第三話 弔いの夜
がらんとした道場に一人。
肩を落とした少女。
放心したまま、中央で佇んでいた。
「あかね・・・。そろそろ弔問の方々が見えるわよ。」
こういう場には次女のなびきが一番冷静であるのかもしれない。
姉はそれだけを告げると、戸板の向こう側へと消えていった。
促されてあかねは、とぼとぼと母屋の方へと歩き出した。
彼女はまだ現実を受け入れられないでいる。
認めろという方に無理があるだろう。ついさっきまで傍らにあった、柔らかで大きな気は、流星のように空の彼方へと消えていったのだ。
(悪夢だわ・・・。そうよ、悪い夢を見ているのよ。)
しかし、彼女の想いも、茶の間へと安置された彼の顔に被された白い布を見ると、途端に現実へと引き戻される。枕元には一本の蝋燭。迷わないで冥土へと旅立てるように差し向けられる灯明。そして、死臭を消すといわれる線香の煙がゆらゆらと揺らめいている。飢えないようにとのどかが炊いた煮物とご飯が、愛用の食器へと盛られている。
式は明後日と決まった。明日が通夜。いずれも道場に祭壇を設えて行なうということになった。
今夜は仮通夜ということになる。入棺は明日ということになった。
ぞろぞろと乱馬と縁(ゆかり)のあった人たちが訪れてくる。今夜は仮通夜ということなので、ごく親しい彼の周りの人たちだけが別々に弔問に来た。
その一人一人の好意に乱馬の父と母は静かに答える。その傍らでぼんやりと座るだけのあかね。
「おのれっ!早乙女乱馬っ!貴様、誰の許しを得て冥土へと旅立ったのだっ!!」
いきなり乱入したのは九能帯刀だった。木刀を持って乱馬の寝かされている茶の間へと立居振舞する。
「僕は認めんぞっ!断じて認めんっ!」
そう言いながら一頻り暴れ回ると、
「だが、安心せいっ!あかねくんのことはこの僕がしかと引き受けたーっ!」
放心したまま座っていたあかねにいきなり抱きつこうと手を伸ばした。
ドッゴンッ!
凄い音がして、九能が畳の上に沈みこむ。
「たくう・・・。もっとまともな悲しみ方しなさいよね。」
なびきが一発食らわせたようだ。
いつもなら、彼を弾き飛ばすあかねは、何の反応も示さないでただ、じっと座っている。
「乱馬様っ!このようなお姿に・・・。」
黒薔薇の花吹雪と共に続いて現れたのは九能の妹の小太刀。黒いレオタードを着込んでいる。喪服の代わりなのだろうか。
「でも大丈夫、私が持って来たこの生き返りの秘薬があれば、たちどころに目をおあけになれますわっ!!」
そう言いながら何やら妖しげな薬壷を開いた。
「あのねえ、小太刀。どうやって飲ませるのよ・・・。」
なびきがやれやれと問い掛けると
「知れたことっ!勿論、口移しでございますわっ!」
そう言いながら死体に口づけようとする。
「気色悪いことしないでよっ!!第一、呼吸もしてないのに、どうやって死体が薬を胃袋まで飲めるっていうのよっ!バカなこと言わないのっ!」
なびきはあかねの代わりに論理的に反論した。
「私と致しましたことが。そこまで考えておりませんでした。出直して参りますわ。ほーっほっほっほ。」
黒薔薇を撒き散らしながら、この迷惑な弔問者はその場を立ち去った。
こんなオオボケな弔問客ばかりではなかった。
久遠寺右京などは、静かに現れて、ただじっと乱馬の死体と対峙していた。
いつものような激しい気は、彼女からは発せられていない。ただ静かに、乱馬を見詰める彼女。かえって痛々しく思われた。
「これでうちはあかねちゃんと対等な立場に立てたわ。」
帰り際、右京は静かにあかねに言った。
「対等な立場って?」
なびきが黙り込んだあかねの代わりに尋ねた。
「そやかて、乱ちゃん、死んでもうたさかい、誰とも結婚できひん。だから、あかねちゃんもうちも「元許婚」っていうことになるやろ・・・。だから対等やねん。これからずっとな・・・。」
右京は力なく笑った。
あかねは返答することもなくただ黙って右京を見送った。
クラスメイトたちもこぞって乱馬の弔問に駆けつけた。
大介もひろしもゆかもさゆりも、言葉は少なめだった。ただ、ぼんやりと視点定まらないあかねを見て、慰めの言葉すら無味乾燥に聞こえる。
実際あかねには、そんな弔問のクラスメイトたちの顔が、どのくらい見えていたことかすら疑問であった。
「あかね・・・。どんな言葉をかけてあげれば良いかあたしたちにはわからないんだけど・・・。」
「とにかく、しっかりなさいよ。乱馬くんのためにも・・・。」
ゆかもさゆりもそれだけを言い含めると、足早に弔問を済ませて帰って行った。
シャンプーがコロンとムースを連れて弔問に来たのは、とっぷりと日が暮れてしまった後だった。
「あかねが乱馬、殺したのとちがうのかっ!」
シャンプーの口調はいつもに増して厳しいものだった。
あかねははっとして初めて目を見開いた。
(そうだ・・・。あたしが殺したも同然なのかも・・・。)
閉ざされていた感情が微かに波打ち始めた。
「どうせ、疲れて帰って来た乱馬に、何か不味い手作りなものでも食べさせたあるね。それで乱馬、体調を崩して死んだ。違うか?」
無茶苦茶な論理ではあったが、あかねは初めて言葉を発した。
「そうよね・・・。ちゃんとした朝食を作れるほどあたしは器用じゃない。シャンプー、乱馬が最後に摂った食事は、あんたが今朝方もって来てくれた点心だったわ。」
そうぽつんと吐き出した。
「私、乱馬に食事なんか運んで来てないね。」
えっというような表情をあかねは手向けた。
「何言ってるのよ。あんた、今朝方、大皿にいっぱい、肉まんや焼売を持って来たじゃないの。」
じっと傍らで考え込んでいたコロンが言った。
「シャンプーは嘘は言っておらぬ。今朝方は、ずっとワシと一緒に店で月末の締めを計算しておったしな。」
「そうね・・・。あかね気が動転して何言い出すかわからないね。とにかく、乱馬の野辺の送りが終わったら、私と勝負するね。そうやって、婿殿取り合った者同士、弔いの戦いをする。これ女傑族の掟。今日のところは大人しく帰るね。逃げるよくない。乱馬のために闘う。いいね。」
シャンプーはそうきつく言い置くと、無言のままのムースを伴って帰って行った。
(どういうこと?あの時確かに、点心を持って来たのは、シャンプーだった筈よ・・・。)
あかねの猜疑心が浮かび上がった。あのとき、シャンプーと対峙したのはあかね一人だったので、他の誰にもきけるものではない。そのシャンプーが真っ向から否定した。
(まさか、幻を見たわけでもないし。)
しかし、今更、シャンプーが来たか否かを詮索して何になろう。
あかねはそう思い直して溜息を吐いた。
そうだ、彼女が来ようと来まいと、乱馬は戻ってはこないのだ。
その現実の方があかねに重くのしかかってくるのである。
「あかねちゃん・・・。見て。綺麗な顔をしているのよ。」
弔問客が途切れてしまった後、のどかがあかねに微笑みかけた。
そして、白い布をさっとめくった。
静かに眠り続ける許婚の顔がそこにあった。苦悩に満ちた顔ではない。ただ、何もかも忘れて眠り続ける彼がそこに居た。
「もう少ししたら、小さな箱に収めなければならないのね。」
凛とした声の中に母親の悲しみが震えるほどに伝わってくる。
「ごめんなさい。貴女のために涙は見せないって固く誓っていたのに・・・。」
気丈な婦人も、息子の死の前にあっては、普通の母親だった。
この後、通夜、本葬へと死者を見送る儀式は恙無く進んでゆく。明日には小さな木棺へと彼の身体は納められてしまうだろう。
のどかは堪らなくなったのだろうか。愛息子の傍を離れた。他の家族たちも、どこかへ散らばってしまった。台所では、早雲と玄馬が酒を飲んで騒ぎ立てている喧騒がここまで聞こえてきた。二人とも、酒の勢いを頼らなければ、居ても立ってもいられないのだろう。かすみやなびきは、その相手をしているのだろうか。
後に残されたのは、あかね一人きり。
定まらない視点で、あかねはぼんやりと白い布を捲り上げた乱馬の蒼白い顔を見つめていた。
物言わぬ彼。減らず口も悪態も全ては遠い夢物語のような気がした。
「乱馬のバカ・・・。」
つい漏れる言の葉。
「乱馬の・・・バカ・・・。」
繰り返すうちに、大粒の涙が目から零れ落ちた。
病室で東風が臨終を告げたときも、涙は出なかった。遺体と共に家に入ったときにもだ。涙というものの存在すら忘れてしまうような悲しみ。
一度溢れ出すと、止まらない関となって流れ落ちた。激しい慟哭が、身体の奥底から急き上がって来る。ポタポタと涙は彼の亡骸を覆う蒲団へと染み渡った。
「あかね・・・。」
なびきはそっと戸口から見ていた。
「もう少し二人きりにしてあげましょうよ。一番辛いのはあかねちゃん自身なんですもの。」
のどかは静かにそう言った。
「でも・・・。」
「いいのよ。気が済むまであの子の傍に。あの子だって、あかねちゃんに、一番傍に居て貰いたいでしょうから・・・。」
何故こういう事になってしまったのだろうか。
今朝方あんな起こし方をしなければ良かった。素直に彼にお帰りなさいを言えなかったことへの後悔が、縛り付ける。
「乱馬・・・。あたし、まだあんたにお帰りなさいって言葉すらかけていないのに・・・。それに、あたしの気持ちを何一つ聞いてないじゃないの・・・。」
何を耳元で囁いても、彼の元には届かないのだ。触れる乱馬の頬は冷たい。
「乱馬・・・。」
あとは言葉にならなかった。ただただ、頬を伝うは、涙。
何時の間にか、彼の遺体の傍で眠り込んでしまっていた。
傍にあるはずのぬくもりの火は儚く散ってしまった。あかねの頬に涙の痕がくっきりとついていた。
つづく
一之瀬的懺悔
この作品で何人の人を悩ませたでしょう?
人間歳食ってくるといろんな意地悪をしてみたくなるもの・・・このまま終わったらただのダーク趣向ですが。
このまま終わりません。終わる訳ないです(笑
しかし・・・連載当時、こんなところで区切った私は顰蹙もの。
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