◇SOLITARY 後編
五、
暗闇の中に浮かぶ、男女の影。
少年は仰向けにうつろげな瞳を、暗闇へと投げかけていた。少女はゆっくりと貪るように、組み敷いた少年を愛撫する。
その動きにあわせるように、甘い吐息が少年から漏れる。艶かしい影。
『うふふ、やっぱり、口を使って直接吸い上げるのが一番だろうね…。』
あかねの中に巣食った妖は、ゆっくりと、乱馬の方へ桜色の唇を近づけた。両手で彼の頬を包み込むと、穏やかに彼に語りかけた。
「目を閉じて…。キスをしてもらうときの礼儀よ。」
あかねの声色に、乱馬はゆっくりと瞼を閉じていった。
「いい子ね…。」
あかねの身体を乗っ取った妖は、舌なめずりをした。
「そのまま、じっとしているのよ…。すぐに終わるからね…。」
微動だにしない乱馬。完全に妖に意識ごと丸め込まれていた。
はああっと吐き出した吐息を乱馬の口元へ吹き付けると、妖はあかねの唇をそこへあわせようとした。
その時だった。
がさがさっと音がして、天井から雨水がどおっと溢れ出した。朽ち果てかけていたこの社の瓦が、その部分だけ弱くなっていたのだろうか。屋根に溜まっていた水が、一気に、下の二人目掛けて滑り落ちたのだった。
「ちめてえっ!!」
ぶるぶると身体を震わせて、乱馬が雄叫びを上げた。勿論、身体は水のせいで、少年から少女へと、変身を遂げていた。
「あれ…。俺はいったい…。」
少女へ戻ったおかげで、妖に操られていた気が元に戻った。
「お、おまえは…。」
今にも乱馬に喰らい付かんとしていた妖があかねの口を借りて、驚きの声を張り上げた。
『何故だ。何故、女に変身したっ!』
「あかね…?」
乱馬は妙なことを口走ったあかねをまざまざと見詰め返した。あかねならば、己が水で女に変身することを知っている筈だ。
「おまえ、まさか…。妖怪か?」
彼はすぐさま身構えた。
『くそうっ!もうちょっとで、極上の男の生気を手に入れられたものをっ!ええい、女のおまえには用はないっ!』
あかねの身体が一瞬、ごおっと戦慄いたかと思うと、激しい閃光が煌いた。
「わあっ!!」
物凄い空気圧だった。乱馬は耐えられずにその気に弾き飛ばされた。体重が軽くなった分だけ、吹き飛ばされる距離も大きかった。
「てめえっ!あかねの身体を乗っ取りやがったなっ!許せねえっ!」
乱馬はするりと身体を交わして、トンっと床に降り立った。
『ふん、おまえのような女には用は無い。男を取り逃がしたのなら、わらわにも考えがある。この大潮の晩を逃すわけにはいかぬでな。船の一つでも沈めて、男をこの島に流れつかせて、その生気をたっぷりと喰ろうてやるわ。この娘の身体を利用してな!』
妖はそう言い終るや否や、傍にあった鏡を手に身構えた。
(ひょっとして、あれが妖怪の本体か?)
が、次の瞬間、再び閃光が辺りを覆った。
妖が、何やら術を飛ばしたのである。
バキバキバキっと乱馬が立っていた床に割れ目が入った。
「な、何っ!」
ゴオオっと音がして、下から冷気が噴出した。
「うわああああっ!」
足場を失った乱馬は、床に出来た穴から、下へと落ちてゆく。そう、社の下には大きな岩穴がぽっかりと口を開いていたのだった。
『海の底で溺れてしまえ!』
妖が上から叫んでいる。
「くっ!」
落ちながら彼は体制を立て直すと、手を上に胸の前に突き出し、ポンッと一発、白い気を放った。その反動で、落下のスピードは半減した。
「しめたっ!」
乱馬は身体を丸くして、受身の態勢を取る。
ボッチャン!
衝撃の代わりに、水音が耳にこだました。どうやら下は水面だったようだ。
ガボガボと飲まれてゆく水の下。
ぐいっと強い何者かの力が、浮き上がろうとした己の身体を制した。
(え?…。)
後ろ向きに、その力は乱馬をぐいぐいと引っ張ってゆく。
(な、何だ?潮の流れか?)
苦しくなる息を耐えながら、乱馬は、その流れに身を任せた。
正面に迫るのは大きな岩穴。そこへ彼の身体はぐいぐいと引き込まれていった。
「ぶはっ!!」
息の限界が来た時、引っ張っていた力がふっと緩んだ。
乱馬はその気に乗じて、何とか水面へと浮き上がった。
はあはあと息も荒い。その息が整うのを待ってから、彼は辺りを見回した。
「こ、ここは…。」
ざあっと流れてくる波音。はっと目を上げると、ごつごつとした岩壁が目に入った。その先には浜に通じる出口だろうか。
「洞窟?」
外は激しい雨が唸っている。勿論、波も高いようだ。だが、この洞窟の中は穏やかな水が溜まっている。
「え?光?」
一瞬目を疑った。真っ暗闇の中に、浮かび上がる、一筋の光の道が目に入ったのだ。岩苔が光っている、そんな幻想的な岩場の風景。
乱馬は水に腰を半分埋めたまま、ゆっくりと光の方向へ足を向けた。 と、光の道は、まだ先へと続いているではないか。
何故だろう。この光が己を招いているように思えた。
「行ってみるか…。」
乱馬は、意を決すると、そのまま、光の続く方へと向かって歩み出した。
「何だ?ここは…。」
光が果てたところに、出口があった。外は大嵐が吹き荒れている筈なのに、そこは穏やかな波が打ち寄せるだけで、雨の気配すら感じられなかった。
と、笛の音が侘しく聞こえた。うら悲しい横笛の響きだ。
「誰だろう?」
導かれるままに、彼は、その音を奏でる主を求めて洞窟から出た。月影も無いのに、海面が青白く輝いて見える。その先の大きな岩の上にそいつは居た。鎧を身に着けて、悠々と笛を奏でている。
『来たか…。』
そいつは、笛の音を止めると、乱馬の方へと向き直った。兜は装着していないが、一目見て、位の高い武士だとわかった。
年のころは二十歳前後だろうか。若かった。青白く光る身体。この世の人とは思えなかった。
「俺をここへ導いたのはおめえか?」
乱馬は率直に疑問を投げかけた。
『いかにも…。』
若武者は乱馬を見据えて、口を開いた。
『私は、この辺りを治めていた領主だ。命が尽きたのはもう数百年も前の話ではあろうがな…。』
「その領主さまが俺に何の用だ?」
臆することなく、乱馬は武士を見据えた。
『まずは礼を言いたい。』
「礼だって?」
『おぬし、昼間、一振りの刀を供養してくれただろう。』
「ああ、あの錆びた刀のことか。」
『刀には武士の魂が宿る。それはおまえも知っておろう。武士の血を受けし者ならばな。』
「ああ、それくれえはわかってるつもりだ。俺も武道家の端くれだからな。で、何でおまえは、成仏せずに、彷徨ってる?恨みでもあるのか?それとも未練か?」
『この冷たい海の中へこの身を横たえたのは、もう遥か昔のことだ。その原因になったことなどに、恨みも辛みもない。ただ、私をこの世に繋ぎとめるものは、一人の女性だ。』
「女?」
『我妻になる筈だった若姫だよ。私が自害させられたとき、生き延びて欲しいと切に願った。だが、彼女は、その願い虚しく、対岸の岬から身を投じた。行き場の無い若姫の魂は、彷徨い、私を探し続けたのだ。』
「まさかその、姫様の魂って…。」
若武者はこくりと頭を垂れた。
『察しの通りだ。』
「何で、その姫様を己のところに導いてやれなかったんだ?長い間、あの姫様はおまえを求めてこの辺りを彷徨っていたんだろ?」
若武者は遠い目を暗い海へと投げかけた。
『導きたくとも、導いてやれなかったのだ…。彼女の遺体はこの島に流れ着くや否や、漁師たちによって、ここへ怨霊鎮めされて祀られてしまったのだから。』
「怨霊鎮め?」
『ああ、海で死んだ若い魂をこの小島に社を築いて祀り上げたのだ。私を陥れて自害させた張本人でもある、姫の父君がな。』
「何かよく話が見えーんだが。」
乱馬はきょとんと聞き返した。
『怨霊として扱われた若姫の御魂代は、父君が供養のために連れてきた、徳の高い僧侶によってこの地に封印されてしまったのだよ。私が共に連れて行きたくとも、姫の魂はここへ封印され貼り付けられてしまったのだ。なまじ徳の高い僧侶に封印されたから、そのまま解き放たれもせず、ましてや成仏もできず。私は長きに渡って若姫の魂がこの地から開放されるのをじっと待っていた。成仏もせずに、この冷たい海の底を彷徨いながら。触れぬことが出来ぬ、封印の場の周りを漂っていた。そして、この前、この辺りの地が震(ふる)うた時、彼女を呪縛していた封印が解けた。』
「だったら、呪縛していた封印から開放された時に、てめえが迎えに行ってやれたんじゃねえのか?」
『それができなかったのだ。私の力では。』
「どういうことだ?」
『……長い間、封印されていた若姫の魂は我を思うがあまりに、いつしか怨霊へと身を転じてしまていたのだ。荒んだ姫の魂は、我の姿をとらえてはくれなかった。いくら呼んでも姫の魂は私の存在にすら気がつかないで。私は彼女のすぐ傍にこうして待ちながら沈んでいたというのに……。』
若武者は憂いの目を空へ差し向けた。
「何か、複雑な事情があんだな。霊は霊で…。」
『おぬしが私を供養してくれたのも、何かの縁だろう。一つ頼まれごとを訊いてはくれぬだろうか……。』
「なるほど、それで俺をここへ呼び寄せたんだな。」
『悪いようにはせぬ。私は若姫を連れて、この世から身罷りたいのだ。喩え、共に地獄の大門を潜り抜けることになろうとも、構わぬ。若姫がこれ以上、悪霊と化して、人々を惑わし続けるのが忍びないのだ。あれの魂は私のせいで荒んだのだからな。このままでは死に切れぬ。地獄へもへ行けぬ。』
乱馬はじっと若武者の言葉に耳を傾けていた。
どうやら、この若武者の霊魂は嘘偽を語っているわけではなさそうだ。
「わかった、その頼み、きいてやらあ。ここで行き会ったのも何かの縁だ。それに、その若姫って奴は、あかねに憑依してやがるしな。」
『おお、かたじけない。そうと決まれば、急がねばならぬ。姫はこの嵐の中、男の漁船をまた沈めようとしているようだ。男の生気を貪るために。』
「ああ、絶対に阻止してやらあ。あかねの身体をこれ以上好き勝手にされて、汚されたくねーからな。」
乱馬は吐き出すようにそう言葉にした。。
六、
嵐はだんだんとその激しさを増した。
海は暗く荒れ狂い続けた。
『ほほほほ、もっと波、風、この漆黒の海を荒らしてしまえ。そして、我が元へ、一艘でも二艘でも、船を、男を呼び寄せるのだ。』
社の先の岸壁に立って、あかねの身体に憑依した若姫の妖が、身をさらしながら、雨風に打たれ続けていた。その様相は、異様なものを感じさせる。右手にはいつの間に作ったのか玉串を、左手に神体として鎮座させてあった鏡を持ち、高らかに雷鳴へと捧げながら踊る。まるで、女シャーマンの乱舞に似ていた。
「悪霊めっ!まだあかねの身体の中に巣食っていやがるのか!」
その乱舞を睨みつけながら、乱馬が背後から声を放った。
『貴様、さっきのオカマ少女。』
きびっと睨みつけるあかねの瞳。
「誰がオカマ少女だ、誰がっ!黙って聞いてりゃあ、暴言卑語、好き放題並べたくりやがってっ!」
激しく打ち付けていた雨が、ふっつりとやみ始めた。
遠雷が雲間から時々激しく光り出すきりで、雨音もどこかへと行ってしまった。
だが、風だけは、断崖を抜けて、びゅうびゅうと激しく二人の間を吹きつけて来る。
『ふん、あの社の下へと落としてくたばったかと思ったが…。生きておったとはな。それも無傷で。』
激しい言葉を叩きつける。あかねの声色ではなく、もっと凄みのある女の声だった。
「生憎、俺は往生際が悪いんでな…。あかねに巣食った悪霊め、もう一度、ここで俺と勝負しろっ!」
『ふん、オカマ無勢が私と勝負だと?』
ぎろりと睨みつける目の玉。
「おまえが欲しいのは、男の生気なんだろ?俺は水に濡れると女に変身する能力を持った男だ。この勝負に負けたら、てめえに生気くれてやらあっ!!」
乱馬は持って来たやかんを頭の上から浴びせかけた。ばしゃっと音がして、湯煙がやかんから湧き上がる。と、乱馬は湯を浴びて、本来の男の姿へと立ち戻った。
『おまえ……。そうか、水と湯で自在に性別が入れ替わるのか。面白い。ふふ、ならば、特別に機会を与えやろう。だが、おまえが負けたら……。』
「この男の俺の生気、全部てめえにくれてやらあっ!」
『良かろう……。その迸る生気、余すところ無く、この腸(はらわた)に取り込んで食ろうてやる。』
べろっと舌なめずりをした。
「その代わり、俺が勝ったらてめえはとっととあかねの身体から出ていきやがれよっ!」
『おまえは私には勝てぬわっ!』
開口一番、妖が乱馬に突っ込んで来た。
「くっ!」
乱馬はその攻撃を紙一重で交わした。あかねの手にあったのは、鋭い小刀。ピッと乱馬の道着が裂け、血が飛んだ。
『どんなにおまえが強かろうと、おまえは私には勝てぬ。ふふ、何故なら、おまえ、この小娘を愛しているのだろう?この身体、傷つけることなどできぬであろうがっ!あっはっは。』
間合いに入ろうとすると、妖は容赦なく武器を放ってくる。妖にとってはあかねはただの憑依物体にしか過ぎないのだ。
一方乱馬にとって、あかねは命に代えても守りたい存在。妖が云うとおり、傷一つつけるわけにはいかなかった。
『ほうら、少しは反撃したらどうかえ?』
己は傷つけても構わぬと云わんばかりに、激しい攻撃を仕掛けようとする。姑息なやり方であった。
『ふふ、このまま、私に生気を吸われてしまえ。』
「ちっ!面倒だな。」
妖に乗っ取られたあかねも、普段の彼女とは比べ物にならないくらいの技の切れとスピードがあった。本来の彼女の力に加えてのプラスアルファーだ。
だんだんと乱馬は絶壁の方へと詰め寄られて行く。
『どうだ?後はないぞ。このまま海に沈むか?それとも、この私の餌食になるか?』
じりじりと間合いを詰めてくる妖。
乱馬のかかとの先から、コロンと石が海に向けて転がり落ちる。ザアザアと荒波が下で待ち受ける。
乱馬はぎゅっと拳を握り締めると、あかねに向かって差し出した。
「でやーっ!!」
気の玉があかねを押しのけて弾けた。
ドンッ!
『うおのれーっ!』
あかねがどさっと尻餅を吐く。
『小僧、小癪な。ならば、私とて容赦はしないっ!影分身っ!』
その叫びと共にあかねから、伸び上がった影。そいつはにゅっと乱馬の足の影を掴んだ。と、彼の足の歩みが途切れた。地にしっかりと縫い合わされたように、足は微動だにしない。
「しまったっ!影縛りかっ!」
そう叫んだ時には、妖の術中に落ちていた。
『ふふふ、もう動けまいっ!』
妖はさっと懐に持っていた鏡を上に差し上げた。
『雷(いかずち)、ここへ集い、我に力をっ!』
その言葉を受けて、空の雲間に裂け目が出来た。と、稲光る白刃の閃光。その光を受けて鏡が妖しく血の色に輝き始めた。
『若造っ!これを浴びよっ!』
鏡の中から、血の色の光が乱馬の瞳を目掛けてすっと飛んだ。
「うわあっ!」
乱馬はその眩しさに、一瞬動きが止まった。
『どうだ?もう、抗(あらが)えまい。』
余裕の笑みを浮かべながら、妖が乱馬へとゆっくり近づき始めた。
「身体が…。」
『痺れるだろう?ふふふ、いい眺めだね。』
すっと伸び上がってくるあかねの細い腕。妖とは云えども、元はあかねの身体だ。
『最期におまえに夢を見させてあげようか?…。この小娘と睦みあう、夢を。』
「く、くそっ!」
全身から脂汗が滴り落ちる。
『ほら、私の瞳をお見。せめて夢の中で息絶えるが良い。』
抗おうとしても叶わない身体と意識。全てを目の前の妖が握り締めている。
『愛しいものをその腕で抱きしめながら、永遠の眠りに就くが良い。その後、全ての生気、私が吸い尽くしてあげるわ…。』
乱馬の瞳から光が消えた。
引き伸ばされてくる、細い二の腕。あかねの中に巣食う妖は、そのまま乱馬をぎゅっと抱きしめる。
『さあ、坊や…。全ての生気を。私に差し出すのだ。』
妖は勝ち誇ったように言葉を吹きかけた。
「けっ!引っかかったなっ!」
急に抜けていた乱馬の気が戻った。
そして、妖の腕を薙ぎ払い、手首をがっしと掴んだ。
『な、何っ?』
ぎゅうっと腕をつかまれ身動きを止められた妖は、彼の顔をぎょっとして眺めた。
『お、おまえ、何故、動ける?私の術に溺れなかったのか…。』
今度は妖が動揺し始める。
「へっ!おまえの術を破る手立てをある方が教えてくれたんでな。」
『何だと?人間には私の術を破る手立ては無い筈。』
力を籠めてつかまれた腕を必死で抜こうとする妖のあかね。だが、腕力は男の乱馬には敵わなかった。
「全ての気を身体から抜き、自ずから意識を沈めてたんでいっ!」
『馬鹿なっ!』
「他の妖が俺の身体の中からしっかりとガードしてくれていたからな。」
『他の妖だと?』
「そうだ、おまえを何百年もの間、待ち続けて来た魂さ。」
『私を待ち続けた魂?』
「へっ!ご対面させてやらあっ!」
ゴゴゴゴと乱馬の中から湧き上がる、別の気。
「いいぜ、出てきな。……。後はおめえに任せらあっ!」
そう言うと、乱馬は丹田へ気を集中させ、一気に解き放った。
彼の身体が震撼し、意識はふっと途切れた。
その時、生じた一瞬の力の緩みを目敏く感じたあかねの中の妖は、するりと腕を引き抜いた。
『小癪な、小童め。何の戯言を……。』
妖しい瞳を差し向けて、乱馬へと手刀を振り上げたその時だ。沈んでいた乱馬の意識がふっと浮き上がってきた。
深い灰色の瞳に青白い輝きが宿る。
はっとしてあかねの中の妖は乱馬を見返した。
『若姫。もう良い、その荒ぶった気を鎮めろ……。』
くわっと見開いた乱馬の瞳は、真っ直ぐにあかねを見下ろした。深い灰色の瞳の輝き。その中に揺れる青い輝きは炎となって揺れ始める。
彼の象る言葉は、この世の者の囁きでないことを一瞬のうちに、あかねに巣食った妖は悟った。
『あ、あなたさまは……。』
震えるように乱馬を見上げた。
『やっと、若姫の耳元に、私の声が届いたのか。』
『あなたは…若君さまっ!』
荒ぶっていたあかねの顔が、次第に穏やかになってゆく。
『本当に若君なのでございますか?』
見開かれたあかねの目は乱馬の瞳をじっと見据えた。
『ずっと待っていた。この冷たい海の底を漂いながら、再びそなたとまみえる日を。なのに、そなたは、男ばかりを襲って……。私の声を聞こうとはしなかった。』
憂いを帯びた目をあかねに差し向ける。
『いいえ、私の方こそ、長い間、若君を探し続けて彷徨っていた……。男の生気を食らっていたのも、この地に永らえるため。悪霊とこの身を化しても、若君に再びあいまみえるその時だけをこいねがい待ち続けて来た。』
とうとうとあかねの頬を伝い始めた涙。嗚咽があかねの口元に溢れてゆく。
『わかっている。そなたがこの孤島に怨霊鎮めされてしまったことも、封印が解けた後も、ずっと私を求めて彷徨っていたことも、……。この少年の身体を借りて、やっとおまえと話すことが出来た。この手で姫の魂をを抱きしめることも…。』
『若っ!』
滑り込んできたあかねの身体を、乱馬の両手が余すところなく包み込んだ。すがり付いてきたあかねを、強く抱きしめる乱馬の二の腕。
そう、求め合ってきた魂たちは、あかねと乱馬の身体を借りて、やっと、引き合うことが出来たのだ。
『お会いしとうございました。』
『それは私も同じだ。若姫。』
『懐かしい、若君のぬくもり。温かい……。』
永年の間に姫の魂に積もった愛しさと侘しさが、乱馬の腕の中で穏やかに浄化されはじめる。黒く薄穢れ荒くれていた魂が、穏やかに澄み渡ってゆく。
『姫…。もう離さぬ。』
若君の声と共に、乱馬の身体が青白く光り始めた。その光はやがてあかねの身体を穏やかに包み込み、共に萌え始めた。
『私も、もう迷いませぬ。これからはずっと、若と共に……。』
『ああ、やっと一つになれたのだから。』
静かに合わされた唇。
彷徨い続けた二つの魂は、乱馬とあかねの身体を借りて一つに溶け合った。悠久の時と次元を超え、しっかりと結び合う絆。
『乱馬よ、そなたのおかげで、やっと姫をこの手に抱くことができた。これでやっと成仏できる。ありがとう。』
『あかねの身体もお返しします。迷惑をかけました。あなたたちも互いに結ばれた手を離さぬように…。』
沈めた二人の意識へと語りかける霊魂たち。
『逝こう…。二人手を取り、無限の時の中へ。本来死者が帰るべき処へ。』
『もう決して離れませぬ。』
深く沈めた意識の中で、若君と姫君の二人が笑いあいながら昇天してゆくのが見えたような気がした。その手はしっかりと結ばれたまま。ゆっくりと遠ざかっていった。
七、
輝いていた乱馬とあかねの身体が、次第に静まり始めた。
最後の輝きが途切れた時、辺りに深い静寂が訪れる。
耳には微かに押し寄せる波の音。
「逝ったか…。二人とも…。」
浮き上がった意識と共に、繋がっていた唇を離し、乱馬はふつっと言葉を吐いた。
「長い間、求め合ってきたのね…。」
つうっとあかねの瞳を涙が零れ落ちた。
「これで良かったんだろうな。」
「当たり前でしょ。」
ゆっくりと目を見開く。
目が完全に開かれると、二人は互いにはっとして結ばれていた手を互いの身体から引き離した。
そう、ずっと抱き合ったままでいたのに気がついたのだ。
真っ赤になって逸れる顔。心臓は破裂せんばかりに波打ち始める。
「い、いまのキスは、お、俺の意思でやったんじゃねーからな。」
天邪鬼は取り繕うように言葉を投げた。
「あ、あたしだってそうよ…。」
霊に身体を貸していたとはいえ、唇辺りに残る感触がくすぐったかった。
「乱馬、あれ……。」
あかねは倒れ掛かった社の前を指差した。
「あ、あれは…。」
視線を上げると、ご神体として飾ってあった鏡と乱馬が供養した刀が並んで置かれていた。
「この鏡が姫君の、刀が若君、きっとそれ自身の依り代だったんだろうな…。」
そっと手に取って見比べる。それから、やおら、道着の腰紐を解くと、刀と鏡を結び合わせた。
「何やってるの?」
あかねが後ろから覗き込んだ。
「せっかく、めぐりあえたんだからな。こうしてやれば、もう、二度と離れることもねえだろ?」
「へえ、案外あんたってロマンチストなんだ。」
「うるせーっ!気が利くと言えよ。」
ぶつぶつ言いながらも二つをしっかりと結びつけた。
それから社の傍に立てかけ、手を合わせた。あかねも一緒に。
絶壁の向こう側に、ゆっくりと朝日が昇ってくる。
「さて、帰るか。」
乱馬はゆっくりと伸び上がりながらあかねに言った。
「どうやって?」
「ほら、迎えの船だ。親父たちだろうぜ。」
「あ……。」
その向こう側に、この島に向かってくる船が見えた。
「どうじゃった?乱馬。あかね君との一夜は。」
玄馬がにこにこしながら桟橋から語りかけた。
「てめえらっ!おかげで俺たちは死に掛けたんだぞっ!」
ポカッと乱馬の拳骨が父の頭に入った。
「いやあ、昨夜は凄い嵐だったからね。気になって早めに船を出してもらったんだ。」
早雲が頭を掻いた。本当のところは、娘が心配だったに違いない。
「もお、お父さんたちったら…。こっちは大変だったんですからねっ。」
「妖怪は出るし…。」
「妖怪?本当に居たのか?」
玄馬が驚きながら視線を二人に投げた。
「そうよ、あそこで戦ったわよ。ほら、社が壊れてるでしょう?」
船着場から遥かに見上げる壊れた社をあかねは指差した。
「あれま、本当に壊れてる…。」
神主も目を見張った。
「あ、社の袂に、暴れてた妖怪の依り代だった鏡と、そいつが求めていた若君の刀を一緒に置いてあっから、社を修繕したときにでも一緒に丁重に祀ってやってくれよ。まあ、妖怪本体は成仏したみてえだから、もう人に悪さすることはもうねえだろうがな。」
「ほお、本当に退治したのか。口からでまかせじゃなくて。」
玄馬が眼鏡をさすりながら乱馬をしげしげと眺めた。
「あかねと仲良くしていたと思ったのに。」
がっくしと早雲がうなだれた。
「馬鹿言ってんじゃねえっ!!誰が、こんな色気のねえ女と!」
思いっきり手を握り締めて反論する息子に、玄馬は含み笑いを浮かべて言った。
「じゃがよ…。その格好を見れば、いろいろあらぬことを想像してしまうと言うもんじゃ。」
「あん?」
指差されて乱馬ははっとした。だらっと道着がはだけている。中から逞しい胸板と鎖骨がむき出しになっていた。
そうだ、さっき道着の腰紐を解いて鏡と刀を結わいつけた。それを思い出した。
「てめえ…。何、想像してやがるっ!」
わなわなと身体が震えた。
「そりゃあ、道着をはだけておるくらいじゃから…。そういう行動に出たのではないかと思うのが自然じゃろ?」
玄馬ははだけてむき出しになった上半身を見ながら指差した。
「こう、あかねくんと二人、いんぐりもんぐりと…。」
何となくいやらしく動く玄馬の手に怒りが炸裂した乱馬。
「こら、親父っ!勝手な妄想するんじゃねーっ!」
もう一発張り倒した。
「そうよ、おじ様。変な誤解しないでくださいっ!あたしは、妖怪に憑依されて大変だったんだからあっ!」
むきになってあかねが反論を試みた。
「たく、てめえがのっとられて大変だったのはこっちなんだぜ。」
乱馬がじろっとあかねを見返した。
「散々俺に言い寄ってきやがって…。普段は全然色気なんかねーくせにっ!」
「あら、結構嬉しそうだったじゃない。」
「お、覚えてるのか?」
「さあね。」
「あーっ、覚えてやがるのか?もしかしてわかってて言い寄ってたとか!」
「馬鹿なこと言わないでっ!」
思わず喧嘩腰。
「言い寄るって?もしかして、あかね、乱馬君、やっぱり…。」
色めき立ったのは親父たち二人。
「お父さんたちが思うようなことはありませんでしたっ!」
きっぱりと言い放つ。
「おじさんっ!そんなに俺が信用できねえのか?」
乱馬も早雲を睨みつける。
「だいたい、あんたが、ややっこしいことを口走るから。」
あかねが乱馬へと向き直った。
「あんだとお?本当のこと言っただけだろ?」
この二人、感情が高ぶると、周りが見えなくなるらしい。
「あった、ありました。本当に、刀と鏡がありましたよ。」
神主が慌てて社から戻ってきた。
「ふむ…。なるほど。」
早雲は道着の紐で結ばれた刀と鏡、そして目の前で激しく言い合っている乱馬とあかねを見比べた。それから、玄馬と神主を呼んでぼそぼそと何かを言った。玄馬がうんうんと頭を垂れる。
「たく、おめえが、油断するから妖怪に憑依されたんだろうが?」
「何よ、あんたの修行が足りないから翻弄されてたんじゃないのっ!」
まだ言い争う乱馬たち。
互いの怒りの目を見て、腕をまくりあげ、ううーっと唸った。
と、周りから気配がなくなったのを、先に感じ取ったのはあかねだった。
「あれ?」
「あん?どうかしたか?」
「お父さんたち……。いない。」
「何?」
辺りを二人で見回した。確かに、さっきまで傍観していた父親たちの姿形が消えていた。
「あ゛ーっ!!」
あかねの口が放心するように叫びたてた。そして指を差し出した。伸びる指先。
「ああん?」
あかねの驚き声に反応して乱馬も振り返る。
「げっ!」
「やられたわ。」
ポンポンポンと心地よいエンジン音が目の前で響き渡る。さっと船に乗った玄馬と早雲、神主が見えた。
「おーい!もう一晩、そこでがんばってくれたまえっ!」
早雲が手を振りながら叫んだ。
「昨晩は妖怪退治で大変じゃったんだから、もう一日たっぷりと、仲良く喧嘩でも何でもやればよかろうて。わっはわはわは。」
玄馬も腰に手を当てて笑い飛ばす。
「明日の朝、迎えに来るからねーっ!」
「じ、冗談じゃねーぞっ!」
「そうよ、何であたしたちが…。」
「いいからいいから、後はよろしく頼んだよ。乱馬君。」
「あかね君、妖怪の居ないバカンスを乱馬と二人、思う存分楽しみたまえ。乱馬、今夜こそぬかるなよっ!」
船はだんだんと孤島を遠ざかる。
「こらっ!親父ーっ!俺たちを置いて行くなーっ!」
「お父さんっ!…あーあ。行っちゃった。」
ふうっと深い溜息が漏れる。
「たく、何考えてやがんだ、あのくそったれ親父たちはっ!」
彼もまた傍らで肩を落とす。
もう一晩、二人きり……。
そして話は、ふりだしに戻る。
「乱馬、わかってると思うけど…。」
「おお、おめえが変な色気出さなきゃ、大丈夫だ。」
「その変な色気ってーのは何よっ!」
「やかましいっ!俺だって散々気を遣ってやってんだっ!いいか、絶対色目使うなよっ!」
「何よっ!そんなに嫌なら女になってなさいっ!」
ばっしゃとかける海水。
「か、かわいくねーっ!」
明け昇った太陽が、二人を柔らかに照らしつける。荒れ狂っていた海も瑠璃色に光り出す。
ここは陸から離れた孤島。
二人の熱い一日が、再び始まろうとしていた。
完
一之瀬的戯言
実はこれ、三年近く停滞していた試作品の完成です。
今回、ふわっと話が浮き上がり、一気に仕上げました。
半さんのパソコン禍お見舞いに・・・。(ええのか、こんな中途半端な作品。)
二日目に関しては、皆様でいんぐりもんぐりと妄想して楽しんでくださいませ。(何て無責任な作品なんだろう。)
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