第六話 遭遇


 あと一回、夜が明ければ乱馬は闇へと呑み込まれてしまう。

 あかねは目を覚ました。
 柔らかな気が己を包んでくれている。
 そんな安堵な感覚。温かく柔らかな懐かしい気。

 はっとして辺りを見回した。

「乱馬・・・?」

 確かに感じた。それは、彼の気配だった。
 だが目を凝らして見ても影はない。
「やっぱり、朝方も来てくれていたのね。」
 あかねは頬を撫でながら思った。日没後は毎日のように言葉を交わすのだが、夜明け前は来ているかどうかは確証がなかった。きっと夜明けはあかねが疲れて眠っているので、声をかけずに佇むだけで立ち去っているのだろう。

 正確には丸々二日といったところだろうか。いや、本当は丸一日かもしれなかった。

「今日こそ、絶対に手がかりを見つけて見せるわっ!」
 あかねは固く決意した。
 顔を冷たい水で洗い、何度も通った山道を一人で辿り出す。父親たちは、若いあかねにはかなわないのか、昨日辺りからテント周辺をウロウロしているだけであった。だんだんと遠のいてゆく希望。あれほど輝いていた太陽が、今日は見えない。
 小雨が降り始めた。
 濡れそぼつ山道をあかねは丁寧に辿ってゆく。
 丁度四辻に差し掛かったところで、激しい豪雨に見舞われた。
 ザアザアと雨は激しく降り注ぐ。黒い雲が激しく春山を覆ってゆく。

「こんなところで潰す時間なんて無いのに・・・。」
 あかねは恨めしそうに空を見上げた。容赦なく叩きつけてくる大粒の雨のせいで、身体はぐっしょりと濡れていた。ゴロゴロと耳元では春雷が鳴り響く。山にあっては、雷はとても危険な禍である。仕方なく、雷が通り過ぎるまで待つことにし、四辻にひっそりと佇む祠へと身体を寄せた。
 人が一人入れるかどうかの小さな庵のような、古びた祠だ。
 何が祀ってあるのか、あかねには見等もつかなかった。乱馬を探すついでに、玄馬に訊いてみたところ、この辺りの修験者が作った祠なのだと言う。
「いや、ワシも詳しくは知らんのだが、一種の山岳信仰の祠みたいなものじゃろうよ。この山に棲む神々を祭り、修業の成果をあげようと、古来、ここへ籠った修行者は願をかけていったというんじゃ。」
 玄馬はそう教えてくれた。
「そんなに古い修業地なのかね?この山は。」
 早雲も不思議そうに尋ねた。
「ああ、何でも熊野古道に匹敵するような、隠れた修験の山だったと訊いたことがある。嘘か誠かはわからぬが。この先の方には山の神を祀ったお社もあったと麓の人に訊いたことがあったが・・・。」
「お社ねえ・・・。」
 その時は聞き流してしまった言葉だ。

(乱馬を探すのに歩き回ったけれど、そんな社には出会わなかったわね・・・。)
 あかねは初めてそのとき、玄馬と交わした会話を思い起こした。
 社があるのなら、柱や瓦、土器(かわらけ)の一つでも落ちている場所があっても良さそうなものだが、一切そういった類のものには突き当たらなかった。

 ゴロゴロと雷は近づいてくる。

(お社なんて、この山に本当にあったのかしら・・・。)
 傍らに立っている祠の主は小さな地蔵尊だ。赤い前掛けににっこりと笑った福与かな笑い顔。思わず手を合わせたくなるような穏やかな顔をしている。
「お地蔵さま。こんなときにしか神仏に頼らない不信心者ではありますが、どうか、乱馬を探し出す手がかりをあたしに与えてください。この山のどこかに通じている他界への扉から、そこへ身を投じてしまった彼を、あたしはどうしても見つけたいんです。わがままな願い事だってわかってます。でも、会いたいんです。乱馬に・・・。」

 疲れてしまったあかねは、地蔵さまにそう語りかけると、そのまま、うつらうつらと眠りに入った。

『清らかな乙女・・・。そなたの探している男は、おそらくこの先に居る。大方、先頃いきなり渡ってきた暗黒の蕃神(ばんしん)どもが、邪まな呪術(マナ)によって彼を連れ去ったのだろう。禍々しい妖気が山に漂っておる。そなたの許婚への想いと勇気。いかほどか見届けてくれん。さあ、行け。』

 はっと目覚めたあかね。
「今の声・・・。お地蔵さま?」

 と、その時だった、激しい閃光と共に、バシバシバシっという爆音があかねのすぐ傍に轟き渡った。空間が裂けるようなそんな音だった。
「雷?」
 あかねは恐る恐る顔を上げた。
 と、目と鼻の先の祠の後ろ側に、煙がもうもうと上がっているのが見えた。
「やっぱり、雷が落ちたんだわ。」
 そう思って確かめようと近づいた。
「あ、あれは・・・。」

 今まで繁みに隠れて見えていなかった祠の後ろの崖に、ぽっかりと穴が一つ開いているのが見えた。覆っていた繁みは落雷の勢いでチリチリと煙を上げて燻っている。ぬれそぼつ雨は、すぐさま上がった火を消し止めたのだろう。火柱は見えなかった。
 穴は、不気味にぽっかりと口を開けていた。まるであかねに入って来いと云わんばかりに。

 あかねは躊躇った。
 一度テントへ引き返して、父親と玄馬を連れて一緒に入ってもらうべきか否か。
 暫く考え込んだ挙句、あかねは一人で先へ進むことを選んだ。
「お父さんたちも疲れているし。もしかしたら、この道じゃないかもしれない。先に進んで、駄目だったらすぐに引き返してくればいいんだから・・・。」
 あかねは意を決すると、その穴へと足を踏み入れた。

 じめっとした何とも嫌な空気が鼻をつく。もう何年も開かれていないのではないかと思えるような澱んだ空気が鼻先を掠めてゆく。辺りは真っ暗にも拘らず、ほんのりと、先に続く道が見える。まるであかねを誘っているかのように、薄らぼんやりと浮き上がって道が見えた。
 猜疑心が確信に変わるまで、さほど、時間はかからなかったように思う。
 突然、広い場所へ出たのである。
 
「この場所って・・・。」

 生き生きとした常緑樹が、清々しいほどに、辺り一面に輝いていた。さっきまで居た四辻は暗雲に覆われて雨が音をたてていたというのに、そんな気配はなく、空からは太陽が燦々と照らしつけているように見えた。そして、その先へまだ続く道。
 あかねは無我夢中でその道を進んだ。
「この先に、きっと乱馬がいるわ。」
 女の第六感というものであろうか。
 キラキラと露が煌めくその深淵の森の小道。その行き着く先にあかねが見たもの。それは、神々しく輝く、翠の水辺。

「あった・・・。湖。」
 
 あかねは目を見張った。
 確かに持って来た地図にもどこにも存在しない湖がそこへ水をたたえて揺らめいていた。
 不気味なほど辺りは静まり返っている。

 あかねは細心の注意を払いながら、少しずつ水辺へと近づいて行った。
 深遠な湖面。あかねは、恐る恐る、湖面に突き出した岩の上から、水面を覗き込んだ。
 ゆらゆらとあかねの姿を映し出した湖。と、ざわざわと風が唸り音を上げて吹き抜けて行った。

「あっ!!」

 あかねは己が目を疑った。
 湖面に映っていた己の顔が風で揺らめくと、ふっと消えてしまったのだ。そして、ゆっくりと浮き上がってくる光景。思わず目を見張った。

「乱馬・・・。」

 そこに映し出されていたのは、紛れも無く、乱馬であった。それも、ここ暫くあかねの前に現れていた女の形ではなく、正真正銘の男の乱馬が映し出されていたのだ。

 あかねはぎゅっと手を握り締めた。
 この水底に乱馬は捕らわれている。ここへ飛び込めば、彼の元へと行けるのではないかと率直に思った。
 しかしだ、己は泳げない。
 果たして彼が居る水の底まで泳ぎ切れるだろうか。辿れずに途中で溺れてしまうのではないかという恐怖があかねを支配していた。カナヅチはこういう場合、辛いものだ。
 水を見て思わず足がすくんだ。
 躊躇いはストッパーとなってあかねにのしかかってくる。

「乱馬!」
 思わず彼の名を叫びそうになったが、ぐっと言葉を呑み込んだ。
(乱馬の周りに、誰か居る・・・。)
 彼の周りに只ならぬ気配を感じたのだ。
 目を凝らして見てみると、若い女性が見えた。艶やかな肌を曝すような絹衣を身にまとっている妖しげな美人だった。
 と、だんだんと映し出された画面が広がり出す。リアルなスクリーンでも見ているような感じだ。

「誰だろう・・・。」

 別の女性が乱馬の元へと大皿に盛った食事を運んで来た。
 そのはす向かいには、もう一人、甕を持ったこれまた美しい女性。
 美女が三人。乱馬の周りを取り囲んでいる。中央に座らされた乱馬は、視点定まらぬ目を見開いて、うっとりと女性たちを見比べているではないか。

「何、あれはっ!」

 あかねの身体を、怒りが一瞬駆け抜けていった。この不快感は、右京やシャンプー、小太刀、といった美少女たちが乱馬へと言い寄っている構図よりも、腹立たしく思えた。

 と、ぼそぼそと美女たちが何か乱馬の耳元に語りかけている。
 乱馬はゆっくりと頭を垂れた。
 女性の一人は持っていた長い箸で料理を摘んだ。もう一人は、乱馬の目を覗き込むようにしながら、頬に触れた。そして今一人は、乱馬の座っている後ろから、手を出して、彼に纏わり付いた。どう見ても、美女たちに魅了されているようにしか見えない乱馬の瞳の輝き。
 箸を持った女性は、アーンというような口の仕草をした。それに伴ってゆっくりと口を開く乱馬。そこへ運び入れられる、箸先の食物。真っ赤な色をしていた。
 乱馬は促されるままに、それに口をつけた。そしてゆっくりと噛み始める。
「美味しい?」とでも訊いているのだろうか。こくんと頷く乱馬。
 それを見て女性は嬉しそうにまた一品、箸を進めた。ゆっくりと噛み砕くように、口元へと運び入れられる食物を食んでゆく。彼の口元へ付いた、食べ物の汁や糟を、後ろから纏わりつく女性が、手で丁寧に拭いてやっている。

「ちょっと、どういうことよ・・・。」

 手取り足取り三人の女性に食べさせて貰いながら放心している、情けない乱馬の姿にあかねの怒りは静かに燃え始めた。
 嫉妬。不埒な彼への怒り。
 別に己の「許婚」という立場を誇張しようとは思わなかったが、乱馬の周りを囲む美女と、腑抜けた彼の有様を見て、あかねは怒り心頭。煮え始めた心を止める手立ては最早無い。
 次の瞬間、彼女は、乱馬が映し出される水面へ向けて身を投じていた。
 己がカナヅチで、全く泳げないことなど、とっくに忘却の彼方に押し遣って。

 水は飛沫を上げなかった。

「え?」
 飛び込んでから、周りの異様さにはっとした。

「ここって水の中、湖の中じゃないの?」

 当然来るはすの、水中の圧力も、水の冷たい感触も、そして息苦しさも無かった。
 泡があかねの周りを包むように集まってくる。
 その中をゆっくりと真下に向けて降りてゆく。そんな感覚だった。
 降りてゆく先を見ると、ぼんやりと薄明かりが見えた。その光は妖しく水色に光り輝いている。まるであかねを招き入れるように、底面から降り注ぐ光は、ゆっくりと彼女の身体を包み込んで行った。



つづく



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