◇SOLITARY   前編



一、

「気が進まねえなあ…。」
 ぶすっとした表情で乱馬は海面を見詰めていた。
 逆立つ白波はモーターボートのエンジン音と共に揺れ動く。
「何を弱気なっ!我が無差別格闘流の将来を受けて立つ跡目のおまえがそんな風でどうするのだ?日々是修行。お招きいただいた人々に誠真誠意を尽くして妖怪を退治するのは当然のことじゃろうがっ!」
 玄馬の喝が波間にこだました。
「じゃあ、聞かせてもらうけど、オジさんはともかく、なんであかねまで連れて来るんだよ…。」
 乱馬はちらっと後ろを見ながら口を尖らせた。
「何よ・・・私が居たらどうだって言うのよ…。」
 あかねも乱馬の物言いが邪見に聞こえたらしく、ムッとして言い返す。
「あかねくんはいずれおまえの伴侶として、無差別格闘流を共に盛り上げる許婚じゃろ。たまには同じ土俵で妖怪退治をしてみるのものじゃろう。」
 玄馬は息子を諭すように言い含める。
「ちぇっ!そっちが勝手に決めた許婚だろっ。俺は今でも承服してねえっつうの…。第一なあ、女が居て妖怪を退治できるのかようっ!!」
 にべもなく悪たれる。
「許婚に関しては、あたしだって迷惑なんだからね…。あんたみたいな変態の相手だって。」
 あかねが後ろから乗り出してきて同じように言い放つ。
「へん、おめえみたいな不器用寸胴女、妖怪退治の妨げになるだけじゃねえかあ?」
「なんですってえっ!?」
「まあまあまあ…二人とも、喧嘩は止しなさい。ほら、言ってる間も無く、島へ着くぞ。」
 あかねの父、早雲は二人をとりなしながら、目の前の島の入り江を指差した。

 夏休みに入って間もない頃、玄馬とその息子乱馬、早雲とその娘あかねの四人は、陸地から少し離れたこの小島に招かれ、妖怪退治にやって来たのだった。
 依頼主は後ろの海岸線上の小さな町の神社。どこで天道道場の情報を見つけたのか、妖怪の退治を依頼してきたのである。
 修行にはもってこいの機会だからと、二つ返事で引き受けた、道場主の天道早雲は、居候していた早乙女玄馬と共に、半ば強制的に、彼らの子供たち、乱馬とあかねを引っ張って、この地にやってきたのである。
 四人を乗せたポンポン船は島の桟橋に横付けされた。木を渡しただけの粗末な船着場。
 早雲は船を操縦してきた船頭に軽く目配せすると
「さあさあ、降りた降りた。島についたぞ。」 
 と真っ先に揺れるボートから離れた。
「桟橋以外には何もねえじゃねえか。無人島か?」
 乱馬はまだ拗ねた気概を吐きながらぶっきらぼうに言い放った。
「この先に朽ち果てた御社(みやしろ)があります。」
 彼らをここまで導いてきた神主がそう言った。
「そちらへ行って見ますかのう…。」
 案内役の神主は先に立って歩き始めた。
「行くぞ、乱馬。」
「おう。」
 早乙女親子がそれに続く。
「ほら、あかねもついて行きなさい。」
 早雲が娘を促がす。
「お父さんは?」
 一緒に歩き出そうとしない父親を訝しがってあかねが問い掛ける。
「ワシは、まだ、船頭さんと帰りのことなど、打ち合わせがあるからなあ。…後で行くから先に行ってなさい。」
 そう言って早雲は娘を先に押し出した。
「わかったわ、じゃあ、早乙女のおじさまたちと先に行ってるわね。」
 あかねは荷物を背負うと、先に行った早乙女親子の後を追った。
 
「へえ…。全く人が入らねえ訳じゃねーのか。」 
 乱馬は辺りを見まわしながら答えた。周囲が一キロほどの小さな島のようだったが、時々、人が来るらしく、あちこちでゴミの残骸や火をおこした跡が伺えた。陸地からも左程離れていない小さな楽園といった具合だった。
 だが、その砂浜を通り過ぎると、小さな瓦葺の赤い建物が見えた。
「あれが、妖怪が出るっていう御社か?」
 乱馬は手を翳してそちらを見やった。
「そうです。あそこに妖(あやかし)が現れるのです。」
 神主が指差した。
「で、どんな種類の化け物なんだ?その妖って奴は。海坊主か?たこ坊主か?」
 乱馬はあまり口を開かない玄馬の代わりに、いろいろと根掘り葉掘り神主に聞いた。
「何でも、美しい姫君ということでございます。」
「あん?」
「対岸のあの岬の断崖には、古い言い伝えがありましてな…。」
 神主は、離れて来た遥か向こう側の陸地を指差した。
「昔、あの辺りを支配していました戦国武将の何某の若君が、戦禍敗れてあそこでご自害したと言わております。武将はご遺体を残すのを潔しとされず、腹を掻ききったそのまま、断崖から身を投じたのでございます。その武将を求めて、添い遂げられなかった許婚の姫君も、また、同じ場所から身を投げたと言われております。その後、姫君の御遺体がここへ流れ着いて、気の毒に思った漁師たちがお墓を作ってお祀り申し上げたというようなことでして。」
「へえ、ちょっとした御伽噺の世界じゃないの。」
 あかねが口を挟んだ。
「と、とんでもない。この世に未練や怨念を持ってしまう霊魂ほど恐ろしいものはございません。若君といまだ会えぬ姫君の御霊が毎年、若武者が自害された岬に現れては、この辺りの船を沈めると伝えられておりまして…。その霊魂を沈めるために、漁師たちは遺体が流れ着いたこの小島に御社を作ったと伝えられております。」
「ほお、若姫の怨霊とな。いわゆる、御霊信仰(ごりょうしんこう)みたいなものですかな。」
 玄馬がほつりと尋ねた。
「御霊信仰?」
 乱馬が問い返すと
「おおよ。この世に未練を残した強い霊は、時として禍をもたらすと恐れられるんじゃよ。それをきちんと祀ってやって、怨霊を沈めれば、逆に、幸福をもたらしてくれる。そう信じてお祀りするんじゃよ。ほれ、天神様なんかがその典型だな。」
「天神様?」
「乱馬、知らないの?菅原道真公のことよ。あまりにも彼の才能が素晴らしかったものだから、妬まれて、あらぬ疑いをかけられて、都から大宰府に左遷されたって。日本史の授業で習ったことあるでしょう。」
「そだっけ…。」
「たく、日本史っちゃあ、寝てるから一般常識も知らないのよね。その後、道真は大宰府で都を思いながら客死して、死後、御霊となって彼を陥れた人々に禍をもたらしたり、都に疫病を流行らせたりして…。恐れた人々が彼を「天神様」としてお祀りしたのが、天神信仰の原点なのよ。今では学問の神様として有名だけどね。」
「ふーん…。祟り地蔵みてえなものかよ。」
「ちょっと違うと思いますが…。」
 神主は苦笑しながら言った。
「まーた、あんたったら。教養がないことが、もろばれよね。たく、恥ずかしいわ。」
「あんだとお?」
 ここで玄馬が割り込んできた。二人が喧嘩モードに入るのを牽制しにかかったのだ。
「まあまあ、二人とも気を鎮めて。それで、神主さま、この平成の御世に本当に妖怪など出てくるのかね?」
 と話題を変えた。
「実は、半年ほど前の地震で、この辺りの建物が若干やられたときに、あの御社も壊れたのです。潮風に長年さらされて、くたびれておりましたのでなあ。こんな離れ小島にある上に不況が長引いたものですから、暫くの間、御社は修復されずにそのままうちやられておりました。そうしたらば、ここ最近、決まって大潮になると海が荒れ始めました。慌てて、御社を修理して、ああやって再び祀って居るのですが…。」
「あまり効果がない…と。」
 こくんと神主の頭が揺れた。
「御社が壊れて以来、大潮になると、あの御社に姫の霊魂が現れて、祟りをなすと、地元の者も恐れおののいております。海の荒くれ男たちの何人かが、大潮になると、妖怪退治と銘打って出かけましたが…。」
「どうなったんだ?」
 乱馬は身を乗り出した。
「命まで取られるというわけではないのですが、皆、一様に気を抜かれて、抜け殻のようになってこの島をさまよって発見されるのです。中には運悪く、大潮に飲まれ海へ投げ出されて命を落としたものも居ります。」
 神主は口を濁した。あまり、おおっぴらに話題にしたいうないという素振りが見て取れた。
「助かった漁師の話によりますと、何でも姫の霊が降りてきて、「若君はどこじゃ。」とそればかりを繰り返すのだそうで…。」
「で、我々に依頼とは。」
「その妖怪の存在を確かめて、退治して欲しいのです。」

「どうじゃ?乱馬よ。この依頼、受けるか?」
 玄馬が息子を省みた。
「へんっ!受けるからこそ、こうやってわざわざ東京から出かけてきたんだろう?」
「それもそうじゃな。…あかねくんはどうする?」
「あたしだって武道家の端くれです。勿論、受けさせていただきます。」
 ふんっと鼻息を鳴らして返事した。
「おまえは帰った方がいいんじゃねーか?お嬢様武道でどこまで持つやら。」
「何ですってえ?あんたこそ、尻尾巻いて逃げ出すんじゃないわよっ!」
 とやり返す。

「では、そういうことでお願いします。今晩は大潮。満潮になったら、この辺りまで波が押し寄せます。明日の朝一番、お迎えに参りますので、どうか、よろしくお願いいたします。」
 神主はぺこんと頭を下げると、三人を置いて、来た道を辿って帰っていった。

「お父さん。遅いわね。何やってるのかしら。」
 あかねはまだ来ない、父、早雲を待ちながら、神主を見送った。

「さて、今夜はあの社で寝泊りじゃからな。」
 玄馬が早速促した。
「おう!暗くならねえうちに、食料だとか水だとかを調達しねえとな。」
「まずは荷物をあの上に持って上がれ。」

 玄馬の指図で、乱馬とあかねは動き出した。
 
 前には急な崩れかけの階段が開けていて、社の方まで一本道で続いていた。辺りには松林と草むらが鬱蒼と茂っている。もう、何日も人が通っていないという風体だった。
「おい、足元ちゃんと見て歩けよっ!」
 乱馬は後ろを振り返りながら言った。足元危なかしく石段を上がって来るあかねが目に入る。
 
(たく、ちゃんと歩かねえと、転んじまうぞ、あ、ほらそこ、石段が朽ちてるぜ…。)

 口先とは裏腹に心の中ではこの「かわいくねえ許婚」を心配そうに目先で追い掛けていた。気になるのだったら、後ろに背負った荷物くらい少し持ち分けてやってもよさそうなものだが、玄馬の手前、そうするのも気が引けて、ただ、見守るだけの不器用な少年だった。
 階段を上りきったところは、少しだけ平らになっていて、断崖の上に粗末な社がポツンとそそり立っていた。
「ホントにオンボロな社なんだな。」
 屋根も傾き、木がささくれだってむきしになっている。柱も朱色が剥げたあばら家だった。雨風を防げれば良いといった感じだ。
 賽銭箱も、ガラガラも、全てがやつれ切っていて、人気のなさがどことなく不気味さをかもしだしている。
 だが、さっき神主が言っていた通り、応急措置だけはとられたようで、所々、朽ちかけた建物に、目新しい板木などが渡して打ち付けられていた。

(…俺は慣れてっからいいけど・・・あかねの奴、こんな所で夜を過ごせるのか?)
 とうてい、若い女の子が泊まれるような代物ではなかった。その上、眉唾物だとはいえ、表向きは「妖怪退治」だ。すぐさまでも追い返したい心境に駆られた。だが、この、気の強い少女は、一度言い切った以上、最後まで帰るとは言うまい。案の定、顔は一瞬こわばったようだが、乱馬と視線がかち合うと、勝気なそぶりでツンと目を外してしまった。
「ほれ、荷物かせよ。」
 汗を吹きながら息を切らしているあかねに向かって乱馬は乱雑に言い放った。あかねの荷物下ろしを手伝いながら、乱馬は軽くあかねを見やった。あかねは黙ってハンカチで汗をふいていた。

 社の中に入ると、床も朽ちかけていた。ぎしぎしと音をたてて、訪問者を招き入れる。中央にはご神体だろうか。小さな鏡が祀ってあった。

「大丈夫か?おめえ、こんなところで俺たちと寝起きできるのか?」
 乱馬はあかねに声をかけた。
「平気よ。テントの中だってあんまり変わりがないじゃない…土の感覚がないだけましよ。それに一晩だけでしょ?お父さんたちも一緒だし。」
 あかねは素っ気無く答えた。もし、これが普通の娘なら、嫌がってすぐにでも逃げ出すところに違いない。あかねの場合、やはり武道家としての心構えがある分、突き付けられた現実にはさばけて物事を考えられるようにできているのだろう。
「ネを上げたって俺は知らねえからな…。」
 乱馬は荷物を投げ出すと、さっさと外へと出て行ってしまった。
 あかねはどんと椅子の上に腰を下ろして、溜息を付きつつ、しばし放心した。慣れているとはいっても女の子。ロマンの欠片もない不気味な社の中。波の音に耳を傾けていた。

 外へ出ると、玄馬がそわそわしていた。
「何やってんだ?親父よう。」
 乱馬は見咎めて声をかけた。
「おおっ、乱馬か。ワシはちょっと天道くんの様子を見てくるよ。少し遅いんで心配でな…。」
「それなら俺が行って来るよ。親父は休憩してな。」
 そう言い掛けて歩き出そうとした乱馬をぐいと玄馬が押し戻した。
「い、いいんじゃよ…ちょっと、周りの様子も探索したいから、ワシが行って来る。食料の調達のこともあるし…おまえは、ここであかねくんと待っていなさい。すぐに戻ってくるからなあ。」
 玄馬はそういい置くと、そそくさとその場を立ち去って行った。
「変な親父…。いつもはおまえ見て来いってあごでこき使うくせに。」
 乱馬は階段を下りてゆく父の後姿を目で追いながら、ひとつ溜息を付いた。 
 本格的な夏の到来したとはいえ、明けたての梅雨。日差しは強いが、湿気も多い天候。
 肌からはじめっと不快な汗が滲み出してくる。

 それっきり、玄馬は戻って来なかった。

 二人が、父親たちにはめられたと気付くまでそう時間はかからなかった。


二、

「上手くいったね、早乙女くん。」
「上手くいったね、天道くん。」
 玄馬と早雲は船上で手を取り合った。
「ホントにいいんですかね…明日まで迎えを出さなくて。」
 ボートを操る船頭が声をかけてきた。
「構いませんよ。」
 二人は頷きながら、島を振り返る。
「この間から、あの島には…。」
「ホントにどうなっても私は知りませんよ。」
 船頭と神主は念を押すように言った。
「なあに、ああ見えても、ワシの息子の乱馬は武道に長けていますからなあ…天道くんの娘さんもそん所そこらの男よりも腕っ節はいいですから。妖怪だって二人でかかれば怖くはあるまい。わっは、わはわは。」
 からからと玄馬が高笑い。
「そうだね…二人、協力してなんとか凌ぐはずだ。」
「呑気だねえ……お二人とも。妖怪が現れなくても、それぞれのお子さんたちが間違っちゃうってこともあり得るでしょうに…いいんですかい?そっちの方は……。」
「いいの、いいの。間違い多いに結構。」
「そうそう、それが目的の一つだったりして。」
 早雲と玄馬はニコニコ笑った。
「はあ?」
 神主と船頭は顔を見合わせた。
「あの二人はこちらが公認している「許婚同志」。間違いがあっても構わない仲なんじゃ。」
 玄馬が上機嫌で言い放った。
「ああ、そういうことですかい。」
 船頭も神主も納得した表情を浮かべた。
「間違い。・・・むしろそれが狙いだったりして。これで我が天道家も無差別格闘流も安泰ってところですか。あはははは。」
「わしらは明日まで、陸地で休養といきましょうかね、天道くん。」
「そうだね、早乙女くん。果報は寝て待てってね。」
「いやあ、わしらの場合は飲んで待てじゃよ。うわはははは。」
 二人の無責任な親達はそう言って笑い合った。

 
 その頃。
 一向に戻ってくる気配がない、玄馬に業を煮やして乱馬は船着場に戻ってみることにした。後から来ることになっている、あかねの父、早雲も来る気配がない。
 あかねは社に入ったきり、音を立てない。さっき覗いてみたら、疲れたのか、うつうつとまどろんでいるようだった。そのままあかねを置いて、船着場に足を急がせた。
 
(何やってんだ?親父たち。)
 そう呟きながら乱馬は草道を駆けた。
 戻ってみると、船の形はどこにも無かった。そればかりで無く、親父たちの影も見えなかったのである。

(畜生っ、やられたっ!)

 乱馬は反射的にそう思った。あかねを連れて行くと言い出した親父たち。乱馬が頑なに異論を唱えても、「いいからいいから。」と取り合わなかった。それに、さっきの親父の態度。
 最初から乱馬とあかねを二人きりにして取り残すために仕組んだ「妖怪退治」かもしれない。
 そう思ったとき、船着場に落ちていた手看板が目に入った。親父がパンダに変身しているときに使っている例の会話用ツールだ。
『息子へ 明日まで健闘を祈るよ〜ん…あかねくんと仲良く妖怪退治してくれ!父。』
 そこには玄馬の筆跡でそう書き込まれてあった。

「畜生っ!あのクソったれ親父があっ!!」
 バキバキと看板を手折りながら乱馬は地団太を踏んだが、どうすることもできなかった。

「じ、冗談じゃあねえぞ…こんな離れ小島にあかねと二人きりかぁ?」
 
 社の方へきびすを返しながら、乱馬は考え込んだ。
 これが自分一人なら、問題はない。一人なら置き去られても、陸地が見えるくらいだから、泳げばなんとか岸まで辿れるだろう。現に中国まで泳いだことがある。 
 が、あかねと一緒となるとそうはいかない。あかねは筋金入りのカナヅチだ。泳げない。その泳げない者を負ぶって行くほど危なっかしいことはない。下手をすれば二人とも海の藻屑又は土左衛門だ。
 親父たちは最初から、二人を一緒に留め置くために、こんな「離れ小島」を選んだに違いない。妖怪退治というのも、こうなってくると疑わしい。
 看板に「明日」とあった以上、夜が明け切るまで迎えは来ないと考えた方が良いだろう。夜露を凌ぐ場所はあの社だけ。
 乱馬は途方に暮れていた。

「たく…親父たちめ、姑息な手を使いやがって。俺は、絶対に親父たちの手にははまらねえからなっ!」

 とは思うものの、当のあかねを目の前にすると、様子はまた違ってくる。


 帰ってみると、あかねはもう起き上がっていて、外でなにやらごそごそと始めていた。
「遅かったのね、お父さんたちは?」 
 イヤな予感どおり、あかねは「夕飯」を作っているようだった。既に、辺り一面、異様な匂いが立ち込め始めている。
 乱馬は怪訝な顔をして言った。
「やられたよ…親父たち、ここを俺たちに任せてトンズラしやがったっ!」
 それだけを短く伝えた。
「ふうん。」
 あかねは無関心にそう言うと、ことことと作業を進めている。
「おまえ、鈍いな。」
 乱馬はポツンと言った。」
「何がよ。」
 いきなり鈍いと言われてあかねはむっとした表情を返した。
「だから、今晩、おまえと二人きりで過ごすことになるんだぜ。」
 乱馬はぷいっと横を見ながら言った。
「二人っていったって、別に。あんたとあたしじゃあ、どうってことないでしょ?それに、妖怪退治が目的なんだし。いざとなれば、一晩中起きていればいいことでしょう。それともなあに、乱馬には何か不都合でもあるの?」
 あかねはいともあっさりと答えた。
 言われてみればそうだ。変に意識さえしなければ、今までどおり、何事もなく一晩くらいは過ごせるだろう。

(俺って何か期待してるのか…?)
 乱馬はあかねの言い方に改めて立ちかえって考えてみた。
 あかねを意識した時点で、親父たちの術中にはまったことになる。そうだ、ここは妖怪退治に来たのだ。そう思うと、慌てることはなかろう。

「ああ、そうだな。おめえとじゃあ、何も起こるわけねえしなっ!色気もねえしっ!寸胴だしっ!」
 わざと声を大きく言い切ってその場を取り繕う。
 
(とにかく、俺は…親父たちのこれ見よがしの御膳立てだけには乗ってやるもんかっ!)
 
 あかねも実は乱馬の言葉に本心ではビクッとしていた。しない方がおかしいと言うものだ。
 乱馬とこんなところで一晩も、過ごさねばならないらしい事態が起こったのである。それも良くわからない「妖怪退治」付きだ。
 実は内心、頭はパニくりかけていたが、微塵だに出さずに平然を装った。
 どう冷静に考えてみても、力では乱馬に到底叶う筈もない。乱馬がその気になれば、抵抗などしたところで無駄だと薄っすらと感じている。となれば、動揺を見せるわけにはいかない。彼の性格を逆手にとって、間違っても「その気」にならないように牽制をかけるのが一番だと思ったのである。
 自然のなりゆきならば、或いは乱馬が求めてくれば、応じてしまうかもしれないが、これは父親たちの姦計である公算が高い。いや、多分、父親たちの謀(はかりごと)なのだろう。
 あかねも乱馬同様、父親たちの術にはまるのはゴメンだと思っていた。父親たちが二人の間にいらぬお節介を焼くとかえって「反発」してみたくなる。

(一晩くらいだったら平気よ!あかね。大丈夫っ!乱馬だって、そんな事を望んでない筈だから。)
 そう心に言い聞かせていた。
 
 

 乱馬の憂鬱は、あかねの作る食事ができあがってゆくに連れて膨れ上がってきた。
(こいつの料理、食わなきゃならんのか?おい。)
 目の前のごった煮を見詰めながら、苦笑いが込み上げてくる。そう、あかねの味音痴、料理音痴は国宝級に値する。目の前を煮えたぎる鍋にも、おどろおどろしい異様さが感じられるのだった。食欲も減退しそうな、独特の香り。
「さあ、できたと思うわ。お父さんたちの分まで作っちゃったから、たくさんあるのよ。召しあがれ。」
 あかねはいやにご機嫌だった。もしかして、こいつは、この料理を食らわせて、朝まで俺を寝かしこもうという魂胆なのだろうか。ふとそんな考えまで過ぎってしまうのだ。それほど、目の前の料理は匂いも視覚も強烈だった。
「お、おれ…いいよ、後で食う。今腹へってねえんだ。さ、先おめえ食ってみろ。」
 乱馬は生唾を飲み込みながら答えた。たとえあかねが自分の身の保全を願ってこの料理を作ったにしろ、やっぱり食べたくないものは食べたくない。
「でも。」
 あかねを制して
「日が完全に暮れてしまうまでに、俺、夜の薪用に枯れ木を拾ってくるよ。そしたら腹も減るだろうし…ちょっと待ってろっ!」
 そう言ってその場は逃れた。

 
(たくう、冗談じゃあねえぞ。あの異様な匂いの料理。あんなもん食わされたら命が一晩ももたねえぞ。)
 乱馬は辺りを見回して考え込んだ。
 幸いここは海の端だ。もぐれば魚くらい捕獲できそうだ。
 適当な木の枝を折ると、乱馬はそのまま海へと入った。もちろん女に変身を遂げる。器用に彼は魚をモリがわりにした小枝に刺して捕まえてゆく。
(こんくらい取っとけばいいかな。どうせ、あいつの料理なんて食えねえだろうから。)
 何匹か魚を捕獲し、海面へあがろうとしたその時、水の中で何かが光ったような気がした。
(何だ?)
 息がずっと続くわけではないので、一度海面に上がって、大きく息を吸い込み、再び水面下へと潜ってみた。さっき、何か光った辺りを丁寧に目を凝らしながら探ってみる。砂地にまみれた海底に、それは突き立てられるようにそこにあった。
(刀?)
 乱馬は誘われるように、棒状のそれをぐいっと引き上げてみた。ごわごわと砂が舞い上がる。彼はそれを持ったまま、海面へと上がっていった。

 海面から水を滴らせて上がってみると、手にしていたのは、やっぱり「刀」であった。長い間海水にさらされて、すっかりぼろぼろに欠けていたが、それでも、何とか原型を保っているように見えた。
「古いもんだな。戦国時代とか、そんくれえの奴か?」
 もう刀としての用はたちそうに無いが、手にしたそれは、ずっしりと重かった。
「こんな物、持ってても役にはたちそうにねえか。」
 彼は海岸から少し上がった岩場にそれをそっと置いた。刀といえば、武士の云わば魂がこもっていると昔から言われている。よもやゾンザイには扱えない。その辺りは、武道家の端くれとして、彼も理解していたつもりだ。持ち主のわからない武士の刀。
「手厚く葬るってまではいかねえが、ここで拾ったのも何かの縁だ。ここなら、水も上がっては来ねーだろ。ま、供える物もこんくらいしかねーけどよ。」
 乱馬は今しがた獲ったばかりの魚を一匹、その刀の前にポンと置いた。まだ生きている魚はぴちぴちと跳ねている。
「誰のもんかわかんねーが、ここで土に返るといいや。水の底よりはいいだろう。」
 乱馬はそう言うと、一度だけ合掌してみせた。
「さて、そろそろ夕闇も迫ってくるし…。いくら無人島だからって、長い間あかねを一人でほっぽっておくわけにもいかねえしな。ある程度は覚悟決めて、あかねの料理に対峙しねえと…。」
 ある意味、あかねの手料理は格闘勝負よりも厄介かもしれなかった。どんな強い格闘家でも、彼女の料理の前には沈んでしまうだろう。
「胃薬、持って来てたっけ…。」
 乱馬は獲物の魚を木のモリいっぱいに刺したのを持ちながら、ゆっくりとあかねの待つ社の方へ向かって歩き始めた。

「たく、意気地がないんだからっ。何よ、人が一所懸命作ってあげたというのに、一口も食べないで、とっとと退散するなんて。」
 恨みつらみの一つも言いたくなってくる。
 己が不器用なのは百も承知だった。どんなに懸命に料理しても、味音痴は治らない。それでも、丹精だけは込めて作ったつもりだ。それを、一口も口にせず、逃げた乱馬への文句が口を吐いて流れ始める。
 持って来たあり合わせの材料で作ったスープ。どろっとした嫌な色はしてはいるが、味見してみたら、何とか食べられたと思う。
 大方、彼のことだ。海にでも潜って、魚介を取って一人で食べているに違いない。
「いいわよ、あんたにその気はないなら。あたし一人で食べてやるんだから。」
 持って来た固形燃料は火がとろくなり始めていた。この料理を作って煮込んだところで、燃料切れだ。後は乱馬がとりにいった木で焚き火をおこし、夜を明かせば良いだろう。
 あかねが夕焼けの空の下でぶうたれて食事を始めようとしたころ、ひょっこりと乱馬が帰って来た。
 どうやら、あかねが思ったとおりだったようで、身体はぐっしょりと海水で濡れ女に変身していた。

「ほらよっ!」
 そう言って傍に投げ出したのは海で潜って獲った魚。
「何よ、これ。」
「何って今晩の蛋白源だよ。木に刺して塩焼きにでもすれば食えるだろうよ。」
 と素っ気無い。
「ちゃんと、おめえの分も獲って来てやったからな。俺は、火をくべる用意をしてやる。」
 そう言うと、持って来た新聞紙を広げ出した。周りから少し集めた木と石で炉を作ると、まだちろちろと燃えていた固形燃料の残り火へ新聞紙を突っ込んで種火を取る。そして、手筒で息を吹きつけながら、器用に木へと火を点けた。
 さすがにこうした野営には慣れているらしく、乱馬は上手に焚き火を作った。まだ生木を使ったせいで、もうもうと煙がくべた木から湧き上がる。 こほっ、こほっ、と咳をいくつかしながらも、火は暫くすると、バチバチと勢い良く燃え始める。

「おい、ぼさっとしてねーで、リュックから、かすみさんが持たせてくれた握り飯取って来いよ。それから、紙皿と箸もあれば持って来いっ!」
「え、あ、わかったわ。」
 乱馬の慣れた手元を、珍しげに眺めていたあかねは、そう促されると、社の中へと入っていった。
「さて、やかんに湯も沸かさねえとな。いつまでも女の形なんて、みっともねえし…。妖怪が現れたら厄介だからな。」
 乱馬は傍らにあった携帯用のやかんにペットボトルの水を入れると、魚と一緒に火をくべた。

 あかねは社の中に入ると、目を凝らしてリュックを探した。
 そろそろ日がとっぷりと暮れてようとしていて、辺りが薄暗くなりはじめていた。ただでさえ暗い社の中だ。
 あかねは目を凝らしながら、言われたものをリュックから探し始める。
「はあ、これから朝まで乱馬と二人っきりかあ…。」
 思わずもれる溜息。
「この際、妖怪でも出てきて貰って、息つく暇もなければ、朝がすぐ来ていいのになあ…。」
 妖怪を期待しているわけではなかったが、やはり年頃の少女。離れ小島に乱馬と二人きりで過ごす夜に複雑な思いを抱いていたのだ。
「ま、いいか。考えても仕方ない。なるようにしかならないんだしね。乱馬を信用するしか…。」
 リュックから言われたものをごそごそと持ち出すと、あかねはふっと傍らに目を落とした。さあっと真っ赤に燃える残り陽が、格子窓から真っ直ぐ社の中へと差し込んでくる。陽の赤い光は埃っぽいのか、きらきらと余計に輝いて見えた。
 と、その光を受けて目の前にあった鏡が一瞬、赤く光ったような気がした。
「あれ?今、鏡が光ったような…。」
 目をこすって鏡をふっと眺めた。
「え…?」
 鏡の中から誰かがふっと笑ってこちらを見詰めている、そんな視線を感じた。
「まさかね…。」
 薄気味悪さを感じたあかねは、とっとと言われたものを持ち出してここを出ようと思った。

『そなたの身体を日が沈んだら一晩、貸してもらうぞっ!』
 確かに耳元でそんな声がしたように思った。

「な、何っ?誰っ?」
 あかねは振り返ったが、空耳だったのか、何も居なかった。鏡が、そこにぽつねんと夕日の光を受けて輝いているだけだった。
「気のせいよね…。あはは。弱気になってるから。」
 そう言って、リュックを閉めたあかね。その背中に、鏡からゆっくりと抜け出してきた妖しい黒い影。そいつは、這い上がって、あかねの身体に吸い込まれるようにすうっと消えていった。



つづく



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