◆小春日和
作画・・・A☆KIRAさま
「よっし、ここだ。」
「あーっ!父ちゃんずるい。」
「今度はあたしと。」
木漏れ日が差しかける穏やかな縁側。
三つの頭が、並んでゲーム版に夢中になっている。
「今度はあたしが先手ね。」
「ふふふ、この天才父ちゃんに勝てるかな?」
「絶対勝つもんっ!!」
そんな声に耳をそばだてながら、私は忙しく手を動かす。
「未来、父ちゃんずるいから気をつけろよ。小学生相手なのに、手を抜かねえからな。」
ちょっと生意気な口ぶりなのは「龍馬」。
「うん、わかってる。さっきから、ずるい手ばっかりで仕掛けてくるもん。」
真剣な顔つきの少女は未来。
彼らは私と乱馬の間に出来た双子。現在小学校四年生。バリバリ、ギャングエイジの生意気盛り。
「相手が子どもだろうと、老人だろうと、いつも全力で戦う。これが真の武道家だ。」
それを軽く受け流しながら、笑う夫、乱馬。
(子ども相手に何、偉そうに言ってるのかしら。)
くすっと笑いながら、丁寧に衣を一つ一つ、畳の上に広げていく。
こんな、良く晴れた秋の午後は、衣替えに持って来い。空気だって乾いているし、そろそろ、朝晩は冷えだしている。半袖の季節も終わりに近い。
十月の上旬は、一年で一番安定した気候で、衣の整理には持ってこいだ。誰かが言っていたけれど、一昔前、この国でオリンピックが開かれたとき、一年で一番安定した気候が続き、統計的にも降雨が少ない「十月十日」を開会式にと決めたらしい。(
決して私たちの原作者(生みの親)のお誕生日に合わせたわけじゃないけれど。)それほど、いい季節になった。
運動会も終わってひと段落。もうそろそろ、冬を迎える準備に入らなければならない季節でもある。
夏の間に世話になった衣と、これから着始める衣。その交代の作業を、主婦である私はさくさくと進めていた。
週休二日制が学校教育の場に投入されて、土曜日曜と続く休み。珍しく、夫の乱馬も家に居た。このところ、出ずっぱりで、大会やら格闘関係のマスコミの仕事に追われていたが、たまにはゆっくり家でということで、朝からこうやって子どもたちの相手をしているというわけだ。
いつもは子どもたちの相手は、お爺ちゃんたちの担当であるが、今日は町内会でマツタケ狩りへ行っていて留守。義母もそれに同行したので、私たち親子の四人。
「あーん!お父さん、ずるいっ!また、せこい手を使ってるっ!!」
未来の非難めいた声がした。
「何言ってる。気がつかねえおめえが悪い。」
「ちょっとは手加減しろよ、親父っ!」
龍馬の口は父親そっくりになってきている。それが私には可笑しくてたまらない。
彼らが高じているのは「オセロゲーム」だ。白と黒の丸いプラスチックを打ち、陣地を広げてゆく単純かつ明快なゲームだ。将棋やチェス、碁よりは手軽に楽しめるが、結構奥が深いという。
私は横目で彼らの会話を聞きながら、黙々と作業を続ける。
押入れの引き出しを広げ、一度天日にさらす。そして、洗濯済みの夏物をたたんで、空いた引き出しへと丁寧に入れて始めた。
勿論、チェックも怠らない。
(この服は、もう未来には無理よね…。小さくなったかな。…あらあら、こんなにズボンが破けちゃって。復元不可能ね。もう、龍馬ったら、いつも泥だらけになって遊んでくるから。…あー、乱馬もこんなところほころびさせて。破れたんなら言えばいいのに。しょうがないんだから。まだ子どもみたいねっ。)
などなど、心で問い掛けながら、選り分けて行く。
(こっちはボタンだけ取って置こうかなあ…。布の柄もいいし、パッチワークにでも使えそう。あ、これは雑巾にして、こっちはサイバーリサイクルね。)
しっかり主婦の目で分類まで行う。
せせこましく、朝からこうやって茶の間中店開き。
「あーあ。また負けちゃった。」
「父さんに勝とうだなんて十年早いぜ。」
「ばば抜きは弱いくせに。」
「あんだとお?」
子どもと同じレベルで言い合いなんてしないでよ。恥ずかしくないのかしら。
「未来、そろそろ道場。組み手しようぜ。」
「そうね…。ちゃんと今日の分の稽古もしとかなきゃ。」
「父さんも相手してやろうか?」
「いいよ。親父は昼寝でもしときなよ。」
「そうそう、あたしと龍馬の稽古だから。父さんはまた今度ね。」
ほらほら、嫌われちゃったみたい。
「龍馬、未来、ちゃんとゲーム板しまって行きなさい。」
ちらっと縁側を見ながら声を掛ける。
「いいよ、今日のところは父ちさんがしまっといてやるよ。とっとと稽古してきな。あ、基本の型練習も忘れるんじゃねーぞ!」
「はあい。」「ほおいっ!」
「こらっ!武道家の返事は「はい。」だ「はいっ!!」」
とたとたと子どもたちが行ってしまうと、ポツンと縁側で一人。
くんっと伸び上がってから、ゲーム板を片付け始める。
私もまた、自分の仕事に熱中する。
衣服を出したついでに、傍にあったいろいろなガラクタも整理し始める。
「あ…。」
「どうした?」
軽く声を上げた私に乱馬はすぐに反応した。
「懐かしい…。こんなところに入り込んでたんだ。」
と言って広げて見せるパンフレット。
「あん?」
気になったのか、彼は手を止めて、衣の海の上を渡ってくる。
「これよ、これ。」
見つけ出したそれを乱馬に翳して見せた。表紙には絢爛豪華な衣装を纏った役者たちと「OTHELLO」のロゴ。
「ああ、あの楽劇かあ。」
乱馬も思い出したのかふっと言葉を継いだ。
「もう十年前になるのね。」
「ああ、そんなもんだな。」
「OTHELLO」は文豪、シェイクスピアの三大悲劇の一つ。それを人気劇団がミュージカル仕立てにして上演し話題となったものだ。丁度、あの頃、私と乱馬は結ばれた。姉たちが「たまには文化的作品に触れておいで。」と結婚祝いの一つとして、チケットを取ってくれたのだ。
当時はまだ二十代前半。
乱馬は駆け出しの武道家として、世間に認められ始めた頃。私は会社を辞めて、花嫁修業に精を出し始めていた頃。なかなか、こういう文化的な舞台に触れる機会など無い生活だった。
姉たちの粋なプレゼントは思い出深い。
「お互い、あんときゃ、初々しかったもんな。」
ポツンと乱馬が言った。
パンフレットをめくりながら、あの頃へと心はタイムスリップしていく。
あの頃…。
あの頃の私は、結婚前のちょっとした「欝状態」に入っていた。
乱馬からプロポーズを受け、早乙女家の嫁として天道姓から抜け出ることを渋々父に承諾してもらい、着々と新生活に向かっての準備を進めていた。
高校生の頃から許婚。それも、同じ屋根の下にずっと暮らして来た乱馬。普段からずっと一緒で、「結婚」と言っても何一つ問題はないだろうと誰しもが思うかもしれない。
だが、「結婚」というものは、そんな馴れ合い状態に近かった私たちにしても、そう簡単にはなり行かない人生の一つの節目となるのである。
親同士が決めた許婚とはいえ、自然の流れとして、乱馬は天道家の婿養子としてこの道場に入り、私と共に家庭を築いてゆくものだと、特に父はそう決め付けていた感がある。
だが、問題は、乱馬が「天道姓」を名乗ることを断ったことに端を発した。
姓名がどうだと言うこと無かれ。夫婦別姓が法律として認められた現在の日本とはいえ、各々の家の事情から「どちらの姓名を名乗るか」ということはしばしば大問題を引き起こすのである。
「俺は、新しい無差別格闘流をあかねと切り開きたい。早乙女乱馬として。」
彼の発したその言葉は、特に私の父、早雲との確執へと広がっていった。
父としてみれば、私が天道家を出ることは「天道家の存続の危機」に直面すると思っただろう。既に、長姉のかすみ姉さんは東風先生のところにお嫁に行っていたし、独身の姉、なびき姉さんが天道家を守る武道家と結婚するとは思えなかった。お金に執着が強いこの姉は、逆に道場を売り払って、その手腕で商売を広げていきそうな勢いもある。
最後に物申すは自分の気持ち。
この天道家を出ても、私は乱馬について行くつもりだった。もとよりその覚悟の上での降嫁だったから、腹づもりは出来ていた。
いろいろ紆余曲折があって、父は「早乙女あかね」と名乗ることを許してくれた。心根がどうであれ、何とか承諾は取り付けたものの、それによって私の心の中に引き起こされた混沌としたそのモヤモヤは、やがて「欝」という心の闇を引き入れていったのだった。
乱馬と新しい生活を始めることへの不安は、結婚式が近づくにつれ大きくなっていった。
父との約束の中で、早乙女姓になっても、この道場付の家に住み、道場を、いや、無差別格闘天道流の看板は守るというかえって超過した責任が生まれてしまった。天道流と早乙女流。この二つの流派を次世代へと繋ぐ使命を私は課せられてしまったのだ。
具体的に言うと、乱馬と成した子どものうち、一人を次世代の天道流の当主にするということだ。それは同時に、私に早乙女家と天道家をそれぞれ担う子どもを二人は作れと言われたことと同じ。
私はというと、無類の不器用人間。料理一つもこなすのに、膨大な時間と手間がかかる。さくさくと何でもこなす器用さは持ち合わせていない。おまけに、乱馬を取り巻いていた、美人ぞろいの器用な女性たちが、何かと結婚を諦めさせようと、婚約後も群がってきていた。それは、シャンプーや右京、小太刀といった馴染みの女性だけではなく、武道家として名を馳せていた乱馬の熱いファンなども含まれて、複雑な様相を示し始めていた。
嫌がらせの手紙や電話、メールなども貰ったし、心あらぬ中傷や誹謗も少なからず受けた。
高校生の頃のような強い私なら、そんな「ヤッカミ」など、気にも留めなかったのだろうが、新しい世界へと踏み出す不安が希望よりも膨らんでいた当時の私には、「結婚」への重圧が重くのしかかってきて、知らず知らずのうちに、心に大きな闇ができてしまっていたのだ。
その上、乱馬は、家に常に居た私とは違って、若手武道家としての道をまい進し始めており、天道家に帰って来ることも珍しいほど精力的に動き回っていた。毎日顔をあわせられれば、それでももう少し平静を保てたのであろうが。乱馬は忙しすぎた。
そんなこんなの悪循環で、人知れず私は悩み始めていた。
時々思い出したように家に帰ってくる乱馬には、心配はかけまいと、作り笑いを浮かべていた。心にいくつもの仮面をかぶっていたあの頃の私。
憔悴しきっていたのを、或いは姉たちは見抜いていたのかもしれない。
なびき姉さんが、或る日私に、ポンとチケットを差し出した。
「乱馬君と、今度の週末に行ってらっしゃいな。悲劇だけど、今、話題の作品よ。たまにはうんとお洒落してエスコートしてもらいなさい。」
「あかねちゃん、この頃、乱馬君と二人きりで結婚式の準備以外で、出掛けることが、めっきり少なくなったでしょう?ゆっくり楽しんで来なさいな。」
「でも。乱馬は都合がつくのかしら。」
暗然とした気持ちで私は受け答えた。
「その辺は抜かりないわ。ちゃんと彼から直接予定を訊いてからチケットとってあるんだから。」
さすがにやり手の姉らしい頼もしい返事。
白い清楚なワンピース。久しぶりにお洒落を決め込んで、話題の劇場へと足を運ぶ。本当に彼は来ているかと不安げに約束の場所へ行って見ると、居た。着慣れない黒っぽいスーツを着込んで、ネクタイなど締めて颯爽と立っている。
トレードマークのおさげ。周りに女の子たちが取り巻いているのが気に入らなかったけれど、人気稼業の格闘家だから仕方がないのかなと、私も諦め顔。
それでも、待ち人の私の顔を見ると、ファンたちから求められていたサインの手を止めて、丁寧に受け答えしてこちらへ。冷たい視線が一斉に私に向いたのもわかったけれど、乱馬はそんなことお構い無しで人懐っこい笑顔を手向ける。私の嫉妬なんて、まるでわかっていないように。
「ごめん、待たせちゃった?」
「何の、俺の方が早く仕事が終わったからさ。それより、似合ってる。その服。」
この頃の彼は、人並みに、私のことを褒めるようになっていた。くさすだけの彼だったのに、少しずつではあったが、大人の余裕が出てきていたのだろう。
「馬子にも衣装だって言いたいんでしょう。」
「かもな…。」
屈託無く彼は笑った。
彼はどこに居ても目立つ。
かなりがっしりとした身体つきに、それから女の子たちを悩殺すると言われている鋭い格闘家の瞳。マスクだって整っている。まるで雑誌のグラビアから抜け出てきたような精悍な彼。そこそこ格闘界では有名な存在になっていたから、マスコミだって放ってはおかない。
彼と婚約してからは、極力、一緒に街中を闊歩することは避けていた私。何だか彼が遠い存在に思え、寂しい気持ちも同時に持っていた。私のウエディングブルーの原因の一端はその辺りにあったのかもしれない。
それでも、
「おまえとこうやって出るのも久しぶりだからな。」
と嬉しそうな笑顔を返されると、ドキドキする。
彼は光りすぎていた。あの当時の私には。過ぎた結婚相手なのだと、どこか心で思っていた。
ただでさえ目立つ彼の傍らに座っているだけで、方々からいろいろな揶揄が飛んでくるのも何となく気配でわかった。私も彼ほど極めてはいなかったが、格闘家の端くれ。
『あの子が早乙女乱馬の婚約者よ。』
『へえ、まあ、並よね。』
などというひそひそ声もなんとなくわかるというもの。
「気にすんなよ。」
と言いたげに、そっと手を差し出してエスコートしてくれる乱馬。
一ベルが鳴り、本ベルも鳴り終わると、会場は暗転する。
やがて静かに滑り出す音楽と共に、上がる幕。
豪華絢爛な舞台セットや装置。派手さだけではなく、しっとりと歌い上げられるアリアや合唱。その合間に進められる演劇。
すっかり魅了されて、作品の世界に入っている自分がそこに居た。
「オセロ」はシェイクスピアの四大悲劇の一つだ。
ヴェニスの司令官に任命された黒人のオセロとその妻である白人のデズデモナとの悲劇を描いている。その愛の深さゆえに嫉妬にかられたオセロが、部下のイアーゴの讒言を真に受けてしまい、妻をその手で殺してしまう。ざっというとこんなお話。
役者たちの美しい衣装や声、演技、そして大仕掛けな舞台装置。どれをとっても、本邦一との評判が高いだけあって、圧巻だった。
息つかせぬ展開に、思わず舞台の世界へとひきこまれてしまう。そこには、人間の葛藤のドラマがあった。
愛するがゆえに、猜疑心にかられ、いつの間にか憎しみへと変化するオセロの心。対して、どんなに夫から蔑まれ、暴力を受けても、なお愛し続けようと懸命なヒロイン、デズデモナ。
やがて舞台は最上の美の世界と切ない恋の終焉を迎える。
イアーゴが言うようにはデズデモナはオセロを裏切ってはおらず、最後まで純粋な愛を貫こうとした。オセロの剣によって貫かれてもなお、愛を確信してやまないデズデモナの心。彼女が死する瞬間に己の愚かさと真実の愛を知ったオセロ。だが、時は既に遅く、冷たくなった彼女の身体。
愛しい者の屍を抱きながら、己の心臓を貫くオセロの剣。
「今、私にできる償いは、こうして己の胸を貫き、死に赴きながら、デズデモナへ最後のキスを捧げることだけ…。ああ、愛しのデズデモナ。共に永久の眠りに就こう。おまえだけを逝かせはしない。」
アリアを歌いながら、オセロは残った力で、デズデモナへ口づけする。
やがて、静かに幕が引かれる。永遠の愛の帳を下ろすのだ。
涙が溢れて止まらなかった。
帰り道、私はずっと無口だった。すっかり暗くなった辺り。美しくきらめく大都会のイルミネーションが虚ろに見えた。
乱馬と並んで歩きながらも、ずっと思いに沈んでいた。
(あたしは、デズデモナにはなれない。あんな風に気丈に人を愛することはできない…。)
いや、むしろ、私はオセロに自分の姿を重ねていた。
もしかして、私は乱馬に嫉妬しているのではないかと。彼の格闘の才能、いや、その力と性格、全てに。オセロがあらぬ嫉妬にかられ、愛を見失ったように、己も漂い始めている。そう思った。
黙って歩く私の肩に、彼の手が伸び上がってきた。彼は何も言わず、自分の方へと私を引き寄せた。耳元でイヤリングがさらさらと揺れた。
彼には私が考えていることが伝わったのだろう。先の信号が赤に変わったとき、すっと、彼の腕が私の頬に触れた。
はっと驚いて見上げると、彼が真剣に私を見下ろしていた。
「あかね。どうしてそんな切なげな顔をしてる?」
返答に困ってじっと見返すだけの私に彼は続けた。
「久しぶりにおまえとこうやって歩くっていうのに…。楽しくないのか?」
ううんと首を振る。
「楽しい時間は過ぎていくものだから…。」
歯切れ悪く私は答えた。
楽しい時間は永遠ではない。いつか、終わりが来てしまう。演劇のように。
一瞬彼の表情が曇った。そして、諭すようにゆっくりと語りかけてきた。
「あかね…。俺たちの恋に終わりなんかねえ。いや終わらせない。それに、俺たちはさっき観たオセロでもデズデモナでもない。」
きっと彼はわかっていたのだろう。私が自分自身の中にオセロとデズデモナを重ねて考え込んでいたことを。
彼は私の目を覗き込みながら、畳み掛けるように言葉を続けた。
「だから、あかね、一人で背負い込んで悩むな。おまえは一人じゃない。俺が居る。傍に居て、ずっとおまえだけを見詰める。今までだって、それにこれから先も、ずっと…。おまえと一緒に、この道を歩き続ける…。おまえは俺の最愛の人なんだから…。」
「乱馬っ!」
私はそのまま、彼の腕の中へと滑り込んだ。
私は寂しかったのだ。
乱馬に負担をかけたくないという思いから、素直に甘えることもできなかった不器用さ。
一人だけポツンと、そこに置き去りにされたような、言いようの無い孤独。
行き場が無く自信も失われていた私。そんな情けの無い私を、彼は優しく包み込んでくれた。両手をいっぱいに広げて、愛情と共に包んでくれた。
ずっと前から傍にあった温もり。目を上げればいつも見守ってくれている瞳。それに気づかずに、ただ、一人相撲を取っていた私をしっかりと抱きしめてくれた。
閉じられてゆく太い腕と、瞳。
ゆっくりと前を通り過ぎる車のヘッドライトの中、止まる二人の時間。互いの心とともに、塗りこめる強い想い。
静かに目を閉じ、彼を感じた。柔らかい唇が下りてくる。
白い影が黒い影に重なって見えた。
迷いが吹っ切れた瞬間だった。孤独の闇からも解放されてゆく。
「たく、何黄昏てるのかな、あかねは。そんなにいちいち思い出に耽っていたら、時間がいくらあっても足らねーぞ。」
ふと見上げると、乱馬が笑っていた。
私は慌てて持っていたパンフレットを閉じる。
と、中から零れ落ちた紙切れが一枚。
すっと後ろから手が伸びてきた。
「まーだ、こんなのも後生大事に取ってたのか?」
またくすくす笑う声。
「あん!もう、いいじゃない。」
熟れた顔は真っ赤。
パンフレットに挟んでいたのは、ゴシップカメラマンが撮った一枚の写真と記事。
孤独を断ち切ったあの瞬間を、誰かがファインダーからとらえていたのだ。後でなびき姉さんがこっそりと私にくれた。
アングルから二人の顔ははっきりとは写りこんでいなかったが、あの時の写真だとすぐにわかった。記事のところははさみを入れて切った。やっかみ半分、興味本位の、事実からはかけ離れたような内容だったからだと思う。
でも、とらえられた瞬間は、確かに存在したものだ。
だから、私はそこの部分だけを切り取ったのだと思う。そして、あの日の思い出と共にパンフレットに挟み込んであったのだ。
気恥ずかしさでいっぱいになりつつ、写真を取り戻そうと足掻いた。
「俺は初めて見るんだけど…なかなか良い感じだな。」
私のすぐ傍で二つの瞳が輝いていた。
「もういいでしょう?」
「だーめ。」
彼は傍で笑い転げている。意地悪なんだから。
と、ふわっと逞しい腕が下りてきた。
柔らかい温かさに包まれる。
そう、私は一人ではなかった。あれから何度も秋が巡っていったが、今も彼が傍に居る。傍に居て微笑んでくれる。
目を閉じて、そのまま触れる唇。
何度あわせても有り余らない甘い世界への誘(いざな)い。
さわさわと秋風、通り抜ける。
ふっと香る衣装ケースの樟脳。
そして、感じる乱馬の温もり。
「わっ、熱いっ!!」
「あーあ、子どもの前でも平気でじゃれ付くんだから…。見てられねー。」
ぎょっとして放す唇。視線の先には好奇心いっぱいの瞳が四つ。こちらを見ている。
「お、おめえらっ!!」
慌てふためく乱馬。だが、子どもたちは至って淡々としていた。
「どうぞ、もっと続けてちょうだい…。」
「父さんと母さんが仲が良いのは子としても嬉しいぜ。」
ませた回答が返ってくる。
「くおらっ!大人をからかうんじゃねーっ!!」
そう言って怒鳴った乱馬の手元からひらひらと舞い落ちる紙。
「あっ!」
彼がそれを取ろうと伸び上がる前に、龍馬の手にすっぽりと収まってしまった。
「わあ、すげえっ!」
未来もすぐ傍から覗き込んだ。
「やだ、これお父さんとお母さん?」
ゴシップ誌から切り抜いたキスシーン。興味津々に見続ける。
「こらっ!返せっ!」
「やだねっ!」
「あーん、龍馬、あたしにも、もっとちゃんと見せてよーっ!」
「ば、バカッ、子どもは見ねーでいいっ!こら、龍馬っ!未来っ!!」
庭先で始まる鬼ごっこ。
「大切なグラビア写真なんだから、破らないでよ。あなたたち。」
私はゆっくりと立ち上がると、再び、衣類の箱と格闘し始めた。夕闇が迫るまでには片してしまわねばならない。
せっせと動き始めた私の膝元には、「オセロ」のパンフレット。
そして、庭先では、愛する夫と、二人の子どもたちと。
幸せな小春日和の午後は過ぎてゆく。高く澄み渡った空の下で。
完
一之瀬的戯言
リクエストは「夏から秋への衣替え」だった筈なのに、書き上げてみると随分テーマがずれたような。
オセロゲームは文豪シェイクスピアの「オセロ」からついた名前だそうです。コマの黒はオセロを白はデズデモナを表すそうです。
「オセロ」は「オテロ」とも訳されることがあります。
なお、作中の劇は勝手な創作です。台詞も適当に…。ミュージカルがあるのかどうかは知りません。(無責任だなあ。)
リードの組曲「オセロ」を息子たちのブラスが定演、コンクールと演奏したもので、何となく思いついた作品。彼にオセロを聞かせてもらいつつ、筆を取りました。第五楽章がなかなか…。トロンボーンは死にそうなくらい辛い曲らしいんですが。
棚ボタで、素敵なイラストを三枚も描いていただきました。A☆KIRAさまありがとうございましたーっ!!
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