◆寒い夜



 三寒四温。 
 誰が言い出したか知らないけれど、言いえて妙な言葉だと思う。
 立春が過ぎる頃から、だんだんと厳しい寒さの後に、少しずつ温かい柔らかな温もりの日が続き、また寒が戻る。とこれを繰り返してゆくうちに、春へと季節は誘われてゆく。
 この前降った大雪、ドカ雪など、忘れてしまいそうに穏やかな陽射しが戻って来た或る日。乱馬は父親たちと連れ立って、町内会の夜回りに出た。
 この季節特有の乾燥した空気。昔からこの時節は火事も多いということで、いつのころからか、ずっと町内で順番を決めて週末の夜を巡る。あかねが子供の頃にはあった夜回り。地域の関わりが希薄になった今も、この地区では続けられてきた行事の一つだ。今年もまたその季節。
 何軒かの家々と共に、週末の夜に町内を回る。そして、最後に暖を取って、一献やってから解散。
 毎年と同じように、天道早雲と早乙女玄馬、そして乱馬が天道家からは夜回りに出た。セオリーどおりに拍子木と火の用心と書かれた提灯を持って夜道を行く。「火の用心っ!」と叫びながら、拍子木を打つ。何とも情緒はたっぷりとある。

「今夜は少し、冷え方が緩やかなような気もするが…。」
「昼間温かかったせいだろうよ…。」
 そんな会話が飛ぶ。
「でも、朝方は冷えるだろうな。これだけ星が美しく輝いているんだから。」
 見上げる天上は、冬の星たちが競い合うように輝いている。冷たい済んだ空気は都会の空にも満面と輝く星を見せるのである。冬の夜空は、他の季節よりも明るい星が多いと言う。
 空が澄み渡っている分、朝方の冷えは半端ではないのもこの季節の特徴だろう。昔ほど寒くはなくなったと言えども、氷が張り詰めるほどに、放射冷却を伴うのである。
 冷え切った身体を癒すもの、それは古来より、お酒と相場が決まっている。
 今日の振る舞い当番にあたっている家の門戸に到着すると、ぐいっと一杯。勿論熱燗である。
「う〜ん、冷え切った身体に染み入りますなあ。」
「まっこと、こういうときは日本人に生まれて良かったと思いますよ。」
 家主にどうぞと進められるままに、一行は一献、また一献と進めてゆく。
 そして、最後にはすっかりと出来上がってしまうという寸法だ。
 家に帰るころにはほくほくの上機嫌。
 早雲や玄馬だけではなく、一緒に出た乱馬も同じように千鳥足気味。

「もう、調子に乗って、何杯もやってくるからよ。」

 出迎える側も楽ではない。
 エプロン姿のあかねは、夫の様子を見て、思わずふっと溜息と笑いが零れた。
「いいじゃねーか、そんないっつも呑んで帰るわけじゃねーんだしよ…。」
 サラリーマン稼業についていない彼は、道場を切り盛りしながら動き回る、青年格闘家になっていた。大概試合は連戦連勝で、文字通り日本一強い男として、世間でも名前がぼちぼち通るほどにまで成長していた。二十代中盤。男盛りである。
 一緒に帰って来た早雲と玄馬は、早々と各々の寝室へと引き上げていった。
 乱馬はというと、帰った早々、二階へ上がって、コタツの中へ足を突っ込んでごろりと転げている。
「これだけ酔っ払ってるんだから、今日は風呂はダメよ。」
 あかねはすましながら言ってみせる。
「ちぇっ!そーんなに酔っ払ってねーぞ!俺はっ!!」
 酒臭い息を吐きつけながら乱馬はあかねを見上げる。
「ダーメっ!自分ではそう酔ってないって思っても、一目瞭然よ。」
「あかねに背中流して貰おうと思ったのになあ…。」
「また、そんなこと言って。こんな身体で風呂なんかに入ったらぶっ倒れるわよ。」
「ケチ…。」
 口を尖らせる乱馬。
「ケチでもいいわ。」
 あかねは笑いながら言った。
「ならよう、耳掻きしてくれねーか?」
「は?」
「だって、おまえの膝枕で耳掻きしてもらうの好きなんだ。俺…。」
 と、コタツの上に置かれていた耳掻きをすっと出して来る。それから、頭をあかねの膝にくっつけてくる。
「な、頼む。俺、疲れてるんだ。」 
 そら来た。
 あかねは乱馬を見返した。
 この腕白小僧は、飲むと途端にわがまま坊主になるのである。いや、甘えん坊になると言った方が正解か。
「疲れてるからって何で耳掻きなのよう…。」
 ちょっと意地悪く反論を試みる。全然理にかなった論理が展開されていないからだ。疲れているのと耳掻きして欲しいのとは、全く、脈略がない。
「ごちゃごちゃ言わねーの。妻たる者は黙って夫の言うことに従うべし。」
「何勝手なこと言ってるのよぅ…。もうっ!」
 そう口では言いながら、出された耳掻きを取る。それから乱馬の耳の穴をじっと覗き込む。
「結構溜まってるわね…。いいわ、やってあげる。」
 この耳掻きほど、男性の心をくすぐるほどにいい気持ちのものはないという。
「おおお…。ごそごそいってるぜ…。怪獣が耳の中を暴れ回ってるみてーだ。」
「こらっ!動かないでっ!手元狂うでしょう?血だらけになりたいの?」
 灯下で目を凝らしながら、ごそごそと耳垢をかき出す。彼の耳垢は乾性なので、ぱさぱさとした白いカサブタみたいなのが一杯出てくる。
 耳垢には軟性と乾性、二つのパターンがあることをあかねは彼と結婚して初めて気が付いた。あかねのは軟性でじっとりとしていたので、乱馬と結婚当初は、彼の耳垢がぱさ付いているのが珍しくて仕方がなかった。
 そう言えば、メンデルの法則を習ったときに、「耳垢は軟性が優性遺伝だ。」と誰かが言っていたような記憶があった。ということは二人の間に出来る子供は、確実に軟性の耳垢の持ち主になるのだろうか?
 とにかく、彼の耳掃除は、いつしか、妻たるあかねの仕事の一つに成り下がっていたのである。
「あー、気持ちいいなあ…。あかねの膝の上は。それと耳掻き、最高だぜ…。」
 などと悦に入っている酔っ払い。
 一通り終わる頃、いびきが漏れ聞こえ始めた。
 こんなところで寝られてはたまらない。
「ちょっと、乱馬っ!寝ないで頂戴。寝るんだったら蒲団の上だって。ねえ、聞いてるの、乱馬っ!!」
 ほっぺたをぺちょぺちょとやりながら促す。
「あ…。うん、わかってらーっ!」
 と言いながらも夢見ごこち。
「乱馬ったらあっ!!」
「わーったよっ!わーったから、あかね…。蒲団敷いてくれ!」
 と大きな駄々っ子。
「はいはい…。コタツでそのまんま寝ちゃわないでよ。」
 
 隣の部屋の押入れを開くと、慣れた手つきで蒲団を下ろす。
 現在、この若夫婦は二階をほぼ占有しているのである。
 押入れの上段から、よっこらしょと蒲団を持って運ぶ。ダブルベッドなどとはいう洒落たものはないので、こうやって毎日蒲団の上げ下ろし。畳の上に下ろしたところで、腰に手が伸びてくる。
「ひゃあっ!」
「あかねちゃん、かーわいいっ!」
 この酔っ払いは、あかねの後ろからすっと手を伸ばしているではないか。
「ちょっと、乱馬っ!なんてことするのよ!!」
 思わず声が上擦る。ここで一発、彼の顔面に平手打ち。と思ったが、乱馬はひょいっとそれを交わしてしまった。
「怒った顔もかわいいぜ。」
「なっ!!」
 その言葉のパンチはあかねの怒気もすんなりと吸収してしまったらしい。
 相当酔いが回っているようだ。普段の彼からは想像できない言葉がポンポンと飛び出してくる。
「いいから、そこに敷き蒲団広げるから、どいてちょうだいな!」
 あかねは語気を少し荒げると、ずいっと蒲団の端っこを引っ張った。それからボアシーツを広げる。
 待ってましたと云わんばかりに、乱馬がどおっとその上に身を投げ出して仰向けになる。
 それからふうーっと息を天井向かって吐きつけている。
 気持ちが良いと云わんばかりに大の字。

 と、隣の部屋の電話がプルルルルと鳴り出す。

「はいはいはい。」
 あかねは乱馬をそのままに、電話の子機に向かって走り出す。家が広いので、最近は子機を台所と二階にも置くようになった。玄関まで取りに走るのが面倒だからだ。
 あかねは受話器を取った。

「あ、かすみお姉ちゃん?なあに?こんな時間に…。」
 相手は嫁に行った姉のかすみのようだった。
「え?明日?いいわよ、別に用事はないから。このこと父さんも知ってるの?」
「うん、うんうん。東風先生どう?元気?…へえ、そうなんだ。」
 すっかりリラックスして話し込むあかね。
 最初のうちは大人しかった酔っ払いの夫は、あかねがなかなか戻ってこないのを感じると、途端ぐすり始める。

「おいっ!」

 最初は控えめに。

「おーいっ!あかねっ!」

 だんだんとクレッシェンド。

「あかねったらようっ!!」

 遂に大声。

「あ、はい、ごめん、乱馬がね何か用事があるみたい。ううん、また明日の朝にでも電話するわ。おやすみなさいっ!」

 仕方なく慌てて電話を切る。

「もう、何よ…。電話の途中で大声で呼んでさあ。何の用?」
 
 そそくさと傍に行くと「蒲団掛けてくれっ!」ときた。
「もう、電話口から呼ぶから何かと思ったら…掛け蒲団くらい、自分で下ろして羽織りなさいよ。」
「ヤダ…。面倒くせーっ…。」
 大きな大きなわがまま坊主はあかねを見上げる。
「ついでに枕も…。」
 と付け加えることも忘れない。
 
「ちゃっかりしてるんだからっ!!」

 男ってどうして結婚したら甘えん坊になるんだろう…。いつだったか、クラスメイトの一人が同窓会か何かでぼやいていたことがあった。
 どんなにマメで、単身生活が長い男の人でも、結婚した途端、子供よりも手がかかるようになるというのだ。自分でできることでも、何でも妻に用事を押し付ける。電話一つ取りたがらないと言う。
『雨が降ってこようが、洗濯物ひとつ、取り込んでくれないのよう…。自分でインスタント食品でも作って先に食べておいてって言ってても、面倒だからって、私が帰るのをじっと待ってるの。』
 その子の旦那は、いくつか歳が離れていて上だというのに、結婚した途端そうなってしまったという。
『あ〜あ、子供が生まれたら、どうなるんだか…。』
 当の本人は迷惑そうではなく、実は嬉しそうだったりするので、そう深刻な話ではないのであろうが。

(乱馬もそうよね…。まあ、こいつの場合は、家に居候で上がりこんだときから、こうやって横柄だったような気もするけれど…。)

「何だよう…。そんな顔して。」
「別に。」
 
 あかねは大きく溜息を吐いた。白い息の輪が、吐き出される。

「寒くねえか?」
 一応いたわりの言葉。
「そうね…。ちょっと寒いかも…。」
 火の気がない部屋は、夜が更ければひんやりとする。
「じゃ、こっち、来いよ。」
 悪戯っぽい目は見上げながら笑っている。
「まだ、着替えてないし…。」
「いいじゃねーか、ほら。」
 強引に手を引いて引っ張り込む。
(こういうことだけは目敏いんだから。)
 でも、悔しいが彼の傍はあったかい。お酒臭いのが難点ではあったが、とにかくぬくい。
(あーあ、彼が寝ちゃうまで着替えもできないかも…。)
 半分諦めが入る。でも、決して嫌ではない。むしろその逆。
 彼が全身全霊を自分に預けるのと同じく、自分こそ彼の腕の中でぬくぬくと気持ち良い。この幸せは他の何にも変え難い。至福の時。
「あかね…。柔らかくて気持ちいい…。」
 それだけ吐き出すと、無責任酔っ払いは、すうっと睡魔へと引き込まれてしまったようだ。彼がいびきをかき出すまでに一分とかからなかったように思う。
(このまま朝まで寝ちゃおうかなあ…。あたしも、乱馬のこと、ものぐさって言えないわね。)
 そう思いながら目を閉じた。
 
 窓の外、北風。
 カタカタとガラス戸と叩きながら、更けてゆく夜。
 一つ屋根の下の、一つ蒲団の中の暖かい幸せ。
 春まではまだもう少し。









一之瀬的戯言
出来心短編也。
半さんに一昨年、リクエストいただいた「宿酔」の番外編。
従って半官半民家「BORDER」へ嫁入り。バレンタインチョコの代わりに送りつけた作品。
この作品のモデルになった人と一之瀬は同居しております(笑
この作品と引き換えに、名作「大きな古時計」をいただきました。恐縮…。


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