◆朧月夜



 まだ明けやらぬ春の四十万に向かって、ほっと溜息を吐く。
 薄っすらと空が明るんだだけで、気の早い鳥たちが、しきりに目覚めの歌を囀り始める。まだ眠り半分の体をゴロン横へ倒し、あかねはふっと目を見開いた。
 薄暗い部屋は、己のほかに気配はない。隣りに並べて敷いてある蒲団はもぬけの殻。
「乱馬…。昨日も帰らなかったわね。ちゃんとご飯食べてるのかしら。」
 独りごちる。
 目が冴えて白々と明けてゆく空の気配を窓越しにぼんやりと眺めていた。
 
 乱馬と籍を入れてからかれこれ半年が過ぎた。
 十六歳の頃から許婚という関係を続け、それぞれの意志からその殻を破って結ばれた。だが、婚姻を結んでまだ日は浅い。
 出会ってから悠に五年以上の月日が経ってはいたが、まだ肉体的にも精神的にも幼い部分が残る二十一歳。
 「新婚」という言葉が、しっくり来る若い二人であった。
 だが、彼女の夫、早乙女乱馬は上昇気流に乗り始めた若き武道家。
 肉体的にもこれからの数年間がピークとなる。強靭な身体と強い精神力。それを武器に、様々な武道会や競技会に挑戦し倒している。日本へ、いや世界へ駆け回リ始める頼もしき「無差別格闘の雄」へと成長を遂げていた。
 そう、地に足が着いていないのだ。
 あらゆる格闘技に果敢に挑戦する彼は、月の半分も家に居れば良い方で、新妻を等閑にして、全国各地、いや、世界各地へと出かけては、何某の賞品や賞金を稼いでいる。そんな行脚の日々が続いていた。
 あかねはというと、勤めていた会社は入籍と共に辞め、乱馬の不在を補充するように、父親たちと道場経営を切り盛りしていた。通ってくる弟子たちに、あかねが直々に指南する日が続いている。そうやって、若き道場主の留守を守っていた。
 慣れぬ家事と道場を切り盛りする日々。元々器用な方ではない彼女は、掃除洗濯をこなすにしても、人の倍近く時間と手間がかかるのである。その上に、乱馬が居ない穴埋めに道場へと立つ。肉体だけではなく気まで疲れ切っているようであった。
 取り立てて、辛いとか身体がだるいとか、そういったものでもないので、なかなか怠け辛い。真面目実直が彼女の長所でもあり短所でもある。つい、後先のことなどを考えずに、踏ん張るのである。
「ちょっと最近、疲れが溜まってるみたいよ。たまには、一息ついたら?」
 時々思い出したように天道家へ帰ってくる、すぐ上の姉が、心配げに意見したのは、つい二三日前のことだったろうか。
「いいの、大丈夫よ。」
 そう言って笑った。
 まだまだ若いという気力に満ち、それに乱馬の留守を守れねばならないという強い使命感も手伝って、あかねは毎日を精一杯過ごしていたのである。

 妻の心夫知らず。
 彼女の夫、乱馬と言えば、そんな気苦労など察するでもなく、たまにしか電話を寄越してこない。それもごく事務的で、あかねが居ないと、母親や父親たちに伝言をするだけという、これまた昔とちっとも変わらない無頓着ぶりであった。
 もう少しこちらの気持ちに立って気を遣ってくれたら申し分がないのに。
 愚痴の一つも零したくなる。

 はあっとまた溜息が漏れた。
 
 隣りに在るべき人が居ない寂しさは、今に始まったことではない。
 これも己が望んだことだ。

 わかってはいても、独り寝(ぬ)る夜(よ)は何処となく物寂しいものだ。


 夜が明けて白みきってしまうと、ごそごそと寝床から這い出す。
 また新しい一日が始まる。
 空気が新しいうちに、精一杯動いておこうとあかねはエプロンをつけてみる。
 結婚してこの方、妻のエプロン姿を、夫は
「まだ似合わねえなあ…。エプロンに着られているみてえだ。」
 などと好き勝手を言う。真新しいピンクのエプロンが彼なりに眩しかったのであるが、あかねはただの雑言にしか聞こえないのである。それが証拠に、あかねが台所に立っていると、何かと賑やかしにやってきては、悪態を吐いてゆく。
「本当に、口が減らない奴ね。もっと違った愛情表現方法があるでしょうに。」
 なびきなどはと笑い転げる。
 彼によると、エプロンも似合わなければ、溜息にも色気がないという。
 寝屋で思わせぶりな溜息を吐いていてみても
「色気がねえな…。」
 と笑っているのである。失礼な奴だとは思うが、毎度言われ続けているので慣れてしまった。

「あかねくんもいろいろと気苦労が耐えないなあ。」
 舅となった玄馬が労いの言葉を掛けてくれる。
「早いこと子供を作れば、また、変わってくるだろうに。」
 父の早雲も傍らで言葉を継ぐ。
「もう少し、新婚気分を味わいたいですから。子供はもう少しあとでも。」
 あかねは食事を用意しながら答えた。
 父親たちの心配も良くわかっているので、そうきつく言葉は返せない。だが、乱馬にもその気はないらしく、子供の子の字も口に出さない。いや、実際は忙しすぎて、子作りのことまで気が回らないと言うのが本当のところだろう。
「まだ、若いのだから急がなくても、ね、あかねちゃん。」
 穏やかな口調でのどかが制してくれた。
 現在の天道家は、長姉は東風先生のところへ嫁に出て、実質、あかねが台所を預っている。なびきも先頃家を出て、今では気ままな一人暮らしを満喫している。
 父親の早雲と、乱馬の父母、そして時々ひょっこりと顔を出す八宝斎。それが家族であった。
 
「亭主元気で留守がいい。」
 そんな格言じみた言葉もあるが、あかねにしては、乱馬の不在に慣れる自分が怖かったのかもしれない。いつまでも新婚気分では居られないこともわかってはいたが、少しでも夫の傍らに居たいと思うのは、切なる新妻の本心であろう。

 朝の家事も、洗い物、掃除、洗濯とこなし、昼近くなる頃、ほっと一息入れる。
 庭にあれだけ美しく咲いていた桜も、そろそろお終いを告げようとしている。はらはらと舞い散る花びらが侘しさをつのらせる、そんな春の陽射し。その代わり、一斉に芽吹いた緑が眩しげに太陽の中に揺れている。
 
 縁側で将棋板を広げていた父親たちにお茶でも出そうかと、茶の間に入ったあかね。そこで縁側の端っこに畳んで置かれたスポーツ紙。彼女は何気なく、ふっと目を落とした。
 ゴシック記事だのが掲載されている紙面。そこに見慣れた笑顔が浮かんでいた。乱馬だ。
「これ…。」
 持ち上げて思わず手に取る。それから暫くして、あかねの顔が突然曇った。
「あかね、あ、いや、それはだね。」
 一瞬、しまったという顔を見せたのは早雲の方が早かった。
「いや、あかね君、そのだなあ、そういう紙面というのは得てして無責任なものだから、その…。」
 明らかに狼狽する父親たち。新聞を広げっぱなしにしていたのは父親たちだったようだ。
 一通り目を通したあかねは、パタンっと紙面を閉じた。一瞬の沈黙、それから作り笑い。
「お父さんたち、お茶請け何にします?おせんべい?それとも甘い物の方がいいかしら。」
 目は決して笑っては居ない。
「そ、そうじゃなあ、ワシは昨日貰った羊羹がいいかなあ、なんて。」 
 玄馬はガチガチの笑顔を手向けた。
「うん、うん、それがいい。お茶は渋茶。思いっきり濃くして貰おうかね。」
 
「じゃあ、待っててね。すぐに入れてきます。」
 あかねはどすどすと奥へ消えて行った。足音からしても、決して穏やかではない。動揺は隠し切れないようだ。

「不味かったんじゃないかね?早乙女君っ!」
 早雲は玄馬を見返した。
「う〜ん、あかね君も最近はストレートに感情を表現しなくなったからなあ。」
「さっさと始末しとけってさっき言ったろう。」
 ちょっと攻め気味な早雲。
「まさか、あかね君の目に止まるなんて思わなかったからなあ。」
 
 はあーっと顔を見合わせて溜息を吐き出す父親たち。

 新聞には乱馬ととある女性タレントがツーショットで並ぶ写真が掲載されており、それに付随して無責任な記事がずらりと並んでいる。
「交際発覚か?」
「恋多き元アイドルの新恋人。」
 そんな活字が躍っていたのだ。

 釈然としない気持ちを引きずりながらも、あかねは一日を終えた。
 天道家の人々も、あかねの苦悩ぶりがどことなく伝わっていた。普通に振舞おうとする中にある、あかねの動揺。いつもと違うギクシャクとした空気が天道家の茶の間に張り詰める。
 だが、あかねは決して異を口には出さなかった。じっと何かを耐えて考えているような、そんな素振り。
 思わず手元が滑って割った食器の数からもそれは容易に伺えた。

「あかねちゃん。」
 そんな彼女を見かねたのだろう。のどかが夕食後に言葉を掛けた。
「東風先生のところへお使いに行って来てくれないかしら?」
 義母はにこっと微笑みかけた。
「お使いですか?今から?」
 夕食後だからとっくに七時は回っていた。
「ええ、かすみちゃんのところはお夕食遅いでしょう?夜の診察が終わってになるから。朝堀の筍、お花のお弟子さんから分けていただいたのがあったでしょ?さっき、アク抜きできたから持って行って貰おうかなって。おすそ分け。」
 のどかは柔らかく笑った。主婦らしい、いや、義母らしい心遣いと言った方が良いかもしれない。

「行ってきます。」
 筍のまだ生温かい剥きたてを何本か入った器を手にあかねは夕闇に紛れて外へ出た。
 春とはいえ、夕闇に紛れると、少し肌寒い。
 空には朧月がぼんやりとあかねを見下ろしていた。月はおぼろげな傘をさして光っている。
 
 東風の接骨院は午後八時まで開院している。
 あかねが辿り着いた頃もまだ電気が煌々と灯されていて、患者さんたち何人かが見えた。

「ご苦労さま。」
 先に電話でも受けていたのだろうか。かすみがにっこりと笑ってあかねを招き入れてくれた。
 この長姉は相変らず物腰が柔らかい。
 勝手口から届けただけで、すぐに引き返そうとしたあかねをかすみは呼び止めた。
「あかねちゃん、診察室の方へ回ってちょうだいって。」
「診察室?」
 不思議な顔をした。
 にっこりと微笑む姉。怪訝に思いながらも、勝手知ったる院内を抜けて、診察室へ。
「あ、あかねちゃん。久しぶりだね。」
 診察室の中から呼び声。にこっと笑って出迎えるのは東風だった。相変らずのポーカーフェイス。眼鏡の奥の目は細長く笑っていた。
「こっちはもうすぐ終わるから、ちょっと入っておいでよ。」
「でも、診察中なんじゃあ。」
「大丈夫だよ。最後の患者さんは君も良く知った人だから。」
 くいっと引っ張られて入る診察室。
「よお。」
 懐かしい声。
「ら、乱馬。」
 思わぬ患者だった。あかねはさっと身構えるように身体を固くした。昼間の新聞記事が頭をちらついたのだ。
「さっき、帰って来たついでに、筋肉をほぐしに寄ってくれたんだよ。特に故障という訳じゃないみたいだけど、他流試合で少し筋肉が疲れているようだったから、指圧マッサージしてあげたところさ。」
 東風はあかねの疑問に先に答えるように言葉をかけてくれた。もしかすると、気を回したかすみがのどかに乱馬の来院をこっそりと告げたのかもしれない。
「ありがとう、先生。おかげで疲れも癒されたぜ。おお、肩も軽くなってらあ。先生は名医だなあ。」
 ひょいっと診察台から降り立った乱馬はそう言って笑い返した。ぶんぶんと肩を回して見せる。
「また、いつでも来るといいよ。待たせね、あかねちゃん。」

 乱馬はぺこんっとお辞儀すると、接骨院を辞した。その間中あかねは黙って俯いていた。

「おい、何ぼんやりしてるんだよ?あかね、帰るぞ。」
 乱馬の声に我に返る。
 傍らに投げ出されていたボストンバッグを手に取ると、乱馬は先に立って歩き始める。今回の遠征用の着替えが投げ込まれているのだろう。スーツではない。それがビジネスマンではないことをうかがわせる。高校生の頃慣れ親しんでいたチャイナ服でもなく、スラックスに軽く着こなしたトレーナとジャケット。ラフな井手達。だが、見るからに「武道家」というオーラーが背中から立ちこめるのはさすがだろう。トレードマークのおさげが揺れている。
 その背中を追いながらも、黙りこくったままのあかね。
「おいっ!」
 声を掛けられても上の空。
「おいっ!あかねったら。」
 痺れを切らしたのは乱馬の方だった。
「何?」
 あかねはぶっきらぼうに睨み返す。
「おまえ、何だか荒(すさ)んでるぜ。」
「そーんなことないわよっ。」
 軽く受け流そうとした。
 暫く見詰め返していた乱馬はふっと溜息を吐き出した。
「ひょっとして、アレのこと怒ってるのか。」
 思い当たる節があると問い質した。
「アレって何よ。」
「アレ…ほら、その三流スポーツ紙読んだんだろ。で、怒ってる。違うか?」
 しょうがねえなあという顔がこちらを向いた。
「べ、別に、怒ってなんか居ないわよ。」
 わざとあかねは顔を背けた。やっぱりそうかと乱馬は苦笑いした。
「そうか?俺には怒ってるように見えるんだがなあ。すぐ感情が表に出るからなあ、あかねは。相変らず、単純な奴だな。」
 思わずカチンとくるような物の言い方。
「何よっ!その単純な奴って。」
「ほら、すぐにそうやってむきになるじゃねーか。」
 乱馬はにっと笑った。その態度があかねの心に火を放ってしまったようだ。
「知らないっ!」
 それだけ言うと、ぷいっと横道へ反れた。
「おい、家はこっちだぜ。」 
 そんな声が聞こえたがお構いなし。
「こらっ!あかねっ!あかねったら。」
 慌てて追って来る二の足。
「もういいから、ほっといてっ!」
 あかねは背中越しにそれだけ吐き出す。ずんずんと黙々と歩くあかね。口は噤(つぐ)まれたまま。勿論、目的地などない。
 その後ろを重い荷物抱えて歩く青年。無言の早足追いかけっこ。
 ものの二三十分も町内を歩き回ったろうか。
 ひらひらと桜の花びらが天空から舞い降りてくるそんな公園。そこでふつっとあかねは立ち止まった。
「まだついてくるの?」
 背中が少し震えている。
「おまえをほったらかして、一人で帰れるほど冷たい男だと思うか?」
「何よ偉そうに!ずっとほったらかしにしておいて。」
 決して己を見返そうとはしない強気なあかね。
「たくう…。そういう強情なところは昔から何にも変わっちゃいねーんだからっ!何怒ってるんだか知らねーけどよ、俺は後ろめたいことは何一つしちゃあいねーんだ。」
「じゃあ、あの記事は何よ。」
「知るかよっ!勝手にマスコミの奴等が餌食にしたんだろ。出る杭を打ちたがるってやつだよ。最近俺も少しは有名になってきたからな。」
「相変らず自信過剰で無責任な人ね。火の無いところには煙は立たないわ。」
「おまえ、もしかして、あの記事、真に受けてるんじゃねーだろうな。」
 今度は乱馬の方が苛ついた言葉を吐いた。

「だったらどうだって言うのよっ!」
 あかねは円らな瞳を見開いて睨み返す。
 暫しの睨み合い。
「たく、しょうがねえ奴だ。」
 乱馬は溜息を吐いた。
「何よその言い草っ、乱馬のバ…」。
 言葉はそこで途切れた。正確には続けられなかった。不意に口を塞がれたからだ。
 天上に輝いていた月は一瞬のうちに雲間へと滑り込んだ。辺りは闇。
 さあっと夜風が通り抜ける。だが、あかねの頬には冷たい風は当らなかった。代わりにすぐ傍で漏れる暖かな吐息。全身から力が抜け落ちた。

「ずるいよ…。」

 そう吐き出そうとしたが、容易に離れない彼。逞しい腕で抱え込まれて身動きもできなかった。合わさったままの唇。

 再び月が雲間から顔を現したとき、ようやく彼の口が離れた。
 強引な口づけに、言い返す気持ちはすでに萎えてしまっていた。
「バカはお前の方だろ…。」
 そう言いながら見詰めてくる真摯な瞳。愛しげにあかねを見下ろしてくる。身体はすっぽりと彼の両腕に包まれて逃げ場はない。
「噂が真実を語っているとは限らない。お節介な奴らが勝手に面白おかしく記事をでっち上げようとしても、動かせないもの、それが俺の心だよ。一つだけ言っとくが、俺はおまえの傍を離れる気はねえ。それからおまえを他にやる気もねえ。だから、要らない気を揉むな。どんなに長い間留守をしていても、俺が帰る場所はおまえの所だ。出会ったときからそう決めてんだっ!その心は揺るがない。ちゃんとよく覚えとけっ!」

 口調は厳しかったが、気は穏やかで優しかった。
 
「ごめんなさい。」

 微かに震えた声。
「わかったらいい。」
 傍らで小さく囁かれた。
 支える彼の腕に力が込められたように思った。それから再び降りてくる柔らかな唇。
 夜風を背中で感じながら、ふたり、想いを塗りこめ静かに目を閉じた。

 春の宵は静かに更けてゆく。天上の朧月は、微笑みながら、傘を大きく見開いた。
 たおやかに吹き抜ける風に、桜は花びらを一斉に散らした。往く春の名残。移り往く季節を惜しみながら。



 完







 一之瀬的戯言
 ターゲットはピスタ家
 実は一之瀬、ピスタさまからとある素敵なイラストをいただいておりまして・・・作品に使うのでまだアップしていないんですが・・・(早く作品の方も書きたいんですが、退避できてないデーターに居たもので、なかなか取り出せない・・バレンタインネタ(あいたっ!)

 往く春の情景を乱馬とあかねに重ねて書いた突発短編。
 散り往く夜桜の情景。
 この後、数日を経てあかねちゃんの懐妊がわかったと、私の脳内妄想は告げておりますが…。

 なお、題名は「おぼろづくよ」と読んでいただけると嬉しいかも・・・。別に「おぼろづきよ」でもいいんですが。
 御粗末様でした。



 で、ピスタさまからいただいだ他の素敵イラストが、熱暴走しまくった前パソコンの中にお眠りになったままクラッシュしてしまいました。ううう…。



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