた。呪文を唱えさせてたまるものかと、彼なりに判断したのだろう。
 呪文を唱えながら、青龍がにっと笑った。
「何っ?」
 ムースが放った暗器が、カンカンと音を立てながら弾き返されてきた。
「気をつけろっ!結界じゃっ!」
 後ろからコロン婆さんが叫んだ。婆さんに言われてよく目を凝らすと、確かに、藍白い気の壁が回りこむようにムースを包んでいた。
「くっ!奴め、小賢しい真似をっ!」
 結界が呪文を唱えている青龍をがっちりとガードしているようだった。
「ならば、これならどうだっ!爆砕点穴っ!」
 良牙が地面へと人差し指を突きたてた。

 ドオッ!と地面が割れる音がして、土屑が弾けた。もうもうと土煙。
 だが、結界は地面にもしっかりと張り巡らされていたようで、青龍はビクともしなかった。

「ちっ!頑強に守ってやがる。」
 良牙は恨めしそうに青龍を見上げた。

「ふん、所詮、雑魚どもとはレベルが違いすぎるんでなっ!食らえっ!魑魅魍魎の舞っ!」
 呪文を唱え終わったのだろう、青龍はそう吐き出すと、むんっと手を前に組み、持っていた鎌を一気に天空へと突き上げた。

「来るっ!」
 コロン婆さんの声とともに、良牙たちは必死で身構えた。
 青龍の立っていた地面が震え、土くれから何かが無数に飛び出して来た。黒や赤黒く蠢くそれら。
「きゃーっ!何ねっ!これっ!!」
 まず悲鳴を上げたのはシャンプーであった。
 振ってきた物体。よく見ると、地に這う蟲くれどもであった。ミミズ、イモリ、蛇、蛙、芋虫、百足、その他諸々。不気味に蠢くそれらは、一斉に人間どもへと襲い掛かる。

「そうらっ!行けっ!我が眷属たちっ。」
 青龍の魔力によって、何か特別な力を得ているのだろう。ただの蟲くれたちではなかった。
 あるものは白い牙を剥き、あるものは毒の瘴気を飛ばし、思い思いに向ってゆく。

「ひゃーっ!女傑族、勇敢と言えども、こんなにたくさんの蟲、困惑するっ!」
 シャンプーは武器を振り回しながら己に降り注ぐ蟲たちを薙ぎ払う。バラバラと落ちてはまた再び立ち向かってくる蟲たち。数が半端ではなかった。
「オラは平気だっ!」
 ムースは見えていないから、気持ちが悪いと言う感覚は他の連中よりはましだったようだ。暗器を器用に使いながら、蟲たちを粉砕していった。
 ほのかは剣で、コロン婆さんは杖で、それぞれ降り注ぐ蟲たちを避けた。
「天道君、気持ち悪いね。」
「そうだね早乙女君。」
 親父たちは素手を振り回し、地面へと凪ぎ落とした。
「くそっ!キリがねえっ!」
 良牙は爆砕点穴を食らわせながら一網打尽を試みた。

「ふふ、無駄だ。」

 青龍はバラバラと落ちた蟲たちを再び地面から召喚して巻き上げる。

「畜生っ!やっぱり元から断たなきゃ駄目って奴か。」
 良牙は蟲の大群の先に仁王立ちする青龍をキッと見返した。
 と、青龍はにたりと彼を見て笑った。それから、持っていた鎌を今度は右手で天空に翳した。何かどす黒い気を彼は集めていた。その気は良牙たちが倒した蟲の体から立ち上がっているではないか。
「やばいっ!こいつ、始めから、蟲を粉砕することを知った上で、こっちへと仕掛けやがったかっ!」
 そう、良牙が思ったときだった。

「瘴気炸裂殺法ッ!」

  時既に遅し。青龍が集めた瘴気がその言葉と共に、一気に下りて来た。

「うっ!」
「何だっ?」
 パタッと早雲と玄馬の身体の動きが止まった。いや、彼らだけではない。シャンプーやコロン、ムースの動きも止まった。
「痺れて動けねえ…。」
 良牙の全身も震えた。

「ふふふ…。我が瘴気の効き目は如何かな?」
 すうっと青龍が斃れ込んだ良牙の目の前に立った。そして、動かない彼を蹴り上げた。
「うわあっ!」
 良牙はなす統べなく、足蹴にされ、地面へと転がり込む。彼の傍でもぞもぞと蟲たちが蠢いた。
「哀れよのう…。人間ども。毒には叶わぬと見える。わっはっはっは。私はこの毒気がすがすがしく感じるというのに。」
 良牙の頭を足で踏みつけた。
「さて、どうやって貴様らを料理してくれよう?一人一人この鎌で切り刻んで、心臓をえぐり出してやろうか。」
「ぐぬぬ…。」 
 良牙は彼の足の下で蠢いた。
「ほお、まだそれだけ動けるのか。貴様が一番、我が眷属を倒してくれたようだな。ふふ、良かろう。決めた。」
 青龍はすっと良牙に向けて手を翳しだした。
「この気には絶望へと突き落とす、効力もあるのだ。己の心の闇と毒に苛まれて、狂い死にするが良い。」
 蒼白い気が青龍から発せられて良牙を貫いた。
「うわあああーっ!」
 良牙はその気を受けてのた打ち回った。

「良牙君っ!」
 隣りの早雲が苦しそうに叫んだ。
「ふふ、安心しな。貴様等は別の方法で順番になぶり殺してくれるわ。こやつが己の闇に苛まれて悶死するのを一緒に楽しみな。時間はたっぷりある。一人可愛らしい女子が居るな。俺の女になるなら許してやっても良いが。

「女傑族の女、誇り高い。決して敵には媚びは売らない。」
 シャンプーは気丈にも睨み返した。
「気が強い女だ。だが、毒で動けぬ身の上。」
 にたりと青龍が冷たく笑った。
「オラのシャンプーに手を出すなっーっ!」
 隣りでムースが虚勢を張った。
「ふん。おまえの女か?」
 青龍はムースを流し見た。
「違うあるっ!私の婿殿は、乱馬あるね。」
 シャンプーが叫んだ。
「ほお、あっちで玄武と戦っている小僧か。」

「シャンプーの婿は乱馬ではない。オラだっ!」
「何言うかっ!ムース違うね。乱馬ねっ!」

「ふん、そんなことはどうでも良いわ。女っ!」
 青龍はシャンプーの頭をがっと手で掴んで己の方へ向け見下ろした。キッと見上げる崇高な瞳。
「くく。なかなかの上玉だ。それにこの勝気な瞳。気に入った。」
「何するねっ!」
「シャンプーッ!」
「こいつらの前で慰み者にしてやろう。」
 青龍の手がシャンプーの身体に掛かろうとしてその時だった。

「待てっ!」

 ゆうらりと立ち上がった少年。良牙だった。

「おまえ、動けるのか?」
 青龍はギョッとして振り返った。

「俺に狂気を差し向けたことを後悔しな。」
 良牙の目が暗く歪みながらも鋭く青龍を睨みつけていた。
「何を戯言をっ!」
「食らえ、獅子咆哮弾っ!」
 青龍が鎌を良牙に向って振り下ろそうとしたその瞬間だった。一瞬早く、良牙から解き放たれた気が青龍の体のど真ん中を貫いていったのだ。黒い真っ直ぐな気が、青龍を至近距離から貫き通した。
「バカな…。」
 どおっと膝を折って青龍が斃れた。

「女傑族秘奥義、浄化烈風波っ!」

 今度はコロン婆さんの皺枯れた声。ポワンと婆さんの周りから虹色の環が広がった。

「おお、動けるぞっ!」
 婆さんの傍に立っていた玄馬が手をばたつかせた。
「本当だ。」
 早雲も目を見張った。
「瘴気を浄化させてもらったよ。」
 そう言うと婆さんは苦しそうに笑った。毒の瀕死の中で必死で残った気を体内から集めて浄化烈風波を撃ち放ったのだろう。はあはあと息遣いも荒かった。

「くそう…。暗黒の気砲か。そんなものをおまえが扱えるとは…。」
 青龍は良牙に貫かれた胸を押えながら忌々しげに見渡した。
「ふん、俺に絶望感を与えたのがおまえの運の尽きだった訳さ。獅子咆哮弾は絶望観の成せる最大奥義だからな。」
 良牙はよろめきながら立ち上がった。

「だが、この瘴気は拭えぬ。我が眷属の解き放った気の塊だからな。ふふ、貴様らが結界を張ったとしても、いつまで持ちこたえられるかな。見ろ。もうすぐ日が沈む。あの日が山へ落ちてしまったら、門が開く。さすれば貴様等は終わりだ。幽界の鬼神たちがここへ溢れ出し、お前たちは最初の餌になって屍も残さぬだろうよ。お前たちの世界は幽界へと飲み込まれるのさ…。いい気味だ。せいぜい、束の間の今際の時を味わっておくんだな。」

 青龍は最後の力を振り絞ってそう言葉を尽くすと、足元から砂のように崩れていった。

「門が開くところまで見届けたかったがな…。」

 最期にそう吐き出すと、砂塵へと消えて行った。


「何とか勝ったか。」
 コロンはゆらりと立ち上がった。
「皆ここへ集まるんじゃ。結界はそう強くは張れぬ。」
 コロンが促すと、その周りへそれぞれ、身体を引きずりながら身を寄せた。
「それっ!」
 婆さんは地面へと杖を突き立てた。わさわさと蠢いていた蟲たちは一斉に杖の周り数メートルから後ろへと退いた。虹色の結界が地面へと張られた。
「これもいつまで持つか。せいぜい日没までじゃろうがな。うぐ…。」
 毒の気はまだ体から抜け切らないのだろう。コロンだけではなく、シャンプーもムースも、早雲も玄馬も、ほのかも、そして良牙も息遣いは荒い。
「後は乱馬に頑張ってもらうしかねーか。」
 良牙はポツリと吐き出した。
「乱馬。」
 シャンプーもうわ言のように門の方向へと顔を差し向けた。
「頼むぞ、乱馬君。」
 早雲は嘯くように髭を貯えた口元を動かした。
 その向こう側には、赤く浮き上がる、鬼門が妖しく見えた。


三、

「そろそろ、玄武鬼神としての本領を発揮させてやろうか。」
 何度目かの攻防がはけたとき、玄武が乱馬の前に仁王立ちになった。
「本領だって?」
 乱馬は汗を拭いながら玄武を睨み返した。
「ふふ、おまえ、やはり極上の気を体内に秘めておるな。その力、俺様が全て吹い取ってやろう。」
 玄武は乱馬の目の前に左手を翳した。と、掌にぽっかりと黒い風穴が開いた。
「なっ!」
 その風穴からどす黒い妖しげな気が下りてくる。
 本能的に危険を察知した乱馬は横へと飛び避けた。だが、その暗黒の気はまるで己の意思を持つように乱馬の逃げる方向へと向きを変えた。
「くっ!」
 乱馬は己の掌をかざすと、迫り来る気の先端部へ向かって気弾をぶちこんだ。

「何っ?」
 と、気の先端部分から化け物の顔が抜きん出る。そしてそいつは、獣のように大口を開けて乱馬が打ち込んだ気弾を飲み込んだ。そして、乱馬の気弾を食らい尽くすと、べろりと舌をなめずり、大和の掌へと戻っていくではないか。
 と、玄武の身体が躍動したように見えた。
「くっ!もしかして、今のが、玄武の本体か?」
 乱馬はきびっと睨み返した。激しい戦慄が彼の全身を駆け抜けてゆく。


「やっとわかったようだな。ククク。これが俺様の本体だ。俺様は肉体など要らぬのだ。他の奴に憑依してそいつを傀儡(かいらい)に、気や魂を食らうのさ。おまえの気、とっても旨いぜ。」
 大和の声が野太い男の声に変わった。その目はさらに妖しく光り始める。
「正体を明かしやがったって訳か。」
 乱馬は正面から睨み返す。
「ふん、もう勝負が見えたからな。おまえの全ての気と力を吸い尽くしてやる。何なら身体ごと憑依してやろうか?」
「けっ!お断りだね。そうやすやす、てめえなんぞにくれてやる気はねえ。」
「くくく、負け惜しみを。じわじわと力を吸い取りながら、日没を待つとしよう。せいぜい長く楽しませてくれよっと。」
 言葉が終わらないうちに、玄武は本体を解き放った。再び乱馬の生気を狙ったのだ。
 しゅるしゅると伸び上がってくる、玄武の本体。どす黒い禍々しい物体が乱馬に迫る。どう攻撃をしたら良いものか躊躇していると、いきなりそいつは乱馬の左腕に食らいついた。

「うわーっ!」

 全身に痛みが走る。
 しかも、それだけではない。
 ぐいっと食らい付かれた口元へ、己の気が吸い上げられるのがわかった。
「ぐっ!」
 乱馬は必死で食らい付いた玄武へと、甕布都の御剣を振って払おうとした。
 スパッと食らい付いた玄武の頸を掻き切った筈なのに、切っ先はすいっと通り抜けるだけ。
 玄武はにっと笑って乱馬へと食らいつ付いた口を一旦放した。
「ふふ、俺様は実体がない。そんななまくら刀で切りつけようとびくともせぬわ。それよりも、もっと面白い物を見せてやろう。」
 そう言い終わると、大和の身体がふわっと上空へ浮き上がった。

「何っ?」
 ぎょっとして乱馬はそれを見返した。
「ふふ、さっき朱雀の気を吸い上げたからな。憑依体は空だって飛び上がることができるようになった。勿論、それだけではない。」
 すうっと立ち昇った大和の身体に見開いた風穴から、幾つもの暗黒の顔がせり出すように出始めた。さながら大和の身体を軸に。いくつもの顔つき触手が伸びてくるようであった。

「き、気持ち悪いぜ。」

 思わず対峙していた乱馬が口走ったほどだ。異様な風景であった。

「おまえの体の気、残らず俺様に寄越せっ!」
 ぞわぞわと空を舞っていた玄武の黒い触手が、一斉に乱馬目掛けて襲い掛かった。

「うわあーっ!!」
 幾度に何体もの玄武が乱馬の身体に食らいついた。手、足、腹、背中。容赦なくその黒い牙を乱馬へと突き立てた。乱馬の肉体が彼らに吸い寄せられるように、空へと振り上げられた。
 身体に満ちていた気が、ふうっと奴らの咽喉元へと吸い込まれてゆく。力が抜けてゆくのがわかった。

「畜生っ!もう、俺にはなす術もねえのか…。」
 はあはあと己の荒い息だけが虚しく耳元でこだまする。

「くくく、やっと諦めたか。そうだ。大人しく全ての気を俺様に寄越せ。」
 大和の身体から伸びた無数の触手が一斉にざわざわとざわつきはじめた。
「もう少しで楽になる。じわじわとゆっくり、貴様の気、味わい尽くしてやろう。」
 幾重にも絡み付いていた玄武の黒い触手が、やがて、太い一本へと集約され始めた。乱馬の咽喉元へ食らいついた一本に。
 首に食らい付かれた哀れな小動物のように、乱馬は抵抗することなく、なすがままに気を吸い取られていた。

 遠くで響く玄武の声。虚ろに開いた乱馬の目に、沈み行く太陽の光が入って来た。

(もうすぐ日が沈む…。)
 薄らぼんやりとそう思った。そして、意識が沈む寸前、御柱が目に止まった。その中に捕えられ、目を閉じた少女の影が見えた。

(あかね…。)

 沈みかけた意識が、ふわっと浮き上がった。

(そうだ。俺はここで負けるわけにはいかねえ。俺は…。あかねという希望の少女を、俺の許婚を失う訳にはいかねーんだ。)

 思わず、右手の甕布都の御剣を握り締めた。

(甕布都の剣よ。俺に力を貸してくれ。)
 無意識にそう囁きかけていた。

 ドクンッ!!

 剣の中で何かが躍動した。

『甕布都の剣を受けし猛者よ、我は豊布都の御魂なり。汝、我が力を剣に宿した。その力、今こそ、開けっ!己が中に眠る、聖なる光を呼び込め。』
 耳元で女性の声がした。

(聖なる光…?)

『太陽の光じゃっ!』

(太陽…。)

 乱馬は見開いた目の中に沈み行く彼岸の太陽を捕えた。赤く揺らめきながら落ちてゆく夕陽の輝き。乱馬は右手の御剣を無意識にそちらの方へと差し向けた。
 陽光が御剣へと降り注いでいく。沸々と力が湧きこんでくる。枯渇寸前だった体内に、溢れんばかりの光の気が輝き始めた。
「うおおおおおおーっ!」
 体内に満ち始めた気を乱馬は一気に全身へと漲らせた。丹田に力をこめることで、増殖させたのだ。
 咽喉元に食らい付いていた玄武が一瞬、ぎょっとしたように乱馬を眺めた。乱馬は左手でがしっとそいつの背中に掴みかかると、ぐいっと己の首筋から引き剥がした。ヨダレがたらたらと垂れる卑しい口元が目の前で揺れた。
「小僧っ!最期の足掻きか?」
 玄武はペロリと舌なめずりをして乱馬を見下ろしていた。
「そんなんじゃねえさ。」
 乱馬は静かに身体を起こし始めた。そして、掴んでいた首をどっと手放した。

「おまえ・・・。」
 玄武が驚いたような表情を乱馬に差し向けた。
「何故、地へと落ちてゆかぬ?人間は空を飛べぬはず。空へ浮くことも叶わぬはず。」

 そうだ。玄武によって空へ引き上げられて、気を吸い上げられていた乱馬。その呪縛が解けても、下方へ落ちることなく、すっくと虚空へ浮き上がっていた。

「そんなこと、知ったこっちゃねーっ!だが、今の俺は無敵だ。」
 乱馬はゆっくりと甕布都の御剣を身構えた。右手を上にヘソの前に置いて、中段の構えを取る。切っ先は玄武の本体の黒い気へと差し向けられた。
 構えた身剣の切っ先に、体内から溢れ出た気が表面へとコーディングされるように満ちるのが見える。

「ほお、まだそんなに気が残っていたのか。」
 玄武はベロリと長い舌を出した。蛇のように先割れた卑しい舌先だ。
「その気も全部喰らい尽くしてやろう。」
 玄武は再び、にょきにょきと大和の肉体から、黒い触角を幾つも突き出してきた。そいつらは、乱馬をゆらりと牽制しながら空を舞う。

「食らえるもんなら食らってみやがれーっ!!」

 乱馬はだっと駆け出した。迷うことなく、玄武の触手の一番太くてどす黒い一本目掛けて。剣を頭上高く振り上げて、一気に振り下ろした。

「愚かなっ!俺様は実体ではないのだ。そんな鈍らな剣では…。」

 玄武の声がそこで止まった。
 ブシュッと鈍い音がして、一刀両断にその頸が二つに別れた。
 いくつもあった、玄武の触手がぱっと弾けるように空気へと同化して消えた。

「嘘だ…。何故。何故切れた…。」

 おおおおっと玄武が戦慄きはじめた。

「そうか、その剣には豊布都の御魂が降臨していたのか、うぬぬっ!」
 顔のすっぱりと切れた本体がうめく。
「おのれえっ!こうなれば、大和の体内にもう一度引きこもり、おまえを蹴散らせてくれようぞっ!」
 うめくような声が黒い触手の胴体から流れ込んでくる。するすると交代しながら、大和の方へと引き返えそうとしたその時だった。

「そうはさせないっ!」

 凛とした少年の声が背後で響いた。

「大和っ!」
 乱馬の口がかたどった。

「うぬぬ…。貴様。何故意識が戻った…。」

 玄武がぎょっとして振り返った。

「僕とて、袋小路の正当後継者だ。貴様如きの悪鬼にいつまでも憑依はさせない。」
 大和は空に浮き上がったまま、清々とした声で答えた。己の左手から出払っていた玄武の身体をぎゅっと鷲掴みにして、落下を免れているようだった。

「小賢しいっ!もう一度、その身体、憑依してくれるわっ!」

 しゅるしゅると音がして、玄武が大和目掛けて襲い掛かった。

「ボジュラボワカ、オンダラバッタラ!ボジュラボワカ、オンダラバッタラ!」
 大和はもごもごと何やら呪文のようなものを唱え始めた。
「うぬっ!悪鬼避けの呪文。そのようなもの、この玄武様が打ち砕いて…。」

「そうはさせねえっ!くたばりやがれーっ!!」

 乱馬が動いた。甕布都の御剣を脇に引き寄せると、一気に玄武のどす黒い触手の胴体目掛けて突っ込んで行った。

「あがあああっ!」
 切っ先がどずっとその蛇のようなうねる胴体の真ん中へと深く付き立てられていった。

「畜生っ!こんな人間どもに…。」

「けっ!ざまあみろっ!」
 ガッツポーズを取った乱馬は、玄武の墜落とともに、地面へと落下する大和を捕えていた。
「大和っ!」
 思わず声が枯れるほど叫んだ。ここから地面まで数十メートルはある。激突したら無事ではいられまい。

「カアーッ!」
 下方から黒い塊が飛んできた。
「佐士彦っ!」
 間一髪、背伸びして飛び上がってきた佐士彦がクチバシで大和の着物を絡み取っていた。

「ひゅうっ!ナイスプレイッ!」
 乱馬はほっと溜息を吐き出した。
 つっと降り立った地面。
 玄武の切り離されて先に落ちた生首がまだ未練がましく恨めしそうにこちらを見ていた。
「ぐぬ…。俺様がこんな人間如きにやられてしまうとは。だが、安心するのは早いぜ。もうすぐ日没だ。太陽は山端に隠れ始めた。」
 夕陽が迫った西の山並みへと掛かり始めていた。
「太陽が山端にさしかかった今は、おまえたちの力では御柱から人柱の少女を引き出すことはできぬ。くくく。残念だったな。我が身は滅びるが、鬼門は開く。せいぜい束の間の勝利を味わっておけ。鬼門が開けば、貴様等など…。」
 ガクリと玄武の切れた首が地面へと転がった。果てたのだ。
 ぶずぶずと黒い蒸気になって、玄武の身体は空気へと同化していった。

「闇へ返れ。鬼神たちよ。」
 大和は静かに片手を合わせた。と、彼の身体が横へと揺らいだ。
「おまえ、大和。その身体。」

「大丈夫だよ。ずっと奴に乗っ取られていたから、足腰に力が入らないけれどね。それより、乱馬っ!僕のことは良いっ!早くあかねさんを助け出すんだっ!太陽が、太陽が沈んでしまうっ!!」

 はっとして振り返ると、太陽が最期の輝きを西の山へと向けて沈み始めているのが見えた。

「やべえっ!」

「乱馬っ!はよ来いっ!ワシの最期の力、おまえのために使うたるっ!」
 佐士彦の身体がぐわんと大きく膨れ上がった。
「あかねはんの居るところまで一気に昇ったるさかい、助け出せっ!」
 
「はよ来いっ!躊躇しとる暇はないでーっ!」
「お、おう。」
 乱馬は大きくなった佐士彦の背に乗った。
「ほな、行くでーっ!」
 そう言うと佐士彦は力強く羽ばたき始めた。目指すのはあかねの捕らわれた柱の中央。


「乱馬。後は頼んだぞ。顕界の未来は君のその手腕一つにかかってるんだ。あかねさんを助け出せ。」

 大和は小さくなる影を見送りながら、天を仰ぎ見た。その背後には赤く揺らめく夕陽。彼岸の光を携えながら、今にも山へと飲み込まれようとしていた。



つづく




ちょこっと解説 その10
 この章を書いているとき、一之瀬家のパソコンは一週間近くクラッシュ…。
 バックアップを取っていなかったので諦めて書き直しました(涙


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