「殯」創作ノート


 標題の「殯」は「もがり」と読みます。古代史を習得なさった人には馴染みがあるかもしれませんが、一般には多分、知られてない言葉かと。
 今回私がこの話の中で書きたかったのは「生と死」の狭間の物語です。

 文学や芸術の主要テーマに「生と死」があることは誰もが熟知しているところ。
 クラッシク音楽に於いても、著名な作曲家は必ずとも言えるほど、「死」を意識した作品を数多残しています。
 有名どころではモーツァルトの「レクイエム」、ベートーベンの「第九」、チャイコフスキーの「悲愴」など。作曲家が死を意識し始めると、荘厳かつ美しいメロディーが出来上がると言われているほどです。勿論、恋も創作意欲を掻き立てる一つの経緯には違いありません。
 この作品を書き進めている間は、ずっと、マーラーの交響曲第五番の四楽章が頭の中で鳴っていました。
 マーラーは未完になった九番を含め、九曲の交響曲(シンフォニー)を書いていますが、この第五交響曲あたりで作風がガラリと一変していると言われています。また、彼の第五番はベートーベンの第五交響曲「運命」とよく比較されます。その理由の一つに、マーラーの第五交響曲はベートーベンの第五交響曲「運命」と似た三連符を基本とした動機を持っているからです。そこからマーラーの第五交響曲には「運命的」という副題が付けられています。
 マーラーの五番は五楽章から構成されています。普通、交響曲は四楽章形式というのが一般的です。交響曲の父と言われたハイドンのころからその形式はそう変わっていません。
 基本的には四楽章から成り立つのが交響曲ですから、マーラーの五番は特殊な曲になります。
 この交響曲の第四楽章は弦楽器とハープのみの構成で作られています。その主旋律の美しさは名曲中の名曲。良くCMやドラマ、映画にも挿入されているので、皆さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。この楽曲、透明感があって、私は澄み渡る湖を連想してしまいます。この世のものとは思えないほどの美しさ。恋に恋していた頃、涙しながら聴いたものです。
 静かに始まり、浪漫的な弦楽器のうねり、そして、再び虚空へ消える。そのはかない美しさの中にある生への営み。
 この作品中の御柱の少年たちはそんなはかない美しさを称えた美少年。
 RANAさんの好みだろうとたかを括ってたたき出したら、ビンゴでした(笑
 乱馬が美少年かどうかということは、この際置いておいてください。
 私の眼鏡から見れば、十分、鎖骨美少年です。
 ラスト部、黒ランで彼を書いたのも、己の嗜好です。

 題名に死と生の狭間にある「殯」という言葉を題名に選びました。
 古代、「殯」を築いて、人々は、死者を囲み、泣き、喚き、そして復活を祈ったと言います。
 現在において、我が日本では「通夜(つや)」と呼ばれる葬式前夜儀式を行なうのも、もしかすると「殯」が残った風習なのかもしれません。
 古墳にもこの殯の影響が、色濃く出ていると言われています。前方後円墳の形は妊婦を現すという説や大王(スメラミコト)の交代も古墳上で執り行われたという説もあるくらいなので、墳丘は元々は「死と再生」を意識する場所であったことは確かなのでしょう。前方と後円の区切目に、「鶏」の埴輪を埋めたのも、夜明けを告げる鶏に死からの再生を祈った、その辺の反映があったのかもしれません。
 「死と再生」は文学や芸術では必ず追求される永遠不朽のテーマの一つです。
 日本の神話世界も少しだけ網羅したこの作品。底本はやっぱり「古事記」。
 「常磐の砦」は伊耶那美(イザナミ)が焼かれて身罷った「根の国」をイメージしています。御柱はいわば、地面に張り出した根の太いもの。それが元のイメージです。
 伊耶那岐(イザナギ)が伊耶那美(イザナミ)を尋ねて根の国へ入ったとき、彼女は生憎、黄泉の国の火(竃)で煮炊きした物を食べたので、結局は現国(うつしくに)へ戻ることはかないませんでした。乱馬の食事もそれをイメージして膨らませました。
 また、妖魔の木芽、雪消、小草はすべて「二月」の異名です。気付いた方はおられましたでしょうか。御柱も氷の柱というイメージが少し有ります。春の来ない冬の閉ざされた国。それが常磐の砦かもしれません。
 この作品は、古典文学の形式も実験的に取り入れています。
 異形への扉が開く導入部。そして、主人公、乱馬の苦悩を助ける巫女、あかね。中世語り物の特徴でもある「道行」もしっかりと書き込みました。それから異世界での戦いと勝利。蘇り。その手順を踏みながら、書き連ねました。
 「農耕文化圏」の典型的な伝承文学の作品構図です。
 農耕文化においては「種子」が生と死を取り持ちます。種子の間は仮死となり、そこから新しい命が芽吹く。古来人間はその神秘を数多の文学作品として後世へと伝えていったと言われています。
 古墳や弥生遺跡から発掘される古代の稲などの種子は、今でも条件さえ揃えば発芽する力を持っています。その生への執着が、古代の人々には畏敬と尊敬に値したのでしょう。
 
 前から一度、「古典文学的展開法を用いた仮死状態の乱あ作品」を書いてみたかったのです。でも、それを人様の誕生日記念に出すというのも罰当たりな話かも(苦笑・・・厄落としということでお許しくださいませ。

 ご拝読ありがとうございました。


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。