第九話 生きとし生けるもの
辺りの震動は激しくなった。
この世界の崩壊が始まったのだろう。
あかねは乱馬を見失った後、呆然とそこへ立ち尽くしていた。
「乱馬・・・。あんたが居なくなった世界で、あたしに生きていけって言うの・・・。」
涙がボロボロと零れ始めた。
「何のためにあたしは、ここへ来て、あいつらと闘ったっていうのよっ!」
言葉は虚しく、激震し始めた天地に掻き消されてゆく。
天井や壁の崩壊が始まった。おそらく、この世界は、木芽、雪消、小草の三人の妖魔によって支配されていたのだろう。主を失った今、全てが無に帰そうとしていた。
『生きて・・・。』
『生きて・・・。』
何処からとも無く、声が響き始めた。
『生きて・・・。』
その囁くような声にあかねは我を取り戻す。乱馬の声ではない。たくさんの少年の囁きのような声だった。
周りに目を転じると、柱から弾け出した少年たちの魂の玉が、ふわふわと漂っている。それらが、虚空へ弾かれて再び消えるときに、声を解き放っているようだった。
『生きて・・・。』
『生きて・・・。』
力を失ったあかねに玉たちはざわざわと囁き続ける。
『生きろっ!!あかねっ!!』
その声に共鳴するかのように、一つの力強い声があかねの耳元に響いた。紛れも無い、乱馬の声だ。
「それが、乱馬、あなたの意思なのね・・・。」
あかねは目を見開いた。死ぬことは簡単だ。この場に留まればいい。だが、生きることは難しい。それでも、最後まで諦めずに生きろと、この場に捕らわれた魂たちが囁き続ける。
そうだ。まだ己には、乱馬を見送らねばならない義務がある。この世界の崩壊と乱馬の最期を、彼を愛した人たちに伝えるという大切な義務が。彼が生きたという証を残さねばならない。そのためには生還しなければ。
あかねは御柱を見上げた。
と、飛び出してくる少年たちの魂が、さあっと導くように上へと立ち上がってゆく。彼らの身体が柱から開放されるとき、丁度良い窪みとなって上へと続いてゆく。
その窪みに足をかけた。手を伸ばした。
「上へ・・・。」
あかねはよじ登り始めた。時々雷同する世界の崩落に、壁から落下物が剥がれ落ちてくる。その中を必死で登り続ける。
途中、何度足を滑らせ、そして手を離しそうになっただろうか。
無我夢中で登ったので、どのくらいの高さを上り詰めたのかは、実感がない。
『生きて・・・。』
『生きて・・・。』
ただ傍らからそう声をかけてくれる、見知らぬ少年たちの声に随分と助けられたように思った。もちろん、心の中の乱馬も『生きろ!』と声をかけてくる。
あかねはひたすらに登り続けた。上を目指す。
「乱馬のためにも精一杯生きる。」
それだけを念じながら。
やがて、光溢れる地上へと辿り着いた。深遠なる森の、澄み切った風が頬を撫でてゆく。
「帰れた・・・。乱馬・・・。帰れたよ。」
力を使い果たしたあかねは、地上へ出ると、そのまま意識を失ってしまった。その後どうなったのかわからない。
意識がゆっくりと暗転していった。
目を開いたとき、古い白い壁が見えた。そして、見覚えのある笑顔。
「やあ、目覚めたかい・・・。」
そう言って覗き込んでいたのは、小乃東風であった。
「ここは・・・。」
散在する意識の欠片を掘り起こしながら、あかねは記憶を手繰った。
「あかねちゃん、山の中で倒れてたんだってね・・・。玄馬さんと早雲さんで、ここまで連れて帰って来たときには、どうなるかってヒヤヒヤしたけど。別段頭を打ったとか、骨を折ったとか異常はなかったから。ずっと山を歩き回って疲れていたんだね。ずっと眠っていたんだよ。」
東風はゆっくりと現状を説明し始めた。
「一時は意識が回復しないからどうしたんだろうと思ったけど・・・。」
東風は柔らかげに言葉を継いだ。できるだけあかねを刺激しないように言葉を選んでいるのがわかった。
「あたし・・・。山へ乱馬を探しに入って・・・。乱馬っ!」
あかねの記憶が弾けた。
「乱馬・・・。先生っ!乱馬は?」
あかねは身体を起こして跳ね上がろうとした。
「駄目だよ、まだそんなに勢い良く立ち上がっちゃあっ!!」
勢い良く起き上がろうとしたあかねを東風は慌てて制した。
「乱馬・・・。乱馬はどうなったの?先生っ!!」
答えを訊くのが怖かった。だが、訊かずには居られない。
「乱馬っ!」
あかねは次の瞬間、ベッドを飛び出していた。
「あかねちゃんっ!」
東風が慌てて制したが、あかねの動きの方が、僅かに早かった。
山へ入る前に乱馬の物言わぬ身体を寝かした病室へと駆け込む。
「乱馬っ!!」
バタンっと重い扉が開いたとき、空になったベッドを目の当たりにした。
「乱馬っ!乱馬っ!!」
あかねは病室を間違えたのかと思い、手当たり次第に扉を開いて回った。
だが、東風の患者以外見当たらない。そう、乱馬の姿は何処にもなかった。
「東風先生っ!乱馬はっ、乱馬はどうなったの?やっぱり・・・。やっぱり、死んじゃったの?」
振り返り東風に縋りつく。
「あかねちゃん・・・。」
東風は真摯な目を向けた。
「乱馬くんはね・・・。」
そう言い掛けたときだ。
「ばーか・・・。俺がそう簡単にくたばるわけねーだろっ!」
開け放たれた病室のドアを背に、黒いタンクトップを着た少年が腕を組んで立っていた。ダークグレイの瞳が輝いている。
あかねの目がみるみる見開いてゆく。
紛れも無い。そこに立っているのは、懐かしいおさげの少年。
あかねは黒い瞳で目いっぱい、少年を見詰めた。
それからだっと駆け出した。
「乱馬っ!」
後は言葉にはならなかった。
逞しいその腕が、勢い込んで走りこんできたあかねを力強く抱きとめたからだ。
恥かしがり屋のこの少年は、このときだけは、己の気持ちに素直だった。いやそれは、あかねの方も同じだったかもしれない。
夢ではなかった。そこに立っているのは、血の通った逞しい少年。すり抜けることなく、しっかりとその胸であかねを支える。
再びまみえた喜びは、涙となって次々と溢れ出し、あかねの頬を湿らせた。己を抱き締める大きな腕の豊かなぬくもり、そして、波打つ心臓の鼓動。「そこに今、生きている」という歓びが湧き上がってくる。
「良かった・・・。逢いたかった・・・。乱馬っ・・・。」
あかねはその言葉だけを抱きとめられた胸の中に吐き出した。それに対する乱馬の返事はなかった。だが、代わりに、抱き締める腕に力が入ったのがわかった。
「生きて再びまみえた歓び」を分かち合い、睦み合うには、言葉は要らないのだろう。
重なり合う二つの塊は、そのまま暫く動こうともせずに、佇み続けた。
「生きることは死ぬことよりも難しい。いや、死地から生還することはもっと難しいのかもしれないけれど・・・。愛は奇跡を起こす・・・か。」
東風は心でそう吐き出すと、そっと二人の傍から離れた。
あとでなびきがこっそりとあかねに事の次第を教えてくれた。勿論、一部、有償でだ。
あかねが妖魔たちに競り勝った七日目の夜、乱馬が蘇生しはじめたというのだ。それまで冷たかった頬に赤みがさし、心臓の鼓動が確認されたのだと。そのまま彼は翌日まで眠り続け、朝日と共に、すっきりと目覚めたらしい。
「あんたは、七日目の昼頃、父さんと早乙女のおじさまの手で東風先生のところへ担ぎ込まれたんだけどね。」
どうやら、四辻の地蔵の祠の傍で倒れていた己は早くに父親たちに発見、保護されたようだ。息はしていたが声をかけても反応すらしなかったので、随分皆は心配していたという。なびきの話から統合すると、時間的に差があり矛盾も生じる。だが、ずっと混濁状態だったところを見ると、乱馬が蘇生をした夕刻ごろまで「常磐の砦」で死闘を繰り広げていたのだろう。
あかねは乱馬が息を吹き返してからも、三日ほど目覚めなかったらしい。
その間、乱馬が佇むように傍に寄り添っていたとなびきが笑いながら教えてくれた。
「あのね、乱馬くんが蘇生する前にはね、腕に物凄い切り傷がふっと浮かんで消えたのよ・・・。」
そう、女乱馬と男乱馬が渡り合ったときについた傷に違いない。
「あと、強い光が彼に射したわ。胸を貫くようにね。これはあたししか見なかったから誰も信じてはくれないだろうけどね・・・。その後ほどなくして彼の心音が聞こえ始めたのよ。」
なびきは更に教えてくれた。
「でも、あんたがなかなか目覚めないから、心配しちゃったわ。乱馬くんはずっと大丈夫だって言ってたけどね。」
あの御柱を登るのに、三日かかったのか、それとも登り切って我に返るまで三日かかったのか。今となっては明らかではないが、ずっとその間に心に響いてきた「生きろ」という言葉は、乱馬が念じ続けていてくれたものに違いない。なびきの話を聞きながら確信した。
この不思議な臨死体験は、少しだけ乱馬との距離を縮めてくれたように思う。
相変らず、彼の優柔不断な日々は続いていたが、ほんの少しだけ、恋することに素直になったと思う。そして、多分、自分も。
だが、あかねが
「ねえ、あの時、あたしに言いたかったことって何なの?」
そう尋ねても、
「はあ?」
と杓子定規にすっとぼける。
「戻れたら言ってやるって約束したじゃない。」
「んなの、覚えてねーよ。」
「嘘ばっか・・・。」
「ホントだよ!」
と。
だいたい予想はつくのであるが、万事この調子だから、この少年から本音を聞きだすのは、並大抵なことではないだろう。
日は昇り、また沈む。その繰り返しの向こう側で、いつか彼の口からその言葉は告げられるに違いない。
「愛してる。」という、ただ一言の、真実の言葉。
限りある人生だからこそ、光り輝く愛の言葉。
「今度の修業は、一緒に行くか?」
春の陽射しの中で乱馬があかねに声をかけた。
「うん!山の魔物に魅入られないように、ずっとあたしがついててあげる。」
「ちぇっ!いい気になんなよ、このヤキモチやきめっ!」
「ヤキモチやきはお互い様よっ!」
「言ったなっ!!」
二人の上で小鳥たちが愛の歌を囀り始めた。
鳥が片寄せる天道家の桜の小枝が、花で満開になるのは、そう遠い夢物語では無いだろう。
完
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