◇SOLITARY   中編


三、

「たく、リュックから物一つ取り出すだけで、何分かかってんだよ。おめえは。」
 乱馬は苦笑いしてあかねを見返した。
「しょうがないでしょ。中は薄暗くって手元が見えなかったんだから。」
 あかねはむっとして、取りに行った物を差し出した。
 かすみが握ってくれた握り飯や紙皿、箸などだ。
「そうそう、一緒にスポーツドリンクも取ってきたから。これで水分補給はばっちりよ。」
「おお、おめえにしては気が利くな。ついでに、胃薬なんかは…。」
「取ってくるわけないでしょうがっ!バカッ!」
 鉄拳が飛ぶ。それをひょいっとかわして乱馬は言った。
「で、俺は男に戻るからな。文句言うなよ。」
 乱馬は、そろそろいい温度になってきたやかんを手に持った。
 あかねは一瞬はっとした表情を浮かべたが、
「どうぞ!お好きなように。男だろうと女だろうと、一向にかまわないからね。」
 と何気にしないそぶりをして言い放った。
「たく、可愛くねーな。気を遣って、一応訊いてから戻ってやろうと思ったのによ。」
「何、恩着せがましく言ってるのよ。あんたが男だろうと、別にあたしは構いませんから。とっとと戻んなさいよ。どうせ、あんたとなら、何にも間違いなんて、起こりもしないでしょうからね。」
 精一杯牽制してかかった。気にしていると悟られるのも、動揺をあからさまに汲み取られるようで癪だっだ。

「へっ!じゃあ、遠慮なく、男に戻らあっ!」

 そう言って、沸いていたやかんを持つと頭からざんぶりと湯を注いだ。。
 みるみるうちに身体は一回り大きく膨らみ始める。
 男に立ち戻る乱馬。ぶるぶると身震いして、ふうっと一息吐いた。そして、持っていたやかんをどっかと地面に置いた。
「後は腹ごなしだな。」
 乱馬はさっと持っていた紙の椀をあかねに差し出した。
「何よ、これ。」
「だから、おめえの作ったスープみてえなもの、注げって言ってんだよ。」
「いらないんじゃなかったの?」
 驚いた表情を手向けたあかねに
「魚だけじゃ、腹いっぱいにならねーしな。夜中腹減っちまったらいやだからな。しょうがなく食ってやるんだ。ありがたく思え!」
 と横柄な言葉を並べ立てた。
「無理して食べてもらわなくってもいいんだけど。」
 ツンケンドンと答えたものの、あかねの顔に少しだけ笑顔がこぼれた。やはり、自分の作ったものを食べると言ってくれたことが嬉しかったのだ。そわそわと杓をし始める。 
 それを見えない振りして、こっそりと流し見る乱馬。
(あーあ、こりゃあ、今夜は、やっぱ、蛇の生殺し状態になるかもしんねーな。くそっ!親父たちめっ!!)
 あかねの笑顔はやっぱり極上の誘惑となる。並みの精神力では太刀打ちできない。
(こいつは、とっとと腹いっぱいにして、寝ちまった方が無難だな。妖怪だって本当に、居るかどうかはわからねーし。いや、親父たちの姦計なら、居ねえと思った方が自然だからな。)
 食ったらさっさと寝る。そういう作戦に出るのが、一番だと思った。下手に夜更かしして、欲望に耐えられなくなるよりは、とっとと寝てしまうほうがお互いのためになるだろう。

「はい。」
 あかねがにっこりと椀を差し返した。なみなみと注がれた汁。
「お、おう。サンキュッ!」
 一応、礼など言ってみる。
「おかわりたくさんあるからね。」
 とにっこり。
「これだけで十分だぜ。多分…。」
 乱馬は箸をつけるのを、やっぱり躊躇しながらこそっと吐き出した。
「何か言った?」
「い、いや、別に…。」

 あかねの作った奇々怪々なスープを我慢して飲み干しながら、乱馬は考えた。
(はあ、未成年なのが残念だぜ。親父たちみてえに、酒が飲めたら、その力借りて、こいつを一気に飲んで、があがあと寝られるのによ。)
 異様な見てくれは我慢して、とにかく、胃袋へとかっ込んだ。
「どお?」
 と目をきらきらと輝かせてこちらを見据えるあかね。
「ま、まあまあだな。一応食えるみてえだし…。」
 たははと乱馬が差し向ける。
「そうでしょう?自信作なんだ。見てくれは悪いけど、料理は味よね。」
 とにっこり微笑む。
「見てくれも美味しさの一部なんだけどな…。」
「なあに?」
「い、いや、別に。」
 ぐぐっと一気に、見てくれの悪い、何とか食べられるスープをかっ込む。
(ま、酒は諸刃の剣みてえな未知な部分もあっからなあ…。かえって理性かなぐり捨てるきっかけにもなることもありってか…。下手に酔っ払うより、しらふの方がいいのかもしれねえがな。)
 あかねの方も「二人」ということを意識してしまっているのだろう。もじもじと箸を動かしていた。いつもと違ってどこか距離を置いているようだ。
 それっきり二人は黙り込んでしまった。
 
 二人の向こう側では、太陽の残照が水平線に飲み込まれていく。辺りはすっかり暮れはじめ、闇が二人の上を覆い始めた。
 ざざざと生暖かい潮風が吹き抜けてゆく。
 不気味な雲が、孤島を包み始めた。
「一雨来るかもしれねえな。」
 乱馬はふっと空を見詰めた。ひずんだ潮風の中、微かに雨の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

 と、その時だった。

『陽は沈んだ。約束どおり、おまえの身体、貸して貰うぞ。』

「え?」
 
 あかねの耳元で、そんな声がこだました。さっき、社の中で聞いた女性の声だ。

 そう思った時だった。
 ドクンっと心臓が一回、己の中で戦慄いた。と、共に、熱い血潮が体中に溢れてくる。そんな錯覚に捕らわれる。
 それは一瞬の出来事だった。
(乱馬…。)
 あかねは箸を持ったまま、目の前の少年に己の危機を知らせようとした。だが、声も身体も一瞬、固まったようになり動かない。

『無駄だ。おまえは日が沈めば、朝まで私の傀儡。』

(か、身体が、う、動かない。こ、声も出ない…。)
 金縛りにあったようだった。

『何、悪いようにはせぬ。おまえ、あの男が好きなのであろう?私には手にとるようにわかるぞ。おまえの気持ちが。ふふふ、大丈夫。おまえの身体を使って奴の生気をほんの少し私に分けてもらうだけだ。あの御方を探すためにな。』

 闇があかねの意識を捕らえてしまった。そして、暗黒へと塗りこめてゆく。

(いや…。あたしは、あんたの言う通りには…なら、ない…。ら、乱馬…。)
 途切れてゆく意識。

 ごろりとあかねの箸が地面へと転がった。

「お、おい?どうした?あかね。」
 箸を取りこぼしたあかねに驚いて乱馬が思わず声を掛けた。

「いいえ、何でもないわ…。ちょっとめまいがしただけよ。」
 あかねの目が妖しく光った。だが、乱馬にはその輝きが見えなかった。
「めまい?ははあん、わかった、おめえ、自分の作った料理が不味すぎて、立ちくらんだんだろう。違うか?」
 といつものように悪態を吐いた。
「そんなんじゃ、ないわ。」
 あかねの目が心なしか熱を帯びたように乱馬を見返した。
「あん?どうしたんだ…?やっぱり、何か変なもんでも混じってたか?」
 乱馬はあかねを覗き込んだ。
「ううん…大丈夫。本当にちょっとくらっとめまいがしただけだから。いろいろあったから、疲れたのね、きっと。」
 と言ってあかねはへたり込んだ。

「おい。あかね?」
 乱馬は思わず傍へかけ寄った。
「乱馬…。」
 あかねは赤らんだ顔を向けてじっと瞳を見つめ返してくる。
「おい…どうした?あかねっ!」
 明かにあかねの様子は変だった。
「まさか、酒なんかを隠し味に仕込んで…おまえ。」
 慌てて周りを見渡したが、別に酒類の瓶や缶が転がっている訳でもなかった。 調味料だって「しょう油」「塩」「砂糖」「みりん」といった小瓶で、普通に使えば普通に料理が出来るものばかりしか見当たらない。

「ら・ん・ま……。」
 あかねは切なげな声で名前を呼ぶと澄んだ瞳を乱馬に向けた。乱馬はその瞳を見て、一瞬ドキッとした。
(かわいい…。)
 あろうことか、妙な色気を感じてしまったのだ。
 そう思ったとたん、あかねが乱馬の胸にしがみ付いてきた。
「乱馬…。あったかくていい気持ち。」
 耳を疑うような甘い囁きと共にもれた言葉。

「お、おいっ!冗談はやめろっ!あ、あかねっ!」
 乱馬は叫んだ。あかねに思いきりしがみつかれて、身体は後ろに投げ出された。
 カラン、コロン…。
 あかねが食べ残した食器から汁がこぼれた。



「なあ、天道くん、あの二人どうしただろうねえ…。」

 杯を交わしながら玄馬と早雲はしきりに離れ小島のほうを見やった。乱馬とあかねを残して来た島は、今いる猟師町から小さく霞んで見えた。迫り来る闇に、もう殆どその影は見えない。
 孤島には発電機などはないので、もう少し暮れなずむと、きっと波間に消えてしまうだろう。
 そろそろ夕闇が迫ってきている。

「なあに平気だよ、早乙女くん。上手くゆくさ。」
「でも、二人とも一筋縄じゃあいかないよ。」
「そうだろうかね?聞けば、本当にここ半年ほどの間には妖怪が出るというじゃないか。そっちの方は大丈夫だろうかね?」
「妖怪が、二人の距離を縮めてくれることだって、あり得るだろう?」
「じゃが、その妖怪、女にのり移って、男を求めるというそうではいか。天道くんは平気なのかね?そういう形で、乱馬とあかねくんが結ばれることになっても。」
 心配そうに玄馬が早雲を見た。
「嫌だなあ、早乙女君。今頃リタイアだなんて言わないだろうね。この島のことは君が調べてきたんだろ?駄目で元々、乱馬くんとあかねが深い仲になってくれれば、妖怪のせいだろうがなんだろうが、それで安泰だ。君だってそう言って計画したんじゃないか。」
「あ、いや、天道君が構わないっていうなら、別にいいんだ。」
「よしんば、妖怪が現れなくても、暗い孤島に二人っきり。絆はしっかり結ばれるというものだよ。乱馬くんとあかねが結ばれてくれれば、我らが無差別格闘流は一つになる。願ったりかなったりじゃないのかね。」
 こんな調子で運ばれてきた料理と酒に舌鼓を打つ。

 晩酌を重ねるうちに、二人ともほろ酔い加減になっていった。

「ひっく、でも、問題はあかねくんが乱馬を好いているかどうかに掛かってくると思うんだけど…。うっく…。」
「大丈夫、ひっく、あかねは乱馬くんを愛してるよ。ただ、素直になれないだけだよ、乱馬くんだってそうだろ・・・ういっく。」
「あかねくんが素直になったら乱馬も抵抗できないかもね…。…乱馬もあかねくんを好いてることは一目瞭然だからねえ。ひっく。」
「だーから、既成事実を作ってしまえば二人は目出度く結婚っ!天道家も早乙女家も無差別格闘流も、ぜーんぶ安泰っ!ささ、前祝に一杯、早乙女くん。」
 二人の親父たちはどこまでも脳天気だった。


四、

「あかね…。おい。おまえ。」
 乱馬は焦りながら、覆い被さってきた少女の身体を払い退けようとした。悪い冗談だと思ったのである。
「やっぱ、おまえ、何か悪いものでも食ったのか?」
 おそるおそる柔肌に触れる。
 もし、あかねが悪い物を食したのならば、己にも身体の変調が現れる筈だ。だが、一向に身体に変化は現れない。むしろ、あかねの異常に翻弄されるような動悸が心臓を駆け抜け始める。
(ま、まずいっ!このシチュエーションは、絶対まずいっ!)
 あかねは乱馬の上に収まったまま、微動だにしない。
 柔らかな彼女の髪の毛が、はらりと乱馬の頬に差し掛かる。
「乱馬の胸、広いんだ…。」
 呟くような声がすぐ傍で聞こえる。
(いっ!)
 女に対して、全く純情でうぶな乱馬は、それだけで、全真が硬直し始める。己でもわかった。ギシギシと関節中が固まっていく。そのきしむ音が、耳の奥でしたような気がする。
「こ、こらっ、あ、あかねっ!や、やめろっ!わ、悪い冗談は。」
 ほうほうの態でそれだけを言い置いた。
 冗談だと決め付けてかからねば、理性が吹っ飛ぶのではないかと思った。 ましてや、ここは無人島。二人きりしか居ない。

『なかなかこの男、純情すぎてガードが固い。とならば、精一杯、迫ってみよ。』

 意識の中で妖があかねに向かって囁いた。

 あかねはその声に従うように、乱馬を潤んだ目でじっと見据えた。
「冗談なんかじゃないわ。あたしは本気よ……。」
 そう言うと、あかねは乱馬の胸に顔を埋め、頬擦りするようにすがりついた。あかねの細い腕が乱馬の身体へと伸びてくる。
「いっ!」
 無下に抗うこともできず、乱馬はそのまま、固まってしまった。

(ど、どうしよう。と、とにかく、あかねを離さなきゃ!)

 ぎゅっと手を後ろに突っ張ると、乱馬は勢い良く、上体を起こした。

「たく…。いい加減にしろっ!おまえなあ、からかって喜んでるんじゃねーっ!」
 怒ったように口を尖らせた。精一杯の虚勢をあかねの前で張って見せる。

『この男、なかなか落ちぬか。ならば…。』


「誰が、可愛くねえおめえなんかっ!」
 ふっとあかねの口元が緩んだ。
「やっぱりばれた?ごめんね。乱馬。」
 そう言って舌をちょろっと出してみせる。
「おまいなあ…。」
 乱馬はわなわなと震えた。
(もうちょっとで理性ごと吹っ飛んじまうところだったじゃねーかっ!!)
 そう心で呟きながら、ぎゅうっと手を前で握って見せた。
「ちょっと試してみただけだようっ。ふふ。本気になりかけた?」
 と屈託無く笑顔を見せた。
(こ、こいつ!本当に可愛くねえっ!!)
 誘って見せたり、今度は引いて見せたり。明らかに乱馬は動揺し始めていた。
 こうやってあかね、もとい妖のペースにはまりこんでいったのだ。

 ぱちぱちと火が目の前を弾けた。
 乱馬はむすっと口を結んだまま、食事を続けた。
 あかねは何事もなかったように、ごく普通に座っている。
 薄い雲が張っているのだろう。星も月も見えない。辺りは遠い波音以外は何の音も聞こえてこない。
 夏の入り口とはいえ、夜風はどことなくひんやりとした冷気を孕んでいる。

 腹一杯になったら、後は寝るだけ。

 乱馬はそう決めていた。
 さっきのようなふざけた真似をされたらかなわないから、あかねからは離れて寝ようと思った。
 風呂も無い野宿。
(これも明日の朝、親父たちが来るまでの辛抱だ。)
 乱馬はふっと溜息を吐いた。

「ねえ、どこへ行くの?」
 あかねが乱馬に声を掛けた。
「あん?俺か?俺はこっちの木陰で休むよ。場所を作ろうかと思ってさ。」
 乱馬は食器を片付け始めたあかねに答えた。
「ねえ、こっちで一緒に寝ようよ…。」
 いたずらな瞳がまた彼を誘った。
「おまえなあ…。たく、俺を誘惑してるのか?色気ねえくせに。」
「そんなことあるわけ無いじゃん。見て、空が曇ってるでしょう?夜のうちに一雨あるかもしれないわよ。乱馬は濡れちゃってもいいの?」
 もっともな口調であかねは乱馬を見た。
「ん…。」
 今度は乱馬が考え込む番だった。
 確かに、微かだが、雨の匂いを含んだ風が吹いてくる。多分、夜半のうちに雨がしとしと降ってくるかもしれない。
「わかった…。社の中で寝よう。だが…。」
 乱馬は腕を組みながらじっとあかねを見据えた。
「寝る場所は別だぜっ!真っ暗だからって、俺の傍に寄って来るなよ。」
「何言ってるの。あたりまえでしょうっ!」
 あかねはころころと笑った。
「それとも、なに?乱馬は添い寝して欲しいとか?」
「ば、ばかあっ!んなわけねーだろっ!!」
 本当に今日はあかねの奴、どうかしていると思った。
「火の始末つけらあ。ま、ここは、俺たち以外には動物はいねえみたいだら、獣も来ることもねーだろうし…。後、蝋燭(ろうそく)持ってきてるから、それを灯りにしておけばいいだろうよ。」 
 乱馬は動揺を隠すように、無表情でそう言った。

『ふふふ…。それでいい。御鏡がある社の中へ引き込んでしまえば、全てはこちらの思う壺。警戒心を持たれないように、上手く立ち回るのだよ。』

 妖はあかねの心に囁きかけた。
「はい、その通りにします。」
 あかねの心は素直にそいつに反応した。もう、すっかり、妖の術にはまってしまったようだ。

 乱馬は焚き火を消した。
 その前に、持っていた大きな蝋燭へと火を点火したので、暗闇に惑うことはなかった。風に揺られて、蝋燭のか細い火はゆらゆらと揺れた。
 その灯りを頼りに、社の中へと入っていった。 
 ギシギシと鳴る板の間は、昼間のそれよりも、もっと不気味に感じた。穴だらけの壁板からは、隙間風が通ってゆく。どう見繕っても、あまり気持ちの良い場所ではなかった。
 幸い、中には、祭祀のために設けられたのだろう。錆びかけた燭台が立てかけてあった。そこに、持っていた蝋燭を注意深く立て付ける。蝋がたらりと燭台の皿に垂れ流れて来た。

「さてと、寝る場所を決めねえとな…。」
 乱馬はざっと辺りを見回した。彼は横に積んであったリュックを持ち出してきて、部屋の中央にドンっと据えた。
「このリュックからこっちは俺だ。おまえはあっち。で、頭はそれぞれ逆向きにするんだ。」
 乱馬はあかねに指示した。
「ねえ、何でわざわざ頭を逆向きにしなきゃいけないのよ…。」
「何でもいいっ!と、とにかくだ、このリュックからこっちは俺の陣地だからな。何か異変が起こった時以外はこっちへ入ってくんなよっ!わかったか。」
 怒ったように告げた。
「もう、そんなにガミガミ言わなくても良いじゃないの。わかったわよ。」
 あかねはさっさと自分の寝袋をリュックから出した。
「いいな、絶対にこっちへ入ってくるなよ。それから、懐中電灯を念のため、枕元へ置いとけよ。」
 そう言いながら乱馬は自分の寝床を据えた。そして、すっと立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「用足しだよっ!散々、おめえのわけわかんねえもの食わされたしな。腹の調子もイマイチなんだよっ!あ、付いて来るなよっ!」
「行くわけないでしょっ!」

 乱馬はそれだけを言い置くと、社から外へ出て行った。


『ふふ、この社に引き入れてしまえば、こちらのものだ。』
 妖が、あかねの身体からすうっと一瞬抜け出てきた。黒い煙のようなそれは、あかねの周りをうねるように取り巻いた。そして語りかけた。
『ぬかるなよ…。今夜中にあの男の身体から、生気を貰うのだぞ。おまえの身体を通してな。』
「はい…。」
『生気はあやつの身体を迸って流れ込む。あやつも私の術へとはめてやる。おまえのとりこになったとき、おまえはその器となって、奴の生気を吸い上げるのだ。何、心配は要らぬ。…死にはせぬ。暫く廃人のようになるだけで、おまえもあいつも次の大潮が来る頃には立ち直る。私は欲しいのだ。若い男の生気が。あの御方を見つけるまでは、藻屑となるわけにはいかぬ。』
「はい…。仰せのままに。」
『良い子じゃ。』
 すうっと妖はあかねの奥へと再び消えた。


「たく、あかねの奴。どうかしてるぜ。……からかいやがって!」
 乱馬は用を足しながらぶつくさと文句を垂れていた。
 まだ、さっきの余韻が身体に残っている。ふわっと覆い被さってきた彼女は柔らかかった。その肌触りを手が覚えているのだ。何も今日初めて彼女に触れたわけではないが、あそこまで柔らかさを感じたのは初めてかもしれなかった。
「いや、どうかしているのは俺も同じかもしれねえ。」
 乱馬はふっと言葉を吐き出した。
「あーあ、俺も修行が足りねえや。親父たちの計略にまんまとはまっちまいかけるとはよーっ!」
 無性に腹立たしく、情けが無かった。

 暫く、外で頭と体温を冷やした後、乱馬は社へと戻った。
 出てくる時は灯っていた蝋燭は消えてしまっていた。
「あかねの奴…。寝たかな。」
 ほっとするような寂しいような。複雑な気持ちだった。
「俺も寝るかな…。」
 そっと開き戸を開けて中へ足を入れた。ギギギっときしむ床の音。抜き足差し足で己の寝袋のある方へ進む。灯りはない。辺りは真っ暗。
 曇ってしまって月明かりもない。
 感覚を研ぎ澄ませて、息を潜めながら進んでゆく。

(何か、泥棒か夜這いでもかけてるみてえだな…。)
 そう自嘲したくなったほどである。
 手探り足探りで進んで、やっと己の寝床へと辿りつく。
(これで安穏と寝られるや。一気に朝まで寝ちまえっ!)
 そう思って、寝袋へと手を伸ばした。身を横たえようと身体を滑らせる。
「ん?」
 違和感が身体を走り抜ける。
 柔らかい物が身体に当たった。

「ま、まさか。」

 焦った彼は、思わず、手にあたった柔らかい物を手繰り寄せる。もぞもぞっとその塊は動いた。

「お、おいっ!おめえ…。」
 開いた口がそのまま固まった。慌てて、枕元に置いていた懐中電灯に手を伸ばす。
 予想違わず。そこに潜り込んでいたのは、あかねだった。
「こ、こらっ!人の陣地に入ってくるなって言っただろうがっ!」
 乱馬は動揺を隠すように怒鳴った。顔はこわばっているようで心なしか口元がひくついている。。
「だって…。暗闇の中に一人っきりで眠るなんて…。怖いんだもん。」
 語尾小さく、あかねが畳み掛けてくる。
「おまえなあ…。怖がるなんて玉じゃねーだろうが!」
 だが、乱馬の言葉など聞こえていないようにあかねは続けた。
「あたし、こんな心細い場所で一人じゃ不安なんだもん。」
 言葉ばかりではない。積極的に身体を摺り寄せてくる。
 これには乱馬も焦った。
「こ、こらっ!おめえ、さっきから何なんだよ!人をからかうのもいい加減に……。」
「からかってなんか居ないわ。あたしは真剣よっ!本当に怖いんだもん。」

 がさがさっと音がして、何かがバタバタと飛来した。どうやら灯りに誘われて出てきた蛾のようだ。
「いやんっ!」
 これ見よがしにあかねは勢い良く、乱馬の胸元へ飛び込んだ。その反動でどっと後ろに弾かれ、あかねを抱えるような形で仰向けに転がった。
 ドッドッドッド。
 心臓は破裂せんばかりに唸り始め、体中の血が一気に顔に上りつめる。
 ぎしっ。
 乱馬の体中が硬直した。あかねの背中の数センチ上で右手は止まったまま固まった。

(このまま抱きしめてしまいてえ。でも、そんなことをすれば理性が吹き飛んじまう。)

 それは乱馬の理性と本能のギリギリの攻防戦であった。

『もう一押しだ。もう少し思わせぶりな態度をしめしておやり。』
 あかねの中の妖も、この間合いを楽しんでいるようだ。

「お願い、あたしをここに、乱馬の傍に居させて。」
 乱馬の心を見透かしたように、あかねは口元に軽く左手を添え、熱っぽい目で彼を見上げた。
「馬鹿っ!これ以上誘惑したら、俺は何をすっかわからねーぞっ!」
 乾いた唇がやっとの思いで言葉を継ぐ。
「別にかまわないわっ!!」
 耳を疑うようなあかねの返答。
「お、おまえなあ。この状況がどういうことか、わかってて言ってんのか?」
「あたしも十七よ。そのくらい、わかってるわ。」
 あかねの目が悩ましげに乱馬を見詰めた。
「だって…。あたしたち、許婚じゃない。何はばかることはないわ。」
「はばかることねーっつったって…。」
「それとも、乱馬はあたしが嫌いなの?」
 すがるような瞳が差し向けられる。ごくんと喉が鳴った。
「バカッ!嫌いなわけねーだろっ!」
 完全にあかねの瞳の虜になってゆく、無力な自分を感じていた。彼の敗因は、あかねに惚れてしまっていることにあっただろう。
「好きだから、俺は…。おまえを汚したくねーんだ。」
 本音だった。
「好きなもの同士、愛し合って身体を求め合うのは、汚れたことなの?」
「そ、それは…。」
 違うとは言い切れなかった。
「乱馬…。」
 彼の名を呼ぶと、あかねは、再びその胸に顔を埋めた。
「あかね…。」
 ゆっくりと乱馬は、躊躇っていた腕を彼女の身体に下ろしていった。それから、あかねを柔らかく包み込むと、静かに目を閉じた。

 いっそ、このまま二人、深い川を渡りきってしまおうか。

 いつの間にか振り出したのだろう。
 バラバラと雨の音が滴り始めた。ざあざあと音をたてて降り始めるまでに、そんなに時間はかからなかった。

 じわじわと魔の手が乱馬に伸びる。あかねの影が、妖しげに揺らめいた。ゆっくりと影が、乱馬の身体の下へと動き始める。
 静かにあかねを抱きながら横たわる彼の身体を、妖しの影は浸透していった。

『乱馬…。』
 
 闇の声が沸きあがる。

「あかね…。」
 乱馬は恍惚な表情をあかねに手向けた。

『あたしを見て…。あたしの瞳を…。』
 魔物の音無き声を耳に、乱馬はゆっくりと目を開いた。目の前に浮かぶのは、あかねの暗黒色の瞳。その瞳に吸い上げられるように、乱馬の意識は遠のいていった。

『やっと落ちたか…。ならば、そろそろ、わらわの意識と交代するのだ…。あかね。』

 その呼び声と共に、あかねの瞳から光が消えた。
 獲物を捕らえた妖が、あかねの身体を借りて、ふっと微笑んだ。

『極上の男。汚れ無き少年の生気。ふふ、さぞかし美味かろう。』
 あかねの手を借りて、つうっとなぞる指先。
 びくんと彼の身体が反応する。
 心をつかまれた乱馬は、うつろげな瞳を虚空へとなげかけていた。もはや、その瞳に光は無く。だが、あかねの身体を両腕にしっかりと抱きしめていた。



つづく



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