第二話 別れ


「いい加減に起きなさいよっ!いつまでも寝てたんじゃ、折角の修業の成果も台無しになっちゃうじゃないのーっ!!」

 そう言い終わるや否や、あかねは乱馬に水を浴びせ掛けた。

「ち、ちめてーっ!!こらっ!何しやがんでーっ!!風邪ひいちまったらどうしてくれるんだようっ!!」
 がばっと起き上がったのは、小柄な少女。
 水がぼとぼとと頭から滴り落ちている。
「もっとまともな起こし方できねーのか?この強暴女っ!!」
「ふんっ!あんたが朝ご飯までに茶の間に下りてきたら、そんな目に合わなくてすむのよ。春休みに入ったからっていつまでも寝床を温めてるんじゃないのっ!あたしよりも少しくらい強いからって!!」
「強い強くないは、関係ねーだろうがっ!俺がおまえよりも優れているのは当たり前のことなんだからよっ!」
 身体の水を、傍にあったタオルでしばき落としながら、乱馬は答えた。
「いい気になってんじゃないわよっ!!」
 どうやらあかねはご機嫌が悪いらしい。
 一昨日、山から帰って来てからまともにあかねと話をするのはこれが初めてだった。
 帰って来た当日は、疲れ切っていて、そのまま父親と共に風呂から身を清めると蒲団へ直行。昨日は、暫しの留守をしていたせいで、シャンプー、右京、小太刀の三人娘にしたたか追いまくられた。
 ゆっくりと身体の疲れをとる暇もなく、彼女たちの標的にされて、町内を逃げ惑っていたわけだ。
 実際、彼女たちの乱馬争奪戦は、日に日に凄味を帯びてきた。格闘技に置いても、それ相応の実力と腕を身につけている少女たちばかりだ。標的にされる身にとってはたまったものではない。
 ほうほうの体で逃げ惑い、彼女たちのしつこい追跡を逃れ、天道家に帰ったときには、へとへと。前日までの激しい修業の後遺症でふらふら。勿論、あかねとはろくすっぽ、口を利かずに、パタン、キュー。
 あかねは留守の間のことをいろいろと乱馬と話したかったのだろうか。いや、何よりも、じっと待っていた身にとっては、乱馬の帰宅をずっと楽しみにしていたに違いない。ただ、この不器用な少女は、その想いを素直に表現することができないのである。何日も連絡の電話一本なしでずっと待たされていたのだ。話したい気持ちと心配していた気持ちが複雑怪奇に入り混じり、結局はこうやって一気に爆発してしまうのである。
 乱馬も、その辺りの女心を理解するには、経験的にも心理的にも幼すぎた。
 彼女が安心できるような言葉一つでもかけられるほど長けていれば良かったのだろうが、つい、家族たちの好奇と期待の入り混じる視線が見張っていると、あかねのことは後回しになる。複雑な男心、いや恋心だった。

「とにかく、しゃんとしなさいよっ!」
 あかねは思いっきりあかんべえをして、バタンと襖戸を閉めた。

「たく・・・。何だってーんだよ。」

「だったら、さっさとこの家に見切りをつけて、シャンプーや右京のところへ逃げ込めばどうだ?」
 背後で声がした。振り向くと、黄色いバンダナを巻いた少年が立っていた。
「へっ!何だ、良牙か。」
「おまえなあ、もっと素直になったらどうなんだ?そうやって女に変身できるんなら、乙女心の一つも理解できても良さそうなもんじゃねえか。」
 良牙はいい加減にしろと云わんばかりに乱馬を睨み返した。
「素直になれったって、この状況で、どうやって素直になれってーんだよっ!」
「あかねさんの心をもう少し理解してやってもいいんじゃないのか?この無神経野郎め。」
 きっとPちゃんとしてあかねの傍に侍り、散々彼女の愚痴でも聞かされていたのだろうか。良牙も不機嫌だった。
「おめーに言われたかねーよ。」
 まだ毒づき足りないという表情で、乱馬は良牙を見返した。
「そんな風だと、大事なことを告げられぬままにすれ違ったまま、あかねさんと終わっちまうぜ。」
 今日はやたらと良牙が絡んでくる。
「ぬかせ。あかねとのことはおめえには関係ねーだろ。」
「はっ!そんなこと言ってると、他の男にあかねさんをさらわれるぜ。とにかく、おまえが無事に帰って来たんなら俺の役目は終わったから・・・。後はおまえに任せたからな。せいぜい、優しい言葉の一つでもかけてやれよ。」
 良牙はそう言うと、だっと窓から飛び降りた。

「何が俺の役目が終わっただよ・・・。お節介野郎め・・・。」

 呪泉洞の戦い以来、良牙は乱馬に対する態度を少し変えて来た。雲竜あかりという少女と交際を始めたのも影響しているのかもしれない。彼は乱馬が不在のときにはPちゃんとしてあかねの傍に身を寄せている。そして、乱馬が傍にいると、さっとどこかへと消えてしまう。その繰り返しだ。気ままなペットを演じているのである。

 くしゅんとクシャミが出た。一緒に鼻水もずるっといった。
「にしても、このままじゃ風邪引いちまうぜ・・・。」
 乱馬はいつものようにチャイナ服に着替えると、トントンと階段を下りて茶の間へと向かう。
 と、かすみが朝食を下げているところだった。
「おはよう、乱馬くん。あかねが酷い起こし方したでしょう?ごめんなさいね。あの子ったら朝から機嫌が悪いのよ。多分、シャンプーちゃんが乱馬君にって朝食を届けに来たのが気に食わなかったのね。」

(ああ、そうか。それで、あかねの奴、いつもに増して機嫌が悪かったんだ。)
 と乱馬は納得した。
 確かに茶の間には、見慣れぬ皿がどかんと置いてある。盛ってある料理は肉まんや焼売といった中華点心。大方、「修業で疲れた身体には、栄養が豊富な中華料理が一番ね。」とでも言って強引に置いて帰ったのだろう。
 あかねは料理が下手だ。その彼女に対する最大の牽制は「料理」で女を演出して見せること。
「とっとと食べればっ!可愛い将来の花嫁の作った手料理ですものね。」
 縁側からあかねはそう檄を飛ばすと、だっと下へと降りた。何時の間にか着替えて道着姿である。積み上げた瓦を、素手で何枚も叩き割るつもりなのだろうか。準備体操をしていた。
「たく・・・。もっと可愛い口の利き方ができねえのかよぅ・・・。おまえは・・・。」
「どうせあたしは可愛くないですっ!!」
 ぷいっと横を向く。
 カチンときた乱馬は、余計にあかねの心に火をつける
「じゃあ、シャンプーの作った点心でも頂くよ。腹も減ってるしなっ!」
「どーぞ、御勝手にっ!!」
 あかねはそう告げると、自分の稽古へと集中し始めた。丹田に力を入れて、はあっと勢いとつけて瓦へと手を振り下ろす。ガシャンという破壊音がして、瓦が粉々に砕け散る。
「まだまだだなあ・・・。粉砕してしまうようじゃ、先もしれてらあ。瓦割りは真っ二つに、割れ目も綺麗にしねえと、意味がねえぞっ!」
 乱馬は肉まんを頬張りながらあかねを見詰めた。
「うるさいっ!!ほっといてっ!!」
 あかねは次々と積んでは手を振り下ろす。ガシャン、ガシャンと次々と粉砕されてゆく瓦。
「こりゃ駄目だ・・・。」
 乱馬はほおっと息を吐き出した。肉まんの肉汁が、じわっと口の中に広がった。
「ん?味変わったかな・・・。猫飯店の肉まん・・・。」
 じっと掌の饅頭を見てみた。
「形もいつもと違うよな・・・。試作品かもな。不味くもねえし・・・。こんなもんだろ。」
 乱馬は再びもしゃもしゃと食べ始めた。
 この年頃の食欲は旺盛だ。みるみるまに大皿の点心を平らげた。
 ここまではいつもの朝と大して変わらなかった。
 機嫌の悪いあかねと、それを達観して悪態を垂れながらも見詰めている乱馬。
「さてと、俺も身体を動かすか・・・。」
 そう言うと乱馬は着替えを取りに戻る。
 
 かすみにお湯を貰ってまずは男へと戻る。
 異変はその時に表れた。
 湯をかけて、佇んだとき、軽く目眩がした。
「あれ?」
「どうしたの?乱馬くん。」
 洗い物をしていたかすみが、彼の声に思わず振り返る。
「あ、いや。別に・・・。」
 次の瞬間には、普通に戻っていた。
 いきなり立ち上がって湯を浴びたから、くらっときたのだろうと思った。
 その程度だろうと思ったのだ。

「乱馬、早く来いっ!どの程度貴様が鍛えこんで戻ってきたか、天道君が見たがっておるぞ。」
 玄馬が勝手口から乱馬に声をかけた。
「お、おう・・・。」
 乱馬はリストバンドを締めると、だっと表へと駆け出して行った。

 空を仰ぐ太陽が、目に思い切り突き刺さる。まだ弱いとはいえ、昼近くの太陽は春でも力一杯輝いている。ポカポカと温かい空気は、一昨日までの雪が残った山とは違っていた。
 動くとすぐさま汗が滴る。いつもよりも出方が多いような気がした。

「おまえ・・・。なんだか今日は動きが鈍いではないか。修業から帰って来て気がたるんだのか?」
 玄馬が乱馬に声をかけた。
「んなんじゃねーんだけどよ・・・。」 
 乱馬はふうっと溜息を吐いた。
 何となく身体の芯がだるい。いつもよりも汗の量が多いだけではない。息があがるのも速いような気がした。
「まあよいわ。打って来いっ!!」
 がんまが言葉を叩きつける。
「でやーっ!!」
 父親に促されて乱馬は蹴りを入れる。ピュシッと音がして、玄馬の道着が少し裂けた。
「調子が悪い訳ではなさそうだな。遠慮なく行くぞっ!」
 玄馬は乱馬目掛けて、拳を振り上げた。

 ドクンっと身体が一瞬戦慄いたような気がした。

「何っ?」
 玄馬は振り切った拳の手応えに、一瞬、空で固まった。
 いつもなら軽く交わしてしまう拳が、乱馬の側頭部へと綺麗に入ったのだ。
 スローモーションを見ているかのように、乱馬の身体がゆっくりと後ろへつんのめった。

「乱馬っ!!」
「乱馬くんっ!!」

 早雲と玄馬の怒声が庭中へと飛び交った。

「どうしたの?」
 すぐ鼻の先で瓦を割り続けていたあかねも、その声に反応して思わず顔を上げた。
 と、彼女の目の前で、乱馬が仰向けに、地面へと叩きつけられるのが見えた。砂埃がざあっと舞った。乱馬はそのまま動かなかった。
「ら、乱馬っ!!」
 あかねは無我夢中で彼の元へと駆け寄った。




「先生っ!!」
「どうですか?乱馬くんの具合はっ!!」
 心配げな天道家の面々が病室の前にずらっと並ぶ。
 東風は首を横に振りながら、難しい顔をした。かすみが居るにも拘らず、「まとも」だったことが、ことの重大さを指し示している。
「彼、体調を崩していたんじゃありませんか?」
 東風は搾るような声で問い掛けた。
「さあ、いつものように、起き上がって、食事しておったようじゃが・・・。」
 玄馬が腕を組みながら答えた。
「多分、起きたときから調子が悪かったと思います。インフルエンザか風邪かの感冒にかかっていたんでしょうね・・・。じゃないと、彼ほどの手だれの少年が、あんな拳の喰らい方をするわけはないでしょうから。」
 あかねは黙って俯いていた。
「一昨日まで、山で修業をこなしておった折には元気でしたが・・・。」
 玄馬の言葉に東風は切り返した。
「山って天候はどうでしたか?まだ、この時期の山は肌寒いでしょう?」
「ああ、雪がちらほらと根雪になって溶けずに残っているようなところではあったが。乱馬に限ってそんなところで寝泊りしたとて、風邪をひくような奴では・・・。」
「いや、いろいろな悪条件が重なってしまったのかもしれませんよ。たまたま調子が下り坂の時に修業に出て、帰ってからも疲れを完全に取れぬまま、溜め込んで発病したとも考えられますし。」
「とにかく、先生、乱馬くんは・・・?」
 恐る恐る早雲が問い掛けた。
「まだ、レントゲンの結果を見てみないと何とも言い難いんですが、もしかすると、脳天に喰らった拳の影響で脳に異常が出てしまったかもしれませんね・・・。」
「の、脳にですか?」
「ええ・・・。大きな病院に搬送して貰った方がいいかもしれません。まだ意識が戻らないんです。専門医に見てもらったほうが・・・。」
 東風が難しい顔をした。この信頼できる青年接骨医が言うのだ。かなり不味い具合なのだということは、誰しもが見て取れた。
 あかねはぎゅっと拳を握り締めた。

(乱馬・・・。今朝から調子が悪かったのよ。だからなかなか起きてこなかったのに・・・。それなのに、あたしったら、つい、乱暴に水を浴びせてしまったわ。)
 ぐっと唇を噛み締める。後悔があかねの脳裏を巡っていた。

「先生っ!患者さんがっ!!」
 病室のドアがばたっと開いた。東風のところで雇っている看護婦が慌てて呼びに来た。
「どうしたんです?」
「患者さんが、息をしていないんですっ!!」

「な、何だって?」
 東風は慌てて病室へと駆け込んだ。
「早乙女君っ!!」
「天道君っ!!」
 玄馬も早雲もどうしたら良いのかと、顔を見合わせた。
「心臓マッサージだっ!ショックを与えて蘇生させる。それしかなさそうだっ!!」
 病室から東風が怒鳴りだした。
「は、はい・・・。」
 バタバタと周りが騒然としはじめた。

「乱馬・・・。乱馬あっ!!」
 あかねは次の瞬間、無我夢中で病室へと駆け込んで行った。


「ご臨終です・・・。」
 数分後、慌ただしい空気の中、東風は、病室に並んだ人々の顔を見ながらそう宣言した。



つづく




一之瀬的戯言
 で、いきなり主人公殺してどないするねん・・・。
 恐ろしいことしてる私をお許しください。

 まあ、乱馬くんの死の影には何かあることは必須で・・・。それは追々。
 ああ、大顰蹙。


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