第九話 終焉
駆けても駆けても何も見えない。白んだ空間だけが漠然と広がっていた。
「畜生っ!キリがねえっ!!」
乱馬はいい加減息切れし始めていた。
「ひょっとして…。ここもイメージだけの世界なのか?」
ひょいっと立ち止まった。そして耳をそばだてる。ごごごと微かだが音がする。
「こっちか…。」
その音は地響きを立てて近づいてくる。
乱馬はかっと目を見開いた。
「な、何だ?」
地面が急に盛り上がってそこへ長いものがにょっと現れた。
「こ、こいつは…。」
気炎を上げながらそいつは低く唸った。
「根っこだ…。」
生き物のように自由に動き回るそれは、乱馬を牽制して攻撃してきた。
「くっ!」
乱馬はだっとそれを避けた。
「さっき洞窟に根をはってた奴らとは根本的に違うらしいな…。」
乱馬はぺっと唾を吐き出した。
そう、上で爺さんがけし掛けた根っこたちは、乱馬が男と感じるや否や、慌てて彼の気から逃れるべく逃げ惑った。が、今目の前に蠢く不気味な白い根っこは怯むどころか、乱馬を一掃しようと果敢に立ち向かってくる。
「どうあっても先へ行かせたくないらしいな…。けっ!上等じゃねえかっ!」
乱馬は己目掛けて飛び掛る根っこを目掛けて、刀を抜いた。
「でやーっ!!」
一刀両断にそいつをすっぱりと切り捨てた。
根っこは元を切られて苦しそうに蠢く。
が、新手が現れた。よく見ると、たくさんの根っこがイソギンチャクよろしくうじょうじょと乱馬の目の前を動いていた。
「うへっ!あいつら全部相手してたら夜が明けちまう…。」
乱馬はうんざりと襲い掛かるそいつらを見上げた。襲い来る奴らを、無我夢中で切り刻む。足元が無残に切れた根っこだらけになった。
「き、きりがねえっ!!よおっしっ…。」
乱馬は刀を鞘に収めると、身構えた。根っこたちは動きの止まった乱馬目掛けて集中してくる。
「でやあーっ!!」
腹の底から気合を入れて、体内へ闘気を集中させる。
ボンッと炎が上がるように、乱馬の気が燃え上がる。
「猛虎高飛車っ!!」
両手を前に突き出して、大きな気砲を作って蠢くそいつらの本体目掛けて撃ち放った。
目の前が一瞬赤らんで光る。闘気が炸裂したのだ。
どっおーんっ!!
鈍い音がして、根っこたちが苦しそうに上へと触手をあげた。
「けっ!ざまあみろっ!!」
乱馬はにっと笑ってそいつらを眺めた。
「あ、あれは…。」
イソギンチャクのような根っこたちが取っ払われると、そこには太い木の幹が現れた。幹というよりは岩と言った方がしっくりくるほどの大きさだった。五メートル四方はあろうかと思えるほどの古木の幹だった。
根も葉もない、ただの潅木だ。
その周りには、おどろおどろしい妖気が満ちている。妖気は虹色に変化しながら不気味に光っていた。そして、うおおん、うおおんと唸り声のような音を轟かせていた。
「こいつが親玉だな…。いや、邪木の本体か…。」
乱馬はごくんと生唾を飲み込んだ。
「あ、あかねっ!!」
乱馬はそいつの傍にあかねを認めた。
乱馬はたっと近寄ろうと邪木へ向かって突進した。
「うわっ!!」
何か見えない大きな力によって、乱馬は遮られるように、地面へと薙ぎ払われた。
「くっ!こいつ、結界張ってやがるのか…。」
見えない妖気の壁が乱馬を妨げる。
うおおおん、うおおおおん…。
そんな乱馬を嘲り笑うように、邪木が音を立てた。
そして、潅木から一本の枝をにょっと伸ばした。
「な、何だ!?き、気持ち悪りいっ!!」
幹と同じような木肌の触手のような枝だった。それを手のように自由に動かして這い回る。
「妖怪めっ!!」
乱馬はきっとそいつを眺めた。
そして再び、突進を図る。だが、見えない壁はまるでバリヤーのように乱馬をこばみ続ける。
「なっ…!?」
触手はそんな乱馬には目もくれず、ごそごそと幹の中心を掻き混ぜ始めた。と、中から何か光る物が現れた。
胃袋のような白い塊だった。きらきらと妖しく輝いている。
そして、そいつはにゅっと何かを中から吐き出した。
「あれは…。」
よく見ると人型をしている。凍りついたそれは、表に吐き出されると、微塵に砕け始めた。
トクン…。
それを見ていたのか、乱馬の胸元が熱く騒ぎ始めた。
赤い勾玉が脈動し始めたのである。
「ひょっとして、あれは、六百年前に取り込まれたというお雪さんなのか?」
乱馬は誰彼と無く問い掛けた。
頷くように、勾玉は光り輝いてそれに答えた。
「そうか…。ちっきしょうっ!許せねえっ!!」
お雪の肉体だった塊は、邪木から解き放たれると、さらさらと空気へと同化し始める。
触手はお雪を吐き出すと、今度はあかねの上を巡り始めた。
あかねは目を閉じたまま微動だにしない。気を失っているのだろう。
「あかねっ!!起きろっ!!あかねーっ!!」
乱馬は叫んだ。
だが、あかねは目を閉じたまま動かない。
触手はあかねの感触を楽しむように、身体を撫で始める。
「あ、あいつ…。あかねと交わろうとしてるんじゃねえだろうな…。」
乱馬の身体に戦慄が走った。当らずしも遠からずだろう。あかねに交わることによって同化し、そのまま憑依しようとしているらしかった。乱馬は足掻くように、体当たりを続けた。
だが、その度に虚しく地面へと叩きつけられる。
「ちくしょうっ!!結界が邪魔して入れねえっ!このまんまあいつにあかねが汚されてゆくのを見ているだけしかできねえのか?」
触手は乱馬を嘲笑うように、あかねの身体をなぞり出した。このまま、黙って汚されるのを見ていろと云わんばかりに。
「くそっ!何か方法はねえのか…。」
乱馬は思わずぎゅっと勾玉を握りしめた。勾玉は乱馬の気と呼応してドクン、ドクンと波打ち始める。その脈動は乱馬が手にしていた刀剣へと伝達してゆく。刀剣も一緒に脈打ち始めた。
乱馬ははっとして刀剣を見た。
切っ先は淡い光に覆われ始めている。
「こ、これは…。」
乱馬はぎゅっと刀剣を構えなおした。
「ひょっとしたら。こいつでこの結界を破れるかもしれねえっ!一か八かだ。やるっきゃねえっ!」
乱馬は全身全霊の闘気を刀剣をつがえる両手に集中させ始めた。
乱馬の闘気が、赤い勾玉とそして刀剣と共に雷同し始めた。
ビリビリと空気が震え出す。
闘気が煮え立つように刀剣へと注がれてゆく。
「切れるっ!」
迷いは無かった。
乱馬はくわっと目を見開いて、力を入れた。
そして、一気にダンッと足を踏み出した。
「でやーーーっ!!」
振りかぶって、思い切り結界へと切り込んでいった。見えない結界を叩き切るように刀剣を振り下ろした。
ビシビシ。
音を立てて結界が震え始めた。
「あかねは、俺の許婚だあーっ!てめえなんかにけがされてたまるものかあーっ!やーっ!!」
乱馬は叫んだ。
腹の底から力を奮い立たせた。
あかねを守りたい。
それだけが彼を突き動かしていた。
うおおおおおおおお、うおおおおおおお…。
邪木が揺れ始めた。乱馬を入れまじと抵抗を試みているようだった。結界に刺さったまま刀剣はうなり音を上げた。
力と力が結界で火花を散す。
互いの思惑が結界という境界で激しくぶつかり合った。。
息も抜けない力勝負だ。ここで先に力尽きたものが敗者となる。
負けるわけにはいかなかった。あかねのために、いや、己のために。
「絶対に、負けるもんかぁーーーーーっ!」
絶唱と共に乱馬はありったけの闘気を注ぎ込んだ。身体の底から湧き上がる若い闘気を充満させた。
ゆらゆらと空間が揺らいだ。
「あかねーっ!!!」
どおっと結界が歪んで弾けた。
邪木はみるみる灰色へと変化し始める。
「破ったぞっ!!」
乱馬はそのまま結界を超えて中へと身をねじ入れた。刀を逆手に握り直すと、そのまま邪木の光る部分へと突き立てた。
おおおー、うおおおお…。
刀を突き立てられた邪木が苦しそうにうなり声を出した。邪木の身体が痛みを感じているかのように激しく揺れた。
「けっ!ざまあみろっ!!」
乱馬はにっと笑って更に力を込めて刀を捻りこんで行った。
ごごご…ごご・・ご。
ピタリと邪木の動きが止まった。
「やったか!」
乱馬はホッと息を抜いた。
とそのとき、お雪を吐き出した白いぷよぷよした塊がざあっと動いた。
「あっ!」
一瞬の隙を突いて、そいつはあかね目掛けて襲い掛かった。
「させるかっ!!」
乱馬も一緒に身を投げ出した。
みるみる白い塊はあかねを飲み込んでゆく。
「あかねっ!!」
乱馬もさせじとあかねに向かって身を投げ出した。そして腕を掴み、危機一髪であかねを抱きかかえた。
「うわーっ!!」
あかねを抱いたまま、乱馬もその白い塊の中に飲み込まれていった。
ふと気がつくと、乱馬は白いもやもやとした物体にあかねごとずっぽりと覆われていた。ねとねとと白い塊は乱馬の身体を這いずりまわる。彼女を放せと云わんばかりに塊は動き乱馬の身体を揺さぶり続けた。
「離すもんかっ!たとえこの身が滅んでもっ!!」
ぐっと身体に痛みが走り始めた。塊が業を煮やして力を入れたようだ。
乱馬は必死であかねを腕へ抱き締める。
締め付けてくる塊の力に引き裂かれそうになりながらも、乱馬は決してあかねを手放そうとはしなかった。ぎしぎしと音をたてて襲い来る塊。骨が軋み始めた。息も出来ないくらい激しい力が断続的に加えられる。
「こいつが、邪木の生玉かもしれねえな…。」
締め上げられながら乱馬はふと考えを巡らせた。邪木も生き残るため必死なのだろう。
だが、乱馬はガンともしなかった。抱え込んだ腕を決して解こうとはしない。全身であかねを守るように抱き締めていた。
あかねはピクリともせずにじっと目を閉じたままだ。だが、抱きかかえた身体からは心音が鳴り響いていた。
まだ生きている。
乱馬はあかねを守り続けた。どんなに攻め立てられても、あかねを抱えた腕を解こうとはしなかった。
力で叶わぬと見えたのか、塊は今度はさめざめとした冷気を送り始めた。凍りつくような冷たい気だ。
乱馬の手はみるみるかじかみ始めた。全身が冷たさに凍えた。
(くっ!このまま俺たちを凍りつかせる気か…。)
縛るような冷気は身を切るような苦痛を乱馬に強いる。抱きかかえたあかねの身体も冷え始めていた。彼女の唇が紫色へと変化しはじめる。鼓動が弱くなるのを乱馬は全身で感じていた。
(このままじゃ、やられる…。くそっ!乱馬っ!しっかりしろっ!!あかねは俺が守るんだっ!)
最早口を開く事も叶わなかった。心で必死に話し掛けていた。そうやってともすれば薄れてゆく己の意識をも奮い立たせた。
(あかね…。たとえこのまま俺がくたばっても、おまえだけは守り抜く。あかね…。おまえは俺の大切な許婚だ…。誰にも渡さねえ…。絶対、離さねえ…。)
トクン…。
そう思ったときだった。胸の勾玉が再び熱く輝き始めた。
(勾玉?)
二人を包む白い塊がうねり始める。何かに怯えているように蠢いたのだ。
捕えられた意識の中で、乱馬はかすかに地平から光を感じた。よく見ると白んだ空がそこに見える。
(夜明けか…。)
勾玉は巡り来る新しい一日の太陽の光に反応しているのだろうか。
時と共に勾玉の力は強くなり始めた。
(もう少し頑張れば…。あかね…。)
乱馬は抱き締める腕に力を加えた。ポウッっと光り始めた勾玉が二人を優しく輪で包み始めた。
(勾玉…。俺たちを守ってくれてるのか。)
己をきつく縛り付けていた白い塊の力がだんだんと弱まるのもまた感じていた。
空が白むように明けてゆく。
ひょおおおおおお…・・。
風のような長いうなり声が聞こえた後、乱馬に取り付いていた力は完全に消えてなくなっていた。
(勝った…。)
ぼんやりとした意識の中で乱馬は呟いた。
もう、体力は限界に近い。
腕に抱き締めるあかねも紫色の唇そ固く閉じて気を失ったままだった。
「やべえっ!冷え切ってるみたいだな…。あかねっ!しっかりしろっ!あかねっ!!」
乱馬はあかねの身体を揺り動かした。が、ピクリとも動かない。
そのとき、胸の勾玉が再びゆっくりと光り始めた。
混乱した意識の中で乱馬は声を聞いた。
『よくやった…。益荒男よ…。見ろ。邪木が消えてゆく。これで奴も復活は出来ぬ。永遠に無へと帰するのだ。』
勾玉から声が漏れた。
「誰だ?そっか…。おめえ、お雪の許婚だった野郎だな…。時任康成とか言ったっけ…。」
乱馬は勾玉へ話し掛けた。
『これでわしもお雪の魂と共に、無へ帰れる。このまま二人で一つになって、叶わなかった今生での逢瀬を来世へと繋げられる。ありがとう…。益荒男よ。最期におまえに力をやろう。力尽きかけたその愛しい者を甦らせるには、己の息吹を彼女に吹き込め。その猛き想いと共に口移しで。さすれば彼女は目覚める。再び…。』
枯れ木のように動かなくなった邪木は太陽の光の降臨と共に、灰塵へと消え始めた。包んでいた妖気はいつしか晴れゆく。辺りは何事もなかったように朝の冷気の中に静まり返る。
夜明けだ。
乱馬は抱きかかえたあかねをもう一度見た。力なくしな垂れた手はだらりと垂れて、今にも鼓動が止まってしまいそうな冷たい身体。それをしっかりと抱えなおした。
それから、言われたように息吹を彼女へと吹きかけた。
静かに目を閉じ、愛しい者を優しく抱き締め、紫がかるその唇へ己の口を重ねた。
(あかね…。)
ただそこに有るのは彼女への熱い想い。重ねられた唇から気と共に伝わってゆく真摯な想い。
胸の勾玉が共鳴するように一度輝いた。そしてその光は穏やかに二人を包んでゆく。
昇りきった朝日がゆっくりと二人の上に降りてきた。
あかねの手が緩やかに乱馬へと伸びてきた。
「乱馬…。」
合わされたままの唇で彼の名前を呼ぶ。
「あかね…。」
軽く微笑んで唇を放した。
「勝ったのね…。」
「ああ…。見ろ。御霊木、いや邪木はもう…。」
二人が佇んでいたのは古い社の傍だった。つい昨夜まではあの高い木が聳え立っていたところだ。
邪木は跡形も無く、夢のように消え去っていた。
さあっと風が靡いてきた。
「乱馬…勾玉が…。」
乱馬の胸に光っていた勾玉は氷が溶けるようにゆっくりと消えてなくなった。
「無へ帰ったんだ…。新しい朝に…。」
乱馬はふっと微笑んだ。守った愛しい者が今傍に居る。その充実感が彼を満たしきっていた。
「寒くねえか…。」
「うん…。大丈夫。」
あかねの瞳は朝日が差し込んで潤すように輝いていた。
もう一度その輝きを確かめると、乱馬は静かに目を閉じた。
そして、柔らかい吐息を感じながら唇を重ねようとした。
人の気配を感じてふっと振り返った。
「親父…。おじさん!」「お父さん、おじさまっ!」
好奇の三白眼が四つ、背後で二人をじっと見詰めていた。
慌てて二人はぱっと離れた。
「あ、いや続けてくれてもいいぞ…。」
早雲が笑った。
玄馬もにやにやしている。
親父たちは上機嫌であった。
だが、覗かれて、やいそれとラブシーンを続けられる訳が無い。
二人は真っ赤に顔を染めてソッポを向いた。
そのくらいまだウブな二人であった。
「おーい。」
社の方から皺枯れた声も聞こえた。
「婆さん…。生きていたのか…。」
「おおさ…。氷女に憑依されていたが、ほうれ、ご覧の通りピンピンと。ゆきえさんもおりますぞ…。」
セツ婆さんはにこにこと笑いながら乱馬に話し掛けてくる。傍には穏やかな表情のゆきえが佇んでいた。
二人からはもう邪気は微塵にも感じられなかった。身体に巣食っていたユキオンナたちが滅んだからだろう。
「それより…。おまえさんは…。乱子さんかえ?」
男に戻った乱馬をしげしげと眺めた。
「そんなに穴が開くほど見詰めるなよ…。そうさ、俺だよ。乱子。あ、いや本当は乱馬だ。早乙女乱馬。これが本来の俺の姿だからなっ!」
「ほお、そうか…。男でも巫女姿、良く似合っておるではないか…。」
しげしげ眺めながら言葉を継いだ。
「ところで、あかねさんと…。おぬしら「これ」か。」
悪戯っぽく笑いながらセツ婆さんが小指を立てた。
「そ、そんなんじゃねえっ!!」
乱馬は剥きになって答えた。
「ほお…じゃあ、さっきのは見間違いかな…。わしにはくちづけを交わそうとしているように見えたのじゃが…。」
玄馬がつんつんと乱馬の脇腹を突っつく。
「うるせえっ!俺たちはてめえらのせいで死にかけたんだっ!てめえらだけぬくぬくと一晩、温泉宿で過ごしやがって。」
「さて何のことやら…。」
「とぼけるなっ!さっきから酒の臭いがむんむんとしてやがるぞ。親父っ!!」
「さて、御神事も終わったことだし、帰るかっ!!」
玄馬はくるりと背を向けた。
「てめえーっ!いつもいつもそうやって誤魔化しやがって。今日という今日はゆるさねえっ!覚悟しやがれっ!!」
照れ隠しも手伝って、乱馬と玄馬の追いかけっこが始まった。
「これこれ、そんなに走ると転びまずぞーっ!!」
そんなセツ婆さんの忠告など耳にする二人ではなかった。
「もおっ!乱馬っ!おじさまっ!やめてよねっ、大人気ないっ。お父さん、二人を止めてよっ!!」
「早乙女君、乱馬君、ほら、もうその辺で…。」
社から人々の明るい声が遠ざかる。
そう、雪山にはもう邪気は消え失せていた。
六百年の怨念も、陰謀も、全て無へ帰した。
再び、邪木が甦ることもないだろう。
連綿と続く、生への営みは時として暴走し妖気を生み出す。だが、それは聖なる光によって淘汰されてゆく。
山に昇り切った朝日が駆け下りる人々を照らしていた。雪が少しずつ水となって溶け始める。邪木が聳え立っていた雪の下には、新しい、山の命が芽生えるかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
春の気配が太陽に宿る。再び生まれ出す新しい生命の息吹。
『益荒男と清き乙女よ…。いつまでも共にあれ…。その手を離すことなく…。我らも帰ろう。もう離れることはない。永遠に一緒に…。』
『はい、康成さま…。』
若武者と娘が天を渡ってゆく。
はるかに見下ろす視界には、雪に閉ざされた下界が太陽に照り返されて美しく輝く。その下を駆けて行く乱馬とあかねたち。歓声は途切れることなく。
しかっりと繋がれた手はもう決して離されることはないだろう。六百年の悠久の時を経てやっと一つになれる。
見下ろす視界には、雪に閉ざされた下界が太陽に照り返されて美しく輝く。その下で父親たちと追いかけっこする乱馬とあかね。
彼らを微笑むように見下ろしたあと、光は煌くように一つに輝き、天へ昇りながら消えていった。
雪山に昇り切った朝日が暖かく二人を照らし出していた。
春の気配が太陽に宿る。
季節は移ろう。春はもう、すぐそこに…。
完
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