◇殯



 まだ明るい空の元、樹木と戯れる少年が居た。
 夕暮れの冷気がさめざめと下りてくる。春とはいえ、深山の夕暮れは刺すような寒さが肌を通り抜ける。まだところどころに雪が残っていて、山の春の遠さを物語っている。
 だが少年はそれを、物ともせずに、逞しく鍛え上げられた身体を動かし続ける。

 木がざわざわと不気味に唸り始めた。
 人間の聴覚には届かない声が辺りに響き始める。

『見えるかい?あの少年の瞳の輝きを。』
『ああ、見えるとも。一縷の曇りもなく、真っ直ぐで穏やかだ。』
『それからあのしなやかな身体。永遠にあのまま閉じ込めておきたいような、美しさじゃないか。』
『次は彼にするのかえ?』
『ああ・・・。常磐の砦の中に閉じ込めてしまおう・・・。』
『永遠に朽ち果てることない時の狭間の中に誘い込もう・・・。』
『そう・・・我らの元へと侍らせよう。』
『呪術(マナ)の支度を・・・。』
『くく・・・。すぐに支度を。』
『逃がしはせぬ・・・。彼は永遠にわれらの虜。』

 くすくすと笑い声が暮れ始めた赤い空にこだました。




第一話 魔羅の湖

 まだ明け切らぬ空の元、少年は塒(ねぐら)を抜け出した。朝の空気は凛として冷たい。
 さっきまで光り輝いていた星はすっと空の中へと溶け始めた。東雲(しののめ)はほんのりと白んでくる。そろそろ新しい朝を迎える準備を空たちがはじめたのだろうか。
 ある程度身体を温め、動かしたところで、少年は、傍に立てられていたテントの布目をさっと捲り上げた。

「親父っ!いつまでだらんと寝こけてやがんでいっ!てめーだろ?鈍(なまく)らになった身体を鍛え直してやるって、こんな山の果てまで俺を連れて来やがったのはっ!しゃきっとしろっ!しゃきっと!!」
 
 彼の視線の先で、一つの大きな塊がもぞもぞと動き出す。白と黒の毛皮に包まれたそいつ。ジャイアントパンダだ。
『まだワシは眠い・・・。』
 パンダは木札にそう書き込むと、また寝息をたてはじめる。
「たく・・・。鈍ら親父がっ!」
 少年はそれをぼこっと足蹴にした。ふにゃっとした肉の感触が身体を伝わる。だが、一向に起き上がる気配もない。
『おぬし一人で先にやっておけっ!』
 パンダは再び、目にも止まらぬ速さで木札に書き込むと、そのまま突っ伏した。
「ちぇっ!しょうがねえ、親父だぜ・・・・ったく。冬眠に来たんじゃねーっつーのっ!」 
 少年は諦めて表に出た。

 彼の名は早乙女乱馬。成長期真っ盛りの十七歳の少年だ。父親の玄馬とともに、身体を鍛え直すため、この春山へと修行に入った。

 
 乱馬は、テントから離れると、ふと、山先に続く獣道を見た。まだ雪が積もっていて、白いままの道だ。
「ん?」
 確かに何か気配を感じた。
「猪か鹿か、そんな類の獣か?」
 乱馬はすっと森の奥へと逃げてしまった気配を感覚で追った。じっと止まってこっちの様子を伺っている。
 好奇心がもそもそと頭をもたげてきた乱馬は、何迷うことなく、その気配の後を追って動き始めた。音を立てないように、慎重に雪道に足を落として進んで行く。無駄かもしれなかったが、念のため、己の気配を断ちながら進んだ。
 そいつはまるで彼を誘っているかのように、先へ逃げては止まり、そしてまた先へと進んでゆく。いくら森の中の動きに慣れているとはいえ、迷っては大変だ。乱馬は目印にと、小枝を手折りながら進んでいった。雪の上の足跡と小枝を辿れば、帰り道を辿れるだろう。
 まだ明けたばかりの山道は薄暗い。だが、目は薄ら暗さに同化するように慣れていた。まだ浅い春。雪に埋もれた銀世界なので、用心するにこしたことのない毒蛇や熊は流石に出てこないだろう。
 シンとした空気がひんやりと頬を掠めてゆく。
 と、気配は止まった。

「あ・・・。」

 彼は誘われた場所を見て驚きの声を上げそうになった。
 美しい水溜りが朝日を照らしこまれながら光り輝いている。

「こんなところに湖?こんな場所、あったっけ・・・。」

 何度か子供の頃から父親と修業に入る慣れた山。この山中をいつも修業に入るたびに父親と駆け巡っているが、こんな湖があったことなど記憶にはなかった。四方を山の森に囲まれ、一キロくらいの湖周だろう。池とか淵とか言った方がしっくりくるのかもしれない。
 雪はそこだけ積もってはおらず、さしずめ、雪山の中のオアシス。そういった風景だった。

「さっきの気配は、あいつだったのか・・・。」
 
 彼は自分を誘ってきた気配の正体をそこで見た。湖の対岸で、一匹の白鹿が、水を食(は)んでいた。体の大きさから言って雌だろうか。角はまだ生えていないところを見ると、幼い牡鹿かもしれなかった。いずれにしても、彼の立っているところからは、その性別を確認するには至らなかった。
「綺麗だな・・・。」
 少年は、素直に感動の言葉を吐き出していた。
 都会暮らしの中にあっては、滅多に触れることなどない自然の世界。山へ入るたびに、己の中に眠る野性を感じる。
 湖のぐるりには常緑の木々が、まだ枯木が多い山中で、しっとりと熟れているように見えた。澄み渡る空気と。神々しすぎて怖くなるほどの聖なる領域だった。
「あいつにも見せてやりてーな・・・。」
 ぽつんと言葉が漏れた。
 あいつ。
 そう、己の許婚のあかねのことだった。気の強い彼女は、殆ど彼に弱みを見せない。また、彼も滅多に彼女に本心を明かさない。許婚と言っても親が勝手に決めたものだとお互いに牽制しあっている。だが、その実、互いに気になる存在であることは否めず、深い部分では互いを己の半身(はんみ)だと認め合っている。ただ、二人とも、己の心を素直に相手に伝えられるほど大人ではなかったので、口喧嘩ばかりしている。そんな間柄であった。

 乱馬はふと足を進めて水際まで立ち入ってみた。湖面は乱馬を誘うように輝き始める。

『おいで・・・。私たちのところへ・・・。永遠の輝きをあげよう。』

 不意に何かが耳元で囁いたような気がした。

「え?」
 彼ははっとして辺りを振り返ったが、勿論誰も居る筈がない。孤独の湖。
「空耳だよな・・・。」
 そう決めてかかった。
 彼は魅入られるように水面を覗き込んだ。
 翠の湖面は彼を写しだして揺れる。
「綺麗だ・・・。」
 彼はやおら手を出して水に触れた。
「冷てー・・・。」
 凍り付いてはいないが、早朝の水。思わずその冷たさに手が引けた。
 鹿が飲んでいるから毒ではないと判断した彼は、手にその水をすくって飲んでみた。
 無味透明な味がする。天然の水には勿論、味はないのだが、美味しいと思った。ゴクンと咽喉が鳴った。
 対岸で水を飲んでいた白鹿がこちらをじっと見詰めている。
「危害は加えねえよ・・・。」
 乱馬はふっと溜息を吐きながらそいつに言った。だが、鹿は、さっと翻ると、森の奥へと走り去ってしまった。

「さてと・・・。帰るか。そろそろ親父の奴も目覚めただろうし。飯の準備をしねーと、食うこともできねえしな・・・。」
 乱馬はもと来た道を引き返して行った。




「夢だったのではないのか?」
 玄馬は訝しげに息子を見返した。
「いや、そんな筈はねえ・・・。」
 乱馬は下に続く足跡を見ながらそう答えた。

 朝ご飯を食べて、修業をする傍ら、乱馬は玄馬に今朝方見てきた湖のことを話した。
「そんな湖など、この山にはない筈だがのう・・・。」
 玄馬は首を傾げた。乱馬が生まれるはるか以前から、彼はこの山中へ籠って修業をしてきたと言う。春夏秋冬、何度もここへと足を運んではいるが、そんな湖の端へなど出たことはないと断言した。
「第一、地図にも載ってないぞ!そんな湖や池は。」
 玄馬は国土地理院発行の白地図を広げて見せた。
「地図に漏れてるのかもしれねーだろが・・・。」
「昔ならともかく、人工衛星の発達した現代では、記載漏れなんぞあるわけなかろーが。」
 口論になった。
「じゃあ、案内してやろーじゃねえかっ!!」
 乱馬は息巻いて、父親を伴って歩いていると言う訳だ。

「おっかしいなあ・・・。足跡は、ここでこっちへ巡って・・・。小枝の目印もこっちで・・・。」
 乱馬は小首を傾げて道を見た。
「はっはっは。大方寝とぼけて夢でも見たのではあるまいか?」
「いや、そんなことはねえ。白鹿の後を追ってこちらへと入ったんだぜ。」
「ならば、鹿のヒズメの足跡もあって良さそうなものじゃろうが。何処まで見ても、おまえのドタ足の痕しか見えぬぞ。」
 玄馬は訝しがる。
「それに、ほれ。ここいらの獣道はここで四つに分かれておるのだ。いくら雪深く道が見えなくてもそのくらいの感覚はワシにもわかる。ほれ、おまえの足跡はこちらに続いて、再び奥へと入っておるではないか。こっちを辿ればこそっちから戻る「輪の道」であることはおまえも知っておろうが・・・。」 
 この辺りは四辻に獣道が分かれている。一本は山の上に繋がり、一本は下に。そして二本はくねりながらここへと戻って来る輪の道であった。それは乱馬も承知している。
 玄馬はその輪になっている道のうち、一本を寝ぼけて辿ったのだろうと言うのだ。確かに足跡もそのように繋がっている。
「たく、大方寝ぼけて堂々巡りを繰り返していたのではあるまいかのう。わっはっは。」
「そんなんじゃねーっ!見たこともねえような道を俺は辿った筈なんだ。」
 乱馬は反論した。
「だが、足跡はきっちりとこっちへ続いておろう。まあ、ここで立ち止まったような形跡はあるようじゃがな。」
 玄馬はやれやれと息子を顧みた。

「それに、おぬし、その湖の水に手をつけてみたのじゃろう?」
「ああ、冷たくて美味しい水だったぜ。」
「でも、おぬしは、変身しないで帰って来なかったではないか!」
「あ・・・。」
 そうであった。水が冷たかったのであれば、呪泉の娘溺泉の呪いのせいで、女に変化してしかるべきだ。もし、水に触れようものなら、途端、その風貌は少女へと変身を遂げているはず。だが、湖の水に触っても、変身しなかったのだ。いや、変身せねばならないことを忘れていた。

「ほうれ見ろ。水に手を突っ込んで変化せぬなど、有り得ぬことではないか。どうせ、寝ぼけて夢でも見たんじゃろうよ。それとも、あかねくんに見せたいと思って幻影を呼んだのかもしれぬぞ。わっはっは。」
「あかねのことは関係ねーよっ!!」
 乱馬は吐き捨てた。

「でも、確かに俺は見たんだ。湖を・・・。」

 どうも釈然としなかった。
 だが、この場合は玄馬の言うことで結論付けることしかできないだろう。
 夢でなかったのなら、女に変身しなかったことを説明できない。夢とは言え、手を入れた水は冷たかったし、咽喉が鳴るほどに旨かったのにである。
 
「さてと、戯言はそのくらいにして、修業に身を入れるぞ。今日で最後じゃ。仕上げをせねばな。身体が鈍っているから精神が幻影を見てしまうほどたるんでしまうんじゃ。これは、武道の神様の警告かもしれぬぞ。しゃきっと修業せいというな・・・。」
「お、おう・・・。」
「駆けるぞっ!付いて来いっ!!」

 玄馬は息子を叱咤激励すると、だっと雪道を駆け出して行った。
 駆け出した彼らの傍で、四辻の道祖神の地蔵さまが小さな祠からほっこりと顔を出していた。



つづく




一之瀬的戯言
 殯・・・「もがり」と読みます。 「あらき」とも言います。
 古代の葬送儀礼の一つです。貴人の葬送をする際に、本葬までの間、遺体を仮安置することを言います。
 古墳時代、数日から数ヶ月、或いは数年と、殯の宮に大王の遺体を安置した例も。
 何故この題名にしたかは追々と謎解きを。
 なお、この先、暗いです・・・。気分を害する描写描写も出てくるかも知れませんので、「やばいっ!」と思った方は、即刻読むのをやめてくださいませ。「駄目だっ!」と思った方は、呪泉洞内の甘い投稿作品などで元気を貰って回復してください。
 「魔羅(まら)」・・・魔のことです。

 投稿ターゲットは、いなばRANA家「1/2の星たち」。
 あんな、柔らかい暖かな澄み渡ったサイトにこんなどす黒い作品送りつけた奴・・・。しかも、誕生日プレゼントとして・・・罰当たりな私でありました。


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